若松 虎雄(わかまつ とらお、1890年(明治23年)1月1… 若松 虎雄(わかまつ とらお、1890年(明治23年)1月1日 - 1949年(昭和24年)9月24日)は、大正から昭和前期の外交官、実業家、政治家。衆議院議員。カトリック教徒。 長崎県南高来郡、のちの島原市で、若松長次郎の四男として生まれ、1921年(大正10年)に分家した。第五高等学校を経て、1913年(大正2年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学経済学科を卒業した。 大蔵省に入省し専売局書記に任官。1917年(大正6年)久原鉱業に転じ、久原商事副支配人、同ロンドン支店長代理を歴任。1921年(大正10年)外務省に転じ、ロンドン在勤で副商務官、在英国大使館商務書記官を務めた。
金森 次郎(かなもり じろう、1889年(明治22年)10月… 金森 次郎(かなもり じろう、1889年(明治22年)10月31日 - 1983年(昭和58年)8月14日)は日本の実業家。東京光学機械元社長。山之内製薬(現:アステラス製薬)元顧問。宗教家金森通倫の二男。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
川瀬 俊男(かわせ としお、1889年8月15日 - 198… 川瀬 俊男(かわせ としお、1889年8月15日 - 1982年6月9日)は、日本の経営者。愛知県出身。 1918年に東京帝国大学法学科を卒業。三菱製紙での勤務を経て、1934年に江戸川化学工業常務に就任し、1946年には社長に昇格した。1956年から1960年6月までに会長を務めた。 1960年5月に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1982年6月9日高血圧性心不全のために死去。92歳没。
賀集 益蔵(かしゅう えきぞう、1889年6月13日 - 1… 賀集 益蔵(かしゅう えきぞう、1889年6月13日 - 1974年11月5日)は、日本の経営者。三菱レイヨン社長を務めた。 兵庫県出身。1917年に東京帝国大学農学部農学実科を卒業。 1933年に新興人絹(のちの三菱レイヨン)常務に就任し、1939年に専務を経て、1950年6月には社長に就任した。1959年11月から1965年11月まで会長を務めた。 1974年11月5日、心不全で死去した。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山田 紹之助(やまだ つぐのすけ、1889年〈明治22年〉6… 山田 紹之助(やまだ つぐのすけ、1889年〈明治22年〉6月12日 - 没年不明)は、日本の実業家、工学者。北海道帝国大学教授。阜新製作所社長。満州炭鉱理事。衆議院議員山田喜之助の長男。 東京府の弁護士・山田喜之助の長男。1909年7月、石川県金沢の第四高等学校を卒業後、9月東京帝国大学工科大学機械工学科に進学。1912年7月、大学を卒業し、鉄道院に奉職。1913年、家督を相続した。 その後、官を辞して明治鉱業に入社した。欧米各国に留学した。1925年8月、北海道帝国大学に開設された工学部の教授(鉱山工学教室・鉱山機械学担当)に就任した。1938年3月、北海道帝国大学教授を退官して満州炭鉱株式会社の技師に転じた。
北澤 敬二郎(きたざわけいじろう、1889年(明治22年)5… 北澤 敬二郎(きたざわけいじろう、1889年(明治22年)5月28日 - 1970年(昭和45年)10月25日)昭和期の実業家。住友本社常務理事、大丸社長を務めた。位階は従三位。 山形県米沢市元籠町に於いて、旧米沢藩士で海軍省経理局などの官吏を務めた北沢虎蔵の次男として生まれる。米沢尋常中学興譲館(現・山形県立米沢興譲館高等学校)、一高を経て、1914年に東京帝国大学法科大学を卒業後、住友総本店に入社。アメリカ・プリンストン大学への留学を経て、住友電線支配人、住友倉庫専務、住友生命保険専務を歴任。1931年に住友本社常務理事となる。しかし、敗戦後の1946年に財閥解体で理事を辞任。翌1947年には公職追放の憂き目に遭った。
川副 隆(かわそえ たかし、1889年(明治22年)4月8日… 川副 隆(かわそえ たかし、1889年(明治22年)4月8日 - 1962年(昭和37年)8月2日)は、大正から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。 長崎県西松浦郡伊万里町(現伊万里市)で、政治家川副綱隆の長男として生まれる。1915年(大正4年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 三菱商事に入社。漢口出張所長、船舶部長代理、漢口日本居留民団行政委員などを歴任。その後、海運業に従事し、神戸会陽汽船取締役、大阪静鉱業取締役、佐世保親和銀行取締役、佐世保運輸取締役、西肥菱油取締役、川副商会社長、日東燃料社長、九北運輸社長、丸三肥料社長、佐世保魚市場社長、佐世保製氷冷蔵社長などを務めた。 1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙(長崎県第2区、立憲民政党公認)で初当選し、1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して再選された。
小原 英一(おはら えいいち、1889年3月22日 - 19… 小原 英一(おはら えいいち、1889年3月22日 - 1959年12月22日)は、日本の実業家・運輸官僚。南海電気鉄道元社長・会長。 千葉県出身。東京帝国大学政治学部卒業後、1915年に鉄道院入りし、配車課長、貨物課長を歴任した後、1934年に退官。南海鉄道へ中途入社し、運輸部長、専務取締役を歴任した後、関西急行鉄道との合併で近畿日本鉄道副社長に就任。 1947年に南海電気鉄道発足に伴い社長に就任するが、南海野球(当時のプロ野球球団・南海ホークスの運営会社)会長となり、1950年に南海電鉄社長に復帰してその後は会長も歴任。南海会館をはじめ動物園・水族館・四国航路など関連事業に尽力し、太平洋野球連盟会長、新日本放送(現:毎日放送)監査役などを務めた。
篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1… 篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1975年6月9日)は、日本の経営者、薬学博士。第一製薬社長を務めた。 愛知県海部郡蟹江町出身。第八高等学校を経て、1914年に東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、1922年にはイギリスのマンチェスター大学に留学。 東京薬学専門学校、徳島高等工業学校で教授を務め、1934年に第一製薬に入社し、1935年に取締役に就任し、1938年に常務を経て、1947年には社長に就任。1963年に会長を経て、1966年には相談役に就任した。 1960年5月に藍綬褒章を受章し、1964年に勲三等瑞宝章を受章。 1975年6月9日、心不全のために死去。86歳没。
川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治22年)1月… 川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治22年)1月2日 - 1978年(昭和53年)3月3日)は、日本赤十字社社長などを務めた内務官僚。労働問題の権威として知られた。息子は英文学者・東京大学名誉教授の川西進。義兄に、三谷隆正と三谷隆信。新渡戸稲造を師と仰いだ。
川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治21年)1月… 川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治21年)1月2日 - 1978年(昭和53年)3月3日)は、日本赤十字社社長などを務めた内務官僚。労働問題の権威として知られた。息子は英文学者・東京大学名誉教授の川西進。義兄に、三谷隆正と三谷隆信。新渡戸稲造を師と仰いだ。
小島 勇之助(こじま ゆうのすけ、1889年 - 1964年… 小島 勇之助(こじま ゆうのすけ、1889年 - 1964年)は、日本の実業家・郵趣家。松竹キネマなどの企業の重役などを務めるとともに、精力的な切手蒐集を行い、1925年には当時まで発行された日本切手を完集したと宣言するなど、著名なコレクターであった。東京帝国大学在学中には陸上競技選手としても足跡を残している。 東京生まれ。父は実業家で衆議院議員も務めた山中隣之助。生まれて間もなく小島兼美の養子となる。実兄には山中勇(東京山中銀行頭取)がいる。 学習院高等科を経て東京帝国大学医科大学薬学科に学ぶ。在学中にはスポーツに打ち込み、1911年(明治44年)11月の東京大学運動会では100m走で優勝(12秒26)。
宮部 一郎(みやべ いちろう、1888年〈明治21年〉12月… 宮部 一郎(みやべ いちろう、1888年〈明治21年〉12月22日 - 1990年〈平成2年〉10月3日)は、日本の実業家。 埼玉県羽生市出身。東京帝国大学経済学部卒業。昭和期における産業組合(農業協同組合の前身)の指導者として活動した。協同組合短期大学(1973年廃止)の2代目学長も務めた。植物学者・宮部金吾の女婿。 宮部一郎 | 打越顕太郎 | 美土路達雄 | 湯河元威 | 江上繁一
坂田 武雄(さかた たけお、1888年12月15日 - 19… 坂田 武雄(さかた たけお、1888年12月15日 - 1984年1月12日)は、日本の経営者。サカタのタネの創業者。 東京都出身。1909年に東京帝国大学農学部実科を卒業。農商務省海外実業練習生として、アメリカやヨーロッパの苗木商で経験を積み、アメリカでは簿記を学んだ。1913年に横浜で坂田商会を創業し、植物種子の生産輸出を始めた。1942年12月に坂田種苗と改称し、社長に就任。1974年に会長に就任。 1958年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲四等瑞宝章を受章した。 1984年1月12日心不全のために死去。95歳没。 サカタのタネが成功するきっかけとなったのは、坂田が完成させた必ず咲く八重咲きペチュニアだった(それまでは、種を撒いても八重咲きとなるのは50%程度だった)。
福田 耕(ふくだ たがやす、1888年(明治21年)12月1… 福田 耕(ふくだ たがやす、1888年(明治21年)12月15日 - 1970年(昭和45年)2月7日)は、大正から昭和期の官僚、実業家、政治家。衆議院議員。 福井県今立郡吉谷村(片上村を経て現鯖江市)で福田助右衛門の長男として生まれる。1921年(大正10年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 東京市主事に就任し電気局、道路局で勤務。日本無線電信 (株) に転じ、対欧建設事務所副長、建設課長、工務課長を歴任。1934年(昭和9年)岡田内閣の内閣総理大臣秘書官に就任。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で福井県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。その後、華中電気通信社長、日本タイプライター社長、大和紙業社長を務めた。
滝脇 宏光(瀧脇、たきわき ひろみつ、1888年〈明治21年… 滝脇 宏光(瀧脇、たきわき ひろみつ、1888年〈明治21年〉12月13日 - 1964年〈昭和39年〉2月22日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・古市、旧名・強哉。 帝国大学工科大学学長・古市公威の四男強哉として生まれ、子爵・滝脇信鑰の養子となる。養父の隠居に伴い、1923年(大正12年)4月30日、子爵を襲爵。宏光と改名した。 第七高等学校造士館を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年、鉄道院に入り経理局属となる。1916年(大正5年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。以後、鉄道院書記、同副参事兼同総裁秘書、鉄道省事務官兼同大臣秘書官、鉄道省参事官、内閣総理大臣秘書官などを歴任。
渋沢 正雄(しぶさわ まさお、1888年〈明治21年〉11月… 渋沢 正雄(しぶさわ まさお、1888年〈明治21年〉11月1日 - 1942年〈昭和17年〉9月10日)は、日本の実業家。子爵・渋沢栄一の三男。日満鉄鋼販売、石川島自動車製作所、富士製鋼各社長。東京石川島造船所専務取締役。日本製鐵常務取締役兼八幡製鐵所長。族籍は東京府平民。 渋沢栄一の三男で、渋沢篤二、渋沢武之助の弟、渋沢秀雄の兄。渋沢敬三、渋沢信雄、渋沢智雄の叔父。渋沢雅英と渋沢裕の大叔父。1906年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て1915年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。同年分家する。第一銀行に入り1917年、これを辞する。 渋沢貿易、富士製鋼、汽車製造、石川島造船所、石川島自動車、石川島飛行機、秩父鉄道、富士鋼材商会、日本鋼製建具、日本煉瓦製造、日本鋼管各会社の重役だったが1932年末、総ての関係会社を辞任し製鉄業に専念する。
明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30… 明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30日 - 1956年(昭和31年)5月6日)は、日本の機械工学者(精密工学)、実業家。東京帝国大学卒業後、明石製作所を創業。工学博士となり、精密工学会会長を務めた。 日本の陸上競技黎明期に短距離走・中距離走・走幅跳の選手として活躍したほか、昭和初期にはゴルフに傾倒してゴルフコースの設計を行うなど、スポーツの世界にも足跡を残した。 東京生まれ。第一高等学校から東京帝国大学に進む。1913年(大正2年)東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。「恩賜の銀時計」を受け、大学院特選給費学生として母校に残った。 学生時代には陸上競技選手として活躍。一高在学時、英米の陸上競技書を多数読んで練習に活かしたという。
安場 保健(やすば やすたけ、1888年(明治21年)6月1… 安場 保健(やすば やすたけ、1888年(明治21年)6月18日 - 1944年(昭和19年)2月3日)は、大正から昭和期の実業家、電気技術者、政治家、華族。貴族院男爵議員。 実業家・安場末喜の長男として生まれた。父の死去に伴い、1930年(昭和5年)4月15日、男爵を襲爵した。 1913年(大正2年)7月、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。同年、芝浦製作所に入社。その後、東洋電気製作所取締役、東京金鋼技術顧問、東京港運社長、芝浦運輸社長、東亜印刷監査役などを務めた。 1934年(昭和9年)2月15日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して死去するまで2期在任した。その他、逓信省委員、運輸通信省委員などを務めた。
岩垂 亨(いわだれ とおる、1888年 <明治21年> 6月… 岩垂 亨(いわだれ とおる、1888年 <明治21年> 6月3日 - 1974年 <昭和49年> 6月16日)は日本の化学者、実業家。梅毒治療薬サルバルサンの国内製造を行い、また万有製薬を創設し初代社長を務めた。位階は正五位。 1888年(明治21年)、宇田作太郎の次男として三重県宇治山田町(現在の伊勢市二俣町)で誕生。愛知県立第一中学校に入学するも中退し、神戸病院などで働いたのち、東京に住む叔父の勧めで東京に移転し再び勉学に取り組むことになった。 1906年(明治39年)、東京高等師範学校に入学。1910年(明治43年)3月には本科数物化学部を卒業し物理および化学の教員免状を得た。私立名古屋中学校に就職するが、ほどなく退職し同年10月には東京帝国大学理科大学化学科に入学。
野田 俊作(のだ しゅんさく、1888年(明治21年)5月1… 野田 俊作(のだ しゅんさく、1888年(明治21年)5月14日 – 1968年(昭和43年)7月27日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院議員、参議院議員、福岡県知事。 福岡県出身。衆議院議員・野田卯太郎の長男として生まれる。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。南満洲鉄道に入社した。 1924年(大正13年)5月の第15回総選挙で千葉県第九区から政友会公認で出馬して初当選。1927年(昭和2年)に父が死去すると、翌年2月の第16回総選挙では父の地盤だった福岡県第三区から出馬し当選。以後1937年(昭和15年)4月の第20回総選挙まで連続6回の当選を果した。この間犬養内閣の鉄道参与官、鉄道会議議員、廣田内閣の司法政務次官、政友会総務などを歴任する。
乾 利一(いぬい りいち、1888年〈明治21年〉3月30日… 乾 利一(いぬい りいち、1888年〈明治21年〉3月30日 - 没年不明)は、日本の官吏、会社役員。 大阪府中河内郡南高安村(現・八尾市)の人・乾亀松の長男。1915年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入る。岡山県属兼警視。岡山県和気郡長となる。北海道庁、奈良、鹿児島各県理事官、沖縄県書記官、復興局事務官を経て1936年、退官する。 中国合同電気に入り、取締役総務部長として経営の第一線に立つ。山陽中央水電、山陽商事各取締役、新見電気、久米水力電気、羽東川電気、鳥取電燈、作陽水力電気、姫路電球各監査役などをつとめる。 1925年、家督を相続する。趣味は東洋倫理、東洋古典、俳句。宗教は仏教、融通念仏宗。
小田 彦太郎(おだ ひこたろう、1888年(明治21年)1月… 小田 彦太郎(おだ ひこたろう、1888年(明治21年)1月29日 - 1952年(昭和27年)5月14日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、延岡市会議長、宮崎県東臼杵郡延岡町長。 宮崎県東臼杵郡延岡城下北町(延岡町を経て現延岡市)で生まれる。1910年(明治43年)東京帝国大学農科大学林学実科を卒業した。 帰郷して回漕業を営む。延岡商工会議所会頭、商事調停委員、延岡瓦斯取締役、高千穂運輸取締役、宮崎県木材取締役、延岡バス監査役、宮崎県瓦斯用木炭取締役社長などを務めた。 政界では、延岡町会議員、延岡町長、延岡市会議員、同議長、同参事会員、宮崎県会議員、同副議長などに在任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選。
阿部 良夫(あべ よしお、1888年〈明治21年〉1月6日 … 阿部 良夫(あべ よしお、1888年〈明治21年〉1月6日 - 1945年〈昭和20年〉4月15日)は日本の物理学者、新聞社社長。 阿部宇之八の長男として北海道札幌区に生まれる。北海道庁立札幌中学校から第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月東京帝国大学理科大学理論物理学科を卒業。1913年(大正2年)4月から8月までシーメンス・シュッケルト社(現・シーメンス)技師、1916年(大正5年)4月から早稲田大学高等師範部講師、1920年(大正9年)4月から早稲田大学高等学院教授となり、科学哲学と科学史の研究に精励する。1923年(大正11年)10月辞職。父の死去に伴い、1925年(大正14年)に北海タイムス社理事、1927年(昭和2年)に同社社長となる。
石井 五郎(いしい ごろう、1888年 - 1951年)は、… 石井 五郎(いしい ごろう、1888年 - 1951年)は、日本の実業家。阪神電鉄副社長、草創期の大阪野球倶楽部監査役などを務めた。 1904年(明治37年)東京府立第一中学校を卒業。以後、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学卒業。1912年(大正元年)、高文合格。近江銀行入行。1934年(昭和9年)朝日海上火災保険(現在のあいおいニッセイ同和損害保険)専務取締役就任。 1935年(昭和10年)4月25日、阪神電鉄の堀啓次郎社長、山口覚二常務が辞任し、今西与三郎専務が社長に就任すると、その後任専務として石井が朝日海上火災専務取締役から阪神電鉄専務取締役に就任した。山口の後任常務には岡喜太郎が就いた。
佐々田 三郎(ささだ さぶろう、1887年〈明治20年〉12… 佐々田 三郎(ささだ さぶろう、1887年〈明治20年〉12月29日 - 1970年〈昭和45年〉3月)は日本の実業家。旧姓錦織。 元貴族院議員佐々田懋の養子。 島根県簸川郡斐川村出身。錦織栄次郎の三男。 大正2年(1913年)東大法学部卒。安田保善社に入社。翌年安田銀行に転じる。 同12年(1923年)監理課長、同13年(1924年)海外視察、同15年(1926年)以降兵庫支店長、続いて神戸、京都、大阪各支店長を歴任。 昭和26年(1951年)第三信用組合長。 その間安田保善社取締役、アマゾニヤ産業、大垣共立銀行、大多喜天然ガス、富国繊維各取締役、佐々田奉公会理事等をつとめた。 のち、東京都信用組合協会長を務めた。
寺井久信(てらい ひさのぶ、1887年〈明治20年〉11月1… 寺井久信(てらい ひさのぶ、1887年〈明治20年〉11月15日 - 1958年〈昭和33年〉11月30日)は、昭和期の実業家。和歌山県日高郡志賀村(現・日高町)出身。 1909年(明治42年)第一高等学校英法科卒業。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学経済科を卒業して日本郵船に入社。ロンドン支店副長、カルカッタ支店長、上海支店長、貨物課長などを務める。1935年(昭和10年)依願退職し、南洋海運の専務取締役に就任。1938年(昭和13年)日本郵船副社長に就任、1942年(昭和17年)社長に就任、1946年(昭和21年)まで務めた。 戦後、公職追放となり、1951年追放解除、同年日本郵船相談役。
藤村 朗(ふじむら あきら、1887年(明治20年)10月2… 藤村 朗(ふじむら あきら、1887年(明治20年)10月25日 - 1963年(昭和38年)7月17日)は、日本の建築家・実業家。 北海道出身。その後東京府(現・東京都)に移住。第二高等学校を経て、1911年(明治44年)東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。三菱に入社し、地所課技師長を務めた。三菱銀行本店、丸ノ内ビルヂング(丸ビル)、丸ノ内八重洲ビルヂング(八重洲ビル)、学士会館増築、法曹会館など、大正・昭和期のオフィスビル建設に従事し、1937年(昭和12年)三菱地所取締役、1946年(昭和21年)12月から1948年(昭和23年)6月まで三菱地所取締役社長。その後、藤村建築研究所を主宰。1953年(昭和28年)より死去まで三菱地所取締役を務めた。
前田 穰(まえだ みのる、1887年〈明治20年〉10月15… 前田 穰(まえだ みのる、1887年〈明治20年〉10月15日 - 1955年〈昭和30年〉6月28日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、実業家、政治家。参議院議員(1期)。 三重県四日市出身。第五高等学校を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学を卒業。鉄道院(のち鉄道省)に入り神戸鉄道管理局書記に任官。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、大阪鉄道局課長、門司鉄道局課長、運輸局総務課長、大臣官房人事課長、大阪鉄道局長、仙台鉄道局長、鉄道省運輸局長などを歴任。1934年(昭和9年)8月、同省監督局長に就任し、1937年(昭和12年)7月まで在任して退官した。 その後、阪和電鉄監査役、南海電鉄常任監査役、都市計画三重地方委員、三重県労働調停委員、三重交通社長、ユネスコ三重協力会会長、三重県経営者協会会長、同県社会福祉協議会会長などを務めた。
三村 起一(みむら きいち、1887年8月15日 - 197… 三村 起一(みむら きいち、1887年8月15日 - 1972年1月28日)は、日本の実業家。住友鉱業(現住友金属鉱山)初代社長、石油開発公団初代総裁などを歴任。 東京・銀座尾張町出身。実父の山口慎、養父の三村直ともに旧信濃上田藩士。第一高等学校を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に大阪の住友総本店に入社する。住友伸銅所勤務を経て、1919年(大正8年)~1921年(大正10年)欧米出張。1931年(昭和6年)住友伸銅鋼管取締役、1932年(昭和7年)住友別子鉱山常務、専務を経て、1941年(昭和16年)住友鉱業(現住友金属鉱山)初代社長兼住友本社理事。この間、住友機械製作(現住友重機械工業)、大日本産業報国会理事などの役員を兼務。
河田 重(かわだ しげ、1887年 <明治20年> 7月25… 河田 重(かわだ しげ、1887年 <明治20年> 7月25日 - 1974年 <昭和49年> 2月17日)は、日本の経営者。日本鋼管社長を務めた。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 現在の茨城県龍ケ崎市出身。1916年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 太陽生命保険での勤務を経て、1919年に日本鋼管に転じ、1942年に監査役に就任し、取締役、常務を経て、1947年5月に社長に就任した。1963年11月から1966年11月まで会長を務めた。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各常任理事も務めた。 1958年に藍綬褒章を受章し、1964年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1974年2月17日、急性肺炎で死去した。
膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月2… 膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月21日 - 1951年〈昭和26年〉11月25日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。位階は従三位。勲等は勲三等。日本工業倶楽部理事、日本団体生命保険社長、経済安定本部総務長官(初代)、物価庁長官(初代)、貴族院議員を歴任した。 1887年(明治20年)、群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)で、薬商・膳浅次郎(好孝)の三男として生まれる。伊勢崎尋常小学校に学んだ。1896年(明治29年)に父が脳溢血で死去。1900年(明治33年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学するが、同盟休校(ストアイキ)の首謀者として退学となり、1903年(明治36年)に上京した。
久保 孚(くぼ とおる、1887年5月5日 - 1948年4… 久保 孚(くぼ とおる、1887年5月5日 - 1948年4月19日)は、日本の鉱山技術者(工学博士)、経営者。撫順炭鉱など満洲における鉱物資源採掘、経営に携わった。中華民国(国民政府)によって平頂山事件の責任を問われ銃殺刑に処されたが、日本では冤罪と考えられている。 1887年(明治20年)5月5日、父・義道と母・久米の長男として高知県土佐郡大川筋で生まれた。幼名は東洋士。1905年(明治38年)に高知県立第一中学校を卒業、第三高等学校を経て東京帝国大学に進学。1912年(明治45年)7月に同大学工科大学採鉱冶金学科を卒業すると、すぐに南満洲鉄道に就職、撫順炭鉱の鉱務課に勤務した。 順調に昇進を続け、1932年(昭和7年)には撫順炭鉱長に着任。
吉村 哲三(よしむら てつぞう、1887年(明治20年)3月… 吉村 哲三(よしむら てつぞう、1887年(明治20年)3月10日 - 1967年(昭和42年)3月1日)は、日本の内務官僚、実業家。政友会系官選県知事、鳥取市長、鳥取銀行頭取。 現在の鳥取市立川町出身。第一高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。日本銀行に入るが三カ月で退職。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、内務省に入省し東京府属となる。 以後、鳥取県八頭郡長、宮城県理事官、内務事務官・大臣官房都市計画課勤務、同都市計課長兼鉄道書記官、兼土木局河川課長などを歴任し、1924年、大阪府書記官・内務部長に就任。 1927年11月、青森県知事に就任。
中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年2月8日 - 19… 中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年2月8日 - 1954年11月21日)は、日本の実業家、映画製作者、弁護士、政治家である。大正から昭和初年にかけて衆議院議員であり、日本活動写真(日活)の専務取締役、代表取締役社長として映画を製作した。衆議院議員の中谷元は孫。 1887年(明治20年)、茨城県真壁郡下妻町(現・下妻市)に元下妻藩士・中ノ内昌為の四男として生まれる。 1901年(明治34年)母の兄弟であった、もと土佐藩士で大審院判事や樺太地方裁判所長などを務めた中谷速水の養子となった。 1913年(大正2年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。三井物産に入社して香港支店勤務となるが辞職して台湾に移り、弁護士を開業。
渋沢 武之助(しぶさわ たけのすけ、1886年〈明治19年〉… 渋沢 武之助(しぶさわ たけのすけ、1886年〈明治19年〉12月26日 - 1946年〈昭和21年〉6月4日)は、日本の実業家。子爵・渋沢栄一の二男。族籍は東京府平民。 渋沢栄一の二男で、渋沢正雄、渋沢秀雄の兄、渋沢篤二の弟、渋沢敬三、渋沢信雄、渋沢智雄の叔父。第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に学んだが、病を得て半途退学し実業界に入った。 石川島飛行機製作所社長、国産電機相談役、国際産業、十勝開墾、仏国通商、浅野セメント各取締役、日本醋酸製造、大島製鋼、渋沢同族、浅野セメント、東京石川島造船所各監査役、帝国飛行協会理事などをつとめた。 1914年、分家した。趣味は運動。住所は東京市滝野川区西ヶ原町。
村井 八郎(むらい はちろう、1886年(明治19年)12月… 村井 八郎(むらい はちろう、1886年(明治19年)12月24日 - 1970年(昭和45年)10月11日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。衆議院議員、福島県知事、郡山市長、川崎市長、会津若松市長を歴任した。旧姓・阿部。位階は従四位。 福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。阿部又吉の五男として生まれ、村井半之助の養子となる。会津中学、第一高等学校を経て、1912年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し福島県属兼警部となる。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、新潟県東蒲原郡長、同三島郡長、同理事官、長野県警察部長、大分県警察部長、熊本県書記官・警察部長、山形県書記官・内務部長、大阪府書記官・警察部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。
古田 俊之助(ふるた しゅんのすけ、1886年(明治19年)… 古田 俊之助(ふるた しゅんのすけ、1886年(明治19年)10月15日 - 1953年(昭和28年)3月23日)は、日本の実業家で、第七代住友総理事である。第2次大戦の敗戦により、住友財閥が解体され、住友最後の総理事となる。 京都府葛野郡衣笠村字等持院(現・京都市北区等持院北町)の寺侍井上数馬・エンの五男として生まれる。1899年(明治32年)14歳の時、大阪製鎖所を経営する古田敬徳の養子となり、大阪府一中(現・大阪府立北野高等学校)に進んだ。六高を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学工科大学を卒業し、住友総本店に入社する。 入社以来、ほとんど住友伸銅所の技術畑を歩き、1935年(昭和10年)の住友金属工業誕生とともに、専務取締役に任ぜられ、翌1936年(昭和11年)には合資理事として住友の大幹部の1人となった。
大久保 繁雄(おおくぼ しげお、1886年(明治19年)10… 大久保 繁雄(おおくぼ しげお、1886年(明治19年)10月6日 - 1958年(昭和33年)3月17日)は、昭和の日本の実業家。三菱石油社長や千代田化工建設初代社長・会長を歴任した。 大久保為昭の四男として長崎県に生まれる。1912年7月東京帝国大学政治科卒業後、三菱合資会社に入社。1918年三菱鉱業(現三菱マテリアル)、翌年三菱商事に入社し、香港・大阪・シンガポールなどで支店長を務めた。1944年6月三菱石油(現 JXTGエネルギー)に移ると、同年11月より同社社長を務める。1948年に同社工事部が分離独立して千代田化工建設が発足すると初代社長に就任。1957年11月、同社会長となり、玉置明善が次代社長となった。
阿野 季忠(あの すえただ、1886年(明治19年)10月4… 阿野 季忠(あの すえただ、1886年(明治19年)10月4日 - 1944年(昭和19年)12月3日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員、陸軍主計少尉。旧公家の阿野家。 子爵・阿野実允の三男として生まれ、父の死去に伴い、1887年(明治20年)10月20日、子爵を襲爵した。 1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年(大正2年)十五銀行に入行し、秘書業務部副長、監理課長、大阪支店長、取締役、副頭取などを歴任。その他、藤永田造船所取締役、第一信託取締役、園池製作所会長、蓬莱殖産専務取締役、帝国倉庫運輸監査役などを務めた。 1944年3月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動したが、出征し同年12月に戦死した。
佐藤 謙之輔(さとう けんのすけ、1886年(明治19年)9… 佐藤 謙之輔(さとう けんのすけ、1886年(明治19年)9月17日 - 1957年(昭和32年)11月15日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。謙之助と表記する場合がある。 新潟県南蒲原郡小栗山村(新潟村、見附町を経て現見附市)で、旧家・佐藤宗弥の二男として生まれる。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1914年(大正3年)家督を相続した。 大学卒業後、新潟自動車商会に入り、その後、同社長となる。その他、相互信用無尽会社社長、新潟土地取締役、新潟建物取締役、新潟硫酸監査役、新潟新聞監査役、新潟銀行(現第四銀行)取締役、新潟港湾倉庫取締役、日本海倉庫取締役などを務めた。
平野 復男(ひらの またお、1886年(明治18年)7月5日… 平野 復男(ひらの またお、1886年(明治18年)7月5日 - 没年不明)は、日本の実業家。平野大豆工業元社長。大日本紡績(現:ユニチカ)元取締役。日本製粉(現:ニップン)元取締役。 石川県金沢市出身。大聖寺藩士であった上杉寛二の四男(または三男)として生まれる。兄は憲法学者で東京帝国大学教授の上杉慎吉。 1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学英法科を優等の成績で卒業し、同年高等文官試験に合格。神奈川県に奉職し、理事官を務める。1910年(明治43年)辞職。 その頃、たまたま縁戚にあたるユアサコーポレーション創業者の湯浅七左衛門(早川千吉郎の弟)の紹介で、摂津紡績(現:ユニチカ)取締役を務めた平野平兵衛(金沢仁作の弟)の長女・いちと結婚。
中島 弥団次(中島 彌團次、なかじま やだんじ、1886年〈… 中島 弥団次(中島 彌團次、なかじま やだんじ、1886年〈明治19年〉6月13日 - 1962年〈昭和37年〉12月21日)は、日本の政治家、大蔵官僚、実業家。衆議院議員。 高知県安芸郡野根村(現東洋町野根)で、海運業・中島弥平次、也久夫妻の長男として生まれる。野根尋常高等小学校、江陽学舎、高知県立中学海南学校を経て、1908年7月、第六高等学校文科甲類を卒業。上京して濱口雄幸の書生となる。1909年9月、東京帝国大学法科大学政治学科に入学し、1912年7月に卒業。 1912年7月、大蔵省雇となり、1913年11月8日、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し青森県属となる。1915年1月、大蔵省へ転じ専売局書記に任じられ高崎専売支局勤務となる。
石坂 泰三(いしざか たいぞう、1886年(明治19年)6月… 石坂 泰三(いしざか たいぞう、1886年(明治19年)6月3日 - 1975年(昭和50年)3月6日)は、日本の財界人、経営者。逓信省を退官、第一生命保険に入社。第一生命保険、東京芝浦電気社長を経て、第2代経済団体連合会(経団連)会長(在任、1956年(昭和31年)2月21日 - 1968年(昭和43年)5月24日)。経団連会長を4期、12年務めた。経団連会長の異名 「財界総理」は石坂泰三を嚆矢とする。正三位勲一等。 1886年(明治19年)6月3日、東京に石坂義雄・こと夫妻の三男として生まれる。父・義雄は埼玉県大里郡奈良村の地主の子として生まれ、東京へ出て家庭教師や書記等の仕事をしていた。とくに裕福というほどでもないが、平和な中産家庭だったという。
小日山 直登(こびやま なおと、1886年(明治19年)4月… 小日山 直登(こびやま なおと、1886年(明治19年)4月26日 - 1949年(昭和24年)8月28日)は、昭和期日本の実業家、政治家。南満洲鉄道総裁を務め、第二次世界大戦末期の鈴木貫太郎内閣に入閣。ポツダム宣言受諾の意思を示した。 福島県出身。生家は士族出身であったが、生活は貧しく小さな水車小屋で生まれ育つ。会津中学、第二高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学英法科を卒業すると共に文官高等試験に合格して南満洲鉄道株式会社(満鉄)に入社する。塔連炭鉱事件(満鉄疑獄事件)に連座して一時偽証罪で起訴されるが控訴審で無罪となり、満鉄に復帰。理事を経て、1943年(昭和18年)7月、満鉄生え抜きの人材として初めて満鉄総裁となる。
遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3… 遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3月18日 - 1963年〈昭和38年〉9月18日)は、日本の政治家、官僚、実業家、弁護士。衆議院議員。貴族院議員。参議院議員。武蔵野銀行初代頭取。 埼玉県葛飾郡千塚村(北葛飾郡行幸村、幸手町を経て現幸手市)生まれ。遠藤幸五郎の二男。第二高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業後、文官高等試験に合格し、内務省に入る。朝鮮総督府に入り試補、同書記官、同秘書官を務めた。1920年、東京府産業部長、次いで千葉県内務部長、青森・三重県知事を歴任した。 1928年、埼玉3区から立憲政友会に属して衆議院議員となった。弁護士を開業し、武蔵野鉄道会社社長に就任。
二代 戸田 利兵衛(にだい とだ りへい、本名:富田 繁秋、… 二代 戸田 利兵衛(にだい とだ りへい、本名:富田 繁秋、1886年1月5日 - 1981年3月28日)は、日本の実業家。戸田組(現在の戸田建設)の社長・会長を務めた。 茨城県出身。本名は富田繁秋。1913年に東京帝国大学卒業後、初代の戸田利兵衛に子が恵まれなかったことにより養嗣子として迎えられ、初代没後の1920年に2代戸田利兵衛を襲名し、社長に就任した。 初代戸田利兵衛が築いた戸田組を、1924年の横浜出張所を皮切りに、1931年に名古屋出張所、1936年に大阪支店、1937年に釜石出張所を開設し、全国組織の総合建設業者へと成長させた。また、この間の1936年には戸田組を資本金200万円の「株式会社戸田組」とした。
大塚 信照(おおつか のぶてる、1886年(明治19年)1月… 大塚 信照(おおつか のぶてる、1886年(明治19年)1月1日 - 1958年(昭和33年)3月21日)は、日本の実業家。かつては大日本帝国陸軍の軍人であり、最終階級は陸軍少将であった。退役後、服部時計店取締役を務めた。 愛媛県宇和島市出身。北宇和島町神田川原に生まれる。1904年(明治37年)、兄が旅順要塞の東鶏冠山北砲台において戦死したのを受け、帝国軍人として尽くすことを決意する。兄の手紙には「明暁部下を率い一死以て敵陣に突入する死後は再日露戦争があるだろうからお前は軍人となって俺の敵を討って御国の為に尽くして呉れ」とあった。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。砲工学校、東京帝国大学を卒業し、米国に派遣される。
有村 慎之助(ありむら しんのすけ、1885年〈明治18年〉… 有村 慎之助(ありむら しんのすけ、1885年〈明治18年〉12月 - 1960年以降没)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。大同電力取締役兼営業部長・工務部長などを務めた。福井県出身。 有村慎之助は、1885年(明治18年)12月、福井県人・有村静江の次男として生まれた。1906年(明治39年)7月金沢の第四高等学校第二部工科を卒業、次いで1909年(明治42年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 大学在学中の実習で、富士水電という静岡県東部の電力会社が行っていた発電所建設工事に関わったことから、富士水電に懇望されて卒業後はそのまま同社に技師として入社した。
村上 義一(むらかみ ぎいち、1885年(明治18年)11月… 村上 義一(むらかみ ぎいち、1885年(明治18年)11月10日 - 1974年(昭和49年)1月20日)は、日本の官僚、政治家、実業家。日本通運社長、近畿日本鉄道社長、日本民営鉄道協会顧問、日本交通公社会長。 滋賀県東浅井郡虎姫町(現長浜市)出身。旧制第三高等学校、東京帝国大学法科大学独法科卒業。1912年に鉄道院(のち鉄道省)に入り、1927年(昭和2年)神戸鉄道局長、1928年(昭和3年)大阪鉄道局長、その後1930年(昭和5年)には南満洲鉄道(満鉄)で理事となった。 1937年(昭和12年)には朝鮮運送社長、同年10月1日発足した鉄道省系の国営企業の日本通運の副社長に、1940年には社長に就任する(1943年まで)。