石橋 五郎(いしばし ごろう、1876年1月5日 - 194… 石橋 五郎(いしばし ごろう、1876年1月5日 - 1946年4月19日)は、日本の地理学者。京都帝国大学名誉教授。 千葉県出身。千葉県立尋常中学校、第一高等学校卒、1901年東京帝国大学文科大学史学科卒、大学院を経て、1904年神戸高等商業学校教授、1907年京都帝国大学文学部史学地理学助教授兼任、1910-12年英国、ドイツに学ぶ。1919年京大教授。1927年から『日本地理風俗大系』などを編纂。1938年退官。 小川琢治らと京都地理学派の基礎を築いた。門下に小牧実繁などがいる。石橋雅義の岳父。
池田 稔(いけだ みのる、1876年(明治9年)1月4日 -… 池田 稔(いけだ みのる、1876年(明治9年)1月4日 - 没年不明)は、日本の建築家。正七位勲六等。工学士。 松本藩士、池田義重の長男として生まれる。1902年(明治35年)、東京帝国大学工科大学(現東京大学工学部)建築学科卒業。同年東宮御所御造営厨設計課勤務を嘱託される。1905年(明治38年)には日露戦争に陸軍歩兵少尉として出征するが、同年再び勤務し、1906年(明治39年)農商務省に入省、技師となる。1909年(明治42年)アメリカ合衆国差遣。 1911年(明治44年)10月、一般の新聞ならびに建築雑誌などにおいて懸賞募集が広告された三菱本館のコンペティションに応募し、2等に選出される。
小林 嘉平治(こばやし かへいじ、1876年(明治9年)1月… 小林 嘉平治(こばやし かへいじ、1876年(明治9年)1月1日 - 1940年(昭和15年)12月28日)は、明治時代末期から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(2期)。旧姓は山川、旧名・真純。 三重県安濃郡津城下(現津市)で、山川真源の二男として生まれる。1902年(明治35年)8月、一志郡雲出村(現:津市)の先代・小林嘉平治の養子となり、1908年(明治41年)1月、家督を相続し嘉平治を襲名した。 1901年(明治34年)東京帝国大学文科大学哲学科を卒業する。真宗勧学院教授を経て、1911年(明治44年)三重県会議員に当選する。ほか、三重県農会特別議員、同評議員、津商業会議所顧問、県農会長などを歴任した。
飯田 吉英(いいだ よしふさ、1876年(明治9年) - 1… 飯田 吉英(いいだ よしふさ、1876年(明治9年) - 1975年(昭和50年))は、日本の畜産学者。養豚と食肉加工の分野で、大きな業績を残した。 1876年(明治9年)12月、茨城県新治郡戸崎村(現在のかすみがうら市戸崎)に、庄屋を務めた豪農・飯田松三郎の長男として生まれた。子供の頃から成績優秀で、特に英語の成績が良かった吉英は、茨城第一中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を卒業後の1896年(明治29年)、 一年志願兵として野戦砲兵第一連隊に入営。1年の勤務を終えると研究を志し、東京帝国大学農科大学に入学、農学を専門的に学んだ。同帝国大学農学実科を卒業後、神奈川県農会を経て、農商務省(現在の農林水産省)技師。
山内 正瞭(やまのうち まさあき、1876年 - 1949年… 山内 正瞭(やまのうち まさあき、1876年 - 1949年)は、日本の政治学者。第4代長崎高等商業学校校長。 愛媛県出身。旧制松山中学(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1902年東京帝国大学法科大学政治科卒業、同大学院進学。1913年から長崎高等商業学校校長を務め、退任後、東京商科大学教授を務めた。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
加福豊次(かふくとよじ、1876年-1921年10月23日)… 加福豊次(かふくとよじ、1876年-1921年10月23日)は日本統治下の台湾における官僚。台北庁長、台中庁長、台中州知事などを務めた。 原籍は長崎県。東京府北豊島郡滝野川村に生まれ、1891年(明治24年)第一高等学校 (旧制)に入学、1896年(明治29年)陸軍士官学校に入学。1899年東京帝国大学法科大学仏法科卒業後、日露戦争勃発により招集されて主計少尉となり、第1軍付きの国際法顧問として出征。 1905年に台湾地方院検査官となり、1909年より台湾総督府警務課長、保安課長などをへて1914年に台北庁長就任。1917年、総督府事務官に転任、1918年、台北局林務課長に任命され、1919年に台中庁長、翌年地方制度改革に伴い台中州知事に就任したが、 1921年(大正10年)2月、台中疑獄事件により解任され、台湾証券公取の設立準備を進める中、脳出血に腎臓病を合併し46歳で死去した。
森 清(もり きよし、1875年(明治8年)12月30日 -… 森 清(もり きよし、1875年(明治8年)12月30日 - 1928年(昭和13年)1月3日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 在清国全権公使・森有礼の長男として生まれる。父の影響で「英気溌溂」なことも時代を送るが、父の死去に伴い1889年(明治22年)4月4日、子爵を襲爵。 学習院を経て、1901年(明治34年)7月、東京帝国大学文科大学英文学科を優等で卒業し、恩賜の銀時計を授けられた。 1908年(明治41年)3月7日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで在任した。
飛岡 卯一郎(とびおか ういちろう、1875年(明治8年)1… 飛岡 卯一郎(とびおか ういちろう、1875年(明治8年)12月13日 - 1925年(大正14年)6月25日)は、日本の政治家。帝国議会衆議院議員(1期)、鹿児島市会議員、鹿児島県会議員。 鹿児島県鹿児島市金生町出身。飛岡卯右衛門の長男として生まれる。1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1896年(明治29年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1904年(明治37年)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。鹿児島市会議員、鹿児島県会議員を歴任し、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙において鹿児島市選挙区で当選、立憲政友会所属で1期務めた。そのほか、鹿児島商業会議所議員、同副会頭、第百四十七銀行(鹿児島銀行の前身のひとつ)常務取締役なども歴任。
朽木 綱貞(くつき つなさだ、1875年(明治8年)12月2… 朽木 綱貞(くつき つなさだ、1875年(明治8年)12月2日 - 1929年(昭和4年)9月6日)は、明治から大正時代の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。貴族院議員、子爵、工学博士。福知山藩13代(最後)の藩主朽木為綱の子。妻は徳川篤守の娘芳子。陸軍の火薬研究の権威であった。 1883年(明治16年)に父の為綱が没したため家督を継ぎ、1884年(明治17年)7月8日、子爵を襲爵する。慶應義塾幼稚舎を経て、1896年(明治29年)5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業。1897年(明治30年)1月、砲兵少尉任官。陸軍砲工学校高等科で学び、さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用化学科を1904年(明治37年)6月に卒業。
西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 … 西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 - 1950年(昭和25年)8月3日)は、日本の大蔵官僚、政治家、銀行家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官。大蔵省の至宝といわれた人物で、八八艦隊計画成立後に、海軍首脳に対しその実施不可能であることを踏まえワシントン会議に臨むよう訴えた。 茨城県出身。西野元聿の長男として生まれる。水戸中学校、第一高等学校を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。同年11月、文官高等試験行政科試験に首席合格。同年12月、臨時秩禄処分調査局属兼大蔵属に任官。一時期、上京してきた同郷の荒川敬を寄寓させていた。
石田 昇(いしだ のぼる、1875年(明治8年)11月25日… 石田 昇(いしだ のぼる、1875年(明治8年)11月25日 - 1940年(昭和15年)5月31日)は、日本の医学者、精神科医。呉秀三門下生のひとり。 代々仙台藩の藩医を務めた家に生まれる。第二高等中学校在学中から短歌や小説に熱中。第五高等学校 (旧制)を経て、1899年に東京帝国大学医科大学に入学、1903年に卒業後、巣鴨病院(後の松沢病院)内にあった東京帝国大学精神病学教室の助手となり、29歳で『新撰精神病学』を執筆。これが呉秀三に認められ、1907年(明治40年)に31歳で長崎医学専門学校(後の長崎大学医学部)精神病学科の初代教授に就任。教授在任中には『新撰催眠療法』『健全なる精神』を執筆するなど、日本の精神医学の草創期に第一人者として活躍した。
宇野 哲人(うの てつと、明治8年(1875年)11月15日… 宇野 哲人(うの てつと、明治8年(1875年)11月15日 - 昭和49年(1974年)2月19日)は、日本の儒学者。近代的な中国哲学研究の開拓者の一人。東京大学名誉教授。 1875年、熊本県熊本市出身。熊本藩士・宇野丈九郎の四男。済々黌、東京帝国大学漢学科卒業。卒業時には成績優秀者として恩賜の銀時計を明治天皇から賜る。 1907年(明治40年)前後、東京帝大助教授として、清朝末期の中国大陸に留学。同世代の東洋史学者桑原隲蔵と共に旅行している。次いで帝政期のドイツ留学、知見を得た西洋哲学の手法で中国哲学を読み解き講義著述した。東京帝国大学文学部支那哲学講座教授を務めた。この頃、渋沢栄一に頼まれて孫の渋沢敬三の家庭教師として月に1回『論語』の講義をした。
北 豊吉(きた とよきち、1875年(明治8年)10月30日… 北 豊吉(きた とよきち、1875年(明治8年)10月30日 - 1940年(昭和15年)8月31日)は、日本の衛生学者。医学博士。 石川県石川郡旭村(現在の白山市)出身。1897年(明治30年)、第四高等学校医学部を卒業し、一年志願兵として入隊。1898年(明治31年)、東京帝国大学医科大学衛生学選科に入学した。1900年(明治33年)、陸軍三等軍医となり、翌年に東京帝国大学医科大学助手となった。1902年(明治35年)、ドイツに留学し、ライプツィヒ大学で衛生学・細菌学を学んだ。1904年(明治37年)に帰国後、日露戦争に召集され、陸軍二等軍医に昇進した。1906年(明治39年)、大阪市技師となり衛生試験所長に就任した。
肥後 八次(ひご はちじ、1875年10月24日 - 195… 肥後 八次(ひご はちじ、1875年10月24日 - 1955年6月5日)は、日本の逓信官僚、実業家。逓信省初代電気課長、初代電気局監理課長、第3代電気局長を歴任して電気行政に貢献し、退官後は住友合資(住友本社)理事や住友の関連会社の各役員を務めた。 鹿児島県鹿児島市下竜尾町生まれ。鹿児島県士族肥後宗右衛門の二男。1895年7月、鹿児島高等中学造士館予科を卒業。1897年7月、第五高等学校大学予科第一部を卒業。1900年7月、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、内務省入省。同年の文官高等試験に合格。1902年3月、静岡県参事官に任じられる。1903年2月、分家。1903年11月、逓信省参事官兼逓信書記官に転じる。
千秋 季隆(せんしゅう すえたか、1875年(明治8年)10… 千秋 季隆(せんしゅう すえたか、1875年(明治8年)10月10日 - 1941年(昭和16年)5月12日)は、日本の政治家・教育者。位階は従四位。爵位は男爵。貴族院男爵議員。 愛知県愛知郡熱田(現名古屋市熱田区)で熱田神宮大宮司・千秋季福の二男として生まれる。兄・季美の死去に伴い、1877年(明治10年)5月30日に家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した。 1900年(明治33年)東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。國學院講師、早稲田大学講師を経て、学習院教授となる。 その他、東京帝国大学附属図書館図書目録編纂嘱託、宗教制度調査会委員、神社制度調査会委員、神祇院参与、皇典講究所理事などを務めた。
根井 久吾(ねい きゅうご、1875年〈明治8年〉10月10… 根井 久吾(ねい きゅうご、1875年〈明治8年〉10月10日 - 1941年〈昭和16年〉6月5日)は、大正から昭和時代前期の政治家、教育者。宮崎県宮崎市長。 宮崎県宮崎郡清武村(現在の宮崎市)出身。伊東享の三男として生まれ、根井見益の養子となった。1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。陸軍少尉、陸軍中尉に任じ、日露戦争に出征した。高知県立第四中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に勤務し、宮崎県立宮崎中学校(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)教諭、宮崎県立延岡中学校(現・宮崎県立延岡高等学校)校長兼教諭を経て、愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)校長となる。
伊藤 長右衛門(いとう ちょうえもん、1875年〈明治8年〉… 伊藤 長右衛門(いとう ちょうえもん、1875年〈明治8年〉9月13日 - 1939年〈昭和14年〉8月30日)は、日本の土木技術者。「港湾工学の父」と呼ばれる広井勇の小樽港建設における後継者であり、小樽港をはじめとする北海道の港湾建設に生涯を捧げた。「小樽港の生みの親」といわれる広井と共に「小樽港の育ての親」ともいわれる。出生名は伊藤 長市(いとう ちょういち)。福井県大野郡富田村(後の大野市)出身。 江戸時代は庄屋、明治時代には戸長や村長として地域のために尽くした伊藤家の長男として誕生。少年時代は勉強に励み、学業では地元で右に出る者なしとまでいわれた。 一家の長男が家を継ぐのが当然の時代ではあったが、近代化の進む当時の日本にあって、父は旧来の慣習には囚われず、長男である伊藤に、自分の好きな道へ進むよう告げていた。
永田 亀作(ながた かめさく、1875年(明治9年)9月6日… 永田 亀作(ながた かめさく、1875年(明治9年)9月6日 – 没年不詳)は、日本の内務官僚。神戸市助役。 静岡県榛原郡菅山村(現在の牧之原市)出身。第一高等学校を経て、1902年(明治35年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、大学院に進んだ。翌年11月、文官高等試験行政科試験に合格。千葉県立千葉中学校教諭、青森県視学官、同事務官、同警察部長、福岡県事務官、沖縄県事務官、同内務部長、岩手県内務部長を歴任し、1919年(大正8年)に休職となった。 その後、1921年(大正10年)から神戸市助役を務めた。
阿部 亀彦(あべ かめひこ、1875年(明治8年)9月1日 … 阿部 亀彦(あべ かめひこ、1875年(明治8年)9月1日 - 1928年(昭和3年)7月26日)は、日本の内務官僚。官選県知事。板垣伯銅像記念碑建設同志会会長。 大分県出身。藩士・阿部寛平の四男として生まれ、伯父・阿部富太郎の養子となる。第五高等学校を卒業。1904年、東京帝国大学法科大学を卒業。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、宮崎県事務官、栃木県事務官・第二部長、福島県事務官・警察部長、埼玉県内務部長、宮城県内務部長、兵庫県内務部長などを歴任。 大正8年(1919年)4月、高知県知事に就任。1922年10月、広島県知事に転任。1923年10月、知事を辞任し退官した。
森 賢吾(もり けんご、1875年(明治8年)9月1日 - … 森 賢吾(もり けんご、1875年(明治8年)9月1日 - 1934年(昭和9年)1月19日)は、日本の大蔵官僚、貴族院勅選議員。 佐賀県出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学卒業。同年7月に大蔵省に入り、11月に文科高等試験に合格した。司税官・大蔵書記官・大臣秘書官・参事官・馬政局書記官・専売局主事・日本銀行監理官などを歴任した。その後、財務官となりイギリス・フランス駐在を命じられた。 1919年(大正8年)、パリ講和会議全権委員に任命され、翌年には国際経済会議委員や第一次世界大戦の賠償に関するジュネーヴ会議政府代表に任命された。1922年(大正11年)、ジュネーヴ経済財政会議全権委員。
北畠 安五郎(きたばたけ やすごろう、 1875年〈明治8年… 北畠 安五郎(きたばたけ やすごろう、 1875年〈明治8年〉9月 - 1933年〈昭和8年〉)は、明治から昭和期の実業家、日本エナメル株式会社(現・タカラスタンダード)創業者。旧姓、河合。兄は、佐藤達次郎(初代東京医学専門学校長・第3代順天堂医院長・初代順天堂医科大学長)。 1875年(明治8年)9月、河合貞輔の三男として、東京府で生まれる。後に北畠市郎右衞門の養子となる。 その後、立教専修学校(現・立教大学)で修学。1906年(明治39年)、東京帝国大学医科大学薬学科を卒業。 卒業した後、ドイツに留学し、そこでホーローに出会う。 日本に帰国後、西欧の製品に劣らないホーロー製品をつくろうと、1912年(明治45年)5月、日本エナメル株式会社(現・タカラスタンダード)を設立。
鈴木 重禮(すずき しげひろ、1875年(明治8年)9月 -… 鈴木 重禮(すずき しげひろ、1875年(明治8年)9月 - 1913年(大正2年)3月1日)は、日本の農芸化学者。学位は農学博士(東京帝国大学) 旧水戸藩士・鈴木重任の長男に生まれる。1893年(明治26年)茨城県尋常中学校を、1897年(明治30年)第一高等学校を卒業し、1900年(明治33年)に東京帝国大学農科大学農芸化学科を首席で卒業、優等生として銀時計を下賜された。東京帝国大学大学院に進学し、農芸化学一般特に土壌に関する事項を研究する。 1903年(明治36年)東京帝国大学農科大学助教授と農商務省農事試験場の技師を兼任し、朝鮮半島の土壌調査を行った。1907年(明治40年)東京帝国大学より農学博士を授与された。
深沢 新一郎(ふかざわ しんいちろう、1875年(明治8年)… 深沢 新一郎(ふかざわ しんいちろう、1875年(明治8年)9月 - 1934年(昭和9年)9月1日)は、日本の検事。裁判官。 長崎県出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。横浜区裁判所検事、横浜地方裁判所検事、統監府判事、同検事、京城地方裁判所判事、同控訴院検事、京城覆審法院検事、釜山地方法院検事正、高等法院検事、法務局刑務課長、京城地方法院検事正を歴任。1925年(大正14年)、大邱覆審法院長となり、法務局長を経て、1932年(昭和7年)から高等法院長を務めた。
青木 周三(あおき しゅうぞう、1875年(明治8年)8月2… 青木 周三(あおき しゅうぞう、1875年(明治8年)8月26日 - 1946年(昭和21年)12月1日)は、日本の鉄道官僚、貴族院勅選議員、横浜市長。 山口県大島郡久賀町(現在の周防大島町)出身。青木周哲の三男として生まれ、青木五百輔の養子となる。盛岡中学を経て、1898年(明治31年)第二高等学校卒業。1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業後、鉄道書記となり、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格した。その後、鉄道事務官、鉄道庁参事、鉄道院参事、鉄道院理事を歴任した。 1919年(大正8年)筑豊鉄道専務取締役。1921年(大正10年)横浜市電気局長に就任し、1923年(大正12年)には助役として関東大震災の対応に尽力した。
丸尾 晋(まるお すすむ、1875年《明治8年》8月12日 … 丸尾 晋(まるお すすむ、1875年《明治8年》8月12日 - 1921年《大正10年》9月8日)は、日本の医学者(眼科学)、医師。 東京帝国大学医科大学での勤務を経て、日本医学校講師、東京女医学校教授、復明館眼科医院院長、静岡県医師会会長などを歴任した。 浜松県出身の医学者、および、眼科医である。「日本の近代眼科の父」と称される河本重次郎の薫陶を受け、東京帝国大学の医科大学を経て日本医学校や東京女医学校で教鞭を執った。のちに復明館眼科医院の院長に就任し、静岡県を中心に分院や出張所を幅広く展開した。 1875年(明治8年)8月12日、浜松県城東郡池新田村にて生まれた。丸尾家は医業を家業としており、祖父である丸尾良益は腕のいい眼科医として知られていた。
檀野 礼助(檀野 禮助、だんの れいすけ、1875年(明治8… 檀野 礼助(檀野 禮助、だんの れいすけ、1875年(明治8年)8月9日 - 1940年(昭和15年)3月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・繁夫。 長崎県彼杵郡矢上村(現長崎市)の旧佐賀藩郷士・檀野勝次、とう夫妻の長男として、高来郡諫早村の母の実家で生まれる。現川小学校、長崎県尋常中学校、第五高等中学校を経て、1899年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業した。 大学卒業後、三井物産に入社し、シンガポール出張所長、バンコック出張所長、台北出張所長、若松出張所長を歴任。1913年2月、北海道炭礦汽船に転じ、商務課長、売炭部長を務めた。その後、南洋貿易 (株) を設立して社長に、また、東京海運 (株) を設立して常務取締役にそれぞれ就任。
米田 奈良吉(よねだ ならきち、1875年(明治8年)8月5… 米田 奈良吉(よねだ ならきち、1875年(明治8年)8月5日 – 1938年(昭和13年)12月16日)は、逓信官僚。 奈良県出身。1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学を卒業後、同大学院で学び、1902年高等文官試験に合格した。逓信省通信書記、通信事務官、一等郵便局長、長野郵便局長、逓信管理局事務官、関東都督府事務官、逓信省参事官、九州逓信局長などを歴任した。1924年(大正13年)、逓信次官に就任した。 退官後、第15回衆議院議員総選挙に出馬したが、当選を果たせなかった。 その後、逓信協会会長を務めた。
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31… 柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の官僚、民俗学者。 東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を卒業して農商務省(現在の経済産業省・農林水産省)官僚となり、貴族院書記官長(現在の衆議院事務総長/参議院事務総長に相当)まで昇り詰めた。退官して約20年を経た1946年(昭和21年)に枢密顧問官に補され、枢密院が廃止されるまで在任した。 日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。出版物等においては、常用漢字体による「柳田 国男」という表記も使用される。 「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。
箭内 亙(やない わたり、1875年〈明治8年〉7月17日 … 箭内 亙(やない わたり、1875年〈明治8年〉7月17日 - 1926年〈大正15年〉2月10日)は、日本の東洋史家、東京帝国大学教授。号は尚軒。モンゴル史研究に業績を残した。次男は歴史学者の箭内健次。 福島県西白河郡泉崎村出身。1889年(明治22年)福島県立安積中学校に入学、1894年(明治27年)3月卒業の後、仙台市の第二高等学校を経て、東京帝国大学文科卒。1907年に第一高等学校講師となる。1908年満州朝鮮歴史地理調査部部員となり、白鳥庫吉の指導で調査にあたる。1910年(明治43年)に教授となる。1919年(大正8年)東京帝大東洋史学科助教授、ついで1925年から教授を務めた。 1926年2月10日、胃潰瘍のため死去する。
鹿島 精一(かじま せいいち、1875年(明治8年)7月1日… 鹿島 精一(かじま せいいち、1875年(明治8年)7月1日 - 1947年(昭和22年)2月6日)は、大正から昭和時代前期の土木工学者、実業家、政治家。鹿島組社長、土木学会会長、貴族院勅選議員。 旧盛岡藩士葛西晴寧、すえの長男として岩手県岩手郡上田村(現在の盛岡市上田)に生まれる。翌年父晴寧が死去し、家族は仁王村字下台(現在の盛岡市梨木町)母の実家出渕家に引き取られる。盛岡中学を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、逓信省鉄道作業局に出仕する。同年、鹿島組組長の鹿島岩蔵の長女と結婚し、養嗣子となり、鹿島組副組長に就任する。1912年(明治45年)養父の岩蔵の死去により、37歳にして3代目鹿島組組長となり、1930年(昭和5年)鹿島組を株式会社に改組し、初代社長に就任した。
末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 … 末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 - 1947年6月26日)は、日本の内務官僚、政治家、教育者。官選県知事、衆議院議員、別府市長。 小倉藩医・末松玄洞の三男として生まれる。1898年、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1902年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1901年11月、文官高等試験に合格。内務属となり内務省地方局勤務となる。 1903年12月、静岡県参事官に就任し、同県事務官・第二部長、福岡県事務官・第三部長、同第二部長、内務書記官、清国政府聘用(自治局顧問)、山梨県事務官・警察部長、法制局参事官などを歴任。 1915年3月、徳島県知事に就任。
日高 胖(ひだか ゆたか、1875年6月15日 - 1952… 日高 胖(ひだか ゆたか、1875年6月15日 - 1952年12月20日)は、日本の建築家。 旧住友財閥において多くの建築物の設計を手がけた。アール・ヌーヴォー様式の神本理髪店の設計や、住友ビルディングの建設の総指揮をとったことなどで知られる。
織田 秀実(おだ ひでざね、1875年(明治8年)6月11日… 織田 秀実(おだ ひでざね、1875年(明治8年)6月11日 - 1907年(明治40年)4月1日)は、明治時代の華族。尚長流織田家14代当主。 大和柳本藩13代藩主織田信及の次男。夫人は久邇宮朝彦親王の九女純子。子は織田信一(長男)、織田長利(次男)ら4男1女。官位は従四位。爵位は子爵。 1889年(明治22年)10月11日、家督を相続して子爵に叙される。1899年(明治32年)7月、学習院高等学科を卒業する。1901年(明治34年)11月、久邇宮朝彦親王の九女純子と結婚する。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業する。1907年(明治40年)4月1日死去、享年33。 秀実の死後、信一が継ぐも夭折したため、弟の長利は1904年生で子爵を継承し、1909年に相続、長男に長功(1930年生)を儲けたのち1961年に死去、しかし長功の一人娘の彰子(1966年生)は2008年に死去し長功自身も2016年に死去したため、男系および尚長流織田家は断絶した。
小松原 隆二(こまつばら たかじ、1875年(明治8年)6月… 小松原 隆二(こまつばら たかじ、1875年(明治8年)6月2日 - 1944年(昭和19年)12月17日)は、日本の教育者、文部官僚。 岡山県出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。1902年(明治35年)、第七高等学校造士館教授に就任し、1908年(明治41年)に第八高等学校教授に転じた。1922年(大正11年)、文部省督学官となり、翌年には姫路高等学校校長に就任した。その後、第八高等学校校長となり、1940年(昭和15年)1月に退官した。退官後は第八高等学校名誉教授の称号を受けた。 また同年3月から翌年にかけて、富山高等学校校長事務取扱を務めた。
入沢 重麿(いりさわ しげまろ、1875年(明治8年)6月 … 入沢 重麿(いりさわ しげまろ、1875年(明治8年)6月 - 没年不詳)は、関東州官僚・朝鮮総督府官僚。青島民政署長。 旧徳山藩藩士入沢義温の長男。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、台湾総督府属となった。1903年(明治36年)高等文官試験に合格し、1905年(明治38年)に関東州民政署事務官となった。旅順民政署長事務取扱、関東都督府参事官・事務官、同秘書官を歴任。1912年(大正元年)、朝鮮総督府書記官に転じ、京畿道第一部長などを務めた。さらに青島守備軍に転じ、民政部総務部長、青島民政署長を務めた。 退官後は、朝鮮鉄道株式会社副社長に就任した。
下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日… 下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日 - 1957年〈昭和32年〉12月9日)は、明治・大正・昭和の法学博士、逓信官僚・台湾総督府官僚、実業家、朝日新聞社副社長、貴族院議員。拓殖大学第6代学長、NHK会長。歌人で号は海南(かいなん)。下村房次郎の子。 玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力した。「人種改良を国策に」と優生思想を強く推したことでも知られている。 和歌山県出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に逓信省に入り、退官後は実業家として活動する傍ら東京商業学校の創設に関わった。 和歌山中学、第一高等学校から東京帝国大学を卒業し、1898年(明治31年)に逓信省へ入省。
広部 周助(廣部 周助、ひろべ しゅうすけ、1875年(明治… 広部 周助(廣部 周助、ひろべ しゅうすけ、1875年(明治8年)5月11日 - 1907年(明治40年)8月1日)は、日本の経済学者。京都帝国大学法科大学助教授。 千葉県君津郡富岡村上根岸の人。千葉中学、第一高等学校を経て、1900年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。農商務省に入り、工場法案の調査を嘱託される。かたわら専修学校などの講師をしていたが、1902年、京都帝国大学法科大学助教授となる。1905年、政治経済学研究のため独・米・英の三国に留学を命ぜられる。ミュンヘン大学に入る。統計調査に従事する。 1907年8月1日、病を得てミュンヘンで亡くなる。葬儀が9月17日洛東智積院で行われ、井上学長と学生清瀬とが弔詞を読む。
横田 成年(よこた せいねん、1875年(明治8年)5月10… 横田 成年(よこた せいねん、1875年(明治8年)5月10日 - 1953年(昭和28年)1月11日)は日本の造船・航空工学者。東京帝国大学名誉教授。 京都府京都市で、横田成憲の長男として生まれた。1898年(明治31年)に東京帝国大学工学部造船学科卒業後、ただちに同大学助教授に就任する。1910年(明治43年)に教授に就任し、1918年(大正7年)に同大航空研究所の初代所長に就任、同年に工学部航空学科が創設され主任教授となる。1934年(昭和9年)に日本航空学会が創設され、初代会長に就任し、1936年(昭和11年)に同大名誉教授となる。 日本の航空工学の草分け的存在であり、1936年(昭和11年)に退官するまで38年間、同大学にあって弾性力学、流体力学、弾道学など広い分野にわたる諸問題に、数学的技法を駆使し、多くの研究成果をあげた。
日下部 四郎太(くさかべ しろうた、1875年5月5日 - … 日下部 四郎太(くさかべ しろうた、1875年5月5日 - 1924年7月3日)は、日本の地球物理学者。理学博士(1906年)。東北帝国大学教授。岩石や地震波の研究者。『物理学汎論』などを表し、岩石の弾性の研究により第2回帝国学士院賞を受賞し、近代地震学の基礎を開いた。アインシュタインとも親交を持ち、彼を長岡半太郎らと共に東北帝国大学に招いた。 日下部定治の3男として山形県東村山郡金井村(現・山形市)に生まれる。幼い頃は社交性がない神経質な子供であり、村の寺に小僧として3年間預けられたこともあった。小学生の頃から数学などが非常に得意であった。旧制山形尋常中学、旧制二高へ進み、1900年、東京帝国大学物理学科を卒業。
中内 蝶二(なかうち ちょうじ、1875年5月5日 - 19… 中内 蝶二(なかうち ちょうじ、1875年5月5日 - 1937年2月19日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト、作詞家である。本名は中内 義一(なかうち ぎいち)。 1875年(明治8年)5月5日、高知県に「中内義一」として生まれる。 旧制・東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、博文館に入社し、その後、『萬朝報』の記者となった。戯曲『大尉の娘』は、1923年(大正12年)、井上正夫、初代水谷八重子が演じ、評価を得た。同作は、八重子の当たり役となり、「八重子十種」の演目のひとつとなった。 新派のための戯曲のほか、小説を執筆し、長唄の作詞も手がけている。 1937年(昭和12年)2月19日に死去した。
関屋 貞三郎(せきや ていざぶろう、1875年〈明治8年〉5… 関屋 貞三郎(せきや ていざぶろう、1875年〈明治8年〉5月4日 - 1950年〈昭和25年〉6月10日)は、日本の官僚・政治家。 宮内次官(第11代)、静岡県知事(第17代)、貴族院議員、日本銀行監事、朝鮮総督府学務局長(初代)、枢密顧問官を歴任した。位階勲等は正二位勲一等瑞宝章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
武谷 廣(たけや ひろし、1875年5月 - 1941年1月… 武谷 廣(たけや ひろし、1875年5月 - 1941年1月30日)は、日本の医学者。九州帝国大学名誉教授。専門は内科学。 田中茂右衛門の四男として福岡県に生まれる。陸軍軍医監を務めた武谷水城の養嫡子となり、後にその長女長榮と結婚する。武谷水城の父(養父)は、福岡藩主黒田長溥の侍医であり、九州大学の源流とされる藩医学校賛生館の創立に尽くした武谷祐之、祖父は長崎でシーボルトに西洋医学を学んだ福岡藩御目見医武谷元立である。 1894年福岡県立尋常中学修猷館、1898年第一高等学校医科を経て、1903年東京帝国大学医科大学を卒業。1906年内科学専攻のため文部省より3年間ドイツ留学を命ぜられ、帰国後1910年医学博士の学位を受ける。
小林 久平(こばやし きゅうへい、1875年4月23日 - … 小林 久平(こばやし きゅうへい、1875年4月23日 - 1954年2月7日)は、明治-昭和期の日本の化学者。 新潟県に生まれる。東京帝国大学卒。同大学の講師、宝田石油技師を経て、1918年に早稲田大学教授となる。石油精製に使われる酸性白土の発見および研究で知られる。「酸性白土」の命名も小林が行っている。1935年工業化学会有功賞、1953年日本化学会功績賞受賞。 化学機械協会(現: 公益社団法人化学工学会)の初代会長(1936年-1938年)を務めた。
高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年〈明治8年〉4月21日… 高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年〈明治8年〉4月21日 - 1960年〈昭和35年〉2月28日)は、日本の数学者。学位は、理学博士。東京帝国大学名誉教授。第1回フィールズ賞選考委員。文化勲章受章者、文化功労者。 岐阜県大野郡数屋村(現:本巣市)に生まれる。岐阜尋常中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)を経て第三高等中学校(現:京都大学)へ進学し、1894年(明治27年)に卒業。 帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)数学科へ進み、卒業後にドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。 代数的整数論の研究では類体論の確立に貢献し、特に高木の存在定理の証明で知られる。 ヒルベルトの23の問題のうち、第9問題と第12問題(に関連した世界的な難問)を肯定的に解決した。
藤沢 周次(ふじさわ しゅうじ、1875年4月10日 - 1… 藤沢 周次(ふじさわ しゅうじ、1875年4月10日 - 1945年11月29日)は明治・大正期日本の英文学者、劇作家。学習院名誉教授。号は古雪(こせつ)。 1875年(明治8年)、新潟県士族(元佐渡奉行所幕臣)・藤沢親之の次男として東京府に生まれる。幼名は菊丸(きくまる)。東京帝国大学文学部英文科に入学し、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)から英語を学んだ。在学中、英作文の優秀者に与えられる賞を受賞しているが、その理由は英文の正確さ以上に「内容が優れている」と評されてのものであった。同期には森清(子爵、森有礼長男)、内ヶ崎作三郎(衆議院議員)、小日向定次郎(英文学者)、栗原基(同)、小島武雄(旧制第五高校教諭)らがいる。
傍士 定治(ほうじ さだはる、1875年(明治8年)4月8日… 傍士 定治(ほうじ さだはる、1875年(明治8年)4月8日 - 1924年(大正13年)8月30日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員。 傍士次、勘の長男として、高知県香美郡片地村(土佐山田町を経て、現在の香美市)に生まれる。東京帝国大学法科大学に学ぶ。1904年(明治37年)高知県会議員に当選。のち大阪市秘書課長、同東区長を歴任する。1921年(大正10年)夏、欧米を視察後、財界にも進出し、鶏林鉱業、日本ゼラチン各取締役、東大阪土地建物、日本ゼラチン、ライト商会各監査役などを歴任した。 1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では高知県第3区から立憲政友会所属で出馬し当選するが、任期中に大阪市で死去した。
岩田 宙造(いわた ちゅうぞう、1875年(明治8年)4月7… 岩田 宙造(いわた ちゅうぞう、1875年(明治8年)4月7日 - 1966年(昭和41年)2月22日)は、明治から昭和期の弁護士、政治家(貴族院議員)。正三位、勲一等瑞宝章。法学博士。 1875年、山口県熊毛郡立野村(現・光市)に樋山彦七の二男として生まれ、松前藩の有力商人であった岩田金蔵の養子となる。樋山家は江戸時代、代々庄屋をつとめた家柄だった。1898年(明治31年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒。同期に、湯浅倉平などがいる。 1901年(明治34年)に東京日日新聞社入社。1902年(明治35年)弁護士開業、東京築地に岩田宙造法律事務所(現在の岩田合同法律事務所)を開設。後に、宮内省、日本銀行、日本郵船、東京海上火災、三菱銀行、日本勧業銀行の各顧問弁護士に就任。
斉藤 隆三(斎藤 隆三、さいとう りゅうぞう、1875年(明… 斉藤 隆三(斎藤 隆三、さいとう りゅうぞう、1875年(明治8年)4月6日 - 1961年(昭和36年)4月7日)は、千葉県相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)出身の史学者・文学博士。 明治期より昭和期にかけ風俗史、郷土史、美術史等の執筆を行っていた文学博士で、日本美術院の再興や発展、運営にも深く関わった。 1875年(明治8年)に千葉県相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)に出生。斉藤家は江戸時代の下総国関宿藩領のうち10ヶ村の惣名主を務めた家で、先祖に小林一茶に学んだ俳人斉藤徳左衛門(俳号「若雨」)、長兄に元衆議院議員の斉藤斐がいる。茨城県尋常中学校、旧制二高を経て東京帝国大学国史科卒業。大学在学中に郷里守谷の歴史をまとめた「守谷志」を刊行、1902年(明治35年)に大学卒業以後は、半世紀以上に渡り、美術史や国内の世相史を中心に執筆を行った。
小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22… 小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22日 - 1961年(昭和36年)11月20日)は、第六代住友総理事である。 第2次近衛内閣(昭和15年 - 昭和16年(1940年 - 1941年))の国務大臣、第3次近衛内閣(昭和16年(1941年))の大蔵大臣を務める。 著書に『日本国憲法』『行政法』『現代家族関係論』『私の生活信条』『小倉正恆談叢』等。 明治8年(1875年)、前田利家の家老の家系であった旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男として石川県金沢市に生まれる。 第四高等学校を経て、明治30年(1897年)東京帝国大学英法律学科を卒業後、内務省(現総務省)に入省。土木監督署事務官となる。
島村 孝三郎(しまむら こうざぶろう、1875年(明治8年)… 島村 孝三郎(しまむら こうざぶろう、1875年(明治8年)3月20日 - 1966年(昭和41年)10月24日)は日本の考古学者。南満州鉄道で大連図書館の初代館長などを務めたのちに憲政会に所属し、その後は東亜考古学会の幹事として戦後にいたるまで活動した。 1875年(明治8年)に生まれる。高校時代は仙台の第二高等学校で過ごし、この頃からすでに『東京人類学会雑誌』などに遺跡紹介の論文を掲載している。1895年(明治28年)には創設者の一人として奥羽史学会を結成。大学は東京帝国大学法科大学に進み、1897年(明治30年)ごろには国際法学会の発起人の一人となっている。東大法科時代の同級生には中田薫、杉栄三郎、柳田國男、松岡均平、遠藤源六らがいる。