池内 宏(いけうち ひろし 1878年9月28日 - 195… 池内 宏(いけうち ひろし 1878年9月28日 - 1952年11月1日)は、東洋史学者。祖父は儒学者の池内大学。 1878年、東京府で生まれた。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に入学。東洋史を専攻した。1904年に東京帝国大学を卒業。 その後は、独協中学と早稲田中学教員を経て、1908年に南満洲鉄道歴史研究部の研究員に就いた。1913年に東京帝国大学講師に就いた。1916年に助教授昇格。1922年、学位論文『鮮初の東北境と女真との関係』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。1925年に教授昇格。朝鮮総督の依頼で満鉄調査部歴史調査部にて実証主義的(考証的)な満蒙・朝鮮の東洋古代史研究の基礎を確立した。
青山 士(あおやま あきら、1878年9月23日 - 196… 青山 士(あおやま あきら、1878年9月23日 - 1963年3月21日)は、日本の土木技師、内務官僚。位階は従三位。勲等は勲三等。公益社団法人土木学会名誉会員。 ニューヨークセントラル・アンド・ハドソンリバー鉄道、パナマ運河工事委員会での勤務を経て内務技師となり、新潟土木出張所所長、内務技監、社団法人土木学会会長などを歴任した。 静岡県生まれの土木技術者である。内村鑑三の門下となり、東京帝国大学工科大学では広井勇の指導を受ける。パナマ運河建設に携わった唯一の日本人として知られる。帰国後は内務省に入省し、東京土木出張所においては荒川放水路の建設を指揮した。また、新潟土木出張所では所長として信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した。
吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日… 吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。旧姓:竹内(たけうち)。 内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、外務大臣(第73・74・75・78・79代)、農林大臣(第5代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、衆議院議員(7期)、貴族院議員(勅選議員)、皇學館大学総長(初代)、二松學舎大学舎長(第5代)、日本自由党総裁(第2代)、民主自由党総裁、自由党総裁(初代)を歴任した。 東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、及び1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。
金山 季逸(かなやま きいつ、1878年(明治11年)9月2… 金山 季逸(かなやま きいつ、1878年(明治11年)9月22日 - 1943年(昭和18年)3月11日)は、司法官僚、検事。旧姓・武部。 富山県上新川郡山室村(現在の富山市)に武部尚志の四男として生まれ、同郡吏の金山彦一の養子となった。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。同年、司法官試補となり、東京地方裁判所に勤務した。1906年(明治39年)、検事となり、東京地方裁判所予備検事、前橋地方裁判所検事、八王子区裁判所検事、東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事正、東京控訴院検事、横浜地方裁判所検事正、大阪地方裁判所検事正、東京地方裁判所検事正、長崎控訴院検事長、大審院検事を歴任した。
桑木 彧雄(くわき あやお、1878年〈明治11年〉9月9日… 桑木 彧雄(くわき あやお、1878年〈明治11年〉9月9日 - 1945年〈昭和20年〉5月16日)は、日本の物理学者、科学史家。九州大学名誉教授。日本科学史学会初代会長。理学博士。 1878年9月9日、旧金沢藩士の子として東京にて生まれた。1899年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、1903年頃に東京物理学校で講師に着任した。1907年に文部省に命じられ、ヨーロッパに留学した。翌年、明治専門学校の教授に着任し、1911年九州帝国大学が創設すると、同大学工科大学の講師に転任した。1914年に理学博士を取得し、同年に九州帝国大学の教授に昇任し、1938年の定年退官まで力学の講座を担当した。定年後、旧制松本高等学校の校長に着任し、1942年に辞任した。
橋本 青雨(はしもと せいう、1878年9月1日 - 194… 橋本 青雨(はしもと せいう、1878年9月1日 - 1944年8月24日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家、ドイツ語学者。 宮城県出身。1902年小説と俳句を収めた『ほし草』を刊行。 1904年東京帝国大学文学部独文科卒。のち独文学を中心とする翻訳に従事。イプセン、シラー、ハウプトマンなどの翻訳を「帝国文学」「新小説」「新声」などに掲載し、明治末に最も活躍した。 のち第三高等学校教授、松本高等学校教授、海軍大学嘱託教授、中央大学講師となり研究に従事した。 孫は橋本和孝(関東学院大学名誉教授)。
上杉 慎吉(旧字体: 上杉 愼吉、うえすぎ しんきち、187… 上杉 慎吉(旧字体: 上杉 愼吉、うえすぎ しんきち、1878年〈明治11年〉8月18日 - 1929年〈昭和4年〉4月7日)は、日本の憲法学者。東京帝国大学教授。天皇主権説を主張する神権学派(君権学派)であり、天皇機関説と激しい論争を展開した。また、一君万民論の立場から普通選挙導入を主張した。学位は法学博士(1909年・文部大臣)。穂積八束に師事。教え子に竹内賀久治、安岡正篤、岸信介など。 1878年〈明治11年〉8月18日、福井県足羽郡福井町(現・福井市)生まれ。父上杉寛二は大聖寺藩(現・石川県加賀市)藩医だった。弟は大日本紡績(現・ユニチカ)や日本製粉(現・ニップン)取締役を務めた平野復男。
一戸 直蔵(いちのへ なおぞう、1878年8月14日 - 1… 一戸 直蔵(いちのへ なおぞう、1878年8月14日 - 1920年11月26日)は、日本の天文学者・科学ジャーナリスト。日本で最初の変光星の観測者・研究者。ジャーナリストとしては『現代之科学』を創刊し、反アカデミズムの立場をとったことでも知られる。 青森県西津軽郡越水村吹原(現・つがる市)出身。学問を許さなかった父の理解を得られず、家出し、紆余曲折の後、東奥義塾などを経て旧制第二高等学校に進学。仕送りが途絶えたため、一時郷里で教員をし、1903年東京帝国大学理科大学星学科を卒業。その後東大大学院に進学して天文学を研究したが、私設天文台の建設を自らの使命とし、1905年私費で渡米しシカゴ大学ヤーキス天文台に入った。
阿刀田 令造(あとうだ れいぞう、1878年(明治11年)8… 阿刀田 令造(あとうだ れいぞう、1878年(明治11年)8月7日 - 1947年(昭和22年)5月21日)は、日本の西洋史学者である。宮城県仙台市の(旧制)第二高等学校第9代校長を務めた。 1878年(明治11年)に宮城県名取郡下増田村(現:名取市)で生まれる。父は下増田村初代村長阿刀田義潮(あとうだ よしとも)。宮城県仙台第一中学校(現:宮城県仙台第一高等学校)を卒業して、1902年(明治35年)に(旧制)第二高等学校(現:東北大学)に入る。大学卒業後、さらに東京帝国大学・京都帝国大学法学部に進学した。在学中、西洋学に興味を持った。東京帝大に在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が東京府東京市本郷区で主宰していた求道学舎に寄宿した。
工藤 隆治(くどう りゅうじ、1878年(明治11年)8月5… 工藤 隆治(くどう りゅうじ、1878年(明治11年)8月5日 – 1966年(昭和41年)12月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。徳島市長。最終階級は海軍主計大佐。 徳島県麻植郡西尾村(現在の吉野川市)出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。海軍に入って、中主計、大主計、主計少監、主計中監、主計大佐と累進し、海軍省経理局第二課長・海軍大学校教官、広海軍工廠会計部長を歴任した。1924年(大正13年)、予備役編入。 1928年(昭和3年)、東京市主事・商工課長に就任。1932年(昭和7年)に品川区長となり、1936年(昭和11年)からは下谷区長を務めた。 1937年(昭和12年)、徳島市長に選出され、1941年(昭和16年)まで在任した。
大塚 武松(おおつか たけまつ、1878年8月2日-1946… 大塚 武松(おおつか たけまつ、1878年8月2日-1946年12月5日)は、日本の幕末史学者。 1878年、山口県岩国で生まれた。東京帝国大学文科大学史学科で学び、1903年に卒業。 1906年、東京大学史料編纂掛補助となり、まず外務省の『大日本外交文書』の編集に携わった。1911年に文部省維新史料編纂会常置委員となった。1917年に維新史料編纂会編纂官となり、『概観維新史』の執筆の中心となった。1927年、欧米留学を命じられた。1935年より東京高等師範学校教授を兼任。その他にも在任中には京都帝国大学、東京文理科大学などの講師を務めた。 1936年、『国体の本義』編纂委員となり、国史担当。1939年、『概観維新史』編述主任に就いた。
塩谷 温(しおのや おん、1878年〈明治11年〉7月6日 … 塩谷 温(しおのや おん、1878年〈明治11年〉7月6日 - 1962年〈昭和37年〉6月3日)は、日本の漢学者。東京帝国大学名誉教授。70代で30代の元芸妓を妻にし、老いらくの恋と騒がれた。 東京市下谷区で漢学者塩谷青山の子として生まれる。号は節山。学習院、第一高等学校を経て、1902年東京帝国大学漢学科を卒業。優等賞を下賜された。一高時代は水泳部に属し、その当時、「デコンショ、デコンショ」と歌う丹波篠山の盆踊り歌をもとに、塩谷がデカルト、カント、ショーペンハウエルの頭文字をとって「デカンショ節」と名付けたとされる。 1905年学習院教授、1906年東京帝国大学助教授。同年からドイツのライプツィヒ大学、清国の北京および長沙に留学し、中国文学研究を行う。
佐藤 功一(さとう こういち、1878年(明治11年)7月2… 佐藤 功一(さとう こういち、1878年(明治11年)7月2日 - 1941年(昭和16年)6月22日)は、日本の建築家。 早稲田大学理工科の建築学科の創始者として知られる。早大建築学科主任に就任してからは、同大の建築教育の基礎を築いた。以後は早大において評議員なども歴任した。 作品としては関東大震災以降のものが多く、日比谷公会堂の設計、大学関連では早稲田大学のシンボルである大隈講堂や、武蔵大学、津田塾大学に作品を39年間で233件残している。また東京女子高等師範学校、日本女子大学校などで教え、女性に対する住教育の草分けでもあった。 佐藤の作品であることが確認されている物件は223件あり、2か月に1件のハイペースで設計していた計算になる。
山崎 真雄(やまさき まさお、1878年(明治11年)7月 … 山崎 真雄(やまさき まさお、1878年(明治11年)7月 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 熊本県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1912年(大正元年)に高等文官試験に合格した。北海道庁属に務めた後、朝鮮総督府事務官、咸鏡北道第二部長、江原道第二部長、警務局保安課長、中枢院書記官を歴任した。またシベリア出兵の際には浦塩派遣軍司令部政務部嘱託を務めた。1928年(昭和3年)、大邱府尹に就任した。
齋藤 賢道(さいとう けんどう、1878年6月28日 - 1… 齋藤 賢道(さいとう けんどう、1878年6月28日 - 1960年4月14日)は、日本における発酵微生物学の基盤を作った細菌学者。大阪帝国大学名誉教授、大阪醸造学会会長、理学博士。 戦前、国内や中国、朝鮮、満州に生息する微生物の分類同定を行ない、黴類で28種、酵母菌で37種、細菌で27種もの新種を発見し報告した。菌類による発酵過程での生理機構やその生殖現象についても研究を行なった。また微生物に関する多数の専門書や啓蒙書を著した。 金沢市に生まれる。父親は斎藤深了。1897年、第四高等学校第2部を卒業し、東京帝国大学理科大学植物学科進学。1900年、東京帝国大学大学院植物学研究科植物生理学専攻進学。
木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月… 木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月27日 - 1952年(昭和27年)6月19日)は、日本の運動生理学者、スポーツ評論家。医学博士。 大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)教授から大阪毎日新聞社運動部長に転身。日本女子スポーツ連盟を設立し、人見絹枝を育成したことで知られる。本人も旧制第一高等学校・東京帝国大学在学中には長距離走の選手として知られた。 京都市出身。木下凞の二男。兄に産婦人科学者の木下正中がいる。木下家はもと若狭小浜藩医の家で、凞は明治維新後に京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した(父については木下正中の記事を参照)。 東京府尋常中学、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に進学。
荻田 悦造(おぎた えつぞう、1878年(明治11年)6月1… 荻田 悦造(おぎた えつぞう、1878年(明治11年)6月1日 - 1943年(昭和18年)6月1日)は、日本の衆議院議員(庚申倶楽部)。弁護士。 三重県多気郡相可村(現在の多気町)出身。1905年(明治38年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、農商務属となった。統監府が設置されると書記官となり、朝鮮総督府書記官を経て、1917年(大正6年)に朝鮮総督府総務局長に就任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、第一東京弁護士会所属の弁護士となった。
伊藤 孝次(いとう こうじ、1878年〈明治11年〉6月 -… 伊藤 孝次(いとう こうじ、1878年〈明治11年〉6月 - 1936年〈昭和11年〉8月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍造機中将。 京都府で伊藤正信の四男として生まれる。 1903年(明治36年)、東京帝国大学工科大学舶用機関科を卒業し、海軍中技士となる。海軍機関学校教官などを経て、1923年(大正12年)佐世保海軍工廠造機部長となる。1925年(大正14年)には神戸艦政本部監督官となる。1929年(昭和4年)海軍中将となり広海軍工廠長を務めた。 1930年(昭和5年)、海軍技術研究所長兼海軍技術会議員に就任した。 1936年(昭和11年)3月死去。死去に際し祭資が下賜されたほか、同年3月25日の葬送に際しては勅使の遣いがあり幣帛を下賜された。
西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉… 西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉5月26日 - 1961年〈昭和36年〉7月6日)は、日本の医学者、内科医。学位は医学博士(1914年・文部大臣)。日本学士院会員、慶應義塾大学名誉教授。内閣恩給局顧問医。 1878年山形県南置賜郡南原村(現・米沢市)に生まれる。山形県立米沢中学校興譲館を経て、第四高等学校から東京帝国大学医科大学に入学。1903年に卒業し、翌年同大学理学科教室助手になる。1909年から山形市立病院済生館に勤務し内科部長から館長になる。1913年山口県立病院長に就任、次いで日本赤十字山口支部病院長になる。1920年慶應義塾大学教授になる。1944年同大学医学部長兼病院長に就任、1946年同大学名誉教授になる。
戸沢 民十郎(とざわ たみじゅうろう、1878年〈明治11年… 戸沢 民十郎(とざわ たみじゅうろう、1878年〈明治11年〉5月20日 – 1952年〈昭和27年〉9月23日)は、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、司法参与官。弁護士。 香川県小豆郡安田村(現在の小豆島町)生まれ。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高松市で弁護士事務所を開業した。1914年(大正3年)、高松市会議員に当選。1918年(大正7年)、香川県会議員に当選した。その後、東京市で弁護士事務所を開いた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、5回連続当選を果たした。その間、第2次若槻内閣で司法参与官を務めた。 また南満洲太興合名会社の理事となり、同社の子会社の天図鉄道公司の総弁に就任した。
参木 録郎(みつぎ ろくろう、1878年(明治11年)5月1… 参木 録郎(みつぎ ろくろう、1878年(明治11年)5月10日 - 1935年(昭和10年)1月1日)は日本の実業家。東京瓦斯常務、京浜コークス社長。 栃木県上都賀郡南摩村(現鹿沼市)に参木彦次の四男として生まれる。1897年(明治30年)3月宇都宮中学卒業、同年9月第一高等学校第二部(工科)入学、学生時代はボート競技に勤しんでいた。1900年(明治33年)7月卒業、同年9月東京帝国大学工学部応用化学科入学、1903年(明治36年)6月卒業、級中首位岡本桜に次ぐ成績優秀で銀時計恩賜。同大学院にも学ぶ。 兵庫県神戸市の直木燐寸に入社、1904年(明治37年)陸軍省傘下の王子火薬製造所に奉職、1905年(明治38年)退職、同年4月に自費でドイツ留学、ベルリン大学とドレスデン工科大学で最新の応用化学を学び、研究や実地調査を重ね、1910年(明治43年)帰国、同年5月東京瓦斯と競合となる千代田瓦斯を設立、その後、同社の技術長だった岡本桜の勧めで東京瓦斯入社。
黒崎 真也(くろさき しんや、1878年(明治11年)5月5… 黒崎 真也(くろさき しんや、1878年(明治11年)5月5日 -1959年(昭和34年)3月26日)は、日本の内務官僚。民政党系府県知事。 山形県南置賜郡米沢花沢信濃町生まれ。旧米沢藩士・五十嵐力助の二男として生まれ、叔父・黒崎忠助の養子となる。姉の久子は海軍中将上泉徳弥の妻。 第二高等学校を経て、1905年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1906年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り香川県属となる。 以後、香川県事務官補、奈良県事務官、大分県事務官・警察部長などを歴任。1913年、関東都督府に転じ、事務官、民政部庶務課長などを務める。1920年3月に退官し大連取引所長となる。
大河原 栄之助(おおかわら えいのすけ、1878年(明治11… 大河原 栄之助(おおかわら えいのすけ、1878年(明治11年)5月1日 - 1957年(昭和32年)6月28日)は、日本の実業家。日本特殊鋼、日本特殊金属社長。横浜商工会議所議員。 大河原新七の次男として、群馬県碓氷郡松井田町(現・安中市)に生まれる。なお、大河原家は代々農を業とした群馬県の名家である。群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)、第一高等中学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。卒業後、東京瓦斯株式会社に入社。その後、渡邊銀行專務取締役、松井田銀行取締役、東海鉛管取締役などを歴任した。
大須賀 巌(おおすが いわお、1878年(明治11年)5月 … 大須賀 巌(おおすが いわお、1878年(明治11年)5月 – 1945年(昭和20年)12月)は、香川県丸亀市長。弁護士。 千葉県出身。衆議院議員大須賀庸之助の長男。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。群馬県属・警部、前橋市助役、福岡市助役を歴任。1920年(大正9年)から都市計画大阪地方委員会幹事を務めた。 1923年(大正12年)、丸亀市長に就任。 市長退任後、時事新報社市政研究所専務理事を1933年(昭和8年)まで務めた。その後は弁護士を開業した。
川崎 繁太郎(かわさき しげたろう、1878年〈明治11年〉… 川崎 繁太郎(かわさき しげたろう、1878年〈明治11年〉5月 - 1940年〈昭和15年〉5月21日)は、日本の技師、理学博士。旧姓は北野。族籍は大阪府平民。従三位勲二等。日本地質学会会長。 大阪府泉南郡麻生郷村大字海塚(現・貝塚市)出身。北野長十郎の五男。北野弥之助の弟。第一高等学校を経て1902年、東京帝国大学理科大学地質学科を卒業し、農商務省鉱山監督官補に任ぜられる。 1905年、農商務省技師拝命。1907年、樺太庁技師に転じる。1910年、朝鮮総督府技師に転じる。1919年、朝鮮総督府地質調査所長となる。 1926年、理学博士号授与。1930年、正四位に叙せられ、勲二等を授けられる。
斎藤 野の人(さいとう ののひと、本名:斎藤 信策(さいとう… 斎藤 野の人(さいとう ののひと、本名:斎藤 信策(さいとう しんさく)、1878年〈明治11年〉4月14日 - 1909年〈明治42年〉8月6日)は、日本の評論家。 高山樗牛(林太郎)は兄にあたり、その死後に兄の著作をまとめて全集として発表したが、病弱だったこともあり、その兄と同じ数え32歳で生涯を閉じた。
岡本 櫻(おかもと さくら、1878年〈明治11年〉4月3日… 岡本 櫻(おかもと さくら、1878年〈明治11年〉4月3日 - 1935年〈昭和10年〉2月22日)は、日本の実業家。東邦瓦斯初代社長。「ガス王」とも称された。 兵庫県大書記官であった父、岡本貞の次男として兵庫県神戸町(現:神戸市)に生を受けた。同志社普通部・第一高等学校に進む。帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)応用化学科卒業。このときの卒業論文である「セルロイドについて」は『工業化学雑誌』に連載されたという。1903年(明治36年)に東京瓦斯に入社するも、翌1904年(明治37年)には大阪瓦斯に移り、ここで外国人技師長であったミラーより最新技術を学んだ。1906年(明治39年)名古屋瓦斯設立に際して、同社に技師長として入社。
川原 五郎(かわはら ごろう、1878年(明治11年)4月 … 川原 五郎(かわはら ごろう、1878年(明治11年)4月 - 没年不明)は、日本の造船技術者。横浜高等工業学校教授。日本鋼管顧問。族籍は東京府平民。作家の藤島泰輔は孫。ジャニーズ事務所代表取締役の藤島ジュリー景子は曽孫。 佐賀県士族・川原道種の四男。海軍中将川原袈裟太郎の弟。1901年、東京帝国大学工科大学造船科を卒業。 三菱長崎造船所に入り、1905年、英国に出張し帰朝後同所設計課長、造船部助役を経て、三菱造船参事に進み、1929年、横浜高等工業学校教授に任ぜられ、日本鋼管顧問を兼ねた。 趣味は読書、散歩。宗教は真宗。1920年、分家。東京府在籍で、住所は東京市豊島区駒込1丁目。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
池尾 芳蔵(いけお よしぞう、1878年(明治11年)3月2… 池尾 芳蔵(いけお よしぞう、1878年(明治11年)3月27日 - 1959年(昭和34年)9月19日)は、日本の実業家。日本電力社長、日本発送電総裁を務め、戦前日本の電力界の大物として知られた。黒部鉄道社長、日本マグネシウム社長、飛騨索道運輸社長、日本電気協会会長、関西電力顧問なども務めた。 1878年、滋賀県草津町(現・草津市)の豪家の子に生まれ、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、常々吉野作造と首席を争い、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格し、大学卒業時には銀時計を受領した。卒業後逓信省通信局に入り、東京・大阪の郵便課長を経て、業務課長を最後に1907年(明治40年)に退官し、実業界に転じた。
岡田 忠彦(おかだ ただひこ、1878年〈明治11年〉3月2… 岡田 忠彦(おかだ ただひこ、1878年〈明治11年〉3月21日 - 1958年〈昭和33年〉10月30日)は、日本の内務官僚、政治家。埼玉県(官選第17代)、長野県(官選第14代)、熊本県知事(官選第16代)、内務省警保局長、衆議院議員(8期)、厚生大臣(第11代)、衆議院議長(第35代)。 岡山県、のちの岡山市小橋町(現中区小橋町)出身。岡田吟平、多嘉恵の長男として生まれた。岡山中学校、第一高等学校を経て、1903年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 官界に入り逓信省鉄道書記となる。1903年(明治36年)11月、第10回文官高等試験行政科合格。 内務省に移り1906年静岡県事務官、1915年東京府内務部長、1916年埼玉県知事、1921年長野県知事、1922年熊本県知事。
本多 真喜男(ほんだ まきお、1878年〈明治11年〉3月2… 本多 真喜男(ほんだ まきお、1878年〈明治11年〉3月20日 - 1951年〈昭和26年〉12月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 愛媛県宇和郡久枝村(東宇和郡上宇和村久枝、宇和町を経て現西予市)で素封家に生まれた。1905年、東京帝国大学独法科卒。同大学院に進み、商法を専攻する。農業を営み、愛媛県議、相続税調査委員、小作争議調停委員となる。東宇和農学校教授嘱託、伊予醸造試験所、愛媛木材各(株)社長、卯之町銀行、宇和商業銀行各頭取、愛媛県山林会副会頭、東宇和乾繭組合長などを務める。。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において愛媛3区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選する。
阿部 滂(あべ ひろし、1878年(明治11年)3月7日 -… 阿部 滂(あべ ひろし、1878年(明治11年)3月7日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 長野県出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。翌年に台湾総督府属となり、事務官、民政部税務課長、財務局長などを務めた。1926年(大正15年)まで在職。
田口 文太(たぐち ぶんた、1878年2月24日 - 197… 田口 文太(たぐち ぶんた、1878年2月24日 - 1972年9月3日)は、日本の薬剤師、陸軍軍人、教育者。階級は陸軍薬剤中将。 東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任した。 日本の陸軍で活躍した薬剤師である。陸軍衛生材料廠のトップを経て、陸軍薬剤総監に就任した。静岡女子薬学専門学校で校長を務めるなど、後進の育成にも尽力した。 1878年(明治11年)2月24日に生まれた。誠之小学校を経て、東京府尋常中学校で学んだ。第一高等学校を卒業し、さらに東京帝国大学に進学した。当時の東京帝国大学は分科大学制を採っており、東京帝国大学の下に設置された医科大学の薬学科にて学んだ。
佐々木 久二(ささき ひさじ、1878年(明治11年)2月1… 佐々木 久二(ささき ひさじ、1878年(明治11年)2月14日 - 1952年(昭和27年)5月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福井県丹生郡大森村(現福井市)で、佐々木又左衛門の二男として生まれる。1905年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 実業界では、東海紙料常務取締役、京浜電力常務取締役、福井興業社長、東北電力取締役、中央電力取締役などを務めた。 1924年5月、第15回衆議院議員総選挙に福井県第四区から出馬したが、憲政会の土生彰に敗れた。1928年2月、第16回総選挙では福井県全県区から立憲政友会所属で出馬し当選。請願委員、予算委員、資源調査法案委員を務め、衆議院議員に一期在任した
坂田 祐(さかた たすく、旧姓・中村、1878年2月12日 … 坂田 祐(さかた たすく、旧姓・中村、1878年2月12日 - 1969年12月16日)は、日本の陸軍軍人、教育者、関東学院院長。学校法人関東学院の基礎作りに貢献した。 旧会津藩士の父・中村富造、母ミエの二男として、秋田県鹿角郡大湯村(現・鹿角市十和田大湯)で生まれる。母方の祖父は白虎隊士中二番隊長の日向内記。両親は斗南藩領(現・青森県むつ市)に移ったものの困難な生活を余儀なくされ、廃藩後に大湯村に永住することとなった。一家の生活は苦しく、1892年(明治25年)毛馬内小学校高等科(現・鹿角市立十和田小学校)第3年で中退し、大湯村の不老倉銅山で働いた。しかし、勉学の志止みがたく、1896年(明治29年)故郷を出て東京に向かい、東京、横浜、浦賀などを転々としたが、最後は足尾銅山で1898年(明治31年)まで働いた。
中根 貞彦(なかね さだひこ、1878年(明治11年)2月4… 中根 貞彦(なかね さだひこ、1878年(明治11年)2月4日 - 1964年(昭和39年)1月24日)は、日本の実業家、政治家、歌人。三和銀行頭取、貴族院勅選議員。旧姓・片切、号・九峯。 大分県海部郡二王座村(のち北海部郡臼杵町を経て現臼杵市)に生まれた。大分士族・片切八三郎の三男。幼くして両親と死別し、佐伯の中根祚胤(百九銀行頭取)の養子となる。1901年(明治34年)第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業した。1905年(明治38年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 日本銀行に入行する。以後、同行ロンドン代理店監督役、同国庫局長、同大阪支店長、同理事などを歴任。1933年(昭和8年)に三十四銀行・山口銀行・鴻池銀行の3行が合併して三和銀行が創立され初代頭取に就任し、1945年(昭和20年)まで在任した。
吉野 作造(よしの さくぞう、1878年〈明治11年〉1月2… 吉野 作造(よしの さくぞう、1878年〈明治11年〉1月29日 - 1933年〈昭和8年〉3月18日)は、大正時代を中心に活躍した日本の政治学者、思想家。「民本主義」という訳語の提唱者。袁世凱の長男である袁克定の家庭教師。「黎明会」の設立発起人。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。初名は「作蔵」で、大正6年(1917年)5月「作造」と改名した。号は「古川学人」。弟は商工官僚・政治家の吉野信次。 明治11年(1878年)、宮城県志田郡大柿村96番地(現・大崎市古川十日町)に木綿織物の原料を扱う糸綿商吉野屋を営む父・年蔵、母・こうの長男として生まれた。当時の吉野屋には、祖母、両親、5歳と3歳になる二人の姉、そして父の姉夫婦が同居していた。
杉山 直治郎(すぎやま なおじろう、1878年(明治11年)… 杉山 直治郎(すぎやま なおじろう、1878年(明治11年)1月29日 - 1966年(昭和41年)2月15日)は、日本の法学者。専門は比較法学、フランス法。東京帝国大学法学部教授、日本学士院会員などを歴任した。 1878年(明治11年)、東京府平民杉山勘蔵・かねの長男として、東京市下谷区にて生まれる。私立小学校、中学校を経て、1899年(明治32年)に第一高等学校を卒業。同年、東京帝国大学法科大学仏法科に入学し、1903年(明治36年)に卒業、法学士の称号を得る。同年、同大学院に進み、翌年には学習院教授として民法、ローマ法を講じる傍ら、法政大学、早稲田大学、明治大学、日本大学で講師として教壇に立つ。
野間 真綱(のま まさつな、1878年〈明治11年〉1月25… 野間 真綱(のま まさつな、1878年〈明治11年〉1月25日 - 1945年〈昭和20年〉9月3日)は、日本の英語教師。陸軍士官学校英語教官、明治学院講師。夏目漱石の弟子として知られ、漱石の日記や随筆等に度々登場する。 1897年(明治30年)鹿児島県尋常中学造士館卒業後、第五高等学校文科一に進学した。1900年(明治33年)、東京帝国大学英文学科に入学した。小泉八雲や夏目漱石の教えを受ける。同級生に皆川正禧がいて親友となる。卒業後、1904年(明治37年)2月から東京日比谷中学校講師、陸軍士官学校英語教官、明治学院講師を経た後、漱石の斡旋で、1908年(明治41年)6月、郷里鹿児島の第七高等学校造士館教授に就任した。
厨川 千江(くりやがわ せんこう、1878年 - 1928年… 厨川 千江(くりやがわ せんこう、1878年 - 1928年)は、日本の俳人、教育者。本名、厨川肇。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)校長、山口県立山口図書館初代館長を歴任。 島根県浜田市出身。旧制島根県立第二中学校(現在の島根県立浜田高等学校)に在学中の頃から俳句を習う。熊本県の旧制第五高等学校(現在の熊本大学教養部)在学時代は、当時、旧制五高で教鞭を執っていた夏目漱石を主宰とした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)を寺田寅彦、蒲生紫川らとおこし、夏目漱石から俳句を学ぶ。五高時代、千江が髪を切って夏目漱石の自宅を訪れた事があったが、散髪後のさっぱりとした頭を見た漱石が「秋風や今そりたての頭より」という句を即興で詠み、とても感動したというエピソードがある。
守屋 源次郎(もりや げんじろう、1877年(明治10年)1… 守屋 源次郎(もりや げんじろう、1877年(明治10年)12月27日 - 1939年(昭和14年)10月30日)は、日本の官僚、教育者。政友会系官選茨城県知事(25代)。 京都府で守屋萬次郎とスマの長男として生まれる。第二高等学校を経て、1902年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵省に入省し専売局属兼大蔵属となる。1903年10月20日、文部省外国留学生として欧州へ出発し経済学を3年間学んだ。1906年12月12日に帰国。長崎高等商業学校教授に転じた。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年10月20日、外務省に移り参事官に就任し、政務局第三課兼第一課勤務となる。 1913年3月8日、鉄道院に転じ総裁秘書兼同院参事に就任。
立川 連(たちかわ むらじ、1877年(明治10年)12月1… 立川 連(たちかわ むらじ、1877年(明治10年)12月18日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 茨城県久慈郡太田町(現常陸太田市)で、立川義之の長男として生まれる。1904年(明治37年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。阿緱庁長、台湾総督府事務官、殖産局移民課勤務、同農政課勤務を経て、台中州知事となった。
石坂 音四郎(いしざか おとしろう、1877年(明治10年)… 石坂 音四郎(いしざか おとしろう、1877年(明治10年)12月9日 - 1917年(大正6年)4月21日)は、日本の法学者。専門は民法。京都帝国大学法科大学教授、東京帝国大学法科大学教授を歴任。土方寧に師事。 熊本県上益城郡上島村(現:嘉島町)出身。第一高等学校在学時には同期の松平恆雄(外交官、宮相)や長島隆二(衆議院議員)と親友になり、一軒家を借りて共同生活をしていたことがある。その後、東京帝国大学に進学して、1902年(明治35年)に法科大学独法科を首席で卒業。 同年京都帝国大学講師、1903年(明治36年)助教授となり、3年間民法研究のためドイツ・フランスへ留学。帰国後の1907年(明治40年)に教授となり、臨時台湾旧慣調査委員にも就任。
森田 小六郎(もりた ころくろう、1877年(明治10年)1… 森田 小六郎(もりた ころくろう、1877年(明治10年)12月8日 - 1956年(昭和31年)10月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→中正会→憲政会)。ジャーナリスト。 愛知県愛知郡下之一色村(現在の名古屋市中川区)出身。愛知県立中学校在学中に同盟休校の首謀者として退校処分を受けて上京し、1896年(明治29年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学した。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学選科に移り、高等学校入学卒業資格試験に合格し、本科に編入された。1903年(明治36年)に卒業した後は、東京市役所に入った。 1906年(明治39年)、アメリカ合衆国に渡り、オグデン市の日本雑貨店支配人を経て、サクラメント市で邦字日刊紙『桜府日報』を創刊した。
辻本 満丸(つじもと みつまる、1877年(明治10年)12… 辻本 満丸(つじもと みつまる、1877年(明治10年)12月4日 - 1940年(昭和15年)4月24日)は、日本の応用化学者。スクアレンを発見した事で知られている。 翻訳者の辻本一貫の子として東京に生まれる。第一高等学校卒業後、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し応用化学を学んだ。卒業後の1901年に農商務省附属の東京工業試験所に入り、主に生物に含まれる油脂成分専門の研究助手となる。1915年(大正4年)工学博士。後に技師に就任し1915年(大正4年)から1930年(昭和5年)の退官まで、同試験所の第二部長となり、多くの生物における油脂化学研究や調査を行った。 特にフジクジラ、カラスザメ、カスミザメ等サメを中心に油脂成分の研究に没頭し、クロコザメの肝油から初めて不飽和度の高い炭化水素スクアレンC30H50 を発見、命名したが、これは動物界における炭化水素の最初の発見である。
八並 武治(やつなみ たけじ、1877年(明治10年)12月… 八並 武治(やつなみ たけじ、1877年(明治10年)12月4日 - 1947年(昭和22年)7月10日)は、明治末から昭和前期の政治家、弁護士。憲政会、立憲民政党、日本進歩党に所属。衆議院議員を通算7期務めた。 大分県下毛郡、のちの鶴居村(現中津市)で、八並甚六の四男として生まれた。第二高等学校から東京帝国大学法科大学(独法)に進み、1909年(明治42年)に卒業。卒業後は八王子に弁護士事務所を開業し、1915年(大正4年)から翌年まで箕浦勝人逓信大臣の秘書官を務め、憲政会に入党した。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙で当選。以後、7回の当選回数を数えた。その間、加藤高明内閣・第1次若槻内閣で司法参与官、第2次若槻内閣・齋藤内閣で司法政務次官を歴任した。
葉山 万次郎(はやま まんじろう、1877年(明治10年)1… 葉山 万次郎(はやま まんじろう、1877年(明治10年)12月3日 - 1960年(昭和35年)10月7日)は、日本の教育者。 長崎県北松浦郡平戸町(現在の平戸市)出身。私立尋常中学猶興館中退、私立日本中学校、旧制一高を経て1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学独逸文学科を卒業。1909年(明治42年)、第一高等学校教授に就任した。1922年(大正11年)、文部省督学官に転じ、翌年から学校制度研究のためドイツ・イギリス・アメリカ合衆国に出張した。帰国後、山形高等学校校長となり、1930年(昭和5年)に第七高等学校造士館館長に転じた。1933年(昭和8年)に大阪外国語学校校長に就任し、1940年(昭和15年)に退官した。
鈴木 英雄(すずき ひでお、1877年〈明治10年〉11月3… 鈴木 英雄(すずき ひでお、1877年〈明治10年〉11月30日 - 1962年〈昭和37年〉3月8日)は、農商務官僚、衆議院議員、小田原市長。 神奈川県足柄下郡小田原町(現在の小田原市)出身。鈴木善左衛門の長男。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。農商務属、同書記官・参事官、水産局漁政課長、大臣官房課長、特許局長を歴任した。 官を辞し、漁業を営み傍ら会社の重役である。日本漁網船具社長、小田原魚市場社長などを務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。立憲政友会に所属。合計で4回の当選を重ねた。1944年(昭和19年)には小田原市長に選出された。
佐藤 勧(さとう すすむ、1877年(明治10年)11月29… 佐藤 勧(さとう すすむ、1877年(明治10年)11月29日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚、台湾総督府官僚。 東京府出身。1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。高等文官試験に合格し、奈良県事務官、和歌山県警察部長、千葉県警察部長、福岡県警察部長、佐賀県内務部長、千葉県内務部長、熊本県内務部長を歴任。その後、台湾総督府事務官に転じ、新竹州知事に就任した。 1950年の時点で故人であったとされる。
宇都野 研(うつの けん/きわむ、1877年(明治10年)1… 宇都野 研(うつの けん/きわむ、1877年(明治10年)11月14日 - 1938年(昭和13年)4月3日)は、日本の小児科医、歌人である。 愛知県額田郡本宿村に医家の子として生まれる。後に上京し東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、1912年(明治45年)には文京本郷にて小児科病院を開設して、乳幼児の診療にあたった。後に竹柏会に参加し、佐佐木信綱や窪田空穂、若山牧水に師事し和歌を学び、鋭い現実との結んだ作風を取り入れた。没後は多磨霊園に葬られた。門人に杉田つるらがいる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。