石埜 三千穂(いしの みちほ、1964年 - )は日本のフリ… 石埜 三千穂(いしの みちほ、1964年 - )は日本のフリーライター、郷土史研究家。長野県出身。矢森 惨太郎名義でアダルトゲームのノベライズも手がける。 多摩美術大学中退。学生時代にライターを志し、友人のツテで、創刊間もない『ファミコン通信』編集部でアルバイトを始める。大学中退を機に広告制作プロダクションに入社するも、2年でゲームライターに戻り、編プロ勤務を経て、現在はゲーム業界からも引退。 地元・下諏訪町へと帰郷後は、信仰史・民俗学の研究に没頭。諏訪信仰研究会「スワニミズム」の事務局長として、ローカル誌suwazineにライターとして参加するなどの活動を行う。2022年には「諏訪神仏プロジェクト」実行委員会企画局長を務めている。
石橋 かおり(いしばし かおり、1962年5月6日 - )… 石橋 かおり(いしばし かおり、1962年5月6日 - )は、菓子研究家。主に洋菓子が専門である。出版したレシピ本は53冊にのぼる。類計150万部以上 チーズケーキのレシピは400点を超える。 1962年、千葉県生まれ。長野県諏訪二葉高等学校、明治鍼灸短期大学(3年制)卒業。鍼灸師免許を取得し、卒業後はカイロプラクティックと鍼灸治療を行う東京自由が丘治療院に勤務。その後実家である長野県の小池治療院に勤務。 当初は1992年地元のレストランにケーキを卸したりウェディングケーキを頼まれたりと鍼灸業務と並行して活動を行う。ケーキ作りは主に自己流で始まり研究を重ねる。次第にケーキ作りに魅了され、『なぜ本の通りに作っているのに失敗するのか』が非常に疑問でお菓子の本を片っ端から読んでは作るを繰り返した。
田村 志津枝(たむら しづえ、1944年1月1日 - )は… 田村 志津枝(たむら しづえ、1944年1月1日 - )は日本のノンフィクション作家、映画研究家。中国語圏の映画字幕翻訳を多数手掛けている。夫は作家の夫馬基彦。 1944年の正月に日本統治下の台湾台南市に生まれる。父親は台南陸軍病院(中国語版)に勤務していた。小学校入学前、母親から「あなたはタンパンセンで生まれた」と聞かされ、自分は船の中で生まれたと思いこむが、これは地名の「台南市桶盤桟(中国語版)(タンパンセン)18番地」のことだった。引き揚げ後は長野県小諸市で育つ。1968年早稲田大学第一文学部ドイツ文学専修卒。 雑誌の編集、記録映画製作などに携わる。1973年新潟県中蒲原郡上杉町に中国語研修所が開所する。
熊井 明子(くまい あきこ、1940年6月11日 - 202… 熊井 明子(くまい あきこ、1940年6月11日 - 2024年9月21日)は、日本のポプリ研究家、エッセイスト。夫は映画監督の熊井啓。 日本にポプリを紹介し、1980年代前半に起きたブームの火付け役。現在でもポプリの研究においての第一人者。実妹のハーブ研究家の桐原春子とともにハーブなどの香草にも造詣が深い。愛猫家として、猫に関するエッセイも多い。日本ペンクラブ会員。
丸山 勝(まるやま まさる、1939年7月12日 - )は、… 丸山 勝(まるやま まさる、1939年7月12日 - )は、日本の国際ジャーナリスト、中国研究家。 長野県塩尻市生まれ。1963年京都大学文学部東洋史学科卒、読売新聞記者となる。1971年から1973年までインドネシア・ジャカルタ特派員、1975年から1978年までケニア・ナイロビ特派員を務めた後、中華人民共和国・北京支局長、アジア総局長、外報部次長、読売新聞調査研究本部主任研究員を務めた。 1994年から1998年まで文教大学文学部で非常勤講師、また台湾国策研究院客員研究員を務めた。目白大学社会学部メディア表現学科教授として国際ジャーナリズム論の教鞭を執った。
林 紘義(はやし ひろよし、1938年7月24日 - 202… 林 紘義(はやし ひろよし、1938年7月24日 - 2021年2月10日)は、日本の政治活動家、経済学研究家。社会主義労働者党委員長、マルクス主義同志会代表を経て、労働の解放をめざす労働者党(略称・労働者党)代表委員。旧組織名・栗木伸一。 元東京女子大学教授・林道義の弟。保守派・反フェミニズムとなった兄については厳しい批判を展開している。 長野県出身。父が教師だっため転居を繰り返す。長野県伊那北高等学校卒業後、東京大学文学部入学。青木昌彦に勧誘され、19歳の時に日本共産党に入党するが半年で離党。離党理由については「お粗末な実態に愛想をつかした」と述べている。その後共産主義者同盟の一員として60年安保闘争に参加。
渡部 清(わたなべ きよし、1934年 - )は、日本の教育… 渡部 清(わたなべ きよし、1934年 - )は、日本の教育者、書家、書道史研究家。長野県諏訪市出身。NHK番組や大河ドラマの題字制作に従事し、のちに横浜国立大学教授を務めた。 長野県諏訪清陵高等学校を経て、東京教育大学教育学部芸術学科を卒業し、同大学院教育学研究科修士課程を修了した。大学時代には西川寧の影響を受け、古典を中心に学んだ。また、仮名については森田竹華から学んだと述べている。 大学在学中からNHKのタイトル制作に関わり、卒業前から同局と契約して仕事を始めた。東京教育大学附属中学校・高等学校の講師も務め、のちに横浜国立大学教授を歴任した。 その後も古筆・古文書に関する活動を続け、室町時代から江戸時代までの書状を中心とする「ふみを読む会」の講師を務めている。
宮坂 武男(みやさか たけお、1932年 - )は、長野県の… 宮坂 武男(みやさか たけお、1932年 - )は、長野県の城郭研究家。 長野県下諏訪町出身、現在は岡谷市湖畔に在住する。長野県諏訪清陵高等学校を経て、信州大学教育学部卒業。茅野市立永明小学校校長、岡谷市教育委員長を務めた。現在は、県文化財保護協会諏訪支部長、信濃史学会会員。 長野県の城砦研究の第一人者である。中世の城郭が数多く存在するが、特に山間部が多面を占める地域ゆえ険しい山城が多く、体系的な研究の乏しかった長野県の城郭研究であるが、ほぼすべての城・館・砦跡を踏査し、詳細な縄張り・概念図を発表した。積極的に講演も行っている。 長野県城郭調査の先駆である『長野県町村誌』『長野県の中世城館跡-分布調査報告書-』をはじめとして、各行政誌などに基づき、いくたびにわたり同じ城館に訪問。
竹前 栄治(たけまえ えいじ、1930年8月4日 - 201… 竹前 栄治(たけまえ えいじ、1930年8月4日 - 2015年7月14日)は、日本の政治学者、占領史研究家。学位は、法学博士。東京経済大学名誉教授。 長野県須坂市出身。1951年長野県須坂西高等学校卒業、1955年東京教育大学文学部社会科学科法律政治学専攻を卒業し、世田谷区立尾山台中学校教諭に赴任。1958年から東京都立工業短期大学附属工業高等学校(現東京都立工業高等専門学校)教諭、1962年東京都立工業高等専門学校教諭。1963年旧・東京都立大学大学院社会科学研究科政治学専攻修士課程修了。1964年東京都立工業高等専門学校助教授、1968年東京都立大学大学院社会科学研究科政治学専攻博士課程単位取得満期退学。
北野 進(きたの すすむ、1930年-)は、日本の産業考古学… 北野 進(きたの すすむ、1930年-)は、日本の産業考古学者、技術史研究家、赤十字史研究家。専攻は産業考古学。 1930年、長野県に生まれる。 旧制・長野県立屋代中学(現・屋代高校)を経て、1951年、東京工業専門学校(現・千葉大学工学部)機械科卒業。1958年以来、長野県の高校に勤務、池田工業高校長を経て岩村田高校長を最後に1991年3月末退職。長年の研究と著述を継続、技術史研究家、赤十字史研究家。2018年、瑞宝小綬章を受章。 拾ヶ堰、和時計、ガラ紡機、電気製鋼、水力発電など、安曇野地域の近代化遺産について取材・調査を行い、江戸時代から明治、大正、昭和時代(敗戦まで)の技術文化への研究を通して、日本全体の技術史を研究している。
関根 日出男(せきね ひでお、1929年 - 2017年1月… 関根 日出男(せきね ひでお、1929年 - 2017年1月18日)は、医師、チェコ語の翻訳家、チェコ音楽研究家。 長野県北安曇郡大町(現大町市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、大阪陸軍幼年学校を経て、旧制松本医学専門学校(信州大学医学部)卒。1959年北海道大学医学博士。東京都内に耳鼻科医院を開業、同院長。1959年からチェコ音楽を研究、1964年からチェコ語を研究し、翻訳する。
大和 岩雄(おおわ いわお、1928年2月15日 - 202… 大和 岩雄(おおわ いわお、1928年2月15日 - 2021年6月20日)は、日本の編集者、出版事業家、古代史研究家。大和書房(だいわしょぼう)および青春出版社の創業者。 長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)にて、江戸時代から続く呉服商の家庭に生まれる。生家が没落したため、高等小学校卒業後、名古屋市の三菱重工業に旋盤工として就職する予定であったが、1942年、官費で学べる長野師範学校(信州大学教育学部)に入学し、1948年に卒業すると長野県下伊那郡大鹿村立鹿塩中学校に赴任、国語と音楽を教えていた。1948年12月に退職し、長野市に移住。ここで山本茂実主宰の人生誌「葦」に参加。第4号以降、同誌の編集長となる。
後藤 道夫(ごとう みちお、1927年(昭和2年) - 20… 後藤 道夫(ごとう みちお、1927年(昭和2年) - 2017年12月22日)は、日本の科学ジャーナリスト・サイエンスプロデューサー、科学教育研究家。平成記念かざこし子どもの森公園初代公園長、飯田市少年少女発明クラブ会長、東京の科学実験グループ「ガリレオ工房」名誉会員。 長野県飯田市生まれ。東京理科大学理学部物理学科卒業。工学院大学附属高等学校で教諭を、工学院大学、東京都立大学 (1949-2011)、上智大学、明治大学などで講師を務める。 1992年に「青少年のための科学の祭典」を設立。科学技術館を中心とし、日本各地の80都市で行った。第1~4回、9回の全国大会実行委員長を務めた。 現在はサイエンスプロデューサーとして、各地で「親子科学教室」など開催するほか、飯田市科学教育ボランティアグループ「おもしろ科学工房」(平成13度組織化)スタッフとともに市内および下伊那郡内の小・中学校を対象に「巡回科学実験教室」(平成11年度スタート)を開設している。
もろさわ ようこ(1925年2月13日 - 2024年2月2… もろさわ ようこ(1925年2月13日 - 2024年2月29日)は、日本の女性史研究家。本名は兩澤葉子。一般財団法人「志縁の苑」代表理事。 1925年、長野県北佐久郡本牧村(現・佐久市)生まれ。 生家が没落し、女中奉公をしながら小学校を卒業。旧制専門学校入学者検定合格。戦中、疎開してきた陸軍士官学校・生徒隊本部に勤める。戦後、北信毎日新聞の記者(1946年)、鐘淵紡績丸子工場にあった鐘紡丸子高等文化学院の教員(1947年)を経て、1949年に上京した。 1946年には、初めて選挙で一票を投じた。 1951年、日本婦人有権者同盟(会長:市川房枝)の本部事務局に入り、機関紙『婦人有権者』を編集。また、財団法人婦選会館が発行する『月刊婦人展望』の編集者をつとめた。
浜 栄助(はま えいすけ、1925年 - 1996年6月10… 浜 栄助(はま えいすけ、1925年 - 1996年6月10日)は、現在の長野県茅野市出身の教育者、植物研究家、公立高等学校教諭である。日本産スミレの研究者として知られる。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)に生まれる。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1947年、東京高等師範学校理科第三部卒業。東京第二師範学校男子部教官、長野県永明高等学校教諭、東京都立小松川高等学校教諭、長野県諏訪二葉高等学校教諭、長野県阿南高等学校教頭、長野県岡谷東高等学校教頭、長野県屋代南高等学校校長、長野県富士見高等学校校長、長野県長野西高等学校校長などを歴任し、1985年退任。長野県諏訪二葉高等学校教諭は1955年から1966年まで務めるが、その間スケート部の監督としてインターハイで女子総合優勝を導く。
小林 計一郎(こばやし けいいちろう、1919年5月21日 … 小林 計一郎(こばやし けいいちろう、1919年5月21日 - 2009年11月1日)は、日本の歴史学者、郷土史研究家。長野県史編纂委員、長野郷土史研究会会長(初代)。長野工業高等専門学校、文化女子大学長野専門学校、信州短期大学の元教授。長子は、長野郷土史研究会の二代目会長の小林一郎。脚本家の小林雄次と小林英造は孫。 長野県長野市生まれ。旧制長野中学校(現長野高校)を卒業し、神宮皇學館に進学する。小林一茶研究で知られる伊藤正雄に師事して国文学を学ぶ。1941年に卒業。兵役を経て、1946年から大阪府立農学校や長野県の高等学校教諭、長野工業高等専門学校教授、信州短期大学教授などを歴任。1991年信州短大退職、名誉教授の称号を受ける。
細田 貴助(ほそだ きすけ、1919年(大正8年) - 没年… 細田 貴助(ほそだ きすけ、1919年(大正8年) - 没年不明)は、長野県茅野市出身の郷土史研究家、閉校した諏訪郡富士見町立落合小学校 の元校長。茅野市神長官守矢史料館初代館長。
数江 教一(かずえ きょういち、1913年11月18日 - … 数江 教一(かずえ きょういち、1913年11月18日 - 2003年5月28日)は、日本の倫理学者、茶道研究家。茶号は瓢鮎子(ひょうねんし)。 長野県茅野市出身。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)、旧制松本高等学校を経て東京帝国大学文学部倫理学科卒。和辻哲郎に師事。1962年「日本の末法思想」で東京大学より文学博士の学位を取得。1952年中央大学文学部非常勤講師、1953年専任講師、1955年助教授、1960年教授、1984年定年、名誉教授となる。東大在学中に茶の湯同好会を作り茶道を研究する。 日本倫理学会、日本思想史学会、日本哲学会に所属した。
黒坂 周平(くろさか しゅうへい、1913年11月3日 - … 黒坂 周平(くろさか しゅうへい、1913年11月3日 - 2003年2月7日)は日本の地方史研究家、郷土史家、教師。 長野県小県郡西塩田村(現上田市)に生まれる。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て長野師範学校を卒業し、学校教師になる。1950年、『上田小県誌』史料編纂委員となる。1972年、上田市立第三中学校を退職し、郷土史研究に専念する。 1973年、東信史学会を創立し会長に就任、雑誌『千曲』を刊行。1979年、塩田平文化財研究所を設立し所長に就任。1990年喜寿を記念し論文選集(献呈論文集含む)『信濃の歴史と文化の研究』を刊行した。また平凡社の『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』の監修を務めた。
田中 正明(たなか まさあき、明治44年(1911年)2月1… 田中 正明(たなか まさあき、明治44年(1911年)2月11日 - 平成18年(2006年)1月8日)は、日本の歴史研究家、政治思想家、近現代史評論家、著述家、新聞編集者。戦前・戦時中は松井石根の私設秘書としてアジア解放運動に従事した。 大亜細亜協会編集責任者、戦後は、拓殖大学講師、世界連邦建設同盟事務局長、財団法人国際平和協会専務理事を務めるほか、近現代史評論家として著述活動を活発に行った。 長野県下伊那郡喬木村出身。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)卒業。1933年、興亜学塾卒業。松井石根の元私設秘書、松井が設立発起人となった大亜細亜協会編集責任者となる。応召し、無錫で終戦を迎える[要出典]。
宇都宮貞子(うつのみや さだこ、1908年12月3日 - 1… 宇都宮貞子(うつのみや さだこ、1908年12月3日 - 1992年2月12日)は、日本の民俗学者、草花研究家、随筆家。 長野県長野市生まれ。旧制県立長野高等女学校卒。東京女子大学中退。民俗学の一環として野の草花を研究し、60歳以後多くの著作を執筆した。1984年エイボン教育賞受賞。1992年、脳梗塞のため死去。
小平 萬榮(こだいら まんえい、小平 万栄、1905年6月2… 小平 萬榮(こだいら まんえい、小平 万栄、1905年6月28日 - 1997年9月9日)は、日本の教育者、野鳥研究家。日本野鳥の会理事を務めた。雅号は倉塩(そうえん)。 長野県茅野市出身。名古屋逓信講習所卒業。1926年小学校教員となり、1948年に諏訪探鳥会を設立する。日本野鳥の会諏訪支部を発足させた1954年には、塩嶺地区で野鳥を楽しむ「小鳥バス」を地元の岡谷市に提案して実現し、バスでは自ら解説をおこなった。 1975年に、「野鳥愛護の啓蒙を広めた功績」により、勲六等単光旭日章を受章した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
栗生 純夫 (くりう すみお、1904年(明治37年)4月2… 栗生 純夫 (くりう すみお、1904年(明治37年)4月20日 - 1961年(昭和36年)1月17日)は、日本の俳人、小林一茶研究家。本名は神林 新治(かんばやし しんじ)。須坂市名誉市民。 長野県上高井郡須坂町(現在の須坂市東横町)の農業・繭糸商の家に生まれる。小諸市出身の臼田亜浪に師事。実作者の立場から小林一茶を研究し、軍隊入営中に『一茶新考』を出版するなど、書物を数多く発表。1946年(昭和21年)、郷里の長野県須坂町で俳誌『科野』(しなの)を創刊し、『信濃毎日新聞』俳壇選者を長く担当するなど、信濃俳壇の中心となって活躍した。一茶研究により日本俳文学会会員に推挙される。1961年死去。
斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1895年〈明治28年〉8月… 斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1895年〈明治28年〉8月26日 - 1960年〈昭和35年〉2月2日)は、日本の野球史研究家、文学研究家。 日本の野球史研究の先駆者で、明治・大正期の野球書を長年収集して『日本野球文献解題』を私家版で作成し、日本に野球が伝来した時期について「明治5年説」を提唱した。また、石川啄木関連の文献資料を収集して『文献石川啄木』二巻を刊行したほか、『啄木と故郷人』、『啄木文学散歩』の著書があり、岩波書店版『啄木全集』の編さんもしている。 1895年(明治28年)8月26日に日本の長野県下高井郡市川村(のちの野沢温泉村)虫生に生まれる。小学生ですでに野球をプレーしていた。
阿部 栄之助(あべ えいのすけ、1880年8月1日 - 19… 阿部 栄之助(あべ えいのすけ、1880年8月1日 - 1954年4月26日)は、日本の郷土史研究家である。岐阜県の郷土史研究に従事。岐阜大学学芸学部講師。 長野県小県郡滋野村(現・東御市)に生まれる。長野師範学校在学中、小諸義塾の教師として赴任していた島崎藤村に英語を学ぶ。1908年、東京高等師範学校を卒業。東京高師では三宅米吉に師事。卒業後は、岐阜師範学校教諭となる。以後、岐阜県の歴史研究を志し、1915年「濃飛仏教史綱」(『岐阜県教育会雑誌』(途中から『岐阜県教育』に改題)に連載)を発表し、1923~1924年に『濃飛両国通史』(上下2冊)の大著を刊行。 1922年、岐阜県立恵那中学校(現在の岐阜県立恵那高等学校)が創設されると、初代校長に就任。