土方 武(ひじかた たけし、1915年(大正4年)3月18日… 土方 武(ひじかた たけし、1915年(大正4年)3月18日 - 2008年(平成20年)10月15日)は日本の実業家、元住友化学工業社長・会長。元日本たばこ産業会長。元経済団体連合会副会長。岐阜県岐阜市出身。
岐阜県:1,295人
土方 武(ひじかた たけし、1915年(大正4年)3月18日… 土方 武(ひじかた たけし、1915年(大正4年)3月18日 - 2008年(平成20年)10月15日)は日本の実業家、元住友化学工業社長・会長。元日本たばこ産業会長。元経済団体連合会副会長。岐阜県岐阜市出身。
小島 信夫(こじま のぶお、1915年〈大正4年〉2月28日… 小島 信夫(こじま のぶお、1915年〈大正4年〉2月28日 - 2006年〈平成18年〉10月26日)は、日本の小説家。中国から復員後、教師を経て『小銃』で文壇に登場。「第三の新人」の一人と目されるも、抽象表現を帯びた前衛的手法の作品に独自の道を拓いた。評伝や文学論でも活躍。日本芸術院会員。文化功労者。位階は正四位。 岐阜県稲葉郡加納町(現・岐阜市加納安良町)出身。旧制岐阜中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)、第一高等学校を経て、1941年東京帝国大学文学部英文科卒業。卒業論文は『ユーモリストとしてのサッカレイ』。 1942年より中国東北部で従軍、敗戦でポツダム上等兵(伍長)。1946年復員し、1948年4月から千葉県立佐原女子高等学校で教え、1949年度より東京都立小石川高等学校に移る。
中野 文照(なかの ふみてる、1915年1月13日 - 19… 中野 文照(なかの ふみてる、1915年1月13日 - 1989年12月30日)は、岐阜県瑞浪市出身の男子テニス選手。法政大学卒業。1930年代後半から1950年代初頭にかけて、日本男子テニス界を代表する選手として活動した。時代的には、1934年に投身自殺した佐藤次郎のすぐ後に位置している。彼と同年代のライバル選手には、慶應義塾大学の山岸二郎や同じ法政大学の松本武雄などがいた。 1937年全米選手権、1938年全仏選手権で4回戦に進出。この結果は錦織圭が並ぶまで日本人男子シングルス最後の各大会4回戦以上進出記録だった(全米は71年ぶり、全仏は75年ぶりに進出)。 中野は1935年の全日本学生テニス選手権(通称インカレ)で初めてベスト4に入り、この年から「全日本テニスランキング」のトップ10位以内に入った。
福田 克美(ふくだ かつみ、1914年8月1日 - 1987… 福田 克美(ふくだ かつみ、1914年8月1日 - 1987年8月28日)は、日本の実業家。日本ガイシ取締役社長や、同社取締役会長を務めた。 岐阜県立本巣中学校(現岐阜県立本巣松陽高等学校)を経て、1936年東亜同文書院卒業、日本碍子入社。第一業務部次長を経て、1956年取締役に昇格。1962年常務取締役。1966年専務取締役。1969年取締役社長。1972年藍綬褒章受章。1977年取締役会長。1979年紺綬褒章受章。
柳原 三郎(やなぎはら さぶろう、1914年(大正3年)7月… 柳原 三郎(やなぎはら さぶろう、1914年(大正3年)7月3日 - 1990年(平成2年)1月25日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岐阜県岐阜市出身。1932年(昭和7年)岐阜県立岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業。その後、日本大学を卒業した。 岐阜県会議員に選出され、司法保護委員も務めた。柳原工業工場長、同取締役副社長、岐阜商工会議所議員、岐阜県体育協会長などを歴任。岐阜青年連盟主幹に就任し『暁鐘』を主宰した。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で岐阜県第1区に民主党公認で出馬して初当選。その後、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
上松 陽助(うえまつ ようすけ、1914年(大正3年)7月2… 上松 陽助(うえまつ ようすけ、1914年(大正3年)7月2日 - 1996年(平成8年)1月18日)は、日本の政治家。岐阜県知事、岐阜市長を務めた。岐阜県名誉県民、岐阜市名誉市民。 岐阜県岐阜市出身。岐阜中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)、第八高等学校(現:名古屋大学)、東京帝国大学法学部政治学科(現:東京大学)卒業。 その後、日鉄鉱業に就職し、兵役を経て、雑貨を扱う常盤産業株式会社を設立し代表取締役社長に就任。 岐阜市役所に入庁し、経済部長、企業部長、民生部長、農林部長、民生局長等の要職を歴任した。収入役を経て、1970年に岐阜市長に初当選。 1977年2月に岐阜県知事選挙に出馬し、日本社会党参議院議員の中村波男らを破り初当選。
篠田 治男(しのだ はるお、1914年3月26日 - 201… 篠田 治男(しのだ はるお、1914年3月26日 - 2011年7月28日)は、日本の経営者。岐阜県岐阜市出身。 1936年に秋田鉱山専門学校燃料学科を卒業し、同年に日本揮発油(のちの日揮)に入社。1958年に取締役に就任し、1966年に常務、1972年に専務を経て、1978年に副社長に就任し、1980年には社長に昇格。1984年に取締役最高顧問に就任。 2011年7月28日心不全のために死去。97歳没。
吉岡 勲(よしおか いさお、1914年3月23日 - 199… 吉岡 勲(よしおか いさお、1914年3月23日 - 1993年5月4日)は、日本の歴史学者である。岐阜県の郷土史研究に従事。皇學館大学助教授。 北海道常呂郡常呂村(本籍岐阜県)に生まれる。岐阜縣立本巣中學校(現・岐阜県立本巣松陽高等学校)を経て1933年に岐阜縣師範學校を卒業し、岐阜県内の小学校教諭・訓導を経て、岐阜市立西郷小学校・早田小学校・長良小学校・金華小学校の校長を歴任。その間、岐阜県小中学校校長会理事や全国小学校長会理事、また岐阜県教育研究所次長や岐阜県史編集室長、あるいは岐阜大学や中部女子短期大学で非常勤講師もつとめた。 1974年に満60歳で教職を勇退した後、1976年に皇學館大学文学部講師、1978年に助教授になる。
佐治 賢使(さじ ただし、1914年〈大正3年〉1月1日 -… 佐治 賢使(さじ ただし、1914年〈大正3年〉1月1日 - 1999年〈平成11年〉6月14日)は、漆芸家。岐阜県多治見市出身。本名は正。市川市名誉市民。位階は従三位。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
福田 治郎(ふくた じろう、1913年10月 - 2005年… 福田 治郎(ふくた じろう、1913年10月 - 2005年6月19日)は、日本の数学者(幾何学)。岐阜大学名誉教授。従四位勲三等旭日中綬章。岐阜県出身。 その他、数学学会誌Mathematicsなどへの投稿多数
伊藤 律(いとう りつ、1913年6月27日 - 1989年… 伊藤 律(いとう りつ、1913年6月27日 - 1989年8月7日)は、日本の政治運動家、元日本共産党政治局員。岐阜県土岐郡土岐村市原(現・瑞浪市)出身(広島県生まれ)。幼名は、恵一。中国名は、顧青。 父・連次郎の勤務先である広島で生まれた。間もなく父の故郷岐阜県瑞浪に戻る。幼少期から神童の誉れが高かったといわれ、旧制岐阜県立恵那中学校(現・岐阜県立恵那高等学校)4年生修了後、1930年に第一高等学校(現・東京大学教養学部)に入学する(飛び級入学。いわゆる「四修進学」)。同期に後に作家となる杉浦明平がいた。杉浦の後年の回想では、入学の時点で伊藤はすでに社会主義に関心を持ち、1年生から読書会を主催していたという。
佐橋 滋(さはし しげる、1913年〈大正2年〉4月5日 -… 佐橋 滋(さはし しげる、1913年〈大正2年〉4月5日 - 1993年〈平成5年〉5月31日)は、日本の官僚。通商産業事務次官。 高度成長期日本の官僚主導型政治システムにおける典型的トップ官僚として知られる一方で、その官僚らしからぬ大胆さでも有名であり、城山三郎の『官僚たちの夏』(ISBN 4101133115)の主人公・風越信吾は佐橋をモデルとしている。作中では風越の一派に庭野が描かれているがその庭野のモデルは三宅幸夫であり、八高、東大の後輩・同窓にあたる。娘の夫に中小企業金融公庫副総裁であった横田捷宏がいる。合気道を趣味のひとつにしていた。 岐阜県土岐市出身。東海中学、第八高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業。
井田 正孝(いだ まさたか、1912年(大正元年)10月5日… 井田 正孝(いだ まさたか、1912年(大正元年)10月5日 - 2004年(平成16年)2月6日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中佐。後に旧姓・岩田に復した。 1912年(大正元年)10月、岐阜県不破郡関原村にて野砲兵第18聯隊附岩田富士太郎砲兵少佐(のち砲兵大佐、陸士9期)の四男として生れる。岐阜県大垣中学校を経て、1929年(昭和4年)4月に陸軍士官学校予科に合格する。1933年(昭和8年)7月には、陸軍士官学校本科(45期)を卒業。卒業序列は皇族(孚彦王)・公族(李鍝公)を除いて6番/335名という優秀なものだった。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第1聯隊附となる。同聯隊には、終戦時に宮城事件の首謀者となる畑中健二(46期)も所属していた。
守屋 多々志(もりや ただし、1912年(大正元年)8月10… 守屋 多々志(もりや ただし、1912年(大正元年)8月10日 - 2003年(平成15年)12月22日)は、岐阜県大垣市出身の日本画家。本名は守屋 正(もりや ただし)。元愛知県立芸術大学教授。文化功労者。文化勲章受章。 1912年(大正元年)、岐阜県大垣市船町の味噌たまり製造元「四代目孫八」の四男(11人兄弟の8番目)として生まれる。生後100日目、分家守屋貞吉(大垣市桐ヶ崎町の米穀商)へ養子に出される。1930年(昭和5年)、岐阜県立大垣中学校(現:岐阜県立大垣北高等学校)を卒業。上京し、同郷の前田青邨に師事。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現:東京藝術大学)日本画科に入学。在学中に特待生となる。
細野 武男(ほその たけお、1912年6月28日 - 199… 細野 武男(ほその たけお、1912年6月28日 - 1994年9月19日)は、日本の法学者。専門は法社会学。学校法人立命館総長・立命館大学学長、京都橘女子大学学長など歴任。 岐阜県揖斐郡揖斐町(現・揖斐川町)出身。旧制松本高文科甲類在学中から農民運動・教育運動に参加。治安維持法違反での検挙歴(1933年、二・四事件)がある。1934年、東京帝国大学文学部社会学科に入学し、理論社会学を専攻。卒業論文テーマは「ジンメルの貨幣哲学」であった。 大学卒業後、東洋経済新報社に入社するが石橋湛山と衝突し退社。その後、財団法人日本貿易振興協会日本貿易研究所に入所し米国経済史の研究に注力。しかし同研究所もまもなく閉鎖され、1947年兵庫県立労働研究所に移籍。
栗本 一夫(くりもと かずお、1912年(明治45年)5月2… 栗本 一夫(くりもと かずお、1912年(明治45年)5月27日 - 1992年(平成4年)11月27日)は、日本の裁判官。最高裁判事。「四畳半襖の下張事件」で裁判長を務めた。なお、長男に経済人類学者の栗本慎一郎がいる。 岐阜県稲葉郡則武村(現在の岐阜市)に栗本兵治郎の次男として生まれる。 旧制愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業。東京帝国大学在学中の1934年(昭和9年)11月、高等試験司法科に合格。1935年(昭和10年)3月、東京帝国大学法学部を卒業。同年5月から司法官試補となり、東京地裁、仙台地裁、浦和地裁などで裁判官生活を送り、陸軍司政官を務め、終戦後は終戦連絡中央事務局連絡管を務めた。
磯貝 正義(いそがい まさよし、1912年5月25日 - 2… 磯貝 正義(いそがい まさよし、1912年5月25日 - 2008年7月25日)は、日本の歴史学者。山梨大学名誉教授。山梨県立考古博物館初代館長、武田氏研究会会長、山梨県史編さん委員会委員長。専門は日本古代史。 岐阜県土岐郡時村(瑞浪市土岐町)に、父・磯貝謙造、母・操の長男として生まれる。磯貝家は岩村藩大給松平家家臣で、母方の実家伊東家は長百姓の家柄。磯貝家は祖父や叔父が製糸工場を経営しており、父の謙造は小学校校長。 岐阜県大垣中学校、第八高等学校を経て、1936年(昭和11年)に東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、大学院へ進む。大学時代は古代史学を専攻し坂本太郎に学び、卒業論文は「律令時代に於ける地方政治、特に郡司を中心として」。
篠田 義雄(しのだ よしお、1911年9月10日 - 198… 篠田 義雄(しのだ よしお、1911年9月10日 - 1988年4月2日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長、会長を務めた。岐阜県岐阜市出身。 1935年に東京商科大学を卒業し、同年に大阪商船(のちの大阪商船三井船舶)に入社。1964年4月に取締役に就任し、1967年5月に常務、1970年5月に専務を経て、1972年5月に副社長に就任し、1973年5月には社長に昇格。1976年6月に会長に就任し、1980年6月には相談役に就任。 1976年11月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1988年4月2日心不全のために死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
花村 奨(はなむら すすむ、1911年8月12日 - 199… 花村 奨(はなむら すすむ、1911年8月12日 - 1992年10月31日)は、日本の詩人、作家。別名・土岐愛作。 岐阜県大垣市生まれ。東洋大学東洋文学科卒。岐阜県土岐市で小学校教師を務め、詩集を刊行する。1939年「首途」でサンデー毎日大衆文芸選外佳作、直木賞候補。「美しき首途」として映画化される。ほか『雑草夫人』も1940年映画化。宝文館に入社し、『令女界』『若草』を編集。長谷川伸、土師清二に師事し、新鷹会会員。戦後は花村の名で子供読物、歴史小説を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
春日 一幸(かすが いっこう、1910年(明治43年)3月2… 春日 一幸(かすが いっこう、1910年(明治43年)3月25日 - 1989年(平成元年)5月2日)は、日本の政治家、実業家。勲章は正三位勲一等旭日大綬章。 衆議院議員(14期)、愛知県議会議員(2期)、民社党委員長(第3代)を歴任した。 岐阜県海津郡東江村(現:海津市)出身。生家は農家で、7人姉妹のうちに生まれた。母親に「男、望むなら王まで望め」と言われ、名古屋逓信講習所に入学。1928年卒業。名古屋中央電話局(現・NTT西日本名古屋支店)職員となる。後年反共主義の立場を取ったが、この時期はプロレタリア文学を読みあさり、ダダイスムに傾倒した。無断欠勤して上京し、杉並の林芙美子宅に押しかけ、10日間粘ってついに自作の詩を生田春月に見てもらうよう約束を取り付けたという。
棚瀬 襄爾(たなせ じょうじ、1910年2月22日 - 19… 棚瀬 襄爾(たなせ じょうじ、1910年2月22日 - 1964年12月10日)は、日本の民族宗教学者・アジア地域研究者。 1910年、岐阜県本巣郡生まれ。旧制大垣中学校(現岐阜県立大垣北高等学校)を経て、第三高等学校文科甲類へ入学。卒業後は東京帝国大学文学部宗教学科に入学し、1934年に卒業、同大学大学院に進んだ。1936年、東京帝国大学大学院を修了。 卒業後は、1938年より千代田女子専門学校教授となった。一方で、1939年2月より東亜研究所所員を兼ね、研究を続けた。1941年2月に応召し、中国へ出征して漢口で終戦を迎えた。 1946年に復員。戦後は、1947年11月より帝国女子専門学校講師。
加藤 静一(かとう せいいち、1910年1月29日 - 19… 加藤 静一(かとう せいいち、1910年1月29日 - 1989年12月5日)は、日本の医学者(眼科学)。 岐阜県岐阜市出身。旧制第一高等学校を経て、1935年東京帝国大学医学部卒業。1943年旧制樺太医学専門学校眼科教授。1946年旧制松本医学専門学校教授、1948年旧制松本医科大学教授、1958年信州大学医学部附属病院長。1966年医学部長。1973年学長を歴任。1981年退官、同年江戸川女子短期大学学長に就任。1981年勲二等旭日重光章受章。エスペラント語の眼科教科書を出版した。
川島 武宜(かわしま たけよし、1909年〈明治42年〉10… 川島 武宜(かわしま たけよし、1909年〈明治42年〉10月17日 - 1992年〈平成4年〉5月21日)は、日本の法学者。専門は、民法・法社会学。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1969年)(学位論文「所有権法の理論」)。東京大学名誉教授。弁護士。1979年学士院会員、1991年文化功労者。我妻栄門下。弟子に、潮見俊隆、渡辺洋三、唄孝一、廣中俊雄、石村善助、平井宜雄、六本佳平、石田穣、淡路剛久など。 岐阜県岐阜市生まれ。啓蒙的な著作を多く著し、丸山眞男、大塚久雄とともに戦後民主主義、啓蒙主義を代表する論者。東京帝国大学教授、スタンフォード大学客員教授等を歴任。東京大学教授退官後は弁護士として活動した。
市之瀬 廣太(いちのせ ひろた、1909年8月20日 - 1… 市之瀬 廣太(いちのせ ひろた、1909年8月20日 - 1995年2月23日)は日本の芸術家。 岐阜県土岐郡土岐村市原(現瑞浪市)の雛人形づくりの家に生まれる。 小学校5年生の時に、江戸川乱歩の小説のとある美しい彫刻のシーンが強烈に印象に残り、自分もいつしかあのような作品が作ってみたいと思う。 18歳から本格的に彫刻を習い始め、翌年、東京の雨宮治郎(日本芸術院会員)の門下生となる。 「ハンティングの自刻像」で構造社展初入選。 1933年(昭和8年)「キネ子の顔」で構造社展最高構造賞、1962年(昭和37年)「破る」で日展菊華賞。 1968(昭和43年)名古屋芸術大学教授となる。 その後、数々の賞を受賞。
坂井 菴(さかい いおり、1909年(明治42年)8月6日 … 坂井 菴(さかい いおり、1909年(明治42年)8月6日 - 没年不詳)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者。少候13期。第二次世界大戦に参加した最古参の現役戦闘機乗りのひとりで、教官やテストパイロットとしても活躍した。最終階級は陸軍少佐。 1909年(明治42年)8月6日、岐阜県旧稲葉郡蘇原村(現各務原市蘇原町)に生まれる。岐阜中学校を卒業後、民間パイロットを目指して所沢陸軍飛行学校で操縦教育を受けた。飛行学校卒業後の1928年(昭和3年)2月、予備役下士官を志願して陸軍に入隊、航空兵伍長として平壌の飛行第6連隊に配属された。同年5月、第三次山東出兵で半年間中国へ出動し、のち明野陸軍飛行学校で助教を務めた。
峰 吟子(みね ぎんこ、1909年7月21日 - 1993年… 峰 吟子(みね ぎんこ、1909年7月21日 - 1993年1月27日)は、日本の女優である。本名︰馬場 夏世(旧名︰馬場 奈都)。愛称︰ミネギン。 1909年(明治42年)7月21日、岐阜県本巣郡北方町に生まれる。本巣高等女学校卒業後、ダンサーになり神戸のダンスホールで働く。そこでホールの客だったパラマウント映画大阪支社の社長である日系二世のロイ・田中(日本名:田中亮平)と出会い、結婚する。1930年(昭和5年)、田中の知人である日活所属の映画監督村田実に薦められ日活太秦撮影所に入社。東坊城恭長監督『見果てぬ夢』で映画初出演する。この後『銀座セレナーデ』、『この太陽』に続けて出演しヴァンプ女優として売り出される。
古屋 亨(ふるや とおる、1909年1月6日 - 1991年… 古屋 亨(ふるや とおる、1909年1月6日 - 1991年6月20日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士、政治家。衆議院議員、自治大臣兼国家公安委員会委員長。正三位勲一等旭日大綬章。
松野 幸泰(まつの ゆきやす、1908年(明治41年)10月… 松野 幸泰(まつの ゆきやす、1908年(明治41年)10月13日 - 2006年(平成18年)5月22日)は、日本の政治家。岐阜県知事、自由民主党衆議院議員。孫は自民党衆議院議員の棚橋泰文。妻は43年間穂積村・町長(現:瑞穂市)を務めた松野友。子に元岐阜県議会議員松野幸昭と前瑞穂市長の松野幸信がいる。 岐阜県本巣郡穂積村(現・瑞穂市)出身。名古屋育英商業学校(現:東邦高校)卒業、岐阜県農業講習所(現:岐阜農林大学校)入所。その後、兵役を経て、家業の農業に従事した後、1933年(昭和8年)9月「松野メリヤス」を創業。 穂積村会議員で、戦時中は翼壮の構成員となる。そのため戦後は公職追放を受ける。追放解除後は岐阜県会議員、岐阜県議会議長を経て、1958年(昭和33年)10月、岐阜県知事選に出馬し初当選。
伊東 勉(いとう つとむ、1908年6月 - 1992年8月… 伊東 勉(いとう つとむ、1908年6月 - 1992年8月24日)は、ドイツ文学者、名古屋工業大学名誉教授。 岐阜県岐阜市出身。1935年京都帝国大学文学部卒。同年名古屋高等工業学校教授、1949年合併により名古屋工業大学助教授、のち教授、1972年定年退官し中日本自動車短期大学教授を1978年まで務めた。 中世狐物語の研究のほかドイツ社会主義、ルカーチの文学論などを研究、翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
柳田 知常(やなぎだ ともつね、1908年5月26日 - 1… 柳田 知常(やなぎだ ともつね、1908年5月26日 - 1995年1月25日)は、日本の国文学者、俳人。 岐阜県大垣市出身。別名読み・ちじょう。1930年東京帝国大学文学部国文学科卒。各地の中学教諭を経て、1947年金城女子専門学校教授、72年から金城学院大学学長、79年定年退任、名誉教授となる。1925年キリスト教入信。倉田百三主宰の「生活者」に参加。また俳誌「橋」を主宰する。
渡辺 勉(わたなべ つとむ、1908年5月9日 - 1978… 渡辺 勉(わたなべ つとむ、1908年5月9日 - 1978年1月17日)は、日本の写真評論家、写真家。 岐阜県出身。中津商業を卒業。 写真評論、アマチュア写真家の啓蒙、雑誌編集などで、戦前から戦後にかけて活躍。著書多数。評論書のみならず技法書も執筆。 戦前には報道写真家としても作品を発表した。東方社にも参加した。 戦後の活動としては、「世界画報」(1946年創刊)の編集長となったり、木村伊兵衛賞の最初期の選考委員も務めた(具体的には、第2回、第3回および第4回、木村伊兵衛写真賞の受賞者リスト年表)。 晩年は写真誌『アサヒカメラ』で写真批評を行ったほか、社団法人日本写真協会の理事も務めた。 1978年1月17日、胃がんにより東京都新宿区の東京厚生年金病院にて死去。
山内 逸三(やまうち いつぞう、1908年5月3日 - 19… 山内 逸三(やまうち いつぞう、1908年5月3日 - 1992年)は、岐阜県土岐郡笠原町(現多治見市)出身の窯業技術者。日本最大のモザイクタイル産地である笠原町におけるモザイクタイルの先駆者である。 1908年(明治41年)5月3日に岐阜県土岐郡笠原町(現多治見市)窯区に生まれ、笠原尋常高等小学校(現多治見市立笠原小学校)を卒業した。1924年(大正13年)3月に土岐窯業学校(現岐阜県立多治見工業高等学校)を卒業すると、15歳で京都市立陶磁器講習所(後の国立陶磁器試験所)に伝習生として入所し、近代窯業やタイルの製造技術を学んだ。京都市立陶磁器講習所では陶芸家の宇野仁松に注目され、試験所の試作品を焼成する工場に雇われた。
加藤 栄三(かとう えいぞう、1906年(明治39年)8月2… 加藤 栄三(かとう えいぞう、1906年(明治39年)8月20日 - 1972年(昭和47年)5月24日)は日本画家。岐阜県岐阜市出身。弟は日本画家加藤東一。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
矢橋 六郎(やばし ろくろう、1905年11月16日 - 1… 矢橋 六郎(やばし ろくろう、1905年11月16日 - 1988年7月4日)は、日本の洋画家・実業家。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家・本家の出身。矢橋大理石商店代表取締役副社長。モザイクによる壁画、作品を制作。代表作にJR・名古屋駅新幹線口の「日月と東海の四季」。岐阜県・教育委員長をつとめ郷里の振興に寄与。 1905年11月16日、岐阜県不破郡美濃赤坂に生まれる。県立岐阜中学校を経て、1924年、川端画学校に通いはじめる。1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学し、1930年に同校を卒業。
柳生 亮三(やぎゅう りょうぞう、1905年(明治38年)1… 柳生 亮三(やぎゅう りょうぞう、1905年(明治38年)10月26日 - 2013年(平成25年)3月31日)は、日本の動物学者。専門は原生動物学。位階は従四位。 1905年10月26日、現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町出身。父親が税関職員であった為、日本国内やその当時の日本の領土であった朝鮮を転々とする幼年時代を過ごした。旧制岐阜中学校、旧制福井中学校、鎮南浦公立中学校(朝鮮)と転校を繰り返す。 1924年、教育者を志して高等師範学校の受験を決意し、東京高等師範学校と広島高等師範学校で悩んだ結果、広島高師に決め、第一志望の物理化学は外れたが第二志望の生物で広島高等師範学校理科第三部に合格した。 1928年、広島高等師範学校を卒業後、徳島女子師範学校、徳島県立徳島高等女学校、関東州公立高等女学校(大連市)で教師を務めた後に、旧制広島文理科大学生物学科で生物学を学び、天津日本高等女学校、天津日本商業学校教諭を経て、旧制広島文理科大学助手、広島高等師範学校教授などを歴任した。
村井 正誠(むらい まさなり、明治38年(1905年)3月2… 村井 正誠(むらい まさなり、明治38年(1905年)3月29日 - 平成11年(1999年)2月5日)は、明治 - 平成時代の洋画家。岐阜県大垣市出身。新宮市名誉市民。武蔵野美術大学名誉教授。閉校した文化学院および文化学院芸術専門学校(埼玉県庄和町)講師。元日本美術家連盟理事長。 抽象絵画の草分けの一人として活躍した。作品にシリーズ「URBAIN」などがある。 岐阜県に生まれ、村井昌澄と、とみゑの次男。眼科医のであった父の転勤によって、幼少期を和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)で過ごす。新宮第一尋常小学校3年生の頃にスケッチをしている西村伊作(後に入学する文化学院の創設者)に出逢う。西村の作品を後ろから覗き見た経験が美術に対して興味を持つきっかけの一つになる。
安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月… 安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵大尉。二・二六事件に関与した皇道派の人物で、軍法会議で首謀者の一人とされ死刑となる。 1905年(明治38年)2月25日、岐阜県揖斐郡揖斐町が本籍、父・栄次郎が石川県立金沢第二中学校の英語教師を在職中(1903年4月 - 1907年8月)に金沢市で三男として生まれる。父はその後慶応普通部の英語教師となる。輝三は宇都宮中学校、仙台陸軍幼年学校、陸士予科を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校38期を207番/340名で卒業する。同期に二・二六事件の首魁のひとり磯部浅一(元近衛歩兵第4聯隊附、元一等主計)がいた。
宮川 量(みやかわ はかる、1905年 - 1949年9月3… 宮川 量(みやかわ はかる、1905年 - 1949年9月3日)は、日本の園芸指導者。全生病院国立療養所多磨全生園、国立療養所長島愛生園、沖縄県の国立療養所沖縄愛楽園(初代事務長)、国立療養所星塚敬愛園に勤務した。園内の緑化に努め、また、ハンセン病の歴史を研究した。 1905年1月26日岐阜県高山市の寺に生まれ、後得度した。1922年岐阜県立斐太中学卒業。第三高等学校に受かるも体格検査ではねられる。1927年本間俊平牧師の本に感激、後キリスト教徒になる。1928年千葉県立高等園芸学校卒業。1929年全生病院勤務。全生の5人男の一人として活躍する。農園指導などを行った。1931年国立療養所長島愛生園勤務。
森 桂一(もり けいいち、1904年8月10日 - 1988… 森 桂一(もり けいいち、1904年8月10日 - 1988年3月16日)は、洋画家、美術教育者。 岐阜県恵那市生まれ。号・林人子。1928年東京美術学校卒。同年帝展初入選。1952年千葉大学教育学部教授、1970年定年退官、名誉教授。1975年千葉明徳短期大学学長、81年退任、名誉学長。1974年勲三等旭日中綬章受勲。
高島 善哉(たかしま ぜんや、1904年7月13日 - 19… 高島 善哉(たかしま ぜんや、1904年7月13日 - 1990年1月10日)は、日本の経済学者、社会学者。専攻はマルクス主義及びアダム・スミス研究。一橋大学名誉教授、関東学院大学名誉教授。 岐阜県出身。旧制岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)首席を経て、1927年東京商科大学(現一橋大学)卒。大学では当初福田徳三ゼミナールに参加したが、福田の留学のため大塚金之助の指導を受けた。卒業論文「経済静学と経済動学の国民経済学的意義:ヨセフ・シュンペーターの研究」だが、おもにマルクス主義とアダム・スミスを研究した。 1927年指導教官大塚金之助の推薦を受け、母校東京商科大学助手に就任。1927年、渋沢栄一の孫である尾高豊作や尾高朝雄の支援を得て設立され、大塚が所長を務める東京社会科学研究所研究員を兼務し、杉本栄一とともに同研究所での活動に従事。
野田 卯一(のだ ういち、1903年(明治36年)9月10日… 野田 卯一(のだ ういち、1903年(明治36年)9月10日 - 1997年(平成9年)1月29日)は、日本の政治家、大蔵官僚。池田勇人・福田赳夫とともに、「大蔵省の3田」と呼ばれた。 岐阜県岐阜市出身。野田繁吉の五男として生まれる。岐阜中学校(現在の岐阜県立岐阜高等学校)、第一高等学校を経て、1927年(昭和2年)3月に東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した後、大蔵省に入省(大臣官房文書課属)。在学中の1926年(大正15年)11月に高等試験の行政科試験と司法科試験に合格した。 浜松税務署長、松戸税務署長、為替局総務課長、興亜院経済部第四課長、大蔵省総務局総務課長、門司海運局次長、大蔵省金融局次長、外資局長、主計局長、専売局長官などを歴任し、1948年(昭和23年)3月に大蔵次官に就任した。
荒垣 秀雄(あらがき ひでお、1903年7月19日-1989… 荒垣 秀雄(あらがき ひでお、1903年7月19日-1989年7月8日)は、昭和期の新聞記者・コラムニスト。岐阜県吉城郡(現在の飛騨市)出身。 1926年、旧制斐太中学(現岐阜県立斐太高等学校)を経て早稲田大学政治経済学部卒業。東京朝日新聞に入社。1930年(昭和5年)に飛行家の東善作がロサンゼルスから東京へ三大陸横断飛行を達成した際には、朝日新聞紙上に連載された本人名義の紀行文のゴーストライターを務めている。その後満州事変の従軍記者として活躍し、1937年のジョージ6世戴冠式に特派され文名を高めた。1939年に東京本社社会部長になる。その後、リオデジャネイロ支局長やマニラ総局長を歴任する。 太平洋戦争終結後の1945年11月に論説委員となり、「天声人語」を17年半にわたって担当してその名を高め、1956年に第4回菊池寛賞受賞(「天声人語」の執筆により)。
日比野 恒次(ひびの つねじ、1903年7月11日 - 19… 日比野 恒次(ひびの つねじ、1903年7月11日 - 1989年2月21日)は電通相談役。岐阜県出身。 岐阜中学校から第四高等学校に進み東京帝国大学法学部政治学科入学。1928年に卒業と同時に電通に入社。上海電通広告公司主任理事を経て、1947年に取締役に就任。その後1950年に常務取締役、1957年に専務取締役、1960年に代表取締役副社長を経て、亡くなった吉田秀雄社長に代わって1963年2月8日に代表取締役社長に就任。電通テック本社ビル建築に指揮を執る。1964年に東京オリンピック大会では「マーケティング局」と「PR局」を新設し国家イベント参画への道を開く。1965年には旧吉田記念館(吉田秀雄氏私邸)および現金1億4千万円の出捐を得て、文部省の認可により吉田秀雄記念事業財団が発足し初代理事長となる。
古池 信三(こいけ しんぞう、1903年(明治36年)4月3… 古池 信三(こいけ しんぞう、1903年(明治36年)4月3日 – 1983年(昭和58年)10月7日)は、昭和期の日本の政治家、官僚。位階は正三位。郵政大臣、国際電信電話(KDD、現KDDI)会長及び社長。 岐阜県大野郡高山町(現高山市)に生まれた。広瀬末吉の二男。古池喜代次郎の養子となった。古池家は清和源氏村上氏流の庶流で、美濃国恵那郡を本拠としていた一族だといわれている。 旧制斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)、第一高等学校を経て、1928年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、逓信省に入省する。京都中央電話局加入課長、簡易保険局弁済課長、名古屋逓信局庶務課長、広島逓信局規画課長、電気局検査課長、電力管理準備局評価課長、電気庁第一部監督課長、官房総務課長、総務局需品課長、運輸省官房会計秘書各課長、札幌逓信局長、商工省電力局長、名古屋商工局長などを歴任。
松尾 吾策(まつお ごさく、1903年(明治36年)1月6日… 松尾 吾策(まつお ごさく、1903年(明治36年)1月6日 - 1988年(昭和63年)6月16日)は、日本の政治家。元岐阜市長。父は元岐阜市長で貴族院議員であった松尾国松。
伊藤 英三(いとう えいぞう、1902年12月2日 - 19… 伊藤 英三(いとう えいぞう、1902年12月2日 - 1971年10月2日)は、日本の経営者。花王社長を務めた。 岐阜県中津川市出身。1919年に愛知薬学校(現名古屋市立大学薬学部)を卒業し、長瀬商会での勤務を経て、大日本油脂常務、日本有機社長を歴任した。1948年に花王石鹸社長に就任した。1954年に花王油脂との合併により、花王石鹸副社長に就任し、1968年5月に再び社長に就任した 1971年10月2日、心臓衰弱のために死去。68歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
大橋 英吉(おおはし えいきち、1902年11月18日 - … 大橋 英吉(おおはし えいきち、1902年11月18日 - 1987年9月23日)は、日本の実業家。元いすゞ自動車社長。勲二等瑞宝章。 岐阜県出身。1920年旧制岐阜中学校(のちの岐阜県立岐阜高等学校)卒業。のちに第三代在京岐阜高校同窓会会長を務めた。 1928年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、東京石川島造船所自動車部(のちのいすゞ自動車)に入る。 1965年いすゞ自動車社長に就任。自動車業界再編の中、1966年に富士重工業と提携。同年藍綬褒章受章。1970年に日産自動車と提携。 1970年日産自動車との提携を機に社長を退任。この退任は、ワンマン社長として知られた大橋が、同じくワンマン社長として知られ、大学の1年後輩である、日産自動車の川又克二社長に主導権を握られるのを嫌ったことが理由との見方もされた。
馬淵 寅雄(まぶち とらお、1902年8月18日 - 197… 馬淵 寅雄(まぶち とらお、1902年8月18日 - 1977年11月14日)は、日本の経営者。岐阜県揖斐郡大野町出身。 1921年に岐阜県立農林学校を卒業。1926年に攻玉社高等工学校土木科を首席で卒業し、同年に東京横浜電鉄(のちの東京急行電鉄)に入社。1939年9月に工務部保線課長、1946年1月に工務部部長に昇進。1948年6月に取締役に就任し、東急会館・渋谷地下街・東急文化会館など渋谷駅の再開発事業の推進を行った。1955年11月に常務、1958年5月に東急不動産常務、1964年11月に専務、1966年5月に東急電鉄専務、1968年6月に東急建設副社長を経て、1972年7月から1973年5月までに同社社長を務めた。
永江 一夫(ながえ かずお、1902年(明治35年)2月1日… 永江 一夫(ながえ かずお、1902年(明治35年)2月1日 - 1980年(昭和55年)4月23日)は、日本の政治家。位階は従三位。 農林大臣(第9代)、民社党副書記長を務めた。長男の永江一仁は民社党衆議院議員・神戸市会議員の永江一之は孫(一仁の長男)。 岐阜県恵那郡陶村(陶町を経て現瑞浪市)で生まれた。苦学して1924年(大正13年)関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学)を卒業。在学中、1921年(大正10年)神戸の川崎造船所・三菱造船所争議に参加。卒業後、福徳生命に入社し、同時に社会運動に参加し日本労農党、日本大衆党に属した。 1929年、神戸市会議員となる。1937年、第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選。
島戸 繁(しまと しげる、1902年〈明治35年〉 - 19… 島戸 繁(しまと しげる、1902年〈明治35年〉 - 1998年〈平成10年〉3月14日)は、日本の洋画家、教育者。位階は従四位。勲等は勲三等。静岡女子大学名誉教授。 滋賀県立彦根高等女学校教諭、彦根工業専門学校助教授、滋賀県立短期大学教授、静岡女子短期大学教授などを歴任した。 岐阜県出身。滋賀県の彦根城城下町にアトリエを構え、城や琵琶湖の風景、人々の生活などを描いた。また、フランス・パリに滞在し描くなど、当時かなり珍しかった海外での先進的な芸術活動も行った。西洋美術の模倣ではない独自の洋画を追求し、関西洋画壇で活躍した。作品に対しては複数の受賞歴があり、当人も勲三等旭日中綬章を受章した。彦根を代表する和菓子の老舗、いと重の代表銘菓「埋れ木」のパッケージに描かれている彦根城の絵や、多賀大社御田植祭のうちわ絵など、墨絵や水彩画も多く描いている。