小谷 剛(こたに つよし、1924年9月11日-1991年8… 小谷 剛(こたに つよし、1924年9月11日-1991年8月29日)は、医師、作家。 京都市生まれ、愛知県名古屋市育ち。旧制東海中学、名古屋帝国大学附属医学専門部卒業。 名古屋市中川区で産婦人科医院を開業、同人雑誌『作家』を主宰する。1949年上半期、「確証」で戦後復活した最初の芥川賞を受賞する。医師として活動しながら『作家』の刊行を続け、後進を育成した。 小谷の死去後、『作家』は1992年1月号をもって月刊誌としての刊行を終了。後継誌として『季刊作家』が創刊された。
榎原 好(えばら よしみ、1924年9月3日 - 1998年… 榎原 好(えばら よしみ、1924年9月3日 - 1998年5月27日)は、プロ野球選手(投手)・野球解説者。左投両打。
廣瀬杲(ひろせ たかし、1924年6月22日 - 2011年… 廣瀬杲(ひろせ たかし、1924年6月22日 - 2011年12月30日)は、日本の仏教学者(真宗学)。大谷大学名誉教授。同大学学長を歴任。 京都市生まれ。1953年大谷大学文学部真宗学専攻卒業。1960年大谷大学講師、1961年助教授、1965年教授、1980-1986年学長を務め、1990年退職、名誉教授となる。
玉城 逸夫(たまき いつお、1924年6月10日 - 200… 玉城 逸夫(たまき いつお、1924年6月10日 - 2008年8月31日)は、京都府京都市出身の日本の土木・地球物理学者。大阪工業大学名誉教授。理学博士(京都大学)。物理探査学会元理事・名誉会員。勲三等瑞宝章受章。 専門は、地球物理学・地震工学、測量学、土木地質学・地学/地すべり学。 1950年京都大学理学部地球物理学科卒業。京都大学第1期特別研修生となり、修了後、1954年大阪工業大学に着任、工学部にて土木工学教育・研究を担当。1962年京都大学より論文「地震活動度と地殻構造の結びつき : 特に日本地域について」で理学博士の学位を取得。同年、大阪工業大学教授に就任。1965年同大学中央研究所所属となる。
渡辺 仁治(わたなべ としはる、1924年6月6日 - 20… 渡辺 仁治(わたなべ としはる、1924年6月6日 - 2009年4月7日)は、日本の陸水学者。元奈良女子大学教授。日本珪藻学会名誉会長。 旧制京都府立第三中学校(現・京都府立福知山高等学校)を経て、1948年3月に金沢高等師範学校生物科を卒業する。1949年3月からは奈良女子高等師範学校文部教官、1952年3月から奈良女子大学付属高校・中学校教諭となり、1965年3月まで務める。 一方、研究活動では1953年1月より京都大学理学部大津臨湖実験所の院外研究者となる(1963年3月まで)。この間、1961年7月に京都大学より理学博士号を取得した。 1965年4月より奈良女子大学理学部助手となる。その後、1972年2月に同大学助教授、同年3月に金沢大学教養部教授。
吉川 経夫(きっかわ つねお、1924年6月4日 - 200… 吉川 経夫(きっかわ つねお、1924年6月4日 - 2006年8月31日)は、日本の法学者。法政大学名誉教授(刑法)。京都府京都市出身。長男の純は弁護士。弟の進三は同志社大学教授。 刑法学説の位置づけとしては、自由主義的でありながら、法律の権威を守ることも重視する、大場茂馬以来の後期旧派(後期古典派)の系譜に属する。 2006年8月31日19時、膵臓がんのため東京都内の自宅で死去。82歳没。
前田 信二郎(まえだ しんじろう、1924年5月30日 - … 前田 信二郎(まえだ しんじろう、1924年5月30日 - 1974年3月3日)は、刑法学者、犯罪学者。 京都市生まれ。1948年京都帝国大学法学部卒。研究生をへて1953年近畿大学法学部助教授、教授、琉球大学教授。49歳で死去。売春、サド裁判などについても研究した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中島 千恵子(なかじま ちえこ、1924年5月21日 - 1… 中島 千恵子(なかじま ちえこ、1924年5月21日 - 1999年11月16日)は、日本の児童文学作家・放送作家。 京都市出身。1949年同志社大学文学部卒。長浜市立図書館館長を経て、滋賀文教短期大学教授を務めた。1967年「まめだの三吉」で毎日児童小説入選、1968年『タブーの島』で毎日児童小説入選。ラジオ作品に「山にあるいのち」「日本海」などがある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
徳網 茂(とくあみ しげる、1924年3月30日 - 197… 徳網 茂(とくあみ しげる、1924年3月30日 - 1976年5月23日)は京都府出身のプロ野球選手、野球指導者。
神谷 信之助(かみたに しんのすけ、1924年3月15日 -… 神谷 信之助(かみたに しんのすけ、1924年3月15日 - 1999年1月8日)は日本の政治家。参議院議員(日本共産党公認、通算3期)。日本共産党中央委員会名誉幹部会委員。 京都府京都市下京区出身。日活撮影所の表具師の長男。1941年(昭和16年)旧制京都第二中学校卒業後、学徒出陣して久留米陸軍予備士官学校に入学。1945年(昭和20年)に東亜同文書院大学を卒業。翌年西日本新聞政治部記者となるが、二・一ゼネスト参加を理由に解雇される。1948年(昭和23年)京都府職員となり労働組合活動を始め、翌年には京都府職員労働組合書記長に就任した。1952年には日本共産党へ入党すると共に府職員労働組合書記長となる。
奥山 融(おくやま とおる、1924年1月21日 - 200… 奥山 融(おくやま とおる、1924年1月21日 - 2009年11月7日)は、日本の実業家・映画プロデューサー。元松竹株式会社社長。創業家である白井家、大谷家以外からは永山武臣以来2人目の社長であった。父は元松竹専務の奥山市三、次男は元松竹専務でチームオクヤマ代表の奥山和由。 京都市出身。京都府立京都第一中学校、第五高等学校を経て、1947年京都帝国大学法学部政治学科卒業。同年大和証券入社。1951年松竹入社。主に映画興行部門、国際部門を歩き、1955年プロデューサー、国際部長を経て1968年取締役、1971年常務、1974年専務、1978年副社長。1986年、松竹大船撮影所50周年を期して「ニュー大船調」を打ち出す。
川勝 堅二(かわかつ けんじ、1924年1月16日 - 20… 川勝 堅二(かわかつ けんじ、1924年1月16日 - 2010年7月4日)は、日本の実業家。三和銀行会長兼頭取や、UFJ銀行名誉顧問を務めたほか、経団連副会長等の公職も務めた。1987年ベルギー王冠勲章コマンドール章受章、1991年エセックス大学名誉博士、1992年大英帝国勲章受章、1994年勲一等瑞宝章受章。 京都府亀岡盆地の八木町出身。実家は呉服店。旧制京都府立園部中学校(京都府立園部高等学校の前身)を経て、1942年4月、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)予科入学。クラスの同級生には速水優(元日本銀行総裁)や本間要一郎(横浜国立大学名誉教授)、岡稔(元一橋大学教授)が、他クラスの同期に俳優の久米明がいる。
寿岳 章子(じゅがく あきこ、1924年1月2日 - 200… 寿岳 章子(じゅがく あきこ、1924年1月2日 - 2005年7月13日)は、日本の国語学者・エッセイスト・社会活動家。 寿岳文章・寿岳しづ夫妻の長女として京都府に生まれる。弟は天文学者の寿岳潤。 旧制京都府立第一高等女学校、旧制京都府立女子専門学校を経て、1946年(昭和21年)に東北帝国大学法文学部を卒業、京都大学大学院へ進学。京都府立大学助教授、教授として同大学に36年間勤務。 墓所は南禅寺慈氏院。 寿岳の研究業績としては、室町時代の口語資料である抄物の研究が挙げられる。寿岳は抄物の語句や文章形態や文法構造について、抄物を語った人物の声として捉えようとした。あくまでも生きた人間の言葉に目を向け、抄物それ自体の言葉に深く切り込んで、その性格を解明して資料性を保証したのである。
荒木 雅子(あらき まさこ、1924年1月2日 - )は、日… 荒木 雅子(あらき まさこ、1924年1月2日 - )は、日本の女優。本名は荒木美代子。旧芸名、忍 美代子。京都府京都市出身。父親は荒木忍。血液型はA型。松竹芸能所属。元新春座座員。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。 この項目は、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:アニメ/PJ:声優)。
山寺 秀雄(やまてら ひでお、1924年 - )は、日本の化… 山寺 秀雄(やまてら ひでお、1924年 - )は、日本の化学者。理学博士。専門は、無機化学で、名古屋大学名誉教授、大同工業大学名誉教授。京都府出身。
秋山 十三子(あきやま とみこ、1924年(大正13年) -… 秋山 十三子(あきやま とみこ、1924年(大正13年) - 1997年(平成9年)7月11日)は、京都市生まれの随筆家。京都の風物や暮らしに関する著作などがある。 京都府京都市の祇園近く白河周辺で9代続いた造り酒屋に生まれる。京都府立第二高等女学校(現・京都府立朱雀高等学校)高等科卒業。婦人雑誌の読者欄投稿で佳作を受賞して以降、家事のかたわらで執筆活動をする。1984年(昭和59年)に単著で京都の言葉を巧みに自然な文体で書かれた『私の手もと箱 京暮らしの四季』を出版。ほかにも主婦の目から見つめた京都の風物や暮らし、おばんざい、酒造り唄などに関する著作があり、京都の女流随筆家として注目された。『豆腐の話』という著作では、参考文献をあげつつ、エッセイにとどまらない、京都のお豆腐が生活に根付いている様子がわかる内容となっている。
中村 尚夫(なかむら ひさお、1923年12月17日 - 2… 中村 尚夫(なかむら ひさお、1923年12月17日 - 2008年6月25日)は、日本の経営者。クラレ社長を務めた。京都府京都市出身。 第三高等学校を経て、1948年に京都大学経済学部を卒業し、1950年に同大学院を修了し、同年にクラレに入社した。 1972年11月に取締役に就任し、1976年6月には常務に就任し、1981年6月には副社長に就任した。 1985年6月には社長に昇格し、1993年6月には会長に就任した。2000年6月から相談役に就任した。 1990年11月に藍綬褒章を受章し、1996年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2008年6月25日急性冠症候群のために兵庫県宝塚市の病院で死去。
巽 外夫(たつみ そとお、1923年(大正12年)10月7日… 巽 外夫(たつみ そとお、1923年(大正12年)10月7日 - 2021年(令和3年)1月31日)は、日本の実業家。住友銀行頭取を歴任したほか、マツダ再建に尽力したことでも知られる。福井県出身。旧姓は中野。 旧制京都府立桃山中学校、旧制松江高等学校を経て、1947年京都大学法学部を卒業後、住友銀行入行。 1963年平野支店長、本店営業部次長、一宮支店長、1968年審査第二部長、1971年審査第一部長、融資部長を経て、1972年取締役。1975年常務取締役。1979年代表取締役専務。1982年副頭取。 1975年に東洋工業(現:マツダ)の再建を担当。同社とフォード・モーターの資本提携交渉では橋渡しを務め、米国の独占禁止法の審査では英語で証言に臨むなど奔走した。
前川 道介(まえかわ みちすけ、1923年9月2日 - 20… 前川 道介(まえかわ みちすけ、1923年9月2日 - 2010年6月11日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。同志社大学名誉教授。 京都市出身。京都大学文学部卒業。同大学院中退、1954年天理大学助教授、1956年西京大学助教授(1958年、京都府立大学に改称)、1967年同志社大学教授、1989年定年退任し名誉教授。 国書刊行会「ドイツ・ロマン派全集」責任編集を務めた。ドイツ文学の怪奇・幻想文学を多く翻訳し、評論を刊行した。 2001年春、勲三等瑞宝章を受章。2010年、呼吸不全により死去(没年86歳)。
大北 一夫(おおきた かずお、1923年9月1日 - 200… 大北 一夫(おおきた かずお、1923年9月1日 - 2001年9月10日)は、日本の経営者。昭和シェル石油社長を務めた。京都府京都市出身。 1947年に同志社大学文学部社会学科を卒業し、函館ドックでの勤務を経て、1949年にシエル石油に入社。1969年に取締役に就任し、1975年に常務、1978年に専務、1981年に副社長を経て、1982年には社長に就任。昭和石油との合併を取り仕切り、1985年に昭和シェル石油社長に就任。1989年3月に副会長に就任し、1991年3月に取締役相談役を経て、1993年3月に相談役に就任。 1985年11月に藍綬褒章を受章し、1996年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2001年9月10日に肺炎のために神奈川県横浜市の病院で死去。
野長瀬 三摩地(のながせ さまじ、1923年8月30日 - … 野長瀬 三摩地(のながせ さまじ、1923年8月30日 - 1996年5月23日)は、日本のテレビ監督、脚本家。京都府京都市出身。別名:南川 竜、南川 龍。 父は大正画壇で活躍した野長瀬晩花。伯父はトピー工業創業者の一人である野長瀬忠男。 野長瀬氏の末裔で、本名の三摩地は仏教用語のサマディー(三昧)にちなんで名付けられた。 幼少より父に連れられてよく映画を観に行き、映画制作の道を志す。 1946年に日本大学芸術学部映画学科を卒業し、東宝に入社。渡辺邦男、青柳信雄、本多猪四郎らの助監督を務め、主に杉江敏男監督作品に従事。黒澤明監督の『蜘蛛巣城』『どん底』(1957年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)ではチーフ助監督を務めた。
井上 梅次(いのうえ うめつぐ、1923年5月31日 - 2… 井上 梅次(いのうえ うめつぐ、1923年5月31日 - 2010年2月11日)は、日本の映画監督、脚本家、作詞家である。 京都市生まれ。京都市立第一商業学校を卒業後、慶應義塾大学経済学部に入学するも、1943年応召、1945年に復学して1947年に卒業。在学中から出入りしていた新東宝に正式に入社。自作の脚本を盛んに売り込み、1952年、わずか5年で『恋の応援団長』で監督に昇進。雪村いづみの音楽映画などを手掛けた。 1955年、日活に移籍。当時売り出し中の石原裕次郎の映画を担当し、『嵐を呼ぶ男』が大ヒット。裕次郎は大スターとしての地位を確立した。 1960年フリーになり、新東宝、日活以外の邦画四社で活躍。
重森 完途(しげもり かんと、1923年5月19日 - 19… 重森 完途(しげもり かんと、1923年5月19日 - 1992年12月31日)は日本の作庭家。造園家。造園史家。庭園研究家で京都林泉協会会長等を歴任。重森三玲の長男。名前はイマヌエル・カントに由来する。 京都府京都市出身。1943年に早稲田大学文学部国文科を卒業後、兵役を経て1945年に重森三玲研究所で庭園の研究を開始するが、1955年には重森完途庭園設計研究所を設立し、設計活動を開始する。1958年より芝浦工業大学講師を兼任する。1966年、外務省文化使節としてオセアニアに派遣される。京都工芸繊維大学講師で作庭家の重森千青は息子である。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
町井 正登(まちい まさと、1923年(大正12年)5月8日… 町井 正登(まちい まさと、1923年(大正12年)5月8日 - 2006年(平成18年)10月17日)は、日本の政治家。舞鶴市長。舞鶴市名誉市民。1979年から1995年まで、4期16年に渡り舞鶴市長を務めた。 京都府綾部市生まれ。金沢高等工業学校(現・金沢大学)を卒業後、舞鶴市役所へ就職。助役を務めたのち、1979年市長選に出馬し当選。在任期間中は、道路や市民病院の整備を進めたほか、軍港である赤煉瓦を見直して舞鶴市政記念館をオープンするなど、多くの公共事業を進めた傍ら、財政については黒字を維持することに成功した。 1995年、妻の体調を理由に不出馬。同年、舞鶴市名誉市民条例にもとづき、名誉市民の認定を受ける。
大西 秀明(おおにし しゅうめい、1923年5月3日 - 没… 大西 秀明(おおにし しゅうめい、1923年5月3日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画製作者である。当初、本名の大西 三郎(おおにし さぶろう)で俳優として活動、戦後、上記の筆名で助監督から監督へ昇進、のちに大西 孝典(おおにし こうてん)、橋本 忠典(はしもと ちゅうてん)とも名乗る。 1923年(大正12年)5月3日、京都府南桑田郡亀岡町(現在の同府亀岡市)に生まれる。 1938年(昭和13年)3月、旧制・亀岡尋常高等小学校(現在の亀岡市立亀岡小学校)を卒業、その3年後の1941年(昭和16年)、京都・太秦の日活京都撮影所(のちの大映京都撮影所)に入社、俳優課に配属される。「持ち前の明るい人柄」を評価され、前年に自らのプロダクションを解散して日活に入社して当時同社の看板スターだった片岡千恵蔵の内弟子になる。
粟津 正蔵(あわづ しょうぞう、1923年4月18日 - 2… 粟津 正蔵(あわづ しょうぞう、1923年4月18日 - 2016年3月17日)は、日本の柔道家(講道館九段)。 戦前から戦後にかけての現役選手時代は明治神宮競技大会や全日本選手権大会等で活躍。1950年代以降はフランスにおいて半世紀以上に渡り柔道を指導し、その礎を築いた。その功績から1999年にはフランス政府よりレジオンドヌール勲章を受賞し、“フランス柔道育ての父”として知られている。 現在の京都府京都市山科区安朱東海道町に生まれる。5歳で柔道を始め、小学生の頃から全国有数の強豪校である市立第一商業学校(現:市立西京高校)に出入りして稽古に汗を流し、そのまま同校へ進学。市立第一商業学校時代には1年生の頃から活躍しその黄金期の立役者となったほか、平野時男や大館三郎らと共に京都府代表として出場した1939年と1949年の明治神宮競技大会柔道競技(中等学校の部・団体戦)では連覇を果たしている。
堂本 元次(どうもと もとつぐ、1923年〈大正12年〉4月… 堂本 元次(どうもと もとつぐ、1923年〈大正12年〉4月9日 - 2010年〈平成22年〉1月4日)は、京都市出身の日本画家。本名は塩谷 元次。 日本画家堂本印象の長兄、堂本寒星の養子。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小橋 一郎(こばし いちろう、1923年(大正12年)2月1… 小橋 一郎(こばし いちろう、1923年(大正12年)2月14日 - )は、日本の法学者。専門は、商法・会社法)。学位は、法学博士(大阪大学・論文博士・1962年)。同志社大学名誉教授。勲三等旭日中綬章受章。 京都府京都市生まれ。1940年(昭和15年)3月京都府立京都第一中学校卒業。1945年(昭和20年)、立命館大学法文学部卒業。学位は、法学博士(大阪大学、1962年)(学位論文「手形行為論」)。2000年(平成12年)4月、勲三等旭日中綬章受章。
安立 スハル(あんりゅう すはる、1923年1月28日 - … 安立 スハル(あんりゅう すはる、1923年1月28日 - 2006年2月26日)は、昭和・平成期の歌人。京都府京都市東山区出身。 1939年、肺結核の療養中に作歌を始める。1940年、京都府立桃山高等女学校卒業。1941年、北原白秋主宰の歌誌「多磨」入会。1949年、宮柊二に初めて会い、指導を受けるようになる。1953年、宮柊二主宰の歌誌「コスモス」創刊に参加。1956年、第三回コスモス賞受賞。1964年、第一歌集『この梅生ずべし』を刊行。生前に歌集はこの一冊のみである。母親の介護を終えて間もなく、83歳で死去。生涯独身だったという。 少女時代から肺結核による長い療養生活を送り、多くの歌人にその作品を慕われながらも素顔さえあまり見せないという地味な生涯だった。
杉之原 壽一(すぎのはら じゅいち、1923年1月15日 -… 杉之原 壽一(すぎのはら じゅいち、1923年1月15日 - 2009年7月15日)は、日本の社会学者。神戸大学名誉教授。部落問題研究の中心的な論客の一人である。京都府出身。 京都市生まれ。1943年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。京都大学人文科学研究所助手を経て、1986年まで神戸大学文学部教授。日本学術会議会員。 部落の中で階層分化が進行していることを実態調査から明らかにし「アメリカ帝国主義に従属する日本独占資本」を部落差別の主敵とする日本共産党の主張の正当性を訴えていたが、当の共産党が国民融合論を提唱した後には一転し、同じ調査を根拠に部落差別は解消しつつあるとの立場を取るようになった。1984年、「現代部落差別の研究」で第9回野呂栄太郎賞を受ける。
竹岡 勝美(たけおか かつみ、1923年(大正12年) - … 竹岡 勝美(たけおか かつみ、1923年(大正12年) - 2016年(平成28年)7月22日)は、日本の官僚。位階は従四位。 元警察閣僚の四方修は実弟。 京都府亀岡市出身。警察庁で警察本部長を務め、首相官房を経て防衛庁で調達実施本部長。 警察庁交通規制課長時代の1970年、銀座通(中央通り (東京都)の銀座部分)他において日本初の歩行者天国を実施、またスクランブル交差点を発案。 冷戦終結まで盛んに喧伝された「ソ連脅威論」を、経験を元に“日本を自国の世界戦略に組み込んでおきたかったアメリカによるプロパガンダだった、その証拠に仮想敵国をソ連として北海道で行なわれた演習に米軍は参加しなかった”とインタビューで切り捨てた。
増田 眞一(ますだ みちかず、選挙時の通名:マスダシン一、1… 増田 眞一(ますだ みちかず、選挙時の通名:マスダシン一、1923年〈大正12年〉 - 2000年〈平成12年〉6月3日)は、日本の実業家、政治活動家(政事公団太平会同人)。 京都府舞鶴市出身。同志社大学法学部在学中に学徒出陣で応召。熊谷陸軍飛行学校特操2期生を経て、知覧特攻基地神鷲隊に配属される。1945年8月10日、ウィリアム・ハルゼー率いる米海軍機動部隊に向け出撃したが、天候不良と搭乗機の不調で突入に失敗、帰投。そのまま終戦を迎えた。 戦後復学して同大学院で田村徳治教授の薫陶を受け、皇国史観を保持しつつ労農運動に目覚める。その後地元で旅館、青年の家、マリーナ等経営の傍ら反基地闘争・反公害運動を行い、政治団体『政事公団太平会』を組織。
日比野 哲三(ひびの てつぞう、1922年11月30日 - … 日比野 哲三(ひびの てつぞう、1922年11月30日 - 1992年11月16日)は、日本の経営者。ニチメン社長を務めた。 京都府京都市出身。1947年に神戸経済大学を卒業し、同年に日綿実業(のちのニチメンに入社。1972年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1983年に副社長に就任し、1985年には社長に昇格。1989年から会長を務めた。 1984年に藍綬褒章を受章。 1992年11月16日、肝不全のために死去。69歳没。
梨本 徳彦(なしもと のりひこ、1922年(大正11年)11… 梨本 徳彦(なしもと のりひこ、1922年(大正11年)11月19日 - 2007年(平成19年)2月7日)は、日本の海軍軍人、皇族、華族。位階は従四位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終階級は海軍大尉。お印は鳳凰。梨本家(旧梨本宮家)前当主。皇族時代は徳彦王(久邇宮家)といい、臣籍降下後に梨本伊都子(梨本宮守正王妃)の養子となるまでは龍田 徳彦という。 1922年(大正11年)11月19日午後5時15分、久邇宮家の多嘉王と静子妃の第三王子として生まれる。 京都府立京都第一中学校を経て、1942年(昭和17年)、海軍兵学校を卒業(第71期)。同期には野村実など。同年11月19日に貴族院皇族議員となる。
西八條 實(にしはちじょう みのる、1922年11月15日-… 西八條 實(にしはちじょう みのる、1922年11月15日- 2015年2月1日 )は、日本の経営者、工学博士。島津製作所社長、会長を務めた。 京都府京都市出身。1945年に京都帝国大学工学部を卒業し、京大大学院に進学したが、1947年7月に中退し、島津製作所に入社。1973年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1985年3月に副社長に就任し、翌年6月には社長に昇格した。1992年6月から会長を務め、1998年6月から相談役を務めた。 1986年11月には藍綬褒章を受章し、1993年4月には勲二等瑞宝章を受章した。 1996年1月から1999年5月まで関西経済連合会の副会長。 2015年2月1日、老衰のために死去。
川勝 義雄(かわかつ よしお、1922年(大正11年)11月… 川勝 義雄(かわかつ よしお、1922年(大正11年)11月8日 - 1984年(昭和59年)4月4日)は、日本の東洋史学者。京都大学人文科学研究所教授。専門は六朝期の中国史、中国思想史。京都市生まれ。 京焼の一つ粟田口焼の窯元の息子として生まれ、京都府立第一中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校、京都帝国大学文学部卒業。京都大学人文科学研究所の司書系の助手になり、後研究系の助手、フランスに留学してヨーロッパ東洋学を学び、東洋学者アンリ・マスペロの著書を翻訳した。帰国後京都大学人文科学研究所教授在職中に没した。 内藤湖南・宮崎市定の魏晋南北朝時代を中世とする論を受け継ぐ京都学派の一人であり、特に中国の貴族制研究において谷川道雄と共に「豪族共同体論」を展開し、矢野主税・越智重明らと激しい論争を繰り広げた。
中村 金夫(なかむら かねお、1922年10月26日 - 1… 中村 金夫(なかむら かねお、1922年10月26日 - 1999年2月21日 )は、日本の経営者。日本興業銀行頭取を務めた。 京都府京都市出身。1947年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行した。1966年にハーバード大学経営大学院でAMPを修了。1972年11月に取締役に就任し、常務を経て、1982年6月に副頭取に就任し、1984年6月には頭取に昇格した。1990年6月に会長に就任。1988年11月に藍綬褒章を受章。 1999年2月21日、心不全のために死去。76歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
加藤 曻(加藤 昇、かとう のぼる、1922年(大正11年)… 加藤 曻(加藤 昇、かとう のぼる、1922年(大正11年)9月 - 2020年(令和2年)7月30日 )は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中尉。 京都府京都市出身。父は、商船の船長をして不在がちであったため、専ら母の影響を受けて育つ。1934年(昭和9年)4月、京都市立第二商業学校に入学。同校卒業後、1939年(昭和14年)4月、立命館大学法学部に入学。1942年(昭和17年)徴兵検査甲種合格。大東亜戦争の戦況拡大に伴い、1943年(昭和18年)9月、同校を繰上げ卒業。 1943年(昭和18年)海軍航空隊へ志願し、10月1日、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。三重海軍航空隊で基礎教程を学ぶ。
内川 清一郎(うちかわ せいいちろう、1922年7月13日 … 内川 清一郎(うちかわ せいいちろう、1922年7月13日 - 2000年2月22日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)7月13日、京都府宇治市菟道只川に生まれる。 1947年(昭和22年)に設立された新東宝で助監督を務める。1948年(昭和23年)からは市川崑、清水宏、小津安二郎らのチーフ助監督を務めた。 1950年(昭和25年)公開の『雪夫人絵図』では溝口健二監督のチーフ助監督に就いた。1949年(昭和24年)末にラストシーンを十和田の湖で撮影するという溝口とともにロケハンに出かけたが、既に雪が積もっており、危険だと止められたが溝口が聞き入れなかった。そのため、地元の猟師に案内してもらって雪の中を出掛けたが、積雪で歩行が困難なうえに溝口が谷に落ちるなどして大変な苦労をした。
森 進一(もり しんいち、1922年6月10日 - 2005… 森 進一(もり しんいち、1922年6月10日 - 2005年10月11日)は、日本の古代ギリシア哲学研究者、小説家、関西医科大学名誉教授。 京都府京都市出身。京都帝国大学文学部で古代ギリシア哲学を専攻し、田中美知太郎の指導を受け、京大大学院古代哲学専攻博士課程中退。京都大学非常勤講師を経て、64年関西医科大学教養部助教授、65年教授、91年定年、名誉教授。 また森泰三の名で文学作品も発表、1963年「砧」で芥川賞候補、1972年「冬へ」、1976年「結婚」で3度候補にあがった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
関 弥三郎(せき やさぶろう、1922年4月1日 - )は、… 関 弥三郎(せき やさぶろう、1922年4月1日 - )は、日本の経済統計学者、立命館大学名誉教授。 京都市出身。1947年立命館大学経済学科卒。1992年「寄与度・寄与率の理論と応用」で経済学博士の学位の取得。立命館大学助教授、教授を務めた。1986年定年、名誉教授、京都学園大学教授。
井上 太一(いのうえ たいち、1922年3月30日 - 19… 井上 太一(いのうえ たいち、1922年3月30日 - 1997年7月8日)は、日本の経営者、銀行家。京都銀行頭取を務めた。京都府京都市出身。 1946年に大阪商科大学を卒業し、同年に京都銀行に入行。1968年11月に取締役に就任し、1972年3月に常務、1974年11月に専務を経て、1978年12月に副頭取に就任し、1979年4月に頭取に昇格。1994年5月に会長に就任。 1985年11月に藍綬褒章を受章。 1997年7月8日肝不全のために死去。75歳没。
立道 團造(たてみち だんぞう、1922年(大正11年)2月… 立道 團造(たてみち だんぞう、1922年(大正11年)2月24日 - 1978年(昭和53年)12月31日)は日本の政治家。京都府舞鶴市長(1期)。 京都府福知山市出身。1936年(昭和11年)金山尋常高等小学校卒。卒業後は舞鶴要港部工作部造兵部機械工場に入り、見習職工の傍ら教習所見習科に入学。1938年(昭和13年)同所卒業、舞鶴工廠造兵部で働く。1945年(昭和20年)終戦により工廠解体。管業部造船部で働く。 1946年(昭和21年)舞鶴市役所に入所。戸籍係、文書統計課、総務課勤務を経て、庶務課財政係長代理、財務課長、助役となる。1974年(昭和49年)に市功労者として舞鶴市から表彰される。
多田 正剛 ( ただ せいごう、1922年2月18日 - 1… 多田 正剛 ( ただ せいごう、1922年2月18日 - 1997年9月18日)は、 日本の空手家であり、日本正剛館空手道士会の創設者。 剛柔流八段位。京都府京都市出身。立命館大学卒業。 1922年大正11年生まれ。中国上海市にて15歳で中国武術を学ぶ。立命館大学空手部にて、宮城長順流祖より直々に剛柔流空手道を伝授される。のち同大学空手部監督を務める。1945年より京都市に日本剛柔流空手道士会を設立。京都市内に数道場を構え、立命館大学空手部直系の本土剛柔流の名門道場として栄える。のち日本正剛館空手道士会と改称。国内支部20数箇所の他に、10大学空手道部(大阪大学・滋賀大学・仏教大学・大阪歯科大学・京都外大・京工繊大・京薬大・山口大学・徳山大学・九州共立大)および海外20支部を指導した。
前川 嘉一(まえかわ かいち、1922年2月9日 - 199… 前川 嘉一(まえかわ かいち、1922年2月9日 - 1990年1月29日)は、日本の経済学者。 京都市生まれ。第三高等学校、兵役をへて1947年京都帝国大学経済学部卒。1968年「イギリス労働組合主義の発展」で京都大学より経済学博士の学位を取得。1949年京都大学経済学部助手、1950年講師、1954年助教授、1969年教授、1976-1977年経済学部長、1985年定年退官、名誉教授。
大野 俶嵩(おおの ひでたか、1922年(大正11年)1月2… 大野 俶嵩(おおの ひでたか、1922年(大正11年)1月20日 - 2002年(平成14年)9月5日)は、昭和・平成期の日本画家であり、京都市立芸術大学名誉教授である。 京都府京都市生まれ。本名は大野 秀隆。 須田国太郎の指導を受けた1941年(昭和16年)京都市立美術工芸学校日本画科を終えると、京都市立絵画専専門学校日本画科(現・京都市立芸術大学)を1943年(昭和18年)に卒業。 1948年には星野眞吾の推薦を受けパンリアル美術協会に参加し、下村良之介らと翌1949年に「パンリアル宣言」を発表、パンリアル美術協会を公に結成する。同年、第1回展を開催し、1958年(昭和33年)まで同展に出品。
新章 文子(しんしょう ふみこ、1922年1月6日 -201… 新章 文子(しんしょう ふみこ、1922年1月6日 -2015年10月14日)は、日本の小説家。 京都府生まれ。本名・中島光子。京都府立第一高等女学校卒業。1939年、宝塚音楽舞踊学校(現・宝塚音楽学校)に入学して、1941年に「京千鈴」の芸名で宝塚歌劇団に入団して初舞台を踏む。宝塚歌劇団29期生。同期生に淡島千景、久慈あさみ、南悠子らがいる。 1944年に宝塚歌劇団を退団して京都市役所に勤務する。1948年、本名名義で童話集『子りすちゃんとあかいてぶくろ』を刊行する。1959年『危険な関係』で第5回江戸川乱歩賞を受賞し、第42回直木三十五賞候補に挙がる。なお同作は初めて直木賞候補となった江戸川乱歩賞受賞作である。
神田 武夫(かんだ たけお、1922年 - 1943年7月2… 神田 武夫(かんだ たけお、1922年 - 1943年7月27日)は、京都府出身のプロ野球選手(投手)。
堂本 阿岐羅(どうもと あきら、1922年〈大正11年〉 -… 堂本 阿岐羅(どうもと あきら、1922年〈大正11年〉 - 2008年〈平成20年〉12月12日)は、京都市出身の日本画家。本名は堂本 亮。 日本画家堂本印象の次兄、堂本漆軒の子。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
保井 浩一(やすい こういち、1921年7月19日 - 20… 保井 浩一(やすい こういち、1921年7月19日 - 2001年11月17日)は、京都府出身のプロ野球選手・監督。