安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明… 安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明治2年6月19日〉- 1934年〈昭和9年〉12月28日)は、日本の外務官僚、国際法学者。法学博士。メキシコ公使、ベルギー大使、フランス大使を経て、アジア人初の常設国際司法裁判所所長。山形県出身。 アジア系として初の常設国際司法裁判所の所長(判事としては国内2人目)となるが、所長就任早々、祖国の日本が満州事変を起こし、国際連盟を脱退することになる。所長3年の任期を終え、1934年(昭和9年)1月から平判事になったが、日本の国際連盟脱退問題の悩みから6月に体調を崩し、8月に重い心臓病を発症。同年12月28日、オランダのアムステルダムにある病院で死去した。
森山 松之助(もりやま まつのすけ、明治2年6月7日(186… 森山 松之助(もりやま まつのすけ、明治2年6月7日(1869年7月10日)- 昭和24年(1949年)4月2日)は、日本統治時代の台湾で活躍した建築家。大阪市出身。台湾総督府営繕課在任中、台湾の多くの官庁建築を手がけたことで知られる。 外交官・貴族院議員を務めた森山茂の子として明治2年(1869年)に大阪市東区平野町(現 大阪市中央区平野町)に生まれる(なお、叔父に五代友厚がいる)。学習院、攻玉社を経て、明治26年(1893年)第一高等学校を卒業後、帝国大学工科大学建築学科において辰野金吾のもとで学び、明治30年(1897年)に卒業。大学院、明治31年(1898年)第一銀行建築係嘱託、明治33年(1900年)東京高等工業学校の建築学講座担当を経て、明治39年(1906年)に台湾に渡り、大正10年(1921年)までの間、台湾総督府営繕課技師として多くの官庁建築を手がけた。
宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年… 宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年5月12日〉 - 1942年〈昭和17年〉12月26日)は、日本の内務官僚、政治家。幼名は慎平。富山県知事、東京府知事、貴族院議員などを歴任した。 山形県士族宇佐美駿太郎の弟。 米沢藩士(馬廻組、100石。上杉斉憲〈戊辰戦争時の米沢藩主〉の御側役)で、戸長を務めていた宇佐美勝作の二男として生まれる。米沢中学、第一高等学校を経て、1896年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入り内務属として県治局に配属された。同年10月、文官高等試験に合格。 1897年4月26日、徳島県参事官に就任。以後、京都府参事官、内務書記官・宗教局、宗教局第一課長兼第二課長、大臣官房文書課長、兼内務省参事官などを歴任。
佐野 藤次郎(さの とうじろう、1869年(明治2年)6月1… 佐野 藤次郎(さの とうじろう、1869年(明治2年)6月19日 - 1929年(昭和4年)11月7日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の土木技術者。神戸市技師長を長年務め、布引五本松ダム(日本初の重力式コンクリートダム)・烏原立ヶ畑堰堤・千苅ダムという神戸市の水道事業を支える三つの主要な貯水施設を設計・施工した人物として知られる。神戸の近代水道の礎を、全員日本人の技術陣を率いて完成させた人物として評価されている。 1869年(明治2年)6月19日、尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)に生まれた。1891年(明治24年)、帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 帝国大学卒業の同年(明治24年)、大阪市技師に就任した。
俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日〈明治2年5… 俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日〈明治2年5月7日〉- 1944年〈昭和19年〉6月17日)は、日本の官僚、政治家。衆議院議員。商工大臣、立憲民政党幹事長などを歴任した。従二位勲一等。 1869年(明治2年)5月7日、石見国浜田(現:島根県浜田市)に俵家の3代目・三九郎、ミナの五男として生まれる。幼少の頃から家業の醤油醸造、ろうそくの製造販売等を手伝う。 浜田中学(現・島根県立浜田高等学校)、泊園書院(現:関西大学)、共立学校(現:開成中学校)、第一高等学校を経て1895年(明治28年)帝国大学法科大学英法科(現:東京大学法学部)を卒業する。卒業後は内務官僚として官界に入り、1907年(明治40年)大韓帝国の学部次官、1910年(明治43年)同国の土地調査局副総裁(後の朝鮮総督府臨時土地調査局副総裁)に就任。
松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(… 松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(明治2年5月7日) - 1944年12月18日)は、仏教学者。インド哲学、インド文化・仏教美術史学者。号は亡洋。京都帝国大学名誉教授。インド哲学の泰斗として知られ、仏教芸術に関しても多くの論文を発表した。 1869年、加賀国金沢(現・石川県金沢市)で生まれた。帝国大学文科大学文学部で学び、1893年に卒業。 1894年9月、立教学校(現・立教大学)教授に就いた。1899年、ドイツに留学。同年、文学博士号を取得。 第一高等学校教授を務めたのち、1906年に京都帝国大学文科大学(現・京都大学文学部)の開設委員となり、同大学インド哲学史教授に就任。
名井 九介(みょうい きゅうすけ、1869年6月14日(明治… 名井 九介(みょうい きゅうすけ、1869年6月14日(明治2年5月5日) - 1944年1月23日)は、北海道庁初代勅任技師。工学博士。公益社団法人土木学会第20代会長、名誉会員、勲三等。雨竜電力株式会社顧問。土木学会初代主事。 北海道庁初代勅任技師として土木関係での北海道開発に功績が多い。主なものとして北海道庁旧本庁舎(北海道庁赤れんが)の正面にある道庁前携わる。
岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月1… 岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月12日) - 昭和16年(1941年)7月14日)は、日本の哲学者。 鹿児島県鹿児島市山下町生まれ。士族岩元基の長男。1889年に鹿児島高等中学造士館予科を第1期生として卒業後、第一高等中学校(第一高等学校の前身)本科に進学。1891年に卒業し、東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)に進んだ。哲学科で学び、ラファエル・フォン・ケーベルに師事。1894年に卒業し、同大学大学院に進学。大学院に在籍して哲学研究を進める一方、浄土宗高等学院(現在の大正大学)でドイツ語と哲学を、高等師範学校で哲学を教えた。 1899年からは第一高等学校でドイツ語を教えた。
桑原 八司(くわはら やつし、1869年5月24日(明治2年… 桑原 八司(くわはら やつし、1869年5月24日(明治2年4月13日) - 没年不明)は、明治時代後期から大正時代の朝鮮総督府官僚。文部官僚。咸鏡北道長官。忠清南道長官(知事)。 桑原苞の長男として岐阜県に生まれ、1875年(明治8年)7月に家督を相続する。1893年(明治26年)東京帝国大学法科大学を卒業する。群馬県属、文部省属、宮城、岩手両県への出張、香川県属を経て、秘書官として朝鮮総督府に出仕。咸鏡北道長官を務めたのち、忠清南道長官(のち知事)に転じた。1921年(大正10年)9月25日、退官した。
清野 長太郎(せいの ちょうたろう、1869年5月12日(明… 清野 長太郎(せいの ちょうたろう、1869年5月12日(明治2年4月1日) - 1926年9月15日)は、日本の内務官僚。憲政会系官選県知事、復興局長官。 香川県高松出身。高松藩士・清野彦三郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1895年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、高等文官試験行政科試験に合格。内務省に入り警保局属となる。富山県参事官、神奈川県参事官、内務省地方局町村課長などを歴任。 1906年1月、秋田県知事に就任。同年11月、南満州鉄道理事に転じた。1916年4月、兵庫県知事に発令され、1919年4月まで在任。在任中の1918年(大正7年)8月には、神戸市内で米騒動(1918年米騒動)が激化。
中村 竹蔵(なかむら たけぞう、明治2年3月25日(1869… 中村 竹蔵(なかむら たけぞう、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 1945年(昭和20年)2月2日)は、日本の検事。 東京府出身。1892年(明治26年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。東京区裁判所判事、函館地方裁判所判事、函館控訴院検事、東京地方裁判所検事、名古屋地方裁判所検事、東京控訴院検事、函館地方裁判所検事正を歴任した。1907年(明治40年)、統監府判事に転じ、京城地方裁判所長となり、さらに朝鮮総督府検事となり、京城控訴院検事長、京城覆審法院検事長を経て、1920年(大正9年)に高等法院検事長に就任した。 1945年(昭和20年)2月2日、東京都世田谷区の自宅で死去、75歳。
河合 義文(かわい よしふみ、1869年(明治2年)5月 -… 河合 義文(かわい よしふみ、1869年(明治2年)5月 - 没年不詳)は、日本の教育者・数学者。 富山県出身、第一高等中学校卒業、1894年(明治27年)、東京帝国大学理科大学物理学科を卒業すると1895年に現・金沢市の第四高等学校教授に就任、やがて四高生の風紀の乱れを嘆く北条時敬校長に応え、1897年(明治33年)頃から「三々会」という修養の集まりに講師として西田幾太郎、堀維孝、三竹鉄五郎らと参加する。主担当の数学を教えるかたわら、1910年(明治43年度)から1916年(大正5年度)のあいだの5年間、物理担当の西英盛(明治5年生まれ)をたすけて大学で専攻した物理学も教えた。 1913年1月と9月(44歳前後)に学術調査のため出張を承認されている。
塚本 靖(つかもと やすし、1869年3月27日(明治2年2… 塚本 靖(つかもと やすし、1869年3月27日(明治2年2月15日) - 1937年(昭和12年)8月9日)は、日本の建築家。東京帝国大学において建築意匠・装飾・工芸の研究・指導に当たった。号は「准亭」。 1869年、京都生まれ。1893年、東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、明治美術学校講師嘱託となった。 1899年、東京帝国大学工科大学助教授に採用。採用後、1899年から1902年にかけてヨーロッパへ研究留学した。その後も、1906年から1908年にかけての工芸品意匠調査のため清国出張、1909年には日英博覧会のためのイギリスに派遣されている。1920年、同校教授に昇進。1920年より工学部部長を務めたのち、1929年に退官し、名誉教授となった。
諸井 四郎(もろい しろう、1869年2月25日〈明治2年1… 諸井 四郎(もろい しろう、1869年2月25日〈明治2年1月15日〉 - 1954年〈昭和29年〉)は、武蔵国児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)出身の実業家。西武鉄道の取締役や日本煉瓦製造の会長などを務めた。 中山道で最大の宿場町であった本庄宿(明治22年より児玉郡本庄町)の出身。東諸井家10代目当主である諸井泉衛(1830-1885)は五男二女を授かり、四朗はその四男として生まれた。1900年(明治33年)に東京帝国大学を卒業し、京釜鉄道会社に入社。会計課長となるが、鉄道の国有化にともない退社する(1908年)。東亜製粉会社を組織し社長に就任するも、1925年(大正14年)日本製粉会社と合併してこの会社は消失。
青木 良雄(あおき よしお、1869年2月24日〈明治2年1… 青木 良雄(あおき よしお、1869年2月24日〈明治2年1月14日〉 - 没年不詳)は、日本の逓信・内務官僚。官選奈良県知事、山口県下関市長。族籍は山口県平民。正五位、勲四等。 周防国大島郡東安下庄 (現・山口県大島郡周防大島町)で青木東輔の二男として生まれる。 1895年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省に入省し郵便為替貯金書記兼逓信属となり通信局に配属された。 逓信事務官、郵便為替貯金管理所為替課長、通信事務官、逓信大臣秘書官兼逓信事務官、新潟郵便電信局長などを歴任。1899年6月、内務省に転じ宮城県参事官に就任。以後、群馬県書記官、同県事務官・第一部長、三重県事務官・第一部長、大阪府事務官・第一部長兼第三部長、同府内務部長などを歴任。
菅原 通敬(すがわら みちよし、1869年2月16日(明治2… 菅原 通敬(すがわら みちよし、1869年2月16日(明治2年1月6日)– 1946年(昭和21年)12月18日)は、日本の大蔵官僚・政治家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。 仙台藩士・郡長、菅原通実の長男として生まれる。仙台中学、第一高等学校を経て、1895年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵省に入省し大蔵属となり、主税局に配属された。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1895年11月、横浜税関倉庫課長に就任。以後、沖縄県収税長、司税官・熊本税務管理局、税務監督官・主税局内国税課、函館税務管理局長、丸亀税務管理局長、神戸税務管理局長、神戸税務監督局長、大蔵書記官・主税局内国税課長、主税局長などを歴任。
塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1… 塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1月3日) - 1913年(大正2年)2月1日)は、日本の詩人、国文学者、翻訳家。本名・正男。 兵庫県豊岡市出身。豊岡藩士の子。1886年(明治19年)7月、第一高等中学校に入学。1892年(明治25年)7月、第一高等中学校文科を卒業。同月、東京帝国大学に入学。 1895年(明治28年)7月、東京帝国大学文科大学国文科卒。落合直文に師事。同年『帝国文学』の創刊とともに編集委員となり、擬古文で名を知られた。詩人として新体詩の普及に貢献する一方で、国文学者としても活躍。 1895年(明治28年)9月、立教学校(現・立教大学)の教授に就任し、国文国語を講じた。
大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869… 大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869年2月1日〉 - 1931年〈昭和6年〉3月2日)は、日本の美学者、東京帝国大学教授(文学博士)。日本における学術的な美学の創設者とされる。夏目漱石との交友でも知られる。旧姓・小屋。 明治元年(1869年)上野国勢多郡木瀬村大字笂井(現・群馬県前橋市笂井町)に、小屋宇平治(卯平治/宇兵衛)の次男として生まれる。兄・右兵衛は木瀬村長を務めた。笂井小学校を経て、1884年(明治17年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業。旧制第一高等学校を経て、1891年(明治24年)に帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)哲学科を卒業。大学院で美学を専攻する。
杉野 耕三郎(すぎの こうざぶろう、明治元年12月19日(1… 杉野 耕三郎(すぎの こうざぶろう、明治元年12月19日(1869年1月31日) - 没年不詳)は、日本の逓信官僚。大連市長。 岐阜県養老郡高田町(現在の養老町)出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。通信事務官、関東都督府在旅順軍郵便監査、郵便為替貯金管理所証券課長、北京郵便局長、神戸逓信管理局総務部長、神戸郵便局長、神戸税関事務官、長野郵便局長、名古屋郵便局長、逓信局書記官、臨時電信電話建設局事務官、熊本逓信局監理課長などを歴任し、1920年(大正9年)に関東庁逓信局長となった。 1924年(大正13年)に退官した後は大連市長を務め、1928年(昭和3年)に退任。
寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869… 寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869年1月8日) - 大正12年(1923年)1月8日)は、日本の造船学者。 東京府出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学工科大学を卒業。同大学院で商船構造学を研究。1892年(明治25年)より同助教授となり、1897年(明治30年)より造船学研究のためイギリスに留学した。1899年(明治32年)、帰国とともに教授に就任。1901年(明治34年)、工学博士の学位を得た。1918年から1920年まで工科大学長、次いで工学部長を、その後は航空研究所長を務めた。三菱造船所で建造した、主機に輸入タービンを搭載した義勇艦隊さくら丸、日本における貨客船のクラスにおいて初めて1万トンを超えた客船天洋丸・地洋丸の船体設計・建造に関与した.斯波忠三郎,大森房吉らと行った船体振動(機関回転数と振動数の関係に関わる)実験は世界的にも開拓的な業績と評価されている.1914年には日本鉄鋼協会の創立に発起人として参画し,1915年の創立後は理事/評議員として貢献した.造船共會(現在の日本船舶海洋工学会)理事を務め,1905年から新潟鉄工所の造船業務指導にあたった。
加藤 幹雄(かとう みきお、明治2年(1869年) - 大正… 加藤 幹雄(かとう みきお、明治2年(1869年) - 大正5年(1916年))は、日本の弁護士。 明治2年、庄内藩に生まれる。旧制山形中学校、共立中学校、司法省正則法学校、第一高等中学校を経て、帝国大学法科大学に入学し、首席で卒業後、同大学院で国際法を研究し、弁護士となる。仙台で活躍した後、山形に戻り、鶴岡で生涯を送った。
尾田 信忠(おだ のぶただ、1869年〈明治2年〉 - 19… 尾田 信忠(おだ のぶただ、1869年〈明治2年〉 - 1957年〈昭和32年〉4月28日)は、日本の教育者。錦鶏間祗候。 新潟県に上田義信の長男として生まれ、尾田信通の養子となった。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。陸軍教授となり、東京陸軍地方幼年学校教頭、教育総監部出仕を経て、陸軍士官学校教頭を務めた。 1935年(昭和10年)4月8日に退官し、翌年に錦鶏間祗候となった。 1957年(昭和32年)4月、脳溢血で死去した。
丘 浅次郎(おか あさじろう、明治元年11月18日(1868… 丘 浅次郎(おか あさじろう、明治元年11月18日(1868年12月31日) - 昭和19年(1944年)5月2日)は、日本の動物学者。高等師範学校教授を歴任。 1868年、遠江国掛塚(現・静岡県磐田市掛塚)生まれ。父親が大阪造幣局勤務であったため、少年期は大阪市内で暮らす。大坂英語学校に入学し抜群の成績を修め、その後に旧制第一高等学校の前身である東京大学予備門に入学するも、歴史科目のみ成績が極端に悪く、2年続けて落第したため退学処分となった。このため大学の正規課程への入学資格を持たず、1886年帝国大学理科大学動物学科選科に入学した。1891年から3年間ドイツに留学し、フライブルク大学でアウグスト・ヴァイスマンに、またライプツィヒ大学でカール・ロイカルトに師事。
桑田 熊蔵(くわだ くまぞう、1868年12月30日(明治元… 桑田 熊蔵(くわだ くまぞう、1868年12月30日(明治元年11月17日) - 1932年(昭和7年)12月10日)は、日本の法学者。学位は法学博士。貴族院多額納税者議員。工場法実現のために尽力した。 現在の鳥取県倉吉市に大地主・桑田藤十郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。さらに大学院に進み、労働問題を専攻する。1896年(明治29年)金井延らとともに社会政策学会を起こし、社会問題研究のためにヨーロッパに留学。帰国後は労働者の実態調査に従事し、1904年(明治37年)法学博士。 1920年(大正9年)中央大学教授。1930年(昭和5年)中央大学経済学部長等を歴任した。
中原 岩三郎(なかはら いわさぶろう、1868年12月26日… 中原 岩三郎(なかはら いわさぶろう、1868年12月26日 - 1945年4月1日)は、明治から昭和時代前期の電気工学者、電気技師。 明治元年11月13日(グレゴリオ暦1868年12月26日)、吉敷毛利家の御家人であった中原衛人の三男として周防吉敷郡吉敷村(現・山口県山口市吉敷)に生まれる。幼少期に木から落ちて顔に傷が残り、そのことで勉学に打ち込むようになったという。1885年(明治18年)2月に上京し第一高等中学校に入学、工科を専攻し1889年(明治22年)7月に卒業した。1892年(明治25年)7月東京帝国大学電気工学科を卒業。 卒業後すぐ東京電燈に入社し、1897年(明治30年)5月には社命でベルリンに留学する。
伊藤 祐一(いとう すけかず、明治元年11月12日(1868… 伊藤 祐一(いとう すけかず、明治元年11月12日(1868年12月25日) - 大正6年(1917年)10月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→立憲同志会)。農商務官僚。 陸奥国弘前(青森県弘前市)出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学を卒業。林務官、農商務参事官、山林局事務官、札幌鉱山監督署長を歴任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
和達 陽太郎(わだち ようたろう、明治元年11月8日〈186… 和達 陽太郎(わだち ようたろう、明治元年11月8日〈1868年12月21日〉 - 1921年〈大正10年〉3月15日)は、明治から大正にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。逓信技師を経て実業界に入り名古屋電灯常務などを務めた。子に気象・地震学者の和達清夫がいる。 明治元年11月8日(新暦:1868年12月21日)、和達孚嘉の長男として東京の浅草に生まれる。父・孚嘉は江戸幕府の旗本であったが、明治維新後に移住先の静岡県を振り出しに宮城県や山形県で役員生活を送り、晩年には第5代仙台市長(1907 - 1910年)を務めた人物である。 1889年(明治22年)7月東京の第一高等中学校工学部を卒業したのち、1892年(明治25年)7月に帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、逓信省へ入る。
佐藤 達次郎(さとう たつじろう、1868年12月20日(明… 佐藤 達次郎(さとう たつじろう、1868年12月20日(明治元年11月7日) - 1959年(昭和34年)7月20日)は、日本の明治から昭和における外科医。初代東京医学専門学校長・第3代順天堂医院長・初代順天堂医科大学長・女子美術大学理事長を歴任。福井県出身。 1868年(明治元年)11月、若狭国三方郡西郷村(現福井県三方郡美浜町金山)の漢方医河合貞輔の次男として誕生した。1884年(明治17年)、上京して獨逸学協会学校で学び、大学予備門に入学。1887年(明治20年)6月第一高等中学に転入し、1892年(明治25年)東京帝国大学医科大学に入学した。1896年(明治29年)12月同大学を卒業、明治30年度卒業同期生としては後に軍医総監になる佐藤恒丸・京城帝国大学総長となった志賀潔らがいる。
堤 定次郎(つつみ ていじろう、1868年12月14日(明治… 堤 定次郎(つつみ ていじろう、1868年12月14日(明治元年11月1日) - 1935年(昭和10年)8月18日)は、日本の裁判官、検察官、内務官僚、実業家。官選岩手県知事。位階および勲等は従四位・勲四等。 常陸国、後の茨城県真壁郡上野村(現筑西市)出身。堤恵次郎の長男として生まれる。1892年、帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。 以後、東京区裁判所判事、東京地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事、東京控訴院検事、宮城控訴院検事、函館地方裁判所検事正、熊本県事務官・警察部長、香川県事務官・内務部長などを歴任。 1913年3月、岩手県知事に就任。1914年6月、知事を休職となる。その後、実業界に転じ、安田保善社理事、五十銀行頭取などを務めた。
仁井田 益太郎(にいだ ますたろう、1868年11月18日(… 仁井田 益太郎(にいだ ますたろう、1868年11月18日(明治元年10月5日)- 1945年1月17日)は、日本の法学者・裁判官・弁護士。学位は、法学博士。京都帝国大学法科大学教授、東京帝国大学法科大学教授を歴任。 守山藩士県吏仁井田隠重の長男。妻は貴族院議員奥山政敬の娘アイ、甥の陞は中国法制史家、東大教授。 富井政章付きの民法典起草補助委員として活躍し、ドイツ民法草案第一・第二を翻訳して富井に提供したほか、各国の法制度を調査して貢献した。 他の起草補助委員との合著『帝国民法正解』は、民法典施行後出版された最初の書物であり、大体純粋なドイツ法学派の見解から書かれたものであった。 京都帝国大学では民事訴訟法、商法の講座を担当し、東京帝国大学では民事訴訟法、民法、ドイツ法の講座を担当。
下坂 藤太郎(しもざか とうたろう、1868年11月17日(… 下坂 藤太郎(しもざか とうたろう、1868年11月17日(明治元年10月4日) - 1941年(昭和16年)1月12日)は、日本の大蔵官僚、実業家。理財局銀行課長を最後に退官し、台湾銀行理事、副頭取を歴任。東洋製糖(のち大日本製糖)、東洋海上保険(のち日新火災海上保険)、日商(のち日商岩井)の各社長。 会津藩士下坂藤次郎の長男。三春中学、第一高等学校を経て、1894年(明治27年)東京帝国大学を卒業。大蔵省に入省し、翌年の第二回文官高等試験に次席合格する。秋田県収税長、本省参事官、書記官、監督局銀行課長などを経て、1899年(明治32年)6月辞職。翌月台湾銀行理事に就任し、副頭取に進む。1906年(明治39年)から翌年にかけて銀行制度調査のため欧米出張。
石渡 繁胤(いしわたり しげたね又はいしわた しげたね、明治… 石渡 繁胤(いしわたり しげたね又はいしわた しげたね、明治元年10月3日(1868年11月16日) - 1941年8月18日)は、日本の養蚕学者。 蚕の雌雄鑑別法で成果を上げた。 1901年に、蚕に卒倒病を引き起こす病原細菌を発見した。石渡はこの細菌を卒倒病菌と名付け、後にバチルス・チューリンゲンシスと命名された。 妻は政治家中村舜次郎の二女のトシ。正五位勲五等。 明治元年(1868年)、現在の神奈川県逗子市出身。明治25年(1892年)東京帝国大学農科大学を卒業し、農商務技師兼蚕業講習所技師、明治41年(1908年)に京都蚕業講習所長、明治44年(1911年)に原蚕種製造所技師、蚕業試験所技師、東京農業大学教授などを歴任した。
矢部 規矩治(やべ きくじ、明治元年9月20日〈1868年1… 矢部 規矩治(やべ きくじ、明治元年9月20日〈1868年11月4日〉 - 1936年〈昭和11年〉10月2日)は、日本の農学者(醸造学)、大蔵技師。清酒酵母の発見者であり、醸造試験所(酒類総合研究所の前身)の設立に関わるなど、日本の酒造業の発展に貢献した。また、科学的に納豆を研究した先駆者としても知られている。 位階・勲等は正三位勲二等。学位は農学博士。 前橋藩士の長男として、上野国勢多郡一毛村(現在の群馬県前橋市城東町)で生まれた。 群馬県中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)卒業後、1886年(明治19年)に第一高等学校に進学。東京帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に進み、農芸化学を専攻した。
百瀬 興政(ももせ おきまさ、1868年10月27日〈明治元… 百瀬 興政(ももせ おきまさ、1868年10月27日〈明治元年9月12日〉- 1939年〈昭和14年〉4月21日)は、長野県出身の医師、政治家。松本市長。旧姓・柳野。 信濃国松本城下(現:長野県松本市)に松本藩士・柳野興一の次男として生まれ、百瀬元章の養子となる。1888年(明治21年)東京帝国大学医科大学別科を卒業。翌年、松本に医院を開業。医院を経営する傍ら、従兄弟の木下尚江らとともに普選運動や禁酒運動に参加する。1901年(明治34年)東筑摩郡看護婦会を組織する。1922年(大正11年)5月1日、松本信用組合(現:松本信用金庫)を設立し組合長に就任。 1898年(明治31年)松本町会議員に当選。
赤星 典太(あかほし / あかぼし てんた、1868年10月… 赤星 典太(あかほし / あかぼし てんた、1868年10月22日(慶応4年9月7日)- 1958年(昭和33年)6月13日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、錦鶏間祗候。 肥後国熊本城下手取本町(現熊本市)出身。熊本藩士・赤星晋作の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1896年(明治29年)帝国大学法科大学を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し主税局属となる。 1897年(明治30年)司税官・金沢税務管理局在勤となる。以後、根室税務管理局長、札幌税務管理局長、会計検査官補、司法省参事官兼司法書記官、同書記官・総務局会計課長、農商務書記官、行政裁判所評定官などを歴任。
山崎 四男六(やまさき しおろく、慶応4年9月4日(1868… 山崎 四男六(やまさき しおろく、慶応4年9月4日(1868年10月19日) - 昭和3年(1928年)8月31日)は、日本の大蔵官僚、宮内官僚。錦鶏間祗候。 肥前国(佐賀県)に石井直信の四男として生まれ、山崎峯次郎の養子となった。1895年(明治29年)、東京帝国大学法科大学を卒業して大蔵属となり、同年に高等文官試験に合格した。大蔵省司税官、同主計官、税関事務官、大蔵書記官、大蔵大臣秘書官、大蔵省参事官、横浜税関長、大蔵省国債局長、同理財局長を歴任した。1914年(大正3年)、宮内省に転じ、内蔵頭に任じられた。その他、朝香宮宮務監督や帝室林野局長官を務めた。退官後は日本銀行監事に就任した。 1928年8月31日薨去。
寺石 正路(てらいし まさみち、1868年10月17日(慶應… 寺石 正路(てらいし まさみち、1868年10月17日(慶應4年9月2日) - 1949年(昭和24年)12月23日)は、高知県の郷土史家。考古学者。作家。
白沢 保美(白澤 保美、しらさわ やすみ、しらさわ ほみ、し… 白沢 保美(白澤 保美、しらさわ やすみ、しらさわ ほみ、しらさわ やすよし、1868年10月3日(慶応4年8月18日) - 1947年(昭和22年)12月20日)は、日本の樹木学者。東京市の初期、都市緑化事業の指導にあたる。農商務省山林局林業試験場(現・森林研究・整備機構)長、日本林学会会長、日本農学会会長、貴族院議員。 1868年(慶応4年)、信濃国安曇郡明盛村(現・長野県安曇野市)の医師・白澤市郎次の家に生まれる。東京へ出て、立教学校(現・立教大学)で修学。1894年(明治27年)、帝国大学農科大学林学科を卒業。大学院で研究のかたわら、農商務省山林局に技師として勤務。 1900年(明治33年)より欧州に2年間留学。
清水 澄(旧字体: 淸水 澄、しみず とおる、1868年9月… 清水 澄(旧字体: 淸水 澄、しみず とおる、1868年9月27日〈慶応4年8月12日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月25日)は、日本の憲法学者。法学博士。栄典は正二位勲一等。 学習院教授、慶應義塾大学部法律科教授を経て、行政裁判所長官、帝国美術院院長、枢密院議長を歴任した。帝国学士院会員。日本国憲法施行後に国体の危機を憂えて自殺した。 1868年(慶応4年)、石川県金沢市に生まれる。 1884年(明治17年)、帝国大学法科大学仏法科首席卒業。その後、東京府・内務省勤務を経て、学習院教授。1898年から1901年までドイツとフランスに留学する。1905年(明治38年)、法学博士取得。次いで慶應義塾大学部法律科教授(憲法・行政法担当)。
吉川 祐輝(きっかわ すけてる、1868年9月24日(慶応4… 吉川 祐輝(きっかわ すけてる、1868年9月24日(慶応4年8月9日) - 1945年(昭和20年)2月26日)は、日本の農学者。農学博士。族籍は東京府士族。 伊予国松山(愛媛県松山市)出身。吉川祐之の長男。1892年(明治25年)、帝国大学農科大学を卒業。翌年から農事試験場技師を務めた。1901年(明治34年)、東京帝国大学農科大学助教授となり、1904年(明治37年)からは東京農業高等学校(現在の東京農業大学)講師を兼ねた。 1903年(明治36年)に清・韓国へ、1907年(明治40年)にイギリス領セイロン・フランス領インドシナへ派遣された。1909年(明治42年)にイギリス・ドイツ・アメリカ合衆国に留学。
藤代 禎輔(ふじしろ ていすけ、1868年9月10日(慶応4… 藤代 禎輔(ふじしろ ていすけ、1868年9月10日(慶応4年7月24日) - 1927年(昭和2年)4月18日)は、ドイツ文学者、京都帝国大学教授。筆名は「素人」。 1868年、千葉で生まれた。帝国大学文科大学で学び、1891年に卒業。1900年、夏目漱石や芳賀矢一と同じ船に乗船してドイツへ留学。 1907年、京都帝国大学講師に就き、独文学を講じた。のち教授昇格。夏目漱石の友人であり、漱石を京都帝国大学へ招聘しようとしたが断られている。カール・フローレンツとともに『万葉集』のドイツ語訳の仕事を続けたが、未完のまま1927年に死去した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年… 安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年5月12日)は、日本の菌類学者である。
安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年… 安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年5月12日)は、日本の菌類学者である。 東京の旗本の家に生まれた。府立一中から第一高等学校を経て、東京帝国大学植物学科に入学した。松村任三、三好学の指導を受け、菌類の生理学を学んだ。1897年、第二高等学校(東北大学)の講師となり、同年教授となった。蘚苔類、地衣類、菌類の研究を行った。樹木の病害を起こす原因菌の研究も行い、記載した菌類には、Thelephora japonica Yasuda(イボタケ)、Mycoleptodonoides pergamenea (Yasuda) Aoshima & H.Furuk(ブナハリタケ)、Trametes orientalis (Yasuda) Imazeki(クジラタケ)、などがある。
井上 辰九郎(いのうえ たつくろう、1868年(明治元年)9… 井上 辰九郎(いのうえ たつくろう、1868年(明治元年)9月 - 1932年(昭和7年))は、明治時代から昭和時代の経済学者、銀行家。 幕臣の井上清相と母の田辺たか(士族の田辺勝枝の大叔母)の長男として生まれる。1883年に家督を相続する。1890年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した後、東京大学大学院に入り応用経済学を專攻した。その後東京専門学校や専修学校、東京商業学校で教鞭を執った。東京帝国大学や農科大学、工科大学、学習院大学などの講師となった。 1897年に日本銀行に入行し、検査役や名古屋支店の副支配役、名古屋支店長、本店調査役などを歴任した。1902年に日本興業銀行が設立されると、その理事となった。
藤井 乙男(ふじい おとお、慶応4年7月14日〈1868年8… 藤井 乙男(ふじい おとお、慶応4年7月14日〈1868年8月31日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月23日)は、日本の国文学者、俳人。号は紫影。 兵庫県津名郡洲本町(淡路島、現洲本市)生まれ。 第三高等学校を経て、1894年に帝国大学文科大学国文学科を卒業。在学中に正岡子規と知り合い、句作を始める。 1894年に福岡県立尋常中学修猷館教諭、1898年に第四高等学校教授、金沢にて北声会を主宰、「北国新聞」の俳壇選者となる。1908年に第八高等学校教授、1909年に京都帝国大学文科講師、1911年教授。1912年に文学博士の学位を受ける。1928年に定年退職、名誉教授となる。1930年に帝国学士院会員。
山田 美妙(やまだ びみょう、1868年8月25日(慶応4年… 山田 美妙(やまだ びみょう、1868年8月25日(慶応4年7月8日) - 1910年(明治43年)10月24日)は、日本の小説家・詩人・評論家。言文一致体および新体詩運動の先駆者として知られる。二世曲亭主人、美妙斎、美妙子、樵耕蛙船、飛影などの号も用いた。
秋山 定輔(あきやま ていすけ、慶応4年7月7日(1868年… 秋山 定輔(あきやま ていすけ、慶応4年7月7日(1868年8月24日) - 昭和25年(1950年)1月19日)は、岡山県出身の政治家、実業家。衆議院議員。『二六新報』社長。 備前国窪屋郡、のちの岡山県都窪郡倉敷町(現倉敷市)で生まれる。父の秋山儀四郎は倉敷の出身で、堂島の米相場で成功したのち道頓堀の角座・浪花座を買収した大阪興行界の大物であった。東京帝国大学卒業後、会計検査院に勤務。1893年に大石正巳・稲垣満次郎を顧問に『二六新報』を社長として創刊。資金難のため1895年休刊。1900年再刊し、三井財閥攻撃、娼妓自由廃業などの醜聞暴露キャンペーンによって民衆の人気を博す。同様に有名人のスキャンダルを売り物とする『萬朝報』紙と売り上げを二分した。
織田 萬(おだ よろず、慶応4年7月4日(1868年8月21… 織田 萬(おだ よろず、慶応4年7月4日(1868年8月21日) - 1945年(昭和20年)5月26日)は、日本の法学者。専門は行政法。京都帝国大学名誉教授。常設国際司法裁判所判事。関西大学学長。財団法人立命館名誉総長。佐賀県須古邑生まれ。 佐賀県須古邑の士族・須古精一の次男として生まれた。佐賀藩の本流にはなかったものの、須古邑(現・白石町)を支配する須古鍋島家の親族家老・須古西家に属す名士であった。1歳の時に織田範治の養子として迎えられ、織田家の子供として育てられた。1879年(明治12年)、須古小学校を卒業した織田は、当時須古邑に安住百太郎が開設した「鶴陰学舎」で漢籍や外国法律書などを学ぶ。
柿沼 竹雄(かきぬま たけお、1868年 8月20日(慶応4… 柿沼 竹雄(かきぬま たけお、1868年 8月20日(慶応4年7月3日) - 1951年(昭和26年))は、日本の文部・内務官僚。官選県知事。 下野国都賀郡鹿沼町(現栃木県鹿沼市)出身。今宮神社社家・柿沼雅雄の長男として生まれる。祖父、日光二荒山神社宮司・柿沼広身の薫陶を受けた。柿沼の教育のため一家で東京に移住。 第一高等学校を経て、1898年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。文部省に入省。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1901年4月、福島県視学官に就任。以後、徳島県視学官、同県事務官、宮崎県事務官・第一部長兼第三部長、山梨県事務官・内務部長、岩手県内務部長などを歴任。
木村 艮(きむら ごん、1868年8月19日(明治元年7月2… 木村 艮(きむら ごん、1868年8月19日(明治元年7月2日)- 1930年(昭和5年)10月2日)は、明治から昭和初期の農業技術者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・西川。 山城国綴喜郡、のちの京都府綴喜郡田辺村(田辺町を経て現京田辺市)で、西川長次の二男として生まれ、1885年(明治18年)木村艮司の養子となり、1891年(明治24年)4月、家督を相続した。1896年(明治29年)7月、帝国大学農科大学農学科を卒業した。 京都府技師となる。同年8月、京都府農会技師兼幹事となり1908年(明治41年)4月まで在任。この間、京都府立農林学校嘱託教師、京都蚕業講習所嘱託教師、京都府立農事試験場嘱託なども務め、京都府下の農業振興に尽力した。