岩田 次男(いわた つぎお、1915年11月6日 - 没年不… 岩田 次男(いわた つぎお、1915年11月6日 - 没年不明)は、愛知県出身のプロ野球選手。 名古屋市立第三商業学校(現・名古屋市立桜台高等学校)から早稲田大学(中退)を経て、1936年名古屋軍に入団。 1936年9月23日、甲子園球場で行われた名古屋金鯱軍戦にて内藤幸三からプロ野球初の満塁本塁打を放った。 1937年秋季東京セネタース、1941年朝日軍に移籍。1942年を最後に兵役のため引退。 戦後はプロ野球に復帰せず、社会人野球の東邦ガスで選手兼任監督として活動した。
林 清一(はやし せいいち、1915年10月31日 - 19… 林 清一(はやし せいいち、1915年10月31日 - 1990年5月23日)は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。
岡谷 康治(おかや やすはる、1915年9月9日 - 199… 岡谷 康治(おかや やすはる、1915年9月9日 - 1996年3月21日)は、日本の実業家。岡谷鋼機創業家十二代目当主で、同社代表取締役社長や、中部経済同友会代表幹事、名古屋商工会議所副会頭等を務めた。 愛知県名古屋市出身。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)を経て、1937年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。1941年に東京商科大学(現一橋大学)卒業後、鉄鋼統制会に入る。 1945年鉄鋼統制会を退職し、岡谷鋼機取締役に就任。1948年常務。1958年社長。1982年からはキタン会会長も務め、1990年から岡谷鋼機会長となった。 中部経済同友会代表幹事、名古屋商工会議所副会頭、愛知県日韓協会副会長などを歴任し、大隈鐵工所取締役、中部日本放送取締役、旭精機工業監査役、愛知時計電機監査役、名古屋鉄道監査役、東邦瓦斯監査役を兼務した。
尾之内 由紀夫(おのうち ゆきお、1915年8月18日 - … 尾之内 由紀夫(おのうち ゆきお、1915年8月18日 - 2009年2月12日)は、日本の土木工学者。1967年に建設事務次官を務めた。 愛知県知多市八幡出身。愛知一中を経て、1939年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、内務省、人事院で務め、1963年、建設省の道路局長となり、1966年から技監および1967年より建設事務次官を務める。1970年に日本道路公団の副総裁となり、1976年に本州四国連絡橋公団の総裁となる。1975年から1976年にかけて土木学会の会長を務め、1980年から日本道路協会の会長を務めた。1987年、勲一等瑞宝章受章。 2009年2月12日に肺炎のため死去した。叙正四位。
美濃部 正(みのべ ただし、1915年〈大正4年〉7月21日… 美濃部 正(みのべ ただし、1915年〈大正4年〉7月21日 - 1997年〈平成9年〉6月12日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵64期。最終階級は海軍少佐、空将。旧姓は太田(おおた)。夜間戦闘機部隊「芙蓉部隊」指揮官として、全軍特攻方針の軍上層部に抵抗し、特攻を拒否したとして紹介されることが多いが、特攻の精神そのものは否定しておらず、むしろ特攻への確固たる信念を持つゆえに現状の特攻作戦を邪道と見ており、これに賛同せず難易度が高い夜間攻撃に特化した部隊を造り上げた。決定的な戦機到来の暁には美濃部自身が先頭に立って特攻をかける覚悟であった。 1915年7月21日、愛知県高岡村(現豊田市)で自作農の太田家に六人兄弟の次男として生まれる。
森 弘太郎(もり こうたろう、1915年5月29日 - 19… 森 弘太郎(もり こうたろう、1915年5月29日 - 1966年9月1日)は、愛知県一宮市出身のプロ野球選手(投手)。
森 一也(もり かずや、 1915年(大正4年)4月8日 -… 森 一也(もり かずや、 1915年(大正4年)4月8日 - 1998年(平成10年)2月1日)は、コロムビア専属の作曲家・音楽評論家(懐メロ解説)。愛知県出身。弟にアニメーション評論で知られる映画評論家の森卓也。 幼少の頃から詩人・西條八十の大ファンで、西條八十作の童話に親しみ、毎晩母親から読み聞かせてもらわなければ寝られぬほどであったという。昭和7年4月に愛知県の一宮中学校から明治大学附属中学校に編入、翌8年4月に家事都合で退学する。また、明治大学講堂で開かれた山田耕筰の音楽講座に出席するなど音楽についての研究に没頭し、その後、東京音楽学校(現:東京藝術大学)を卒業。一時、ビクターコンサートビューローに籍を置き、戦時中は地元名古屋で音楽教師として活躍。
江口 行男(えぐち ゆきお、1915年4月4日 - 没年不明… 江口 行男(えぐち ゆきお、1915年4月4日 - 没年不明)は、愛知県出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは一塁手、二塁手。
荻 太郎(おぎ たろう、1915年2月28日 - 2009年… 荻 太郎(おぎ たろう、1915年2月28日 - 2009年9月2日)は、日本の画家、絵本作家。 愛知県北設楽郡稲武町(現・豊田市)に生まれる。ほどなくして岡崎市に移り住む。旧制岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。東京美術学校油画科入学。在学中に南薫造、猪熊弦一郎から指導を受ける。1937年、第2回新制作派協会展に初入選、以後出品を重ねる(1947年に会員となる)。1939年、東京美術学校油画科を卒業する。 1939年、東京美術学校を卒業。第4回新制作派協会展に出品し、新作家賞を受賞。1941年、第6回新制作派協会展で新作家賞受賞。1951年、第2回選抜秀作美術展。以後同展の他、日本国際美術展、現代日本美術展などにも出品した。
山田 明吉(やまだ あきよし、1915年2月21日 - 19… 山田 明吉(やまだ あきよし、1915年2月21日 - 1994年11月25日)は、日本の鉄道官僚。帝都高速度交通営団総裁を務めた。愛知県安城市出身。 1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に鉄道省に入省した。監督局事務官、東京鉄道局旅客課長を経て、1949年から1953年までに内閣官房総務課長を務めた。国鉄常務理事、関西支社長を経て、1964年に帝都高速度交通営団理事に就任し、1969年から1973年までに国鉄副総裁を務めた。 1975年に帝都高速度交通営団副総裁に就任し、1978年には総裁に昇格し、1983年からは顧問を務めた。 1987年に勲一等瑞宝章を受章した。 1994年11月25日心不全のために死去。
木村 幸吉(きむら こうきち 1915年 - 1945年)は… 木村 幸吉(きむら こうきち 1915年 - 1945年)は、日本の元アマチュア野球選手。愛知県出身。 愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)から1935年に早稲田大学に進み、野球をプレーした。ポジションは左翼手だったと伝わる。 早大卒業後応召され、1945年(正確な死没月日は不明)にフィリピンで戦死した。享年30。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
安藤 之制(あんどう ゆきのり、1915年 - 没年月日不明… 安藤 之制(あんどう ゆきのり、1915年 - 没年月日不明)は、愛知県出身の元プロ野球選手(内野手)。
古川 勝巳(ふるかわ かつみ、1914年9月21日 - 19… 古川 勝巳(ふるかわ かつみ、1914年9月21日 - 1986年7月12日)は日本ヘラルド映画代表取締役社長。本名は古川 一巳(ふるかわ かつみ)。愛知県名古屋市中区出身。父はヘラルドグループ創業者の古川為三郎。 出生地は名古屋市であったが、父の経営する古川商店の東京進出の関係で東京に住み、橋本小学校に入学する。しかし、関東大震災を機に父が東京支店を畳むことになったため、南久屋小学校(現・名古屋市立栄小学校)に転入した。1927年に愛知県惟信中学校に入学し、1931年に名古屋高等商業学校へと進んだ。1935年に同校を卒業すると同時に資生堂に入社。1939年に結婚した。1956年に父親が立ち上げたヘラルド映画の設立に参加、同社初代代表取締役社長となる。
平岩 外四(ひらいわ がいし、1914年(大正3年)8月31… 平岩 外四(ひらいわ がいし、1914年(大正3年)8月31日 - 2007年(平成19年)5月22日)は、愛知県常滑市出身の財界人、経営者。東京電力会長、第7代日本経済団体連合会(経団連)会長(在任、1990年(平成2年)12月21日 - 1994年(平成6年)5月27日)。 1987年(昭和62年)に名誉大英帝国勲章KBE受勲[要出典]。1997年(平成9年)、レジオンドヌール勲章受勲[要出典]。2006年(平成18年)秋の叙勲にて桐花大綬章を受章。 6歳で父親を亡くし、母親に育てられる。愛知県立第七中学校(現・愛知県立半田高等学校)の入学祝いに母親から夏目漱石全集を贈られる。一族から大学進学を反対されるが、母親が反対を押し切り、旧制第八高等学校を経て東京帝国大学法学部法律学科へと進学させた。
杉浦 清(すぎうら きよし、1914年7月20日 - 198… 杉浦 清(すぎうら きよし、1914年7月20日 - 1987年8月22日)は、愛知県西尾市出身のプロ野球選手・監督、旧制中等学校野球指導者、野球解説者。
吉田 正男(よしだ まさお、1914年4月14日 - 199… 吉田 正男(よしだ まさお、1914年4月14日 - 1996年5月23日)は、昭和初期に活躍した中等学校野球、大学野球及び社会人野球の選手。昭和6年(1931年)から昭和8年(1933年)にかけて、夏の甲子園大会で3連覇の偉業を達成した中京商業学校(現・中京大学附属中京高等学校)のエース。甲子園で史上最多となる23勝を記録した。
山本 悍右(やまもと かんすけ、1914年3月30日 - 1… 山本 悍右(やまもと かんすけ、1914年3月30日 - 1987年4月2日)は、名古屋市を拠点に、戦前から戦後にかけて活動した日本の写真家、詩人、編集者である。 1930年代から1940年代にかけて、名古屋の前衛的な詩・写真・出版のネットワークのなかで、シュルレアリスム写真やフォトモンタージュを制作し、詩誌『夜の噴水』の編集・発行、VOUへの参加、写真グループ青憧社の会報『CARNET BLEU』の編集など、詩・写真・出版をまたぐ活動を展開した。 その活動は戦時下の統制強化と重なり、『夜の噴水』の終刊や警察の取り調べを経験し、ナゴヤ・フォトアバンガルドの改称と解散にも直面した。 没後は2001年の東京ステーションギャラリーにおける回顧展、2013年のJ・ポール・ゲティ美術館での「Japan's Modern Divide」展、2021年・2022年のメトロポリタン美術館・テート・モダン共同企画「Surrealism Beyond Borders」展、名古屋市美術館、東京都写真美術館の展覧会などを通じて再評価が進んだ。
大場 栄(おおば さかえ、1914年〈大正3年〉3月21日 … 大場 栄(おおば さかえ、1914年〈大正3年〉3月21日 - 1992年〈平成4年〉6月8日) は、大日本帝国陸軍軍人、実業家、政治家。最終階級は大尉。有限会社丸栄産業代表取締役、蒲郡市議会議員。愛知県蒲郡市出身。 大場と大場隊の活躍は、元アメリカ合衆国海兵隊隊員ドン・ジョーンズ著の『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日(原題『OBA, THE LAST SAMURAI Saipan 1944-1945』)』(1982年刊行。中村定訳、祥伝社)としてノンフィクション小説となった。 2011年(平成23年)にはそれを原作とする映画『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』(監督・平山秀幸)が公開され、竹野内豊が大場役を演じた。
丹羽 淑雄(にわ としお、1914年1月20日 - 没年不明… 丹羽 淑雄(にわ としお、1914年1月20日 - 没年不明)は、名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)に所属した野球選手。守備位置は投手。右投げ。名古屋軍で初めて背番号1を背負った選手である。
川本 泰三(かわもと たいぞう、1914年1月17日 - 1… 川本 泰三(かわもと たいぞう、1914年1月17日 - 1985年9月20日)は、愛知県瀬戸市出身のサッカー選手、サッカー指導者、実業家。ポジションはフォワード。 小学校時代に大阪へ転居、大阪府立市岡中学からサッカーを始め、1930年に第12回全国中等学校蹴球選手権大会に出場してベスト4の成績を残した。1931年に市岡中学を卒業し、早稲田高等学院(予科に相当)を経て早稲田大学に入学。予科在学中からア式蹴球部で試合出場し、予科3年の1933年から早大の関東大学リーグ4連覇に貢献した。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されて、5月15日のオランダ領東インド代表戦で初出場し、初得点も決めた。
浦野 幸男(うらの さちお、1914年1月14日 - 197… 浦野 幸男(うらの さちお、1914年1月14日 - 1977年1月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、労働大臣(第38代)。自由民主党では宏池会に所属した。 科学技術庁長官の浦野烋興は娘婿。 愛知県西加茂郡猿投村(現豊田市四郷町下古屋)出身。父親の浦野本一は米穀飼料商を営んでいた。猿投第二尋常高等小学校(現豊田市立青木小学校)卒業。1930年3月、東邦商業学校(現東邦高等学校)卒業。日本大学政経科中退後は家業の米穀飼料商に従事する。1935年1月、応召して中国北部へ出征した。1946年1月、食糧営団西加茂支所長に起用される。 1947年、父親の浦野本一は猿投村長選挙に立候補し初当選。
髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年〈大正2年〉12月1… 髙田 三郎(たかた さぶろう、1913年〈大正2年〉12月18日 - 2000年〈平成12年〉10月22日)は、日本の作曲家、指揮者。合唱曲を中心に作曲を行ったほか、自作を中心に指揮者としても活躍した。日本のカトリック教会で歌われる典礼聖歌を作曲したことでも知られる。 名字は「高田」ではなく「髙田」(いわゆるはしご髙)が正式な表記である。 愛知県名古屋市に生まれる。愛知県第一中学校(現:愛知県立旭丘高等学校)を経て、武蔵野音楽学校(現:武蔵野音楽大学)師範科で呉泰次郎に和声法を師事する。次いで東京音楽学校(現:東京藝術大学)の本科作曲部を1939年に卒業し、さらに同校研究科作曲部、同校聴講科指揮部で学んだ。
小島 利男(こじま としお、1913年10月12日 - 19… 小島 利男(こじま としお、1913年10月12日 - 1969年6月1日)は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)、監督。
河井 信太郎(かわい のぶたろう、1913年10月1日 - … 河井 信太郎(かわい のぶたろう、1913年10月1日 - 1982年11月15日)は、愛知県宝飯郡蒲郡町(現・蒲郡市)出身の検事。「東京地検特捜部生みの親」とされる。 1913年(大正2年)10月1日に愛知県宝飯郡蒲郡町(現・蒲郡市)に生まれ、愛知県立蒲郡農学校(現・愛知県立蒲郡高等学校)在学中に兄のいる東京に上京した。東京実業学校から中央大学法学部の夜間部を経て、高等文官試験に合格。官吏になるまでの間、海軍経理学校短期現役学生(いわゆる短現組)に選ばれたエリートであった。そこで経理・会計を修得したことが、のちの特捜時代に役立った。 東京地方検察庁の隠退蔵事件捜査部が1949年に東京地検特捜部に改組された時から特捜部に加わっており、経済事犯に対応するため中央大学経理研究所などで制度確立のための研究に没頭していた。
豊田 英二(とよだ えいじ、1913年(大正2年)9月12日… 豊田 英二(とよだ えいじ、1913年(大正2年)9月12日 - 2013年(平成25年)9月17日)は、日本の実業家。位階は正三位。勲等は勲一等。豊田佐吉の甥。 トヨタ自動車工業株式会社社長(第5代)、トヨタ自動車株式会社会長(初代)、同社名誉会長(初代)、同社最高顧問(初代)、社団法人日本自動車工業会会長(第2代)、財団法人トヨタ財団理事長(初代)、学校法人トヨタ学園理事長(初代)、学校法人トヨタ東京整備学園理事長(初代)、助成財団資料センター(現公益財団法人助成財団センター)理事長(初代)などを歴任した。石田退三と共に「トヨタ中興の祖」と呼ばれている。 愛知県西春日井郡金城村(現・名古屋市西区堀端町)に豊田平吉の二男として生まれた。
家永 三郎(いえなが さぶろう、1913年9月3日 - 20… 家永 三郎(いえなが さぶろう、1913年9月3日 - 2002年11月29日)は、日本の歴史学者。専門は思想史(日本思想)。学位は文学博士(東京大学)。東京教育大学名誉教授。甥に歴史学者の家永遵嗣がいる。 国民精神文化研究所の機関誌『国民精神文化』第九巻第二号によると、1月11日から3月20日までの課程修了者29人の1人。クラスの科目は、「皇国の道」(紀平正美)、「皇国哲理」(佐藤通次)、「国体と政治」(大串兎代夫)、「大東亜教育論」(伏見猛弥)など。なお、文部省発令事項の東京教育大学が作成した正規の年譜からは削除している。国民精神文化研究所の歴史部門責任者の東京高師の長老松本彦次郎に知られ、東京高師へ栄転。
権田 銈次(ごんだ けいじ、1913年8月17日 - 197… 権田 銈次(ごんだ けいじ、1913年8月17日 - 1978年1月26日) は、日本の実業家。第3代株式会社豊田自動織機製作所(現在の株式会社豊田自動織機)代表取締役社長。 勲章は勲三等旭日中綬章(旭日章)、藍綬褒章(褒章)、チェコスロバキア功労銀章。繊維不況の中、繊維機械一筋できて苦境にあった豊田自動織機を経営の多角化により建て直し現在の豊田自動織機の礎を築いた。 1913年(大正2年)8月17日、愛知県碧海郡小垣江(現在の刈谷市)生まれ。1932年3月 愛知県岡崎市立商業学校(現在の愛知県立岡崎商業高等学校)卒業。家は米屋で、9人兄妹の次男。曾祖父は、名古屋医学校(現在の名古屋大学医学部)創立に中心的に携わった権田錘 御用医師。
黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991… 黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991年12月7日)は、日本の数学者・数学教育者。 愛知県名古屋市出身。1937年大阪帝国大学理学部卒。東京物理学校教授として上京後、電波科学専門学校(後の東海科学専門学校)の設立に尽力した。1951年に遠山啓らと数学教育協議会を立ち上げた。1953年から北海道大学教育学部助教授、教授を歴任した。1970年に専修大学経営学部教授となった.1984年定年。第7代日本科学史学会会長であった。
新美 南吉(にいみ なんきち、1913年〈大正2年〉7月30… 新美 南吉(にいみ なんきち、1913年〈大正2年〉7月30日 - 1943年〈昭和18年〉3月22日)は、日本の児童文学作家。本名は新美 正八(旧姓:渡邊)。愛知県半田市出身。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳で亡くなったため、作品数こそ多くないがごん狐が小学校の国語教科書に継続的に採用されており、近年でもアニメーション制作が実施されたり学芸会の演目になることも多いので現在でも一定の国民からの知名度を持つ。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。
渡辺 淳(わたなべ じゅん、1913年7月13日 - 199… 渡辺 淳(わたなべ じゅん、1913年7月13日 - 1995年4月2日)は、日本の経営者、銀行家。日本債券信用銀行頭取を務めた。愛知県名古屋市出身。 1936年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行した。中央信託銀行常務、日本興業銀行常務、日本冶金工業会会長などを経て、1974年に日本債券信用銀行頭取に就任。1979年に顧問に就任。 1978年に藍綬褒章を受章。 1995年4月2日脳梗塞のために死去。81歳没。
村上 重夫(むらかみ しげお、1913年7月3日 - 194… 村上 重夫(むらかみ しげお、1913年7月3日 - 1945年)は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。
横井 英樹(よこい ひでき、1913年(大正2年)7月1日 … 横井 英樹(よこい ひでき、1913年(大正2年)7月1日 - 1998年(平成10年)11月30日)は、日本の実業家。1953年(昭和28年)の老舗百貨店、白木屋(のちの東急百貨店日本橋店)の株買占めや東洋郵船設立による海運業への進出で脚光を浴びた。 愛知県中島郡平和村(平和町を経て現・稲沢市)の貧しい農家に二男として生まれた。生まれたとき、真っ赤な赤子であったことから、こんな赤い子は千人に一人いるかいないかだということで「千市」と名付けられた。本人はその名は好きではなく、1947年(昭和22年)「英樹」と改名する。 父親の鉞次郎(えつじろう)は18、9歳の頃に尻の出来物の手術をしたところ足が悪くなり仕事をしなくなった。
永田 武(ながた たけし、1913年6月24日 - 1991… 永田 武(ながた たけし、1913年6月24日 - 1991年6月3日)は、日本の地球科学者である。岩石磁気学という分野を開いた。日本の南極観測を指導した。 愛知県岡崎市出身。第一東京市立中学、旧制第一高等学校、東京帝国大学を卒業後、東京大学地震研究所を経て東京大学教授に就任した。疎開中は挙母町(現・豊田市宮町)の浄覚寺に滞在した。奇しくも30年前に日本人で初めて南極へ向かった白瀬矗が晩年1946年同じ挙母町に転居し亡くなった後、白瀬の妻と次女タケコが浄覚寺に滞在している。1944年7月、東京大学 理学博士、論文名は「火山岩、自然残留磁気およびその地球磁気学的諸問題への応用について(英文) 」。
杉浦 明平(すぎうら みんぺい、1913年〈大正2年〉6月9… 杉浦 明平(すぎうら みんぺい、1913年〈大正2年〉6月9日 - 2001年〈平成13年〉3月14日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。 1913年(大正2年)愛知県渥美郡福江村(現在の田原市折立町)で、小地主兼雑貨商の長男として生まれる。父の太平は、1963年(昭和38年)から1967年(昭和42年)に死去するまで渥美町長をつとめている。 1926年(大正15年)、愛知県豊橋中学校(現在の愛知県立時習館高等学校)を四年生修了で第一高等学校へ進学、1936年(昭和11年)東京帝国大学文学部国文学科卒業。一年下の後輩、立原道造と一高の短歌会で知り合い、共に1935年(昭和10年)同人誌「未成年」を発行。
水谷 豊(みずたに ゆたか、1913年(大正2年)6月8日 … 水谷 豊(みずたに ゆたか、1913年(大正2年)6月8日 - 1991年(平成3年)11月25日)は、日本の眼科医。日本で初めてコンタクトレンズを作り、臨床応用を実施。後にコンタクトレンズメーカー「日本コンタクトレンズ(ニチコン)」を創業。コンタクトレンズの発展に貢献し、「日本のコンタクトレンズの父」と呼ばれる。1975年日本医師会最高優功賞受賞、1987年勲五等双光旭日章受章。日本コンタクトレンズ学会名誉会員(1986年~1991年)。愛知県名古屋市出身。孫は水谷 武史(みずたに たけし)で、名古屋市天白区で「みずたに眼科」を開業中。 水谷は、1913年名古屋市熱田区で眼科医院を営む加藤家に生まれたが、三男の末っ子で、後に水谷家の養子となり、水谷姓となった。
芳賀 直一(はが なおかず、1913年6月7日 - 没年不明… 芳賀 直一(はが なおかず、1913年6月7日 - 没年不明)は、愛知県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
久米 常民(くめ つねたみ、1913年5月5日 - 1977… 久米 常民(くめ つねたみ、1913年5月5日 - 1977年2月10日)は、日本の国文学者。専門は万葉集であり、中部地方における万葉研究の中心的な役割を果たした。学位は、博士(文学)(名古屋大学)。愛知県知多郡東浦村(現・東浦町)出身。 1913年(大正2年)5月5日、愛知県知多郡東浦村(現・東浦町)藤江に生まれた。1920年(大正9年)4月に藤江尋常小学校に入学し、1926年(大正15年)3月に藤江尋常小学校を卒業した。1926年(大正15年)4月に旧制愛知県立半田中学校に入学し、1931年(昭和6年)3月に愛知県立半田中学校を卒業した。半田中学校時代の友人として、後に児童文学作家となる新美南吉(本名は新美正八)がおり、南吉と久米は互いが書いた文学作品を交換して読み合うなどしていた。
舟橋 正夫(ふなばし まさお、1913年 <大正2年> 5月… 舟橋 正夫(ふなばし まさお、1913年 <大正2年> 5月5日 - 1996年 <平成8年> 8月16日)は、日本の経営者。古河電気工業社長を務めた。位階は正四位。 愛知県名古屋市出身。1932年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に古河電気工業に入社。1964年11月に取締役に就任し、1968年7月に常務、1971年12月に専務を経て、1973年6月に副社長に就任し、1974年11月には社長に昇格。1983年6月に会長を経て、1989年6月から取締役相談役を務めた。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1996年8月16日食道がんのために死去。
村岡 美枝(むらおか みえ、1913年3月23日 - 没年不… 村岡 美枝(むらおか みえ、1913年3月23日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。専門は短距離走。 愛知県生まれ。愛知県第一高等女学校(愛知県立明和高等学校の前身校の一つ)在学中の1930年にチェコスロヴァキアのプラハで開かれた第3回国際女子競技大会に代表選手として参加する(参加選手は6人で、人見絹枝、本城ハツ、中西みち、村岡美枝、渡辺すみ子、浜崎千代。人見以外は学生選手)。このとき代表の中心としてチームを引率した人見が翌1931年に死去した際に、葬儀で「お姉さんは女子スポーツに貢献されました。その大きな足跡はけっして消えることがないでしょう。私たちは非力ですが、遺志をつぐよう全力を尽くして頑張るつもりです」と弔辞を読んだ。
野々村 一雄(ののむら かずお、1913年3月10日 - 1… 野々村 一雄(ののむら かずお、1913年3月10日 - 1998年1月12日)は、日本の経済学者。専門はソヴィエト経済。一橋大学名誉教授。元経済理論学会代表幹事。 1i913年、愛知県で生まれた。大阪商科大学(現大阪市立大学)を卒業後、満鉄調査部に入社。 満鉄調査部では石堂清倫とともに資料課に属し、基礎理論が中途半端なまま、関東軍の要望にこたえて総合調査をおこなう経調派・綜合課グループに批判的な立場をとった。そしてそこでの研究、調査内容が軍部に批判的なものであったため、満鉄調査部事件で逮捕され、1945年に懲役2年執行猶予3年の判決を受けた。 敗戦後は満鉄の後身である中長鉄路調査局に上級調査員として勤務。
山本 二三丸(やまもと ふみまる、1913年3月10日 - … 山本 二三丸(やまもと ふみまる、1913年3月10日 - 2011年12月3日)は、日本のマルクス経済学者、立教大学名誉教授。 愛知県豊橋市出身。第一高等学校卒、1936年東京帝国大学経済学部卒。1954年「再生産論」で立教大学経済学博士。1936年東京貯蓄銀行書記、1938年東亜研究所所員、1940年日本鉄鋼連合会書記、1941年鉄鋼統制会書記、日本鋼管書記、1946年立教大学経済学部助教授、1948年教授となり、1978年定年退任、名誉教授。愛知大学教授を務めた。マルクス経済学の厳密な検証において功績があったが、現実の世界経済、世界の社会主義国の崩壊など、理論と現実の乖離は大きく、大きな課題を残して2011年12月3日、98歳で逝去。
加藤 春彦(かとう はるひこ、1913年3月8日 - 199… 加藤 春彦(かとう はるひこ、1913年3月8日 - 1993年6月12日)は、愛知県愛知郡豊明村出身の俳人。『帯』主宰。『馬酔木』同人。 当時としては珍しいサラリーマンの一人息子として、1913年(大正2年)3月8日に愛知県愛知郡豊明村に生まれた。1930年(昭和5年)に旧制中学を卒業し、すぐに名古屋市役所に就職した。1957年(昭和32年)から5年間は名古屋市老人福祉施設「寿寮」(現在は民間に移管されて養護老人ホーム 名古屋市寿荘)の寮長を務め、その後は名古屋市高齢者職業紹介所所長を務めた。1968年(昭和43年)には定年を前に名古屋市役所を退職した。 水原秋桜子の句集『新樹』を読んだのがきっかけで俳句の世界に足を踏み入れ、1941年(昭和16年)には月刊俳句誌『馬酔木』に投句した。
木村 定三(きむら ていぞう、1913年〈大正2年〉3月1日… 木村 定三(きむら ていぞう、1913年〈大正2年〉3月1日 - 2003年〈平成14年〉1月21日)は、愛知県名古屋市出身の実業家・美術品収集家。 特に熊谷守一の収集家として知られていた。晩年や没後にはコレクションが愛知県美術館に寄贈されており、愛知県美術館は3309点の木村定三コレクションを有している。 1913年(大正2年)3月1日、木村定治郎ととくの三男として、愛知県名古屋市に生まれた。定治郎は名古屋市中区で肥料米穀仲買を商い、名古屋市内に多数の土地や家屋を所有する大地主でもあった。定治郎は大正初期に米穀肥料商を廃業し、土地や家屋の管理に専念していた。 1929年(昭和4年)に旧制愛知県熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業し、第八高等学校(現・名古屋大学)文科甲類に入学した。
内田 義彦(うちだ よしひこ、1913年2月25日 - 19… 内田 義彦(うちだ よしひこ、1913年2月25日 - 1989年3月18日)は、日本の経済学者である。 愛知県名古屋市生まれ。専攻は経済学史、社会思想史。アダム・スミス、カール・マルクスと、近代日本思想史の研究で知られる。著書『社会認識の歩み』で、歴史認識と現代認識の関係、理念とハウ・トゥの関係、本の読み方について、を論じて、日本における社会科学の進展も交え考察している。 1954年8月16日に学位論文『経済学の生誕』で、専修大学から経済学博士の学位を受ける。
清川 正二(きよかわ まさじ、1913年〈大正2年〉2月11… 清川 正二(きよかわ まさじ、1913年〈大正2年〉2月11日 - 1999年〈平成11年〉4月13日)は、日本の水泳選手、実業家。愛知県豊橋市出身。オリンピックに2度出場し、1932年ロサンゼルス五輪で100m背泳ぎ金メダリスト、1936年ベルリン五輪でも銅メダルを獲得。第二次世界大戦後は総合商社兼松江商の社長・会長を務める。アマチュアスポーツの振興にも尽力し、日本人として初めて国際オリンピック委員会(IOC)副会長となった。位階は従四位。 豊橋市関屋町出身。旧制愛知第四中学校(現・愛知県立時習館高等学校)、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学)を経て、1936年(昭和11年)東京商科大学(現・一橋大学)卒業。
矢口 新(やぐち はじめ、1913年2月7日 - 1990年… 矢口 新(やぐち はじめ、1913年2月7日 - 1990年3月13日)は日本の教育研究者。 東京帝国大学文学部教育学科卒。中央教育研究所、国立教育研究所研究調査部第二研究室長を経て、1968年に財団法人能力開発工学センター設立。以後20数年に渡り、行動を通して行動能力を育てる独自の行動形成システムを実践的に研究。学校教育、産業教育の現場で、学習プログラム、構案教材、訓練シミュレータの開発とその教育実践を指導した。1990年現職(常務理事・所長)で、77歳にて逝去。 1913年、父の任地である朝鮮咸鏡北道新阿山にて出生。 1921年、父の死去により帰国し愛知県名古屋市に住む。東海中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部教育学科で学び、海後宗臣(当時、教育学科助教授)に師事する。
水谷 盛光(みずたに もりみつ、1913年(大正2年) - … 水谷 盛光(みずたに もりみつ、1913年(大正2年) - 1998年(平成10年))は、愛知県小牧市出身の郷土史家。 1913年(大正2年)、愛知県西春日井郡北里村に生まれる。北里村立北里小学校卒業後、小牧中学校に進む。このとき、後に郷土史家となる市橋鐸に学ぶ。1930年(昭和5年)、名古屋市役所に採用される。港区・中村区・中区などの区長を歴任した。港区長在任中には、当地の古老からの聞き取りを元にした『港区のおいたち聞き書き』を物している。退職後、郷土史家として本格的に活躍。代表的な成果に青松葉事件の研究があり、これは城山三郎の『冬の派閥』執筆の際に参考資料として用いられたとされる。1998年(平成10年)没。
早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 19… 早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 1975年2月26日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1933年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日興証券に入社した。 1958年11月に取締役に就任し、1961年11月に常務、1964年10月に専務、1968年8月に副社長を経て、1973年12月に社長に就任。 1975年2月26日脳出血のために在任中に死去。62歳没。
大岩 和雄(おおいわ かずお、1912年12月2日 - 20… 大岩 和雄(おおいわ かずお、1912年12月2日 - 2001年2月14日 )は、日本の経営者。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)社長を務めた。 愛知県常滑市出身。1933年に名古屋高等商業学校を卒業した。佐藤商会での勤務を経て、1935年10月に伊奈製陶に入社した。1958年12月に取締役に就任し、1963年12月に常務、1967年12月に専務を経て、1971年12月に副社長に就任し、1976年1月に社長に就任した。1980年1月に会長に就任し、1984年6月からは相談役を務めた。 1976年10月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲三等瑞宝章を受賞した。 2001年2月14日、肺炎により死去した。
酒井 通温(さかい みちはる、1912年(大正元年)9月23… 酒井 通温(さかい みちはる、1912年(大正元年)9月23日)- 1997年(平成9年)1月2日)は、日本の囲碁棋士。三宅一夫七段門下、日本棋院所属、九段。本名保一。王冠戦優勝2回、本因坊戦リーグ入りなど。日本棋院中部総本部に所属、棋士会長を長く務めるなど、中京碁界の重鎮としてその隆盛に貢献した。酒井四兄弟の康雄、利雄、義允の長兄。酒井栄男七段は実子。 愛知県岡崎市に生まれる。1924年に名古屋在住の三宅一夫に入門。1927年入段。1932年四段。1940年五段。1948年、日本棋院東海支部から改称した東海本部に所属し、第5期本因坊戦の関西予選五段級に出場、炭野武司、窪内秀知、瀬川良雄、染谷一雄と連勝して「東海の鬼」と呼ばれた。