島田 誠(しまだ まこと、1954年9月3日 - )は、福岡… 島田 誠(しまだ まこと、1954年9月3日 - )は、福岡県中間市出身の元プロ野球選手(外野手)・野球指導者・野球解説者。 子供の頃にボタ山のトロッコの下敷きになる事故に遭っており、本人はこれが自分が左利きになるきっかけになったと話している 中間市立中間北中学校時代に野球を始める。中学時代に他校との試合で4打席連続本塁打を放ったことで周囲からの評判が高まり、PL学園を含む9校からスカウトされたがこれらを断り、一般入試を経て高校へ進学する。直方学園高では左のエースとして投げ、投手として南海ホークスが注目したが、左肘を骨折してしまい、高卒即プロ入りは叶わなかった[要ページ番号]。 大学進学時、早稲田大学から誘われていたが、高校の先生から「4年では卒業できない」ことを言われて断念、学費免除の大学進学志望を相談したところ「その話が来ている」と聞いて、その話を持ち掛けて来た九州産業大学に進学するが、経済的に苦しく、授業料免除の特待生資格で大学へ進学していた。
工藤 博義(くどう ひろよし、1954年7月23日 - )は… 工藤 博義(くどう ひろよし、1954年7月23日 - )は、福岡県遠賀郡水巻町出身の元プロ野球選手(外野手)。 折尾高から社会人野球の新日本製鐵八幡に進む。1974年の都市対抗野球では左腕エース萩野友康を擁し、1回戦で鐘淵化学を相手に延長13回サヨナラ打を放つなど活躍。決勝に進出するが大昭和製紙北海道に延長10回惜敗。準優勝にとどまるが若獅子賞を獲得した。1977年の都市対抗野球では盛岡鉄道管理局との1回戦に2点本塁打を放ち、強肩俊足の長距離打者として注目される。 1977年のプロ野球ドラフト会議で阪急ブレーブスから5位指名され入団。 プロ1年目の1978年にはジュニアオールスターに出場し、1979年には、ウエスタンリーグで10本塁打を記録する。
若菜 嘉晴(わかな よしはる、1953年12月5日 - )は… 若菜 嘉晴(わかな よしはる、1953年12月5日 - )は、元プロ野球選手(捕手)・コーチ。現在は野球解説者。福岡県八女郡羽犬塚町(現・筑後市)出身。
鶴崎 茂樹(つるさき しげき、1953年7月25日 -)は、… 鶴崎 茂樹(つるさき しげき、1953年7月25日 -)は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。 福岡・筑紫工(現・筑紫台高)ではエース、四番打者として活躍。1970年秋季九州大会準々決勝に進むが戸畑商に惜敗。翌1971年夏の甲子園に出場。1回戦では広陵と対戦、延長10回を投げ抜き勝利投手となる。続く2回戦では銚子商の根本隆と投げ合い、これも延長戦となるが、10回裏にサヨナラ負けを喫する。同年の高校日本選抜ハワイ遠征に水谷啓昭、梨田昌孝らとともに参加する。 同年のドラフト会議で南海ホークスから5位指名を受け内野手として入団。なかなか一軍に定着できなかったが、1975年には遊撃手の定位置を定岡智秋と争い、55試合に先発出場する。
真弓 明信(まゆみ あきのぶ、1953年7月12日 - )は… 真弓 明信(まゆみ あきのぶ、1953年7月12日 - )は、福岡県大牟田市出身の元プロ野球選手(外野手、遊撃手、二塁手)、野球解説者。2009年から2011年まで阪神タイガース第32代監督を務めた。
寺田 吉孝(てらだ よしたか、1953年2月4日 - )は、… 寺田 吉孝(てらだ よしたか、1953年2月4日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(捕手、外野手)。右投右打。 筑紫工業高等学校では、捕手として1970年夏の甲子園県予選準々決勝に進むが、博多工に敗退。高校の1年下に鶴崎茂樹がいた。 同年のドラフト6位で近鉄バファローズに入団。辻佳紀、岩木康郎ら捕手陣の壁を破れず二軍暮らしが長かった。捕手としては1977年に1試合に出場したのみで、地肩の強さを活かすため外野手に転向。同年はウエスタン・リーグで首位打者を獲得、一軍でも6試合に指名打者として先発出場(うち3試合に偵察要員が使われた)を果たす。 1978年オフに神部年男・佐藤竹秀と共に、チャーリー・マニエル・永尾泰憲との交換トレードでヤクルトスワローズに移籍。
市橋 秀彦(いちはし ひでひこ、1953年1月10日 - )… 市橋 秀彦(いちはし ひでひこ、1953年1月10日 - )は、福岡県飯塚市出身の元プロ野球選手である。ポジションは投手、内野手。 九州工業高等学校では、エースとして1970年夏の甲子園県予選決勝に進出、博多工を降し選手権出場を決める。予選7試合で計75三振を奪い、本格派投手として注目された。甲子園では、1回戦で大分商の小川清一と投げ合い、延長15回まで進むが力尽き1-5で敗退。 同年のドラフト会議で、近鉄バファローズから1位指名を受け、入団。入団時はオーバースローの本格派だったが、2年目の秋あたりに、腰の回転がサイドスローに向いていると判断した投手コーチ・中原宏の指導で、サイドスローに転向。秋の教育リーグ「阪神、阪急戦」でテストした結果、スピードも乗っているうえに、制球力不足も解消されつつあった。
入江 道生(いりえ みちお、1951年9月15日 - )は、… 入江 道生(いりえ みちお、1951年9月15日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。 博多工業高では、1968年、2年生の時に控え内野手として春の選抜に出場。1回戦で平安高の池田信夫に完封負け。1969年の春の選抜に遊撃手、九番打者として連続出場。同期のエース岩崎清隆の好投もあり、準々決勝では岐阜商の左腕鍛治舎巧を攻略。準決勝に進むが、堀越高のエース但田裕介に抑えられ完封負けを喫する。他の高校同期に捕手の今久留主邦明がいた。 高校卒業後は社会人野球の電気化学から九州産交。1973年のドラフト会議で広島東洋カープから6位指名を受け入団。1974年に一軍に上がるが、活躍の場は少なく1976年限りで引退。
中村 武義(なかむら たけよし、1951年6月30日 - )… 中村 武義(なかむら たけよし、1951年6月30日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
岩崎 清隆(いわさき きよたか、1951年6月15日 - )… 岩崎 清隆(いわさき きよたか、1951年6月15日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手、内野手。 博多工業高校では1968年、2年生の時に一塁手として春の選抜に出場。1回戦で平安高の池田信夫に完封負け。この試合でリリーフとして甲子園初登板を果たす。その後、エースとして今久留主邦明とバッテリーを組み、同年の秋季九州大会で決勝に進出。宮崎商の西井哲夫と投げ合うが惜敗した。1969年の春の選抜に連続出場。準々決勝で県岐阜商の鍛治舎巧に投げ勝ち、準決勝に進むが、堀越高校の但田裕介に完封負けを喫する。他の高校同期に遊撃手の入江道生がいる。 1969年ドラフト会議で東映フライヤーズから4位指名を受け入団。
楠城 徹(くすき とおる、1950年12月22日 - )は、… 楠城 徹(くすき とおる、1950年12月22日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(捕手)。
舞野 健司(まいの けんじ、1950年11月16日 - )は… 舞野 健司(まいの けんじ、1950年11月16日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。 飯塚商業高校では1968年、3年生の時に四番打者、捕手として夏の甲子園に出場。1回戦で磐城高を降すが、続く2回戦では、この大会に優勝した興国高の丸山朗(早大-大昭和製紙)に完封を喫する。この大会は2試合で6打数2安打を記録した。高校同期には左翼手の木下竜元(太平洋)がいる。 1968年ドラフト会議で東京オリオンズから12位指名を受け入団。下位指名ながら大型捕手として期待されるが、一軍での出場は偵察要員の2試合にとどまる。1971年限りで引退。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。
小林 浩二(こばやし こうじ、1950年9月8日 - )は、… 小林 浩二(こばやし こうじ、1950年9月8日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手)。 大牟田南高3年次の1968年にプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから8位指名を受けるが交渉権放棄により、社会人野球の電気化学へ入団。その後、九州産交へ移籍。都市対抗野球には2年連続で出場。 1971年、プロ野球ドラフト会議で大洋ホエールズから3位指名を受け入団。 1972年、プロ1年目から一軍初出場を果たす。 1974年秋季キャンプ中の12月5日深夜に熊本市内の宿舎を抜け出し、パンストで覆面して女性宅へ進入し相次いで2人の女性に暴行したとして住居侵入罪、婦女暴行の容疑で逮捕された。小林は無期限失格選手となり、その後野球界に関与していない。
矢野 俊一(やの としかず、1950年4月21日 - )は、… 矢野 俊一(やの としかず、1950年4月21日 - )は、福岡県大牟田市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。右投右打。1975年のみ登録名矢野 剛俊とした。 福岡・三池工高から三菱重工長崎を経て1972年ドラフト5位で大洋入団。1974年に一軍に定着、代打としての起用が多かったが、主に二塁手として7試合に先発出場を果たす。1976年にも外野手として12試合に先発。1978年11月無償トレードにてロッテに移籍。1979年も13試合に先発出場、一番打者としても3試合に起用されるが、1980年には出場機会がなく、同年限りで現役を引退。左投手にめっぽう強かった。引退後はジュウタン専門のクリーニング会社へ就職。
横山 晴久(よこやま はるひさ、1949年10月24日 - … 横山 晴久(よこやま はるひさ、1949年10月24日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。
井上 正晴(いのうえ まさはる、1949年7月23日 - )… 井上 正晴(いのうえ まさはる、1949年7月23日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
石井 輝比古(いしい てるひこ、1949年6月9日 - )は… 石井 輝比古(いしい てるひこ、1949年6月9日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
桑野 議(くわの はかる、1949年5月5日 - )は、福岡… 桑野 議(くわの はかる、1949年5月5日 - )は、福岡県北九州市出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)・コーチ。 中学時代は大阪市鶴見区の大阪市立緑中学校野球部に所属し、早くからプロ野球選手に憧れていて、南海ファンであった。九州工業高校では投手として、同期の奥宮種男とバッテリーを組む。1966年秋季九州大会県予選では、北部準決勝に進むが小倉工に惜敗。翌1967年夏の甲子園県予選決勝に進出し、再び小倉工と対戦。エース横山晴久と投げ合うが、0-3で完封負けし甲子園出場を逸する。 1967年のドラフト5位で阪神タイガースに入団。同期には後に同じ代打の切り札で活躍する川藤幸三がいた。阪神では打者としての素質を高く評価(3年間の通算打率.380)しており、プロ入り後は強肩俊足を活かして外野手に転向。
猿渡 寛茂(さるわたり ひろしげ、1949年4月28日 - … 猿渡 寛茂(さるわたり ひろしげ、1949年4月28日 - )は、福岡県田川市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 三池工高は名将・原貢監督の指導で強豪チームへと変貌を遂げ、1年次の1965年には1年上のエース・上田卓三を擁し、夏の甲子園で初出場初優勝を果たしたが、自身はベンチ外であった。2年次の1966年にはチームの主将として活躍し、秋季九州大会では準決勝まで進出するが鎮西高にコールド負けを喫し、1967年の春の選抜出場を逸する。同期にはプロでもチームメイトとなる相本和則がいた。 卒業後は三菱重工長崎に入社し、俊足とパンチ力ある打撃を武器にレギュラーとして定着、チームの勝利に貢献する4番打者となった。
相本 和則(あいもと かずのり、1949年4月22日 - )… 相本 和則(あいもと かずのり、1949年4月22日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。 三池工業高校では1965年夏の甲子園でチームの初優勝を経験するが、1年生であり出場はできなかった。高校同期に猿渡寛茂がいる。 高校卒業後は東海大学へ進学。首都大学野球リーグでは在学中に6回優勝。二塁手、一番打者として活躍する。1968年の明治維新百年記念明治神宮野球大会に首都大学野球リーグ代表として出場。決勝ではエース上田二郎が東京六大学野球リーグ代表の星野仙一らと投げ合い完封勝利、優勝を果たす。1969年の第18回全日本大学野球選手権大会でも決勝に進み、上田が日大の佐藤道郎と互いに無失点で投げ合う。
古賀 正明(こが まさあき、1949年4月11日 - )は、… 古賀 正明(こが まさあき、1949年4月11日 - )は、福岡県久留米市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 福岡県久留米市で生まれ10歳の時に東京へ移住する。日大三高では、2年生の時、エースとして1966年の夏の都大会の決勝に進出するが、修徳高の辻正孝に本塁打を喫し敗退。翌1967年夏は都大会準決勝で、後に大学同期となる依田優一を打の主軸とする堀越高に敗れ、甲子園出場はならなかった。高校同期に三塁手の畑野実、控え投手の柴田民男がいる。 卒業後は法政大学に進学。法大には同期の横山晴久、一年下の池田信夫ら好投手がおり、公式戦の登板は2イニングのみに終わった。1972年に丸善石油に入社。1973年の都市対抗に出場し、エース久玉清人をリリーフして好投、チームは準々決勝に進出する。
奥宮 種男(おくみや たねお、1949年4月8日 - )は、… 奥宮 種男(おくみや たねお、1949年4月8日 - )は、福岡県小倉市(現・北九州市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 九州工では同期の桑野議とバッテリーを組み、3年次の1967年に夏の甲子園県予選で決勝に進出。小倉工の横山晴久に0-3の完封負けを喫し、甲子園出場を逸する。 同年のドラフト3位でサンケイアトムズに入団し、1年目の1968年は4月7日の中日戦(中日)で初出場を果たすと、田中勉から初安打の二塁打を放つ。2年目の1969年は4月26日の大洋戦(長崎大橋)で島田源太郎から初本塁打を放ち、自身唯一の打率3割となる.308を記録。3年目の1970年にはジュニアオールスターに出場し、1971年からは大矢明彦の控え捕手として一軍に定着。
伊東 勇(いとう いさむ、1948年9月6日 - )は、福岡… 伊東 勇(いとう いさむ、1948年9月6日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
小形 利文(おがた としふみ、1948年8月5日 - )は、… 小形 利文(おがた としふみ、1948年8月5日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
上田 卓三(うえだ たくぞう、1948年7月12日 - )は… 上田 卓三(うえだ たくぞう、1948年7月12日 - )は、福岡県大牟田市出身の元プロ野球選手(投手)。 原貢が監督を務めた三池工業高校の出身。1965年の第47回全国高等学校野球選手権大会に2年生ながらエースとして出場。初戦からの4試合を完投勝利、決勝に進む。銚子商との決勝でも、木樽正明との投手戦を2-0で制し、完封で優勝を飾る。しかし同年の岐阜国体は、準決勝で銚子商の木樽に完封を喫する。翌1966年夏は県予選準々決勝で横山晴久のいた小倉工に延長11回敗退。 同年秋、第1次ドラフト1位指名で南海ホークスへ入団。リリーフを中心に活躍するが、1970年以降は、他の左腕投手が村上雅則しかいないこともあり、ローテーションの谷間に先発もこなす。
流 敏晴(ながれ としはる、1948年7月7日 - 2016… 流 敏晴(ながれ としはる、1948年7月7日 - 2016年9月15日)は、福岡県北九州市出身のプロ野球選手(投手)、プロ野球スカウト、長崎国際大学硬式野球部監督。福岡県立小倉商業高等学校卒業。 小倉商業高校では、2年生の時に1965年秋季九州大会県予選で県北部決勝まで進むが小倉高に敗退。翌1966年春季九州大会県予選では2回戦で八幡高を相手に7回コールドながら完全試合を達成して注目される。同年夏の甲子園県予選では準々決勝で柳川商に惜敗、甲子園には出場できなかった。 1966年第1次ドラフト会議で阪急ブレーブスから2位指名を受け入団。足立光宏、山田久志に続くアンダースロー。飄々とした風貌から投げられるシュート、カーブを武器に6年目にプロ入り初勝利を挙げる。
大場 隆広(おおば たかひろ、1948年6月23日 - 20… 大場 隆広(おおば たかひろ、1948年6月23日 - 2016年7月16日)は、福岡県田川郡香春町出身のプロ野球選手(投手)・コーチ。息子は元巨人の大場豊千。 別府鶴見丘高校では3年次の1966年、エースとして夏の甲子園予選中九州大会準決勝に進出したが、熊本一工の田尻茂敏と投げ合い敗退。甲子園出場はならなかったが、予選では1試合平均11の三振を奪う。荒削りながら速球に魅力があり、ドロップを武器とした。1966年第1次ドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受け、1967年に入団。1年目にはジュニアオールスターに選出されるなど貴重な本格派左腕として期待されたが、一軍では結果を出せず、1970年オフに自由契約となり、近鉄バファローズへ移籍。
小金丸 満(こがねまる みつる、1948年1月16日 - )… 小金丸 満(こがねまる みつる、1948年1月16日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。
末永 吉幸(すえなが よしゆき、1948年1月3日 - )は… 末永 吉幸(すえなが よしゆき、1948年1月3日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手である。ポジションは内野手。日本ハム、中日、ロッテに所属した。
内野 哲朗(うちの てつろう、1948年 - )は、日本の元… 内野 哲朗(うちの てつろう、1948年 - )は、日本の元アマチュア野球選手、監督、政治家。ポジションは投手。元・小郡市議会議長。 明善高校で投手としてプレーしたが、1966年の夏の甲子園県予選の2回戦で敗退し、甲子園への出場を果たすことができなかった。 1966年のドラフト会議で中日から3位指名されたが交渉権放棄により早稲田大学に入学した。 大学卒業した後は、大昭和製紙でプレーした。 1984年から1999年までに16年間小郡高校の監督を務めた。 1994年に小郡市議選で初当選。2005年からは小郡市議会議長を務めながら母校である明善高校で指揮を執った。 2010年、小郡市市政功労者。2018年、旭日双光章受章。
渡辺 弘基(渡邊 弘基、わたなべ ひろき、1947年10月2… 渡辺 弘基(渡邊 弘基、わたなべ ひろき、1947年10月26日 - )は阪急ブレーブス・広島東洋カープに所属したプロ野球選手(投手)。福岡県出身。 日立一高では、1965年にエースとして夏の甲子園東関東予選決勝に進出。銚子商の木樽正明と投げ合うが0-9で大敗し、甲子園には出場できなかった。 亜細亜大学へ進学。東都大学リーグでは在学中に2度の優勝を経験。1年上に森永悦弘、西尾敏征(電電中国)の両投手がおり、4年生時には山本和行が台頭したため、あまり登板機会には恵まれなかった。リーグ通算22試合に登板し3勝6敗。 1969年のドラフトで東映が3位指名するも拒否し、社会人の日産自動車に入社。1970年の都市対抗に本田技研の補強選手として出場する。
鳥谷 元(とりや はじめ、1947年6月11日 - )は、福… 鳥谷 元(とりや はじめ、1947年6月11日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。 築上中部高校(現:青豊高校)時代は、福岡県大会で飯塚商と延長36回戦った事もある。 1965年の第1回プロ野球ドラフト会議において、中日ドラゴンズからドラフト11位で指名され入団した。 速球が武器の本格派で、同年のドラフト1位指名の豊永隆盛とともに成長が期待された。1967年に1軍で4試合に登板した。 1968年オフに広島東洋カープへ移籍するが、1軍での登板は無く、1972年限りで現役を引退した。 タフで故障の少ない選手で、カーブに切れがあり、コントロールもよく、思い切りのいいピッチングをみせるが、むきになるところがあった。
安田 猛(やすだ たけし、1947年4月25日 - )は、福… 安田 猛(やすだ たけし、1947年4月25日 - )は、福岡県北九州市出身のプロ野球選手(投手)。
倉田 晃(くらた あきら、1947年4月14日 - )は、福… 倉田 晃(くらた あきら、1947年4月14日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。1973年の登録名は倉田 隆司(くらた たかし)。 博多工業高では1964年、2年生の時に遊撃手として春の選抜に出場。エース橋本孝志を擁し準決勝まで進出するが、尾道商の小川邦和に抑えられ完封負け。しかし、同年6月の新潟国体では、決勝で尾道商を降し初優勝を飾る。 高校卒業後は、明治大学へ進学。東京六大学野球リーグでは1968年春季リーグで打率.441を記録、首位打者となる。1969年春季リーグでは同期の古屋英雄、1年下の今井恒夫の好投もあって8年ぶりの優勝を飾った。古屋以外の大学同期に外野手の小野寺重之らがいた。
穴見 寛(あなみ ひろし、1947年 - 2021年12月5… 穴見 寛(あなみ ひろし、1947年 - 2021年12月5日)は、福岡県出身の日本の高校野球指導者。 三池工業高校時代には原貢監督の下でプレー。1965年夏の甲子園大会には8番・捕手で出場し、2年生エースの上田卓三をリードし、同校の初出場初優勝に貢献。また、かつての活況を失っていた「炭鉱の町」・三池を湧かした。 高校卒業後は首都大学野球の東海大学に進学。同期に上田次朗、1学年下には高校からの後輩である林田俊雄がいた。 大学卒業後は、恩師の原が監督を務めていた東海大相模高校のコーチとして赴任し、原が東海大の監督に就任後には同校の監督を引き継いだ。1977年には夏の甲子園に出場。 その後は地元の福岡に戻り、系列校の東海大第五高校の監督に就任。
山本 和生(やまもと かずお、1946年9月30日 - )は… 山本 和生(やまもと かずお、1946年9月30日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。1973年から1975年までの登録名は山本 和雄。 九州工業高校では1963年秋季九州大会に進むが、1回戦で日南高に敗退。翌1964年春季九州大会でも1回戦で海星高に完封負け。甲子園には出場できなかったが、強打の内野手として知られる。高校の一期上に佐藤玖光がいた。 卒業後は熊谷組に入社、四番打者として起用される。都市対抗野球大会に5回出場。1968年の都市対抗では一塁手として準々決勝に進むが、この大会に優勝した富士製鐵広畑の神部年男に抑えられ1-2で惜敗。1971年の都市対抗では二塁手として準々決勝に進むが、電電近畿に再試合の末に敗退。
縄田 洋海(なわだ ひろうみ、1946年8月12日 - )は… 縄田 洋海(なわだ ひろうみ、1946年8月12日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。
中村 順司(なかむら じゅんじ、1946年8月5日 - )は… 中村 順司(なかむら じゅんじ、1946年8月5日 - )は、アマチュア野球指導者。元PL学園野球部監督であり、現在は名古屋商科大学硬式野球部監督。福岡県中間市出身。長男は日本大学東北高等学校野球部監督の中村猛安。
井上 修(いのうえ おさむ、1946年7月20日 - )は、… 井上 修(いのうえ おさむ、1946年7月20日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ。
橋本 孝志(はしもと たかし、1946年6月21日 - )は… 橋本 孝志(はしもと たかし、1946年6月21日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。 博多工では1963年、2年の時に控え投手、外野手として春の選抜に出場、1回戦で海南高のエース山下慶徳に抑えられ敗退、橋本の登板はなかった。同年夏の甲子園県予選でも決勝に進みリリーフとして登板するが、柳川商に完封負けを喫する。翌1964年はエースとして選抜に連続出場。2回戦で池永正明を擁する下関商を降し準決勝まで進出するが、尾道商の小川邦和投手に0-4で完封負け。しかし同年6月の新潟国体では、決勝で尾道商を2-0で完封し初優勝、一躍注目を集めた。同年夏は県予選準々決勝で、末永吉幸のいた小倉工に日没引き分け再試合の末に敗退。
青木 勝男(あおき かつお、1946年5月7日 - 2019… 青木 勝男(あおき かつお、1946年5月7日 - 2019年5月16日)は、福岡県飯塚市出身のプロ野球選手(捕手)。 飯塚商業高校から社会人野球の山門鉄工所を経て、1965年に広島カープに入団。1971年に引退。 引退後は、地元福岡で焼肉店を経営していた。 2019年5月16日、パーキンソン病による誤嚥性肺炎のため、飯塚市の病院で死去。73歳没。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
池田 善吾(いけだ ぜんご、1946年 - )は、福岡県出身… 池田 善吾(いけだ ぜんご、1946年 - )は、福岡県出身の元アマチュア野球選手(投手)日本で初めてキューバを抑えた投手。 博多工業高等学校では、同期にエース橋本孝志がおり、主に一塁手として起用される。投手としても1963年秋季九州大会決勝で日南高に完封勝ちを記録している。1964年春の選抜に出場。2回戦で池永正明を擁する下関商を降し準決勝まで進出するが、尾道商の小川邦和に0-4で完封負け。しかし同年6月の新潟国体では、決勝で尾道商を降し初優勝。同年夏は県予選準々決勝で、末永吉幸のいた小倉工に日没引き分け再試合の末に敗退。1学年下に遊撃手の倉田晃がいる。 芝浦工業大学に進学。東都大学野球リーグでは、エースとして1968年秋季リーグで7年振りに優勝。
矢野 晃(やの あきら、1945年8月4日 - )は、福岡県… 矢野 晃(やの あきら、1945年8月4日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。右投右打。 1963年にテスト生で八女高校から中日ドラゴンズに入団も4年間で1試合しか登板できず、1967年に近鉄バファローズに移籍。 しかしここでも移籍1年目こそ4試合登板したが、その後は一軍で登板することなく、1970年限りで引退した。 プロでは0勝に終わったが、惜しかったのは1967年8月12日の対東映戦で、先発し5点のリードをもらいながら、3点を返されて5回途中で降板、その後牧野伸から川内八洲男とリレーされ、川内が勝利投手となったが、これが川内にとってもプロ初勝利であった。この勝利をきっかけに川内はプロ通算12勝をマークしたが、矢野は未勝利に終わった。
佐藤 玖光(さとう くにみつ、1945年7月11日 - )は… 佐藤 玖光(さとう くにみつ、1945年7月11日 - )は、福岡県福岡市西区出身の元プロ野球選手(投手)。 中学生の時に本格的に野球を始める。九州工業高では2年生からエースとなる。1963年春季九州大会県予選北部決勝に進むが、嘉穂高に延長15回敗退。同年夏は県予選準々決勝で橋本孝志のいた博多工業高に惜敗、甲子園には届かなかった。 高校卒業後は社会人野球の丸井に入社するもチームが1年で解散し、翌年から林建設でプレーした。 1969年秋に入団テストに合格し、ドラフト外で西鉄ライオンズに入団。 1971年には25試合に登板、6月からは3試合に先発としても起用される。スリークォーターが基本だが、スライダー、カーブ、シンカー、シュートを武器に、横手、下手からの変則投法が特徴だった。
苑田 聡彦(そのだ としひこ、1945年2月23日 - )は… 苑田 聡彦(そのだ としひこ、1945年2月23日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。 三池工高では原貢の指導を受ける。三池工高には一般入試不合格後、定時制で入学。その際に尽力してくれた原貢監督へのお礼にと、貢の長男原辰徳とよく遊んであげたという。九州一のスラッガーとして名を馳せ「中西二世」とも呼ばれ期待されていた。1962年秋季九州大会準決勝に進むが、小倉工に敗退。翌1963年夏の甲子園県予選は準々決勝で嘉穂東高に敗れる。 1964年にプロ入り。地元の西鉄ライオンズをはじめ9球団が獲得に乗り出したが、苑田が選んだのは一番条件の低かった広島カープだった。広島入団の決め手となったのは担当だった久野久夫スカウトの人柄であり、「久野さんの熱心さにひかれた。
古屋 哲美(ふるや てつみ、1945年1月7日 - )は、福… 古屋 哲美(ふるや てつみ、1945年1月7日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。 博多工業高では1964年、2年生の時にエース橋本孝志の控えとして春の甲子園に出場。準決勝まで進出するが、尾道商の小川邦和に抑えられ完封負け。同年6月の新潟国体では、決勝で尾道商を降し初優勝を飾る。いずれも自らの登板はなかった。高校同期に倉田晃がいる。 卒業後は九州産業大学に進学。九州地区大学野球選手権大会では福岡工大の後塵を拝し、優勝には届かなかった。 1969年にドラフト外で西鉄ライオンズへテスト入団。1年目の1970年には8試合に中継ぎとして登板。5月10日には乗替寿好をリリーフし3回から登板するが、5回に打ち込まれ敗戦投手となる。
天本 光(あまもと ひかる、1944年11月12日 - )は… 天本 光(あまもと ひかる、1944年11月12日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。
伊藤 久敏(いとう ひさとし、1944年6月19日 - )は… 伊藤 久敏(いとう ひさとし、1944年6月19日 - )は、福岡県久留米市出身の元プロ野球選手。左投右打で、ポジションは投手。
山田 勝国(やまだ かつくに、1944年2月9日 - )は、… 山田 勝国(やまだ かつくに、1944年2月9日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 博多工業高校では春季九州大会県予選南部決勝に進むが、福岡工に惜敗。東洋高圧大牟田を経て、1963年に近鉄バファローズへ入団。 翌1964年から一軍に定着。主に代打や守備要員として起用されるが、その後は徐々に力を付け、控え外野手として出場機会を増やす。1969年には開幕から中堅手、二番打者として起用され、俊足のチャンスメーカーとして65試合に先発出場した。翌年も13本塁打を放つなど活躍を続けるが、打率が今一つ上がらず、1972年に溜池敏隆とのトレードでヤクルトアトムズへ移籍。ここではあまり出場機会がなく、同年限りで引退した。
屏 道夫(へい みちお、1943年4月5日 - )は、福岡県… 屏 道夫(へい みちお、1943年4月5日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。 福岡県立京都高等学校卒業後、1962年に読売ジャイアンツに入団。しかし、1964年に1試合出場しただけで、同年末に自由契約になった。シーズン終了後、東映フライヤーズの入団テストを受けたが、不合格になり、そのまま現役引退した。