畠山 久尚(はたけやま ひさなお、1905年1月20日 - … 畠山 久尚(はたけやま ひさなお、1905年1月20日 - 1994年2月11日)は、日本の地球物理学者。 新潟県北蒲原郡新発田町生まれ。1922年旧制東京府立第三中学校卒業。1925年旧制第一高等学校理科甲類卒業。1928年東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、中央気象台に入る。1949年気象研究所長、1958年東京管区気象台長、1963年気象庁長官。1965年退官、のち二松學舍大学教授、1975年名誉教授。 1938年10月に、地磁気湾形変化の研究を発表した。1940年「地磁気及び地電流の湾型変化並に脈動に関する研究」で理学博士の学位を取得。
宇田 道隆(うだ みちたか、1905年1月13日 - 198… 宇田 道隆(うだ みちたか、1905年1月13日 - 1982年5月10日)は、昭和期の日本の海洋物理・水産海洋学者。 1905年、高知県土佐郡小高坂村で生まれた。1921年に高知県立第一中学校を卒業後、仙台の第二高等学校に進んだ。1924年、東京帝国大学物理学科に入学し、寺田寅彦や藤原咲平の指導を受けた。1927年に同大学を卒業。 卒業後の1927年(昭和2年)4月、農林省水産講習所(後の東京水産大学、現在は東京海洋大学)技師に採用された。1928年(昭和3年)2月から翌年11月まで、兵役のため、幹部候補生として浜松高射砲第一連隊に入隊。除隊後に復職するが、水産講習所の組織再編により、1929年10月より農林省水産試験場技師となり、海洋調査部に勤務。
正木正(まさき まさし、1905年1月1日-1959年9月3… 正木正(まさき まさし、1905年1月1日-1959年9月3日)は、日本の教育心理学者。 熊本県出身。東京帝国大学卒。浪速高等学校教授、東北大学教授、京都大学教育学部教授。依田新との共著『性格心理学』(1937)で知られた。哲学者カール・ヒルティの翻訳もした。選集全3巻がある。 1959年 従三位勲三等
山本 光雄(やまもと みつお、1905年 ‐ 1981年)は… 山本 光雄(やまもと みつお、1905年 ‐ 1981年)は、古代哲学研究者、東京都立大学名誉教授。福岡県生まれ。東京帝国大学文学部哲学科卒業。1967年まで東京都立大学教授。
小関 紹夫(おぜき つぐお、1905年 - 1987年5月4… 小関 紹夫(おぜき つぐお、1905年 - 1987年5月4日)は、日本の官僚・法学者・弁護士。 佐賀県生まれ。第五高等学校卒、1929年東京帝国大学法学部卒。高等文官試験行政科合格。彦根高等商業学校(現滋賀大学)教授、文部省、厚生省、興亜院に勤務、衆議院内閣委員会専門員、国立国会図書館調査員、1959年「イギリスにおける近代行政の展開」で関西学院大学法学博士。弁護士、専修大学法学部教授、理事、法学部長。1976年定年、名誉教授。
土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - … 土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - 1980年12月23日)は、昭和期に活動した日本の美術評論家、美術史家。 岐阜県生まれ。水戸高等学校時代から文学活動を開始し、東京帝国大学を卒業。1930年にドイツに留学。1935年詩誌『歴程』発足とともに同人となり、美術批評を執筆。1938年興亜院嘱託となり、1942年燕京大学華北総合調査研究所所員。 戦後の1949年、千葉工業大学教授に就任。1951年神奈川県立近代美術館(鎌倉市)副館長、1954年美術評論家連盟会長、1963年『ブリューゲル』で毎日出版文化賞受賞、1965年神奈川県立近代美術館館長、1968年芸術選奨文部大臣賞、1973年菊池寛賞受賞。
小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 194… 小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 1942年3月24日)は、日本の歴史家。旧名は小野均。 岡山県岡山市生まれ。1925年第六高等学校、1928年東京帝国大学文学部国史学科をそれぞれ卒業。卒業論文は「近世城下町の研究」。同年から東京帝国大学史科編纂所に勤務、1937年史料編纂官となる。主に『読史備要』の作成、『大日本史料』の編纂を担当。近世都市と中世商業の研究を進めた。
尾島 碩心(おじま せきしん、1904年12月4日 - 19… 尾島 碩心(おじま せきしん、1904年12月4日 - 1986年1月19日)は日本の心理学者、東京教育大学教授。専門は聴覚心理、ろう教育。1963年11月に榊原清、西谷三四郎らとともに一般社団法人日本特殊教育学会を創立した。聴覚障害児教育の分野に貢献した。勲三等旭日中綬章。 東京都生まれ。(旧制)東京高等学校を卒業。1931年東京帝国大学文学部心理学科を卒業、卒業論文の題名は「旋律的形態知覚の一条件」。同年、同大学大学院に進む。1932年東京帝国大学文学部副手を兼務。1937年(旧制)第六高等学校教授に就任。1942年陸軍予科士官学校教官兼教育総監部付に就任。1946年(旧制)松江高等学校教授に就任。
小川 太郎(おがわ たろう、1904年(明治37年)12月 … 小川 太郎(おがわ たろう、1904年(明治37年)12月 - 1986年(昭和61年))は、日本の刑務官、行刑学者。 茨城県竜ケ崎生まれ。旧制静岡高等学校卒、1929年東京帝国大学経済学部卒、1931年京都府警部補、1932年司法省看守長、1936年府中刑務所典獄補、1938年滋賀刑務所長、1940年司法事務官、1942年司法書記官、1948年法務庁成人矯正保護局長、1949年関東地方成人矯正保護委員会委員長、1954年関東医療少年院長、1958年法務総合研究所第二部長、1958年アジア極東犯罪防止研修所次長、1965年「保護観察を基点とした保安処分」で東大法学博士。19966年亜細亜大学法学部教授、1970-75年法学部長、1975年学校法人亜細亜学園理事、1982年亜細亜大を定年退任。
篠原 登(しのはら のぼる、1904年11月27日 - 19… 篠原 登(しのはら のぼる、1904年11月27日 - 1984年10月16日)は、日本の政府高官・科学者・教育者・工学博士。東海大学学長、科学技術庁顧問などを務めた。 本籍・出身山梨県北巨摩郡明野村(現・北杜市)。 代々山梨県につづく裕福な家庭に生まれる。登の父・璐太郎は篠原家の長男で、当時の日本では家業を継ぐのが習わしであったが、どうしても東京に出て学問の道に進みたいと実家の援助をすべて断り魚屋で丁稚奉公をしながら東京帝国大学を卒業、最後の勤務地は北海道で最高裁判所裁判官まで務めた。また、日本聖公会に属する敬虔なクリスチャンであり、登も父の影響を受けて少年時代に洗礼を受けている。 東京帝国大学工学部電気工学科を卒業。
熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 19… 熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 1992年11月11日)は、昭和・平成期の医師、薬理学者。 東京大学医学部教授。東京大学医学部長。日本医師会副会長。日本医学界会長。東京大学薬学科薬品作用学教室の初代教授。医学界や薬理学界の多くの人材を育てた。旧姓 瀬水。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校卒。旧制新潟高校卒業。1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部医学科卒業。1943年(昭和18年)薬理学教室講師のままジャカルタに赴任し、日本占領下のオランダ領東インド・ジャカルタの医科大学(ジャワ高等医学校)で医学の教授にあたる。1946年(昭和21年)復員、同年から1957年(昭和32年)まで東京大学医学部薬学科薬品作用学教室の初代教授を兼任。
團 勝磨(だん かつま、1904年10月16日 - 1996… 團 勝磨(だん かつま、1904年10月16日 - 1996年5月18日)は、日本の発生生物学者。東京都立大学名誉教授。理学博士。 東京府(現・東京都)生まれ。男爵團琢磨の次男。團伊能の弟。長姉・めいは三井鉱山の社長を務めた牧田環に、三姉・スミは日本石油(現・ENEOS)の社長を務めた小倉房蔵に嫁いだ。父からは跡継ぎに望まれていたが、親の七光りと言われることを嫌い、旧制中学の時に読んだ丘浅次郎『進化論講話』に触発されて生物学の道に進む。 旧制青山学院中学部(現・青山学院中等部・高等部)から旧制第一高等学校入試に失敗、1年浪人後、旧制水戸高等学校理甲に入学。1929年、東京帝国大学理学部動物学科卒業後、発生学の権威ハイルブラン(英語版)を頼ってペンシルベニア大学大学院に留学。
武藤 俊之助(むとう としのすけ、1904年(明治37年)1… 武藤 俊之助(むとう としのすけ、1904年(明治37年)10月9日 - 1973年(昭和48年)11月18日)は、日本の物理学者。専門は原子核物理学。東京大学物性研究所第2代所長。東京大学教授。九州大学教授。理学博士。 岐阜県出身。1928年(昭和3年)、東京帝国大学理学部物理学科卒業。1年間の大学院生活を経て、1930年(昭和5年)、理化学研究所(石田義雄研究室)研究員。1938年(昭和13年)、理学博士。1939年(昭和14年)、九州帝国大学に理学部が設置されるのに伴い、九州帝国大学理学部物理学第一講座初代教授に就任。1940年(昭和15年)、プリンストン高等研究所留学。戦後、1946年(昭和21年)、東京大学理工学研究所教授。
塚本 憲甫(つかもと けんぽ、1904年9月16日 - 19… 塚本 憲甫(つかもと けんぽ、1904年9月16日 - 1974年6月7日)は日本の医学者。専門は放射線医学。国立がんセンター総長を務めた。 東京府で塚本道遠、塚本ハマの三男として生まれる。旧制静岡高校卒業。静岡高校時代以来の親友に長沼弘毅がいる。1927年東京帝国大学医学部に入学。1928年憲甫は年子(旧姓小林)と結婚。1929年10月29日長女ルリ子が生まれる。1931年4月、憲甫、東大臨床医学修了。稲田龍吉の内科医局に在籍した後、癌研究会附属病院の放射線科に入りがんの放射線治療にあたる。戦後茅誠司らの薦めで放射線医学総合研究所の二代目所長となる。1967年、久留勝の引きで国立がんセンター病院長となり、久留の後任として国立がんセンター総長となるが、自身ががんに罹り1974年6月7日総長在職のまま死去。
植田 捷雄(うえだ としお、1904年9月9日 - 1975… 植田 捷雄(うえだ としお、1904年9月9日 - 1975年8月13日)は、東洋外交史を専門とする学者。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1945年)(学位論文「支那に於ける租界の研究」)。東京大学名誉教授。 1904年、東京生まれ。1928年、東京帝国大学法学部を卒業。 卒業後は、大阪毎日新聞社に入社した。1930年、東亜同文書院教授に着任。1937年より東方文化学院研究員。1939年外務省嘱託、1942年東京大学東洋文化研究所嘱託。1945年に学位論文『支那に於ける租界の研究』を東京大学に提出して法学博士の学位を取得した。 太平洋戦争後は、1948年より東文研研究員、1949年東大東文研教授。
渡辺 光(わたなべ あきら、1904年9月2日 - 1984… 渡辺 光(わたなべ あきら、1904年9月2日 - 1984年4月29日)は、日本の地理学者。お茶の水女子大学名誉教授。地理調査所(現在の国土地理院)、お茶の水女子大学などで研究を行った。 東京市麹町区に生まれる。1917年麹町区立富士見尋常高等小学校を卒業。1922年旧制開成中学卒業。1925年旧制第二高等学校理科を卒業、東京帝国大学理学部地理学科に入学し、山崎直方・辻村太郎・多田文男等の指導を受ける。 1927年 第3回太平洋学術会議が東京で開催されたとき「日本の火山分類図」を辻村の指導の下に制作し、出品した。1928年3月 東京帝国大学を卒業。その後、同大学地理学教室副手となる。また、日本大学の講師も務めた。
梶芳 光運(かじよし こううん、1904年8月25日 - 1… 梶芳 光運(かじよし こううん、1904年8月25日 - 1984年1月18日)は、日本の仏教学者。 長野県松本市生まれ。1929年東京帝国大学文学部卒。1949年「原始般若経の研究」で文学博士(東京大学)。東京水産大学助教授、大正大学助教授、教授、1974年定年退任、名誉教授。
松平 親義(まつだいら ちかよし、1904年(明治37年)8… 松平 親義(まつだいら ちかよし、1904年(明治37年)8月16日 - 1968年(昭和43年)3月16日)は、昭和期の法学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・松平親信の長男として生まれる。父の死去に伴い、1915年(大正4年)1月11日、子爵を襲爵した。 1925年(大正14年)学習院高等科を卒業し、1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部を卒業。1930年(昭和5年)陸軍省嘱託となる。以後、拓務省嘱託、貴族院事務局嘱託、外務大臣秘書官付嘱託などを務めた。 1941年(昭和16年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
杉 勇(すぎ いさむ、1904年8月1日- 1989年11月… 杉 勇(すぎ いさむ、1904年8月1日- 1989年11月25日)は、日本の歴史学者、東京教育大学名誉教授。専攻は古代オリエント史。 1904年、大阪で生まれた。東京帝国大学文学部西洋史学科で学び、1927年に卒業。 卒業後は東京教育大学助教授に就いた。後に教授昇格。1968年に東京教育大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は明治大学教授、跡見学園女子大学教授を務めた。1989年に死去。死去と同時に正四位受勲。
北川 一栄(きたがわ かずえ、1904年7月26日 - 19… 北川 一栄(きたがわ かずえ、1904年7月26日 - 1978年11月17日)は、日本の実業家、工学博士。住友電気工業元社長。 大阪府大阪市出身。1927年に東京帝国大学工学部を卒業し、住友電線製造所(のちの住友電気工業)に入社した。 1956年11月から社長を務め、1966年11月から会長を務めた。 その一方で、原子力委員会委員、通産省電子情報処理振興審議会会長、産業構造審議会情報産業部会長、関西経済同友会幹事、日本電線工業会会長、関西情報センター理事長なども歴任した。大阪大学工学部電気工学科で非常勤講師も務めた。1956年に紫綬褒章を受章し、1967年に藍綬褒章を受章し、1974年に勲一等瑞宝章を受章。
鈴木 俊(すずき しゅん、1904年7月20日 - 1975… 鈴木 俊(すずき しゅん、1904年7月20日 - 1975年7月25日)は、日本の東洋史学者。 1904年、東京で生まれた。東京帝国大学文学部東洋史学科で学び、1929年に卒業。 修了後は、東洋大学教授に就いた。後に法政大学教授。戦後は九州大学教授、中央大学教授。1975年に死去。
細谷 恒夫(ほそや つねお、1904年7月6日 - 1970… 細谷 恒夫(ほそや つねお、1904年7月6日 - 1970年8月17日)は、日本の教育哲学者、東北大学名誉教授。ディルタイやフッサールを研究。 山形県出身。旧制山形高校を経て、東京帝国大学文学部卒。広島高等学校(旧制)教授、東北帝国大学助教授、1943年教授。東北大学教授、67年定年退官、名誉教授、山形大学長。
楢崎 宗重(ならさき むねしげ、1904年6月26日 - 2… 楢崎 宗重(ならさき むねしげ、1904年6月26日 - 2001年7月18日)は、日本の美術史家、立正大学名誉教授。 佐賀県生まれ。旧制五高、東京帝国大学文学部卒業。1942年立正大学教授。1954年「近世風俗画様式史の研究」で東洋大学文学博士。1962年日本浮世絵協会を設立し理事長。1975年定年退任、名誉教授。研究活動の中で収集した美術品は、墨田区に寄贈し、現在はすみだ北斎美術館が所蔵している。
末広 恭雄(すえひろ やすお、1904年 6月4日 - 19… 末広 恭雄(すえひろ やすお、1904年 6月4日 - 1988年7月14日)は、日本の水産学者・随筆家・作曲家。
有山 兼孝(ありやま かねたか、1904年〈明治37年〉4月… 有山 兼孝(ありやま かねたか、1904年〈明治37年〉4月26日 - 1992年〈平成4年〉5月5日)は、日本の物理学者。専門は物性物理学。名古屋大学名誉教授。第12期日本物理学会会長。位階勲等は従三位勲二等旭日重光章。 1904年4月26日、東京にて生まれた。1928年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業後1年で大学院を中退し、東京工業大学で助手・講師を務めた。1933年3月から1936年3月まで、文部省在外研究員として、ゲッチンゲン、ミュンヘン、ライプツィヒ、コペンハーゲンに留学した。帰国後、理化学研究所の仁科芳雄研究室の助手に着任し、のちに学習院大学の教授に異動した。1942年4月、名古屋帝国大学理学部の創設に伴い、同大学の物理学科の教授に転任した。
古賀 武夫(こが たけお、1904年4月19日 - 1992… 古賀 武夫(こが たけお、1904年4月19日 - 1992年5月3日)は、日本の法学者。西南学院大学学長、西南学院名誉顧問。 1904年(明治37年)、福岡県甘木市に生まれる。 1928年(昭和3年)、東京帝国大学法科卒業。1943年(昭和18年)、東京帝国大学大学院修了。その後日本貯蓄銀行、関東学院勤務などを経て、1949年(昭和24年)に西南学院大学教授に就任。1956年(昭和31年)から1969年(昭和44年)までのおよそ13年間に渡り同大の学長をつとめる。また1989年(平成元年)から西南学院理事長を2年間務めた。 専門は民法。勲三等旭日中綬章を1974年(昭和49年)に受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
木村 雄吉(きむら ゆうきち、1904年4月17日 - 19… 木村 雄吉(きむら ゆうきち、1904年4月17日 - 1989年10月10日)は、日本の生化学者・科学哲学者、東京大学名誉教授。木村謹治の弟。 秋田県秋田市生まれ。山形高等学校を経て、1928年東京帝国大学理学部動物学科卒。大学では五島清太郎に師事、求道学舎で近角常観に師事する。医学部生化学教室で柿内三郎に教えを受け、1933年理化学研究所入所、1937年第二高等学校教授、1946年東京医科歯科大学教養部設立に参与。1949年東京大学教養学部教授。1956年伝染病研究所細胞化学研究部長。1965年定年退官。1974年勲三等瑞宝章受章。1989年10月10日、肺癌のため死去。
都 逢渉(ト・ボンソプ、朝鮮語: 도봉섭、1904年4月8日… 都 逢渉(ト・ボンソプ、朝鮮語: 도봉섭、1904年4月8日 - 没年不詳)は、大韓民国の植物学者、薬学者。北朝鮮の政治家。第2期最高人民会議代議員。本貫は星州都氏。妻は画家の鄭燦英。 本籍はソウル市東大門区回基洞。 咸鏡南道出身。東京帝国大学(現・東京大学)医学部薬学科卒。1945年11月から1946年10月まで初代朝鮮生物学会(現・韓国生物科学協会)会長を務め、1946年から1949年まで初代朝鮮薬学会(現・大韓薬学会)会長を務めた。朝鮮戦争中の1950年9月26日午前ごろ、大学へ出勤後に行方不明になった。北朝鮮側の関係者2名によって拉致されたと見られる。以後平壌医科大学の教授、第2期最高人民会議代議員を務めた痕跡がある。
森末 義彰(もりすえ よしあき、1904年4月3日 - 19… 森末 義彰(もりすえ よしあき、1904年4月3日 - 1977年12月17日)は、日本史学者、東京大学名誉教授。 1904年、香川県生まれ。1922年に第五高等学校に入学し、1925年に卒業。東京帝国大学文学部国史学科に進学し、1928年に卒業論文「江戸初期に於ける演劇と社會との関係」をまとめて卒業した、史料編纂所業務嘱託、1932年史料編纂官補、1936年史料編纂官。 戦後、1954年に東京大学史料編纂所教授となり、1962年より所長を務めた。1965年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は白百合女子大学教授として教鞭をとった。 「国書総目録」編集委員のひとり。
藤田 健治(ふじた けんじ、1904年3月8日 - 1993… 藤田 健治(ふじた けんじ、1904年3月8日 - 1993年10月10日)は、日本の哲学者。文学博士(東京大学・論文博士・1961年)。お茶の水女子大学名誉教授。 東京出身。東京帝国大学哲学科卒。成城高等学校教授、戦後お茶の水女子大学助教授、1950年、教授。1961年、「十九世紀後半欧州哲学思想史の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。1964年から1968年まで、お茶の水女子大学学長。筑波大学参与。1978年、放送教育開発センター所長、1981年、放送大学学園初代理事長。 シェリング、ニーチェを研究し著書多数。著作集全7巻がある。 ギリシア古典に興味を抱いたきっかけは旧制第一高等学校の岩元禎教授によるものであるという。
今関 六也(いまぜき ろくや、1904年3月7日 - 199… 今関 六也(いまぜき ろくや、1904年3月7日 - 1991年7月24日)は、日本の菌類学者。東京出身。 野口次郎三の四男として生まれ、今関常次郎の養子となる。兄に野口明がいる。 1928年東京帝国大学卒業後、副手として植物病理学教室に勤務。東京大学でサルノコシカケ科の標本を整理することが、キノコ研究に進むきっかけとなった。 科学博物館勤務時代(1932-47)には、サルノコシカケ科の分類学研究を行う一方、科学博物館の基礎研究部門の発展に力を尽くした。 戦後は、農林省林業試験場で、森林保護部門の整備と拡充に貢献した。退官後は、キノコの正しい知識を一般に広めるために、啓蒙書や図鑑類を多く執筆した。
船越 義房(ふなこし よしふさ、1904年〈明治37年〉2月… 船越 義房(ふなこし よしふさ、1904年〈明治37年〉2月4日 - 没年不明)は、日本の会社役員、工学博士。熊谷組顧問。旧姓・北垣。 島根県能義郡大塚村(現・安来市)出身。北垣仁之助の三男。1925年、松江高等学校理科卒業、同年に鳥取県米子市紺屋町、船越作一郎の養子となる。1929年、東京帝国大学工学部建築学科卒業。同大学院にて建築音響学を専攻する。 日本大学講師、教授。藤原工業大学、東京府立高校、成蹊高校各講師、厚生科学研究所員、三星産業技術部長。1952年、日建設計工務常務取締役。1969年、熊谷組入社、同社専務取締役、のちに同社顧問。 宗教は仏教。趣味は写真、庭球、ゴルフ。住所は東京都杉並区上荻2丁目。
目加田 誠(めかだ まこと、1904年〈明治37年〉2月3日… 目加田 誠(めかだ まこと、1904年〈明治37年〉2月3日 - 1994年〈平成6年〉4月30日)は、古典中国文学者、九州大学名誉教授、日本学士院会員。 1904年、山口県岩国市で生まれた。。父母が相次いで早世し、中学生にして一家の長としての責任を負うことになった。水戸高等学校を経て、東京帝国大学支那文学科に入学。1929年に東京帝国大学を卒業。 卒業後は、1930年に第三高等学校教授となった。1931年に結婚。1933年、九州帝国大学助教授に任じられ、そのまま文部省在外研究員として北平に研究留学(1933年10月から1935年10月まで)。この留学期間中の記録として『北平日記』8冊を記していた。
佐々木 達(ささき たつ、1904年2月2日 - 1986年… 佐々木 達(ささき たつ、1904年2月2日 - 1986年4月10日)は、日本の英語学者、東京外国語大学名誉教授。神奈川県出身。東京帝国大学英語英文学科卒業。卒業論文で第1回シェークスピアメダル受賞。1949年、東京外国語大学教授。1966年、定年退官、名誉教授。英語文体論が専門で、『コンサイス英和辞典』の編者として知られる。
坂元 彦太郎(さかもと ひこたろう、1904年1月25日 -… 坂元 彦太郎(さかもと ひこたろう、1904年1月25日 - 1995年2月4日)は、日本の教育・保育学者。岡山大学名誉教授。 宮崎県都城市生まれ。1940年東京帝国大学文学部社会学科卒、姫路師範学校教諭、1943年岡山師範学校女子部長、1945年11月大阪第一師範学校女子部長、文部省初等教育課長、1949-51年岡山師範学校校長、岡山大学教育学部長(-56年)・教授、1958年名誉教授、お茶の水女子大学教授、59年お茶の水女子大学附属幼稚園長、1969年青山学院大学教授、洗足学園大学教授、1974年十文字学園女子短期大学学長。1984-94年旭出学園 (特別支援学校) 校長。 1959年NHK放送文化賞受賞。
米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 19… 米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 1971年6月20日)は、日本の経営者、工学博士。久保田鉄工(現在のクボタ)社長を務めた。 広島県呉市出身。1928年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に久保田鉄工(現在のクボタ)に入社。1946年に取締役に就任し、1949年に常務、1960年に専務を経て、1967年に社長に就任した。 1968年11月に紫綬褒章を受章した。 1971年6月20日、胃がんのために死去。67歳没。
祖父江 寛(そぶえ ひろし、1904年(明治37年)1月9日… 祖父江 寛(そぶえ ひろし、1904年(明治37年)1月9日 - 1979年(昭和54年)2月14日)は、日本の応用化学者である。 愛知県名古屋市に生まれる。東京帝国大学(現在の東京大学)に入学後、工学部に所属し応用化学を専攻した。卒業後は東京工業大学に勤務し、講師を経て助教授として活動する。1936年(昭和11年)より留学のため渡英し羊毛の研究に携わり、その後ドイツに移住しアルカリセルロースの研究にも携わった。 1939年(昭和14年)に帰国後は、その応用として合成繊維(アルカリ繊維素)の研究に携わる。これによって、1941年(昭和16年)に理学博士の称号を得た。翌1942年(昭和17年)より教授に昇格し、1948年(昭和28年)に母校の東京大学に復帰し同大学で教鞭を執る。
伏見 猛彌(伏見 猛弥、ふしみ たけや、1904年〈明治37… 伏見 猛彌(伏見 猛弥、ふしみ たけや、1904年〈明治37年〉1月2日 - 1972年〈昭和47年〉3月15日)は、日本の教育学者。戦後日本の英才教育の先駆者として知られる。福島県出身。国民精神文化研究所では哲学者の小島威彦、国家学者の大串兎代夫と共に三羽烏と呼ばれた。 1928年、東京帝国大学文学部教育学科卒業。東京帝国大学大学院修了。 東京帝国大学助手兼日本大学講師。1936年、文部省国民精神文化研究所所員。1943年、教学錬成所錬成官。戦後公職追放。1951年、学校図書株式会社顧問。1952年、追放解除、玉川大学教授。1963年教授。玉川大学教育学科長。1965年、英才教育研究所設立、同所長。
仁井田 陞 (にいだ のぼる、1904年〈明治37年〉1月… 仁井田 陞 (にいだ のぼる、1904年〈明治37年〉1月1日 - 1966年〈昭和41年〉6月22日)は、日本の法制史学者。東京大学名誉教授。中田薫門下。中国法制史の開拓者として知られる。正三位勲二等瑞宝章。宮城県仙台市生まれ。 旧制松本高等学校文科甲類を経て、1928年に東京帝国大学法学部を卒業。東方文化学院東京研究所研究員に着任。第二次世界大戦中は華北農村、北京商工ギルドの調査に従事。戦後その研究成果として、法社会学的な観点も取り入れた『中国の社会とギルド』『中国の農村家族』を著した。本業の中国法制史の分野でも、『中国法制史』『中国法制史研究』(朝日賞受賞)などの大著を世に送り、学会をリードした。
岡田 家武(おかだ いえたけ、1904年 - 1970年)は… 岡田 家武(おかだ いえたけ、1904年 - 1970年)は、中国語名を馬謝民、後には馬植夫といい、華西大学(四川大学の前身の一つ)教授を務めるなど、主に中国で活動した日本の地球化学者。 逓信省鉄道局の官吏だった父・岡田甲子之助と、母・與志の間の長男として、東京府東京市麹町区(後の千代田区の一部)に生まれる。弟に、後に物理学者となる岡小天がおり、ほかに弟がもう一人と、妹が二人いた。 当時は内幸町にあった東京府青山師範学校附属小学校(後の東京学芸大学附属世田谷小学校の前身)から、市ヶ谷加賀町にあった東京府立第四中学校(後の東京都立戸山高等学校の前身)に進んだが、幼少時から鉱物に関心をもっていた岡田は、この頃から各地を旅して鉱物採集を行ない、東京帝国大学理学部教授の神保小虎(鉱物学)の研究室にも出入りしたといわれる。
大畠 清(おおはた きよし、1904年 - 1983年)は、… 大畠 清(おおはた きよし、1904年 - 1983年)は、日本の宗教学者、東京大学名誉教授。 1928年、東京帝国大学宗教学科卒。1936年、東京帝国大学講師、1947年助教授、1953年教授。1965年定年退官、名誉教授。 古代ユダヤ教、ヘブライ史を専門とした。
黒川 純一(くろかわ じゅんいち、1904年 - 1985年… 黒川 純一(くろかわ じゅんいち、1904年 - 1985年3月7日)は、日本の社会学者。 1927年東京帝国大学文学部社会学科卒、東京大学教養学部教授、1963年定年退官、名誉教授、明治学院大学教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田中 和夫(たなか かずお、1903年12月26日 - 19… 田中 和夫(たなか かずお、1903年12月26日 - 1998年8月3日)は、日本の法学者。専門は英米法、民事訴訟法。一橋大学名誉教授、九州大学名誉教授、獨協大学名誉教授。和歌山県伊都郡山田村(現橋本市)出身。長男は英米法学者の田中英夫。田中ゼミ出身者には池田光晴(元創価大学教授)、魚谷増男(元愛媛県警察本部長)などがいる。高柳賢三門下。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
宮崎 吉夫(みやざき よしお、旧姓:伊藤〈いとう〉、1903… 宮崎 吉夫(みやざき よしお、旧姓:伊藤〈いとう〉、1903年〈明治36年〉12月23日 - 1956年〈昭和31年〉10月24日)は、日本の病理学者、医師。医学博士。東京高等歯科医学校病理学教室初代教授、東京大学伝染病研究所病理学研究部長。 新潟県中蒲原郡横越村大字沢海(現 新潟市江南区沢海)の豪農・六代目伊藤文吉の五男として出生。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1923年(大正12年)3月に第二高等学校を卒業、1927年(昭和2年)3月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 1927年(昭和2年)4月に東京帝国大学医学部病理学教室(担任:緒方知三郎教授)副手に就任、1932年(昭和7年)12月に東京高等歯科医学校病理学教室講師に就任、1933年(昭和8年)3月に東京高等歯科医学校病理学教室初代教授に就任、1935年(昭和10年)7月に東京帝国大学から医学博士号を取得、1944年(昭和19年)4月に東京医学歯学専門学校病理学教室教授に就任、1948年(昭和23年)7月に東京大学伝染病研究所病理学研究部部長・教授に就任、東京医科歯科大学歯学部病理学教室講師を兼任、1951年(昭和26年)2月に東京医科歯科大学歯学部病理学教室教授に就任、東京大学伝染病研究所病理学研究部部長・教授を兼任、1956年(昭和31年)6月に東京大学伝染病研究所所長事務代理に就任、東京大学伝染病研究所病理学研究部部長・教授と東京医科歯科大学歯学部病理学教室教授を兼任。
吾妻 光俊(あづま みつとし、1903年11月9日 - 19… 吾妻 光俊(あづま みつとし、1903年11月9日 - 1973年4月21日)は、日本の法学者。専門は民法・労働法・社会保障法。一橋大学名誉教授。末弘厳太郎門下。弟子に蓼沼謙一、横井芳弘など。 東京で横田秀雄(大審院院長・民法学者)の子として生まれる。1925年第一高等学校卒業。1928年東京帝國大學法学部法律学科卒業。同法学部助手。1930年東京商科大学附属商学専門部専任講師。1935年東京商科大学附属商学専門部教授。1936年東京商科大学商学部助教授。1936年労働法研究のためドイツ・イタリア・アメリカ合衆国に留学( - 1939年)。1940年東京商科大学学生主事( - 1941年)。1941年東京商科大学商学部教授。
楊井 克巳(やない かつみ、1903年11月8日 - 199… 楊井 克巳(やない かつみ、1903年11月8日 - 1997年9月14日)は、日本の経済学者、東京大学名誉教授。 1903年、山口県生まれ。旧制山口高等学校を経て、東京帝国大学経済学部に進む。大学では矢内原忠雄に師事した。 太平洋戦争後、東京大学経済学部教授となり、経済学部長をつとめた。1959年、「アメリカ帝国主義史論」を提出して経済学博士号を取得。1964年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後も日本大学教授、立正大学教授、帝京大学教授として教鞭をとり、1990年に退職した。
日高 孝次(ひだか こうじ、1903年11月4日 - 198… 日高 孝次(ひだか こうじ、1903年11月4日 - 1984年8月15日)は、日本の海洋物理学者。弟は歴史学者の日高次吉。 1903年に宮崎県宮崎郡広瀬村(現在の宮崎市)で出生。旧制宮崎中学を経て第七高等学校造士館を卒業後、東京帝国大学理学部物理学科に進学し、1926年(大正15年)に同大学を卒業。その後すぐに中央気象台に入庁、海洋気象台で勤務した。この間、転倒温度計(英語版)に関する日高公式を作成した。 1934年(昭和9年)に「湖沼の振動及び海流に関する海洋物理学的研究」で理学博士。同論文で帝国学士院から学士院賞を受賞した。1941年(昭和16年)、他の日本の海洋学者らとともに日本海洋学会を設立し、自身も1948年(昭和23年)から1966年(昭和41年)まで同会会長を務めた。
渡辺 漸(わたなべ すすむ、1903年10月30日 - 19… 渡辺 漸(わたなべ すすむ、1903年10月30日 - 1984年4月2日)は日本の病理医、医学者。登山家。広島大学病理学第二講座初代教授、第4代医学部長。広島大学原爆放射能医学研究所初代所長。広島大学名誉教授。「雪山讃歌」作詞者の一人。東京都出身。 1921年(大正10年)静岡県立静岡中学校卒業。1922年(大正11年)第三高等学校 (旧制)入学。浪人中に西堀栄三郎と知り合い、揃って合格したところに今西錦司が落ちてきて、三人一緒になり、のちに高橋健治、桑原武夫、四手井綱彦らが加わり三高山岳部(のちの京都大学山岳部)が出発した。 1925年(大正14年)、東京帝国大学医学部進学、東大ではスキー部に所属。
池田 雄一郎(いけだ ゆういちろう、1903年10月18日 … 池田 雄一郎(いけだ ゆういちろう、1903年10月18日 - 1973年8月3日)は、日本の物理学者。 静岡県出身。1930年東京帝国大学物理学科卒業、1935年同大学院修了。1939年旧制立教中学教諭、1943年旧制松本高等学校教授、1949年信州大学理学部教授、1952年理学部長、1967年教養部長、1968年学長を歴任した。 俳人としては「魚魯」と号した。
柳沢 米吉(柳澤、やなぎさわ よねきち、1903年〈明治36… 柳沢 米吉(柳澤、やなぎさわ よねきち、1903年〈明治36年〉9月12日 - 1995年〈平成7年〉1月31日)は、昭和時代の土木工学者。内務官僚。実業家。海上保安庁長官。群馬県安中市出身。 群馬県碓氷郡安中町上野尻(現・安中市安中)に生まれる。旧制群馬県立高崎中学校、旧制第八高等学校を経て、1927年(昭和2年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入る。 1943年(昭和18年)運輸通信省港湾局建設課長、1946年(昭和21年)港湾局計画課長、1948年(昭和23年)中国海運局長兼広島海上保安本部長、1951年(昭和26年)海上保安庁長官に就任。同年、不正入出国に関する件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。