山下 喬子(やました きょうこ、1922年7月13日 - 2… 山下 喬子(やました きょうこ、1922年7月13日 - 2004年2月6日)は、日本の児童文学作家。 静岡県沼津市出身。東京府立第四高等女学校(東京都立南多摩中等教育学校)卒。高女在学中に堀辰雄に師事し、戦後は『文学者』で作品を発表。のちに児童文学も書き、1961年「プフア少年」を刊行。『悲しみは海の色』はNHKの少年ドラマシリーズでドラマ化された。
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山下 喬子(やました きょうこ、1922年7月13日 - 2… 山下 喬子(やました きょうこ、1922年7月13日 - 2004年2月6日)は、日本の児童文学作家。 静岡県沼津市出身。東京府立第四高等女学校(東京都立南多摩中等教育学校)卒。高女在学中に堀辰雄に師事し、戦後は『文学者』で作品を発表。のちに児童文学も書き、1961年「プフア少年」を刊行。『悲しみは海の色』はNHKの少年ドラマシリーズでドラマ化された。
角替 武(つのがえ たけし、1922年(大正11年)2月9日… 角替 武(つのがえ たけし、1922年(大正11年)2月9日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の元陸軍軍人および実業家。陸士55期次席。日本航空常務取締役、日本アジア航空代表取締役社長および名誉顧問。 静岡県掛川市出身。1936年(昭和11年)4月、掛川中学校(現:静岡県立掛川西高等学校)より東京陸軍幼年学校に転学。1941年(昭和16年)に陸軍士官学校卒業後、満州・東安駐屯の歩兵第22連隊に配属される。大戦末期、内地の陸軍士官学校区隊長(58期・60期担当)に発令され、陸軍大尉で終戦を迎える。 戦後は公職追放を受ける。1952年9月、東京大学法学部卒。1953年に日本航空に入社、経理課長、ロンドン支店長、運送本部管理部長、経営管理室長を経て1979年6月より常務取締役。
鈴木 英夫(すずき ひでお、1922年1月4日 - 2018… 鈴木 英夫(すずき ひでお、1922年1月4日 - 2018年10月28日)は、日本の経営者。兼松江商社長、会長を務めた。静岡県御殿場市出身。 1946年に東京商科大学を卒業し、同年に兼松江商に入社。1969年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1981年12月に社長に就任し、1989年6月には会長に就任し、1992年6月に相談役を経て、1994年6月から名誉顧問を務めた。 1983年5月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2018年10月28日老衰のために死去。96歳没。
長谷川 房雄(はせがわ ふさお、1922年(大正11年)1月… 長谷川 房雄(はせがわ ふさお、1922年(大正11年)1月 - 2020年(令和2年)12月29日)は、日本の建築学者。専門は建築環境工学、建築計画学。東北大学名誉教授。工学博士。 1922年(大正11年)、静岡市生まれ。1934年(昭和9年)3月、静岡市立安西小学校卒業。1939年(昭和14年)3月、静岡県立静岡中学校卒業。1942年(昭和17年)9月、静岡高等学校 (旧制)理科一類卒業。1945年(昭和20年)9月、東京帝国大学第二工学部建築学科卒業。同年11月、財団法人建設技術研究所に就職。1951年(昭和26年)3月、同退職。4月、東北大学工学部建築学科助教授、1961年(昭和36年)9月、『建築壁体の熱伝導計算法に関する研究』により工学博士(東京大学)。
山崎 諭(やまざき さとる、1922年 - 2000年4月1… 山崎 諭(やまざき さとる、1922年 - 2000年4月19日)は、日本のアマチュア野球選手、アマチュア野球指導者。
海野 一隆(うんの かずたか、1921年12月19日 - 2… 海野 一隆(うんの かずたか、1921年12月19日 - 2006年5月4日)は、日本の地理学者(東洋地理学史)。大阪大学名誉教授。 1921年、静岡県浜松市生まれ。第七高等学校造士館を経て、京都帝国大学文学部に進学。史学科地理学専攻で小牧実繁、室賀信夫に師事した。1945年に同大学文学部を卒業。卒業後は岐阜県の中学校教員となった。 1948年、大阪第二師範学校の教員となった。その後、大阪学芸大学講師、後に助教授昇格。1963年、大阪大学教養部教授となり、人文地理学講座を担当した。1985年に大阪大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、大阪清浄女子短期大学で教鞭をとり、1991年に退任した。
松永 信夫(まつなが のぶお、1921年12月16日 - 2… 松永 信夫(まつなが のぶお、1921年12月16日 - 2007年9月25日)は静岡県志太郡出身のサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフルバック。「ベルリンの奇跡」の立役者だった松永行は実兄。日本軽金属などに所属し、日本代表として1954 FIFAワールドカップ・予選など、国際Aマッチ4試合に出場した。 静岡県立志太中学校(現静岡県立藤枝東高等学校)、東京文理科大学(現:筑波大学)卒業。第二次世界大戦中の1943年に陸軍に徴兵されフィリピン・ミンダナオ島に配属された経験を持つ。 戦後、志太クラブや後藤缶詰でプレーを続け、インドで1951年アジア競技大会が開催された際、日本代表に選出されたが、前述の陸軍の経験もあってビザの発給が許可されなかったという。
佐々木原 正夫(ささきばら まさお、1921年(大正10年)… 佐々木原 正夫(ささきばら まさお、1921年(大正10年)11月17日 - 2005年)は、第二次世界大戦時における大日本帝国海軍のエース・パイロット。甲飛4期、飛練9期。最終階級は海軍飛曹長、ポツダム昇進により少尉。 青森県出身。1935年(昭和10年)4月、静岡県立沼津中学校に入学。後輩にのちに回天特攻隊隊員となる和田稔がいる。在学中の1938年(昭和13年)、クラスメートらとともに陸上競技部内に「器械体操倶楽部」を立ち上げた。 卒業後の1939年(昭和14年)4月、甲種飛行予科練習生4期生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。予科練での一年半の基礎教育を終えて1940年(昭和15年)9月、第9期飛行練習生となり、戦闘機搭乗員としての教程を経て、開戦直前の1941年(昭和16年)9月、空母「翔鶴」乗組。
冨原 芳彰(ふはら よしあき、1921年6月5日 - 198… 冨原 芳彰(ふはら よしあき、1921年6月5日 - 1988年1月26日)は、英文学者、筑波大学名誉教授。 静岡県御殿場市生まれ。1944年東京文理科大学英文科卒、兵役ののち、研究社入社、『英語青年』の編集にあたる。1959-1960年ハーヴァード大学に留学。一橋大学社会学部助教授、筑波大学教授、1979-1980年日本英文学会会長。1985年定年退官、大妻女子大学教授。1988年、在職中に心筋梗塞のため死去。 シェイクスピアが専門、福原麟太郎に師事した。しばしば富原芳彰と表記される。
小澤 正明(おざわ せいめい、1921年(大正10年)5月1… 小澤 正明(おざわ せいめい、1921年(大正10年)5月14日 - 2012年(平成24年)6月14日)は、日本の国文学者。元八幡大学学長、名誉教授、文学博士(関西学院大学・論文博士・1979年)。九州近代文学会理事。静岡県沼津市出身。 台北帝大時代、海軍予備学生として学徒出陣、長崎相浦海軍基地で出陣を待ったが終戦となる。1947年(昭和22年)戸畑専門学校で発足したサークル文芸部では戸専文学を発行。他に単行詩集、文学雑誌などを相次いで発行し文学啓蒙運動に力を注いだ。川端康成の研究でも知られており「川端康成文芸の世界」で文学博士号を取得している。
一言 多十(ひとこと たじゅう、1921年5月1日 - 20… 一言 多十(ひとこと たじゅう、1921年5月1日 - 2010年4月16日)は、静岡県六合村(現:島田市)出身のプロ野球選手(投手、外野手)。
杉山 忠平(すぎやま ちゅうへい、1921年3月7日 - 1… 杉山 忠平(すぎやま ちゅうへい、1921年3月7日 - 1999年3月21日)は、日本の経済学者。英国経済学史専攻。一橋大学社会科学古典資料センター第2代主任教授、経済学史学会代表幹事、経済資料協議会会長等を歴任。東京経済大学名誉教授、静岡大学名誉教授。日本学士院賞受賞。 静岡県沼津市出身。旧制沼津中学(現静岡県立沼津東高等学校)を経て、東京商科大学(現一橋大学)在学中、学徒出陣で第3師団野戦重砲兵第3連隊入隊。結核で除隊後、1945年に大学を卒業し、沼津の芝浦工作機械(現芝浦機械)入社。吹田順助ゼミ出身。 1947年退社、日本大学専任講師。専門部教授、教養部助教授、静岡大学助教授を経て、一橋大学大学院に内地留学し大塚金之助に師事。
森 麗子(もり れいこ、1921年3月6日 - )は、日本の… 森 麗子(もり れいこ、1921年3月6日 - )は、日本の教育者、生物学者、手芸家、詩人。 旧姓は萩原(はぎわら)。書籍などで森 れい子(もり れいこ)との名義を用いることもある。 静岡県森町高等女学校、静岡高等学校、文化服装学院での勤務を経て、ガブロム工房主宰などを歴任した。 静岡県出身の手芸家である。旧制高等女学校や旧制高等学校の教員を経て、結婚を機に手芸家として活動する。エドナ・マーチンに師事したのち、さまざまな技法を駆使して糸で絵を描く「ファブリックピクチャー」を確立し、日本における第一人者として知られている。ガブロム工房の主宰としても活動し、個展だけでなく工房展なども開催した。旧制の静岡県森町高等女学校や静岡高等学校で教鞭を執り、戦後は文化服装学院において後進を育てた。
大石 巌(おおいし いわお、1921年〈大正10年〉2月19… 大石 巌(おおいし いわお、1921年〈大正10年〉2月19日 - 2002年〈平成14年〉3月3日)は、日本の実業家、経営者、ジャーナリスト、証券アナリスト。新日本証券会長。毎日新聞社社友。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校から、静岡高等学校 (旧制)に進み、1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部卒業。同年、東京日日新聞社入社、経済部記者。日銀記者クラブのキャップなどを務めた。のちに、毎日オリオンズ出向、営業部長。1961年(昭和36年)、毎日新聞を離籍し大商証券に転じ、福岡支店長を経て、1964年(昭和39年)、取締役。1967年(昭和42年)、合併により新日本証券取締役。1975年(昭和50年)、同副社長。
白柳 美彦(しろやなぎ よしひこ、1921年2月 - 199… 白柳 美彦(しろやなぎ よしひこ、1921年2月 - 1992年3月28日)は、日本の評論家、翻訳家、児童文学者。 少年小説の作者、『シートン動物記』や『赤毛のアン』の翻訳者として知られる。 静岡県浜松市出身。白柳秀湖の甥あるいは息子と自称したことがあるが、これは事実ではない。 1938年、旧制第一高等学校在学中、一高空手部員として鎌倉市の深田久弥宅を訪問し、当時深田の夫人だった北畠八穂と出会う。 1944年、東京帝国大学農学部卒業。学徒動員で二等兵として入営し、名古屋で兵役生活を送る。 1948年から鎌倉山で北畠と同棲した(深田の不実のため北畠は1943年に離婚していた)。入籍はせず、事実婚だった。
鈴木 敬(すずき けい、1920年12月16日- 2007年… 鈴木 敬(すずき けい、1920年12月16日- 2007年10月18日)は、日本の美術史家。東京大学名誉教授、日本学士院会員。
長倉 三郎(ながくら さぶろう、1920年10月3日 - 2… 長倉 三郎(ながくら さぶろう、1920年10月3日 - 2020年4月16日)は、日本の化学者(物理化学)。学位は、理学博士(東京大学・論文博士・1953年)。「電荷移動理論」を提唱・実証し、分子科学・スピン化学を開拓した。東京大学物性研究所教授、分子科学研究所所長、岡崎国立共同研究機構機構長、総合研究大学院大学初代学長、国際純正・応用化学連合 (IUPAC) 会長、日本学士院第23代院長などを歴任。位階は従三位、勲等は勲一等。文化勲章受章者。 1920年、静岡県駿東郡鷹根村(現沼津市)柳沢生まれ。静岡県立沼津中学校を経て、1943年東京帝国大学理学部化学科卒業。大学院進学同日に休学し海軍技術見習尉官に任じられ青島方面特別根拠地付を命じられる。
上田 毅八郎(うえだ きはちろう、1920年8月30日 - … 上田 毅八郎(うえだ きはちろう、1920年8月30日 - 2016年6月18日)は、日本の画家である。海洋船舶画家として、模型メーカー・タミヤの「ウォーターラインシリーズ」をはじめとするボックスアートで知られる。 静岡県藤枝市鬼岩寺に生まれ、静岡市千代田で育つ。上田は子供のころから「子供の科学」「航空少年」といった少年雑誌を見ながら、船舶や飛行機の絵を盛んに模写していた。 1941年(昭和16年)、徴兵の為帝国陸軍の高射砲連隊(浜松市)に入営。後に船舶部隊(暁部隊)の船舶砲兵に転科、陸軍徴用船である軍隊輸送船に乗船し備砲たる高射砲の操作要員(船砲隊員)となり(船舶砲兵第1連隊)、太平洋戦争における数々の輸送任務に従軍。
福田 勇一(ふくだ ゆういち、1920年8月22日 - )は… 福田 勇一(ふくだ ゆういち、1920年8月22日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは二塁手。
佐野 圭司(さの けいじ、1920年6月30日 - 2011… 佐野 圭司(さの けいじ、1920年6月30日 - 2011年1月6日)は、日本の医学者。
栗原 祐幸(くりはら ゆうこう、1920年〈大正9年〉6月5… 栗原 祐幸(くりはら ゆうこう、1920年〈大正9年〉6月5日 - 2010年〈平成22年〉6月1日)は、日本の政治家。位階は正三位。 防衛庁長官、労働大臣、衆議院議員(7期)、参議院議員(2期)を務めた。長男は沼津市長や衆議院議員を務めた栗原裕康。 静岡県田方郡中郷村(現三島市)の生まれ。東京府立第八中学校、佐賀高等学校文科甲類を経て1944年東京帝国大学法学部卒業。学徒出陣により中国に出征する。軍隊時代に上官を殴打するなど、若い頃から鼻っ柱が強い性格だった。 戦後、栗原は東大時代の恩師である南原繁より、「戦前の日本は優秀な人材が官僚組織や軍部に集中して民間の裾野が手薄になり、権力の暴走をくい止めることができなかった。
大竹省二(おおたけ しょうじ、1920年(大正9年)5月15… 大竹省二(おおたけ しょうじ、1920年(大正9年)5月15日 - 2015年(平成27年)7月2日)は、日本の写真家。静岡県出身。
村松 幸雄(むらまつ ゆきお、1920年3月6日 - 194… 村松 幸雄(むらまつ ゆきお、1920年3月6日 - 1944年7月25日)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。
天野 竹一(あまの たけいち、1920年 - )は、静岡県出… 天野 竹一(あまの たけいち、1920年 - )は、静岡県出身のプロ野球選手。
小川 アンナ(おがわ アンナ、1919年10月4日 - 20… 小川 アンナ(おがわ アンナ、1919年10月4日 - 2015年7月24日)は、静岡県庵原郡富士川町(現:富士市)生まれの詩人。女性。本名は芦川 照江(あしかわ てるえ)。日本現代詩人会会員。
小河 八十次(おごう やそじ、1919年8月15日 - 19… 小河 八十次(おごう やそじ、1919年8月15日 - 1998年9月22日)は、昭和(戦後)の裁判官。 1919年(大正8年)8月15日生まれ。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、南満州鉄道に勤務。現地で軍隊に召集され、抑留の後、復員。1947年(昭和22年)司法試験合格。同年に創設された司法修習所第1期出身の裁判官。法律に強い理論派で、厳格な法解釈で知られた。 自衛隊の合憲性が問われた長沼ナイキ事件 控訴審の裁判長。1審で出された初の自衛隊違憲判決を覆し、最高裁の「送り込み人事」、「長沼シフト」と言われた。
清川 泰次(きよかわ たいじ、1919年5月6日 - 200… 清川 泰次(きよかわ たいじ、1919年5月6日 - 2000年8月6日 )は、日本の洋画家。 1919年(大正8年)5月6日、静岡県浜松市にて生誕。1936年、浜松第一中学(現浜松北高校)4年修了後、慶應義塾大学経済学部予科に入学し、油彩画を始めていく。大学在学中は写真部に所属していた。 1944年に慶應義塾大学を卒業し、戦後はアメリカやヨーロッパ、アジア各地を訪問していく。1947年に二科展に初入選し、浜松市で初の個展を開催する。 1949年には世田谷区の成城にアトリエ兼住居を構え、1951年に渡米しシカゴの画廊で個展を開催し、1954年にタイやエジプト、インドなどを周遊後、帰国。帰国後は、「今日の新人展」(神奈川県立近代美術館)や読売アンデパンダン展等に出品していった。
木下 貞一(きのした ていいち、1919年3月20日 -20… 木下 貞一(きのした ていいち、1919年3月20日 -2007年12月5日 )は静岡県出身のプロ野球選手。旧姓は松本 貞一(まつもと ていいち)。
宮永 岳彦(みやなが たけひこ、1919年2月20日 - 1… 宮永 岳彦(みやなが たけひこ、1919年2月20日 - 1987年4月19日)は、日本の画家。 静岡県磐田郡(現・磐田市)生まれ。名古屋市立工芸学校(現名古屋市立工芸高等学校)卒業後、松坂屋名古屋本店に入社。その後、第二次世界大戦の兵役の後、実家の神奈川県秦野市に戻り、松坂屋銀座店宣伝部に勤務しながら秦野市、後に東京都新宿区にて創作活動を行う。 油絵をはじめ、小田急電鉄や全日本空輸、横浜開港祭のポスター、童画、週刊漫画TIMESなどの表紙画、挿絵、水墨画などの作品を残した。特に1955年の発売以来、現在に至るまでパッケージに使用されている「ぺんてるくれよん」のイラストがつとに有名である。その多才さから「器用貧乏」と揶揄されたが、「器用貧乏が勝つか、不器用が勝つか、勝負だ」と意に介さなかった。
大久保 婦久子(おおくぼ ふくこ、1919年(大正8年)1月… 大久保 婦久子(おおくぼ ふくこ、1919年(大正8年)1月19日 - 2000年(平成12年)11月4日)は、日本の芸術家、皮革工芸家。下田市名誉市民。本名は大久保 ふく。勲三等瑞宝章(1989年)、文化功労者(1995年)、文化勲章(2000年)。日本芸術院会員。皮革造形美術グループ「ド・オーロ」代表。モンゴル芸術大学名誉教授。日本の皮革工芸の第一人者として知られた。 静岡県賀茂郡下田町生まれ。下田尋常高等小学校(現在の下田市立下田小学校)を経て、1935年に静岡県立下田高等女学校(のちの静岡県立下田南高等学校、現在の静岡県立下田高等学校)を卒業。同郷の日本画家・中村岳陵の絵画に魅せられて画家を志し、同年、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)師範科西洋画部入学。
磯貝 元(いそがい はじめ、1919年(大正8年) - 20… 磯貝 元(いそがい はじめ、1919年(大正8年) - 2015年(平成27年))は、日本の医師。内科医。駒込病院副院長。医学博士。 静岡県立静岡中学校を経て、静岡高等学校 (旧制)卒業。1942年(昭和17年)、東京帝国大学医学部卒業。直ちに海軍短期現役軍医として従軍。朝鮮・元山駐在。1943年(昭和18年)1月、海軍軍医学校入学、4月卒業。海南島特別陸戦隊附、9月、第三航空艦隊附(八丈島)。1945年(昭和20年)8月、復員。上京して都立駒込病院(内山圭梧院長)に入局。伝染病患者の診療に従事。1962年(昭和37年)、アメリカ、ボルチモアのメリーランド大学ボルチモア校(英語版)に半年間海外研修。
高橋 敏(たかはし さとし、1919年 - )は静岡県出身の… 高橋 敏(たかはし さとし、1919年 - )は静岡県出身の元プロ野球選手(投手、右翼手)。
大森 英櫻(おおもり ひでお、1919年(大正8年) - 2… 大森 英櫻(おおもり ひでお、1919年(大正8年) - 2005年(平成17年))は、マクロビオティック指導者。静岡県熱海市生まれ。普及団体である宇宙法則研究会の初代会長。マクロビオティック創始者である桜沢如一の門下生のひとり。桜沢の指導哲学である無双原理を発展させ、動物性食品を一切摂取しない完全穀菜食を実践・提唱した。夫人はマクロビオティック料理研究家の大森一慧。工学院大学建築科卒業。本名、大森英雄。 第二次世界大戦後、病弱な体で悩んでいた大森英桜は桜沢のマクロビオティックの著書と出会い、体質を改善した。 日本MI(日本CI協会の前身)で学んだ後、無双原理の正しさを自ら調べるべく、多くの病人と交流し自らも実践するなかで、桜沢の考えを修正し、小魚すら口にしない完全穀菜食が理想的な食事法であるという考えに至った。
鵜藤 俊平(うとう しゅんぺい、1918年12月1日 - )… 鵜藤 俊平(うとう しゅんぺい、1918年12月1日 - )は、日本の水泳選手。1936年ベルリンオリンピック400メートル自由形で銀メダル、1500メートル自由形で銅メダルを獲得している。立教大学出身。
堤 達男(つつみ たつお、1918年〈大正7年〉10月18日… 堤 達男(つつみ たつお、1918年〈大正7年〉10月18日 - 1988年〈昭和63年〉)は、日本の彫刻家、教育者。 構造社会友、静岡県立松崎高等学校講師、鳩巣会会長(初代)、社団法人日展会員などを歴任した。 静岡県出身の彫刻家である。日本美術展覧会での特選を機に評価を確立し、伊豆半島で制作に勤しんだ。また、高等学校にて教鞭を執り、後進の育成にも務めた。彫刻家集団である「鳩巣会」では会長に推戴された。 1918年(大正7年)10月18日、静岡県賀茂郡仁科村に生まれた。幼い頃より美術に関心を持ち、彫刻家になることを志した。静岡県立豆陽中学校を経て、1936年(昭和11年)に東京美術学校に進学、彫刻科で学んだ。
鈴木 秀雄(すずき ひでお、1918年10月9日 - 196… 鈴木 秀雄(すずき ひでお、1918年10月9日 - 1964年10月26日)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは捕手、内野手。 榛原中から全静岡を経て、1936年に名古屋軍へ入団。1939年シーズン途中にライオン軍へ移籍し、1942年には大和軍へ移籍した。1944年は前身の名古屋軍であった産業軍へ復帰し、この年から内野手へ転向。1946年に引退した。
竹山 逸郎(たけやま いつろう、1918年10月5日 - 1… 竹山 逸郎(たけやま いつろう、1918年10月5日 - 1984年4月4日、本名:竹山 逸平)は、昭和20年代に活躍した日本の歌手である。代表曲は「泪の乾杯」、「異国の丘」など。 静岡県浜松市出身。浜松第一中学校を経て慶應義塾大学法学部に進学。大学在学中から歌好きが高じてコーラス部に所属。卒業後は日本火災海上(現:損害保険ジャパン)に就職するも、歌手になる夢が捨てきれず、1943年に日本ビクターから歌手デビューする。 ヒットに恵まれたのは戦後になってからで、1947年に平野愛子の「港が見える丘」のB面だった「泪の乾杯」をはじめ、藤原亮子とデュエットした「誰か夢なき」、1948年に作曲家・吉田正の出世作となり、復員兵の中村耕造とデュエットした「異国の丘」、1949年に再び藤原亮子とデュエットした「月よりの使者」、「熱き泪を」、「流れの船唄」が相次いでヒットとなった。
斉藤 滋与史(齊藤 滋与史、さいとう しげよし、1918年〈… 斉藤 滋与史(齊藤 滋与史、さいとう しげよし、1918年〈大正7年〉8月9日 - 2018年〈平成30年〉8月9日)は、日本の実業家・政治家。富士市名誉市民。静岡県知事(第47・48代)、建設大臣(第44代)、衆議院議員(6期)、富士市長、吉原市長、大昭和製紙社長などを歴任した。 大昭和製紙の創業者、斉藤知一郎の次男。防衛庁長官を務めた元衆議院議員の斉藤斗志二は甥で養子。 静岡県出身。五年制男子校・静岡県立沼津中学校(現:静岡県立沼津東高等学校 共学)を経て、早稲田大学商学部卒業。大学卒業後の1940年、父・斉藤知一郎が創業した大昭和製紙に入社した。1961年より大昭和製紙副社長。 1964年、吉原市長に初当選し1966年の市町村合併により初代富士市長。
河合 斌人(かわい あやと、1918年〈大正7年〉8月8日 … 河合 斌人(かわい あやと、1918年〈大正7年〉8月8日 - 2005年〈平成17年〉9月6日)は、日本の実業家、教育者。河合塾理事長、山一證券副社長。 河合逸治の長男。東京商大を経て日本勧業銀行に入行し、経済安定本部や名古屋造船、山一證券にも出向した。後に実家の河合塾を継ぎ、弟の河合邦人と共に愛知県のローカル予備校から三大予備校の一角にまで育て上げた。1992年、フランス教育功労章オフィシエ受章。 静岡県生まれ。愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校、59回卒業)、名古屋高商(現・名古屋大学経済学部)を経て、1941年12月、東京商科大学(現・一橋大学)繰り上げ卒業(井藤半彌ゼミ)。卒業論文は「国際租税論の基本問題」。
天城 月江(あまぎ つきえ、1918年〈大正7年〉7月29日… 天城 月江(あまぎ つきえ、1918年〈大正7年〉7月29日 - 2005年〈平成17年〉)は、元宝塚歌劇団(元雪組・星組組長)の人物である。本名は古家 三保子。静岡県浜松市出身。宝塚歌劇団時代の公称身長は166cm。宝塚歌劇団時代の愛称はスロちゃん。宝塚歌劇団24期生。 1934年、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入学し、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団。当時は学校と劇団は一体で、入学イコール入団であった。宝塚入団時の成績は90人中7位。初舞台は1935年である。 1950年 - 1951年、雪組組長。 1953年 - 1969年、星組組長。 1978年、宝塚歌劇団退団。 2014年、設立された『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂入り。
杉浦 睦夫(すぎうら むつお、1918年3月13日 - 19… 杉浦 睦夫(すぎうら むつお、1918年3月13日 - 1986年8月26日)は、日本で初めて胃カメラを開発した技術者である。 静岡県浜松市生まれ。1938年4月にオリンパス光学工業株式会社に入社。35ミリカメラの開発などに取り組む。 1949年7月、東京大学付属病院小石川分院の外科医、宇治達郎が勤務先のオリンパス光学工業に相談に来て、杉浦がその対応にあたった。胃の中の写真を撮る「胃カメラ」を開発したいが可能かどうか尋ねられたところ、「光があり、レンズがあり、フィルムがあればたとえカメラがどこにあっても撮影は出来る」という内容にて回答したという。当時は胃の病気の診断を、レントゲンか胃鏡で実施していたが、レントゲンでは胃の内壁まではわからず、胃鏡では診断できる者が少ない上、確認しづらい部分があることや患者に与える苦痛も大きかったという状況であった。
梅村 魁(うめむら はじめ、1918年3月5日 - 1995… 梅村 魁(うめむら はじめ、1918年3月5日 - 1995年1月31日)は、日本の建築構造工学者。建築構造の研究および東京大学、芝浦工業大学で後進の育成にあたる。日本コンクリート工学会第8代会長(1978年-1980年5月)をつとめ、1983年5月名誉会員となる。工学博士。東京大学名誉教授。1988年日本建築学会大賞受賞。 1970年から1972年、日本建築学会関東支部 第12代歴代支部長、1979年から1981年日本建築学会 会長、1993年から1995年一般社団法人 日本免震構造協会 初代会長を歴任する。 東京出身。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て[要出典]、1941年、東京帝国大学工学部建築学科卒業、そのまま武藤清研究室の大学院学生になった。
長持 栄吉(ながもち えいきち、1918年1月1日 - 20… 長持 栄吉(ながもち えいきち、1918年1月1日 - 2000年6月16日)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。
寺田 登(てらだ のぼる、1917年(大正6年)11月25日… 寺田 登(てらだ のぼる、1917年(大正6年)11月25日 - 1986年(昭和61年)9月26日)は、日本の水泳選手。静岡県磐田郡福島村中島(現磐田市福田中島)出身。慶應義塾大学出身。1936年ベルリンオリンピック1500m自由形で金メダルを獲得した。 静岡見付中(現在の静岡県立磐田南高等学校)から慶應義塾大学に進学。1936年ベルリンオリンピック競泳男子1500m自由形に出場し金メダルを獲得した。引退後は慶應義塾大学水泳部監督などの要職を歴任した。なお、結婚後は伊藤姓を名乗った。1986年、68歳で没した。 水泳選手には珍しい、筋肉質のずんぐりした体形であった。小学校時代に見にいった水泳大会で、人数が足りないからと飛び入り出場し1位になったのが縁で競泳と出会う。
遠藤 忠二郎(えんどう ちゅうじろう、1917年9月20日 … 遠藤 忠二郎(えんどう ちゅうじろう、1917年9月20日 - 戦死)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手、外野手。 浜松一中(現・静岡県立浜松北高等学校)から早稲田大学に進学。1936年に早大を中退して、大東京の結成に参加。投手で入団したが、当時の大東京軍は弱小球団かつ選手不足だったため、野手との二刀流で試合に出場する事となった。1936年秋季シーズン、大東京は5勝21敗2引き分け(うち16連敗〈1リーグ時代の最多連敗記録〉がある)と悲惨な成績だったが、遠藤はエースとして活躍。4勝5敗、防御率3.03とチームの勝ち頭の成績を残した(このシーズンの大東京の投手では、他に桜井七之助しか勝ち星を挙げた投手はいなかった)。
江川 友治(えがわ ともじ、1917年9月2日 - 2012… 江川 友治(えがわ ともじ、1917年9月2日 - 2012年8月8日)は、日本の土壌学者。元農林水産省農業技術研究所長・明治大学教授。日本の畑土壌の改善に関わる研究に従事した。 現在の静岡市清水区に生まれる。静岡県立静岡中学校に学ぶ。1941年、東京帝国大学農学部農芸科学科卒業。同年4月、農林水産省農事試験場助手、三井進午研究室に配属。1942年2月、農事試験場技手となった後、同年4月、臨時召集された。福知山連隊、中国保定、武昌、鹿児島の知覧・万世特攻隊基地、東京の立川、大阪府の貝塚飛行場と転戦・移動し、1945年8月、敗戦、復員した。 1946年4月、復職。同年9月、農事試験場勤務、1947年、農事試験場土壌肥料部、1950年4月、農業技術研究所化学部土壌第1科土壌化学第2研究室長、1964年8月、農林水産省北海道農業試験場農芸化学部長、1973年、農林水産省農業技術研究所長。
中根 金作(なかね きんさく、1917年8月28日 - 19… 中根 金作(なかね きんさく、1917年8月28日 - 1995年3月1日)は、「昭和の小堀遠州」と称えられた日本の造園家、作庭家。
斎藤 襄治(さいとう じょうじ、1917年8月26日 - 2… 斎藤 襄治(さいとう じょうじ、1917年8月26日 - 2007年6月12日)は、日本のイギリス文学者、翻訳家、著作家。 東京高等商船学校助教授・茨城キリスト教大学教授・同学長・立正大学教授を歴任。 東京都生まれ。静岡県浜松市育ち。1943年京都帝国大学言語学科卒。東京高等商船学校助教授。 敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)民間情報教育局顧問。その後外務省勤務。日本の小説を英訳するなど文化の国際交流に尽くす。 1969年茨城キリスト教大学教授、1975年から1978年学長。1980年立正大学教授、1988年定年退任。ダートマス大学客員教授。
杉浦 重雄(すぎうら しげお、1917年(大正6年)5月10… 杉浦 重雄(すぎうら しげお、1917年(大正6年)5月10日 - 1988年(昭和63年)4月10日)は、日本の競泳選手。静岡県浜松市出身。旧制静岡見付中(現在の静岡県立磐田南高等学校)、早稲田大学専門部政治経済科卒業。1936年ベルリンオリンピック800mフリーリレー金メダリスト。
足立 誠一(あだち せいいち、1917年〈大正6年〉3月29… 足立 誠一(あだち せいいち、1917年〈大正6年〉3月29日 - 2001年〈平成13年〉8月31日)は、昭和から平成時代の政治家。静岡県浜北市長。 浜北市出身。1934年(昭和9年)県立蚕業学校卒業(現静岡県立浜松大平台高等学校)。 1960年(昭和35年)浜北市議会議員を経て、1978年(昭和53年)11月、浜北市長に当選した。以来3期務め、1990年(平成2年)11月、落選した。 2001年(平成13年)8月31日死去、84歳。死没日をもって従七位から従五位に叙される。