小槙 和輔(こまき わすけ、1884年(明治17年)12月1… 小槙 和輔(こまき わすけ、1884年(明治17年)12月10日 - 1932年(昭和7年)8月20日)は、日本の海軍軍人。 旧名は庄之助。最終階級は海軍少将。1932年ジュネーブ会議の全権随員。和歌山県鳥屋城村(現有田川町)出身。
和歌山県:822人
小槙 和輔(こまき わすけ、1884年(明治17年)12月1… 小槙 和輔(こまき わすけ、1884年(明治17年)12月10日 - 1932年(昭和7年)8月20日)は、日本の海軍軍人。 旧名は庄之助。最終階級は海軍少将。1932年ジュネーブ会議の全権随員。和歌山県鳥屋城村(現有田川町)出身。
西村 伊作(にしむら いさく、1884年(明治17年)9月6… 西村 伊作(にしむら いさく、1884年(明治17年)9月6日 - 1963年(昭和38年)2月11日)は、日本の教育者、実業家。文化学院の創立者としても知られる。大正、昭和を代表する、建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家。奈良県吉野郡下北山村で山林業、材木商を営む資産家で北山銀行の大株主兼取締役、紀和索道会社取締役。 和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)出身。豪商の父・大石余平、母・ふゆのあいだに長男として誕生。弟に大石眞子(次男)、大石七分(三男)がおり、三兄弟の名は敬虔なクリスチャンであった父親が、聖書に登場するイサク(伊作)、マルコ(眞子)、スティーブン(七分)にちなんで名付けた(伊作自身は生涯無宗教であった)。
高井 観海(たかい かんかい、1884年7月1日 - 195… 高井 観海(たかい かんかい、1884年7月1日 - 1953年1月9日)は、日本の仏教学者、僧侶である。哲学館(現・東洋大学)で井上円了から仏教学を学んだ後に、智山専門学校校長。大正大学教授。真言宗智山派管長。智積院55世能化。真言宗上品蓮台寺住職となる。仏教学の専門は密教学。
相生 枩五郎(あいおい まつごろう、1882年12月11日 … 相生 枩五郎(あいおい まつごろう、1882年12月11日 - 1922年3月16日)は、現在の和歌山県和歌山市出身で朝日山部屋および高田川部屋(大阪)出羽海部屋(東京)に所属した力士。本名は川口 清一郎。身長166cm、体重109kg。最高位は東大関。 大阪相撲の朝日山部屋に入門し二瀬川 清二郎を名乗って1898年10月見習となる。1903年5月十両。1904年1月歌舞伎から取った放駒 長吉と改名。同年5月入幕。1907年1月新大関となりその場所9戦全勝を記録した。1910年2月7勝2分の土付かずで2度めの優勝相当成績を残すが場所後に脱走して東京相撲に移った。 東京では相生 枩五郎と名乗り1911年1月三役格付け出し。
寺島 健(てらしま けん、1882年(明治15年)9月23日… 寺島 健(てらしま けん、1882年(明治15年)9月23日 - 1972年(昭和47年)10月30日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍中将で予備役となったのち、東條内閣で逓信大臣、鉄道大臣を務めた。 戦国時代は武田信虎に仕え、江戸時代中期以降、紀州徳川家御付家老安藤家家中であった。父寺島良業は和歌山県庁に勤務し、寺島はその四男である。妻は尾本知道の四女悦子 。 和歌山中学に進んだ寺島は、中学の先輩で海軍兵学校に在籍していた岡本米次郎、野村吉三郎の生徒服姿に憧れ、海軍兵学校への進学を決めた。志願者1374名中合格者は200名で、中学四年修了で受験した寺島の席次は16番であった。寺島は学年が進むとともに席次を上げ、卒業席次は4番である。
西田 郁平(にしだ いくへい、1881年(明治15年)2月1… 西田 郁平(にしだ いくへい、1881年(明治15年)2月18日 – 1956年(昭和31年)8月11日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 和歌山県東牟婁郡那智村(現在の那智勝浦町)で、西田業平の息子として生まれる。和歌山県立田辺中学校、第一高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。卒業後、海軍で経理官として勤務し、中主計(主計中尉)に任命されたが、間もなく官を辞した。その後、和歌山市で元代議士の阪本弥一郎とともに弁護士事務所を開いた。 その後、和歌山市会議員に当選し、1929年(昭和3年)から1931年(昭和6年)まで議長を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
大堀 孝(おおほり たかし、1880年(明治13年)7月20… 大堀 孝(おおほり たかし、1880年(明治13年)7月20日 - 1947年(昭和22年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→純正国民党)。 和歌山県和歌山市出身。1900年(明治33年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。翌年、紀州日報社を創刊して社長兼記者となったが、1903年(明治36年)に廃刊となり、政界入りを志すようになった。1909年(明治42年)、和歌山市会議員に選ばれ、副議長となった。 1915年(大正4年)、立憲国民党から第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。第13回衆議院議員総選挙でも再選を果たしたが、普通選挙を主張し、党議に敗れて離党した。
建畠 大夢(たてはた たいむ、1880年2月29日 - 19… 建畠 大夢(たてはた たいむ、1880年2月29日 - 1942年3月22日)は、彫刻家、帝国芸術院会員。本名は彌一郎。 1880年2月29日、和歌山県有田郡城山村大字境川(現:有田川町境川)の豪農・建畠喜助の四男として生まれる。野上尋常高等小学校を卒業後、叔父・小林山卿が大阪府で医院を開業していたため、父の希望により大阪医学校へ入学した。 しかし、医師になることを嫌い、叔父の友人・木島櫻谷の紹介で京都市立美術工芸学校に転校、1907年には東京美術学校彫刻科へ編入学して白井雨山に師事し、1911年に同校を卒業した。在学中から文部省美術展覧会に出品し、「閑静」(1908年)や「ながれ」(1911年)で三等賞受賞。
谷井 翠山(やつい すいざん、1878年4月20日 - 没年… 谷井 翠山(やつい すいざん、1878年4月20日 - 没年不明)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本画家。本名は藤楠、旧姓は津本。資産家であり、公募展への出品は少ない。同じ雅号の三木翠山と混同される事がある。 1878年(明治11年)4月に和歌山県日高郡御坊村(現和歌山県御坊市)の蝋燭商の大黒屋の津本家に生まれた。16才から文人画家の筑紫翠雲に学び、20才で上京し、川端玉章の画塾に入った。 後に和歌山市雑賀村関戸(現和歌山市関戸)の大地主の谷井家に婿養子として入った。その頃の当主の谷井勘蔵は翠山の誕生翌年の明治12年には地租221円持、貴族院多額納税者議員互選人だった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年(明治10年)… 野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年(明治10年)12月16日 - 1964年(昭和39年)5月8日)は、昭和初期に活躍した海軍軍人、外交官、政治家。海兵26期次席。位階勲功等は海軍大将従二位勲一等功二級。 和歌山県和歌山市出身。国際法の権威として知られ、阿部内閣で外務大臣を勤めた後、第二次近衛内閣成立後に駐米大使に任じられ、真珠湾攻撃の日まで日米交渉に奔走し戦争回避を模索した。 旧紀州藩士・増田喜三郎の三男として和歌山県名草郡(現:和歌山市西釘貫丁)で生まれ、野村正胤の養子となる。1895年(明治28年)、和歌山中学校(現・県立桐蔭高校)を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった私立海軍予備校(現在の海城中学校・高等学校)で学び、海軍兵学校(26期、1898年(明治31年))卒業(次席)。
東 くめ(ひがし くめ、旧姓:由比(ゆい)、1877年6月3… 東 くめ(ひがし くめ、旧姓:由比(ゆい)、1877年6月30日 - 1969年3月5日)は、和歌山県東牟婁郡新宮町(現:新宮市)出身の童謡作詞家。日本で初めて口語による童謡を作詞した。1899年に東京女子高等師範学校教授・東基吉と結婚し、東くめとなる。
島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう、1877年(明治10年… 島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう、1877年(明治10年)3月12日 - 1937年(昭和12年)4月27日)は、日本の医師、内科学者、医学博士。和歌山県、現在の和歌山市出身。脚気がビタミン欠乏症であることを発見した。 1877年3月12日、和歌山県、現在の和歌山市(当時は市制施行以前)に須藤暢の次男として生まれた。父を幼少期に亡くし、母と13歳上の兄の丑彦に育てられた。和歌山中学校在学中に才覚を見込まれ、医師の島薗家の娘婿として養子となる。卒業後、第一高等学校を経て、1899年に東京帝国大学医科大学に進学。大学在学中は、三浦謹之助教授、高橋順太郎教授の指導を受けた。1904年に卒業し、ドイツに留学。
恩賀 徳之助(おんが とくのすけ、1877年(明治10年)1… 恩賀 徳之助(おんが とくのすけ、1877年(明治10年)1月21日 - 1963年(昭和38年)1月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県那賀郡粉河村で、恩賀定一郎の二男として生まれる。大阪桃山学校を経て東京法学院で学んだが、二年で中退し、帰郷して家業の綿ネル製造業に従事。 1904年8月、北海道函館に移り末広町で呉服太物商を営む。以後、函館商業会議所議員、同常議員、函館呉服太物卸商組合長、函館区会議員、同議長、函館市会議員、同初代・第3代議長(1922年11月7日から1923年6月4日、1924年11月21日から1926年10月30日)、北海道会議員などを歴任。 1932年2月、第18回衆議院議員総選挙で北海道第三区から出馬し当選した林儀作が1935年1月に死去し、同年7月の補欠選挙に出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
大湊 徳枩(おおみなと とくまつ、1876年1月3日 - 1… 大湊 徳枩(おおみなと とくまつ、1876年1月3日 - 1937年1月9日)は、現在の和歌山県御坊市出身で小野川部屋(大坂相撲)、出羽海部屋に所属した元力士。本名は芝松次朗(旧姓阪本)。170cm、90kg。最高位は西前頭3枚目。 大坂相撲に属したが常陸山谷右エ門に憧れ東上し、1905年1月幕内格付出で初土俵入幕。1907年5月場所2日目には横綱・大砲万右エ門と引き分けた。1911年6月に廃業後は、電気器具の貸し出し業を営んだ。
江羅 直三郎(えら なおざぶろう、1875年12月25日 -… 江羅 直三郎(えら なおざぶろう、1875年12月25日 - 1939年12月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓は北村。 和歌山県和歌山市生まれ。1889年、日蓮宗学林を卒業した。1891年12月に日蓮宗の僧侶である叔父の江羅日明の養子となる。1891年、日蓮宗宮谷大学林を卒業した。1895年、哲学館(現・東洋大学)を卒業する。その後は、京都で僧侶になる為の修行を積んだ。1907年に京華日報が創立すると記者となり、後に副社長となった。 1910年4月に京都市会議員に当選した。以後、1913年、1917年、1929年、1937年と5選を果たした。また、1915年9月には京都府会議員となった。
杉山 金太郎(すぎやま きんたろう、明治8年(1875年)9… 杉山 金太郎(すぎやま きんたろう、明治8年(1875年)9月19日 - 昭和48年(1973年)3月10日)は、日本の実業家。豊年製油(現J-オイルミルズ)会長。
隅田 豊吉(豐吉、すだ とよきち、1875年(明治8年)6月… 隅田 豊吉(豐吉、すだ とよきち、1875年(明治8年)6月15日 – 1942年(昭和17年)6月18日)は、明治末から昭和前期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員、和歌山県那賀郡池田村長。 和歌山県那賀郡、のちの池田村(打田町を経て現紀の川市)で隅田小三郎の長男として生まれた。和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)を卒業。農業を営んだ。 1907年(明治40年)5月、池田村会議員に選出され、同年9月、那賀郡会議員当選し、同議長に就任して1期・4年在任。1911年(明治44年)9月、和歌山県会議員に当選し、1915年(大正4年)9月に再選された。1916年(大正5年)2月、池田村長に就任し約8ヵ月在任した。
根来 源之(ねごろ もとゆき、1875年(明治8年)6月14… 根来 源之(ねごろ もとゆき、1875年(明治8年)6月14日 - 1939年(昭和14年)4月18日)は、日系アメリカ人[要出典]の労働運動者である。 和歌山県池田村(後の打田町、現在の紀の川市)に生まれる。福沢塾(慶応義塾大学)出身の本多和一郎の門人となり彼が建てた共修学舎で学び、卒業後法学を学ぶために渡米した。カリフォルニア大学に入学し、苦労を重ねながらも法学博士を取得しハワイのホノルルにて法律事務所を開設する。 その後は、日本人のハワイ移民による労働の改善のために1905年に革新同志会を創設し、ホノルル日本国総領事の更迭に貢献した。1908年には人種差別問題による賃金改善の目的で同地で活動る耕地労働者のために、翌1909年までにハワイ移民約7000人の大規模なストライキを起こし首謀者として指導し、後に逮捕され投獄された。
下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日… 下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日 - 1957年〈昭和32年〉12月9日)は、明治・大正・昭和の法学博士、逓信官僚・台湾総督府官僚、実業家、朝日新聞社副社長、貴族院議員。拓殖大学第6代学長、NHK会長。歌人で号は海南(かいなん)。下村房次郎の子。 玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力した。「人種改良を国策に」と優生思想を強く推したことでも知られている。 和歌山県出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に逓信省に入り、退官後は実業家として活動する傍ら東京商業学校の創設に関わった。 和歌山中学、第一高等学校から東京帝国大学を卒業し、1898年(明治31年)に逓信省へ入省。
小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18… 小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18日 - 1933年(昭和8年)10月5日)は、日本の実業家。郷里の和歌山県で日高川水力電気での水力発電事業を成功させたのち、南紀白浜温泉を開発。明光バスなども設立した。 和歌山県日高郡島村(現・御坊市)に生まれる。小学校、中学校時代を首席で通し、1893年に御坊村の小竹家の養子となった。 和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1894年に高等高等商業学校(現・一橋大学)に進学した。 同校を病気で中退後、鎌倉市の円覚寺で2年間修行し、和歌山に帰郷し兄弟で家業の木材業を再興し、資産家となった。 日高郡で初となる製材所として、1901年に日高製材所を設立。
脇村 市太郎(わきむら いちたろう、1874年(明治7年)1… 脇村 市太郎(わきむら いちたろう、1874年(明治7年)10月18日 - 1960年(昭和35年)4月8日)は、日本の薬剤師、実業家。田辺銀行監査役、田辺町会議員。田辺市名誉市民。 現在の田辺市で脇村市太夫の長男として生まれた。1893年(明治26年)帝国大学医科大学中退。家業の薬種商、山林業を営む。 1956年(昭和31年)に脇村奨学会を設立し、和歌山県の大学進学者に育英奨学金を支給している。 田辺市文化交流センター「たなべる」には脇村市太郎像が設置されている。
根岸 佶(ねぎし ただし、1874年(明治7年)8月9日 -… 根岸 佶(ねぎし ただし、1874年(明治7年)8月9日 - 1971年(昭和46年)7月22日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。日本学士院賞受賞。 和歌山県出身。和歌山県尋常中学校(現和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1899年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業、1901年同校専攻部貿易卒。本科では日中貿易論、専攻部では中国交通論を研究。1933年「支那ギルドの研究」で東京商科大学(現一橋大学)経済学博士。 1901年上海の東亜同文書院教授、1907年東亜同文会主査。中国経済を研究。帰国後、1908年東京高等商業学校(現一橋大学)講師、1911年東京朝日新聞政治部記者、1916年東京商科大学(現一橋大学)教授、1919年同大学附属商業専門部教授、1921年同大学専門部教授、1935年定年退官、同大学講師、1936年同大学学生課課長心得、1939年東亜同文会第六調査委員会学術部委員会委員、1950年東京商科大学客員教授、東京商科大学名誉教授、1951年一橋大学名誉教授。
山口 恒太郎(やまぐち つねたろう、1873年(明治6年)2… 山口 恒太郎(やまぐち つねたろう、1873年(明治6年)2月10日 - 1941年(昭和16年)4月6日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家、政治家。和歌山県出身。 元は新聞記者。福岡市の福岡日日新聞主筆となった縁で福岡にて実業界に転身し、九州電灯鉄道常務や博多商業会議所(現・福岡商工会議所)会頭などを務める。政治家としては福岡市会議員を経て立憲政友会所属の衆議院議員となった。 山口の経歴は、九州電灯鉄道常務時代にともに同社常務を務めた松永安左エ門の著書『勇気ある自由』(要書房より1953年刊、うち214-231頁の「山口恒太郎君の憶い出」)に詳しい。以下、特記なき場合記述の出典は同書である。
東 基吉(ひがし もときち、明治5年3月15日(1872年4… 東 基吉(ひがし もときち、明治5年3月15日(1872年4月22日) - 昭和33年(1958年)4月20日)は、日本の教育者。 和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)出身。須川家に生まれ、東家の養子となった。1894年(明治27年)、和歌山県師範学校を卒業し、小学校訓導を務めた。その後東京高等師範学校に入り、1899年(明治32年)に卒業した。同年、岩手県師範学校教諭・附属小学校主事となる。1900年(明治33年)に東京女子師範学校助教授に転じて幼稚園教育研究に従事し、1903年(明治36年)に教授に昇進した。 1908年(明治41年)から宮崎県師範学校校長、栃木県女子師範学校校長、三重県女子師範学校校長、大阪府池田師範学校校長、宮城県師範学校校長を歴任し、1925年(大正14年)に退官した。
木下 伊平(きのした いへい、前名・辨一郎、1872年〈明治… 木下 伊平(きのした いへい、前名・辨一郎、1872年〈明治5年〉2月 - 没年不明)は、日本の農民、林業家、資産家、和歌山県多額納税者。族籍は和歌山県平民。 和歌山県伊都郡妙寺町中飯降(現・かつらぎ町)出身。木下伊平の長男。居村小学校卒業、自助私学校卒業。 1904年、家督を相続し前名・辨一郎を改める。祖業を継ぎ農業、林業を営み、県下の多額納税者である。1937年、退隠する。 県下有数の山林業者である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。趣味は茶道、生花。住所は和歌山県伊都郡妙寺町大字中飯降(現・かつらぎ町)、京都市上京区丸太町橋西詰南入。 木下家は和歌山県妙寺町の資産家で、数代以前迄は屋号を「木綿屋」と称し木綿商を営んだが、その後これを廃して植林を営み農業に従事する。
紀 俊秀(きい としひで、明治3年10月24日(1870年1… 紀 俊秀(きい としひで、明治3年10月24日(1870年11月17日) - 昭和15年(1940年)9月20日)は、日本の政治家、実業家、日前神宮・國懸神宮宮司。栄典は正三位勲三等男爵。貴族院議員(通算6期29年)。 明治3年(1870年)10月24日、日前神宮・國懸神宮宮司・紀俊尚と鶴子の三男として紀伊国名草郡秋月村(現在の和歌山県和歌山市秋月)で生まれる。幼名は文麿(ふみまろ)。学習院高等学科卒業。明治24年(1891年)1月に名を俊秀と改め、同年10月に日前神宮・國懸神宮宮司となる。明治29年(1896年)8月26日、家督を相続して男爵を襲爵した。明治30年(1897年)7月10日の第2回伯子男爵議員選挙で初当選し、貴族院議員に就任した。
島 安次郎(しま やすじろう、1870年9月2日〈明治3年8… 島 安次郎(しま やすじろう、1870年9月2日〈明治3年8月7日〉 - 1946年〈昭和21年〉2月17日)は、日本の鉄道技術者。日本機械学会会長(1918年・1923年 - 1924年)。子、孫と三代に渡り鉄道技術者を生んだ。 和歌山県和歌山市出身。実家は代々続く「島喜」という薬問屋。第一高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学機械工学科(現:東京大学工学部機械工学科)を卒業し1894年に関西鉄道に入社。関西鉄道では、高性能機関車「早風(はやかぜ)」を投入しスピードアップに成功すると共に、客車への等級別色帯の導入や夜間車内照明の導入などの旅客サービスの改善を進め、汽車課長にまで出世する。 1907年に関西鉄道が国有化されると鉄道院に入省し鉄道作業局工作課長。
小川 琢治(おがわ たくじ、明治3年5月28日(1870年6… 小川 琢治(おがわ たくじ、明治3年5月28日(1870年6月26日) - 昭和16年(1941年)11月15日)は、日本の地質学者・地理学者。学位は、理学博士(京都帝国大学・論文博士・1909年)。京都帝国大学名誉教授。 1870年に紀伊国田辺藩(現:和歌山県田辺市)で田辺藩儒学者・浅井篤(南溟)の次男として生まれる。満5歳となる1875年、現在の和歌山市に移る。父の私塾の転遷に伴い紀ノ川筋の村々に居住する。学制の制定(1872年:明治5年)後であったが小学校には通わなかった。 1883年、父が有田郡広村の耐久社に招かれた。その縁で書庫に自由に出入りし、そこで多数の漢籍を読むことができた。満14歳となる1884年に和歌山中学校に入学。
久下 豊忠(くげ とよただ、明治3年4月8日(1870年5月… 久下 豊忠(くげ とよただ、明治3年4月8日(1870年5月8日) - 昭和12年(1937年)12月10日)は、日本の衆議院議員、ジャーナリスト。 紀伊国那賀郡上名手村(現在の和歌山県紀の川市)の三井家に生まれ、久下純菴の養子となった。英仏学舎、大阪英学舎に学ぶ。1893年(明治26年)、読売新聞社の記者となった。1897年(明治30年)、和歌山新報社に入り、主筆、社長を歴任した。1899年(明治32年)より和歌山県会議員を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年… 湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年7月13日) - 昭和6年(1931年)8月23日)は、第5代住友総理事である。 慶応4年(1868年)5月24日、紀伊国東牟婁郡新宮町841番地(現和歌山県新宮市千穂1丁目)で紀伊新宮藩の藩医湯川寛斎と八重の長男として生まれた。新宮小学校を卒業後、和歌山中学校へ入学したが中退し、東京ドイツ協会学校に在籍した。明治15年(1882年)東京大学予備門に入学して医科大学へ進む予定であったが、独法科が設置された法科大学に転学し、明治23年(1890年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 同年逓信省に入り、明治27年(1894年)日清戦争の野戦高等郵便局長として戦地で活躍、明治28年(1895年)東京郵便電信学校の校長となる。
井上 剛一(いのうえ ごういち、1868年5月4日(慶応4年… 井上 剛一(いのうえ ごういち、1868年5月4日(慶応4年4月12日) - 1946年(昭和21年)5月12日)は、日本の弁護士・政治家で憲政会→立憲民政党所属の衆議院議員。 紀伊国伊都郡学文路村(現・和歌山県橋本市)に、水木重左衛門の二男に生まれ、井上又左衛門の養子となった。和歌山県師範学校を卒業した後、1887年(明治20年)より英吉利法律学校(現・中央大学)で法学を学び、1889年(明治22年)に代言人試験に合格した。浜松代言人組合に所属し、後には静岡弁護士会長や日本弁護士協会名誉理事に選ばれた。 浜松市会議員、静岡県会議員を経て、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
大石 誠之助(おおいし せいのすけ、1867年11月29日〈… 大石 誠之助(おおいし せいのすけ、1867年11月29日〈慶応3年11月4日〉 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本の社会主義者・キリスト者、医師。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。雅号は「禄亭」(ろくてい)。 1867年11月29日(旧暦慶応3年11月4日)に紀伊国新宮仲之町(現:和歌山県新宮市仲之町)で生まれる。同志社英学校英語普通科を中退後、神田共立学校(現:開成中学校・高等学校)で英語を学ぶが中退する。1891年(明治24年)6月に渡米し、ワシントン州ワラワラ市のセントポーロ中学校へ入学したのち、1892年(明治25年)にオレゴン州立大学医科に入学する。1895年(明治28年)に卒業後はモントリオール大学で外科学を学んでから同年10月に帰国し、翌年に地元・新宮で医院を開業する。
南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日〈慶応3… 南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日〈慶応3年4月15日〉 - 1941年〈昭和16年〉12月29日)は、日本の博物学者・生物学者・民俗学者。 生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。そうした調査に基づいて生態学(ecology)を早くから日本に導入した。 1929年には地元で、昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献している。 民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがある。その他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されている。 フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。
中西 巌(なかにし いわお、1867年(慶應3年)5月 - … 中西 巌(なかにし いわお、1867年(慶應3年)5月 - 1961年[要出典])は、日本の実業家、株式仲買人である。東京株式取引所一般取引員、丸中商店(中西巌商店)店主、丸九商店、中西証券社長。 慶應3年5月、和歌山縣那賀郡西貴志村鳥居(現紀の川市)の郷士の父:繁蔵の八男として生まれる。当家は古くより那賀郡に住し、庄屋役を務め名字帯刀を許されたる家柄であった。 1885年(明治18年)縣立和歌山師範学校を卒業して、小学校に教鞭を執り19歳で伊都郡五茂村小学校長に任命されるが、その後心機一転して逓信官吏を志し和歌山郵便局に奉職したのち、岐阜逓信局勤務を経て、名古屋郵便局逓信課長となり、1900年(明治33年)には東京逓信局に転任し逓信課長に任ぜられる。
鈴木 錦泉(すずき きんせん、1867年‐1945年)は、明… 鈴木 錦泉(すずき きんせん、1867年‐1945年)は、明治から昭和にかけての挿絵画家、口絵画家。 1867年に和歌山市に生まれる。本名は為之丞。または尚俊とも号している。父は和歌山藩士であったが、明治維新によって職を失い、その後に始めた事業にもことごとく失敗、錦泉は和歌山にいる頃から筑紫翠雲に師事、南画を習い、雲溪という号をもっていた。その後、錦泉は大阪に出て絵を描こうとしたが、大阪という商業都市では南画は受け入れられなかった。そこで、生活のため、独学で浮世絵を学び、夥しい数に上る講談本の口絵や『神戸新聞』の挿絵を描くようになった。勤勉な性格で有職故実を習得、間違いのない時代考証に基づいた木版口絵を描くことに努めたほか、文筆面においても達筆であった。
山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日〈1866… 山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日〈1866年3月14日〉 - 昭和36年〈1961年〉6月3日)は、日本の禅僧。道号は玄峰、法諱は宜詮、宜雄。室号は般若窟。俗姓は岡本、後に山本。和歌山県本宮町生まれ。龍澤僧堂師家(僧堂を開単)、瑞泉僧堂師家(僧堂を開単)、21代妙心寺派管長、圓福僧堂家を歴任する(年代順)。 生涯を通して、四国八十八箇所遍路を最晩年まで続け17回に達した。昭和において多くの著名人が参禅に訪れた静岡県三島市の龍沢寺の住職として有名。鈴木貫太郎に終戦を勧め、戦後も象徴天皇制を鋭く示唆する。遺言により葬儀はなかった。世寿96歳。 1866年(慶応2年)3月14日和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市本宮町)の湯の峰温泉の旅館・芳野屋(現・あづまや旅館)で生まれた。
中松 盛雄(なかまつ もりお、1865年11月20日〈慶応元… 中松 盛雄(なかまつ もりお、1865年11月20日〈慶応元年10月3日〉 - 1952年〈昭和27年〉7月21日)は、日本の官僚、弁護士、弁理士。第9代特許局長。日本基督教会理事長。化学工業協会会長。族籍は和歌山県士族。 中松克正の二男。1891年(明治24年)帝国大学法科大学英法科(現東京大学法学部)を卒業。農商務省に入る。1907年(明治40年)12月25日から1913年(大正2年)6月13日まで第9代特許局長を務めた。退官後、1914年(大正3年)に弁護士・弁理士登録し、同年7月1日に現在の中村合同特許法律事務所の前身にあたる中松特許法律事務所を開設した。日本共立火災保険取締役を兼ねる。
荒木 栄蔵(荒木 榮藏、あらき えいぞう、旧姓・鍵岡、186… 荒木 栄蔵(荒木 榮藏、あらき えいぞう、旧姓・鍵岡、1865年3月5日〈慶応元年2月8日〉 - 1934年〈昭和9年〉9月24日)は、日本の商人(皮革商、皮革貿易商)、資産家、実業家。族籍は大阪府平民。 和歌山市生まれ。鍵岡惣四郎の三男。1881年、荒木栄蔵の養子となる。1913年に先代が逝去し、義弟栄典の後を襲い家督を相続する。 荒木商店という商号の下に家業を継承し、皮革貿易商に従事する。大阪皮革商同業組合組長、六甲製革取締役、西浜土地建物取締役・同社長、共榮合名会社代表社員などをつとめる。 また公共事業に尽力する。賞勲局総裁より褒章を、また日本赤十字社社長より有功章を下賜される。 『部落の人豪』によると「西浜部落の大資産家である」という。
巽 孝之丞(たつみ こうのじょう、元治元年12月29日(18… 巽 孝之丞(たつみ こうのじょう、元治元年12月29日(1865年1月26日) - 昭和6年(1931年)6月11日)は、戦前日本の財政家。横浜正金銀行ロンドン支店支配人、日仏銀行創立委員・取締役。中村啓次郎の実兄。小泉信三の祖父小泉文庫はいとこにあたる。息子に英文学者の巽豊彦、孫に米文学者でSF評論家の巽孝之がいる。 紀州藩士・吉川流砲術師範役であった吉川定之進の長男。幼名は豊吉。紀伊国那賀郡山崎村中野黒木十八番地に生まれる。 巽家を相続し、藩費留学生となり上京し慶應義塾に入学。同門に親戚の小泉信吉など。卒業後に小泉信吉の口利きで横浜正金銀行に入行する。以来、取締役、常務となるまで30年間、英国ロンドンで在任した。
前川 虎造(まえかわ とらぞう、1864年4月9日(元治元年… 前川 虎造(まえかわ とらぞう、1864年4月9日(元治元年3月4日) - 1926年(大正15年)6月17日)は、衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部)、ジャーナリスト。族籍は和歌山県平民。 紀伊国那賀郡田中村(現在の和歌山県紀の川市)出身。前川彌兵衛の長男。 年少のころより政治に興味を持ち、自由民権運動に心酔した。1885年(明治18年)、那賀郡長児玉仲児の知遇を得て、郡書記となるが、児玉の欧化主義と合わず、2年で辞職した。その後、和歌山県会の書記となるが、児玉が県会議員に当選し、議長に就任したため辞職した。 官を辞した後は新聞記者となり、紀陽新報主筆を経て、大阪で立憲改進党機関紙の「東雲新聞」に入った。
津村 紀陵(つむら きりょう、1863年4月9日(文久3年2… 津村 紀陵(つむら きりょう、1863年4月9日(文久3年2月22日) - 1933年(昭和8年)12月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。前名・光三郎。 素封家・津村重兵衛の長男として紀伊国那賀郡、のちの和歌山県那賀郡山崎村(岩出町を経て現岩出市)で生まれる。1904年(明治37年)3月、家督を相続し紀陵と改名した。 1884年(明治17年)中野黒木村外8カ村戸長に就任。和歌山県会議員を経て、紀南索道、野上軽便鉄道、秋津川水力電気各社長、和歌山倉庫銀行取締役などを歴任した。1918年(大正7年)6月和歌山県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
森田 庄兵衛(もりた しょうべえ、1862年11月12日(文… 森田 庄兵衛(もりた しょうべえ、1862年11月12日(文久2年9月21日)- 1924年(大正13年)11月5日)は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 紀伊国伊都郡丁ノ町村(和歌山県伊都郡妙寺村、妙寺町を経て現かつらぎ町)で、酒造業・森田正治の長男として生まれる。1879年(明治12年)に上京して慶應義塾で学び、1882(明治15年)に帰郷した。父の隠居に伴い1883年(明治16年)4月に家督を相続した。 その後、英語、数学、漢学、修身、習字を教授する伊都郡自助私学校を設立し、夜間部も設け、英語教師に英文学者河島敬蔵を招き、地域の子弟の育成に貢献したが、1887年(明治20年)に閉校した。
有本 楠太郎(ありもと くすたろう、1862年5月19日〈文… 有本 楠太郎(ありもと くすたろう、1862年5月19日〈文久2年4月21日〉 - 没年不明)は、日本の商人(皮革貿易商)・政治家・慈善家。有本商店店主。大阪市南区会議員。 和歌山県有田郡御霊村字庄(のち吉備町、現・有田川町)の農家に生まれる。15歳の時に大阪に出て、奉公先に住み込み、25歳の春までよく主家に勤める。独立して皮革貿易店を開業する。 家業に精励し成功する。博愛慈善に傾倒する。1892年に赤十字社終身社員に加入し、1905年に金200円を寄付し特別社員に推薦される。赤十字社特別社員としてよく奉公の義務を尽くす。日露戦役に際して殊に恤兵の事に意を用いて各種の公共的団体に金品を投じる。 中国及び朝鮮と特約貿易を行い、仁川、木浦、群山、京城、馬山等より原料を輸入し、これを精製して南北清の各要地、即ち天津、大連、上海、営口、香港等に取引を開始する。
有馬 良橘(ありま りょうきつ、1861年12月16日〈文久… 有馬 良橘(ありま りょうきつ、1861年12月16日〈文久元年11月15日〉 - 1944年〈昭和19年〉5月1日)は、日本の海軍軍人、神職。最終階級は海軍大将。和歌山県和歌山市出身。養子に海軍中将・有馬寛がいる。 文久元年11月15日(1861年12月16日)、紀州藩の藩医(奥医師)・有馬元函の長男として生まれる。父の元函は紀州徳川家家臣として幕府軍側に参戦転戦したために、良橘が幼少の頃は朝敵扱いされ、良橘の尋常小学校入学が12歳まで遅延する結果を招く。旧制三田英学校より海軍兵学校第12期入校。入校時成績順位は44名中第16位、卒業時成績順位は19名中16位。 有馬の職歴の特徴として明治天皇と東郷平八郎との関わりが深く、日清戦争でも東郷が艦長を務める防護巡洋艦「浪速」の航海長として東郷の指揮下で従軍している。
岩橋 謹次郎(いわはし きんじろう、1861年(文久元年) … 岩橋 謹次郎(いわはし きんじろう、1861年(文久元年) - 1912年(明治45年)3月12日)は、明治期の実業家、白木屋呉服店主。岩橋リボン製織所創設者。 紀伊国和歌山(現和歌山県和歌山市)出身。維新後に大蔵大輔、第四十四国立銀行頭取となった紀州藩士・岩橋徹助(徹輔)の息子。慶應義塾に入学し大学部を卒業(『慶應義塾入社帳』第一巻586頁,第五巻246頁)。父が華族の援助を受けて道内各地で企てた「開進社」に参加して北海道開拓を研究し、明治24年、開拓は保護政策を排し、自由開拓、随意移住に任すべきを主張した著書を公にした。開進社の事業は失敗したが、その志は長く残った。 白木屋呉服店主を経て帽子用リボン等を製織する岩橋リボン製織所を渋沢栄一が出資して組織し、1896年匿名組合となる。
神中 糸子(じんなか いとこ、1860年12月2日(万延元年… 神中 糸子(じんなか いとこ、1860年12月2日(万延元年10月20日) − 1943年(昭和18年)2月4日)は、日本の洋画家。 和歌山県海草郡雑賀村(現・和歌山市)生まれ。父は紀州藩士・陸軍士官学校教官を務めた神中義次、母は紀州藩御用絵師の笹川遊泉の娘・増で、7人きょうだいの4番目(三女)。 1877年工部美術学校に入学するが、1880年退学。1881年より小山正太郎の私塾で学んだ。1887年明治女学校で洋画講師嘱託となり、1894年まで勤めた。また、戸田伯爵家の絵画の家庭教師も務めている。1907年から私立日本女子美術学校(東京都立忍岡高等学校の前身)で西洋画科講師嘱託となり、1910年から1914年までは東京女子高等師範学校図画講師嘱託を務めた。
望月 右内(もちづき うない、1858年7月2日(安政5年5… 望月 右内(もちづき うない、1858年7月2日(安政5年5月22日)– 1917年(大正6年)1月28日)は、明治・大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 紀伊国伊都郡、のちの和歌山県伊都郡見好村(現かつらぎ町)で、豪農・望月嘉八郎の長男として生まれる。上田釆女の塾で学んだ。 1873年(明治6年)第四大区五小区役場書記に就任。その後、兄井村総代、兄井・三谷・寺尾・平沼田・皮張五カ村戸長、伊都郡書記を歴任。1883年(明治16年)6月、補欠選挙で和歌山県会議員に選出され、1884年(明治17年)寺尾村外十三カ村戸長に就任したため県会議員を退任。1886年(明治19年)補欠選挙で県会議員に再選され、その後1888年(明治21年)、1892年(明治25年)に再選され、1894年(明治27年)3月に辞任するまで在任。
日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年… 日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年1月15日) - 昭和15年(1940年)11月22日)は旧日本陸軍の主計監(のちの主計少将)で、富士見町教会教会員。 妻は川本鶴吉の姉カヨ、日疋養鶏養豚場経営日疋道夫は子、日疋食品代表日疋文爾は孫、ひびき(旧社、後のHM管財)代表取締役日疋好春は曾孫。 安政4年(1857年)12月1日、日疋文七の三男として紀伊国(現和歌山県)に生まれる。幼名常吉である。1880年1月に陸軍士官学校(旧5期)に入校し、1882年12月25日に卒業し、陸軍歩兵少尉に任命される。歩兵中尉の時に主計科に転ずる。1904年8月14日、満洲軍倉庫長になり、日露戦争を迎える。
初代 谷口 良一(たにぐち りょういち、1857年(安政4年… 初代 谷口 良一(たにぐち りょういち、1857年(安政4年1月)- 1909年(明治42年)5月19日)は、明治期の酒造家、政治家。貴族院多額納税者議員、和歌山県海草郡山口村長。幼名・常之助。 紀伊国名草郡里村(和歌山県名草郡山口村大字里、海草郡山口村を経て現和歌山市)で、酒造業・谷口良吉の息子として生まれた。酒造業を相続して製品の改良などに尽力して事業を拡張し、和歌山県酒造組合連合会副会長などを務めた。 1879年(明治12年)7月、里村外十ヶ村会議員に就任。1879年(明治22年)ころから自由民権運動に加わり、同年4月、山口村会議員に当選。同年5月、初代山口村長に就任し、1903年(明治36年)6月に再選された。
大田 信一(だいた しんいち、1856年6月28日(安政3年… 大田 信一(だいた しんいち、1856年6月28日(安政3年5月26日)– 1918年(大正7年)11月18日)は、明治・大正期の地主、政治家。衆議院議員、和歌山県海草郡巽村長。 紀伊国名草郡重根村(和歌山県名草郡巽村、海草郡巽村を経て現海南市)で素封家・大田善之助の長男として生まれた。 1888年(明治21年)2月、和歌山県会議員に当選し、1890年(明治23年)9月に退職。1889年(明治22年)初代巽村会議員に選出された。1893年(明治26年)5月、巽村長に就任し、1894年(明治27年)6月に辞職。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で和歌山県第一区から出馬して当選。1898年(明治31年)3月の第5回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。