山田 和男(やまだ かずお、1906年1月2日 - 1985… 山田 和男(やまだ かずお、1906年1月2日 - 1985年12月15日)は、日本の英語学者。 静岡県静岡市生まれ。静岡県立静岡商業学校卒業、1927年東京外国語学校英語部貿易科卒業。京北実業学校教諭、1928年米沢高等工業学校講師、助教授、1935年東京商科大学予科講師、1938年同付属商学専門部教授、1949年一橋大学商学部教授、1969年定年退職、名誉教授。
坪内 為雄(つぼうち ためお、1906年 - 1999年) … 坪内 為雄(つぼうち ためお、1906年 - 1999年) は、日本の機械工学者。東北大学名誉教授。元日本機械学会副会長。元日本伝熱研究会会長。 静岡県三島市生まれ。第一高等学校在学中の1923年に日本メソジスト教会牛込教会で洗礼を受ける。1932年東北帝国大学工学部機械工学科卒業、東北帝国大学工学部助手。1936年東北帝国大学助教授。1945年東北帝国大学教授。1959年東北大学工学博士、日本機械学会賞受賞。1969年定年退官、東北大学名誉教授、東北学院大学教授、日本伝熱研究会会長、日本機械学会副会長。1971年日本機械学会名誉員。1976年勲二等瑞宝章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
常盤 稔(ときわ みのる、1905年〈明治38年〉 12月3… 常盤 稔(ときわ みのる、1905年〈明治38年〉 12月31日 - 1981年〈昭和56年〉4月21日)は、日本の経営者。清水銀行頭取を務めた。 静岡県出身。1923年に沼津中学校を卒業し、同年6月に岩渕銀行に入行。 1948年に清水銀行に転じ、1960年4月に取締役に就任し、1969年4月に常務、1971年4月に専務を経て、1974年8月から1979年4月までに頭取を務めた。 1981年4月21日に胃癌のために死去。75歳没。
若林 つや(わかばやし つや、1905年11月 - 1998… 若林 つや(わかばやし つや、1905年11月 - 1998年9月)は、日本のプロレタリア作家。本名、杉山 みつゑ。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
久保田 豊(くぼた ゆたか、1905年10月4日 ‐ 196… 久保田 豊(くぼた ゆたか、1905年10月4日 ‐ 1965年10月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。韮山村長(2期)。
俵 静夫(たわら しずお、1905年10月3日 - 1992… 俵 静夫(たわら しずお、1905年10月3日 - 1992年1月8日)は、日本の法学者。神戸大学名誉教授。 静岡県静岡市生まれ。京都府立第二中学校、第三高等学校、1929年、京都帝国大学法学部卒、神戸商業大学助手、神戸経済大学助教授、神戸大学法学部教授。1968年、「地方自治法」で神戸大法学博士。1969年、定年退官、名誉教授。神戸学院大学教授、1987年、退職。 地方自治が専門。1975年勲二等瑞宝章受章。
高林 敏巳(たかばやし としみ、1905年9月26日 - 1… 高林 敏巳(たかばやし としみ、1905年9月26日 - 1993年7月26日 )は、日本の経営者。三井金属鉱業社長を務めた。静岡県浜松市出身。 旧制静岡県立榛原中学校、旧制第八高等学校を経て、1928年に東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1951年に三井金属鉱業に転じ、1952年に取締役に就任し、1956年に常務を経て、1958年11月に副社長に就任し、1964年5月には社長に昇格した。1970年4月に会長に就任し、1974年5月までに務めた。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各常任理事も務めた。 1965年10月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲一等瑞宝章を受章した。
小糸 のぶ(こいと のぶ、1905年9月24日 - 1995… 小糸 のぶ(こいと のぶ、1905年9月24日 - 1995年12月13日)は、日本の小説家。 静岡県富士郡吉原町(旧・吉原市)(現・富士市)生まれ。静岡女子師範学校卒。小学校教員を経て、1941年(昭和16年)内閣情報局の国民映画脚本募集に「母子草」が一席入選し、映画化される(田坂具隆監督)。戦後1949年(昭和24年)に「おもかげ」で直木賞候補。恋愛通俗小説を書いた。
国塩 耕一郎(國塩、くにしお こういちろう、1905年(明治… 国塩 耕一郎(國塩、くにしお こういちろう、1905年(明治38年)9月6日 - 1986年(昭和61年)6月7日)は、昭和期の内務・警察官僚、実業家。最後の官選茨城県知事、日本音楽著作権協会理事長。位階は正五位。 岡山県赤磐郡(後の山陽町、現在の赤磐市)で、国塩達太の長男として生まれる。静岡県立静岡中学校、第一高等学校を卒業。1928年(昭和3年)10月、高等試験行政科試験に合格。1929年(昭和4年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し広島県属となる。 以後、地方警視・愛知県警察部保安課長を経て、1935年(昭和10年)8月、警視庁警視・保安課長に就任。警官音楽隊(警視庁音楽隊)を創設した。
富原 薫(ふはら かおる、1905年7月3日 - 1975年… 富原 薫(ふはら かおる、1905年7月3日 - 1975年1月25日)は、日本の作詞家、学校教員。『汽車ポッポ』の作詞をはじめ、多くの童謡にたずさわった。 1905年(明治38年)静岡県駿東郡御厨町(現・御殿場市)に生まれる。 県立沼津中学(旧制)を経て駿東郡高根村の高根村国民学校(現在の御殿場市立高根小学校)の教員を務める傍ら、音楽活動を行う。 1939年(昭和14年)に作詞した『兵隊さんの汽車』は大ヒットした。戦時色の強い歌詞は戦後改められ『汽車ポッポ』として現在まで歌い継がれている。 富原は学校の教員を務めていたこともあり、御殿場や沼津など駿東地区の小中学校の校歌を多く手掛けている。
田宮 義雄(たみや よしお、1905年(明治38年)5月15… 田宮 義雄(たみや よしお、1905年(明治38年)5月15日 - 1988年(昭和63年)11月2日)は、模型メーカータミヤの創業者。
黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989… 黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989年6月14日)は、日本のジャーナリスト、社会運動家。 静岡県下田市出身。明治大学政治経済学科中退、明治大学新聞高等研究科修了。 1938年中央公論社入社、42年南方派遣、のち「中央公論」編集長となり、44年横浜事件及び改造社、中央公論社解散に遭遇。 戦後は原水協事務局長、基地問題文化人懇談会事務局長、日本平和委員会常任理事などを務め、晩年は東京都中野区の教育委員準公選運動などに関わった。
神谷慶治(かみや けいじ、1905年4月2日 - 1998年… 神谷慶治(かみや けいじ、1905年4月2日 - 1998年10月26日)は、日本の農業経済学者。東京大学名誉教授。 静岡県掛川市生まれ。1931年東京帝国大学農学部農業経済学科卒、1932年同副手となり、1935年講師、1939年助教授、1948年教授となり、東京大学農学部教授、1962年農学部長を務め、1966年定年退官、名誉教授、東京農業大学教授、1976年退職。そのほか、1951年農林省農業綜合研究所長。1974-1979年大日本報徳社社長。日本農業経済学会会長、日本農村更生協会会長を務めた。日本学術会議会員。1960年「日本農業機械化の分析」(共編)で日経・経済図書文化賞、1968年日本農学賞受賞。
丹羽 廉芳(にわ れんぽう、1905年(明治38年)2月23… 丹羽 廉芳(にわ れんぽう、1905年(明治38年)2月23日 - 1993年(平成5年)9月7日)は日本の僧。曹洞宗大本山永平寺第77世貫首。曹洞宗管長。道号法諱「瑞岳廉芳」、慈光圓海禅師。
川上 喜久子(かわかみ きくこ、1904年(明治37年)11… 川上 喜久子(かわかみ きくこ、1904年(明治37年)11月23日 - 1985年(昭和60年)12月4日)は、日本の小説家。旧姓は篠田。
百合山 羽公(ゆりやま うこう 、1904年9月21日 - … 百合山 羽公(ゆりやま うこう 、1904年9月21日 - 1991年10月22日)は、俳人。本名・又三郎。静岡県浜松生。県立浜松商業学校卒業。在学中、高浜虚子に会い、その紹介で池内たけしに師事。1923年、上京し「ホトトギス」の句座に参加、同時に池内が選者を務めていた「破魔弓」(「馬酔木」の前身)に入会。1929年、24歳で「ホトトギス」巻頭。1933年、水原秋桜子の「ホトトギス」離反に従い「馬酔木」に拠り、「馬酔木」第一期同人となる。1945年、浜松の住居を戦災で失い、同県引佐郡細江町の父の生家に疎開。1946年「あやめ」創刊。1950年「あやめ」を「海坂」(うなさか)に改題、20年来の句友である相生垣瓜人と共宰する。
池谷 敏雄(いけや としお、1904年9月 - 1990年1… 池谷 敏雄(いけや としお、1904年9月 - 1990年12月19日)は、英文学者。 静岡県浜松市生まれ。1927年広島高等師範学校(現・広島大学)英文科卒、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川高等学校)教諭、東京都立日比谷高等学校教諭、桜美林大学教授。1985年中京大学教授。ジョン・バニヤン『天路歴程』を翻訳した。
有泉 龍之助(ありいずみ たつのすけ、1904年〈明治37年… 有泉 龍之助(ありいずみ たつのすけ、1904年〈明治37年〉4月16日 - 1945年〈昭和20年〉8月31日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。最終階級は海軍大佐。 東京都出身。旧幕臣で日本海海戦に参戦した海軍主計中佐・有泉庚午の長男として生まれる。静岡中学校を経て、1923年(大正12年)7月、海軍兵学校(51期)を卒業。1924年(大正13年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科、海軍潜水学校(乙種学生)で学ぶ。 1931年(昭和6年)4月、「呂号第六十四潜水艦」乗組となり、装甲巡洋艦「浅間」分隊長、「伊号第五十一潜水艦」「伊号第百五十六潜水艦」「伊号第七十潜水艦」の各水雷長を経て、1937年(昭和12年)7月、海軍大学校(甲種35期)を卒業。
稲葉 蛟児(いなば こうじ、1904年2月11日 -1989… 稲葉 蛟児(いなば こうじ、1904年2月11日 -1989年9月2日)は、日本の映画監督、脚本家である。出生名稲葉 義信(いなば よしのぶ)、戸籍上は母姓の上田 義信(うえだ よしのぶ)であった。脚本家としては物部 晋太郎(もののべ しんたろう)等、監督としては一時稲葉 大三郎(いなば だいざぶろう)を名乗った。昭和初年のマキノ・プロダクションの新人監督であり、同社の解散後は永年インディペンデント畑を歩き、トーキー時代になってもサイレント映画の娯楽剣戟を手がけ続けた。 1904年(明治37年)2月11日、静岡県清水市に生まれる。旧制静岡県立静岡中学校(現在の静岡県立静岡高等学校)を卒業、ムービーカメラの研究を目指して東亜キネマ甲陽撮影所の現像部に入社した。
清水 みのる(しみず みのる、本名:清水 實、1903年(明… 清水 みのる(しみず みのる、本名:清水 實、1903年(明治36年)9月11日 - 1979年(昭和54年)12月10日)は、日本の作詞家。主に昭和初期から中期にかけて活躍した。 静岡県浜名郡伊佐見村(現在の浜松市中央区伊左地町)生まれ。少年期は水泳に熱中した。 旧制浜松中学(現・浜松北高校)を経て、京都の予備校へ数ヵ月通った後、山陽中学校(現・山陽高等学校)への編入を経て、立教大学文学部英文学科卒。立教大学では水泳部に入り、主将として、短距離自由形で全日本ベスト5に入る好記録をマークした。詩人のサトウハチローは立教の先輩であり、レースが始まると必ず神宮プールの玄関に来てみのるを呼び出したという。
木村 恵吾(きむら けいご、1903年6月19日 - 198… 木村 恵吾(きむら けいご、1903年6月19日 - 1986年1月20日)は、日本の映画監督、脚本家である。サイレント映画の時代に脚本家、ついで監督としてデビューした。1940年(昭和15年)にオペレッタ映画『狸御殿』を創出、『オペレッタ狸御殿』(2005年)につながる源流をつくった。 1903年(明治36年)6月19日、静岡県三島市に生まれる。 早稲田大学附属早稲田高等学院(現在の早稲田大学高等学院)の2年次終了で日活大将軍撮影所に入社、1926年(大正15年)、オリジナル脚本が採用され、伊奈精一監督、根岸東一郎主演のサイレント映画『神田の下宿』で脚本家としてデビューした。同年、オリジナル脚本第2作『都の西北』が映画化され、伊奈監督、中野英治主演で製作されたが、これには俳優時代ののちの映画監督渡辺邦男が出演している。
大村 純毅(おおむら すみたけ、1903年(明治36年)4月… 大村 純毅(おおむら すみたけ、1903年(明治36年)4月11日 - 1974年(昭和49年)4月17日)は、日本の昭和時代の華族、陸軍軍人、政治家(第5代〜第8代大村市長)。大村家第33代当主。大村市名誉市民。 父大村純英が陸軍軍人として赴任中の静岡県静岡市で誕生、ほどなく東京へ移る。 学習院初等科で院長であった乃木希典の薫陶を受け、学習院中等科を経て陸軍中央幼年学校へ入り、1924年(大正13年)7月に陸軍士官学校本科卒業(第36期)。同年10月に砲兵少尉任官。以後、砲兵部隊中心に軍歴を重ねる。最終的には野戦重砲第八連隊付を経て中佐に昇進した。1933年(昭和8年)6月、父の死没に伴い伯爵を襲爵。
窪川 鶴次郎(くぼかわ つるじろう、1903年2月25日 -… 窪川 鶴次郎(くぼかわ つるじろう、1903年2月25日 - 1974年6月15日)は、日本の文芸評論家。 静岡県菊川市出身。掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)から金沢の第四高等学校に進学し、中野重治と知り合う。そのために、理系ではあったが文学に熱中するようになる。文学への欲求のために高校を中退して上京し、貯金局に勤務する。大学進学のために上京した中野と再び文学活動をはじめ、堀辰雄たちも含めて同人誌『驢馬』のメンバーとなる。 そのころ知り合った佐多稲子と1927年に結婚。稲子は彼や中野のすすめで小説「キャラメル工場から」を発表し、小説家窪川稲子としてプロレタリア文学の新進作家として登場するが、鶴次郎はなかなか日の目を見なかった。
蜂須賀 正氏(はちすか まさうじ、1903年〈明治36年〉2… 蜂須賀 正氏(はちすか まさうじ、1903年〈明治36年〉2月15日 - 1953年〈昭和28年〉5月14日)は、日本の鳥類学者、華族(侯爵)、貴族院議員、探検家、飛行家。絶滅鳥ドードー研究の権威として知られた他、沖縄本島と宮古島との間に引かれた生物地理学上の線である蜂須賀線に名をとどめている。徳川家斉の玄孫。 旧徳島藩藩主・蜂須賀家の当主。蜂須賀小六から数えて第18代目にあたる。 1903年(明治36年)2月15日、東京で誕生した。父・蜂須賀正韶は侯爵、貴族院副議長。母・筆子は徳川慶喜の四女。長姉・年子はデザイナー。 学習院初等科に入った頃から生物に著しい関心を示し、先輩の黒田長禮に出会ってから鳥類学に志す。
長田 恒雄(おさだ つねお、1902年(明治35年)12月1… 長田 恒雄(おさだ つねお、1902年(明治35年)12月17日 - 1977年(昭和52年)3月30日)は、日本の詩人、作詞家。9歳で得度したが、詩人として仏教と向き合う道を選び多くの仏教詩を遺した。静岡県出身。 1902年(明治35年)、静岡県清水市、真宗大谷派の寺院に生まれる。静岡県立静岡中学校に学ぶ。東洋大学中退。1925年(大正14年)、「詩洋」の同人となる。1926年(大正15年)、三省堂勤務。1929年(昭和4年)、第1詩集「青魚集」を刊行。のちに北園克衛らを知り、モダニズムに近づく。1936年(昭和11年)、雑誌「科学ペン」(三省堂)の編集・発行を担当。戦後「現代詩研究」を創刊、主宰した。
浦辺 粂子(うらべ くめこ、1902年10月5日 - 198… 浦辺 粂子(うらべ くめこ、1902年10月5日 - 1989年10月26日)は日本の女優。本名は木村 くめ。
山崎 釼二(やまざき けんじ、1902年9月19日 - 19… 山崎 釼二(やまざき けんじ、1902年9月19日 - 1958年1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 静岡県駿東郡御厨町(現:御殿場市)出身。1915年御殿場実業学校卒。卒業後は満洲に渡り、満鉄に入るが、社会主義に関心を寄せ、満鉄を退職し、帰国した。帰国後は東京帝国大学に聴講生として通い、帰郷。以後、農民運動の指導者になる。この間、看護婦の藤原道子と結婚した。 その後、労働農民党、社会大衆党に入り。沼津市議、静岡県議を経て。1936年の第19回衆議院議員総選挙において静岡2区(当時)から社会大衆党で立候補して初当選する。翌年の第20回衆議院議員総選挙でも再選。1942年の第21回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4… 児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4月22日)は、日本の哲学者、歌人。東洋大学名誉教授。 静岡県浜松市出身。1928年東京帝国大学文学部哲学科卒。数理哲学を専攻し,1952年東洋大学教授、同東洋学研究所長、名誉教授。佐佐木信綱に師事し『心の花』に所属、のち1930年「短歌表現」を創刊して口語自由律の作風をうちたてる。戦後は「文芸心」を主宰した。
北山 淳友(きたやま じゅんゆう、1902年(明治35年)1… 北山 淳友(きたやま じゅんゆう、1902年(明治35年)1月29日 - 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の仏教哲学者。マールブルク大学名誉教授。Ph.D(ハイデルベルク大学)。 静岡県志太郡焼津町(現・焼津市)出身。静岡県立静岡中学校に学ぶ。1923年(大正12年)、宗教大学(大正大学の前身校の一つ)哲学科卒業。1924年(大正13年)、浄土宗より欧州留学を命じられ、ドイツのフライブルク大学に入学、エトムント・フッサールにインド哲学、サンスクリットをエルンスト・ロイマンに学ぶ。1927年(昭和2年)にハイデルベルク大学に移り、哲学をハインリッヒ・リッケルト、カール・ヤスパースに、インド哲学、チベット学をマックス・ワレーザーに学ぶ。
長島 銀蔵(ながしま ぎんぞう、旧字体: 長島 銀藏、190… 長島 銀蔵(ながしま ぎんぞう、旧字体: 長島 銀藏、1901年〈明治34年〉11月25日 - 1984年〈昭和59年〉9月8日)は、日本の実業家、政治家。貴族院議員、参議院議員。 現在の静岡県富士宮市出身。長島化学製品所を経営し、清水栄寿座、長島商事、横浜瓦斯化学工業の各社長、日本海獣化学工業代表取締役、清水商工会議所議員などを務めた。 1946年(昭和21年)5月、静岡県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同月18日に就任し研究会に所属した。翌1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在籍した。同年4月に行われた第1回参議院議員通常選挙において、静岡地方区から無所属で立候補したが落選した。
大木 正夫(おおき まさお、1901年〈明治34年〉10月3… 大木 正夫(おおき まさお、1901年〈明治34年〉10月3日 - 1971年〈昭和46年〉4月18日)は、日本の作曲家。 静岡県磐田郡中泉町(現磐田市)に生まれる。幼少期より尺八をたしなみ、県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)から大阪高等工業学校(現・大阪大学)応用化学科を卒業。丸善工場に勤務するが、まもなく退職して長野県上田高女(現・長野県上田染谷丘高等学校)で教鞭をとる。やがて退職して上京し、石川義一に師事していたこともあったが、大半が独学で作曲を学んでいる。帝国音楽学校作曲科主任教授、作曲家連盟委員音楽文化協会常任理事、日本現代音楽協会の委員等に就いた。1962年、ソビエト連邦作曲家同盟の招きで間宮芳生と共に訪ソ。
気賀 重躬(けが しげみ、1901年(明治34年)8月8日 … 気賀 重躬(けが しげみ、1901年(明治34年)8月8日 - 1958年(昭和33年)3月24日)は、日本のキリスト教神学者、牧師、青山学院大学学長。 1901年8月8日、静岡県引佐郡気賀町に、気賀定吉・すみ子の長男として生まれた。気賀小学校、静岡県立浜松第一中学校で学んだ。1916年1月7日に日本基督教団浜松教会にて鵜飼捨吉牧師より洗礼を受け、1919年4月、青山学院神学部に入学。1923年5月、第1回全国学生英語演説大会に青山学院代表として出場し、第1位となった。 1924年3月に青山学院を卒業し、同年4月から本郷中央教会の副牧師となる。1925年4月から日本メソヂスト小樽教会の牧師、1927年4月から日本メソヂスト浅草教会の牧師、1928年4月から日本メソヂスト銀座教会の副牧師を務めた後、同年同月より青山学院神学部の講師となった。
明石 海人 (あかし かいじん、1901年(明治34年)7月… 明石 海人 (あかし かいじん、1901年(明治34年)7月5日 - 1939年(昭和14年)6月9日) は、昭和初期に活動した日本の歌人である。本名は野田勝太郎。「もし長寿を保ったなら、昭和時代を代表する大歌人となったろう」とは大岡信の言である。 1901年 (明治34年) 7月5日、沼津市に三男として生まれた。2人の兄と1人の妹がいる。もう1人弟がいたが出生後間もなく亡くなっている。生家は経済的に恵まれており、沼津商業学校を終えると静岡師範学校へ入り教職の道に進み、1920年 (大正9年) に師範学校を卒業後、小学校教員となった。 1924年、同僚の麻子と結婚、翌1925年 (大正14年) には長女の瑞穂、続いて次女の和子をもうけた。
竹山 祐太郎(たけやま ゆうたろう、1901年4月25日 -… 竹山 祐太郎(たけやま ゆうたろう、1901年4月25日 - 1982年7月7日)は、昭和期の政治家。位階は正三位。元建設大臣・静岡県知事。長男は元参議院議員の竹山裕。 静岡県磐田郡見付町(現・磐田市)に、農業・竹山宗一郎の長男として生まれる。中泉農業学校(現・静岡県立磐田農業高等学校)を経て、1922年東京帝国大学農学部実科(1935年東京高等農林学校として独立、現・東京農工大学)を卒業。農商務省に入省する。農林技官として、1930年代の農山漁村経済更生運動(いわゆる“自力更生運動”)に取り組み、全国各地を回った。1941年からは東京高等農林学校教授を兼任した。 1945年農林省を退官し、全国農業会指導部長となる。
狩野 敏(かの びん、1901年(明治34年)4月1日 - … 狩野 敏(かの びん、1901年(明治34年)4月1日 - 1981年(昭和56年)10月8日)は、日本の右翼活動家。元拓殖大学理事長。狩野を「かのう」と読むものもある。 1919年(大正8年)、静岡県立静岡中学校卒業。1920年(大正9年)、拓殖大学入学。1922年(大正11年)10月、「魂の会」設立。1924年(大正13年)3月、拓殖大学支那語科卒業。同年、日本新聞入社。1925年(大正14年)、静岡市でカフェー経営(〜1930年(昭和5年)4月)。1925年(大正14年)、静岡聖刃社結成。 1930年(昭和5年)、大川周明の思想に共感し、行地社本部で専任事務、機関誌月刊「日本」の編集発行にあたり、その腹心的役割を果たす。
野口 三四郎(のぐち さんしろう、1901年〈明治34年〉-… 野口 三四郎(のぐち さんしろう、1901年〈明治34年〉- 1937年〈昭和12年〉2月22日)は日本の人形作家。静岡県三島市(旧三島町)大中島地区出身。張り子製を中心とする人形「三四呂人形」(みよろにんぎょう)を製作した早逝の作家として知られる。作品の一部は三島市が指定する有形文化財に指定されている。 1901年(明治34年)に当時の静岡県田方郡三島町大中島の質屋の家に生まれる。名前の由来は生年の「明治三十四年」による。静岡県立韮山中学校(現・静岡県立韮山高等学校)に入学後、美術部に入り絵画の技術を身につける。 卒業後は写真技術を身につけ、1928年(昭和3年)頃に東京の三越百貨店に写真技師として就職。
杉山 昌作(すぎやま しょうさく、1900年(明治33年)1… 杉山 昌作(すぎやま しょうさく、1900年(明治33年)10月18日 – 1994年(平成6年)3月1日)は、昭和期の大蔵官僚、政治家。参議院議員(2期)、専売局長官。 静岡県静岡市出身。小樽高等商業学校を卒業。1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格。1925年(大正14年)京都帝国大学経済学部を卒業した。同年、大蔵省に入省し専売局書記となる。 以後、専売局参事、大蔵省調査官、専売局長官などを歴任。その他、東北興業(のち東北開発)副総裁、専売事業協会会長、全国たばこ耕作組合中央会理事などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して初当選し、1956年(昭和31年)7月の第4回通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
松田 二郎(まつだ じろう、1900年7月30日 - 198… 松田 二郎(まつだ じろう、1900年7月30日 - 1988年4月3日)は最高裁判所判事。静岡県出身。
渡辺 清彦(わたなべ きよひこ、1900年4月5日 - 20… 渡辺 清彦(わたなべ きよひこ、1900年4月5日 - 2000年2月7日)は日本の植物学者である。第二次世界大戦中に日本占領下のマレーシアのペナン植物園の園長を務めた。 静岡県森町に生まれた。父親は小学校長である。旧制掛川中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学の植物学科で学んだ。新設された旧制広島高等学校の教授を務め、1941年に陸軍司政官として日本が占領したマレーシアのペナン植物園の園長として派遣された。戦後は静岡大学を経て、千葉大学の教授となり、定年まで勤め、和洋女子大学の教授も務めた。1942年から1945年のペナン植物園の園長をしていたときに書き溜めた植物の図2200枚にE・J・H・コーナー(E. J. H. Corner; 『思い出の昭南博物館』の著者)らが説明をつけた『図説 熱帯植物集成』などを出版した。
橋爪 健(はしづめ けん、1900年2月20日 - 1964… 橋爪 健(はしづめ けん、1900年2月20日 - 1964年8月20日)は、日本の詩人・評論家・小説家。 長野県東筑摩郡松本町(現松本市)出身。静岡県旧制沼津中学(静岡県立沼津東高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学文科中退。1922年第1詩集「合掌の春」を刊行、ダダイスムの影響を受け1924年『ダムダム』創刊に参加。1927年『文藝公論』を創刊、主宰した。戦後は児童読物などを書いた。兄に橋爪恵、弟に橋爪克巳(1903-83)がいる。
池谷 半二郎(いけたに はんじろう、1900年(明治33年)… 池谷 半二郎(いけたに はんじろう、1900年(明治33年)1月25日 - 1984年(昭和59年)3月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 静岡県出身。池谷幸作の二男として生まれる。静岡中学校(現静岡県立静岡高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、工兵少尉に任官し工兵第9大隊付となる。1924年(大正13年)12月、陸軍砲工学校高等科(30期)を卒業し、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を優等で卒業した。 1930年(昭和5年)8月、工兵大尉に昇進。1932年(昭和7年)2月、参謀本部員(船舶班)に就任。
松尾 邦之助(まつお くにのすけ、1899年(明治32年)1… 松尾 邦之助(まつお くにのすけ、1899年(明治32年)11月15日 - 1975年(昭和50年)4月3日)は、日本の新聞記者、評論家、翻訳家。 反権力・個人主義的志向を持つ人物であった。1940年のナチス・ドイツの占領まで長くパリに住み、日仏の文化交流に貢献した。 松尾嘉平・きみの次男として、静岡県引佐郡引佐町金指(現・浜松市北区引佐町金指)に生まれた。家は裕福な呉服商で、嘉平ときみの間には邦之助を含めて三男三女がいた。金崎の小学校、気賀(現・浜松市北区細江町気賀)の高等小学校を経て静岡県立浜松中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)を了え、親の希望の旧制高等学校でなく、東京外国語学校フランス語文科に学び、1922年、逓信省の嘱託となり、その秋、嘉平の渋々の承諾を得て渡仏し、パリに住んだ。
水野 成夫(みずの しげお、1899年11月13日 - 19… 水野 成夫(みずの しげお、1899年11月13日 - 1972年5月4日)は、日本の実業家。フジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)初代社長。元日経連常任理事・経済団体連合会理事・経済同友会幹事。
間宮 精一(まみや せいいち、1899年(明治32年)1月1… 間宮 精一(まみや せいいち、1899年(明治32年)1月17日 - 1989年(昭和64年)1月6日)は日本の発明家、カメラ設計者で、マミヤ光機製作所(後マミヤ光機株式会社を経て現マミヤ・オーピー)の創業者。 父は事業家兼発明家の間宮勝三郎で静岡県伊豆の国市大仁で木屋呉服店等様々なビジネスを営んでいた。木屋は「まみや宝くじたばこ店」(木屋間宮商店)として間宮勝三郎の末裔で鈴木貫太郎総理の縁戚者[要出典]により営業が続いている[いつまで?]。発明家でもあり生涯に計算機や金庫で30件程特許や実用新案を登録している。1919年(大正8年)間宮式金庫を発明し、同年間宮堂を創業しその事業に専念するようになった。
田畑 政治(たばた まさじ、1898年12月1日 - 198… 田畑 政治(たばた まさじ、1898年12月1日 - 1984年8月25日)は、日本の教育家、新聞記者、水泳指導者。静岡県浜名郡浜松町成子(現・浜松市中央区成子町)出身。 長きに渡り日本水泳連盟会長を務めた他、1964年東京オリンピックの招致活動におけるキーマンの一人として知られる。 田畑は1898年(明治31年)12月1日、浜名郡浜松町成子(現・浜松市中央区成子町)にて生まれた。実家は造り酒屋であった。 旧制静岡縣立浜松中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、1924年(大正13年)に朝日新聞社(東京朝日新聞)に入社する。
榊原 千代(さかきばら ちよ、1898年〈明治31年〉7月1… 榊原 千代(さかきばら ちよ、1898年〈明治31年〉7月15日 – 1987年〈昭和62年〉4月28日)は、日本の雑誌記者、教育者、政治家。衆議院議員(2期)、女性初の代議士の一人。旧姓は間野。 現在の静岡県三島市に生まれる。 1917年(大正6年)、フェリス和英女学校を卒業。1919年(大正8年)、青山女学院英文専門科本科卒業。同年、雑誌「婦人の友」の記者となる。自由学園教授などを経て、1927年(昭和2年)に経済学者の榊原巌と結婚。結婚後、夫とともにドイツとイギリスに留学する。マルブルグ大学(ドイツ)、セリオーク大学(イギリス)等で聴講する。 帰国後、夫・巌が福島経済専門学校(現福島大学経済経営学類)教授に就任したことにより福島県に移り、福島高等女学校で教鞭を執る。
勝沼 六郎(かつぬま ろくろう、 1898年(明治31年)6… 勝沼 六郎(かつぬま ろくろう、 1898年(明治31年)6月26日 - 1989年(平成元年)9月3日)は、日本の医師。内科医。国立療養所中部病院長。医学博士。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校を経て、1927年(昭和2年)、長崎医科大学卒業、助手。台湾総督府技師、愛知・西尾病院長。1933年(昭和8年)、名古屋帝国大学講師、1934年(昭和9年)、欧米出張。1938年(昭和13年)、勝沼病院長。1947年(昭和22年)4月、国立療養所大府荘長。1966年(昭和41年)4月、国立療養所中部病院長(初代)。1969年(昭和44年)、定年退官。
外岡 茂十郎(とのおか もじゅうろう、1898年3月25日 … 外岡 茂十郎(とのおか もじゅうろう、1898年3月25日 - 1986年8月27日)は、日本の法学者。学位は法学博士。静岡県出身。 静岡県賀茂郡三坂村(現在の賀茂郡南伊豆町)入間に生まれる。賀茂郡立中学豆陽学校から早稲田大学に進学し、1925年に早稲田大学教授に就任。 1942年から1964年まで早稲田大学野球部部長を務める。あわせて東京六大学野球連盟理事長も務め、1943年には出陣学徒壮行早慶戦を敢行している。 戦後はオール早慶戦の開催、1946年春の六大学野球再開を実現させ、12月に日本学生野球協会が結成されると副会長として30年間アマチュア野球の発展に尽力した。その後は中京大学へと移り、1966年の同大学法学部の開設に関わり、1975年まで法学部長を務めた。
内田 正練(うちだ まさよし、1898年1月7日 - 194… 内田 正練(うちだ まさよし、1898年1月7日 - 1945年2月14日)は、日本の水泳選手。オリンピックに出場した日本最初の水泳選手の一人であり、日本でのクロール泳法の普及に尽力した。 静岡県浜松市に生まれる。内田家は浜松有数の名家で、父が産業家、母が産婦人科開業医師で、5人兄弟の二男であった。兄の内田千尋(東京帝国大学卒)が水府流太田派古式泳法の師範という環境で、内田も幼少時より水練に親しみ、古式泳法を習得した。 旧制浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)に入学すると、浜松中水泳部に属して水泳を研鑽した。内田は部員にとって憧れの存在であり、1学年後輩の田畑政治も内田に憧れた1人であった。
榎田 竹林(えのきだ ちくりん、1898年(明治31年) -… 榎田 竹林(えのきだ ちくりん、1898年(明治31年) - 1974年(昭和49年))は、川柳作家。本名は圭太良(または桂太郎)。静岡市出身。 1916年(大正5年)3月、静岡県立静岡中学校卒業後、教職に就き、のち上京。川柳栗吟社同人として活躍。1923年(大正12年)に帰省、静岡川柳社を興す。以後門弟の育成に努め、1966年(昭和41年)4月、静岡県川柳協会会長。その間、静岡刑務所篤志面接委員、静岡新聞、NHKの文芸選者などを務め、静岡市教育文化功労者、静岡県文化奨励賞を受賞。 静岡市登呂公園に句碑が建ち、後に静岡市常磐公園に移され現在に至っている。夫人は川柳作家の榎田柳葉女(りゅうようじょ)。