比嘉 敬(ひが たかし、1925年2月7日 - 2003年1… 比嘉 敬(ひが たかし、1925年2月7日 - 2003年12月11日)は、日本の経営者。沖縄タイムス社、琉球朝日放送社長を務めた。沖縄県中頭郡宜野湾村(現在の宜野湾市)出身。 陸軍航空士官学校を卒業し、1950年に沖縄タイムス社に入社した。1974年に監査役に就任し、取締役、東京支社長、常務、専務を経て、1982年に社長に就任。1992年から1年間会長を務めた。1994年から2000年までに琉球朝日放送社長を務めた。 2003年12月11日肺癌のために死去。78歳没。
初代・祝嶺 正献(しゅくみね せいけん、1925年 - 20… 初代・祝嶺 正献(しゅくみね せいけん、1925年 - 2001年11月26日)は、沖縄県出身の空手家。玄制流空手道創始者。躰道創始者。初代・日本武藝躰道宗家、最高師範。本名、祝嶺 春範(しゅくみね はるのり)。「祝嶺正献」の名は襲名されており現在三代目であるが、ここでは初代・祝嶺正献について解説する。かつては祝嶺制献と号す。 祝嶺正献には数々の人間離れした伝説の事実がある。 「最高師範」の肩書は初代・祝嶺正献にのみ用いられる。
仲村 俊子(なかむら としこ、1922年 - 2022年11… 仲村 俊子(なかむら としこ、1922年 - 2022年11月18日)は、日本の社会運動家。 大正11年(1922年)、沖縄県うるま市勝連生まれ。昭和13年(1938年)、私立家政高等女学校を修了。昭和27年(1952年)に教師となり、沖縄教職員会で祖国復帰運動に取り組むが、運動の左傾化を感じ、昭和44年(1969年)に同会を脱退。昭和46年、「沖縄返還協定批准貫徹県民集会」開催に携わり、陳情団の一員として上京、早期批准を要望した。昭和55年(1980年)、前島小学校を最後に退職。昭和58年(1983年)、防衛協会の初代婦人部長を務めた。晩年も集会、講演会やメディア等に登場している。令和4年11月18日永眠。
西銘 順治(にしめ じゅんじ、1921年〈大正10年〉11月… 西銘 順治(にしめ じゅんじ、1921年〈大正10年〉11月5日 - 2001年〈平成13年〉11月10日)は、日本の政治家。那覇市名誉市民、知念村名誉村民、与那国町名誉町民。 沖縄県知事(本土復帰後第3代)、衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長、衆議院議員(4期)、沖縄県那覇市長(第18・19代)、沖縄自由民主党総裁、立法院議員(1期)等を歴任した。 沖縄県八重山郡与那国村(現・与那国町)生まれ。小学生時代の一時期、南洋庁のパラオに在住していた。旧制沖縄県立第二中学校、旧制水戸高等学校を経て1948年、東京帝国大学法学部卒業。戦時下に海軍中尉となる。 外務省に入省するが、半年で退官。沖縄へ戻り、沖縄ヘラルド(その後改名して沖縄朝日新聞)の創設に参加し社長などを歴任する。
久場 とよ(くば とよ、1921年9月22日 - 2017年… 久場 とよ(くば とよ、1921年9月22日 - 2017年2月26日)は、沖縄県出身の画家。本名は久場 トヨ。 那覇市出身。那覇尋常小学校で島田寛平、沖縄県立第二高等女学校で名渡山愛順から、絵画の手ほどきを受ける。沖縄県立第二高等女学校、東京女子薬学専門学校(現・明治薬科大学)卒業。 第二次世界大戦後、薬剤師としての仕事と並行して創作活動を続け、沖縄画壇の第一線で活躍した。1977年に沖縄女流美術家協会の初代会長に就任し、沖縄女流画壇のまとめ役を担った。 2017年2月26日に老衰により死去した。95歳。
安谷屋 正義(あだにや まさよし、1921年〈大正10年〉8… 安谷屋 正義(あだにや まさよし、1921年〈大正10年〉8月26日 - 1967年〈昭和42年〉7月29日)は、昭和時代に沖縄県で活躍した洋画家。 東京府北豊島郡滝野川町田端(現・東京都北区田端)に生まれる。1929年(昭和4年)に沖縄県に転居し、沖縄県立第二中学校で比嘉景常の指導を受け、西洋画を志す。1940年(昭和15年)、東京美術学校図案科に入学し、在学時に出征するが、1945年(昭和20年)の敗戦で除隊する。その後、大分県日田市の日田漆器に入社するが、米軍占領下の沖縄に戻り、1948年、首里市儀保町(現・那覇市首里儀保町)のニシムイ美術村に住宅兼アトリエを建てて住む。 1949年、第1回沖縄美術展覧会(沖展)が開かれると、名渡山愛順・大嶺政寛ら戦後第一世代の審査内容に反発し、1950年に安次嶺金正・玉那覇正吉らと「五人会」(1954年に「グループとしての活動の意義が終わった」という理由で解散)を結成した。
伊江 朝雄(いえ ともお、1921年5月17日 - 2007… 伊江 朝雄(いえ ともお、1921年5月17日 - 2007年5月14日)は、日本の政治家。自由民主党参議院議員。北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官。沖縄県出身者初の国務大臣として知られる。
又吉 康助(またよし こうすけ、1921年〈大正10年〉5月… 又吉 康助(またよし こうすけ、1921年〈大正10年〉5月1日 - 2004年〈平成16年〉4月8日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。最終階級は陸軍大尉(大日本帝国陸軍)、陸将補(陸上自衛隊)。初代自衛隊沖縄地方連絡部長。 初代沖縄県知事屋良朝苗の教え子であり、沖縄返還の際に政府・自衛隊・沖縄県の交渉に関わった。 沖縄県読谷村生まれ。旧制沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)では陸軍特攻隊の伊舎堂用久中佐と同窓。1941年8月、陸軍士官学校(55期)卒業。歩兵第130連隊(高田)、仙台、得撫島守備を経て、独立混成第101旅団司令部付。 終戦後、知念高校教諭を務める。1955年、陸上自衛隊入隊。
伊舎堂 用久(いしゃどう ようきゅう、1920年〈大正9年〉… 伊舎堂 用久(いしゃどう ようきゅう、1920年〈大正9年〉6月12日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。沖縄戦の陸軍特攻第一号。最終階級は陸軍中佐。石垣島出身。 沖縄県石垣島登野城出身。父・伊舎堂用和は公務員で教育熱心であった。日清戦争、日露戦争に従軍、石垣島出身で初の金鵄勲章を受けている。父の宮古島への赴任 (裁判所勤務) に伴い旧制沖縄県立宮古中学校に入学、翌年再び父の転勤で那覇に戻り沖縄県立第二中学校に転校、同窓に、後に初代自衛隊沖縄地方連絡部長となる又吉康助がいる。その後陸軍予科士官学校入学。1941年(昭和16年)7月、陸軍士官学校卒業。伊舍堂は歩兵を希望していたが、陸軍の航空隊の増設方針で転科を余儀なくされたという。
赤嶺 誠一(あかみね せいいち、1920年5月14日 – 1… 赤嶺 誠一(あかみね せいいち、1920年5月14日 – 1995年7月18日 赤嶺至冠 や Yoshitaka Akamine としても知られる)は 日本の剛柔流空手家。芸術空手の先駆者で南アメリカをはじめアメリカ、スペイン、オーストラリアなどさまざまな国で活動し、健心空手道場を主宰した。この学校は、世界の一部では健心流または史観流とも呼ばれている。赤嶺は、南米に来る最も空手の指導者の一人で大日本武徳会八段であり、南米で最初の剛柔流師であった。 赤嶺は1920年5月14日に沖縄県那覇市泉崎で生まれる。彼は6人の兄弟の末っ子であり、武士であった父方の祖父の下の子として武術の訓練を始める(兄弟の中では武道を嗜んだのは唯一であった)。
上原 貴美子(うえはら きみこ、1919年10月20日 - … 上原 貴美子(うえはら きみこ、1919年10月20日 - 1945年6月20日)は、沖縄陸軍病院第一外科の看護婦長。
大宜見 小太郎(おおぎみ こたろう、1919年1月2日 - … 大宜見 小太郎(おおぎみ こたろう、1919年1月2日 - 1994年7月26日)は、沖縄県那覇市出身の俳優、脚本家、演出家、舞踊家。沖縄芝居の大御所として知られ、沖縄俳優協会会長もつとめた。なお、「大宣見小太郎」「大宜味小太郎」等と誤記されることも多い。 生誕時の本名は、當間朝義(幼名太郎)。やがて、沖縄芝居の役者の、大宜見朝良の養子に入り、本名「大宜見朝義」となった。さらに、当時の役者には、「太郎」と名乗る者が多かったことから、「大宜見小太郎」を芸名にした。また、南一郎のペンネームで200本以上の脚本を書いている。 妻は沖縄芝居女優の大宜見静子。 1926年(大正15年)7才の時に、石垣にて「瓦屋節由来記」で初舞台を踏み、その後も子役として活躍する。
金城 裕(きんじょう ひろし、1919年 - 2013年10… 金城 裕(きんじょう ひろし、1919年 - 2013年10月10日)は、沖縄県出身の空手家。韓武舘において防具付き空手による組手稽古を主導し、空手における最初の全国大会である全国空手道選手権大会の開催に貢献した。多くの人物に師事した経験から評論家としての面を持ち、雑誌や著作物での執筆活動も精力的に行った。 1919年、沖縄県首里区桃原町(現那覇市首里桃原町)に生まれる。 1926年、唐手を始め奥里將現、1927年、知念三良、1932年、大城朝恕、1933年、徳田安文、1935年、真栄城朝徳、1938年、花城長茂に師事。 1939年、日本大学に入学、唐手同好会を設立。修道館の遠山寛賢に師範免状を授与される。
桑江 朝幸(くわえ ちょうこう、1918年(大正7年)2月3… 桑江 朝幸(くわえ ちょうこう、1918年(大正7年)2月3日 - 1993年(平成5年)12月16日)は、琉球政府・沖縄県の政治家である。軍用地主の団体である市町村土地特別委員連合会(現:沖縄県軍用地等地主会連合会、通称:土地連)の初代会長となった。1978年から1990年まで沖縄市の市長を務めた。1989年に泡瀬干潟の埋め立て事業を含む東部海浜開発計画市案を発表する。2014年から2024年の死去まで沖縄市長を務めた桑江朝千夫の父である。 琉球列島米国民政府(略称:USCAR)については、「アメリカ民政府」と記述する。また肩書、施設名、その他名称について、当時のもので表記する。 1918年(大正7年)に沖縄県中頭郡越来村(現:沖縄市)に生まれる。
山田 實(やまだ みのる、1918年 - )は、日本の写真家… 山田 實(やまだ みのる、1918年 - )は、日本の写真家。1977年、沖縄タイムス芸術選賞大賞受賞。2000年、沖縄県文化功労者として表彰。兄は、詩人の山田有勝。
渡口 政吉(とぐち せいきち、1917年5月20日 - 19… 渡口 政吉(とぐち せいきち、1917年5月20日 - 1998年8月31日 ) は、日本の空手家。沖縄県那覇市出身。剛柔流開祖の宮城長順と比嘉世幸に教えを受ける。沖縄空手道剛柔流尚禮館初代館長。 沖縄空手道剛柔流尚禮会初代会長、元代々木修練会空手道場師範、元東京都空手道連盟相談役、元東京都中野区空手道連盟相談役、元法政大学沖縄空手道剛柔会師範 少年時代、父から空手(唐手)の基本技を学ぶ。15歳の時、比嘉世幸の道場で剛柔流空手を学び、後に宮城長順の門下生となる。比嘉世幸には33年以上、宮城長順には25年以上師事した。宮城長順は渡口の父と個人的な友人であったため、渡口の家を何度も訪れており、その時の会話はほとんど空手の話となり、朝方まで続いたという。
知名 定繁(ちな ていはん、1916年5月6日 - 1993… 知名 定繁(ちな ていはん、1916年5月6日 - 1993年7月25日)は、沖縄民謡の歌手、作詞・作曲家。知名定男の父として知られている。 沖縄県具志川市(現在のうるま市具志川)生まれ。太平洋戦争中は現在の北九州市で暮らしながら筑豊炭田で働いていた。その際に息子の知名定男が生まれた。 戦後しばらくの間、大阪で暮らし、関西における沖縄音楽の中心的人物の一人となるが、1956年、定男ら家族を引き連れて沖縄に密航。 1957年に設立された琉球民謡協会の二代目会長に就任し、宮廷音楽湛水流の研究や箏曲譜などの編纂にも取り組んだ。 作詞・作曲家としても活躍し、名作の数々は現在でも沖縄県内で広く歌い継がれている。
糸数 カメ(いとかず カメ、1915年6月26日 - 199… 糸数 カメ(いとかず カメ、1915年6月26日 - 1991年10月23日)は、沖縄民謡の歌手、舞踊家。 8歳の頃から玉城盛義に師事。 1958年に玉城流師範免許を取得し、1976年には糸和会を設立した。 戦後沖縄の民謡、舞踊界の先駆的存在として活躍した一方で、空手にも秀でていた。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
座波 仁吉(ざは じんきち、1914年3月5日 - 2009… 座波 仁吉(ざは じんきち、1914年3月5日 - 2009年[要出典])は、空手家。沖縄県那覇市出身。「心道流空手道心道会」最高師範。 「心道流空手道心道会」は、1951年(昭和26年)の宮崎大学空手道部創立とともに、座波を会長として迎え設立された(以後、座波は「心道流空手道心道会」の最高師範を務める)。 2002年に座波は初代宗家となる。 弟子に、佐伯幸一(宮崎大学空手部歴代OB会長)、松山公大(「心道流空手道心道会」第2代会長)、田中静雄、宇城憲治がいる。
亀谷 長榮(かめや ちょうえい、1914年(大正3年)1月4… 亀谷 長榮(かめや ちょうえい、1914年(大正3年)1月4日 - 1999年(平成11年))は、日本の政治家。福岡県筑紫郡春日村(現、春日市)村議会議員(2期)、同町議会議員(2期)。同議長(2期)。 春日市長(3期。第2・3・4代)を務めた。 1914年(大正3年)1月に、第一尚氏の末裔とされる亀谷家(福山英治著、大神二郎発行『波濤を越えて 亀谷長栄伝記』葦書房有限会社、初版昭和61年9月15日、8頁。以下特に脚注・出典の記載がないかぎり記述は全て同書からの引用である。また名の表記については同書に基づき「長栄」とする。)の亀谷長睦と、その妻であるツルとの間に沖縄県島尻郡玉城村字屋嘉部(現、南城市字玉城屋嘉部)に生まれる。
霜多 正次(しもた せいじ、1913年9月5日 - 2003… 霜多 正次(しもた せいじ、1913年9月5日 - 2003年4月16日)は、日本の小説家である。元日本共産党員。 沖縄県国頭郡今帰仁村に生まれた。沖縄県立第一中学校から旧制五高に進学。同級の梅崎春生と親交を結び、文学の道をめざす。東京帝国大学英文科卒業後、1940年に応召し、各地を転戦したあとブーゲンビル島に配属される。日本の敗色が濃厚となった1945年5月、オーストラリア軍に投降し、捕虜となる。 復員後、故郷には戻らず、東京で文学をめざし、新日本文学会の事務局に勤務しながら小説を書く。1950年、雑誌『新日本文学』に「木山一等兵と宣教師」を発表、作家として認められるようになる。 このころから、西野辰吉・窪田精・金達寿たちと交流を深めていく。
高良 鉄夫(たから てつお、1913年6月25日 - 201… 高良 鉄夫(たから てつお、1913年6月25日 - 2014年5月17日)は、日本の動物学者。第8代琉球大学学長(就任期間:1970年7月1日 - 1973年6月30日)。農学博士。専攻は応用動物学。沖縄県本部町出身。 ハブの研究で知られ、「ハブ博士」と呼ばれた。 イリオモテヤマネコの発見につながる幼獣の捕獲を果たしたことでも知られる。 沖縄の本土復帰に伴う国立大学化の際の学長であった。 戦後の1950年から1968年にかけて5回に渡り、調査団を結成して尖閣諸島に上陸して学術調査を実行。この時のメンバーには後に沖縄社会大衆党委員長となる瑞慶覧長方がいる。 紫綬褒章、勲二等瑞宝章、沖縄県功労者、沖縄タイムス賞などを受賞。
山元 恵一(やまもと けいいち、1913年(大正2年)5月1… 山元 恵一(やまもと けいいち、1913年(大正2年)5月13日 - 1977年(昭和52年)11月)は、沖縄県出身の洋画家。 那覇市西村生まれ。父親は警察官。沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)に進学、「樹緑会」に属し美術教師の比嘉景常から指導を受ける。卒業後、反対を押し切り上京し、東京美術学校を受験するが失敗、川端画学校に入り木炭によるデッサンを習得した。 1933年(昭和8年)、東京美術学校油画科に入学し、シュルレアリスムのグループ〈貌〉に加わる。1938年(昭和13年)、東京美術学校油画科を卒業。1941年(昭和16年)、比嘉景常の後任の美術教師として県立第二中学校に赴任する。
大城 皓也(おおしろ こうや、1911年(明治44年)4月1… 大城 皓也(おおしろ こうや、1911年(明治44年)4月14日 - 1980年(昭和55年)7月12日)は、沖縄県出身の洋画家。二科会会員。 1918年(大正7年)、沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)に入学し、在学時に美術教師・比嘉景常の指導を受ける。1934年(昭和9年)、東京美術学校を卒業する。 1936年(昭和11年)、沖縄県の私立開南中学校(沖縄戦により廃校)の美術教師となる。沖縄美術展覧会の創設に参加した。 太平洋戦争後、名渡山愛順・安谷屋正義らと首里儀保町のニシムイ美術村にアトリエを設ける。1950年(昭和25年)には琉球大学助教授に就任した。 代表作に久高島の祭事・イザイホーに取材した『神々の誕生』などがある。
古波蔵 保好(古波藏 保好、こはぐら ほこう・やすよし、19… 古波蔵 保好(古波藏 保好、こはぐら ほこう・やすよし、1910年3月23日 - 2001年8月30日)は、日本のエッセイスト、評論家。妻は服飾評論家の鯨岡阿美子。妹は琉球料理研究家の古波蔵登美で、登美の孫(姪孫)にあたるのが作家・与那原恵である。 沖縄県首里市(現・那覇市)金城出身。沖縄県立一中卒業[要出典]、東京外国語学校印語学科中退(1930年)。1931年、当時県域新聞社として発行していた沖縄日日新聞(後の沖縄日報)に記者として入社。1941年、大阪毎日新聞社に移籍し社会部記者、論説委員。 1964年に退社後はエッセイスト、評論家として、日本エッセイストクラブ賞を獲得した『沖縄物語』をはじめ、沖縄県の歴史、文化・世相風俗、食などに関する著書を多数発表した。
大嶺 政寛(おおみね せいかん、1910年(明治43年)2月… 大嶺 政寛(おおみね せいかん、1910年(明治43年)2月10日 - 1987年(昭和62年)12月20日)は、沖縄県出身の洋画家。昭和時代の戦前戦後にわたって沖縄の原風景を描き、「赤瓦屋根の政寛」と称された。沖縄民芸協会会長を務めた。 那覇市久米町生まれ。沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)在学時に、比嘉景常の薫陶を受けて西洋画を志す。1929年(昭和4年)沖縄県立第二中学校を卒業後、沖縄県師範学校本科二部に進み、1930年(昭和5年)に卒業する。以後、那覇尋常小学校や那覇市立商業学校(現・沖縄県立那覇商業高等学校)、沖縄県立第一高等女学校等で教鞭を執る。 1933年(昭和8年)、第10回春陽会展に入選。
当山 全信(とうやま ぜんしん、1910年(明治43年) -… 当山 全信(とうやま ぜんしん、1910年(明治43年) - 1945年(昭和20年)1月23日)は、日本の海軍軍人。「伊48」潜水艦長として「回天」作戦中、米駆逐艦に乗艦を撃沈され戦死した。最終階級は海軍中佐。 沖縄県の出身である。沖縄一中を経て1931年(昭和6年)11月、海軍兵学校(59期)を123名中32番の席次で卒業。運動神経に恵まれ、柔道は三段である。当山は潜水艦専攻士官となり、潜水学校甲種を卒業して潜水艦長を歴任する。「伊169」、「伊38」潜水艦長として歴戦し、「伊48」艤装員長となる。同艦は竣工後に第六艦隊に編入となり、1945年(昭和20年)1月8日、回天特別攻撃隊金剛隊として4隻の「回天」を載せ出撃した。
石野 径一郎(いしの けいいちろう、1909年(明治42年)… 石野 径一郎(いしの けいいちろう、1909年(明治42年)3月28日 - 1990年(平成2年)8月3日)は日本の作家。本名は石野 朝和。もとは高江洲朝和であったが、石野へ改姓し、筆名は径一郎とした。 代表作は沖縄戦を題材にした『ひめゆりの塔』で、戯曲化・映画化もされた。また、直木賞候補にもなった対馬丸事件を描いた『沖縄の民』や『残波岬の決闘』などもある。 沖縄県首里区寒川町(現那覇市)で首里士族の両親のもとに、高江洲家8代目として生まれる。9歳の時に母が亡くなり、祖父の住む真和志村古島に移る。1921年に旧制沖縄県立第一中学(現沖縄県立首里高等学校)入学。14歳の時に古島の中学生翁長助静(のち真和志市長)、内間安清、平良良松らと同人誌『はるがん(原神)』を発行。
玻座間 里芳(はざま りほう、1909年 - 1970年)は… 玻座間 里芳(はざま りほう、1909年 - 1970年)は、昭和時代日本の医学者、作詞家。沖縄県出身。 1909年(明治42年)、沖縄県八重山郡八重山村(現在の石垣市)に生まれる。1931年(昭和6年)に台北医学専門学校を卒業し、台北帝国大学附属医学専門部に講師として在職中の1938年(昭和13年)11月に博士号を授与された。 終戦後は台湾から郷里の石垣島へ引き揚げて市内で産婦人科医を営む傍ら作詞家として活動し、1967年(昭和43年)に「石垣市歌」の懸賞募集で入選した。 1970年(昭和45年)、脳血管障害のため死去。享年62。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
川平 朝申(かびら ちょうしん、1908年10月9日 - 1… 川平 朝申(かびら ちょうしん、1908年10月9日 - 1998年8月20日)は沖縄民政府の官僚、放送局経営者、民俗学者。戦後沖縄にはじめて日本語放送局(ラジオ)を開局し、戦後沖縄文化復興に貢献。 沖縄のアナウンサー第一号となり、後に沖縄放送協会会長となった川平朝清は実弟。甥はタレントの川平慈英。 伊江御殿支流向氏伊江殿内の家系である(伊江殿内の家祖は御殿四世:向嘉続・伊江按司朝敷の四男、向和声・伊江朝叙。1835年に川平姓に改め川平殿内となる。)。 沖縄県立第二中学校(沖縄県立那覇高等学校)卒業。戦前、台湾総督府情報部でラジオ番組の制作に従事。戦争中、台湾軍に従軍。戦後、引き上げの際、大量の日本語図書を焼け野原になった沖縄に持ち帰る。
島袋 龍夫(しまぶくろ たつお、1908年9月19日 - 1… 島袋 龍夫(しまぶくろ たつお、1908年9月19日 - 1975年5月31日)は、沖縄県の空手家。沖縄空手の流派の一つ、一心流を創始した空手の大家の一人である。娘婿に上江洲安儀。 島袋龍夫は、1908年(明治41年)に具志川村宇喜屋武(現うるま市喜屋武)士族の長男として生まれた。1907年(明治40年)に旧藩時代に「間切」は現在の行政区「村に改められたので、屋取(やーどぅい)(士族の集落)出身の人々はまだ士族意識を持っており、その出自を誇ったものである。龍夫は兄弟10名の子宝家庭の出身で何かと将来を期待されていた。末っ子の弟・島袋永三も空手をやり、後世少林流の使い手として世に知られる存在となる。
長嶺 秋夫(ながみね あきお、1908年(明治41年)8月2… 長嶺 秋夫(ながみね あきお、1908年(明治41年)8月29日 - 2002年(平成14年)10月29日)は、日本の政治家。小禄村長(第8・9代)、立法院議員(7期)、立法院副議長(3期)、立法院議長(3期)を歴任。 米国統治下の沖縄において、当時の佐藤栄作首相や日米国政府高官と度重なる会合・折衝を実施し、沖縄の本土復帰に尽力した。全8回実施された琉球政府立法院議員選挙において、初回を除く7回に立候補し、全て当選した。琉球政府立法院の議長を3期務めた人物は長嶺以外に存在しない。尚、長嶺は副議長も3期務めており、過去最多である。
泉川 寛喜(いずみかわ かんき、1908年4月16日 - 1… 泉川 寛喜(いずみかわ かんき、1908年4月16日 - 1967年11月1日) は、剛柔流を学んだ空手の達人。神奈川県川崎市に本部を置き、東京、大阪、大田、神奈川県に支部を持つ泉武館道場の創始者。 沖縄県那覇市で武家のもとに生まれる。 東恩納寛量の高弟許田重発(那覇テ)に師事し、宮城長順(剛柔流の創始者)と修身を受けた。 日本本土で剛柔流や比嘉世幸の伝統を広め、空手道を広めるために南米に渡り、新館県を設立。先輩学生には、荒川武仙(倫武館)、市川素水(素水館)、高頭勉(太田仙館支部長)、原田彪太朗(誠心塾)、ケネス村上(ハワイ・仙室)、吉丸京社が含まれる。 泉武館道場は1939年に設立された。 泉武館道場は泉川寛文に受け継がれ、後に泉武会と改称。
平良 良松(たいら りょうしょう、1907年(明治40年)1… 平良 良松(たいら りょうしょう、1907年(明治40年)11月12日 - 1990年(平成2年)3月19日)は、日本の政治家。沖縄県那覇市長(4期)などを務めた。 那覇市出身。沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を卒業後上京し、近衛師団兵器部にて働きながら法政大学専門部法律科に通っていたが、赤色救援会の活動への関与が発覚したことや病気療養により、一旦帰郷する。 だが、警察の監視つきで就職さえままならなかったため、1934年、ペルー・リマ市に渡り現地の日本人学校で8年間教鞭を執る。終戦後の1946年に沖縄へ戻り、村会議員や農協会長などを経て、1954年から4期にわたり立法院議員となる。
長嶺 将真(ながみね しょうしん、1907年7月15日 - … 長嶺 将真(ながみね しょうしん、1907年7月15日 - 1997年11月2日)は、沖縄県の空手家、警察官。松林流開祖。昭和期を代表する空手家の一人であり、空手史研究家としても知られている。 1907年(明治40年)、那覇市泊村生まれ。17歳から空手を習い始め、19歳から当時の空手の大家・喜屋武朝徳の高弟であった新垣安吉に師事した。1928年(昭和3年)、那覇市立商業学校(現・沖縄県立那覇商業高等学校)卒業後、翌年には歩兵大分連隊に入隊し、済南事変にも参戦した。 1931年(昭和6年)、沖縄県巡査となり嘉手納警察署勤務になったことから、地元に住む喜屋武朝徳に師事することになった。1936年(昭和11年)には、東京にて本部朝基にも師事する機会に恵まれた。
瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年(明治40年)6… 瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年(明治40年)6月10日 - 2001年(平成13年)10月5日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。 1946年 - 1949年、米軍機関紙「うるま新報」(後の琉球新報)社長を務めた。復帰前に、那覇市長(1期)、立法院議員(3期)、沖縄人民党委員長、国政参加選挙で衆議院議員1期。本土復帰後、衆議院議員としては人民党で1期、日本共産党として連続5期。1973年以降共産党幹部会副委員長をつとめた。 太平洋戦争後のアメリカ合衆国による沖縄統治(施政権下)において、沖縄人民党を組織し、米国による統治に対する抵抗運動を行った。返還前の沖縄において立法院議員や那覇市長を歴任、国政参加選挙において衆議院議員に当選した。
仲宗根政善(なかそね せいぜん、1907年4月26日-199… 仲宗根政善(なかそね せいぜん、1907年4月26日-1995年2月14日)は、日本の教育者、言語学者、琉球大学名誉教授。
池宮城 秀意(いけみやぐしく(いけみやぐすく) しゅうい、1… 池宮城 秀意(いけみやぐしく(いけみやぐすく) しゅうい、1907年1月7日-1989年5月24日)は、日本のジャーナリスト、元琉球新報社社長。
玉得 博康(たまえ ひろやす、明治39年(1906年)4月2… 玉得 博康(たまえ ひろやす、明治39年(1906年)4月21日 - 昭和60年(1985年)5月2日)は、日本の空手家。王統流命名者。全日本空手道連盟錬武会初代最高師範。全日本空手道連盟初代元老。群馬県空手道連盟副会長。 1906年に沖縄那覇に生まれ、幼少の頃より父から那覇手を教授され、後に首里手の大浜賢助、城間真繁に師事する。師範学校においても、那覇手や棒術を習得。また戦前に訪中した際に北京にて中国拳法も学んでいる。 戦後は群馬県伊勢崎市を中心に空手を指導し、全日本空手道連盟錬武会の最高師範として防具付き空手の普及に尽力。また1964年の全日本空手道連盟発足時に東京へ移り、審議委員、初代元老、中央資格審査員を務めた。
名渡山 愛順(などやま あいじゅん、1906年(明治39年)… 名渡山 愛順(などやま あいじゅん、1906年(明治39年)1月22日 - 1970年8月4日)は、沖縄県出身の洋画家。 那覇市松下町のかすり問屋の長男に生まれる。父が幼少時に死去したため、母の手一つで育てられた。 1918年(大正7年)、沖縄県立第二中学校に入学するが、生来病弱であったため、病気で2年間休学する。1922年(大正11年)、美術教諭として赴任してきた比嘉景常から西洋画と琉球文化の指導を受け、それが名渡山の進路に影響を与えた。中学卒業後1年の浪人を経て、1927年(昭和2年)、東京美術学校西洋画科に進み、和田三造、金山平三に指導を受ける。翌1928年(昭和3年)には帝展入選を果たした。
稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1… 稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1989年6月19日)は、日本の政治家・実業家・軍人。沖縄県国頭郡本部村出身。元沖縄県知事稲嶺惠一の父。
星 克(ほし かつ、1905年4月9日 - 1977年5月2… 星 克(ほし かつ、1905年4月9日 - 1977年5月25日)は、戦前の沖縄県の教育者で、沖縄群島政府、琉球政府及び沖縄県の政治家。沖縄県石垣市出身。 戦前の教職時代に沖縄民謡「安里屋ユンタ」を基に「新安里屋ユンタ」を作詞したことでも知られる。 1905年(明治38年)4月9日生まれ。1922年(大正11年)に石垣島の白保尋常高等小学校代用教員となる。戦前は教育界に身を置いた。 沖縄戦後は大浜町に就職し、収入役・助役・町長の三役を務めた後、八重山群島議会議員に就任。そして琉球政府発足後の第2回立法院議員総選挙で初当選した。 琉球政府立法院では、当時の保守政党であった沖縄自由民主党の重鎮として活躍する。
小田 栄(小田 榮、おだ さかえ、1904年〈明治37年〉3… 小田 栄(小田 榮、おだ さかえ、1904年〈明治37年〉3月24日 - 1994年〈平成6年〉7月11日)は、日本の社会主義者、政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。別名・天界。 広島県賀茂郡川尻村(川尻町を経て現呉市)で菓子製造業の家に生まれる。父の事業が失敗し、叔父からの勧めで1912年に一家で沖縄に移住。一家で飴屋を始め、小田も行商を行う。1918年、沖縄県立第一中学校に入学。4年次の学芸会で社会批判の演説を行い放校となった。 沖縄出身の先輩、アナキストで労働運動社にいた泉正重を頼り上京。同志と雑誌創刊を計画するも当局に検挙された。1922年、中浜哲、古田大次郎らのギロチン社に加わったが、1923年の関東大震災により沖縄に戻った。
上原 清吉(うえはら せいきち、1904年3月24日 - 2… 上原 清吉(うえはら せいきち、1904年3月24日 - 2004年4月3日)は、日本の武術家。本部朝勇の高弟の一人であり、本部御殿手古武術の第12代宗家。 1904年(明治37年)、沖縄県島尻郡小禄村(現・那覇市小禄)に上原蒲戸の五男として生まれた。上原家は農業と味噌・醤油の醸造を生業とする比較的裕福な家庭であったが、清吉が小学生の頃、兄の事業の失敗で一家は一転苦しい生活に追い込まれた。これが原因で、清吉も進学を断念し家業を手伝うことになった。 1916年(大正5年)に本部朝勇の道場に入門した。本部朝勇は、旧琉球王族である本部御殿の直系当主であり、弟には当時沖縄最強の唐手(現・空手)家として知られた本部朝基をもつ著名な武術家であった。
大田 政作(おおた せいさく、1904年2月12日 - 19… 大田 政作(おおた せいさく、1904年2月12日 - 1999年8月18日)は、日本の官僚、琉球政府の政治家。元琉球政府行政主席(1959年10月21日 - 1964年11月1日)。
上地 マツ(うえち まつ、1903年12月11日 - 201… 上地 マツ(うえち まつ、1903年12月11日 - 2014年2月10日)は、ブラジルのスーパーセンテナリアン。 1903年12月11日、沖縄県名護市に生まれる。1922年にブラジルに移住した。1925年、上地寛吉と結婚。合計7人の子供がおり、そのうち2人はアルバレスマチャドとカタンドゥーヴァに住んでいたときの出産後に死去した。30年間農業に従事したのち寛吉は1952年に51歳で亡くなり、1961年にサンパウロに転居。 100歳の誕生日を迎えた際は、サンパウロ市議会と沖縄市長から、「存命中の最高齢の日系ブラジル人」として正式に認定された。 2014年2月10日、サンパウロで死去。110歳61日。
親泊 朝省(おやどまり ちょうせい、1903年(明治36年)… 親泊 朝省(おやどまり ちょうせい、1903年(明治36年)9月18日 - 1945年(昭和20年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。沖縄県出身。大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官。 1903年(明治36年)9月18日、沖縄県に父・親泊朝擢と母・ウシの間に生まれる。浦添朝満(尚維衡)の後裔に当たる。親泊朝晋は弟。 沖縄県立第一中学校、熊本陸軍地方幼年学校(1918年入学)を経て、1925年陸軍士官学校騎兵科首席卒業(1921年入学、37期)。37期の同期に加藤建夫、山縣有光、毛利元道、井本熊男、杉田一次、種村佐孝、大蔵栄一、村中孝次など。 1928年、陸軍中尉。1931年の満州事変の際には古賀伝太郎中佐の下、騎兵第27連隊第1中隊第3小隊長として出陣。
山之口 貘(やまのくち ばく、1903年〈明治36年〉9月1… 山之口 貘(やまのくち ばく、1903年〈明治36年〉9月11日 - 1963年〈昭和38年〉7月19日)は、沖縄県那覇区(那覇市)東町大門前出身の詩人である。本名は、山口 重三郎(やまぐち じゅうさぶろう)。197編の詩を書き4冊の詩集を出した。 上京後、職を転々としながら放浪生活を送る。金子光晴の知己を得て詩誌「歴程」に参加。生活苦を風刺的にユーモアを交えてうたった。第1詩集『思弁の苑』(1938年)のほか、『鮪に鰯』(1964年)など。 人生の様々な場面を純朴で澄んだ目線で描いた。『妹へおくる手紙』『生活の柄』『自己紹介』『結婚』『頭をかかえる宇宙人』『年越の詩』『思ひ出』では上京して金に苦労した時の自伝。
安里 積千代(あさと つみちよ、1903年8月22日 - 1… 安里 積千代(あさと つみちよ、1903年8月22日 - 1986年9月30日)は、八重山群島政府及び琉球政府の政治家。元衆議院議員(沖縄社会大衆党→民社党)。
島袋 俊一(しまぶくろ しゅんいち、1902年9月11日 -… 島袋 俊一(しまぶくろ しゅんいち、1902年9月11日 - 1965年9月17日)は、日本の植物病理学者・菌学者・教育者。歌人としても活躍し、小林 寂鳥(こばやし じゃくちょう)と号した。 1902年、沖縄県国頭郡伊江村出身。 1924年に旧制鹿児島高等農林学校(現在の鹿児島大学農学部)を卒業後、名瀬実科高等女学校(鹿児島県立奄美高等学校の前身の一つ)、鹿児島県第二師範学校の教員を務める。1937年に帰郷して沖縄県立八重山農学校(現在の沖縄県立八重山農林高等学校)の初代校長を務め、1944年からは沖縄青年師範学校の校長を歴任した。 1950年に琉球大学が開学すると同大学の教授に就任、1959年に農学部長、学部改組により農家政学部長、農家政工学部長を歴任した。