木村 和司(きむら かずし、1958年7月19日 - )は、… 木村 和司(きむら かずし、1958年7月19日 - )は、広島県広島市出身の元プロサッカー選手、サッカー解説者、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー、フォワード。元日本代表。日本サッカー元祖10番。 日本サッカー協会公認S級ライセンス所持。国際Aマッチ6試合連続ゴールは日本代表連続得点記録(2020年時点)。 広島市立大河小学校(広島大河FC)–広島市立翠町中学校を経て、県立広島工業高校(通称:県工)に進学。攻撃的サッカーで名を馳せた県工の右ウイング、中心選手として1975年度の高校選手権でベスト4の成績を残した。 1977年、明治大学二部政治経済学部へ入学し、サッカー部に所属。
石﨑 信弘(いしざき のぶひろ、1958年3月14日 - )… 石﨑 信弘(いしざき のぶひろ、1958年3月14日 - )は、広島県広島市中区出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現松本山雅FC監督。 実家は旧広島市民球場の近くで、身近なスポーツは野球だったが、広島市立広瀬小学校4年生のときに友達の誘いでサッカーを始める。ポジションは中学生の時から常にディフェンダーだった。県立広島工業高校時代は河内勝幸、金田喜稔、楚輪博、木村和司、猿沢茂、室野哲雄らと共に全国高校選手権ベスト4を経験した。指導者として手本は高校時代の松田輝幸監督という。 その後東京農業大学を経て1980年に日本サッカーリーグ (JSL) 2部の東芝に加入。チームではいわゆる「ストッパー」の役割を任され、ハードなディフェンスで JSL2部時代には5年連続ベストイレブンに選ばれるなど活躍する。
金田 喜稔(かねだ のぶとし、1958年2月16日 - )は… 金田 喜稔(かねだ のぶとし、1958年2月16日 - )は、日本の元サッカー選手。元サッカー日本代表で、「19歳119日」という日本代表最年少得点記録を保持している(2017年時点)。広島県安芸郡府中町出身。現在はTBSなどでサッカー解説者として活躍している。尊敬するサッカー選手はジョージ・ベスト。フチューマ所属。日本サッカー名蹴会会長。いわきFC シニアアドバイザー。一般財団法人日本スポーツ振興会 理事。 サッカーを始めたのは中学に入ってから。小学生のときはソフトボールを主にやっていた。坊主頭になるのが嫌で野球を諦め、中学からサッカー部に入った。週1回の『三菱ダイヤモンド・サッカー』を観て、世界のトップ選手たちのプレイに憧れビデオの無い時代、テレビ放送に目を凝らし、翌朝近くのグラウンドで想像してボールを蹴った。
高橋 真一郎(たかはし しんいちろう、1957年10月27日… 高橋 真一郎(たかはし しんいちろう、1957年10月27日 - )は、広島県福山市(旧深安郡神辺町)出身の元サッカー選手、指導者(JFA 公認S級コーチ)。 神辺町立神辺中学校時代からサッカーを始める。松永高3年次には第30回国民体育大会の広島県選抜に選ばれ、石崎信弘や金田喜稔、木村和司らとプレーしている。 大阪経済大学を卒業後、1980年に東洋工業(現マツダ)に入社。マツダSC(現サンフレッチェ広島)時代にはドリブルの得意なFW・MFとして、信藤克義、松田浩、ディド・ハーフナー、風間八宏らとともに中心選手として活躍した。特にキック力が強く、ハンス・オフト監督の指導を受けフリーキックのスペシャリストとなった。
宗政 潤一郎(むねまさ じゅんいちろう、1957年7月30日… 宗政 潤一郎(むねまさ じゅんいちろう、1957年7月30日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA Proライセンス、旧称:JFA 公認S級コーチ)。広島県広島市中区出身。武蔵大学卒業。現在、日本サッカー協会参与、評議員、中国サッカー協会 (日本) 会長、広島県サッカー協会会長。サッカー解説者。テレビ&ラジオコメンテーター&MC。 テレビ番組「MIKASAサッカーナビ ミカサッカー及びムネ ザ・トーク~ちゅピCOMひろしま~」とラジオ番組「ムネ ザ・トークR~FMちゅーピー~」にレギュラー出演。 2024年10月6日、広島県サッカー協会100周年記念式典で、100周年を記念して設けられた「広島県サッカー殿堂」11名の中の1人として表彰され、広島サッカースタジアム(エディオンピースウイング広島)内にある広島サッカーミュージアムにレリーフが設置された。
木村 孝洋(きむら たかひろ、1957年4月4日 - )は、… 木村 孝洋(きむら たかひろ、1957年4月4日 - )は、広島県安芸郡府中町 出身の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 現役時代はセントラル・ミッドフィールダーとしてプレーした。 男子(Jリーグ)・女子(なでしこリーグ)双方のトップリーグでクラブを降格させた日本初の監督という不名誉な記録を持っている。一方で、日本代表や年代別日本代表の選手を育てるなど、育成年代の指導実績を持っている。 マツダ本社がある安芸郡府中町出身であり、同町出身の同世代に金田喜稔や猿沢茂がいる。 広島県立広島皆実高等学校、早稲田大学出身。1977年度大学入学、1980年度卒業。卒業同期は原博実。当時の早大学ア式蹴球部同世代の選手として、下條佳明、西野朗、加藤久、岡田武史、城福浩、吉田靖、神戸清雄、関塚隆らがいる。
楚輪 博(そわ ひろし、1956年5月1日 - )は、日本の… 楚輪 博(そわ ひろし、1956年5月1日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。広島県広島市生まれ、広島県・大阪府育ち。 県立広島工業時代は金田喜稔、木村和司、石崎信弘、猿沢茂らとスペクタクルなサッカーを展開し高校選手権などで活躍した。法政大学時代はユース代表の主将も務めた。 卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部に入部。得意のプレイスキックで中心選手として活躍。現役晩年の釜本邦茂のパートナーでもあった。1981年アシスト王、ベストイレブン5回、日本サッカーリーグ(JSL)191試合出場は歴代17位。日本代表経験もある。1990年に現役を引退した。 1994年にセレッソ大阪のサテライト監督に就任。
河内 勝幸(かわち かつゆき、1955年4月27日 - )は… 河内 勝幸(かわち かつゆき、1955年4月27日 - )は、広島県出身の元サッカー日本代表選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 県立広島工業(通称・県工)時代は一年からレギュラーとなり1971年、徳島高校総体準優勝(0-3藤枝東)。第14回アジアユース選手権(AFCユース選手権)日本代表にも選ばれた。高校選手権には三年連続出場。二年連続で大会優秀選手に選ばれ、三年時には再びユース日本代表に選ばれた。楚輪博は1学年、金田喜稔と石崎信弘は2学年下となる。木村和司は3学年下。 その後、大阪商業大学へ入学し、上田亮三郎から指導を受け、西村昭宏、加藤好男、中村重和らとプレー。 大学卒業後、東洋工業(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)へ。
小滝 勇一(こたき ゆういち、1955年2月28日)は広島県… 小滝 勇一(こたき ゆういち、1955年2月28日)は広島県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 実兄は東洋工業でディフェンダーとして活躍した小滝強と小滝春男。三兄弟が同時期に日本のトップリーグでプレーした初のケース。 現役時代はフジタ工業でプレー。強シュートが持ち味のフォワードで、1977年、1979年、1981年の日本サッカーリーグ1部優勝、1977年、1979年の天皇杯優勝時のメンバーとしてフジタ工業の全盛期を支えた。 引退後はフジタ社員、1991年には中国サッカーリーグの広島フジタSCの監督に就任。1995年にはチームを中国リーグで優勝に導いた。 ・JSL東西対抗戦 1回出場(1981年)
古田 篤良(ふるた あつよし、1952年10月27日 - )… 古田 篤良(ふるた あつよし、1952年10月27日 - )は、広島県広島市舟入(現在の同市中区)出身 の元サッカー選手、サッカー指導者。 現役時代のポジションはFB(フルバック)。守りの要として活躍し、守備にとどまらず高いキック力で攻撃の起点にもなった。 小学5年生からサッカーをはじめ、広大付属高校時代は福原黎三から指導を受けた。1971年、日本で行われたAFCユース選手権1971では守備的なハーフバックとして、高田一美、奥寺康彦、永井良和らとプレーしている。 代表デビューは、早稲田大学1年時の1971年8月13日アイスランド代表戦。18歳292日での代表デビューで、これは1998年に市川大祐に破られるまで日本代表の国際Aマッチ最年少出場記録だった。
小滝 春男(こたき はるお、1952年4月11日)は広島県出… 小滝 春男(こたき はるお、1952年4月11日)は広島県出身の元サッカー選手。 実兄は東洋工業でディフェンダーとして活躍した小滝強、実弟はフジタでフォワードとして活躍した小滝勇一。三兄弟が同時期に日本のトップリーグでプレーした初のケース。 現役時代は人に強く攻め上がりが得意なサイドバックで、MFとしてもプレーした。70年代の東洋工業で活躍し、1978年天皇杯決勝進出に貢献した。 また、代表ではユース代表3回、ジュニア代表2回経験。1971年、日本で行われた第13回アジア・ユース選手権ではサイドバックとして、高田一美・奥寺康彦・永井良和らとプレーしている。1974年Cキャップ1試合、1979年JSL選抜。
河野 和久(こうの かずひさ、1950年12月30日 - )… 河野 和久(こうの かずひさ、1950年12月30日 - )は広島県出身の元サッカー選手。ディフェンダー(DF)。 山陽高等学校では崎谷誠一、平田和資らと共に1967年全国高等学校サッカー選手権優勝(洛北と両校優勝)、国体3位。3年時の翌1968年全国高等選手権は準優勝(0ー1初芝)。ユース日本代表にも選出され、1969年第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)に出場した。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者の同学年で、多くが日本サッカーリーグ(JSL)各チームの主力選手として活躍した。(詳細は崎谷誠一の項目を参照)。 高校卒業後、日立入りし、忠実なサイドバックとして長くレギュラーとしてプレーした。
小原 秀男(こはら ひでお、1950年12月29日 - 20… 小原 秀男(こはら ひでお、1950年12月29日 - 2015年10月2日)は、広島県広島市佐伯区出身のサッカー選手・指導者。 広島県立広島工業高等学校卒業。3年時の1968年、同級の荒井公三らと全国高等学校サッカー選手権3位。ユース日本代表にも選ばれ第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)出場。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者で、多くが日本サッカーリーグ(JSL)に進み、各チームの主力選手として活躍した。(詳細は崎谷誠一の項目を参照)。 高校を卒業後、1969年に東洋工業(現マツダ)へ入社、東洋工業サッカー部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)の選手として活躍した。
崎谷 誠一(さきや せいいち、1950年12月1日 - )は… 崎谷 誠一(さきや せいいち、1950年12月1日 - )は、広島県似島出身の元サッカー選手。 山陽高等学校でフォワード、あるいは攻撃的MFとして2年時の1967年、全国高等学校サッカー選手権で優勝(洛北と第二延長を含む120分0-0で両校優勝)、国体3位。2年生でユース日本代表に選出される。3年時の翌1968年には主将として全国高等選手権準優勝(0ー1初芝)。翌1969年第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)に出場した。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者の同学年で、崎谷は八幡製鉄、山陽の同級・河野和久は日立、県立広島工業の荒井公三は古河電工、小原秀男は東洋工業、修道の大谷栄一は三菱重工、広島市商の河本博は八幡製鉄と、日本サッカーリーグ(JSL)に進み、いずれもチームの主力選手として活躍した。
荒井 公三(あらい こうぞう、1950年10月24日 - 2… 荒井 公三(あらい こうぞう、1950年10月24日 - 2020年12月27日[要出典])は、日本の元サッカー選手、日本代表選手。広島県佐伯郡能美町(現江田島市)出身。 広島工業高校3年時の1968年、全国高等学校サッカー選手権3位。ユース日本代表にも選出され第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)出場。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者で、多くが日本サッカーリーグ(JSL)に進み、各チームの主力選手として活躍した。(詳細は崎谷誠一の項目を参照)。 所属した古河電工でも日本代表でも1970年代の主力選手の一人として活躍。所属チームでは若き古河を象徴するダイナミックなMFとして守備を引き締め永井良和、奥寺康彦らと1976年、古河電工念願の日本サッカーリーグ初制覇、天皇杯制覇の二冠、翌1977年のJSLカップ制覇などに貢献した。
平田 生雄(ひらた いくお、1950年6月17日 - 200… 平田 生雄(ひらた いくお、1950年6月17日 - 2009年4月3日)は、広島県広島市出身の元サッカー選手(MF/DF)、元サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 幼少期は長嶋茂雄に憧れた野球少年であったが、小学6年時の1962年に似島へ戻った事が転機となる。当時実家の2階には広島市立似島中学校サッカー部を創部した渡部定彦が下宿していたほか、似島は当時「サッカーの島」と言われたほどサッカーの盛んな所で、進学した似島中で渡部の指導の下サッカーを始めることになる。似島は第1次世界大戦で中国・青島にいたドイツ軍人の捕虜収容所のあったところで、このドイツ人からサッカーを習って大正期の広島のサッカーがレベルアップして、日本のサッカー先進地域になったというエピソードがある。
小滝 強(こたき つよし、1950年1月28日 - )は、広… 小滝 強(こたき つよし、1950年1月28日 - )は、広島県出身の元サッカー選手。 実弟は東洋工業でディフェンダーとして活躍した小滝春男、フジタでフォワードとして活躍した小滝勇一。三兄弟が同時期に日本のトップリーグでプレーした初のケース。 現役時代は人に強いCB(ストッパー)。70年代の東洋工業で活躍し、1978年天皇杯決勝進出に貢献した。 また、代表では22歳の時にジュニア代表としてヨーロッパ遠征に参加。1974年Cキャップ1試合、1979年JSL選抜。
野地 照樹(のじ てるき、1950年1月16日 - )は、広… 野地 照樹(のじ てるき、1950年1月16日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手(DF)、指導者。 現高知大学教育学部教授、サッカー部監督。 中1からサッカーを始める。広島大学附属高時代に福原黎三から指導を受けた。同世代に高田豊治がいる。 東京教育大学(現筑波大学) 体育学部体育学科に進み、蹴球部では主にセンターバックとして活躍、成田十次郎から指導を受け、高田や木之本興三らとプレーした。在学中に関東大学サッカーリーグ戦や第20回全国大学サッカー選手権大会で優勝した。1972年には成田が監督を兼務していた日本サッカーリーグ2部の読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)の選手として7試合に出場した。
高田 豊治(たかた とよはる、1948年2月12日 - )は… 高田 豊治(たかた とよはる、1948年2月12日 - )は広島県広島市出身の元サッカー選手(MF・DF)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。 実父は、高校物理の教師で、母校広島大学附属高校で教壇に立っていった高田平八郎。 サッカーを本格的に始めたのは中学1年から。広島大学附属高校卒業。高校時代は福原黎三から指導を受けた。東京教育大学(現:筑波大学)に入学後は蹴球部に入部し成田十次郎から指導を受け、関東大学サッカーリーグ戦1968年および1969年2連覇、1968年インカレ優勝、全日本学生選抜代表に選出される。 1971年に東洋工業(現マツダ)に入社。以降JSL1部所属の東洋工業サッカー部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)でミッドフィルダーあるいはディフェンダーとして活躍し、1978年に引退する。
国枝 強(くにえだ つよし、1944年9月18日 - )は、… 国枝 強(くにえだ つよし、1944年9月18日 - )は、広島県出身の元サッカー日本代表選手(DF)。 高校時代は山陽高等学校へ入学し、渡部英麿から厳しい指導を受けた。 1960年代後期~1970年代東洋工業(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に所属、60年代後期の東洋工業黄金期を支えたフルバック。1969年、1970年の2年連続天皇杯決勝進出に貢献している。 また日本代表としてもワールドカップメキシコ大会予選など、国際Aマッチ2試合に出場した。
水口 洋次(みずぐち ようじ、1944年7月20日 - 20… 水口 洋次(みずぐち ようじ、1944年7月20日 - 2022年4月10日)は、広島県広島市出身のサッカー選手、サッカー指導者。 選手時代は、後のセレッソ大阪であるヤンマーディーゼルサッカー部の主力選手として活躍した。ガンバ大阪の前身・松下電器産業サッカー部の創設者で、ガンバ大阪の発足に向けた立ち上げに携わり、同クラブの基礎作りに尽力した。 広島県広島市出身。広島国泰寺高校から、中央大学法学部政治学科を経て1967年、ヤンマーディーゼル株式会社入社。小柄ながらボール扱いのうまさは日本最高ともいわれ、同社サッカー部の主力選手として活躍した。同い年で同期就職で親友の釜本邦茂のデビュー初得点のアシストを決めている。
泉 政伸(いずみ まさのぶ、1944年4月8日 - )は、広… 泉 政伸(いずみ まさのぶ、1944年4月8日 - )は、広島県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 ボールコントロールに優れ、技術、戦術眼に優れたゲームメーカー。トヨタ自動車工業の中心選手として1972年の日本サッカーリーグ2部、初代アシスト王となり2部優勝、翌1973年の1部昇格に貢献した。明治大学時代の1965年に日本代表入りし、同年3月25日のシンガポール代表戦で代表デビューを飾り、国際Aマッチ1試合に出場した。しかし日本リーグに加盟していなかったトヨタに進んだため、その後は代表には定着できなかった。 引退後は指導者の道へ進み、1987年に古巣のトヨタ自動車の監督を務めた。 日本サッカーリーグ1部成績
森 孝慈(もり たかじ、1943年11月24日 - 2011… 森 孝慈(もり たかじ、1943年11月24日 - 2011年7月17日)は、広島県福山市出身のサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィルダー。サッカー日本代表として56試合に出場し、1968年のメキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得した。
桑原 楽之(くわはら やすゆき、1942年12月22日 - … 桑原 楽之(くわはら やすゆき、1942年12月22日 - 2017年3月1日)は、広島県広島市白島(現中区)出身 のサッカー選手。実兄は桑原弘之。1968年メキシコシティオリンピック銅メダリスト。 8人兄弟で男は弘之と楽之の二人だけ。1960年代の日本サッカーのメッカ・広島に生まれ、幼少期からサッカーに親しむ。広大付属小、広大付属中学の抽選をいずれも落ちて白島小、幟町中学に進む。白島小の隣りに広島市立基町高等学校があり、5年生の時に渡辺正と佐伯博司がプレーしていて、楽之はいのまにか同校でボール拾いを始める。入学した幟町中学にはサッカー部がなかったが、桑原を中心に創部。実兄の弘之がコーチを勤めた。
小城 得達(おぎ ありたつ、1942年12月10日 - )は… 小城 得達(おぎ ありたつ、1942年12月10日 - )は、広島県広島市千田町(現・中区)出身の元サッカー選手(FW、MF、DF)・コーチ・監督。 昭和40年代を代表する名選手の1人であり、釜本邦茂・杉山隆一・宮本輝紀と共に当時のスタープレイヤーの一人。現役時代はフォワードもミッドフィルダーもディフェンダーもこなしたオールラウンドプレーヤーで、日本代表として東京五輪およびメキシコ五輪でフル出場を果たし、メキシコでは銅メダル獲得に貢献。 前広島県サッカー協会会長。 実家は材木店を営んでいたが、2歳の夏に爆心地に近い千田町で被爆。倒れた柱と柱が隙間を作り、母と姉と共に助かる。広島大学附属小学校時代はサッカーを楽しむ程度であり、ちょうど広島カープが誕生したため野球が大好きになり、体もひ弱であったため野球に興じる。
船本 幸路(ふなもと こうじ、1942年8月12日 - )は… 船本 幸路(ふなもと こうじ、1942年8月12日 - )は、広島県広島市草津出身の元サッカー日本代表選手(GK)・指導者。 広大付属高校2年の時、ゴールキーパーとして桑田隆幸や野村尊敬、同級の小城得達、桑原楽之、溝手顕正らと全国高校サッカー選手権大会に出場して準優勝、国体も準優勝、3年時はベスト8。 高校を卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)へ入団。同チームの監督となった下村幸男の後を受け正ゴールキーパーとなる。石井義信、小沢通宏、今西和男、丹羽洋介、桑原弘之、大野毅、川野淳次、国枝強らとゴールを守り、日本サッカーリーグ(JSL)4連覇と3度の天皇杯制覇に貢献した。
上 久雄(かみ ひさお、1941年6月28日 - )は、広島… 上 久雄(かみ ひさお、1941年6月28日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手(DF、MF)・監督。 広島市立国泰寺中学校を経て、広島山陽高校では渡部英麿監督の指導を受けた。卒業後は寺西忠成監督に誘われ、1960年に八幡製鉄サッカー部へ入部。身体能力に優れ、ハードタックルと空中戦に強さを発揮。渡辺正・宮本輝紀らと共に主力選手として活躍し、ストッパーとして相手チームのエースのマークを任され、1966年と1967年には2年連続で「年間優秀11人賞」に選出される。日本代表では主にハーフバックとして活躍し、東京五輪では代表初のベスト8進出に貢献。メキシコシティ五輪は予選こそレギュラーとして出場したが、本戦では登録メンバーから外れた。
桑田 隆幸(くわた たかゆき、1941年6月26日 - )は… 桑田 隆幸(くわた たかゆき、1941年6月26日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー日本代表選手・指導者(JFA公認C級コーチ)。日本サッカーリーグ(JSL)初代アシスト王。 父親がハルビンの商社に勤務していたため満洲で生まれた。1945年終戦に伴い帰国、母の郷里・広島市で育つ。父もサッカー選手、母もバレーボールの選手で、父は後に広島サッカー友の会理事長を務め、当地の小学生のサッカー普及に尽力した。1947年、戦後復活第一回の全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)で、広島高等師範学校附属中学(現・広島大学附属高校)が超中学級の長沼健、木村現、樽谷恵三の三羽烏を擁して圧倒的な強さをみせ初優勝した。
大久保 賢(おおくぼ まさる、1941年5月5日 - )は、… 大久保 賢(おおくぼ まさる、1941年5月5日 - )は、広島県広島市矢賀(現・東区)出身の元サッカー選手(FW)・指導者。 広島市立矢賀小学校時代からサッカーを始め、広島市立二葉中学校ではFW・HB・GKと全てのポジションを経験。進学校の広島皆実高校時代は渡部英麿監督から指導を受け、HBで県下有数の選手となり、藤枝で行われた第1回高校選抜大会のオール中国の代表選手に選出され優勝。 高校卒業後の1960年に立教大学へ進学すると、関東大学リーグ1部では2度の2位を経験するなど活躍し、大学卒業後の1964年には名古屋相互銀行へ入部。大久保が2年目の1965年にチームは8チームで創設された日本サッカーリーグに参加し、大久保はエース兼CFや兼任コーチとして活躍。
今西 和男(いまにし かずお、1941年1月12日 - 20… 今西 和男(いまにし かずお、1941年1月12日 - 2026年4月16日)は、広島県広島市中区東平塚出身の教育者、元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはDF。 日本におけるゼネラルマネージャーの地位を確立させた人物。サッカー界では日本の元祖ゼネラルマネージャーとも称される。 マツダ/サンフレッチェ広島F.Cでのチーム作りに辣腕を振り、大分トリニータや愛媛FC・FC岐阜がJリーグ入りを目指していたころにアドバイザーとして参加もしている。 育成に実績があり、森保一・久保竜彦らの無名選手を発掘し、小林伸二や松田浩らの指導者を育成した。今西が整備したサンフレッチェ広島アカデミーは、2012年現在日本有数の育成組織の評価を受けている。
宮本 輝紀(みやもと てるき、1940年12月26日 - 2… 宮本 輝紀(みやもと てるき、1940年12月26日 - 2000年2月2日)は、広島県広島市宇品(現・南区宇品)出身(広島市段原山崎町生まれ)の元サッカー選手(MF)・コーチ・監督。日本代表の攻撃的ミッドフィールダーとしてメキシコ五輪銅メダル獲得に貢献し、日本最初のゲームメーカーとも呼ばれる。 1945年8月6日、4歳の夏に爆心地から約2kmの段原山崎町で被爆し、一緒に遊んでいた弟を亡くした。張本勲も近所で被爆している。終戦後は宇品に引越して広島市立千田小学校に入学し、千田小の同期に岡光龍三、一学年上に後に山陽高→八幡→新日鐵と同じ道を歩む大石信幸がいた。広島市立国泰寺中学校時代に大学生にサッカーを教えてもらったことがきっかけでサッカー部に転部し、国泰寺中の一学年上に野村六彦、同期に今西和男がいた。
丹羽 洋介(にわ ようすけ、1940年10月10日 - )は… 丹羽 洋介(にわ ようすけ、1940年10月10日 - )は、中国上海市生まれ、広島県広島市出身の元サッカー日本代表選手・指導者。 3人兄弟の末っ子。父親は上水道技師で、上海で、のち広島で水道事業に関わっている。そのため上海で生まれ、1944年4歳の時から広島で生活し、太平洋戦争末期に愛知県江南市に疎開していた。そのため広島市への原子爆弾投下からは逃れている。ただ父親は当時広島で働いており、被爆者となってしまった。 広島に戻り広島大学附属小学校へ進学するとサッカーを始める。小学校の1学年上が鬼武健二、1学年下が桑田隆幸と野村尊敬、2学年下が小城得達になる。その後広島大学附属中学校・高等学校と上がる。
野村 六彦(のむら むつひこ、1940年2月10日 - )は… 野村 六彦(のむら むつひこ、1940年2月10日 - )は、広島県広島市出身の元日本代表サッカー選手。元日立(現柏レイソル)所属。日本サッカーリーグ(JSL)初代得点王。ポジションはFW又はMF。 実家は老舗の文具店。広島市立袋町小学校を経て、広島市立国泰寺中学校へ進む。小学校6年までは野球をやっていたが、周りから、せっかくサッカーの名門国泰寺に入ったんだから男らしいサッカーをやろうと誘われ、サッカー部に入部。一年生は30数人いたが、基礎練習の反復が面白くなく3日で8人に減った。野村もその1人だったが、負けたようで悔しく再入部する。宮本輝紀、今西和男らも同中学出身。卒業後は、当時"広島三強"といわれた国泰寺高、広大附属、修道に負けないサッカー部をと強化していた広島舟入高校の校長に誘われ同校に進学。
岡光 龍三(岡光竜三、おかみつ りゅうぞう、1940年 - … 岡光 龍三(岡光竜三、おかみつ りゅうぞう、1940年 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手(FW)・指導者。 広島市立千田小学校時代の同級に宮本輝紀、一学年上に大石信幸がいる。 高校は宮本や大石とともに広島山陽高等学校に進学し、渡部英麿から指導を受ける。1957年、1958年国体準優勝に貢献。特に1958年大会決勝は杉山隆一がいた静岡県立清水東高等学校との対戦で、当時話題となった。 大学は中央大学に進学した。サッカー部に在籍し、同郷の野村六彦・小城得達・桑原楽之らと活躍した。第42回天皇杯全日本サッカー選手権大会で決勝進出、決勝の相手は長沼健・平木隆三・川淵三郎・宮本征勝・鎌田光夫・保坂司と日本代表を揃え三連覇を狙った古河電工で、岡光は決勝点を決め中大優勝に貢献した。
鬼武 健二(おにたけ けんじ、1939年9月19日 - )は… 鬼武 健二(おにたけ けんじ、1939年9月19日 - )は、広島市西区天満町出身の元サッカー選手、サッカー指導者。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)専務理事、同第3代目理事長(Jリーグチェアマン)。 ヤンマーディーゼルサッカー部の攻撃サッカーを築いた名将で、日本サッカーリーグ(JSL)で通算93勝を挙げたJSL最多勝監督。 また、セレッソ大阪の創設、Jリーグ入りを総責任者として尽力した。 広島大学附属高等学校、早稲田大学政治経済学部卒業。 現役時代は162センチの俊足フォワードとして活躍、主にウィンガーとしてプレーした。高校時代の同級生は高重清純、一つ下は丹羽洋介、2つ下は桑田隆幸、野村尊敬がいた(ちなみに鬼武をサッカー部へ誘ったのが高重と野村である。
大石 信幸(おおいし のぶゆき、1939年9月12日 - )… 大石 信幸(おおいし のぶゆき、1939年9月12日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手。ポジションはFW。 広島市立千田小学校の一学年下の宮本輝紀、岡光龍三らと山陽高等学校に進学し1957年、主将として国体準優勝。八幡製鉄サッカー部でも1963年、1964年度全日本実業団サッカー選手権大会2連覇、1964年度の天皇杯優勝に貢献。1965年創設された日本サッカーリーグ(JSL)一年目は桑田隆幸(東洋工業)と並んで11得点を挙げ、得点王・野村六彦(日立)に次ぐ得点2位と、初年度の得点王争いは全員広島出身者だった。
大島 治男(おおしま はるお、1939年5月7日 - )は、… 大島 治男(おおしま はるお、1939年5月7日 - )は、広島県出身のサッカー選手。元サッカー日本代表。 現役時代は、小柄ながら抜群のボールコントロールを持ち合わせた選手。 中学からサッカーを初め、広島サッカー御三家であった広島大学附属高校に入学。鬼武健二、高重清純、丹羽洋介、野村尊敬、桑田隆幸らとプレーしている。 高校卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社、東洋工業蹴球部(現サンフレッチェ広島)に所属する。1962年の全日本実業団サッカー選手権大会優勝に貢献、1965年にJSLが始まると、初年度には岡光龍三、松本育夫、桑田隆幸、桑原楽之、中村勤らとともにFWの一員として東洋工業無敗優勝に貢献、1960年代後半の黄金期のメンバーとして活躍した。
石井 義信(いしい よしのぶ、1939年3月13日 - 20… 石井 義信(いしい よしのぶ、1939年3月13日 - 2018年4月26日)は広島県福山市出身の 元日本代表サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。 元フジタ工業(旧、藤和不動産/現、湘南ベルマーレ)監督、元日本代表監督。2001年よりFC東京アドバイザー。 福山市立西小学校–福山市立城北中学校–福山葦陽高等学校卒。石井らの時代に広島でサッカーが盛んだったのは広島市内だけで、福山の高校にサッカー部があったのは葦陽高校と広島大学福山分校の二校だけだった。当時の葦陽高校のグラウンドは福山城下にあり、野球、ラグビー、サッカー、陸上と共用で狭く、生徒総会で野球、ラグビー、サッカーのどのボールが一番危ないかの投票があり、断然野球が多く、野球部が潰れたという。
川西 武彦(かわにし たけひこ、1938年10月9日 - 2… 川西 武彦(かわにし たけひこ、1938年10月9日 - 2026年3月22日)は広島県出身の元サッカー選手(FW/MF)。 東洋工業に所属し、日本代表としてもワールドカップチリ大会予選など、国際Aマッチ8試合に出場した。 選手引退後も東洋工業・マツダに勤務した。
森 健兒(もり けんじ、1937年8月13日 - )は、広島… 森 健兒(もり けんじ、1937年8月13日 - )は、広島県福山市生まれ、広島市育ちの元サッカー選手。木之本興三と共にJリーグを創設した最大の功労者である[3][4][5][6][7][8][9]。
佐伯 博司(さえき ひろし、1936年5月26日 - 201… 佐伯 博司(さえき ひろし、1936年5月26日 - 2010年)は広島県出身の元サッカー選手。フォワード(FW) 広島基町高等学校、八幡製鉄などに所属。1964年、1965年アジアユース代表。日本代表として1962年ワールドカップチリ大会予選の初戦、対韓国戦で杉山隆一とツートップを組んだ他、国際Aマッチ4試合に出場した。
渡辺 正(わたなべ まさし、1936年1月11日 - 199… 渡辺 正(わたなべ まさし、1936年1月11日 - 1995年12月7日)は、広島県広島市大手町(現・中区)出身の元サッカー選手(FW)・コーチ・監督。サッカー日本代表選手として出場したメキシコオリンピックでは、この大会から初めて怪我などの理由を伴わない選手交代が認められた為、スーパーサブ役を担い、銅メダル獲得に貢献。 実家は爆心地にあった日蓮宗本経寺で、原爆で寺に残った父を失うが、自身は集団疎開で難を逃れた。終戦後は原爆で焼け野原になった町で、壊れた墓石運びの手伝いをさせられ、これが足腰の鍛錬になった。広島市立千田小学校・広島市立国泰寺中学校を経て、崇徳高校へ進学したが、同校にサッカー部が無かったため、1年の2学期に編入試験を受けて基町高校へ転入学。
大橋 謙三(おおはし けんぞう、1935年4月21日 - 2… 大橋 謙三(おおはし けんぞう、1935年4月21日 - 2015年12月21日)は、広島県出身のサッカー日本代表選手・指導者(FIFAコーチライセンス習得、日本体育協会公認上級コーチ)。 現役時代はハーフバック(MF)として活躍。体が強く、ボール扱いが巧みでキープ力があり、確実に前線に繋いだ。 広島大学附属高校が第37回全国高等学校蹴球選手権大会において大阪府立岸和田高等学校と両校優勝したときのキャプテン。高校時代は、樽谷恵三から指導を受けた 。その後、早稲田大学へ進学、早稲田大学ア式蹴球部に所属する。 大学を卒業後は関西の湯浅電池に所属し、徳弘隆らとプレーした。この時に日本代表に選ばれ1958年アジア競技大会で国際Aマッチ1試合に出場した。
田中 雍和(たなか やすかず、1933年6月15日 - )は… 田中 雍和(たなか やすかず、1933年6月15日 - )は、日本出身の元サッカー選手。ポジションはFW。 広島一中(のち学制改革により鯉城高校、現国泰寺高校)の2年先輩に福原黎三、3年先輩に重松良典がいる。 中大クラブ(中央大学サッカー部の現役、OBで構成されたチーム)の一員として長沼健、内野正雄、丸山義行らと共に1956年の全日本サッカー選手権大会 (後の天皇杯全日本サッカー選手権大会)準優勝に貢献した。 日本代表としては1955年1月の東南アジア遠征で代表に初招集され、同月11日のビルマ体協選抜戦で国際Aマッチデビューを飾った。その年、国際Aマッチ4試合に出場した。
下村 幸男(しもむら さちお、1932年1月25日 - )は… 下村 幸男(しもむら さちお、1932年1月25日 - )は、広島県広島市中区十日市町(旧・鷹匠町)出身 の元サッカー日本代表選手(GK)・指導者。
木村 現(きむら あらわ、1931年7月8日 - 2007年… 木村 現(きむら あらわ、1931年7月8日 - 2007年2月21日)は、広島県広島市出身のサッカー選手、サッカー指導者。名前の読みを「げん」とする資料もある。 長沼健、樽谷恵三は広島大学附属小学校からの幼馴染み。1945年被爆。広島高等師範学校附属中学(現広島大学附属高校)では、長沼・樽谷との超強力スリートップの高速右ウイングとして全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)の戦後初優勝に貢献。3人のスピードは、当時の中学生レベルでは止められなかったと言われ、4試合で計21得点をたたき出した。決勝戦7-1のスコアは、戦後最多得点、及び大会最多得点差記録として現在も残っている。翌年国体も制覇。
福原 黎三(ふくはら れいぞう、1931年4月2日 - 19… 福原 黎三(ふくはら れいぞう、1931年4月2日 - 1970年2月27日)は、広島県東広島市八本松町出身のサッカー選手、サッカー指導者。 1945年8月6日、原爆投下後の広島市に入り入市被爆。 1946年広島一中(のちの鯉城高等学校、現広島国泰寺高等学校)3年生のときにサッカーを始める。重松良典は一中サッカー部の1年先輩にあたる。また学校の同期には原田康夫(広島大学学長)、坂田正二(呉大学学長)、沢田昭二(名古屋大学名誉教授)、葉佐井博巳(広大名誉教授)などがいる。 全国中等学校蹴球大会(現全国高等学校サッカー選手権大会)が学制改革により全国高等学校蹴球選手権大会となった1948年に優勝した鯉城高校のフォワード(センターフォワードあるいはインサイドレフト)。
樽谷 恵三(たるや けいぞう、1930年 - 2015年7月… 樽谷 恵三(たるや けいぞう、1930年 - 2015年7月6日)は、広島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(FW)。 長沼健、木村現は、広島高等師範附属小学校(現広島大学附属小学校)からのチームメイト。広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)、樽谷はセンターフォワードとして、右インナーFW長沼、右ウイングFW木村との超強力布陣で全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)の戦後初優勝に貢献。3人のスピードは、当時の中学生レベルでは止められなかったと言われ、4試合で計21得点をたたき出した。決勝戦7-1のスコアは、戦後最多得点、及び大会最多得点差記録として現在も残っている。
寺西 忠成(てらにし ただしげ、1926年4月25日 - 1… 寺西 忠成(てらにし ただしげ、1926年4月25日 - 1999年1月14日)は、広島県広島市出身の元サッカー選手・サッカー指導者。元八幡製鉄サッカー部監督、東福岡高等学校コーチ。 広島一中(現広島県立国泰寺高校)から広島高等師範学校(現広島大学)を経て1949年、当時サッカー不毛の地といわれていた九州の八幡製鉄サッカー部に入団。まだ発足二年目の八幡製鉄サッカー部は同好会レベルで、企業内スポーツ部がまだレクリエーションとしか見られていなかった時代、引き抜きや本社転勤話を断り、無名だったチームの主力フォワード(FW)として活躍した。入社二年目の1951年監督就任。同年日本代表候補となるが、社用が忙しくなり合宿に参加できず、この年インド・ニューデリーで第1回が行われたアジア競技大会には出場出来なかった。
中条 一雄(ちゅうじょう かずお、1926年〈大正15年/昭… 中条 一雄(ちゅうじょう かずお、1926年〈大正15年/昭和元年〉 - 2023年〈令和5年〉12月28日)は、大阪生まれ、広島県広島市出身のスポーツライター、元サッカー選手、サッカー記者(自らは「サッカー愛好家」と称した。詳細は後述)。元朝日新聞論説委員。 旧制広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)・旧制広島高等学校(現・広島大学)を経て東京大学を卒業。1945年広島高等学校2年の夏、爆心地から1. 8キロの修理工場内で広島への原爆投下に遭遇。勤労動員で北部に向かう途中、偶然トラックがブレーキ故障を起こし、その修理のためトラックの下に潜り込んでいたところに原爆が投下された。この結果、奇跡的に一命をとりとめたが、父は行方不明、母は死亡した。