由谷 敬吉(ゆたに けいきち、1915年 - 1943年11… 由谷 敬吉(ゆたに けいきち、1915年 - 1943年11月26日)は、日本のアマチュア野球選手。東武雄や梶原英夫と並んで、東京大学野球部史上の「名投手三羽烏」と呼ばれる人物の一人。1943年11月26日満州興山で戦死。野球殿堂博物館の「戦没野球人モニュメント」に刻まれている。
鳥取県:845人
由谷 敬吉(ゆたに けいきち、1915年 - 1943年11… 由谷 敬吉(ゆたに けいきち、1915年 - 1943年11月26日)は、日本のアマチュア野球選手。東武雄や梶原英夫と並んで、東京大学野球部史上の「名投手三羽烏」と呼ばれる人物の一人。1943年11月26日満州興山で戦死。野球殿堂博物館の「戦没野球人モニュメント」に刻まれている。
梶川 静雄(かじかわ しずお、1914年(大正3年)8月1日… 梶川 静雄(かじかわ しずお、1914年(大正3年)8月1日 - 1978年(昭和53年)2月9日)は、昭和期の労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 鳥取県気高郡鹿野町(現鳥取市鹿野町)で、梶川俊造の四男として生まれる。鳥取第二中学校(現鳥取県立鳥取東高等学校)、第六高等学校を経て、1924年(大正13年)九州帝国大学法文学部法律科を卒業。 その後、満洲国の大同学院を卒業し、満洲国国務院官吏となった。その後、徴兵されて終戦を迎え、日本に帰国した。鳥取県労働組合会議顧問、日本農民組合鳥取県支部連合会顧問、日本社会党鳥取支部書記長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙に鳥取県全県区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
糸賀 一雄(いとが かずお、1914年3月29日 - 196… 糸賀 一雄(いとが かずお、1914年3月29日 - 1968年9月18日)は、日本の社会福祉の実践家。 知的障害のある子どもたちの福祉と教育における先駆的な役割を担い、戦後日本の障害者福祉を切り開いた第一人者として知られる。 鳥取市立川町出身。母子家庭で育つ。旧制鳥取県立鳥取第二中学校(現・鳥取県立鳥取東高等学校)から旧制松江高等学校(現・島根大学)を経て、1938年京都帝国大学文学部哲学科を卒業する。 小学校の代用教員を経て、1940年滋賀県庁に社会教育主事補として奉職し、近藤壌太郎知事によって秘書課長に抜擢され、終戦直後まで滋賀県の要職を歴任する。 また、この間に教育哲学者の木村素衛や学生義勇軍同志会会長であった十河信二、『次郎物語』の作者である下村湖人らと親交を結ぶ。
金田 政之(かねだ まさゆき、1914年〈大正3年〉3月21… 金田 政之(かねだ まさゆき、1914年〈大正3年〉3月21日 - 没年不明)は、日本の実業家。三朝ロイヤルホテル社長。三朝観光ホテル永楽庵経営者。 鳥取県東伯郡倉吉町大字西仲町(現・倉吉市西仲町)出身。亮蔵の三男。1942年より重要物資管理営団交易営団に勤務する。1946年3月、三朝温泉旅館永楽庵を経営する。1951年11月に三朝観光を1956年7月に大山観光、1962年11月に大山興発を夫々創立、社長に就任する。 1957年6月に国際観光旅館連盟本部理事、三朝温泉旅館組合副組合長。1958年4月に三朝町教育委員に選任される。 洋画家の藤本東一良は友人である。住所は鳥取県東伯郡三朝町字三朝。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
大田 学(おおた まなぶ、1914年 - 2007年2月21… 大田 学(おおた まなぶ、1914年 - 2007年2月21日)は神奈川県横須賀市生まれ、鳥取県倉吉市余戸谷町で育ち、晩年は大阪府に在住した将棋の真剣師である。 倉吉信用金庫の第4代理事長を務めた父のもとに生まれる。 少年時代から軍人を志し、戦中は海軍航空隊・横須賀基地に所属した。終戦後に郷里に帰り、30歳をすぎた年齢から本格的に将棋を始めたという、異例なほど晩学の将棋指しだった。当時の棋力は現在のアマ初段ほどだったという。以降修行を続け、1948年 - 1950年には「アマチュア将棋名人戦」の鳥取県代表。その後は真剣師として全国を回り、「史上最強のアマ強豪」と呼ばれる平畑善介以外には、ひけを取ることがなかったという。
黒田 正巳(くろだ まさみ、大正2年(1913年)4月1日 … 黒田 正巳(くろだ まさみ、大正2年(1913年)4月1日 - 没年不詳)は日本の建築学者。熊本大学名誉教授。工学博士。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)栄町出身。 境尋常高等小学校(現・境港市立境小学校)、鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)、旧制松江高等学校理科甲類を経て1938年(昭和13年)、東京工業大学工学部建築学科卒業。 1943年(昭和18年)、熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)教授。 1960年(昭和35年)、工学博士(東京工業大学)。論文は「建築における大きさと形の恒常視に関する実験的研究」。
植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 20… 植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 2000年7月4日)は、日本の写真家。 出生地である鳥取県境港市を拠点に70年近く活動。前衛的な演出写真は「植田調」として知られ、写真誕生の地であるフランスでも日本語表記そのままに「Ueda-cho」として紹介されている。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)に生まれる。生家は履物店(商号は「下駄屋」)である。 小学生の頃に写真をはじめ、米子写友会、日本光画協会、中国写真家集団、銀龍社などに参加。写真雑誌のコンテストでも、多数の入選を得るなど、戦前、戦中、戦後にかけて活躍。特に1980年代以降、多数の展覧会開催や写真集出版を行った。数ある作品の中でも、鳥取砂丘を舞台にした「砂丘シリーズ」はよく知られている。
鷲見 四郎(すみ しろう、1913年3月6日 - 2003年… 鷲見 四郎(すみ しろう、1913年3月6日 - 2003年9月22日)は、日本のヴァイオリニストである。鷲見三郎の弟、鷲見加寿子の父、鷲見由希子と鷲見精一の祖父。 鳥取県米子市尾高町出身。1928年、レオポルト・アウアー門下のニコライ・シフェルブラットに師事する。1929年、新交響楽団(現在のNHK交響楽団)に入団する。 1932年、第1回音楽コンクール(現在の日本音楽コンクール)のヴァイオリン部門で最優秀者に贈られる「賞」(現在の第1位)を受賞し、翌1933年の第2回でも続けて「賞」を受賞した。戦後、NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた。1961年から1981年まで国立音楽大学教授を務めた。
本田 實(ほんだ みのる、1913年2月26日 - 1990… 本田 實(ほんだ みのる、1913年2月26日 - 1990年8月26日)は、世界を代表する日本のアマチュア天文家。独学による天文観測で、生涯に彗星12個、新星11個を発見した。 鳥取県八頭郡八頭村(現・八頭町)出身。八東町名誉町民第1号。八東尋常高等小学校(現・八頭町立八東小学校)卒業。1976年日本天文学会神田茂記念賞受賞。1985年第19回吉川英治文化賞受賞。1987年フランス天文学会100周年記念賞受賞。 本田は1923年ごろ(当時10歳)、生家の星空の美しさを意識し始め、ためた小遣いで口径28mmのシングルレンズと焦点距離25mmのラムスデン式接眼鏡を買った。32倍の屈折望遠鏡を自作して下弦の月を見たのが、望遠鏡による初めての天体観測となった(当時17歳)。
下西 文雄(しもにし ふみお、大正2年(1913年)1月26… 下西 文雄(しもにし ふみお、大正2年(1913年)1月26日 - 平成5年(1993年)4月24日)は日本の政治家。元境港市議会議員。元境港市日朝友好協会会長。元山市との友好都市協定締結に尽力。 鳥取県境港市に生まれる。 早大政経学部中退。1935年満州国産業指導官。 帰国後、中学校教諭となる。1951年境町助役、1955年から境港市議会議員。正副議長など歴任。 1990年10月第6次訪朝にあたって、金日成主席は、多年にわたる日朝親善につとめる下西文雄団長に「人民親善勲章(第2級)」を贈ってその功労をたたえた。
田中 千金(たなか ちかね、大正元年(1912年)12月 -… 田中 千金(たなか ちかね、大正元年(1912年)12月 - 昭和53年(1978年))は、日本の病理学者。医学博士。黄疸発生に関する病理学的研究者として著名であった。正四位勲三等。 鳥取県米子市博労町に生まれた。田中猗猗(いい)の長男。 米子中(現在の米子東高校)、松江高を経て1937年九州帝国大学医学部を卒業し、同病理学教室に入る。 1942年医学博士の学位を受ける(論文の題は 「ワイル氏病黄疸の成因に関する実験的研究 」)。翌年旅順医専教授となる。 1947年米子医専(現鳥取大学医学部)教授となり病理学を担当する。翌年米子医科大(現鳥取大学医学部)助教授。 1951年に鳥大教授となり、第2病理学教室を主宰した。
堀安 成文(ほりやす なりふみ、大正元年(1912年)9月2… 堀安 成文(ほりやす なりふみ、大正元年(1912年)9月26日 - 昭和54年(1979年)6月8日)は、日本の柔道家、政治家。元鳥取県議会副議長。元県柔道連盟米子支部顧問。 堀安家は松江城主堀尾吉晴の末裔である。 鳥取県米子市出身。堀安憲の長男。立命館大学卒業。 昭和30年(1955年)から約10年間にわたって県公安委員長。昭和42年(1967年)県議初当選以来、連続三期当選。昭和52年(1977年)7月~昭和54年(1979年)4月県議会副議長。 代々堀安家は制剛流俰を伝える家であり、堀安成文は制剛流15代目であった。 大学在中柔道主将、卒業後講道館で柔道を錬磨し五段を授けらる。邸内に礎道館を設立、広く柔道の普及興隆に尽力。
千谷 七郎(ちたに しちろう、1912年9月24日 - 19… 千谷 七郎(ちたに しちろう、1912年9月24日 - 1992年6月26日)は、日本の精神病理学者。鳥取市生まれ。鳥取第一中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)卒、第一高等学校理乙卒、東京帝国大学医学部卒、同精神神経科講師、1950年東京女子医科大学教授、1957年「精神科とCortisone様作用物質」で東京女子医科大学医学博士、のち名誉教授。日本文化会議会員。鳥取第一中学校時代には第14回全国中等学校優勝野球大会にも出場した。
菅原 独去(すがはら どっこ、1912年〈大正元年〉8月4日… 菅原 独去(すがはら どっこ、1912年〈大正元年〉8月4日 - 1990年〈平成2年〉12月20日)は、日本の俳人・僧侶。境港市光祐寺住職。 本名は真哲(しんてつ)。鳥取県倉吉市生まれ。昭和9年、仏教専門学校(現佛教大学)卒業。1935年(昭和10年)より句作をはじめ、1937年(昭和12年)に『ホトトギス』に初入選。その後、高浜虚子に師事し、1954年(昭和29年)よりホトトギス同人となる。1963年(昭和38年)より、句誌『城』の選者を務めた。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
野坂 一郎(のざか いちろう、明治45年(1912年)6月2… 野坂 一郎(のざか いちろう、明治45年(1912年)6月20日 - 没年不明)は、日本の無線技師、実業家、作家。元ラジオ山陰(現山陰放送)常務。 鳥取県米子市長・野坂康夫の伯父。洋食のレストランおよびレコード、楽器店を営んだ野坂康久(“十字屋”経営主)の長男。 鳥取県西伯郡米子町(現米子市)出身。康久の長男。 昭和7年(1932年)無線電信講習所本科卒業。大阪商船外国航路通信士。上海華中電気通信股份有限公司日立造船各勤務を経て、昭和29年(1954年)3月ラジオ山陰(現山陰放送)に弟陞三と勤める。 その間昭和13年(1938年)サンデー毎日大衆文芸第一席に当選。週刊朝日小説に三席入賞以後作品約十五発表。
河西 力雄(明治45年(1912年)1月22日 - 没年不明… 河西 力雄(明治45年(1912年)1月22日 - 没年不明)は日本の政治家。元鳥取県警部補。元境町会議員、境港市会議員。 鳥取県東伯郡三朝町大瀬出身。 昭和36年(1961年)9月、境港市議会副議長。 昭和41年(1966年)9月、境港市議会議長。 趣味は読書、釣。宗教は本門佛立宗。住所は境港市相生町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
大呂 甚衛(おおろ じんえ、明治45年(1912年)1月11… 大呂 甚衛(おおろ じんえ、明治45年(1912年)1月11日 - 没年不明)は日本の素封家、政治家。元智頭町会議員。林業。岡田商店の元社長岡田端の義父。 鳥取県八頭郡山形村大呂(現智頭町)出身。日大法科卒業。 広大なる山林を領有しその保全に専念、傍ら多くの公職を兼任。農協役員、神社庁八頭郡氏子総代、智頭町会議員、八頭郡小学校PTA連合会長、地方教育委員八頭連絡協議会長等を歴任。 趣味は読書。宗教は黒住教。住所は鳥取県八頭郡智頭町字大呂。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月… 天満 和人(てんまん かずと、1911年〈明治44年〉11月3日 - 没年不明)は、日本の実業家、医師。産婦人科、天満医院長。米子ゴルフ倶楽部社長。 鳥取県米子市出身。山内定次郎の二男。9歳の頃に天満徳次郎の養嗣子となる。米子中学校(現・米子東高校)在学中に養父が亡くなり、養母により育成される。 松山高等学校理科乙類を卒業。1937年、大阪帝国大学を卒業。大阪帝国大学講師として8年間在職し、1943年に徳島医学専門学校教授、産婦人科を担当し、医育の傍ら教育に専念する。 1945年に大戦に応召、軍医少尉に任官、鳥取陸軍病院に勤務する。その間養母の死、徳島大空襲羅災等重なる災厄のため帰郷する。1946年に現地において産婦人科医院を開業する。
南波 冀志(なんば きし、明治44年(1911年)10月 -… 南波 冀志(なんば きし、明治44年(1911年)10月 - )は日本の公務員、郷土史家。本名熊夫。 鳥取県日野郡江府町出身。 昭和4年(1929年)10月広島逓信講習所松江支所卒業。松江郵便局採用、以来電信電話事業に従事、鳥取電気通信部庶務課長、鳥取電報電話局次長、郡家電報電話局長歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
加藤 僘(かとう ひろし、1911年〈明治44年〉3月21日… 加藤 僘(かとう ひろし、1911年〈明治44年〉3月21日 - 没年不明)は日本の実業家。 兄は元加藤商事社長加藤章。 鳥取県米子市出身。愛知県・豊吉の次男。父豊吉は米子にやって来て煉瓦や土管やセメント屋になり、鉄道工事建設の資材を納める仕事を始めた。 昭和10年(1935年)東大政治学科卒業、安田保善社に入り安田火災海上より昭和15年(1940年)住友金属工業に転じ燃料資材各課長、製鋼所業務部長、航空機器事業部営業部長、参与、調査役を経て昭和34年(1959年)9月住友鋼材工業監査役、11月大阪チタニウム製造取締役営業部長。 其間小倉汽船・尼崎製氷冷蔵各取締役、柏原機械製作所・日東産業・大塚鉄工所・三和金属各監査役を歴任。
角 邦雄(すみ くにお、1911年または1919年生まれ -… 角 邦雄(すみ くにお、1911年または1919年生まれ - ?)は、日本の翻訳家。 鳥取県米子市出身。関西大学文学部を中退または卒業。北海道新聞で外信部長をつとめる。のち、貿易会社の常務をつとめる。 はじめジョン・スタインベックなどのノンフィクションを翻訳、のち「犬もの」の翻訳で人気を博した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
児嶋 恒吉(こじま つねきち、明治43年(1910年)9月9… 児嶋 恒吉(こじま つねきち、明治43年(1910年)9月9日 - 平成3年(1991年)7月15日)は鳥取ガス株式会社の第3代社長。昭和52年(1977年)に黄綬褒章受章。 鳥取県の文化活動の中心として活躍した実業家。文化人。著書『黙堂閑話』。鳥取市出身。 昭和7年(1932)合名会社児嶋商店を継ぐ。昭和28年(1953)に鳥取ガス株式会社代表取締役社長、同年鳥取ガス産業株式会社代表取締役社長に就任し、ガス供給事業に尽力。昭和49年(1974)に日本ガス協会理事に就任し、ガス業界の発展に寄与した。昭和50年(1975)に君司酒造株式会社、昭和62年(1987)に鳥取ガス株式会社、昭和63年(1988)に鳥取ガス産業株式会社のそれぞれ代表取締役会長に就任。
長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう、1910年6月27日… 長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう、1910年6月27日 - 2004年8月19日)は日本の版画家。号は無弟。棟方志功とともに民藝運動を支えた板画家である。 1910年(明治43年)に兵庫県姫路市に生まれる。1929年(昭和4年)に鳥取県師範学校を卒業し、倉吉市の明倫小学校に勤務する傍、1934年(昭和9年)に倉吉の文化団体「砂丘社」同人になり油絵を描くようになる。 そのころに吉田璋也と出会い民藝運動に参加する。そして同運動に関わっていた柳宗悦、河井寛次郎らに師事するようになり、1940年(昭和15年)より棟方志功との交友が始まる。戦後、その棟方のすすめで板画を始める。1954年(昭和29年)には、柳宗悦、濱田庄司、バーナード・リーチを明倫小学校に招いて講演会を開催した。
椿 繁夫(つばき しげお、1910年5月13日 - 1991… 椿 繁夫(つばき しげお、1910年5月13日 - 1991年10月26日)は、日本の労働運動家、政治家。元参議院議員。 鳥取県東伯郡羽合町(現在の湯梨浜町出身)。13歳の頃大阪へ出て旋盤工となる。 大阪市役所職員を経て、社会大衆党公認で大阪市会議員選挙に立候補し、当選する。 戦後日本社会党結成に参加し1950年の第2回参議院議員通常選挙で参議院議員に当選(3年議員)。1952年左右分裂で社会党左派に参加。1953年の第3回参議院議員通常選挙で落選するが、社会党再統一後の1956年に第4回参議院議員通常選挙で返り咲く。通算3期務める。 日本社会党の役員としては党参議院国会対策委員長を経て、1963年河上丈太郎委員長の下で党参議院議員会長に就任。
角田 三男(かくた みつお、1910年2月2日 - 1985… 角田 三男(かくた みつお、1910年2月2日 - 1985年5月6日)は、将棋棋士。棋士番号13。鳥取県西伯郡岸本町(現・伯耆町)出身。木見金治郎九段門下。 この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
石田 哲一(いしだ てついち、1910年〈明治43年〉1月3… 石田 哲一(いしだ てついち、1910年〈明治43年〉1月3日 - 没年不明)は、日本の裁判官。日本で最初のプライバシー侵害裁判(被告・三島由紀夫)の裁判長だった。父は石田運送(名)代表社員の石田章之進。 鳥取県西伯郡成実村大字西大谷(現・米子市明治町)出身。 旧制鳥取県立米子中学校、旧制松江高校を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学法学部卒業。1933年(昭和8年)、司法官試補。1934年(昭和9年)、予備判事に任官。 1949年(昭和24年)、東京高等裁判所判事。1955年(昭和30年)、東京地方裁判所判事。 趣味は歌舞伎、長唄。宗教は神道。 (鳥取県米子市糀町・米子市明治町)
伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6… 伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6月28日 - 1961年12月27日)は、日本の医師、詩人、版画家、彫刻家。 俳号は鉄庵。別名:ジョージ・ウーラン。戦後日本の抽象彫刻の先駆者の一人である。 弟に洋画家の伊藤彰、染色家の吉田たすくがいる。 1909年、鳥取県倉吉市広瀬町で病院を開業している伊藤琢郎・久代の子として八人兄弟の長男として大連で生まれる。1921年3月、明倫小学校卒業。1927年3月、県立倉吉中学校 (現在の鳥取県立倉吉東高等学校)卒業。1936年3月、私立岩手医学専門学校 (現・岩手医科大学)を卒業。同年4月、京都府立医科大学付属病院外科教室に入る。1940年2月に京都府立医大を退職し、中津川町立中津川病院(現・総合病院中津川市民病院)外科主任となる。
大杉 久雄(おおすぎ ひさお、1909年6月21日 - 19… 大杉 久雄(おおすぎ ひさお、1909年6月21日 - 1995年6月20日)は、日本の編集者。講談社の編集者として戦前〜戦後へと活躍した。主な編集誌に幼年クラブ、少年倶楽部などがある。のらくろの作者である、田河水泡と交流があった。 孫に大杉正人(オーストラリアシドニー在住)がいる。 本来大杉家は、地元の大地主であり大きな山林を所有していたが、大正恐慌のあおりを受け没落する。久雄は父より大杉家再興の為医者になることを命じられ、京都大学の受験の為の旅費を渡されるが、幼いころからの夢である文学への思いが立ちきれず京都へ向かう汽車で京都では下車せずそのまま東京へ向かう。 久雄は早稲田大学第一文学部への入学を決めるが、父は立腹しその年の正月の餅を久雄に送らなかったというエピソードが残されている。
岡田 洲二(おかだ しゅうじ、明治42年(1909年)3月5… 岡田 洲二(おかだ しゅうじ、明治42年(1909年)3月5日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。岡田商店の元代表取締役会長。元境港商工会議所会頭。元境港魚市場顧問、境港海陸運送相談役。元鳥取県会議員、境町会議員。 父親の岡田庄作は境港海運界の重鎮として境港発展に尽くした。叔父岡田信吉朗も海運業者である。 鳥取県西伯郡境町栄町(現在の境港市)出身。父は岡田庄作。 米子中学(現米子東高校)を経て、昭和9年(1934年)旅順工科大学機械科卒業。新潟県立長岡工業学校、米子高等女学校(現米子西高校)に勤務。昭和14年(1939年)岡田回漕店勤務。昭和19年(1944年)境港海陸運送を日本通運と創業、常務を経て社長に就任。
米原 昶(よねはら いたる、1909年(明治42年)2月7日… 米原 昶(よねはら いたる、1909年(明治42年)2月7日 - 1982年(昭和57年)5月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(日本共産党公認、3期)。日本共産党幹部会委員。 鳥取県八頭郡智頭町生まれ。智頭は江戸時代は因幡街道の宿場町・智頭宿として栄え、実家は代々「もめんや」の屋号で呉服類や小間物の商いをしていた。旧制の鳥取中学(現在の鳥取西高)を経て旧制一高に入学するも、学生運動に携わったことで放校処分が下る。一高在学中より27年テーゼや社会科学研究会などを通じて日本共産党への関心を深め、弘世 哲夫の変名で地下活動をおこない、1945年、第二次世界大戦の敗戦と民主化により合法化された同党へ入党。
石破 二朗(いしば じろう、1908年〈明治41年〉7月29… 石破 二朗(いしば じろう、1908年〈明治41年〉7月29日 - 1981年〈昭和56年〉9月16日)は、日本の内務・建設官僚、政治家。位階は正三位。勲章は勲一等瑞宝章。 参議院議員(2期)、鳥取県知事(第39代)。鈴木善幸内閣において、自治大臣(第28代)兼国家公安委員会委員長(第38代)を務めた。 第102-103代内閣総理大臣、第28代自由民主党総裁である石破茂の父。 太宰治、永井荷風の著作物を好む。 田中角栄元首相は友人である。安田貞栄境港市長(第3代)が石破に「あなたは元気である限り、本県県政を担当願うことが県民のためになると思う。それほどあなたを高くかっておるが東京では(自民党の)田中派に属しておることが釈然としませんね」と言った時「君は田中という人を知らんからだ。
松本 幸市(まつもと こういち、1908年3月10日 - 1… 松本 幸市(まつもと こういち、1908年3月10日 - 1978年1月7日)は、日本の経営者。 鳥取県境港市出身。1927年に山口高等商業学校を卒業し、同年に小野田セメントに入社。1960年に取締役に就任し、1963年に常務、1967年に専務、1969年に副社長を経て、1973年10月には社長に就任。 1976年6月16日心筋梗塞のために在任中に死去。68歳没。
駒井 玲子(こまい れいこ、1908年〈明治41年〉2月22… 駒井 玲子(こまい れいこ、1908年〈明治41年〉2月22日 - 1942年〈昭和17年〉1月20日)は、日本の美容家。昭和初期のマネキンの代表的な人物の1人であり、当時のマネキンたちの中でも特に人気を集め、マネキンガールを職業として確立した人物である。「マネキンの元祖」「マネキンガール第1号」ともいわれる。また、美容法の宣伝に注力していた資生堂において近代的な美粧法を提唱し、近代美容の向上に大きく貢献した。本名は浅沼清子、または浅沼キヨ。旧姓は長谷川。鳥取県鳥取市出身。 1920年に鳥取市片原で誕生した。1920年(大正9年)に鳥取高等女学校に入学。頭脳明晰の上に、国際語のエスペラント語を学ぶなど、進んで物事に取り組む性格で、学内では一目置かれていた。
菅田 榮治(すがた えいじ、1908年2月16日 - 198… 菅田 榮治(すがた えいじ、1908年2月16日 - 1988年7月13日)は日本の工学者。工学博士。 国産第一号の電子顕微鏡の組み立てに成功した。 鳥取県米子市米原出身。 福米小学校、米子中学校(現米子東高校)を経て推薦で大阪高等工業学校に入学するが、同校が1929年に大学に昇格したのにともない、彼もまた大学に進学して 1932年に卒業、鉄道省への入省が決まっていたがあまりに成績が優秀ということで、そのまま講師として残った。 1933年大阪帝国大学工学部専任講師に迎えられると、電子顕微鏡の研究一筋に打ち込み、1940年、国産第一号の電子顕微鏡の組み立てに成功した。倍率一万倍、今から見れば幼稚であるが当時としては、驚くべき性能であった。
岡本 哲史(おかもと てつし、1908年2月13日 - 19… 岡本 哲史(おかもと てつし、1908年2月13日 - 1996年10月23日)は、日本の航空工学者。専門分野はは流体力学。鳥取県出身。 旧制鳥取県立米子中学校、旧制松江高等学校を経て、1931年東京帝国大学工学部航空工学科卒業。39年東京工業大学助教授となり、44年工学博士、45年東京工大教授。日本のロケット開発のパイオニアの一人で、66年に日本で初めて液体酸素・液体水素を使ったロケットエンジンの実験を行ったことで知られる。
石谷 憲男(いしたに のりお、1908年(明治41年)1月1… 石谷 憲男(いしたに のりお、1908年(明治41年)1月10日 - 1966年(昭和41年)9月20日)は、昭和期の農林官僚、政治家。林野庁長官、参議院議員。鳥取県会議長を務めた石谷源蔵の孫。 鳥取県八頭郡智頭町出身。 1931年(昭和6年)東京帝国大学農学部卒業後、農林省に入り、秋田営林局を最初に一貫して林政に努め、鳥取営林署長も務めた。以後、経済安定本部林産課長、林野庁計画課長、同業務部長などを歴任。1955年(昭和30年)11月、林野庁長官に就任し1958年(昭和33年)6月まで在任した。 1959年(昭和34年)6月、第5回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補して当選し1期在任。
土井 正三郎(どい しょうざぶろう、1907年〈明治40年〉… 土井 正三郎(どい しょうざぶろう、1907年〈明治40年〉12月23日 - 1992年〈平成4年〉12月18日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。 鳥取県米子市出身。土井親男の三男。生家は米子東倉吉町、鉄砲火薬の土井親男商店。 1929年に青山学院高等部商科を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1958年5月に取締役に就任し、1967年5月に副社長を経て、1968年11月には社長に就任。1971年5月に会長に就任し、1976年6月には相談役に就任。 1973年9月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1992年12月18日に急性心筋梗塞のために死去。84歳没。 長年テニスで身体をきたえた。
河合 弘道(かわい ひろみち、1907年(明治40年)11月… 河合 弘道(かわい ひろみち、1907年(明治40年)11月3日 - 1991年(平成3年)12月15日)は日本の政治家。鳥取県米子市長(5期)、金光教米子教会長。位階は従五位。 鳥取県西伯郡米子町(現在の米子市)道笑町に生まれる。 明道校から米子中学校(現在の米子東高校)へ進学する。 1931年(昭和6年)日本大学社会学科卒業。同大学社会学研究室助手となり、やがて講師、次いで1938年(昭和13年)予科の教授となる。 1946年(昭和21年)故郷米子に帰り、金光教米子教会長に就任。 戦後のすさんだ人々の心を導くと共に、社会教育の振興に取り組んだ。中でもボーイスカウトの再建、児童福祉施設わかば園の経営などの活動を通じて、次第に市政の在り方に関心を寄せ、彼を囲む市民の幅広い支持を得て、1963年(昭和38年)市長選に立候補し当選、1983年(昭和58年)4月までの5期20年に亘る長期間在職した。
米原 穣(よねはら みのる、1907年〈明治40年〉9月21… 米原 穣(よねはら みのる、1907年〈明治40年〉9月21日 - 1994年〈平成6年〉)は、日本の実業家。日本海テレビ、日ノ丸自動車各社長。鳥取商工会議所会頭。 鳥取県八頭郡智頭村(現・智頭町)出身。米原章三の長男。1925年、鳥取県立鳥取第一中学校を卒業する。1928年、第六高等学校を卒業する。1931年、東京帝国大学文学部独逸文学科を卒業する。文部省嘱託拝命。 1936年、高知高校教授。1943年に文部省教学官、1946年に文部省学校教育局専門教育課長に就任する。1949年、鳥取大学教授に任ぜられ、学芸学部長を拝命する。1954年、退官する。以降日ノ丸自動車、鳥取大丸の社長(のち共に会長)、その他各社役員を兼ねる。
田村 純一(たむら じゅんいち、1907年〈明治40年〉9月… 田村 純一(たむら じゅんいち、1907年〈明治40年〉9月4日 - 2000年〈平成12年〉)は、日本の政治家、実業家。久米桜酒造会長。鳥取県公安委員会委員長。 鳥取県米子市糀町出身。父・田村源太郎、母・あさの長男。家業は肥料商、酒造業。米子中学校を経て1929年、神戸高商を卒業、同年に田村源太郎商店に入り、酒造肥料商に従事する。1939年に米子市会議員に当選、1943年に再選する。米子市翼賛壮年団長をつとめる。 企業整備により家業を転廃業、米子境商業統制組合、米子市総合配給所の各専務理事に就任する。1947年、公職追放を受け、同年に久米桜酒造を創立し社長に就任。1952年、米子市教育委員に当選する。
早川 忠篤(はやかわ ただあつ、1907年〈明治40年〉8月… 早川 忠篤(はやかわ ただあつ、1907年〈明治40年〉8月18日 - 1969年〈昭和44年〉4月27日)は、日本の地方政治家。鳥取県倉吉市の初代市長。戦後の地方自治体建設と都市文化形成に尽力し、モダニズム建築による市庁舎建設や将来志向の都市構想を推進したことで知られる。 鳥取県東伯郡上小鴨村(現・倉吉市)出身。1926年(大正15年)倉吉中学校(現・鳥取県立倉吉東高等学校)卒業。1933年(昭和8年)より倉吉町議会議員を務め、1947年(昭和22年)には鳥取県議会議員に選出。1951年(昭和26年)に倉吉町長に就任し、1953年(昭和28年)10月の市制施行により倉吉市の初代市長に選出された。
赤沢 正道(赤澤 正道、あかざわ まさみち、1907年(明治… 赤沢 正道(赤澤 正道、あかざわ まさみち、1907年(明治40年)7月26日 - 1982年(昭和57年)1月20日)は、日本の実業家、政治家。赤沢組会長。自治大臣兼国家公安委員長。 山陰労災病院の誘致、国道9号の拡幅、美保基地周辺の民生安定事業など、郷土に残した足跡は多い。衆議院議員で、経済産業大臣などを務める赤沢亮正は孫。 鳥取県米子市西倉吉町に生まれた。父・康平は、徳島県出身の土木建築業。旧徳島藩士である。明治30年代から始まった山陰本線の建設に参加するため米子に進出、業界のリーダーとして業績を積み上げた。 また康平は、邸内に造った弓道場で毎朝弓を引いたといわれ、赤沢家は市民から一目置かれる家庭だった。
坂口 宏(さかぐち ひろし、明治40年(1907年)7月11… 坂口 宏(さかぐち ひろし、明治40年(1907年)7月11日 - 没年不明)は、日本の実業家。 実業家2代坂口平兵衛の従弟にあたる。 鳥取県米子市出身。坂口武市の長男。 昭和7年(1932年)京都帝国大学法学部卒業。東京芝浦電気入社。昭和20年(1945年)退職、ヤマサ電気工業所創立所長就任。 趣味はスポーツ、住所は米子市西町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
南家 恭一(なんけ きょういち、1907年〈明治40年〉5月… 南家 恭一(なんけ きょういち、1907年〈明治40年〉5月1日 - 没年不明)は、日本の実業家。南家商事社長。 鳥取県西伯郡外江村(現・境港市外江町)出身。父は南家清一。鳥取県信用組合理事長、境港市監査委員会委員、境港商工会議所副会頭、鳥取県中小企業団体中央会理事などをつとめる。住所は境港市外江町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
安田 光昭(やすだ みつあき、1907年(明治40年)3月1… 安田 光昭(やすだ みつあき、1907年(明治40年)3月11日 - 1993年(平成5年)1月12日)は日本の教育者、政治家。元鳥取県議会議員。元米子市教育長。号東馬。 地方教育行政の要として野坂寛治市長のもと教育基盤の確立に尽力。米子市独自の教育立地計画を樹立することが肝要と6年間にわたり現場教職員と一体となり実態調査を実施。その結果を4冊にまとめ逐次刊行した。このことは全国的に注目された。また、全国の都市教育委員会の教育長に呼びかけて全国都市教育長会を結成し、地教委本来の使命達成に努めた。その他、県立移管となった市立米子高等学校の開設「米子市小学校再配置計画」の立案実施を行った。 鳥取県西伯郡大篠津村(現米子市大篠津町)の「大阪屋」という割烹旅館の長男として生まれた。
阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24… 阿部 信文(あべ のぶふみ、1907年(明治40年)2月24日 - 1983年(昭和58年)12月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)、教育者。 講道館創始者嘉納治五郎に直接柔道の手ほどきを受けた直弟子で大正末期から昭和初期の現役時代には得意の背負投を武器に一世を風靡し、後には全日本柔道連盟評議員・常任理事、境港市教育委員長、鳥取県体育協会評議員、鳥取県柔道連盟会長、境港市体育協会会長を務めるなど日本柔道界の重鎮として知られた。 鳥取県西伯郡余子村(現・境港市高松町)出身。県立米子中学校(現・県立米子東高校)時代には右の一本背負投や跳腰で名を馳せ県下に伍する者無く、身長165cm・体重68kgの小兵ながら在学中に大日本武徳会で2段位を取得した。
尾崎 博(おざき ひろし、1907年2月1日- 1994年2… 尾崎 博(おざき ひろし、1907年2月1日- 1994年2月23日)は、日本の古生物学者。理学博士。国立科学博物館地学研究部長、斎藤報恩会自然史博物館館長などを歴任した。鳥取県鳥取市出身。 1907年、鳥取県気高郡青谷村(現在の鳥取市)で生まれる。旧制倉吉中学校を卒業後、1924年に満州教育専門学校へ第一期生として入学。同期には後の妻となる女性の兄がいた。1928年、東北帝国大学理学部地質学古生物学科に進学し、矢部長克に学ぶ。1932年、再び満州国に戻り、満鉄地質調査所に技師として配属。満州各地で地質資源の探査に貢献する。 1947年に日本へ帰国。1950年国立科学博物館地学課長。1959年、東京教育大学理学博士「Stratigraphical and paleontological studies on the neogene and Pleistocene formations of the Tyosi district」。
三橋 誠(みつはし まこと、1907年 <明治40年> 1月… 三橋 誠(みつはし まこと、1907年 <明治40年> 1月16日 - 1990年 <平成2年> 10月20日)は、日本の経営者、バスケットボール選手。全国農業協同組合連合会会長を務めた。位階は従四位。 鳥取県鳥取市出身。1933年に京都帝国大学農業経済科を卒業。山陰日日新聞社取締役などを経て、1955年に鳥取県議員となり、後に副議長も務めた。1957年6月に全国購買農業協同組合連合会会長に就任し、1972年3月には全国農業協同組合連合会会長に就任。 バスケットボール選手としても活躍し、1934年には極東大会に出場し、1936年のベルリン・オリンピックでは、日本代表チームのヘッドコーチを務め、1967年11月には日本バスケットボール協会理事長に就任。
木下 昇(きのした のぼる、1907年〈明治40年〉1月15… 木下 昇(きのした のぼる、1907年〈明治40年〉1月15日 - 没年不詳)は、日本の政治家。初代名和町長。 鳥取県出身。木下鶴吉の養嗣子となった。米子中学校(現・米子東高校)卒業後、農耕に精励する。民生委員、農業会常務理事、農業委員、県郡養蚕連副会長監事、小学校PTA会長、村会議員、鳥取県町村長会副会長等を歴任した。 1950年(昭和25年)11月から1954年(昭和29年)3月まで光徳村長を務めた。その後、合併で発足した名和町長を同年4月から1966年(昭和41年)4月まで務めた。 住所は鳥取県西伯郡名和町大字東坪(現・大山町東坪)。
松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日… 松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日 - 平成12年(2000年)12月25日)は日本の柔道家、実業家、政治家。境港商工会議所名誉会頭。元境町会議員、境港市会議員。 鳥取県境港市出身。万一の長男。 米中卒。松本材木店経営。姫路野砲第十連隊入隊、昭和19年(1944年)再応召、陸軍中尉。 昭和21年(1946年)松本木材(株)を設立、取締役社長に就任、同年境港商工会議所会頭(のち公職追放で辞任)。昭和30年(1955年)~昭和61年(1986年)境港商工会議所会頭。 昭和34年(1959年)(株)米子木材市場取締役社長、境港外材輸入(協)理事長、昭和38年(1963年)大山産業(株)取締役社長、昭和57年(1982年)松本木材(株)を境港木材工業(株)に改組、取締役顧問。