高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1881年〈明治14年… 高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1881年〈明治14年〉12月24日 - 1943年〈昭和18年〉4月3日)は、実業家、2代豊橋市長。 1881年(明治14年)12月24日、愛知県八名郡賀茂村の竹尾準の次男、竹尾茂彦として生を受ける。札幌農学校卒。 1907年(明治40年)、豊橋市船町の問屋業高橋小十郎(久助)の養子となる。 1912年(明治45年)、初代豊橋市長大口喜六の後を継ぎ2代市長に就任する。 1913年(大正2年)、飯村溜池不正事件の責を負い辞任。先代の大口市長も疑獄事件に関連して辞任したが、結局2代続けて市政の不正事件に関連して市長が辞任する事態となった。 1918年(大正7年)、実父である竹尾準の後任として三遠銀行頭取に就任し、同年豊橋商業会議所会頭にもなる。
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鈴木花蓑(すずき はなみの、1881年(明治14年)8月15… 鈴木花蓑(すずき はなみの、1881年(明治14年)8月15日または12月1日 - 1942年(昭和18年)11月6日)は、愛知県出身の俳人、大審院書記。本名は鈴木喜一郎(きいちろう)。 愛知県知多郡半田町(現半田市)生まれ。半田裁判所で書記見習いをしていた時に「ホトトギス」の存在を知り投句。1909年には名古屋裁判所に移り、1915年に上京、大審院書記となる。この年初めて「ホトトギス」で入選。また東大俳句会を指導し、後の水原秋桜子や高野素十らの4S時代を築く礎となった。晩年は「あをさ」「百舌鳥」などの俳誌を創刊するも、戦時中の紙不足に巻き込まれ廃刊を余儀なくされる。60歳を迎えて日本俳句作家協会常任理事となるも、間も無くして病に倒れた。
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藤井 達吉(ふじい たつきち、1881年6月6日 - 196… 藤井 達吉(ふじい たつきち、1881年6月6日 - 1964年8月27日)は、愛知県碧海郡棚尾村字源氏(現・碧南市源氏町)出身の工芸家・図案家。 1881年(明治14年)6月6日、愛知県碧海郡棚尾村字源氏(現・碧南市源氏町)に生まれた。父親は忠三郎、母親はかぎ。兄が2人、姉が1人、妹が2人いる。母親のかぎは西加茂郡挙母村(現・豊田市)出身である。 藤井は幼少の頃から手先が器用であり、「針吉」や「凧吉」などとも呼ばれていた。 1888年(明治21年)に棚尾学校(現・碧南市立棚尾小学校)に入学し、さらには医師の杉村修平の塾で学んだ。11歳だった1892年(明治25年)に棚尾小学校を卒業し、知多郡大野町(現・常滑市)の木綿問屋である尾白株式会社(尾白商会)に奉公に入った。
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久野 尊資(くの たかすけ / たかし、1880年(明治13… 久野 尊資(くの たかすけ / たかし、1880年(明治13年)10月2日 - 1939年(昭和14年)2月17日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、愛知県会議長、愛知県知多郡加木屋村長、同郡横須賀町長。 愛知県知多郡加木屋村(横須賀町を経て現東海市加木屋町)で、久野浅右衛門の長男として生まれる。1890年(明治23年)愛知県尋常師範学校(のち愛知第一師範学校)を卒業した。その後、教員となり加木屋小学校長を務めて退職。1905年(明治38年)家督を相続し農業を営む。 加木屋村長、横須賀町会議員、同町長、知多郡会議員、愛知県会議員、同参事会員、同議長などを務めた。1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙で愛知県第2区から立憲民政党公認で出馬して当選し、その後、第一控室会に所属して衆議院議員に1期在任した。
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丹下 茂十郎(たんげ もじゅうろう、1880年(明治13年)… 丹下 茂十郎(たんげ もじゅうろう、1880年(明治13年)8月24日 - 1938年(昭和13年)2月4日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 愛知県東春日井郡勝川町(現在の春日井市)に、丹下武左衛門の二男として生まれる。愛知県の農林学校を卒業後、東春日井郡の書記、ついで愛知県の技手を務めた。その後、判任官から高等官に昇任し、農商務省農務局事務官補を務めた。さらに滋賀県産業主事、理事官に任じられ、勧業課長、蚕糸課長、商品陳列所所長などを歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、6回の当選を重ねた。その間、廣田内閣で大蔵参与官を務めた。
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藤浪 剛一(ふじなみ ごういち、1880年6月7日 - 19… 藤浪 剛一(ふじなみ ごういち、1880年6月7日 - 1942年11月29日)は、日本の医学者、放射線科医。 1880年、愛知県名古屋市生まれ。獨逸学協会学校(現∶獨協中学校・高等学校)卒、岡山医学専門学校卒業後、同校の病理学教室に入る。1908年よりウィーン大学に留学し、レントゲン学を学ぶ。1912年に帰国して順天堂医院レントゲン科長となり、1920年からは慶應義塾大学の教授を務めた。 レントゲン学の第一人者で温泉学・医学史の分野においても数多くの業績を残している。 慶應義塾大学医学部放射線科学教室初代教授である。 剛一は、偉人や著名人の墓を訪ね歩く掃苔活動を趣味とし、同好団体の東京名墓顕彰会を設立したほどであった。
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石原 栄三郎(石原 榮三郎、いしはら えいざぶろう、1880… 石原 栄三郎(石原 榮三郎、いしはら えいざぶろう、1880年〈明治13年〉4月10日 - 没年不明)は、日本の商人(かぢ平、金物商)、愛知県多額納税者。石原商店金物部代表。 愛知県人、鍛冶平、金物商・石原平左衛門の弟。1915年、分家して一家を創立し、金物卸商を営む。名古屋商工会議所議員に選ばれる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。趣味は石灯籠、庭石、茶器、書画。宗教は浄土宗。住所は愛知県名古屋市西区江川端町、店舗は中区広小路西通。 石原家は名古屋に於ける一流金物店である。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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浦野 本一(うらの もといち、1880年2月8日 - 197… 浦野 本一(うらの もといち、1880年2月8日 - 1972年8月14日)は、日本の政治家。愛知県猿投村長、猿投村議会議員、西加茂郡会議員などを歴任した。 元衆議院議員の浦野幸男は長男。 愛知県四郷村(現・豊田市四郷町下古屋)に、農業を営む浦野又一の次男として出生。尋常小学校花本学校(現・豊田市立青木小学校)卒業。1902年から米穀飼料肥料商を営む。1918年から西加茂郡会議員を1期務め、1931年から1947年にかけて猿投村議会議員を務めた。その間、猿投信用販売購買利用組合理事長も務めた。同理事長として機械化導入を唱え、大正末から昭和初期にかけて、足踏み脱穀機、牛馬耕運機を取り入れ、牛馬耕を広く指導した。
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馬淵 直逸(まぶち なおいつ、1879年〈明治12年〉11月… 馬淵 直逸(まぶち なおいつ、1879年〈明治12年〉11月3日 - 1929年〈昭和4年〉1月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県碧海郡依佐美村大字野田(現刈谷市)で旧福島藩士馬淵栄吉の長男として生まれる。 高等小学校を卒業後、陸軍士官学校(11期)に入り、1900年(明治33年)6月陸軍歩兵少尉に任官される。1903年(明治36年)陸軍大学校に入学、卒業後陸軍参謀本部部員に補せられる。さらに第17師団参謀、歩兵第38連隊大隊長を経て再び参謀本部部員となり、陸軍大学校および海軍大学校教官に補せられ、陸軍の中堅、参謀将校の養成に尽くした。 1920年(大正9年)第一次世界大戦が終了し、平和条約の締結にあたり実施委員を命じられ欧州に出かけ1922年(大正11年)帰国する。
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近藤 乾郎(こんどう けんろう、1879年(明治12年)5月… 近藤 乾郎(こんどう けんろう、1879年(明治12年)5月13日) - 1965年(昭和40年)10月17日)は、愛知県碧海郡鷲塚村(現・碧南市)出身の医師(医学博士)。 1879年(明治12年)5月13日、近藤坦平の三男として生まれた。1903年(明治36年)、義兄である近藤次繁の妹としと結婚した。兄ふたりと弟(坦平の長男・二男・四男)は幼くして病没しており、三男である乾郎が近藤家の家督を継いでいる。 1904年(明治37年)に大阪高等医学校(現・大阪大学医学部)を卒業し、京都帝国大学医化学教室などで研究活動を行った後、1908年(明治41年)からドイツとオーストリアのウィーン大学に留学した。
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武富 済(たけとみ わたる、1879年(明治12年)4月23… 武富 済(たけとみ わたる、1879年(明治12年)4月23日 - 1937年(昭和12年)4月20日)は、日本の検事、弁護士、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。正しくは武富 濟。
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猪飼 たね(いかい たね、1879年〈明治12年〉1月18日… 猪飼 たね(いかい たね、1879年〈明治12年〉1月18日 - 1995年〈平成7年〉7月12日)は、日本のスーパーセンテナリアン。かつて日本国内最高齢かつジャンヌ・カルマンに次ぐ世界で2番目の長寿であった愛知県名古屋市出身の女性。 愛知県愛知郡寛政村(現・名古屋市港区寛政町)の農家の三女として生まれ、結婚後三男一女をもうけたが、子四人全員に先立たれた。 100歳ころまでは、杖を使いながら老人ホームの外へ買い物へでかけたり、レクリエーションに参加するなど元気であり、趣味の縫い物を嗜んでいたという。108歳の時には「長生きのヒケツは、病気しないこと」と語っていた。その後、何度か脳卒中で入退院を繰り返し、113歳の時に発症してからは寝たきりであった。
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松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27… 松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。
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坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 19… 坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 1904年7月24日)は、日本の作家、教育者。坪内逍遥の甥。号は孤景(こけい)。 日露戦争に従軍し、大石橋の戦いで戦死した。 愛知県名古屋市花車町に生まれる。泥江小学校、津島高等小学校から愛知中学校、早稲田大学英語専門部を経て1899年、早稲田大学文学部を首席で卒業。1年間志願兵として従軍後、詩人として身を立てようと考えたが自立しろと実家の仕送りを止められたため、友人の勧めで旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)の教員となる。しかし「田舎教師もほとほと嫌になり、何とか工夫して都の空に舞い戻りたく心矢の如くに候」と同校での教員生活を捨て、やはり詩人として身を立てようと1903年に上京。
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竹田 頴川(たけだ えいせん、1878年(明治11年)- 1… 竹田 頴川(たけだ えいせん、1878年(明治11年)- 1945年(昭和20年)9月9日)は、大正から昭和の終戦までを代表する臨済宗の禅僧。俗姓は最初は加藤で、のち竹田。法諱は恵恂、道号は頴川。室号は古渡庵。愛知県葉栗郡北方村の出身。臨済宗建仁寺派管長(1931年-1945年) 1878年(明治11年)、現在の愛知県一宮市北方町に生まれる。1889年(明治22年)、一宮市木曽川町の寶光寺の速水精道和尚について得度。1906年(明治39年)、竹田黙雷が開単した建仁僧堂に掛搭。その後僧堂師家兼管長の黙雷に7年参禅した後、1912年(大正元年)に、頴川が得度した寶光寺の住職となった。さらに黙雷の建仁僧堂に通参精進して遂に、1921年(大正10年)黙雷より嗣法する。
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菅野 経三郎(かんの つねさぶろう、1877年11月17日 … 菅野 経三郎(かんの つねさぶろう、1877年11月17日 - 1956年12月18日)は、日本の政治家。第7-9代岡崎市長(3期)、愛知県会議員、岡崎市会議員を歴任した。 名は經三郎とも表記される。 愛知県額田郡岡崎連尺町(現・岡崎市)で岡崎藩士の子として生まれる。額田郡高等小学岡崎学校(現・岡崎市立梅園小学校)卒業後の1893年(明治26年)、東京市本郷の伊勢屋呉服店へ入店。1898年(明治31年)12月、連尺町で姫路屋呉服店を開業した。その後長く岡崎商業界の重鎮をなした。 42歳の時に政界へ進出。1920年(大正9年)9月3日、岡崎市会議員に就任する。1923年(大正12年)、国道1号の整備をめぐって市会内で、今ある路線を改修するという派と、新たに南側に路線を作るという派との対立が生まれる。
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沼波 瓊音(ぬなみ けいおん、1877年10月1日 - 19… 沼波 瓊音(ぬなみ けいおん、1877年10月1日 - 1927年7月19日)は、明治・大正期の国文学者・俳人・右翼。本名は武夫(たけお)。名古屋市出身。
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久田 吉之助(ひさだ きちのすけ、1877年〈明治10年〉7… 久田 吉之助(ひさだ きちのすけ、1877年〈明治10年〉7月24日 - 1918年〈大正7年〉11月24日)は、日本の陶工。タイル・西洋瓦・テラコッタを製造した、日本近代建築陶材の先駆者のひとり。 愛知県知多郡西浦町(現常滑市)の裕福な海運業者の家に生まれる。 建築陶材の製造を志し、自宅の表庭に小窯を築造し、2年間、寝食を忘れて建築資材の改良を研究した。「生命までもなくしてもとうてい世に売り出すようなものはできないから、今日限りやめるように」との忠告にも耳をかさず、窯資料機械器具の改良、工場の拡張を重ね、1904年(明治37年)、遂に平瓦(タイル)の特許を得るに至った。 赤煉瓦が主流だった日本の洋風建築でも、白色煉瓦や貼付化粧煉瓦、擬石軒蛇腹、装飾テラコッタなど、多様な建築材料が使われ始めていた。
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神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(… 神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(明治10年)4月19日 - 1959年(昭和34年)10月16日)は、日本の法学者・経済学者・政治家(京都市長で、公選第一号の市長)。文化功労者。愛知県一宮市出身。 日本における消費税提唱の先駆者として知られる。 1877年(明治10年)、愛知県一宮に生まれる。旧制愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)、三高、一高を経て、1900年東京帝国大学法科大学政治科卒業、同大学大学院(財政学専攻)卒業。 1902年京都帝国大学法科大学助教授に就任。1904年(明治37年)ドイツ・イギリスに留学する。海外渡航が極めて困難な時代にあって、視察旅行とは違い実際に現地に居住し学究できたことは、神戸の人格形成に大きな影響を与えたと言われている。
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永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5… 永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5日 - 1957年(昭和32年)4月19日)は、日本の外交官。外務次官、駐ドイツ大使。IOC委員、貴族院勅選議員。 現在の愛知県名古屋市に永井松右衛門の長男として生まれる。 1895年(明治28年)に高等師範学校尋常中学科(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業後、私立東京英語学校を経て、第一高等学校、東京帝国大学を卒業。 1902年(明治35年)に外務省入省。天津、ニューヨーク、ワシントンDCに在勤する。1912年(明治45年)2月に駐サンフランシスコ総領事、その後、駐ベルギー大使、1930年12月から1932年5月まで外務次官、駐ドイツ大使などを歴任する。
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村瀬 義徳(むらせ ぎとく/むらせ よしのり、明治10年(1… 村瀬 義徳(むらせ ぎとく/むらせ よしのり、明治10年(1877年)3月 - 昭和13年(1938年)8月15日)は、愛知県出身の日本画家である。村瀬宜得とも記される。はじめ黒田清輝に師事して西洋画を学び、後に日本画に転じて寺崎広業に師事した。現存する作品は大正と昭和のものが多い。通称は義徳であるが、宜得を号とした。 明治10年3月、愛知県丹羽郡布袋町 に生まれた。幼い頃から絵を得意とし、東京美術学校に入学。西洋画の黒田清輝教授のもとで学ぶ。明治31年(1898年)に退学。 また、このころ日本画の寺崎広業に師事。狩野派を研究する。文部省第十一回美術展覧会にて台湾旅行した際の写生から描き起こした南画的な屏風絵『緑蔭』が入選。
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小野 庄造(おの しょうぞう、1877年(明治10年)2月1… 小野 庄造(おの しょうぞう、1877年(明治10年)2月12日 - 1938年(昭和13年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少将。第5代岡崎市長。 愛知県額田郡伊賀村(現・岡崎市伊賀町)に生まれる。1899年(明治32年)に陸軍士官学校を卒業した後は、歩兵第33連隊に属し、1902年(明治35年)には陸軍大学校に入学した。陸軍大学校在学中に日露戦争が勃発し、第3師団に属して出征し、負傷した。1907年(明治40年)、陸軍大学校に復学し、翌年に卒業した。卒業後は参謀本部に勤務するかたわら、山縣有朋元帥の副官を務めた。1910年(明治43年)、少佐に昇進するとともに、イギリス・フランス・ドイツに留学し、飛行機・自動車の調査にあたった。
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齋藤 専吉(さいとう せんきち、明治9年4月16日(1876… 齋藤 専吉(さいとう せんきち、明治9年4月16日(1876年5月9日) - 昭和37年(1962年)3月13日)は、日本の教育者、文化人。渥美半島における文化交流に寄与した。 愛知県渥美郡畠村(現・田原市福江町)に間瀬伴蔵、里うの次男として生まれる。1883年(明治16年)、7歳のときに母の実家、畠村の齋藤重左衛門の養子となる。 1899年(明治32年)に清田尋常小学校(現・田原市立清田小学校)の教員となり、1920年(大正9年)には亀山尋常小学校(現・田原市立亀山小学校)校長として1927年(昭和2年)の退職まで務めた。その後は、福江町助役や愛知県民生委員、亀山保育園長を務めた。 専吉は、文化人としても活躍し、俳句、短歌、郷土史、考古学にも興味を持ち、地域の歴史や民族に関する研究を行った。
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稲田 三之助(いなだ さんのすけ、1876年(明治9年)5月… 稲田 三之助(いなだ さんのすけ、1876年(明治9年)5月2日 - 1952年(昭和27年)2月18日)は、日本の逓信官僚。早稲田大学教授。錦鶏間祗候。勲三等瑞宝章受章。 愛知県名古屋市出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。通信技手、逓信技師、新潟郵便局工務課長、通信局工務課長などを経て、1925年(大正14年)に逓信省工務局長に就任した。 退官後、1932年(昭和7年)9月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。その他、早稲田大学理工学部教授を務めた。
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大角 岑生(おおすみ みねお、1876年〈明治9年〉5月1日… 大角 岑生(おおすみ みねお、1876年〈明治9年〉5月1日 - 1941年〈昭和16年〉2月5日)は、大正から昭和にかけての日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍大将。男爵。位階および勲等、軍功は正二位・勲一等・功五級。 愛知県出身で本籍は高知県。自邸は東京市芝区高輪下町にあった。 1876年(明治9年)、愛知県中島郡三宅村(現:稲沢市平和町上三宅上屋敷)で、農業・大角藤平の長男として生まれた。幼名は親一。 1891年(明治24年)3月に中島郡高等小学校を卒業後、愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)より攻玉社を経て海軍兵学校に入校。 1897年(明治30年)、24期を3位の成績で卒業。同期の次席は山本英輔大将。
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岡本 要八郎(おかもと ようはちろう、1876年1月13日 … 岡本 要八郎(おかもと ようはちろう、1876年1月13日 - 1960年3月28日)は、愛知県中島郡(現・一宮市)出身の地質学者。初めて台湾の鉱物を採集した事で知られる。北投善光寺に彼の頌徳碑が現存する。 著書に『台湾鉱物調查報告』(1911年)、『台湾産北投石調查報告文』(1916年)、『福岡県鉱物誌』(1944年)などがある。 子供のときに受けた理科の授業に影響を受け鉱物に興味を持つようになる。 1899年4月に台湾へ渡航し、台湾総督府国語学校の教諭として現地台湾人の教育に当たる。翌年、角板山への鉱物採集旅行後、台湾の鉱物に関する研究を開始する。明治38年(1905年)北投温泉の公衆浴場瀧乃湯にて入浴をした帰りに北投石を発見する。
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加藤 耕山(かとう こうざん、1876年(明治9年)1月6日… 加藤 耕山(かとう こうざん、1876年(明治9年)1月6日 - 1971年(昭和46年)1月31日)は、明治から昭和を代表する禅僧。最初は曹洞宗であったが、臨済宗に転向した。しかし曹洞宗の4歳年下の沢木興道とは40年来、兄弟のような交わりであった。室号は是々庵。愛知県西加茂郡三好町(現・みよし市)の出身。世寿96歳。 1876年(明治9年)1月6日、愛知県西加茂郡三好町黒笹に、父加藤長蔵の三男(十人兄弟)として出生。名前は三治郎という。父親は、のちに名古屋に出て酒造業を営む。 1884年(明治17年)、実家では尋常小学校3年まで通った。そして名古屋市守山にある曹洞宗大永寺の小僧となる。僧名は徳成。
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野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12… 野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12月8日 - 1947年〈昭和22年〉7月13日)は、明治・大正・昭和前期の英詩人、小説家、評論家、俳句研究者。海外の文芸思潮の紹介に携わり、また海外に日本文化を紹介した。イサム・ノグチの父親。内田魯庵からノーベル文学賞の受賞を待望された。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)生まれ。雑貨店を営む父・傳兵衛、母・久己(くわ)の四男として生まれた。10歳で英語を学び始める。 1888年(明治21年)生家を離れ名古屋で英学を学び、ユニオン第四読本、スマイルズ著『自助論』を学ぶ。1889年(明治22年)愛知県尋常中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に入学し、ザ・セカンド・ナショナル読本を学ぶも、1890年(明治23年)2月退学し、四日市から海路で上京、伯父である鵜飼大俊和尚旧居である芝・増上寺の通元院に寄寓し、のち現在の銀座に当たる京橋にあった長兄野口秀之助の知人である磯長宅に寄寓。
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青山 寛(あおやま ひろし、1875年(明治8年)9月19日… 青山 寛(あおやま ひろし、1875年(明治8年)9月19日 - 1946年(昭和21年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛知県愛知郡長湫村(現長久手市)で、青山甚兵衛の長男として生まれる。1896年(明治29年)陸軍士官学校第8期卒業。日露戦争に出征。 1917年(大正6年)8月に大阪連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐、1920年(大正9年)8月に近衛歩兵第4連隊長を経て、1924年(大正13年)2月に陸軍少将・第10師団司令部附となる。その後、1925年(大正14年)4月に歩兵第22旅団長を経て、1928年(昭和3年)3月8日に待命、同月29日に予備役に編入した。
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神野 三郎(かみの さぶろう、1875年(明治8年)5月28… 神野 三郎(かみの さぶろう、1875年(明治8年)5月28日 - 1961年(昭和36年)4月30日)は、愛知県西春日井郡清洲村(現・清須市)出身の実業家。養父である初代神野金之助の下で神野新田の開拓責任者となり、また1943年(昭和18年)に設立された中部瓦斯の初代社長を務めた。豊橋市名誉市民。出生名は竹田 三郎(たけだ さぶろう)。 改称については明らかとなる資料は見つかって無く諸説あるが、書籍の神野三郎伝に神野三郎の昭和34・35年頃の談話として、改称について次のような記述がある。 「最初は、確かに、ジンノだった。新田もジンノ新田だったが、大正の始め頃本家が、カミノと改めたので、わしのほうも、自然と、カミノになったのだ。
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蟹江 一太郎(かにえ いちたろう、1875年2月7日 - 1… 蟹江 一太郎(かにえ いちたろう、1875年2月7日 - 1971年12月20日)は、日本の実業家。カゴメ創業者。「トマト王」とも称される。 元カゴメ社長の蟹江一忠は養子。元カゴメ社長の蟹江嘉信は孫。カゴメ不動産社長の蟹江信孝は孫。 1875年(明治8年)、愛知県知多郡名和村(現・東海市名和町)に農家の長男として出生。当時の名前は佐野市太郎。1893年(明治26年)18歳で蟹江家に婿入りしたが、近隣に蟹江市太郎という同姓同名の人物がいたため、名を一太郎に改名した。 1896年(明治29年)、名古屋にあった歩兵第6連隊に入隊し、3年間の兵役を務め上げた。除隊の折り上官の西山中尉より西洋野菜の栽培を勧められ、1899年(明治32年)にトマトなどの西洋野菜の栽培に着手。
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岡田 紋三郎(おかだ もんさぶろう、1875年〈明治8年〉1… 岡田 紋三郎(おかだ もんさぶろう、1875年〈明治8年〉1月28日 - 1954年〈昭和29年〉)は、愛知県宝飯郡西浦村(現・蒲郡市)出身の地方自治功労者。 1875年(明治8年)1月28日、愛知県宝飯郡西浦村102番地(現・蒲郡市西浦町)に生まれた。父は岡田紋太郎であり、紋三郎は長男だった。 1901年(明治34年)4月に26歳で西浦村収入役に就任したが、同年10月に収入役を辞任して西浦村会議員に就任した。1907年(明治40年)には初めて西浦村長に就任。1947年(昭和22年)3月まで西浦村会議員の座にあり、この間には3期間計17年間に渡って西浦村長の座にもあった。 日露戦争後には西浦村大山、長瀬、稲村、折敷田にまたがる官有地が民間に払い下げられることになり、村外から高額の資金で払い下げを求める人物も現れたが、岡田は西浦村公債を発行してこの土地を西浦村の財産とした。
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石原 平左衛門(いしはら へいざえもん、前名・悦太郎、187… 石原 平左衛門(いしはら へいざえもん、前名・悦太郎、1875年〈明治8年〉1月25日 - 没年不明)は、日本の商人(銅鉄商、金物商、鍛冶平)、愛知県多額納税者。族籍は愛知県平民。 愛知県人・先代平左衛門の長男。先々代の平左衛門は鍛冶職を業とし、後に金物商を営み石原家の基礎を為す。1903年、家督を相続し、前名悦太郎を改め襲名する。祖業を承けて「かぢ平」と称し銅鉄金物卸商を営む。 愛知県多額納税者であり、貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は愛知県名古屋市西区押切町2丁目、東柳町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 197… 新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 1974年11月4日)は、日本の歴史学・教育学者。 愛知県名古屋市生まれ。実家は旧尾張藩の藩主の鉄砲を管理する御手筒同心の家柄だった。旧制第一高等学校から東京帝国大学(現 東京大学)文科大学史学科卒業。1903年に広島高等師範学校に赴任し、日本最初の「歴史教授法」を開講した。1908年にライプツィヒ大学に留学しカール・ランプレヒトに師事、1912年帰国。1916年“Die Geschichte der Buke- Herrschaft in Japan”(邦訳『日本における武家政治史』)により文学博士を取得。 1929年広島文理科大学教授、史学科初代主任教授、国史学・西洋史学を専攻。
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渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年〈明治7年〉… 渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年〈明治7年〉4月16日 - 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の陸軍軍人。陸士8期・陸大17期首席。最終階級は陸軍大将。位階勲等は 従二位勲一等功五級。 1874年(明治7年)、愛知県小牧町(現:小牧市)に生まれる。煙草商である和田武右衛門の長男であったが、19歳の時に、同県岩倉町(現:岩倉市)の母親の実家である農業・渡辺庄兵衛の養子となった。貧窮のために小学校を中退せざるを得なかった。満20歳となった1894年(明治27年)4月に徴兵検査を受けて甲種合格し、同年8月、陸軍士官学校の召募試験に合格し、陸士8期を卒業して陸軍歩兵将校となった。
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稲田 龍吉(いなだ りょうきち、1874年(明治7年)3月1… 稲田 龍吉(いなだ りょうきち、1874年(明治7年)3月18日 - 1950年(昭和25年)2月27日)は、愛知県名古屋市出身の細菌学者。九州帝国大学医学部第一内科初代教授、恩賜財団母子愛育会愛育研究所(現・日本総合愛育研究所)初代所長を歴任。東京大学名誉教授、医学者。 洋学校を経て上京し、共立学校などの予備校に在籍した後、第一高等中学校を経て1895年(明治28年)帝国大学医科大学(現 東京大学医学部)に入学、1900年(明治33年)に首席で卒業し、青山胤通教授の内科教室に入局。 1902年(明治35年)から文部省海外留学生としてドイツに公費留学。1905年(明治38年)京都帝国大学福岡医科大学内科学第一講座初代教授に着任(現九州大学医学部第一内科(病態修復内科))。
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本多 敏樹(ほんだ としき、1874年2月27日 - 196… 本多 敏樹(ほんだ としき、1874年2月27日 - 1968年2月8日)は、日本の政治家。第2-4代岡崎市長(3期)。 旧藩主本多家の出身であったことから「殿様市長」として親しまれた。旧岡崎藩主17代目の本多忠敬(ただあつ)は実兄。 愛知県岡崎市生まれ。学習院、札幌農学校を経て、1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学に入学。大学を中退したあと、1904年(明治37年)、陸軍歩兵少尉として日露戦争に従軍。勲六等単光旭日章受章。退役後、北海道庁技師に任官し未開地開発にとりくむ。勲五等瑞宝章を受章。 1918年(大正7年)7月12日、郷里岡崎の初代市長・千賀又市が公務執務中にたおれ、その日のうちに49歳で死去。
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前田 栄次郎(まえだ えいじろう、明治7年(1874年) -… 前田 栄次郎(まえだ えいじろう、明治7年(1874年) - 昭和36年(1961年))は、愛知県豊田市出身の実業家。
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川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年〈明治6年〉11月… 川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年〈明治6年〉11月24日 - 1957年〈昭和32年〉6月30日)は、明治・大正・昭和時代の日本で活動した日本画家。本名は 川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)。画号は当初「玉舟(ぎょくしゅう)」、間もなく「玉堂」に改め、晩年は終の棲家と同名の「偶庵(ぐあん)」を別号として用いた。長男の真一は化学者で東京教育大学名誉教授。 愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町外割田)にて、1873年(明治6年)11月24日、筆墨紙商の長男として生まれる。1881年(明治14年)、一家は岐阜市に移住する。絵には12歳頃から親しむようになったという。1886年(明治19年)、京都の画家・青木泉橋が岐阜に来住すると、夫人も翠蘋と号する美人画家で、芳三郎少年は青木夫妻の知遇を得て大いに刺激を受けたという。
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宮川 春汀(みやがわ しゅんてい、明治6年〈1873年〉11… 宮川 春汀(みやがわ しゅんてい、明治6年〈1873年〉11月11日 - 大正3年〈1914年〉7月26日)とは、明治時代の浮世絵師。富岡永洗の門人。他に洗圭、漁史と号し、Sとも記す。 三河国渥美郡畠村(現・愛知県田原市福江町)に廻船業と薬種問屋を営んでいた豪商・渡辺家に生まれた。名は守吉。1878年(明治11年)に母が絶家となっていた宮川家を継いだため、守吉も宮川を名乗る。 12歳の時、敷知郡誠明教育会主催の展覧会で作文・図画の一等賞を受賞。14歳の時、漢書の筆写を好んで絵を模写する。1890年(明治23年)得意としていた画業を志し、全ての財産を整理して上京、富岡永洗について絵を学んだ。春汀が画家となった理由は不明だが、同郷の日本画家・渡辺小華に憧れたからとする説がある。
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ガントレット 恒(ガントレット つね / Gauntlett… ガントレット 恒(ガントレット つね / Gauntlett, Tsuneko、通名はガントレット 恒子、1873年(明治6年)10月26日 - 1953年(昭和28年)11月29日)、は明治から昭和初期に活動した社会運動家、婦人参政権運動家。エドワード・ガントレットの妻で、作曲家山田耕筰の姉でもある。 愛知県碧海郡箕輪村(現在の安城市箕輪町)生まれ。父の山田謙造は牧師、母は久である。代々医師の家系であったが、謙造は放蕩に明け暮れていたため、母久子は恒子をおぶり父の元をさった。母は東京の妹夫婦を訪ねた。妹は後の癩病の施設を設立した熱心なクリスチャン、大塚正心の妻となっていた。のちに父、謙造も後を追って上京したが、大塚は恒子をこの乱脈な生活の中点に置くよりも、桜井女塾の寄宿舎に入れる方が良いと判断し、6歳の恒子を寄宿舎に入れた。
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岡田撫琴(おかだ ぶきん、1873年 - 1940年5月10… 岡田撫琴(おかだ ぶきん、1873年 - 1940年5月10日)は、日本の新聞事業者、文人、政客。1915年(大正4年)開催の「家康忠勝両公三百年祭」を実行面で取りしきった。近代岡崎市の文化発展に寄与した人物の一人。 千賀伝左衛門の孫として生まれる。本名は岡田太良次郎。生まれるとすぐに岡崎投町(現・岡崎市若宮町)の醤油業岡田壮太郞のもとへ養子にやられる。養父壮太郎は梅園町の誓願寺境内の茶室「不蔵庵」の維持に尽くしていたので、撫琴は「不蔵庵の息子」と呼ばれた。 岡崎連尺町(現・岡崎市連尺通)の大賀屋の植田石芝から俳句の手ほどきを受け、16、17歳の頃から俳人として頭角を現した。正岡子規の俳句運動の影響を受け俳句雑誌『甲矢』(はや)を発行。
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小瀧 喜七郎(おだき きしちろう、1872年6月23日(明治… 小瀧 喜七郎(おだき きしちろう、1872年6月23日(明治5年5月18日) - 1951年(昭和26年)12月14日)は、日本の政治家。第4代岡崎市長(1期)。助役時代より岡崎公園の修築・改修に力を入れたため、公園助役、公園市長とよばれた。企業の誘致にも積極的で、日清レーヨン、日本レーヨンなどを誘致した。 額田県八町村(現・愛知県岡崎市八帖南町)で岡崎藩士の子として生まれる。1886年(明治19年)2月、真宗三河教校に入学し英語を学ぶ。1887年(明治20年)7月8日、同校を卒業。1891年(明治24年)1月から1892年(明治25年)10月まで名古屋市の私立誠心塾で漢学・剣道を修める。同年12月11日から数度にわたり兵役につき、日清戦争と日露戦争に従軍した。
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錦戸 春吉(にしきど はるきち、1872年4月21日(明治5… 錦戸 春吉(にしきど はるきち、1872年4月21日(明治5年3月14日) - 1945年4月24日)は、愛知県豊川市赤坂町出身(当時は額田県赤坂町)で錦戸部屋に所属した力士。本名は吉澤 春吉(旧姓:大場)。5代錦戸。164cm、96kg。最高位は西前頭15枚目。 静岡県で草相撲をしていたが、1891年5月錦戸部屋に入門し初土俵を踏む。1901年5月、29歳で十両昇進。そして1909年6月、旧両国国技館が開館した場所に初土俵から18年、37歳にして新入幕を果たした。幕内在位は1場所のみで、その後幕下まで陥落。すでに二枚鑑札となっており、1911年6月に引退して、親方業に専念した。一時、招猫の四股名を名乗った。
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斎藤 常三郎(旧字体:齋藤 常三郎、さいとう つねさぶろう、… 斎藤 常三郎(旧字体:齋藤 常三郎、さいとう つねさぶろう、1871年〈明治4年〉11月14日 - 1921年〈大正10年〉10月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。栄典は従四位勲二等功三級。 愛知県碧海郡土井村辻(現・岡崎市土井町)出身。斎藤兵三郎の四男。赤渋小学校卒業後、同校助教を務め、宮地小学校への合併後も同職。1891年(明治24年)に小学校教員免許を正式に取得。成城中学校を経て翌年桑子小学校訓導となるも、同年士官候補生として近衛歩兵第2連隊に入営。1895年(明治28年)陸軍士官学校第6期卒業。日清戦争では台湾に派遣され、三角湧や龍潭城、新竹を転戦するもマラリアに罹患し新竹兵站病院に入院。
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朝倉 虎治郎(あさくら とらじろう、1871年10月29日〈… 朝倉 虎治郎(あさくら とらじろう、1871年10月29日〈明治4年9月16日〉 - 1944年〈昭和19年〉5月3日)は、日本の商人(米商)、東京府多額納税者、渋谷区多額納税者、実業家、政治家。東京府会議員、同議長。東洋青物市場顧問。族籍は東京府平民。旧姓は杉浦。 愛知県碧海郡旭村(現・碧南市)に杉浦家の二男として生まれた。小学校を5年で中退した。東京深川木場の材木店で働いた。 1897年に朝倉たきの入婿となり、1899年に家督を相続した。三田用水の朝倉水車業を手伝う。精米業を営み、「丸朝商店」と称した。 1904年、養父・徳次郎の後を継いで、渋谷村会(のち渋谷町会)議員に推挙された。家業の傍ら自治の仕事に携わった。
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大島 慶治郎(おおしま けいじろう、1871年9月16日 -… 大島 慶治郎(おおしま けいじろう、1871年9月16日 - 1935年5月12日)は、大正から昭和時代前期にかけて活動した日本の実業家、新聞経営者。愛知県東春日井郡小幡村(現在の名古屋市守山区)出身。名前の表記を「慶次郎」とする資料も見られる。 明治4年8月2日(西暦1871年9月16日)、新愛知新聞社を創業した大島宇吉の長男として出生。宇吉は小幡大島本家10代・大島宇右衛門の三男として出生したのち東大島家を分家した大島為三郎の養子となっていたが、慶治郎は宇吉の次兄で伯父に当たる12代・大島竹三郎の養子として小幡大島本家を継ぎ第13代当主となった。 愛知県立第一中学校を卒業したのち日露戦争当時は小幡村の村長を務め、村政への功により勲七等青色桐葉章を受章している。
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平野 秋夫(ひらの あきお、1871年8月17日〈明治4年7… 平野 秋夫(ひらの あきお、1871年8月17日〈明治4年7月2日〉 - 1949年〈昭和24年〉10月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。幼名は倉吉。 愛知県海東郡内佐屋村(佐依木村、佐屋村、佐屋町を経て現愛西市)に生まれる。1894年(明治27年)陸軍士官学校第5期卒業。 1916年(大正5年)8月に大村連隊区司令官、1917年(大正6年)8月に陸軍歩兵大佐、1918年(大正7年)12月に歩兵第38連隊長を経て、1922年(大正11年)2月に陸軍少将に昇進と同時に待命、同年5月に予備役に編入した。 退役後は京都市伏見区に住んだ。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
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大口 喜六(おおぐち きろく、1870年6月23日(明治3年… 大口 喜六(おおぐち きろく、1870年6月23日(明治3年5月25日) - 1957年(昭和32年)1月27日)は日本の政治家。豊橋市長や明治憲法下の衆議院議員などを務めた。 大口喜六は廃藩置県前の三河国豊橋藩船町(現愛知県豊橋市船町)で明治3年5月25日(1870年6月23日)に生まれた。幼名理一郎、号は蓊山。東京帝国大学選科で薬学を学び、帰郷後薬局を開業した。 政治家を志し、1893年(明治26年)、改進党に入党。1895年(明治28年)、豊橋町議に当選、1898年(明治31年)三浦碧水の後継者として豊橋町長に就任した。 1906年(明治39年)8月1日市制を施行し、初代市長に選ばれた。翌年1907年(明治40年)に豊橋市長に就任、1912年(明治45年)に市長を退任した。
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近藤 寿市郎(こんどう じゅいちろう、1870年5月15日(… 近藤 寿市郎(こんどう じゅいちろう、1870年5月15日(明治3年4月15日) - 1960年(昭和35年)4月14日)は、愛知県渥美郡高松村(現・田原市)出身の政治家。愛知県東三河地域を日本有数の農業生産地に変えた豊川用水の構想発案者として知られる。渥美郡会議員、愛知県会議員、衆議院議員、豊橋市第12代市長、建設会社の東海興業初代社長。 1870年(明治3年)、愛知県渥美郡高松村(現・田原市高松町)で、庄屋を務めていた家の長男として生まれた。 小学校の高等科卒業後、15歳の時に「これからの国民は法律をわきまえなければならない」と考えて、家族に告げることなく父の友人を頼って東京に上り、明治法律学校へ入校した。
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