井上 忠(いのうえ ただし、1926年3月25日 - 201… 井上 忠(いのうえ ただし、1926年3月25日 - 2014年9月20日)は、日本の哲学者。博士(学術)(論文博士・1996年)。東京大学名誉教授。古代ギリシア哲学が専門だが、言語哲学や自然科学との関係の上に哲学研究を行った。2006年瑞宝中綬章受勲。 広島県呉市生まれ。広島県立呉第一中学校を経て、1943年、第一高等学校に入学。田中小実昌は呉第一中学の同級。1945年春、戦中の特例で2年で一高を卒業し、東京大学法学部政治学科に入学。1948年、法学部を卒業後、文学部哲学科に入学。出隆の指導のもと今道友信や加藤信朗の後輩として古代哲学を専攻、同大学院特別研究生満期退学。1957年、東京大学教養学部専任講師となる。
土居 君雄(どい きみお、1926年3月23日 - 1990… 土居 君雄(どい きみお、1926年3月23日 - 1990年10月2日)は、日本の実業家。ドイ(カメラのドイ)創業者。広島県広島市出身。 1943年、関西甲種商業学校(現関西大学第一高校)卒業。戦後大阪で伯父の写真材料会社に勤務。左前となったため1956年、妻の郷里・福岡県福岡市で土居商店として独立した。当初は問屋から製品を仕入れ小売店に納入する二次卸だった。メーカー直結の問屋が流通経路を牛耳る時代、新参者が食い込む隙はなく苦戦。悩んだ末、末端の写真館やDPE店、土産物屋へのダイレクトメールを思いつく。これも当時は簡単に資料が集められず、市町村役場の商工係にアンケート用紙を送り顧客名簿を作成した。
わちさんぺい(本名:中岡 二春(なかおか にはる)、1926… わちさんぺい(本名:中岡 二春(なかおか にはる)、1926年3月 - 1999年12月10日)は、広島県三次市出身の漫画家。 山梨航空技術学校(現:日本航空高等学校)卒業。1941年4月、陸軍飛行実験部(後の陸軍航空審査部)に入部し偵察隊に配属される。配属ひと月足らずで九五式三型練習機の整備を任される。その時は、専門の航空学校で学んだ知識と技術が認められた気がして嬉しくてたまらなかったという。 しかし、その九五式三型練習機の発動機の試運転の際、車輪止めを付け忘れて発動機を始動させたため、機体が前に進み、自動車に激突しプロペラと発動機を大破させてしまう重大事故を起こす。本人は「これで陸軍永久追放か」と覚悟したが、飛行実験部の隊長加藤敏夫大佐は「よしよし。
長谷川 孝士(はせがわ たかし、1926年(大正15年)2月… 長谷川 孝士(はせがわ たかし、1926年(大正15年)2月6日 - 2011年(平成23年)11月3日)は、国語教育学者、国文学者、愛媛大学名誉教授。 広島県生まれ。広島文理大学文学部卒業、広島大学附属高等学校教諭、1966年愛媛大学教育学部教授、1991年定年退官、名誉教授、兵庫教育大学教授、松山東雲女子大学教授、1996年 - 2002年松山市立子規記念博物館館長。 2011年11月3日、肺癌のため死去。
京谷 好泰(きょうたに よしひろ、1926年1月24日 - … 京谷 好泰(きょうたに よしひろ、1926年1月24日 - )は、鉄道技術者、元日本国有鉄道浮上式鉄道技術開発推進本部長。リニアモーターカーの開発者で、リニア技術の今日的な基礎を築いた技術者、「リニアの父」。 広島県福山市生まれ。子供の頃から家族の時計をばらしてはまた組み立てたり、理科の実験に熱中した。戦時中は高校生ながら学業を休み、三井造船の艦艇電気工場で潜水艦に関する仕事に従事した。第六高等学校を経て1948年、京都大学工学部(旧制)卒業。最初は船の仕事を希望したが、母親に「船に乗ったらどこかへ行ってしまう」と泣きつかれ運輸省に入省。1年後国鉄が出来たので国鉄に移籍。戦争でやられた機関車を日本の復興のためにと徹夜で修理した。
岩田 勝(いわた まさる、1926年 - 1994年)は、日… 岩田 勝(いわた まさる、1926年 - 1994年)は、日本の民俗学者。特に神楽の分野で功績を残している。 広島県福山市出身。旧制下関中学校卒。郵政公務員。 「広島民俗」「山陰民俗」「岡山民俗」に神楽に関する論文を投稿。 1983年「神楽源流考」を上梓。 早稲田大学非常勤講師。勲四等瑞宝章。 岩田は神楽を託宣型と悪霊強制型に分類した。悪霊強制型は祟る神を守護神として転化して祀る型と依代に憑依せしめ攘却する型とに分類される。この悪霊鎮送説はそれまで神楽の根源と考えられてきた「籠ることで善神を身体に付着させて生命の更新を図る」という神座鎮魂論に対立する説となった。
中条 一雄(ちゅうじょう かずお、1926年〈大正15年/昭… 中条 一雄(ちゅうじょう かずお、1926年〈大正15年/昭和元年〉 - 2023年〈令和5年〉12月28日)は、大阪生まれ、広島県広島市出身のスポーツライター、元サッカー選手、サッカー記者(自らは「サッカー愛好家」と称した。詳細は後述)。元朝日新聞論説委員。 旧制広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)・旧制広島高等学校(現・広島大学)を経て東京大学を卒業。1945年広島高等学校2年の夏、爆心地から1. 8キロの修理工場内で広島への原爆投下に遭遇。勤労動員で北部に向かう途中、偶然トラックがブレーキ故障を起こし、その修理のためトラックの下に潜り込んでいたところに原爆が投下された。この結果、奇跡的に一命をとりとめたが、父は行方不明、母は死亡した。
佐伯 千秋(さえき ちあき、1925年12月6日 - 200… 佐伯 千秋(さえき ちあき、1925年12月6日 - 2009年1月3日)は、日本の少女小説家。児童文学作家。少女小説やジュニア小説で知られる。 広島市出身。本名、薦田千賀子(こもだ・ちかこ)。佐伯は旧姓である。 広島県立広島第一高等女学校から日本女子大学校に進学したが、広島市への原子爆弾投下で両親を失ったのち退学。 作家となってからは西東京市 (旧保谷市)に住んだという。原爆ドーム永久保存を決定した当時の広島市長・浜井信三は義兄に当たる。1955年当時から日本児童文芸家協会会員。 1954年ごろから小学館の雑誌『女学生の友』や『小学〇年生』などの学習雑誌に読み切りの短編小説や小学生向けの読み物を執筆し、1959年「燃えよ黄の花」(『女学生の友』1958年9月号掲載)で第8回小学館児童文化賞を受賞。
庄野 直美(しょうの なおみ、男性、1925年11月19日 … 庄野 直美(しょうの なおみ、男性、1925年11月19日 - 2012年2月18日)は、日本の物理学者、反核運動家。 広島県山県郡安芸太田町出身。九州帝国大学理学部在学中、原爆投下から3日後の広島市に入り被爆した。1961年広島大学理学博士。理論物理学研究所、広島大学助教授、広島女学院大学教授を務め、1991年名誉教授となる。専攻は理論物理学。反核運動に挺身し、ヒロシマ・ナガサキ平和基金理事長。
歌田 勝弘(うただ かつひろ、1925年8月26日 - )は… 歌田 勝弘(うただ かつひろ、1925年8月26日 - )は、日本の実業家。元味の素社長。 広島県生まれ。府立四中四年修了後、旧制東京高校を経て1947年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。在学中の1944年から1年間、陸軍の特別甲種幹部候補生として入隊するが、最終の訓練中終戦となり復学。大学卒業後、味の素入社。大阪支店長他を経て1971年、同社取締役。1973年常務取締役、専務、副社長を経て1981年、渡辺文蔵の後任として味の素第7代代表取締役社長に就任。1989年名誉会長、1991年相談役(現特別顧問)となった。 実父の歌田千勝は内務官僚で、近衛内閣の祝典事務局長として紀元2600年祝賀式典に尽力した。
田中 隆荘(たなか りゅうそう、1925年8月20日 - 2… 田中 隆荘(たなか りゅうそう、1925年8月20日 - 2008年7月14日)は、日本の生物学者。 広島県広島市出身。広島高等師範学校・広島文理科大学卒業後、広島大学理学部教授。理学部生物学科の植物形態学講座の研究を引っ張った。植物の染色体研究のほか、広島大学附属植物遺伝子保管研究施設では、植物の組織培養(クローン)の研究を行った。その後、1989年から1993年まで広島大学学長、広島市立大学初代学長となった。2000年、勲二等旭日重光章受章。 2008年7月14日午前1時43分、呼吸不全のため広島県東広島市の病院で死去。82歳没。
小坂 隆(こさか たかし、1925年8月18日 - 1989… 小坂 隆(こさか たかし、1925年8月18日 - 1989年11月26日)は、日本の政治家。広島県竹原市長(1期)。 広島県竹原市出身。広島県立忠海中学校卒業。竹原町議会議員、同市議、同議長となる。その一方、竹原市で中国通運を創業し、社長となる。また、中通冷蔵、中通倉庫を創業し、各社長となる。1986年竹原市長に当選。市長在任中の1989年に死去した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
藤沢 令夫(ふじさわ のりお、1925年6月14日 - 20… 藤沢 令夫(ふじさわ のりお、1925年6月14日 - 2004年2月28日)は、日本の哲学者・西洋古典学者。専攻はギリシア哲学。京都大学名誉教授。京都国立博物館館長を歴任。1993年紫綬褒章。1998年叙勲二等授瑞宝章。2004年没時叙正四位。 1925年、母の実家のある長野県松本市で生まれた。国鉄官僚の父の転任にともなって各地を転々とした。旧制広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に入学し、上級生だった頃に西洋絵画集を購入。ラファエロの大作『アテナイの学堂』のプラトンとアリストテレスの部分を切り取り、部屋に飾った。北村透谷の「ホメロス在りし時、プラトン在りし時、彼の北斗は今と同じき光芒を放てり」という美文とあいまって、第三高等学校 (旧制)の受験勉強の気休めにしていたのが、哲学への憧憬の始まりだったと回想している。
平田 嘉三(ひらた かぞう、1925年5月28日 - 200… 平田 嘉三(ひらた かぞう、1925年5月28日 - 2008年12月23日)は、日本の西洋史学者・教育学者。広島大学名誉教授。歴史教育学を提唱した。 広島県尾道市生まれ。1949年広島文理科大学西洋史学科卒。1953年京都大学大学院博士課程満期退学、広島大学助手、広島女学院大学講師、文部省初等中等教育局教科書調査官。1971年広島大学教育学部助教授、教授。広島大学附属小学校校長。1986-89年全国社会科教育学会会長。89年広島大を定年退官、名誉教授、広島工業大学教授、広島女学院理事、広島女子商短期大学長、同理事長。93年広島県教育委員会委員長。 2004年4月瑞宝中綬章受章。
田中 小実昌(たなか こみまさ、1925年〈大正14年〉4月… 田中 小実昌(たなか こみまさ、1925年〈大正14年〉4月29日 - 2000年〈平成12年〉2月26日)は、日本の小説家、翻訳家、随筆家。直木賞・谷崎潤一郎賞受賞。 東京市千駄ヶ谷生まれ。父・田中種助はバプテストの神学校を出た東京市民教会の牧師。40歳の種助と46歳の母・マサ子の長男として生まれる。父の転勤で4歳から広島県呉市東三津田町で育つ。7歳のとき、父が呉三津田の山に「アサ会」という十字架のない独自のキリスト教教会を創立。 実家近くの広島県立呉第一中学(現・呉三津田高校)を受験するが失敗し、旧制西南学院中学に入学。母親の意向で一年後に呉第一中学の編入試験を受け2年から転校した。同級に井上忠。
月丘 千秋(つきおか ちあき、1925年3月20日 - 20… 月丘 千秋(つきおか ちあき、1925年3月20日 - 2015年5月10日)は、日本の女優。本名:旭爪 菊江(ひのつめ きくえ)。実姉は女優の月丘夢路、実妹は月丘昌美(松竹映画「花ある星座」で共演)、義兄は映画監督の井上梅次。 広島県広島市で薬局の娘として生まれる。1942年(昭和17年)に広島県立広島第一高等女学校(現・広島県立広島皆実高等学校)卒業後、姉の月丘夢路と同じ宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)に入学する。1944年 宝塚音楽歌劇学校卒業。4月の初舞台直前に、宝塚大劇場は閉鎖、海軍予科練に接収され、舞台に立てないうちに退団。姉の夢路が、轟夕起子に誘われて、轟の夫のマキノ正博が所長をしていた松竹京都へ移籍すると同時に、月丘千秋として映画界に入る。
増本 剛(ますもと かたし、1925年1月2日 - 2012… 増本 剛(ますもと かたし、1925年1月2日 - 2012年11月17日)は、金属工学者(多元化合物半導体を主とした機能性材料全般)。広島県安芸郡矢賀村(現広島市東区矢賀町)出身。財団法人 電気磁気材料研究所の第6代理事長および会長の職を勤め上げた。
山野 正登(やまの まさと、1925年(大正14年)1月1日… 山野 正登(やまの まさと、1925年(大正14年)1月1日 - 2012年(平成24年)8月15日)は、日本の元官僚。科学技術事務次官。宇宙開発事業団理事長。通商産業省にて日本初の民間輸送機YS-11の開発事業等、航空機の開発行政に従事、科学技術庁にて宇宙開発委員会の発足・宇宙開発事業団の創設等、主に宇宙開発事業草創期の礎を築くとともに、宇宙開発事業団では自主技術である純国産大型ロケットH-IIの打ち上げ成功・国際宇宙ステーション計画の推進等、日本の宇宙開発を欧米先発国と肩を並べるまで導いた功労者のひとり。 広島県江田島市出身。呉第一中学校、旧制第六高等学校を経て、1944年(昭和19年)東京帝国大学第二工学部航空機体学科に入学、終戦により航空機体学科が解体されたため、1947年(昭和22年)物理工学科を卒業した。
小山 智士(こやま ともじ、1925年 - )は、日本の農業… 小山 智士(こやま ともじ、1925年 - )は、日本の農業官僚、農業経済学者。 広島県尾道市生まれ。1947年東京農業大学卒。1948年農林省入省、1972年農政調査委員会国内調査部長、85年理事。1987年「現代農業・農村の高齢化問題に関する政策的研究」で東京農業大学農学博士。
松原 義治(まつばら よしはる、1925年 - 2010年3… 松原 義治(まつばら よしはる、1925年 - 2010年3月23日)は、日本の化学者。近畿大学名誉教授。広島市生まれ。 1948年大阪理工科大学卒業、日本テルペン株式会社取締役研究部長を経て、1969年近畿大学理工学部応用化学科教授就任。理工学部長、近畿大学評議員、大学院部長、中央図書館長などを歴任。1996年近畿大学名誉教授。理学博士。専門は有機合成化学。2010年、肺気腫のため84歳で死去。 実兄は紀伊國屋書店名誉会長の松原治。
銭村 健次(ぜにむら けんじ、1925年頃 - 没年不明)は… 銭村 健次(ぜにむら けんじ、1925年頃 - 没年不明)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)ホノルル生まれ、広島県出身の元サッカー選手(FW)。慶應義塾大学卒。
小原馨(こはら かおる、1925年 - 1954年9月9日)… 小原馨(こはら かおる、1925年 - 1954年9月9日)は、日本のヤクザ。小原組初代組長。広島県呉市出身。 少年時代から地元では有名な不良であり、戦争末期の広海軍工廠内で賭場を開帳し、不良工員達のリーダーとなった。1946年8月14日夜、戦後初となる広町盆踊りの会場で土岡組の大西政寛に日本刀で左腕を切り落とされる。同年、小原組を結成。1947年5月22日、兄貴分の桑原秀夫と口論の末、日本刀で斬りつけられる。桑原は小原の配下により刺殺された。小原は仲裁の為に同行していた大西政寛とともに逮捕された。1951年、山村組若頭佐々木哲彦と兄弟盃を交わす。この頃より、小原・山村組連合と土岡組の抗争は激化したが、1952年6月に土岡組組長土岡博が射殺された事で一応は終結した。
山口 信夫(やまぐち のぶお、1924年12月23日 - 2… 山口 信夫(やまぐち のぶお、1924年12月23日 - 2010年9月14日)は、日本の実業家。第17代日本商工会議所会頭、元旭化成代表取締役会長・代表取締役名誉会長。2007年旭日大綬章。 広島県甲奴郡総領町(現・庄原市)出身。1942年広島高等師範学校附属中学(現広島大学附属高校)卒業、1943年陸軍予科士官学校卒業を経て、1945年6月陸軍士官学校(58期)を首席で卒業し、少尉として平壌へ出征。ソ連タタール共和国での抑留生活を経験した。 復員後の1952年東京商科大学 (旧制)(現・一橋大学)卒業、同年旭化成入社。同社の「中興の祖」宮崎輝元社長の右腕となり、1974年住宅事業部長に就任し赤字部門からグループ内で最も利益を上げる部門に転換させた。
大橋 吉之輔(おおはし きちのすけ、1924年11月27日 … 大橋 吉之輔(おおはし きちのすけ、1924年11月27日 - 1993年11月2日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。 1937年に広島高師附属中学校に入学、いわゆる「四修」で四年で卒業し、1941年に旧制広島高校に進学。1943年に東京帝国大学に入学した。1945年、召集を受けて朝鮮に派兵されるが間もなく終戦となり、戦後八か月ほど同地に滞在した後、1946年に帰国。1948年3月に東京帝大文学部英文科を卒業する。学生時代は慶應義塾とは一切関わりがなかった。東大では、中野好夫に師事した。卒業論文でシャーウッド・アンダスン論を書こうとしたが、そのための資料が東大の図書館にはほとんどなく、早稲田大学の龍口直太郎教授が作品を所蔵していることを聞きつけ、直談判し資料の貸し出しに成功した。
八木 直彦(やぎ なおひこ、1924年9月25日 - 202… 八木 直彦(やぎ なおひこ、1924年9月25日 - 2020年10月16日)は、日本の経営者。日本製鋼所社長を務めた。広島県広島市出身。 1947年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に日本製鋼所に入社。1977年に取締役に就任し、1979年に常務、1981年に専務を経て、1985年に社長に就任。1995年に相談役に就任。 1998年に勲二等旭日重光章を受章した。 2020年10月16日脳出血のために死去。96歳没。
渡部 英麿(わたなべ ひでまろ、1924年9月24日 - 2… 渡部 英麿(わたなべ ひでまろ、1924年9月24日 - 2011年10月12日)は、広島県広島市西本浦町(現南区)出身の宮司。元サッカー選手、指導者。 実家は広島市の黄金山に面した邇保姫神社。國學院大學出身という異色の経歴は神社の神主だからである。 広島似島中学教諭時代に日本代表に選出され、1954年のワールドカップスイス大会予選と第2回アジア競技大会(マニラ)の国際Aマッチ2試合に先発出場した。体格も良く、ゴールキーパーとして安定したプレーを見せ、名ゴールキーパーと謳われた。視力が悪かったためメガネを掛けてプレーした。当時チームでのニックネームはやはり「神主」だったという。 指導者としても活動しており、山陽高校監督として1967年、同校を全国高校選手権優勝に導いた。
田辺 朋之(田邊 朋之、たなべ ともゆき、1924年(大正1… 田辺 朋之(田邊 朋之、たなべ ともゆき、1924年(大正13年)9月12日 - 2002年(平成14年)12月26日)は、日本の政治家、医師。京都市長。広島県出身。 広島県比婆郡西城町(現在の庄原市西城町)の生まれ。1937年(昭和12年)12歳で大阪に出て旧制四条畷中学(現・大阪府立四條畷高等学校)を経て京都府立医科大学進学。1948年(昭和23年)卒業後、同大学整形外科助手を務めた後、1957年(昭和32年)京都市四条通沿いに田辺医院を開業。1966年(昭和41年)京都府医師会理事から副会長を経て1984年(昭和59年)京都府医師会長就任。 1989年(平成元年)古都税紛争を引き起こした今川正彦前市長の任期切れに伴う京都市長選挙で、2位の共産党推薦の木村万平と321票差の僅差で当選。
柏村 勲(かしわむら いさお、1924年8月21日 - 20… 柏村 勲(かしわむら いさお、1924年8月21日 - 2017年3月5日)は、日本の画家、随筆家。 広島県呉市に生まれる。広島県呉第一中学校、東京美術学校(東京藝術大学の前身校の一つ)油絵科卒業。卒業後、同級生であり画家の伊能由利子と結婚。 黒澤映画美術助手となる。東宝「生きる」「静華命」「安五郎出世」などを担当。 1952年、長男誕生後に川崎市立住吉中学校美術教師となる。 1960年、親友のアメリカ人夫妻と3人でヨット旅行に出発。アムステルダムから運河をたどってヨーロッパを縦断、地中海、バミューダ諸島などを経て大西洋を横断、アメリカ合衆国ニューポートまでの10ヶ月に及ぶヨットの旅だった。この旅が転機となり「ヨットと海」を描きはじめる。
増岡 康治(ますおか こうじ、1924年〈大正13年〉8月1… 増岡 康治(ますおか こうじ、1924年〈大正13年〉8月18日 - 1996年〈平成8年〉12月2日)は、日本の内務及び建設官僚、政治家。参議院議員(3期、自由民主党)。 広島県広島市出身。旧制広島一中、旧制広島高校を経て1946年東京帝国大学工学部土木工学科卒。同年内務省に入る。1948年、建設省発足に伴い同省に移る。1972年北陸地方建設局長、1974年河川局長に就任する。1976年に退官。翌年の第11回参議院議員通常選挙に全国区から自民党公認で立候補して当選した。1981年鈴木善幸改造内閣で大蔵政務次官に就任。1989年の第15回参議院議員通常選挙で落選した。1991年に首都圏建設資源高度センター社長に就任した。
桑原 住雄(くわばら すみお、1924年7月15日 - 20… 桑原 住雄(くわばら すみお、1924年7月15日 - 2007年12月15日)は、日本の美術評論家。 広島県広島市生まれ。幼少時、両親とともに台湾に渡り旧制台北高校から東京帝国大学に進む。三重海軍航空隊を経て広島で原爆投下により被爆。戦後復学して美術史を専攻。同大学院修了ののち東京新聞社勤務を経て朝日新聞社企画部に入社。1977年筑波大学教授に転じ、その後武蔵野美術大学教授に就任。世田谷美術館開設準備委員など数多くの美術館運営にも参画した。 1993年、脳出血に倒れ療養生活に入り、2007年12月15日心不全で死去。 美術記者として戦後の美術界を精力的に取材してまわった一方、1960年代初頭には米国務省の招聘で渡米し、アメリカ美術の紹介でも先駆的役割を果たした。
原田 睦民(はらだ むつたみ、1924年6月25日 - 20… 原田 睦民(はらだ むつたみ、1924年6月25日 - 2006年5月18日)は、日本の政治家。全国農業協同組合中央会会長。
杉山 康彦(すぎやま やすひこ、1924年5月7日 ‐ 20… 杉山 康彦(すぎやま やすひこ、1924年5月7日 ‐ 2005年9月30日)は、日本の日本文学者。 専門は日本文学、文学・言語表現論。 和光大学名誉教授。元和光大学学長。 広島県広島市生まれ(父母の原籍は岐阜県)。愛知県第一中学校に1年通学後、東京陸軍幼年学校(42期)に進学。陸軍予科士官学校を経て、1944年4月に陸軍士官学校(57期)を卒業、少尉に任官し近衛歩兵第三聯隊へ配属される。その後、スマトラ島(インドネシア)に中隊長として赴任。中尉に任官後、陸軍士官学校区隊長(教官)を命ぜられ、日本への帰還途中にサイゴン(現ホーチミン市)にて終戦を迎える。サイゴンの日本軍司令部にて、敗戦処理に当たったのち、1946年8月に帰還。
村井 範子(むらいのりこ、旧姓長田、1924年4月22日 -… 村井 範子(むらいのりこ、旧姓長田、1924年4月22日 - 2020年12月17日 )は、日本の音楽学者。フェリス女学院大学名誉教授。 元広島文理科大学学長で教育学者、長田新の長女。夫は教育学者、慶應義塾大学名誉教授の村井実。次男は情報工学者、慶應義塾大学名誉教授の村井純。 広島県広島市生まれ。広島高等師範学校附属小学校、広島県立第一高等女学校(現:広島県立広島皆実高等学校)を経て、津田塾専門学校英文科(現:津田塾大学)1945年9月卒業、1950年 東京藝術大学音楽学部楽理科入学、1954年同大学楽理科第2回卒その後専攻科修了。1956年東京藝術大学音楽学部副手就任、1956年東京藝術大学音楽学部講師(音楽史担当)、1958年~1960年米ハーヴァード大学音楽学部大学院にて音楽史研究(ロックフェラー財団奨学金による)、東海大学短期大学部教授、フェリス女学院大学音楽学部教授(音楽学部4年制創設)(音楽学特殊講義、教会音楽研究、器楽特殊講義、日本音楽文化) 1993年 同大学名誉教授。
竹鶴 威(たけつる たけし、1924年〈大正13年〉3月6日… 竹鶴 威(たけつる たけし、1924年〈大正13年〉3月6日 - 2014年〈平成26年〉12月17日)は、広島県福山市出身の日本の実業家で、ウイスキー製造者、技術者、会社経営者。ニッカウヰスキー(アサヒビールグループ)の元社長であり、同社の2代目マスターブレンダー。 叔父、後に養父は竹鶴政孝。息子はブランディングコンサルタントの竹鶴孝太郎。従妹は竹鶴リマ。
石本 美由起(いしもと みゆき、男性、1924年〈大正13年… 石本 美由起(いしもと みゆき、男性、1924年〈大正13年〉2月3日 - 2009年〈平成21年〉5月27日)は、日本の作詞家。本名は美幸。 荒廃した戦後の日本に希望に満ちた歌詞で永遠に歌い継がれる名曲を生んだ、昭和の歌謡界を代表する作詞家の一人である。広島県大竹市立戸出身。 幼少から喘息を患い、家に閉じこもるような生活を送る。生家は宮島や江田島など瀬戸内海を見渡せる風光明媚な場所に建ち、幾分救われる。そばにある文学は全て読んだが、なかでも北原白秋やゲーテを読みふけった。1944年、海軍大竹海兵団に入隊するが、すぐ体調を崩して岩国海軍病院に入院。慰問に来た東海林太郎の歌声に戦争に傷ついた兵士たちが瞳を輝かせるのを見て歌の魅力を知った。
瀬戸錦 年光(せとにしき としみつ、1924年2月2日 - … 瀬戸錦 年光(せとにしき としみつ、1924年2月2日 - 没年不明)は、広島県尾道市出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は高橋 年覚(たかはし としかく)。190cm、104kg。最高位は西十両9枚目。得意技は突っ張り、右四つ、寄り。 1941年1月場所に初土俵。三段目の頃に戦争で召集されたが、サイズの合う軍靴がなかったので、即日で帰郷を命じられた。1947年11月場所に十両昇進するも2勝9敗と大きく負け越して1場所で幕下に陥落。十両に在位したのはこの1場所のみであった。1951年1月場所限りで26歳の若さで廃業。幕下で相撲を取っていた1950年1月場所から、廃業する1951年1月場所まで弓取りを務めたことがある。
井内 慶次郎(いない けいじろう、1924年(大正13年)1… 井内 慶次郎(いない けいじろう、1924年(大正13年)1月6日 - 2007年(平成19年)12月25日)は、日本の官僚。元文部事務次官。正四位勲二等旭日重光章。広島県出身。
山上光治(やまがみ みつじ 1924年〈大正13年〉 - 1… 山上光治(やまがみ みつじ 1924年〈大正13年〉 - 1948年〈昭和23年〉3月23日)は、日本のヤクザ。岡組組員。広島県北広島町出身。広島抗争の主要人物として知られ、「殺人鬼」と呼ばれた。 1924年(大正13年)、広島県山県郡八重町(現:北広島町)で生まれた。父は広島市大須賀町に出て、下駄店を営んでいた。1939年(昭和14年)3月に広島第一高等小学校を卒業し、満州国に渡って奉天造兵廠の検査工となった。 1944年(昭和19年)、呉市の海軍工廠に徴用工としてとられた。同年、広島市胡町の路上で、不良同士の喧嘩の仲裁をしたときに一方の不良と喧嘩になり、相手をナイフで刺した。その咎で呉鎮守府で軍法会議にかけられ、懲役2年の刑が確定した。
河合 邦人(かわい くにと、1923年(大正12年)12月5… 河合 邦人(かわい くにと、1923年(大正12年)12月5日 - 1983年(昭和58年)10月13日)は、日本の実業家、教育者、政治家。河合塾創始者である河合逸治の二男。 広島県世羅郡世羅町出身。1943年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。高校教師を経て、戦後間も無く父・逸治を助け河合塾の経営に参画。また広島県東広島市の喜久牡丹酒造専務を兼任、のち社長も歴任した。さらに1963年4月に広島県議会議員に初当選(通算4期務めた後、5期目の任期中に病死)。翌1964年、父の後を継ぎ河合塾理事長に就任。当時、名古屋市内に2つだけだった塾を予備校の他、外国語専門学校など積極経営で拡張、のちに河合塾経営に参画した兄・河合斌人と共に1977年、駒場校開校を皮切りに同塾の全国展開を図り三大予備校の1つに育てあげた。
池田 善蔵(いけだ ぜんぞう、1923年11月15日- )は… 池田 善蔵(いけだ ぜんぞう、1923年11月15日- )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。
田中 敬(たなか たかし、1923年〈大正12年〉9月7日 … 田中 敬(たなか たかし、1923年〈大正12年〉9月7日 - 2016年〈平成28年〉12月30日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官。 広島県広島市出身。父の田中康道は弁護士。元三菱マテリアル会長、元日経連会長の永野健は従兄弟。旧制広島高師附属中学校、旧制一高を経て、1948年(昭和23年)東京大学法学部政治学科卒業後、大蔵省に入省し大臣官房渉外部配属。ちなみに一高同期に大倉真隆(大蔵省47年前期入省)、長岡實(大蔵省47年後期入省。共にのちの大蔵事務次官)、三重野康(日銀生え抜きの同行総裁)らがいて、大倉 - 長岡と続いて大蔵次官に就任した。 廿日市税務署長、関東信越国税局、国税庁所得税課長補佐、水資源開発公団資金課長、大蔵省理財局国債課長、資金課長、大臣官房文書課長、東京税関長を経て、1973年6月26日 主計局次長。
今田 智憲(いまだ ちあき、1923年7月20日 - 200… 今田 智憲(いまだ ちあき、1923年7月20日 - 2006年6月23日)は、日本の映画プロデューサー。東映アニメーションの社長と会長、東映ビデオの社長を務めた。広島県東広島市西条町出身。 東映社長だった岡田茂の盟友。自宅も近所の幼馴染で、今田の家も酒樽の製造元であった。岡田と小学校から進学・就職とともに歩み、旧制広島一中(現・広島国泰寺高校)、東京商科大学(現・一橋大学)予科を経て1946年東京産業大学(1944年に東京商科大学から改称、現一橋大学)卒業、1947年東京急行電鉄に入り同郷の先輩・黒川渉三が社長を務めていた東横映画(東映の前身の一つ)に誘われて移籍。東映では営業畑を歩き、東映動画(現・東映アニメーション)に移動すると、同社製作のテレビアニメや劇場アニメ作品(東映まんがまつり)の多くに製作・企画などで携わった。
野崎 泰一(のざき ひろかず、1923年7月2日 - 200… 野崎 泰一(のざき ひろかず、1923年7月2日 - 2009年7月30日)は、広島県呉市出身のプロ野球選手(投手)・監督・コーチ。
石風呂 良一(いしぶろ りょういち、1923年6月27日 -… 石風呂 良一(いしぶろ りょういち、1923年6月27日 - 1985年5月12日)は、広島県出身のプロ野球選手。 広島県立忠海中学校卒業後、広島県内の運送会社のノンプロチーム(会社名不明)に所属。1949年11月に24歳で大阪タイガースへ入団。入団から間もない11月16日の対阪急戦(明石)でプロ初登板・初先発。初回から四球連発で痛打を浴び、1アウトもとれずに降板、4失点で敗戦投手となった。「カーブも投げらない者を先発させるとは」と内外から批判され、この先発起用が若林忠志監督退団の切っ掛けといわれる。この後、一軍で登板することはなく、1951年に引退した。このため、石風呂の通算防御率は、算出不可能(無限大)となっている。
木村 功(きむら いさお、1923年〈大正12年〉6月22日… 木村 功(きむら いさお、1923年〈大正12年〉6月22日 - 1981年〈昭和56年〉7月4日)は、日本の俳優。広島県広島市出身。 広島市千田町(現・中区千田町)生まれ。広島二中(現・広島県立広島観音高等学校)卒業後に上京し1941年、文化学院文学部に入学する。在学中より演劇運動に没頭し、様々な学生演劇に出演した。1943年、文化学院演劇部『華々しき一族』で邦枝梢と共演して見初める。入隊前に梢との結婚を申し込むが、この時は父で作家の邦枝完二の許しは得られなかった。また、東宝撮影所でアルバイトをしていた友人を訪ねたとき、山本嘉次郎監督にスカウトされ、『ハワイ・マレー沖海戦』に出演した。1943年、文化学院閉鎖に伴い1年繰上げで卒業後、召集され、1944年から1年間海軍生活を送る。
梅田 正巳(うめだ まさみ、1923年5月24日 - 没年不… 梅田 正巳(うめだ まさみ、1923年5月24日 - 没年不明)は、広島県出身のプロ野球選手。
福岡 義登(ふくおか よしと、1923年(大正12年)5月1… 福岡 義登(ふくおか よしと、1923年(大正12年)5月18日 - 2001年(平成13年)3月25日)は、日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(4期)、三次市長(4期)などを歴任した。
砂原 美智子(すなはら みちこ、1923年〈大正12年〉2月… 砂原 美智子(すなはら みちこ、1923年〈大正12年〉2月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月27日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。 広島県呉市出身。呉市立吾妻小学校(現・呉市立明立小学校)在学中の1930年(昭和5年)、音楽を学ぶために一家で東京移住。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業。1942年(昭和17年)東京音楽学校入学。1944年(昭和19年)東京音楽学校本科声楽科卒業(戦時中のため、卒業時期短縮で9月卒業)。平原寿恵子に師事。1947年(昭和22年)藤原歌劇団公演のプッチーニ『ラ・ボエーム』ムゼッタでデビュー。翌年にかけてビゼー『カルメン』のミカエラ、ロッシーニ『セビリアの理髪師』のロジーナ、プッチーニ『蝶々夫人』などを演じて一躍同劇団のプリマドンナになる。
増岡 博之(ますおか ひろゆき、1923年2月3日 - 20… 増岡 博之(ますおか ひろゆき、1923年2月3日 - 2011年7月24日)は、日本の政治家。位階は従三位。 自由民主党衆議院議員(8期)、厚生大臣(第64代)を歴任。元鉄鋼ビルディング代表取締役会長。 広島県呉市出身。増岡組創業者・増岡登作の次男。1948年(昭和23年)早稲田大学政治経済学部卒業。 1948年(昭和23年)増岡組に入り、取締役東京営業所長、1952年(昭和27年)専務。1959年(昭和34年)呉商工会議所会頭に選ばれる。 池田勇人元首相の地盤を継いで1967年(昭和42年)衆議院議員に初当選。以来通算8期。運輸政務次官、自民党交通部会長、衆議院運輸委員長、大蔵委員長の他、議院運営委員会理事、国会対策副委員長などを歴任し、1984年(昭和59年)第2次中曽根内閣の厚生大臣に就任。
西本 順次郎 (にしもと じゅんじろう、1923年1月1日… 西本 順次郎 (にしもと じゅんじろう、1923年1月1日 - 2006年6月7日) は、日本の精神科医。モンテッソーリ教育による幼児・障害者教育にも携わった。 広島県庄原市出身。1944年、台北帝国大学医学部を卒業する。台北帝国大学医学部精神科、九州大学医学部精神科に勤務した。1951年、国立久里浜病院医長となる。 1952年、九州大学にて医学博士号を取得し、慶応義塾大学医学部精神科に勤務した(他に群馬大学医学部および広島大学教育学部講師を務める)。 1957年、呉市に「安浦病院」を開設、同時に現在の広島市西区に「教育医学研究所」を設立した。「モンテッソーリ子どもの家」を中心に、精神科リハビリの生理学的治療を実施した。