横山 英太郎(よこやま えいたろう、1883年(明治16年)… 横山 英太郎(よこやま えいたろう、1883年(明治16年)7月31日 - 1966年(昭和41年)6月13日)は、日本の工学者(専攻は電気工学、電気通信)。 福井県坂井郡三国町(現坂井市)生まれ。福井県立福井中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学を卒業。逓信省電気試験所に入所し、鳥潟右一・北村政治郎と世界初の無線電話機を発明した。 1914年(大正3年)12月16日から1916年(大正5年)4月10日まで、鳥羽・神島・答志島間で無線電話の実用試験を行い成功、無線電話の実用化としては世界初の偉業であった。この世界初の実用無線電話の名は開発した3人の頭文字(T:鳥潟 Torigata Y:横山 Yokoyama K:北村 Kitamura)からTYK式無線電話と名付けられた。
有馬 英二(ありま ひでじ/えいじ、1883年(明治16年)… 有馬 英二(ありま ひでじ/えいじ、1883年(明治16年)5月25日 - 1970年(昭和45年)4月6日)は、日本の明治時代・大正時代・昭和時代の医学者・政治家。位階は正三位。勲等は勲二等。北海道帝国大学名誉教授。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。旧姓・栗山。BCGの研究者としても知られる。 現在の福井県坂井市(旧坂井郡三国町)で旧福井藩藩医栗山英哉の次子として生まれ、1888年に有馬家の養嗣子となった。旧制福井中学校(現・福井県立藤島高等学校)、第四高等学校を経て、1908年東京帝国大学医科大学卒業。その後、同大学青山内科に入局。1914年朝鮮総督府医院内科に勤務。1916年朝鮮総督府医院第2内科科長。
井上 継松(いのうえ つぐまつ、1883年5月 - 1966… 井上 継松(いのうえ つぐまつ、1883年5月 - 1966年12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 福井県出身。井上亀吉の息子として生まれる。1902年(明治35年)東京府立尋常中学校卒業。1904年(明治37年)11月、海軍兵学校(32期)を卒業し少尉候補生となり、日露戦争に「韓崎丸」乗組として出征、さらに「浅間」乗組となった。1905年(明治38年)8月、海軍少尉任官。1909年(明治42年)10月、「磐手」分隊長となり、「千代田」水雷長、「千歳」・舞鶴海兵団の各分隊長などを歴任。海軍大学校乙種学生となり、さらに海軍砲術学校高等科で学び、1911年(明治44年)12月、第15艇隊艇長に就任。
津田 静枝(つだ しずえ、1883年〈明治16年〉4月11日… 津田 静枝(つだ しずえ、1883年〈明治16年〉4月11日 - 1964年〈昭和39年〉9月13日)は、日本の海軍軍人。海軍の中国専門家。最終階級は海軍中将。福井県福井市出身。 旧制福井県立福井中学校より海軍兵学校第31期入校。津田の履歴の特徴は中国勤務が多いことであるが、これは津田が中国の専門家であったためである。日本海軍は陸軍と比較して中国問題に暗く、対応が後手に回ることが多かったことから、対中国問題の専門家が必要となり、その最初の人物として育成されたのが津田であった。日本海軍はのちに須賀彦次郎、田尻穣、藤原喜代間、沖野亦男などの対中国の専門家を輩出した。
池田 七郎兵衛(七郎兵衞、いけだ ひちろうべい / しちろべ… 池田 七郎兵衛(七郎兵衞、いけだ ひちろうべい / しちろべえ、1882年(明治15年)6月11日 - 1962年(昭和37年)2月20日)は、大正から昭和前期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員(帝国議会・1期)、参議院議員(国会・1期)、福井県足羽郡酒生村長。幼名・千代三。 福井県足羽郡荒木新保村(酒生村荒木新保、足羽村、足羽町を経て現福井市)で、地主、先代・池田七郎兵衛の三男として生まれる。北陸中学校(現北陸中学校・高等学校)を卒業。1913年(大正2年)父の死去に伴い家督を相続し七郎兵衛を襲名した。農業を営む。 経営不振の第九十一銀行を買収して取締役頭取に就任。その他、福井紡績取締役、大正電気取締役、白山水力取締役、福井電力取締役、日本水力監査役などを務めた。
井上 富三(いのうえ とみぞう、1882年(明治15年)2月… 井上 富三(いのうえ とみぞう、1882年(明治15年)2月6日 - 1974年(昭和49年)3月28日)は、日本の実業家。大建産業副社長等を経て、呉羽紡績社長や、同社会長、呉羽化学工業会長などを務めた。 福井県遠敷郡熊川村生まれ。同郷の幼馴染だった伊藤竹之助の招きで東京高等商業学校(現一橋大学)在学中から伊藤本店で店内教育の講師を務め、1908年に同校本科卒業後、専門学校出身者として初めて伊藤本店に入店した。 1909年、マニラに視察のため出張。1914年伊藤忠支配人。1920年伊藤忠商事経理部長。1921年大同貿易監査役、富山紡績取締役、伊藤忠商事監査役。1929年呉羽紡績専務取締役。1933年伊藤忠商事取締役。
八田 善之進(はった ぜんのしん、1882年(明治15年)2… 八田 善之進(はった ぜんのしん、1882年(明治15年)2月1日 - 1964年(昭和39年)1月7日)は、日本の内科医学者。枢密顧問官、医学博士。 福井県吉田郡上中村(現福井市上中町)で、八田善左衛門の二男として生まれる。福井中学校、第四高等学校を経て、1909年(明治42年)12月、東京帝国大学医科大学を卒業。同医科大学医科学教室、同医科大学助手を経て、1917年2月、愛知県立医学専門学校教授に就任した。 以後、愛知病院内科第一部長を務め、1917年(大正6年)11月12日、医学博士号を取得。1919年(大正8年)11月、宮内省に転じて侍医に就任し東宮御所詰となる。1921年(大正10年)、皇太子訪欧に随行した。
小川原 政信(おがわら まさのぶ、1882年(明治15年)1… 小川原 政信(おがわら まさのぶ、1882年(明治15年)1月28日 - 1952年(昭和27年)9月6日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員(4期)。 福井県大野郡米俵村(現大野市)で小川原左仲の長男として生まれる。1897年4月に渡道し岩内町に居住。1901年、海軍に志願し横須賀に出るが、健康を害したため北海道に戻った。 1903年9月、小学校教員となり、岩内郡堀株小学校、岩内尋常高等小学校に勤務。1909年1月、倶知安第一小学校長となり、同実業補習学校長を兼務し、1921年6月まで在任。同年7月、北海商事(株)社長に就任。その後、北海道会議員、同参事会員、北海道政務調査会長、同農地委員、後志馬匹組合長、北海道馬事牧野協会長、同農業会後志支部指導部長などを務めた。
長井 真琴(ながい まこと、1881年〈明治14年〉7月28… 長井 真琴(ながい まこと、1881年〈明治14年〉7月28日 - 1970年〈昭和45年〉8月8日)は、日本の仏教学者。学位は、文学博士(東京帝国大学)。福井県丹生郡殿下村(現福井市)出身。浄土真宗高田派勝鬘寺の長井真応住職の長男。真向法創始者長井津、海軍少将長井満は実弟。長男に仏教学者長井真先、四女に鎌倉女子大学学園主松本紀子、次男に東京大学名誉教授長井善見。姪孫に仏教学者佐々木閑。 日本におけるパーリ語仏典研究の草分けと評される。1924年(大正13年)、高楠順次郎らとパーリ語仏典の律の注釈書『サマンタパーサーディカー』の校訂に着手し、30年をかけて完成させている。NHKのパーリ語のラジオ講座も担当した。
上田 三平 (うえだ さんぺい、1881年3月15日 - 1… 上田 三平 (うえだ さんぺい、1881年3月15日 - 1950年12月19日 )は、日本の考古学者。 次男、上田明(愛媛、千葉、埼玉県警察本部長等を経て、中国管区警察局長)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大緑 仁吉(おおみどり にきち、1880年1月3日 - 19… 大緑 仁吉(おおみどり にきち、1880年1月3日 - 1954年7月19日)は、現在の福井県福井市出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は帰山 仁吉。8代大山。179cm、94kg。最高位は東前頭3枚目。 1901年1月初土俵、1907年1月十両昇進。1908年1月、6勝2分2休で、現在なら十両優勝にあたる成績をあげ、翌5月場所で新入幕。3場所連続の好成績で3枚目まで躍進するが、以後は下降線を辿り、十両に陥落。1912年5月に引退して大山を襲名した。1938年5月に廃業し、瀬戸物業を営んだ。 エコノミーホテルほていやブログ~ 両店のルーツと山谷の宿の変遷 ~ - 帰山仁吉とその一族の足跡について書かれた記事 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
佐久間 勉(さくま つとむ、1879年9月13日 - 191… 佐久間 勉(さくま つとむ、1879年9月13日 - 1910年4月15日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は大尉。第六潜水艇艇長として事故で殉職し、修身科教科書にも掲載された。滋賀県三方郡北前川村(現:福井県三方上中郡若狭町北前川)出身。 1879年9月13日に滋賀県三方郡北前川村(現:福井県三方上中郡若狭町北前川)で、前川神社神官で小学校教諭だった佐久間可盛の二男として生まれる。福井県立小浜尋常中学校、攻玉社を経て、海軍省入省(海軍兵学校29期入校)。 1901年12月、海軍兵学校卒業。同期に米内光政大将(のちに内閣総理大臣)、高橋三吉大将(連合艦隊司令長官)、藤田尚徳大将(のちに明治神宮宮司を経て昭和天皇侍従長)など。
山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月1… 山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月19日 - 1909年(明治42年)4月15日)は、滋賀県遠敷郡竹原村(現福井県小浜市)出身の歌人。本名・とみ。弟は小説家の山川亮。 1879年(明治12年)7月19日、滋賀県遠敷郡竹原村(現福井県小浜市)に山川貞蔵、ゑいの4女として生まれる。生家は小浜藩の上級藩士の旧家筋であった。1895年(明治28年)、大阪のミッションスクール梅花女学校に入学、1897年(明治30年)同校を卒業。同年12月、『新声』に短歌を初めて投稿し入選する。 1900年(明治33年)4月、母校の研究生となり英語を専修。同年6月、与謝野鉄幹が創った東京新詩社『明星』の社友となり、8月には鉄幹と与謝野晶子(旧姓・鳳)に出会う。
西脇 呉石(にしわき ごせき、1879年(明治12年)3月8… 西脇 呉石(にしわき ごせき、1879年(明治12年)3月8日 - 1970年(昭和45年)11月7日)は、日本の書家。名は静、字は如練・子遠。 福井県大野郡勝山町(現在の福井県勝山市)出身。戦前は福井高等女学校教諭、東京府師範学校教諭、東京府立第三高等女学校講師などを務めた。 書を大阪の村田海石に学んだが、その存命中から東京で日下部鳴鶴にも学んだ。この他漢学を富田鴎波、漢詩を国分青崖、岡崎春石に学び、南画を長田雲堂、三谷耕雲、原田尾山に学んだ。日本において詩書画に通じた最後の人物の一人である。 1917年(大正6年)には文部省より委嘱をうけて国定書キ方手本を揮毫したことで著名であるが、日展会員・毎日書道展名誉会員として戦後の展覧会にも多数の作品を出品した。
西野 藤助(にしの とうすけ、1878年(明治11年)12月… 西野 藤助(にしの とうすけ、1878年(明治11年)12月27日 - 1934年(昭和9年)9月18日)は、日本の実業家。福井県を人絹織物王国にした立役者。福井県今立郡岡本村(現・越前市定友町)にて、西野市兵衛(源助)の四男として誕生。 福井撚糸染工を経て福井精錬加工(現在のセーレン株式会社(英: SEIREN CO.,LTD.))、福井紡績(現在のダイワボウホールディングス株式会社)などを設立し、代表を務める。 1932年(昭和7年)に福井人絹取引所を開設し初代理事長となる。1934年(昭和9年)9月18日死去。享年57歳。福井県多額納税者、没後に正六位の位記を追賜。
岡田 伊太郎(おかだ いたろう、1877年(明治10年)12… 岡田 伊太郎(おかだ いたろう、1877年(明治10年)12月1日 - 1961年(昭和36年)1月26日)は、日本の商人(農産物貿易商)、政治家・衆議院議員(立憲政友会)、実業家。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 福井県坂井郡金津町(現・あわら市)に生まれる。生家は米穀商を営む。岡田猪平の二男、あるいは長男。1890年、従兄の初代福山甚三郎を頼って北海道に渡り、福山醸造で働く。 その後独立し、1895年、札幌郡江別村(現江別市)で雑穀商を開業。江別村会議員、同町会議員、北海道会議員、江別倉庫社長、北海道農林社長などを務めた。また江別の電気事業に関わり、函館水電取締役、北海道電力顧問を歴任し、江別発電所(1991年廃止)の建設に尽力した。
蘆田 伊人(あしだ これと、1877年(明治10年)9月28… 蘆田 伊人(あしだ これと、1877年(明治10年)9月28日 - 1960年(昭和35年)6月6日)は、明治から昭和にかけて活動した日本の歴史地理学者。旧福井藩士家に生まれ、早稲田大学卒業後、東京帝国大学史料編纂掛に所属、次いで越前松平家等華族諸家や帝国学士院の委嘱により歴史調査に携わった。『大日本地誌大系』『大日本読史地図』の編纂や、明治大学蔵蘆田文庫などで知られる。 1877年(明治10年)9月28日、石川県管下越前国足羽郡福井日ノ出下町(旧新屋敷、現・福井県福井市日之出)に、石川県第三師範学校(後の福井師範学校)漢学教授蘆田碩と福井藩士有沢権四郎娘岩子の間の長男に生まれた。1882年(明治15年)9月旭小学校に入学、1891年(明治24年)に福井県尋常中学校(現・福井県立藤島高等学校)に進んだ。
長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11… 長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11月26日 - 1940年〈昭和15年〉8月30日)は、20世紀初期に活躍した日本の文芸評論家である。本名は長谷川誠也。 新潟県刈羽郡高浜町出身、柏崎に育つ。高田中学入学後上京し、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、坪内逍遥や大西祝に学ぶ。卒業後は博文館に勤務し、雑誌『太陽』の編集にたずさわる。「小説家と時代精神」を発表し、評論活動にはいる。『太陽』1906年10月に「幻滅時代の芸術」を発表した。その後、『太陽』1908年1月の「現実暴露の悲哀」にいたるまで、自然主義文学を擁護する立場から論陣をはる。 1910年、社命により渡欧してからは評論活動よりも出版者としての活動が主となり、博文館の取締役もつとめた。
山田 仙之助(やまだ せんのすけ、1876年(明治9年)11… 山田 仙之助(やまだ せんのすけ、1876年(明治9年)11月19日 - 1947年(昭和22年)3月1日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 石川県今立郡中野村(福井県今立郡中野村、中河村中野を経て現鯖江市)で、油商・山田仙太郎の長男として生まれた。1887年(明治20年)3月、修道尋常小学校を卒業。家業の菜種油・桐油製造販売、石油・肥料販売に従事。1918年(大正7年)2月、父の隠居により家督を相続した。 福井県下で羽二重の製織が流行し、1905年(明治38年)家業を機業に転換。1906年(明治39年)丹生郡朝日町(現越前町)、今立郡鯖江町(現鯖江市)、同郡北新庄村(現越前市)などに分工場を設けた。
近藤 茂(こんどう しげる、1874年〈明治7年〉12月15… 近藤 茂(こんどう しげる、1874年〈明治7年〉12月15日 - 1954年〈昭和29年〉1月1日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。工学博士。 逓信省の技官として電気局技術課長心得などを務め、退官後は実業界に転じて電力会社にかかわり大同電力常務取締役、昭和電力副社長に就任した。福井県出身。 福井県福井市出身。1874年(明治7年)12月15日、士族近藤寅之助の長男として生まれる。1896年(明治29年)7月第一高等学校第二部工科を卒業し、次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。同期に日本電気会長を務めた秋山武三郎らがいる。 卒業後は逓信省に入り、電気事業の監督にあたる。
田中 文蔵(たなか ぶんぞう、1874年7月2日 – 194… 田中 文蔵(たなか ぶんぞう、1874年7月2日 – 1941年12月18日)は、日本の実業家。三井物産取締役を務めた。 現在の福井県小浜市竹原に[要出典]田中熊吉の長男として生まれる。生家は豊かではなかったとされる[要出典]。 旧制福井県立小浜中学校を卒業後に上京した[要出典]。苦学の後に[要出典]東京法学院(現・中央大学)に入学する。1891年に東京法学院を卒業した。 卒業後は新聞雑誌編集の仕事に就いたが、1905年に三井物産に入社した。当初は見習社員として勤め、支店長会議の議事録作成を進言して実行したことが重役の益田孝に認められ、正式な社員として採用されたと伝わる[要出典]。1915年当時は庶務課長兼調査課長だった。
藤野 厳九郎(ふじの げんくろう、1874年7月1日 - 1… 藤野 厳九郎(ふじの げんくろう、1874年7月1日 - 1945年8月11日)は、日本の医師・教育者。日本留学時代の魯迅の恩師として知られる。
前川 謙三(まえかわ けんぞう、1873年(明治6年)11月… 前川 謙三(まえかわ けんぞう、1873年(明治6年)11月13日 - 1946年(昭和21年)3月1日)は、日本の写真家。小西寫眞専門学校(後の東京工芸大学)創立時の講師の一人でもある。 1873年(明治6年)に福井県大野郡鹿谷村大字矢戸口(現・勝山市鹿谷町矢戸口)の医師・前川九兵衛の次男として誕生した。鹿渓小学校卒業後、1888年(明治11年)7月に東京府芝区新桜田町に丸木写真館を構えていた同じ福井県出身の丸木利陽に師事。5年間の契約だったが、期間満了後も技師として丸木写真館に残った。 1895年(明治28年)からは築地明石町のサンマース英語学校にも通い、1898年(明治31年)に渡米して写真術を研究したが、レンブラント採光法を取り入れようとしていた丸木の意向もあったとされる。
福島 文右衛門(ふくしま ぶんうえもん、1873年(明治6年… 福島 文右衛門(ふくしま ぶんうえもん、1873年(明治6年)8月20日 - 1937年(昭和12年)1月2日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 素封家・福島文衛の長男として敦賀県今立郡鯖江清水町(福井県今立郡鯖江町を経て現鯖江市)に生まれ、1905年(明治38年)3月、家督を相続し、前名文治を改める。生家は醤油醸造業を営んだ。1908年(明治41年)越前電気を設立し、同社長に就任。福井県農工銀行頭取を務めたのち、1911年(明治44年)福井県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。鯖浦電気鉄道や福井県鯖江女子師範学校の創設にも関与した。
木田川 奎彦(きたがわ ふみひこ / けいひこ、1873年(… 木田川 奎彦(きたがわ ふみひこ / けいひこ、1873年(明治6年)1月19日 - 1951年(昭和26年)3月30日)は、日本の会計検査院・内務官僚。官選奈良県知事、小樽市長。旧姓:桑名。 福井県坂井郡で桑名金五郎の三男として生まれ、木田川梅吉の養子となる。福井中学校を卒業。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、農商務省に入省し農商務属となり鉱山局に配属された。 1901年1月、会計検査院に転じ検査官補に発令され第一部第二課勤務となる。以後、同院書記官兼検査官補などを務めた。1909年8月、内務省に転じ内務大臣秘書官兼内務省参事官に就任。以後、内務事務官、神奈川県港務部長、同内務部長などを歴任。
松尾 伝蔵(まつお でんぞう、1872年9月18日(明治5年… 松尾 伝蔵(まつお でんぞう、1872年9月18日(明治5年8月16日) - 1936年(昭和11年)2月26日)は、日本の陸軍軍人。陸士6期。最終階級は陸軍歩兵大佐。位階および勲等は従四位・勲三等。 福井藩の槍術師範であった松尾新太郎の長男として福井県福井市(現)に生まれた。福井市旭小学校(現)を経て、福井中学(現・福井県立藤島高等学校)を卒業し、1895年(明治28年)2月に陸軍士官学校(第6期)を卒業。同年5月に陸軍歩兵少尉に任官し金沢の歩兵第7連隊附となった。 1897年(明治30年)9月に台湾守備歩兵第3連隊付、さらに歩兵第35連隊付を経て、1900年(明治33年)3月から7月まで陸軍戸山学校で学んだ。
岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈… 岡井 慎吾(旧字体:岡井愼吾)(おかい しんご、1872年〈明治5年〉5月29日- 1945年〈昭和20年〉2月13日)は、日本の教育者、漢文学者。柿堂と号した。研究論文の『玉篇の研究』で知られている。 1872年に福井県丹生郡立待村(現・鯖江市)の地主の家に生まれる。 父親を早くに亡くしたため母親の元に育ち、福井師範学校を卒業後、福井中学校で教員心得となる。 1898年(明治31年)、教員検定試験で国語、漢文に合格し愛媛県西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)に転任。 旧制石川県第二中学校(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)教諭、石川県師範学校訓導を歴任、広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学校・高等学校)に招聘されたのち、1915年(大正4年)に朝鮮平壌中学に赴任した。
木下 竹次(きのした たけじ、明治5年3月25日(1872年… 木下 竹次(きのした たけじ、明治5年3月25日(1872年5月2日) - 1946年(昭和21年)2月14日)は、日本の教育者。 足羽県大野郡勝山町(現在の福井県勝山市)出身。1898年(明治31年)、東京高等師範学校文科を卒業し、研究科の修身科・教育科で学んだ。奈良県師範学校教諭、富山県師範学校教諭を経て、1904年(明治37年)に鹿児島県師範学校教諭に転じた。1910年(明治43年)、鹿児島県女子師範学校が分離・独立すると校長に就任し、鹿児島県立第二高等女学校校長も兼ねた。1917年(大正6年)、京都女子師範学校校長となり、翌年には京都府立桃山高等女学校校長を兼ねた。 1919年(大正8年)、奈良女子高等師範学校教授となり、同附属実科高等女学校主事、同附属小学校主事を兼ねた。
築田 多吉(つくだ たきち、明治5年1月3日〈1872年2月… 築田 多吉(つくだ たきち、明治5年1月3日〈1872年2月11日〉- 1958年〈昭和33年〉3月28日)は、大日本帝国海軍の看護特務大尉を務めた人物。「赤本」とも呼ばれる家庭医学書『家庭に於ける実際的看護の秘訣』の著者。 福井県足羽郡酒生村(現・福井市酒生)出身。福井師範学校卒業。広島県広島市を主な活動拠点とした。 大日本帝国海軍の看護特務大尉であった築田は、日露戦争(1904年〈明治37年〉- 1905年〈明治38年〉)に従軍している。築田の軍での務めは、傷病兵やその家族を看病し、手当てすることであった。 戦場で看護していた人々が話す故郷の民間療法を数多く聞くうちに民間療法への関心を深めた築田は、戦後、自ら全国各地を訪ね歩いて、それぞれの地域に古伝として残る漢方薬や和漢薬の薬草類、現在でも良く知られている指圧療法、青汁療法、灸、カイロプラクティック、断食療法などを、研究し、収集を重ねていった。
石橋 重吉 (いしばし じゅうきち、1872年1月5日〈明治… 石橋 重吉 (いしばし じゅうきち、1872年1月5日〈明治4年11月25日〉 - 1953年〈昭和28年〉11月21日)は、日本の教育者。郷土史家。号は咬菜(こうさい)、豊洲、酔逃。 福井県今立郡粟田部(現・越前市)に生まれる。1887年真宗大谷派学場で英語、漢文、数学を学ぶ。1888年病に倒れ、福井中学の受験を断念し、郷里に戻り病床で独習する。1889年名古屋の小堀蓬髪の漢学塾に入門。1893年名古屋で嚶鳴塾を開き、塾師になる。講義の間には、書生のために炊事もし、近隣から食べ物をもらった際には牡丹餅を作って配った。愛読書はスマイルズの『自助論』。1896年、文部省教員検定試験に合格し、1896年福井中学で倫理と漢文を教える。
西沢 吉治(にしざわ きちじ、1872年 - 1933年)は… 西沢 吉治(にしざわ きちじ、1872年 - 1933年)は、日本の実業家。明治時代に東沙諸島の無人島がどこにも所属していないことを知り、「西沢島」と名付けて占有し事業を展開した。 鯖江藩の蔵役を務めた為治の二男として鯖江町(現福井県鯖江市)に生まれた。貧困のため9歳で家族とともに上京したが、早くに父を亡くし、農商務省地質調査所の初代所長・和田維四郎に預けられ、同調査所の給仕をしながら夜学に通った。神戸で西沢商会を起こし、海外の鉱物採集に励んだ。[要出典] 伊豆諸島の開発に従事したが、1892年頃に結核を患い、八丈島で療養生活を送り、1894年の日清戦争勃発から近衛師団の酒保商人として中国大陸に渡り、さらに台湾へと従軍した。
熊谷 三太郎(くまがい さんたろう、1871年12月5日(明… 熊谷 三太郎(くまがい さんたろう、1871年12月5日(明治4年10月23日) - 1951年(昭和26年)5月1日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。旧姓は藤原。 福井県敦賀市阿曾出身。福井市の熊谷げんの養子となる。福井県立中学校を修了する。1898年(明治31年)宿布発電所の土木工事を請け負う。1907年(明治40年)中尾発電所工事で飛島組の下請けとなり、1926年(大正15年)飛島組取締役に就任。1938年(昭和13年)熊谷組を創立した。この間、1925年(大正14年)福井市会議員、同議長、福井県会議員などを歴任。ほか、熊谷組会長、第五十七銀行、中越銀行各頭取、敦賀セメント社長などを務めた。
西田 当百 (にしだ とうひゃく、1871年4月10日(明治… 西田 当百 (にしだ とうひゃく、1871年4月10日(明治4年2月21日) - 1944年6月30日)は、日本の俳人、川柳作家。本名、嘉吉。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
井上 羽城(いのうえ うじょう、1871年3月29日〈明治4… 井上 羽城(いのうえ うじょう、1871年3月29日〈明治4年2月9日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月30日)は、福井県出身の歌人、新聞記者。本名は井上 一(いのうえ はじめ)。号は羽城のほか、経足、風露郎、紅蓮などを用いた。 1871年(明治4年)2月9日、福井県福井市に井上一庵・起怒の長男として生まれる。家業であった医者を継ぐために金沢高等医学専門学校に入学したが、文学への道を志望し、1892年(明治25年)春に上京し、落合直文の門下に入る。大八洲学校に入学し、落合直文と久米幹文から国文を学ぶ。在学中に金子元臣や品田太吉を助け、雑誌『歌学』や『分海』の編集に当たる。1893年(明治26年)、浅香社の創立に加わる。
森 広三郎(旧字体: 森 廣三郞、もり ひろさぶろう、187… 森 広三郎(旧字体: 森 廣三郞、もり ひろさぶろう、1871年1月4日(明治3年11月14日)- 1939年(昭和14年)7月13日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・広輔。 越前国今立郡稲寄村(福井県今立郡稲寄村、国高村稲寄、武生市を経て現越前市)で、豪農、先代・森広三郎の長男として生まれた。1901年(明治34年)8月、家督を相続し広三郎を襲名した。父の反対を受けながらも上京して英吉利法律学校(現中央大学)で学んだが、ついに父の意思に従い中退して帰郷した。 今立郡会議員に就任。1903年(明治36年)9月、福井県会議員に選出され、1905年(明治38年)5月まで在任し、同参事会員も務めた。
大星 鶴松(おおほし つるまつ、1871年 - 1936年1… 大星 鶴松(おおほし つるまつ、1871年 - 1936年10月11日)は、日本の実業家・大工職人。福井県丹生郡国見村(現・福井市)出身。号は「皖是」(きよゆき)。 福井の大工職人の大星重次郎の長子として生まれ、1890年北海道に弟と共に移住。札幌区で山本卯三郎の下で下請け大工となる。1897年に大型木造建築業者として独立。木工場も経営し、札幌で当代一流の木造建築業者として名を馳せる。官公庁との繋がりが深く、北海道庁立釧路中学校新築工事(1912年竣工)や旧札幌鉄道病院庁舎新築工事(1922年竣工)、札幌市第二高等小學校新築工事(1931年竣工)など官公庁関係の木造施設建築を多く受注した。1922年北海道土木建築請負業者聯合会の設立に参画し同会幹事。
河崎 清(かわさき きよし、1870年11月7日(明治3年1… 河崎 清(かわさき きよし、1870年11月7日(明治3年10月14日) - 1925年(大正14年)11月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。旧姓・小畑。 若狭国遠敷郡平野村(福井県遠敷郡平野村、松永村を経て現小浜市平野)で、小畑多四郎の三男として生まれた。福井県福井中学校(現・福井県立藤島高等学校)で学ぶ。福井県議、同参事会員、地方森林会議員、南米殖民会社、海外興業各業務代理人、河野水電(株)専務取締役、公洲電気(株)監査役、永平寺鉄道(株)社長となる。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において福井5区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して再選した。
加藤 寛治(かとう ひろはる、有職読み:かんじ、1870年1… 加藤 寛治(かとう ひろはる、有職読み:かんじ、1870年10月26日(明治3年10月2日) - 1939年(昭和14年)2月9日)は、明治、大正、昭和期の日本の海軍軍人、海軍大将。福井県福井市出身。元福井藩士、海軍大尉・加藤直方の長男。子息・孝治は陸軍大将・武藤信義の養子。
望月 信亨(もちづき しんこう、1869年10月28日〈明治… 望月 信亨(もちづき しんこう、1869年10月28日〈明治2年9月24日〉 - 1948年〈昭和23年〉7月13日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶。浄土宗総本山知恩院第82世門跡。 1869年、福井県今立郡国高村(現:越前市)で生まれた。本名は松原勝次郎。小学校を卒業した12歳の時に坂井郡新保村の円海寺に入り、加納法宣師のもとで得度。名を信亨と改め、浄土宗の僧籍に加わった。 18歳の時、京都に出て浄土宗西部大学林に入学。20歳の時、大正大学の前身たる浄土宗学本校に入り、仏教学を学んだ。25歳の時に望月有成(兵庫県藤之寺住職)の養子となった。1896年、27歳の時に浄土宗学本校全科を卒業した。 その後は浄土宗高等学院教授となった。
河上 清吉(かわかみ せいきち、1869年9月6日(明治2年… 河上 清吉(かわかみ せいきち、1869年9月6日(明治2年8月1日) - 1936年(昭和11年)6月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 越前福井藩領、越前国丹生郡国見村(現・福井県福井市国見町)出身。1894年(明治27年)陸軍士官学校第5期卒業。 任官後、日清戦争・日露戦争に従軍。さらに、1914年(大正3年)8月に盛岡連隊区司令官を経て、1917年(大正6年)8月に陸軍歩兵大佐・歩兵第35連隊長(第9師団 歩兵第31旅団)に任官しシベリア出兵に出征した。 その後、1921年(大正10年)7月に陸軍少将・歩兵第36旅団長を経て、1924年(大正13年)2月4日に待命、同月26日に予備役に編入した。
岡 不崩(おか ふほう、明治2年7月13日(1869年8月2… 岡 不崩(おか ふほう、明治2年7月13日(1869年8月20日) - 昭和15年(1940年)7月29日)は、明治期から昭和期にかけて活動した日本画家。 明治2年(1869年)7月13日に福井県大野町に五人兄弟の四男として生まれる。本名は吉寿。幼名は又太郎といった。梅渓、不崩と号す。 明治13年(1880年)に上京し、麹町の番町小学校に入学する。明治17年(1884年)16歳の時に狩野友信に入門して洋画を学ぶ。当時は軍人志望であったが、鑑画会創立の頃から友信の紹介もあって狩野芳崖に師事し、本格的に日本画を習得している。有賀長雄宅での狩野永悳、芳崖、木村立嶽らの研究会に参加して学び、明治18年(1885年)の第1回鑑画会大会に岡梅渓の号で「山水」と「草花」を出品している。
真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1… 真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1月27日) - 1956年(昭和31年)4月14日)は日本の宗教思想家、ジャーナリスト、宗教専門紙『中外日報』創刊者。 福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派寺院に長男として生まれる。本名は正遵(しょうじゅん)。京都西本願寺の普通教校に16歳で入学するが間もなく退学し、学徳兼備の名僧として知られた博多万行寺の龍華教校で七里恒順に約3年師事。その後、各地を遍歴しながら文筆修行を積んだ。 1897年(明治30年)10月1日、仏教および宗教界の革新を志し、京都で超宗派の宗教新聞『教学報知』を創刊。1902年(明治35年)、報道範囲を拡大し『中外日報』と改題。
岡倉 秋水(おかくら しゅうすい、明治元年12月11日(18… 岡倉 秋水(おかくら しゅうすい、明治元年12月11日(1869年1月23日) - 昭和25年(1950年)12月30日)は明治時代の日本画家。 越前国福井老松下町に生まれる。本名は覚平。岡倉天心は叔父にあたる。幼少の頃に上京、明治11年(1878年)4月に東京外国語学校仏蘭西学部に入学しフランス語を学んでいる。明治13年(1880年)に退学して画家を志し狩野芳崖に師事して絵の修業を始め、明治16年(1883年)5月からアーネスト・フェノロサについて美学を学ぶ。岡不崩、狩野忠信とともに鑑画会に少壮画家として参加、明治18年(1885年)の第1回鑑画会大会にはフェノロサの示唆を受け「文殊」、「羅漢」、「鷲」を出品すると「鷲」が四等褒状を受け、明治19年(1886年)4月の第2回鑑画会大会には「山水」を出品している。
湯浅 勘兵衛(ゆあさ かんべえ、1869年(明治2年) - … 湯浅 勘兵衛(ゆあさ かんべえ、1869年(明治2年) - 1917年(大正6年))は、日本の農民・慈善家。奨学資金を寄付した。 福井県大飯郡高浜町宮崎出身。父祖の農業に没頭し、斯業の改善と公共の利益に多大の貢献があった。1899年、卒先して耕地整理の実行につとめ、労費を悋まず、遂に10数町歩を完了した。奨学資金5000円を義捐した。高浜町に尽くした事は枚挙にいとまがない。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大橋 松二郎(おおはし まつじろう、明治元年4月13日(18… 大橋 松二郎(おおはし まつじろう、明治元年4月13日(1868年5月5日) - 大正9年(1920年)12月15日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→立憲同志会→憲政会)、ジャーナリスト。 越前国吉田郡円山西村(現在の福井県福井市)出身。1890年(明治23年)に『若越自由新聞』を創刊し、1894年(明治27年)には『若越新聞』と改題。後に『若越新聞』を政友会福井支部の機関紙とした。また農業においては馬耕の奨励や稲種改良に尽力した。福井県会議員、同参事会員、同議長を歴任した。その他、吉田郡農会長、吉田郡教育会長などを務めた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選された。
西野 久右衛門(久右衞門、にしの きゅうえもん、1868年3… 西野 久右衛門(久右衞門、にしの きゅうえもん、1868年3月26日(慶応4年3月3日)- 1900年(明治33年)2月1日)は、明治期の医師、政治家。衆議院議員。 越前国今立郡北村(福井県今立郡北村、北新庄村、武生市を経て現越前市)で生まれた。済生学舎で医学を修めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(福井県第3区、山下倶楽部)で当選し、衆議院議員に1期在任。同年8月、第6回総選挙(福井県第3区、無所属)では次点で落選した。 その後、帝国党が結成されるとこれに参加し幹事を務めた。
岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年… 岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年1月21日〉- 1952年〈昭和27年〉10月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は正二位勲一等功三級。 田中義一内閣で海軍大臣を務めたのち、齋藤内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めた。その斎藤内閣が瓦解したあと大命降下を受けて内閣総理大臣に就任、岡田内閣では一時拓務大臣と逓信大臣を兼任している。二・二六事件で反乱軍に襲撃されたが、義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵が身代わりとなり、奇跡的に難を逃れた。 総理退任後も重臣として度々枢機に与ったが、第二次世界大戦中は東条内閣打倒を自らの責務ととらえ倒閣運動を主導した。
三田村 甚三郎(みたむら じんざぶろう、1867年11月7日… 三田村 甚三郎(みたむら じんざぶろう、1867年11月7日(慶応3年10月12日) - 1934年(昭和9年)2月13日)は、福井県武生市(現越前市)出身の日本の実業家、政治家。 越前打刃物の名産地として知られる越前市越前府中(現越前市あおば町)でも有数の打物問屋に長男・欽二として出生。明治29年、家督を相続し、甚三郎を襲名。福井県立福井中学校(現福井県立藤島高等学校)を経て、東京専門学校(現早稲田大学)に入学し政治学を学ぶ。 福井新聞、有限責任信用組合武生金庫(現武生信用金庫)、武岡軽便鉄道株式会社(福井鉄道南越線)を設立。 福井県会議員を歴任後、衆議院議員に二期当選(1898-1902、1930-32)18年間無報酬で武生町長を務める。
島田 墨仙(しまだ ぼくせん、1867年11月4日(慶応3年… 島田 墨仙(しまだ ぼくせん、1867年11月4日(慶応3年10月9日) - 1943年(昭和18年)7月9日)は、明治から昭和初期に活躍した日本画家。橋本雅邦の弟子で、歴史画、特に歴史人物画に優品を残した。 越前国福井城下で、元福井藩士島田雪谷の次男として生まれる。父・雪谷、兄・島田雪湖 [Wikidata]も日本画家である。9歳頃から父から絵を学び始める。1882年(明治15年)頃、福井中学校(現在の福井県立藤島高等学校)に入学。しかし、1884年(明治17年)1月に稼ぎ頭の父を亡くすと、家計の事情から中学3年を修了した春に退学。自分は士族に生まれたからには軍人にならねばならぬと思い込んだ墨仙は、すぐに陸軍士官学校、陸軍教導団に志願するが、視力が合格の1.0に満たず不合格となる。
木津 無庵(きづ むあん、慶応3年2月18日(1867年3月… 木津 無庵(きづ むあん、慶応3年2月18日(1867年3月23日) - 昭和18年(1943年)9月12日)は、大正・昭和期の真宗大谷派の僧侶。『新訳仏教聖典』の翻訳者。本名は祐精。