永瀬 清子(ながせ きよこ、1906年(明治39年)2月17… 永瀬 清子(ながせ きよこ、1906年(明治39年)2月17日 - 1995年(平成7年)2月17日)は、日本の詩人。岡山県赤磐郡豊田村熊山(現赤磐市)出身。幼年期を石川県金沢市で過ごし、愛知県立第一高等女学校(現愛知県立明和高等学校)卒業。本名は永瀬清。 高等女学校在学中から佐藤惣之助に師事し『詩之家』同人となる。1930年、詩集『グレンデルの母親』を発表。1940年、その名声を得た詩集『諸国の天女』の序文は高村光太郎によるもので、生涯敬慕した宮沢賢治の追悼会での出会いが縁だった。またこの詩集によって、山内義雄や宮本百合子らに認められ、随一の女性文学者たちの仲間入りを果たした。1945年岡山県に帰り、農業に従事しながら詩作を行う。
福田 與(ふくだ あたえ、1906年(明治39年) - 19… 福田 與(ふくだ あたえ、1906年(明治39年) - 1988年(昭和63年))は、日本の教育者。岡山県倉敷市出身で、京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)を卒業後、小学校教諭として教育者の道を歩み始め、続いて京都府立聾学校教諭、さらに京都府立盲学校教諭として教育活動に従事し、聾・盲児のために一生を捧げた。 また、野の思想家「宮崎童安」に師事し、童安亡きあと、『地獄の聖書』『童安童話集』など童安の著書多数を自費出版したのをはじめ、有縁の人々の歌集や追悼集を数多く出版した。就中特筆すべきは、『新井奥邃の思想』『内観祈祷録・奥邃先生の面影』を自費出版した事であろう。福田家の一族に明治維新のとき、長州の勤皇運動を助けて活躍した勤皇家・福田理兵衛がいる。
池田 亮一(いけだ りょういち、本名:三村亮一、1906年(… 池田 亮一(いけだ りょういち、本名:三村亮一、1906年(明治39年) - 1963年(昭和38年)6月14日)は日本のコミュニスト。しんぶん赤旗の編集長。共産党幹部。岡山県出身。 1906年(明治39年)、岡山県に生まれる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1923年(大正12年)第六高等学校文科乙類に進学、1927年(昭和2年)、同校を卒業し、京都帝国大学経済学部へ進学した。1930年(昭和5年)に同大学を卒業した。京大時代に出会った共産主義に没頭し、卒業後は共産党員として活動した。 池田は、若いころからコミュニズムに共鳴し、早くからその活動に関与していた。日本の労働運動や左翼活動に身を投じ、共産党の機関紙『赤旗』の編集長を務めるなど、指導的な立場にあった。
妹尾 幹(せのお かん、1905年(明治38年)7月29日 … 妹尾 幹(せのお かん、1905年(明治38年)7月29日 - 1969年(昭和44年)8月13日)は、日本の教育者。東京音楽学校教授(現:東京藝術大学・音楽学部)を務めた後、旧制山口高等学校(山口大学経済学部の前身)・島根大学教授、岡山大学助教授、北海道大学、神奈川大学教授となる。岡山県高梁市出身。 1905年(明治38年)、岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の妹尾善平の子として生まれる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1923年(大正12年)旧旧制松江高等学校文科乙類に進学、1926年(大正15年)、同校を卒業し、東京帝国大学文学部独文学科へ進学した。1930年(昭和4年)3月に同大学を卒業した。
苅田アサノ(かんだ あさの、本名:堀江アサノ(ほりえアサノ)… 苅田アサノ(かんだ あさの、本名:堀江アサノ(ほりえアサノ)、1905年6月21日 - 1973年8月5日)は、日本の政治家、婦人運動家、著述家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。夫は元日ソ協会副会長の堀江邑一。 岡山県津山町(現・津山市)生まれ。生家は代々地主の家系で、学生時代からロシア文学及び社会主義思想に傾倒し、日本女子大学国文科を卒業後の1931年、日本共産党に入る。入党以降財政面で支援を行うものの、1933年に治安維持法の疑いで検挙。転向の後1935年に出獄すると東洋経済新報社などを経て、1938年には郷里の岡山県に戻り西日本製紙に勤務する。 戦後は日本共産党に再入党し、1949年の衆院選に旧岡山1区から出馬し初当選を果たす。
山本 光春(やまもと みつはる、1905年(明治38年)4月… 山本 光春(やまもと みつはる、1905年(明治38年)4月26日 - 1988年(昭和63年)2月24日)は日本の実業家、ジャーナリスト。毎日新聞社社長を務めた。岡山県岡山市出身。 竹槍事件では整理部副部長。新名丈夫の記事に「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と見出しをつける。処分こそされなかったが、軍部の反発を招いたとして丸坊主になった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
秋山 龍(あきやま とおる、1905年2月28日 - 200… 秋山 龍(あきやま とおる、1905年2月28日 - 2000年1月3日)は、日本の運輸官僚。海運総局長官・運輸事務次官を務めたのち、日本空港ビルデング初代社長や東京モノレール社長を歴任した。通産官僚の秋山收は子。 岡山県岡山市出身。1924年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒業。1928年京都帝国大学法学部卒業。逓信省に入省(淀橋郵便局)。海運局次長、運輸省参事官、海運局長などを経て、1948年海運総局長官。1949年6月運輸事務次官。1952年1月退官。日本空港ビルデングの設立に参加、民間資本を集めて1953年に初代社長に就任した。のち相談役。このほか、東京モノレール社長(1965年)、東京シティ・エアターミナル会長、ロイヤルパークホテル社長、国際港湾協会初代事務総長、日本航空協会会長(1991年)も務めた。
瀬崎 三木三(せざき みきぞう、旧姓:渡辺 三木三、1905… 瀬崎 三木三(せざき みきぞう、旧姓:渡辺 三木三、1905年(明治38年)2月15日 - 1975年(昭和50年) )は日本の実業家である。日産化学総務部長を経て日本証券代行(現:三井住友信託銀行)取締役。岡山県井原市出身。 1905年(明治38年)岡山県後月郡県主村(現:井原市)の渡辺家に生れる。1919年(大正8年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に芥川賞作家の石川達三、日本教育テレビ(現:テレビ朝日)編成局次長になる金澤覚太郎、日本電気化学社長になる日野西義輝、倉敷紡績取締役になる翁孝文がいた。1924年(大正13年)卒業後、早稲田大学高等予科(商科)を経て、1926年(大正15年)早稲田大学商学部へ入学した。
小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 194… 小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 1942年3月24日)は、日本の歴史家。旧名は小野均。 岡山県岡山市生まれ。1925年第六高等学校、1928年東京帝国大学文学部国史学科をそれぞれ卒業。卒業論文は「近世城下町の研究」。同年から東京帝国大学史科編纂所に勤務、1937年史料編纂官となる。主に『読史備要』の作成、『大日本史料』の編纂を担当。近世都市と中世商業の研究を進めた。
相馬 勝夫(そうま かつお、1904年11月26日-1983… 相馬 勝夫(そうま かつお、1904年11月26日-1983年1月31日)は、専修大学理事長、専修大学総長。専修大学創立者の相馬永胤の孫。経済学博士。専門は保険論。岡山県岡山市出身。 1924年東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。1930年(昭和5年)東京商科大学(現一橋大学)卒業後、専修大学講師。1932年東京商科大学旧制大学院修了。1938年専修大学教授。その後、学生部長・就職指導部長・を歴任。1955年商経学部長。1957年体育部長。1961年経営研究所長。1961年専修大学にて論題「新価保険」で経済学博士を受く。 1961年(昭和36年)専修大学第10代学長。
田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月2… 田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月27日 - 1981年(昭和56年)8月15日 )は、日本の教育者・大気電気学者。京都大学名誉教授、岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)に岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市成羽町吹屋)で生まれる。その後は地元に近い旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、1922年(大正11年)に卒業。旧制第六高等学校を経て、1925年(大正14年)京都帝国大学へ入学。同大学工学部電気工学科を1928年(昭和3年)に卒業した。卒業論文は「電光と避雷」であり、これが田村の将来を決めた。 田村は、京大卒業後、発電所か鉄道関係への就職を考えていたが、同大学理学部物理学教室から大気電気の研究助手の話があり、長谷川万吉教授の研究室に入った。
大山 功(おおやま いさお、1904年8月5日 - 1993… 大山 功(おおやま いさお、1904年8月5日 - 1993年8月)は、日本の演劇評論家。 岡山市生まれ。1932年早稲田大学文学部演劇学科卒、『藝術殿』『東宝』『日本演劇』『演劇界』などの雑誌編集のかたわら演劇評論を行う。1945年戦災で山形県へ疎開。 文筆活動を続け、1974年『近代日本戯曲史』で第6回河竹賞受賞。山形県嘱託。
直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2… 直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2005年9月30日)は、日本の画家、禅僧、俳人。 岡山県赤磐郡(現:赤磐市)生まれ、兵庫県の淡路島で育つ。本名は正。大阪美術学校卒業。帝国美術展に初入選後、日展に16回入選する。南画の第一人者。社団法人日本南画院会長・理事長、現代南画協会理事長、財団法人青少年文化研修道場理事、守口市美術協会会長、青玲社主宰、黄檗宗国清寺住職、俳誌「早春」選者などを務める。洲本市名誉市民、守口市名誉市民、南あわじ市名誉市民。 52歳の時、「自然の実相が禅」との柴山全慶老師(当時)の言葉に触れ、禅に傾倒。以来、老師の提唱は欠かさず聞いた。また当時の村瀬玄妙黄檗宗元管長とも幼馴染みで、臨済宗黄檗宗の僧籍をもつ。
梅島 貞(うめじま さだし、1904年7月8日 - 2004… 梅島 貞(うめじま さだし、1904年7月8日 - 2004年4月8日)は、日本の経営者。毎日新聞社社長を務めた。 岡山県岡山市出身。1929年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に毎日新聞社に入社。1954年1月に取締役に就任し、1958年7月に常務、1961年1月に専務を経て、1968年1月に社長に就任。1972年1月から1977年12月までに最高顧問を務めた。 1974年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2004年4月8日に脳梗塞のために死去。99歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
立林 文二(たてばやし ふみじ、1904年(明治37年)3月… 立林 文二(たてばやし ふみじ、1904年(明治37年)3月20日 - 1966年(昭和41年)7月10日)は、日本の銀行家。三和相互銀行社長(現・トマト銀行)。岡山県新見市出身。 1904年(明治37年)岡山県阿賀郡刑部村(現:新見市)に生まれる。1895年(明治28年)に旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、その後、1922年(大正11年)第六高等学校文科甲類へ入学した。1925年(大正14年)、同高校を卒業し、東京帝国大学法学部法律学科へ入学、イギリス法を学び1929年(昭和4年)3月、同大学を卒業した。 大学卒業後、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)へ入行し、大阪支店に配属となり、1935年(昭和10年)には、貸付課の書記に配属となった。
山崎 始男(やまさき もとお、1904年(明治37年)3月1… 山崎 始男(やまさき もとお、1904年(明治37年)3月18日 - 1983年(昭和58年)10月9日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県吉備郡総社町(現総社市)で、米穀問屋・山崎重の長男として生まれる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1931年(昭和6年)慶應義塾大学政治学科を卒業した。名古屋市において製陶会社で勤務したり木材関係貿易に従事した。1944年(昭和19年)に帰郷し会社経営を行う。 1948年(昭和23年)初の公選制による岡山県教育委員に選出され、1949年(昭和24年)副委員長に就任。1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で岡山県第2区から出馬して初当選。
長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10… 長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10日 - 1994年(平成6年)8月21日 )は、日本の登山家であり、随筆家でもある。まだ日本では珍しかった山小屋であるヒュッテ・霧ヶ峰を経営した人物として有名。日本山岳会員、日本児童文芸家協会・日本国立公園新社理事。岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市)の長尾家に生れる。大正4年度吹屋小学校を卒業。地元の旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。長尾自身、好奇心旺盛な性格であり、5年生の夏には、神戸市の貧民窟(スラム)へ見物に行く。そこは、人一人やっと通れる位の路地があり、病める者、貧しき者、悩める者、弱き者、虐られた者等、世の中の敗者とされる人々がひしめき合い、これを見て世の中の不平等さを認識した。
森谷 克己(もりたに かつみ、1904年(明治37年)1月1… 森谷 克己(もりたに かつみ、1904年(明治37年)1月1日 - 1964年(昭和39年)11月17日)は、日本の経済学者。専門は経済史。 1904年、岡山県上房郡上水田村(現:真庭市北房地域)生まれ。岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、関西電力取締役になる板野道夫がいた。1921年3月に同校を卒業、板野と同じく同年4月第六高等学校文科乙類に進学。1924年3月六高卒業、同年4月東京帝国大学法学部に入学。1927年3月東大法学部卒業した。 1927年6月、京城帝国大学法文学部助手に任ぜられる。1929年京城帝大助教授に就任。1945年11月敗戦により引き上げ。1946年5月名目のみ教授となるが自然退官。
岡本 唐貴(おかもと とうき、1903年12月3日 - 19… 岡本 唐貴(おかもと とうき、1903年12月3日 - 1986年3月28日)は、プロレタリア画家、洋画家。本名・岡本登喜男。 生涯芸術活動に身を染め、ダダイスム、シュルレアリスムなどの影響を受けた絵画、写生画を数多く残す。 長男は漫画家の白土三平(本名・岡本登)、長女は絵本作家の岡本颯子。
葉上 照澄(はがみ しょうちょう、1903年8月15日 - … 葉上 照澄(はがみ しょうちょう、1903年8月15日 - 1989年3月7日)は、哲学者、天台宗の僧侶、千日回峰行大行満大阿闍梨、大僧正。比叡山延暦寺長﨟で初代印度山日本寺竺主および世界連邦日本宗教委員会会長を務めた。世界平和のためには宗派を超えた宗教者の連帯が必要との持論から、世界宗教サミットを発起・開催した。 岡山県赤磐郡石生村原(現在の岡山県和気郡和気町原)の天台宗・元恩寺住職の葉上慈照の長男として生まれる。小学校一年の時、備前岡山藩主の池田家の寺である金剛山常住寺の弟子となる。1916年(大正5年)9月、岡山県立岡山中学校に進学、1920年(大正9年)第六高等学校 (旧制)の入学試験では数学で満点を取り、首席入学した。
奥村 勝蔵(おくむら かつぞう、1903年8月7日 - 19… 奥村 勝蔵(おくむら かつぞう、1903年8月7日 - 1975年9月26日)は、昭和期の外交官。 岡山県岡山市出身。天王寺中学、第三高等学校を経て、東京帝国大学法科卒業。1926年(大正15年)、外務省入省。 アメリカ合衆国在ワシントン日本大使館の一等書記官在任中であった1941年(昭和16年)12月8日に、太平洋戦争が始まった。奥村はこの際に不得手なのに日米交渉打ち切りの文書をタイプライターを使い時間を浪費し浄書した。大日本帝国がアメリカ合衆国のコーデル・ハル国務長官に交渉打ち切りの文書を手渡したのは同日午後2時20分で、命令で指定された予定時刻から1時間20分の遅れであり、既に真珠湾攻撃は始まっていたため、日本による騙まし討ちと米国は宣伝した。
片山 直憲(かたやま なおのり、1903年7月25日 - 1… 片山 直憲(かたやま なおのり、1903年7月25日 - 1982年1月2日)は、岡山県出身の通商産業省(現・経済産業省)キャリア官僚。弁理士、行政書士、および中央大学評議員としての貢献により、1979年春の叙勲で勲五等双光旭日章を受章した。 岡山県和気郡和気町(旧・岡山県赤磐郡石生村)出身。江戸時代には岡山藩(池田藩)で代々蘭学者や藩医を務めた岡山県上級士族の家系に生まれる。(族籍は、岡山県士族)。 1916年石生尋常小学校を卒業後、旧制岡山県岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第六高等学校(現・岡山大学教養部)を経て、1928年3月、旧制中央大学法学部英法科を卒業した。 高等試験行政科に合格し、1928年、当時の商工省(現・経済産業省)に入省。
阿部 知二(あべ ともじ、1903年〈明治36年〉6月26日… 阿部 知二(あべ ともじ、1903年〈明治36年〉6月26日 - 1973年〈昭和48年〉4月23日)は、日本の小説家・英文学者・翻訳家。 1903年(明治36年)6月26日、岡山県勝田郡湯郷村大字中山(現・美作市中山)にて阿部良平、もりよ夫婦の次男として生まれる。中学教師であった父の赴任により、生後2ヶ月で島根県大社町に移り、さらに9歳のとき姫路市坊主町(ぼうずまち)に移る。父が教鞭を執っていた旧制姫路中学(現・姫路西高校)を5年制のところを4年で修了し、旧制第八高等学校(現・名古屋大学)文科甲類(英文学科)、東京帝国大学(現・東京大学)英文学科を卒業。兄・公平の影響で文学に近づき、短歌を学んで島木赤彦に接し、またトルストイやチェーホフを愛読する。
大山 茂樹(おおやま しげき、1903年(明治36年)6月1… 大山 茂樹(おおやま しげき、1903年(明治36年)6月10日 - 1995年(平成7年)4月5日)は、日本の政治家。岡山県倉敷市長。位階は従四位。 岡山県出身。大山俊吉の長男。1921年、倉敷商業学校(現・岡山県立倉敷商業高等学校)卒業。翌年、田村商会に就職、同社東京支店長代理などを経て、1948年に日本野草莚加工(株)を創立、1950年に岡山県輸出花莚野草莚協同組合を創立し、理事長となる。同年、岡山県議会議員に初当選。以後、5期連続務める。1964年、倉敷市長に初当選。1967年に倉敷市は児島市、玉島市と合併、新倉敷市の市長選挙に立候補し、当選した。市長は1979年まで務め、この間、全国市長会副会長などを務めた。
三木 行治(みき ゆきはる、1903年 <明治36年> 5月… 三木 行治(みき ゆきはる、1903年 <明治36年> 5月1日 - 1964年 <昭和39年> 9月21日)は、日本の医師、政治家。岡山県知事。位階は正三位。勲二等瑞宝章。水島臨海工業地帯の誘致など岡山県の発展に貢献したことが認められ、日本人で初めてマグサイサイ賞を受賞した。 マグサイサイ賞の受賞金は郷土の発展に役立てたいとの考えから副賞1万米ドル全額が県に寄付され、この受賞金と県民からの寄附金を中心に岡山県三木記念事業基金が1965年に設置された。 また岡山県下にアイバンクを設置して自ら第1号の登録者となったことから、二人の女性に三木の角膜が移植された。 亡くなった時、私財は着ていた服と眼鏡だけだったといわれる。
橋本 五郎(はしもと ごろう、1903年5月1日 - 194… 橋本 五郎(はしもと ごろう、1903年5月1日 - 1948年5月29日)は日本の探偵小説家。代表作に「疑問の三」など。荒木 十三郎(あらき じゅうざぶろう)、女銭 外二(めぜに そとじ)などの名義でも小説を発表した。本名は荒木稔。 岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)出身。 1926年(大正15年)、『新青年』の懸賞小説に、橋本五郎名義で「レテーロ・エン・ラ・カーヴォ」が、荒木十三郎名義で「赤鱏のはらわた」が入選。これが森下雨村に評価され、博文館に入社する。『朝日』『新青年』『文芸倶楽部』などの編集を務めるかたわらで小説を発表していたが、1932年(昭和7年)、父親が死去したため博文館を退社して帰郷。
璽光尊(じこうそん、1903年(明治36年)4月22日 - … 璽光尊(じこうそん、1903年(明治36年)4月22日 - 1983年(昭和58年)8月16日)は、璽宇(じう)の教祖。本名は「長岡良子(ながおか ながこ)」。 璽光尊こと長岡良子は、1903年(明治36年)、岡山県御津郡江与味村(現久米郡美咲町江与味)に農家の娘として誕生した。当時の名前は大澤 ナカ(おおさわ なか、大澤 奈賀とも)。 璽宇の公式見解によると、璽光尊は旧岡山藩池田家第13代当主の侯爵池田詮政と安喜子夫人との間に生まれたご落胤であるという。ただし「落胤」とは高貴な男性が配偶者ではない女性と関係して産ませた私生児のことを意味する語なので、この場合は意味が通じない。安喜子夫人は皇族の出自で、池田家へ降嫁する前は安喜子女王といった。
横田 稔(よこた みのる、1903年(明治36年)4月1日 … 横田 稔(よこた みのる、1903年(明治36年)4月1日 - 1995年(平成7年)10月15日[要出典])は、日本の元海軍軍人で戦後、高校教師、宣教師になった人物。空母「サラトガ」、軽巡洋艦「ジュノー」を雷撃し、前者を3ヶ月間戦線離脱させ、後者を撃沈した「伊26」潜水艦長である。最終階級は海軍大佐。戦後は長谷川と改姓。高校教師として教鞭をとり、またキリスト教宣教師となった。 横田は岡山県出身で、海軍兵学校へ進み海兵51期として卒業した。席次は255名中60番。練習艦隊では「浅間」乗組みとなり、米村末喜艦長、安田義達指導官附らに実務訓練を受ける。「浅間」乗組み候補生には、戦後『海上護衛戦』を著す大井篤、最後の駐米武官補佐官実松譲などがいた。
森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月… 森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月31日 - 1978年(昭和53年)12月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県和気郡日生町長。旧姓・森下。 岡山県和気郡日生村(日生町を経て現備前市)で、森下元治の長男として生まれ、5歳で母方の森谷虎吉の養子となる。閑谷中学校(現岡山県立和気閑谷高等学校)を経て、1927年(昭和2年)早稲田大学電気科を卒業した。 朝鮮に渡り全羅南道宝城郡筏橋面で、筏橋電気常務取締役兼主任技師として電灯開発を担当した。1930年(昭和5年)ころに帰郷して製綿業、耐火煉瓦工場を営み、児島窯業社長、日生造船造機社長、日生土地取締役、中日生土地取締役、日生町商工会長などを務めた。
板野 勝次(いたの かつじ、旧姓:森本、1903年1月26日… 板野 勝次(いたの かつじ、旧姓:森本、1903年1月26日 - 1985年12月30日)は、日本の政治家、労働運動家。参議院議員(日本共産党公認、1期)、清涼飲料協同組合理事長。 岡山県岡山市紺屋町で古物商を営む森本岩助、寿子夫妻の次男として生まれる。3歳の時に広島に住む寿子の兄・板野安次郎の養子に出され板野姓を名乗る。岡山県立商業学校(現・岡山県立岡山東商業高等学校)在学中から社会主義に目覚め、商業学校卒業後の1920年12月、堺利彦や山川均、大杉栄らが率いる日本社会主義同盟に加入する。 同盟は程なくして解散に追い込まれるが、在籍中は山川からマルクスの『共産党宣言』についての講義を聞き、労働組合の必要性を悟った板野は、1922年12月に県下初の本格的な労働組合・岡山労働組合を発足させる。
鳴瀬 恒太郎(なるせ つねたろう、1903年〈明治36年〉1… 鳴瀬 恒太郎(なるせ つねたろう、1903年〈明治36年〉1月1日 - 1976年〈昭和51年〉)は、日本の哲学者であり言語学者でもある。関東学院大学等の大学講師も努めた。岡山県高梁市出身。 1903年(明治36年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)に生れる。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、京都大学医学部名誉教授になる三宅儀がいる。1920年(大正9年)3月に同校を卒業。同年旧制第六高等学校へ入学する。1924年(大正13年)3月に卒業し、京都帝国大学文学部哲学科へ入学。 その後、1927年(昭和2年)3月に京大を卒業し、そのまま京都帝国大学大学院文学研究科宗教学専攻科へ進学する。
穐田 弘志(あきた ひろし、1903年(明治36年)1月1日… 穐田 弘志(あきた ひろし、1903年(明治36年)1月1日 - 1969年(昭和44年)2月28日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。陸士36期(騎兵、優等)・陸大46期。 岡山県岡山市出身(福岡県とも)。広島陸軍幼年学校を経て1924年(大正13年)7月、陸軍士官学校(36期)を優等卒業し、騎兵第4連隊附となる。陸軍騎兵学校も優等卒業し、陸士教官を経て陸大に入学。卒業後は原隊復帰したが、日中戦争勃発後は北支那方面軍参謀。駐独武官輔佐官在任中の1940年12月から、山下奉文陸軍中将を団長とする独伊軍事使節団に随行し、ドイツでの新兵器開発状況について視察した。帰国後は参謀本部ドイツ班長。独ソ戦直前、駐日武官のアルフレート・クレッチマー大佐にソ連軍の情報を渡した疑いが当時武官輔佐官のフリッツ=ユリウス・フォン・ペータースドルフ中佐の証言にあり、のち極東国際軍事裁判では「一度だけソ連軍の動向について尋ねられたことがあったためロシア班に持ち込んだものの、確証が持てないため「よく分からない」と回答した」と答弁している。
蜂谷 道彦(はちや みちひこ、1903年 - 1980年4月… 蜂谷 道彦(はちや みちひこ、1903年 - 1980年4月13日)は、日本の医学者・内科医師である。1945年の広島市への原子爆弾投下で被爆しながらも、広島逓信病院(広島はくしま病院の前身)院長として被爆者の治療と原爆症の研究を行い、その苦闘の記録は『ヒロシマ日記』として各国で出版された。岡山県岡山市出身。 1903年、岡山県御野郡牧石村(現:岡山市)に生まれる。(旧制)岡山県立矢掛中学校、(旧制)第六高等学校を経て1929年に岡山医科大学(岡山大学医学部の前身)を卒業する。その後、同大学の稲田内科にて研究を行い、1938年に学位を取得した。そして1942年には広島逓信病院の院長に就任し、これにより後半生を大きく変えることとなった。
竹入 高(たけいり たかし、1902年12月9日 - 194… 竹入 高(たけいり たかし、1902年12月9日 - 1943年11月21日)は東洋宣教会日本ホーリネス教会の牧師であり、ホーリネス弾圧事件が原因で殉教した人物である。 1902年(明治35年)に岡山県赤磐郡熊山に生まれる。1924年(大正13年)に奈良駅の駅員として勤務していた時に、日本ホーリネス教会の監督中田重治の長女、中田ムツの路傍伝道により求道を始める。1926年(大正15年)に聖書学院に入学する。 1928年(昭和3年)に聖書学院を卒業し、富山、豊橋、尾張一ノ宮、京都の牧師を歴任する。 1942年6月のホーリネス弾圧事件で京都西陣署に拘引される。10月に京都拘置所に移送される。1943年9月に病気のために保釈になる。
香西 精(こうさい つとむ、1902年11月29日 - 19… 香西 精(こうさい つとむ、1902年11月29日 - 1979年1月12日)は、日本の英文学者・能楽研究者。 岡山県倉敷市出身。東京帝国大学文学部英文科卒業、甲南高等学校教授となるが病気のため辞職、1942年米穀会社に入り、兵庫米穀社長・会長。戦前から能楽研究を行い『謡曲界』などに多くの論文を発表。戦後、雑誌『宝生』に「とらうきやう考」を発表した後、表章との交流が始まり、世阿弥研究の基礎となる多くの功績を残した。1963年法政大学能楽研究所顧問。甲南高校時代の教え子に武智鉄二がいる。長男は元住友化学工業社長の香西昭夫。次男は日本経済研究センター理事長や政府税制調査会会長を務めたエコノミストの香西泰。
板野 道夫(いたの みちお、1902年(明治35年)11月2… 板野 道夫(いたの みちお、1902年(明治35年)11月21日 - 1969年(昭和44年)3月28日 )は、日本の実業家。関西配電取締役を経て関西電力常務取締役となり、オーム社理事も務めた。大阪陶業(現:日本ネットワークサポート)代表取締役・会長。岡山県総社市出身。 1902年(明治35年)岡山県吉備郡秦村(現:総社市秦)の板野柳一の長男として出生。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、京城帝国大学教授となる森谷克己がいた。1921年(大正10年)同校を卒業し、第六高等学校文科乙類へ進学する。森谷と同じクラスであった。1924年(大正13年)同校を卒業し、森谷は東大法学部へ、板野は京都帝国大学法学部へそれぞれ進学した。
伊勢崎 陽山(いせざき ようざん、1902年11月21日 -… 伊勢崎 陽山(いせざき ようざん、1902年11月21日 - 1961年)は、陶芸家。備前焼で岡山県重要無形文化財保持者。岡山県和気郡伊部(現:備前市伊部)出身。 沼田一雅に師事。陶彫、細工物に優れた。姑耶山中の古窯を調査し復元。 など陶像の大作を製作。 花器、宝瓶、香炉にも秀作が多い。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29… 三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29日 - 1993年(平成5年)5月18日 )は、岡山県高梁市出身の医学者。京都大学名誉教授。佳木斯医科大学講師、岐阜県立医科大学教授・学長心得(代理)を経て京大医学部教授となる。第21代京都大学医学部附属病院長、国立京都病院長を務めた。 1902年(明治35年)に岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)で生まれる。その後、1915年(大正4年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した。同校は、後に三宅の上司となる井上硬の出身校でもあり、三宅も井上と同じ学歴を歩むだけでなく、医者としても同じコースを歩むこととなる。 1920年(大正9年)に卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。
藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10… 藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10月21日 - 1994年(平成6年)9月26日)は、実業家である。日本油脂常務取締役の後、ニッサン洗剤工業社長。岡山県高梁市出身。 1902年(明治35年)岡山県上房郡津川村(現:高梁市)に生れる。その後、1922年(大正11年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、翌年、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。1926年(大正15年)同校を卒業し、東京帝国大学工学部へ進学する。その後、1929年(昭和4年)3月、同大学応用化学科を卒業する。 大学卒業後、帝国火薬工業へ就職し、入社後、愛知県知多郡武豊町にある豊武工場に配属されラッカーの研究及び製造に従事する。
石本 雅男(いしもと まさお、1902年 <明治35年> 8… 石本 雅男(いしもと まさお、1902年 <明治35年> 8月21日 - 2003年 <平成15年> 7月30日)は、日本の法学者。専門は、民法・不法行為責任論。岡山県出身。大阪大学名誉教授、神戸学院大学名誉教授。位階は従四位。 神戸学院大学法学部の設置にも関与した。1984年日本学士院賞受賞。 旧制岡山中学(現:岡山朝日高校)、旧制第六高等学校を経て、1926年京都帝国大学法学部卒。京都帝国大学在職中に滝川事件が起こり、抗議のため同大学を辞職した。100歳になっても、家族の介助による口述筆記により論文を書き上げた、というエピソードも残っている。2003年死去。死没日付をもって正七位から従四位に進階した。
小林 正次(こばやし まさつぐ、1902年8月16日 - 1… 小林 正次(こばやし まさつぐ、1902年8月16日 - 1975年10月31日)は、日本の技術者、工学博士。元日本電気(NEC)専務取締役。元慶應義塾大学工学部教授。 岡山県久米郡加美村字亀甲(現・久米郡美咲町)生まれ。父親が広島で郡長、のち広島赤十字社主事等になったため広島県比婆郡庄原町(現庄原市)や府中市他で育つ。 1917年、福山中学校(現・福山誠之館高校)から広島高師附属中学(現・広島大学附属高校)に転入、第八高等学校を経て東京帝国大学工学部電気工学科卒業(1926年)。同年日本電気(NEC)入社。大学の先輩・丹羽保次郎が優秀な大学卒を採用するという方針で入社した第一期で、英才の誉れ高い小林が引っぱられたものであった。
北村 隆(きたむら たかし、1902年(明治35年)4月19… 北村 隆(きたむら たかし、1902年(明治35年)4月19日 - 1982年(昭和57年)8月4日)は、日本の内務・防衛官僚。岡山県和気郡三石村字三石(現:備前市)に、父北村貫皐、母古美津の長男として誕生。本籍地は岡山県邑久郡太伯村乙子(現:瀬戸内市)。 戦前は内務省警保局の官僚として特高警察や、警保局経済保安課課長、兵庫県警察部長を務めた。戦後はいわゆる「逆コース」に乗って復帰し、保安庁保安研修所、内閣国防会議事務局長などを歴任、叙勲された。
里村 欣三(さとむら きんぞう、1902年3月13日 - 1… 里村 欣三(さとむら きんぞう、1902年3月13日 - 1945年2月23日)は、日本の小説家。 岡山県和気郡福河村(現在の備前市)生まれ。本名: 前川 二享(にきょう)。谷周平(昌武)ら新選組の谷三兄弟は母方の家系である。関西中学校中退。1922年、徴兵検査で甲種合格、岡山の歩兵第10連隊に入営したが脱走、水死を装って逃亡し、満洲を放浪する。 のち上京し『文藝戦線』に投稿、1924年に深川貧民窟のルポルタージュ『富川町から』を発表して注目される。1925年に中国での体験をもとにした小説「苦力頭の肖像」を発表し、プロレタリア文学の新進作家として認められる。この時代は、脱走兵であることを知られぬために、写真の公表を拒んでいた。
吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月… 吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月7日 - 1976年 <昭和51年> 3月1日)は、日本の経営者。電源開発総裁を務めた。位階は正四位。 岡山県倉敷市出身。倉敷天城中学、第六高等学校を経て、1926年に東京帝国大学工学部電気科を卒業。富士紡績、富士電力の勤務を経て、1942年に関東配電(のちの東京電力)に転じ、1951年に取締役に就任し、1953年9月に常務、1961年6月に副社長を経て、1964年8月から1966年8月までに電源開発総裁を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等旭日重光章を受章。1976年3月1日、死去。73歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
川上 六馬(かわかみ むつま、1902年(明治35年)2月1… 川上 六馬(かわかみ むつま、1902年(明治35年)2月13日- 1986年(昭和61年)7月28日)は、日本の医学者であり、満州国ハンセン病療養所・同康院の初代院長を務めた後、厚生省医務局長を務めた。国立がん研究センターの設立に深く関わり、顧問となっている。岡山県高梁市出身。位階は正五位。 1902年(明治35年)岡山県川上郡成羽町吹屋(現:高梁市)の川上佐源太の三男として出生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、京都大学医学部名誉教授になる三宅儀、言語学者の鳴瀬恒太郎がいた。1920年(大正10年)同校を卒業し、慶應義塾大学予科へ進学する。その後、慶應義塾大学医学部へ入学し、小林六造教授に従う。
平川 唯一(ひらかわ ただいち、1902年2月13日 - 1… 平川 唯一(ひらかわ ただいち、1902年2月13日 - 1993年8月25日)は、日本放送協会(NHK)アナウンサー・ラジオ英語会話講師を務めた人物。通称「カムカムおじさん」。 ラジオ番組『英語会話』講師を1946年から1951年まで務め人気を博す(番組は『カムカム英語』という別名で知られる)。岡山県上房郡津川村(現・高梁市)出身。次男の洌も英会話講師であるほか、ウクレレ奏者でもあり、その第一人者である。 1902年、岡山県上房郡津川村(現・高梁市)の農家の次男に生まれた。1916年に津川尋常高等小学校高等科2年を修了し農作業の手伝いをしていたが、1918年の16歳のときABCも知らないで、数年前からアメリカに出稼ぎに行っていた父を追って兄と渡米し、ポートランドで半年ほど線路工夫などに従事し、その後シアトルに移って古屋政次郎(英語版)が経営する商店の店員として半年間勤務する。
前田 岩一(まえだ がんいち、1902年〈明治35年〉1月2… 前田 岩一(まえだ がんいち、1902年〈明治35年〉1月21日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。菊水旅館代表取締役。米子市議会議員。米子市観光協会会長。皆生温泉旅館組合組合長。 岡山県真庭郡(現・真庭市)出身。尋常小学校、高等小学校を卒業する。1918年(大正7年)、鳥取県米子市にて諸業に従事する。1937年(昭和12年)、菊水旅館を設立する。1949年(昭和24年)、有限に改組する。 米子市観光協会会長、皆生温泉旅館組合組合長、鳥取県観光連盟副会長、鳥取県旅館組合連合会副理事長、鳥取県中小企業団体中央会理事、鳥取県中小企業振興対策審議会委員、鳥取県労務対策協議会理事、米子労働基準協会理事・協会会長などをつとめる。
泉 詩郎(いずみ しろう、1902年 - 1978年5月2日… 泉 詩郎(いずみ しろう、1902年 - 1978年5月2日)は、昭和初期から戦後にかけて活躍した活動弁士。岡山県岡山市出身。本名は姫路与四郎(ひめじ よしろう)。坊主頭に眼鏡をかけた姿であった。 8人兄弟の末っ子で、両親は荒物商を営んでいた。岡山商業高校(現在の岡山東商業高等学校)卒業後、来阪して活動弁士の泉浩一路に師事し、1924年に道頓堀朝日座で初舞台。無声映画時代の名弁士として活躍し、「東に夢声あり、西に詩郎あり」と称された。トーキー化以降は自身の名を冠した団員数30人近あまりの大所帯の泉詩郎歌謡楽団を結成。戦後はボーイズ物泉詩郎歌謡ショウと称して寄席や劇場に進出すると共に、映画・歌謡曲の解説をした。
近藤 鶴代(こんどう つるよ、1901年(明治34年)11月… 近藤 鶴代(こんどう つるよ、1901年(明治34年)11月16日 - 1970年(昭和45年)8月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、参議院議員(2期)。日本初の女性国会議員となった39人のうちの一人であり、2人目の女性閣僚となった。 岡山県新見市に生まれる。1924年日本女子大学校家政科を卒業後、山陽高等女学校(現山陽学園高等学校)、岡山県第一岡山高等女学校(現岡山県立岡山操山高等学校)等で教諭を務める。家事や作法を教えていた。 戦後の1946年、日本進歩党衆議院議員の長兄小谷節夫が公職追放となり、兄の代わりとして、無所属で衆議院議員選挙に岡山全県区(当時)から立候補し当選、日本初の女性代議士の一人となった。
塩尻 公明(しおじり こうめい、1901年11月6日 - 1… 塩尻 公明(しおじり こうめい、1901年11月6日 - 1969年6月12日)は、日本の哲学者、神戸大学名誉教授。J・S・ミルが専門だが、宗教的な人生論を多く書いた。 岡山県吉備郡岡田村(現:倉敷市)出身。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、第一高等学校在学時に出講していた河合栄治郎と出会う。東京帝国大学法学部卒業直後、西田天香の一灯園に入り求道生活を送り、のち高知高等学校教授、戦後神戸大学教育学部教授、65年定年退官、帝塚山学院大学教授。