安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年… 安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年5月12日)は、日本の菌類学者である。
東京大学:5,428人
安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年… 安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年5月12日)は、日本の菌類学者である。
安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年… 安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年5月12日)は、日本の菌類学者である。 東京の旗本の家に生まれた。府立一中から第一高等学校を経て、東京帝国大学植物学科に入学した。松村任三、三好学の指導を受け、菌類の生理学を学んだ。1897年、第二高等学校(東北大学)の講師となり、同年教授となった。蘚苔類、地衣類、菌類の研究を行った。樹木の病害を起こす原因菌の研究も行い、記載した菌類には、Thelephora japonica Yasuda(イボタケ)、Mycoleptodonoides pergamenea (Yasuda) Aoshima & H.Furuk(ブナハリタケ)、Trametes orientalis (Yasuda) Imazeki(クジラタケ)、などがある。
織田 萬(おだ よろず、慶応4年7月4日(1868年8月21… 織田 萬(おだ よろず、慶応4年7月4日(1868年8月21日) - 1945年(昭和20年)5月26日)は、日本の法学者。専門は行政法。京都帝国大学名誉教授。常設国際司法裁判所判事。関西大学学長。財団法人立命館名誉総長。佐賀県須古邑生まれ。 佐賀県須古邑の士族・須古精一の次男として生まれた。佐賀藩の本流にはなかったものの、須古邑(現・白石町)を支配する須古鍋島家の親族家老・須古西家に属す名士であった。1歳の時に織田範治の養子として迎えられ、織田家の子供として育てられた。1879年(明治12年)、須古小学校を卒業した織田は、当時須古邑に安住百太郎が開設した「鶴陰学舎」で漢籍や外国法律書などを学ぶ。
関 豊太郎(せき とよたろう、1868年8月11日(慶応4年… 関 豊太郎(せき とよたろう、1868年8月11日(慶応4年6月23日) - 1955年(昭和30年)3月20日)は、日本の土壌学者。黒ボク土(火山灰土壌)の組成とその改良方法研究に貢献した。また、盛岡高等農林学校教授時代に、宮沢賢治を指導したことでも知られる。 士族・関定暉の長男として、東京(江戸)市谷に生まれる。1892年帝国大学農科大学農学科を卒業。 1893年(明治26年)6月から福岡県立尋常中学修猷館教諭を皮切りに、広島師範学校教諭、鳥取県立農学校教諭、宮城農学校教諭、山形県立庄内農業学校教諭、広島高等師範学校教授を経て、1905年盛岡高等農林学校(岩手大学農学部の前身)の土壌学の教授に就任。
飯塚 啓(いいづか あきら、慶応4年6月16日〈1868年8… 飯塚 啓(いいづか あきら、慶応4年6月16日〈1868年8月4日〉 - 昭和13年〈1938年〉12月10日)は、日本の動物学者(理学博士)。元学習院大学教授。環虫類の世界的権威として知られた。息子は地理学者の飯塚浩二。 1868年、上野国北群馬郡小野上村(現・群馬県渋川市)に生まれる。初名・熊吉。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退。第二高等中学校を経て、1897年、東京帝国大学動物学科を卒業。 1900年8月第六高等学校教授、翌月東京帝国大学助教授。1910年、学習院大学教授に就任。 1919年、エッセイ集「伊香保みやげ」の中で、榛名湖のシジミの減少を予言した[要出典]。皇太子・裕仁親王への進講も行った。
岡田 朝太郎(おかだ あさたろう、慶応4年5月29日(186… 岡田 朝太郎(おかだ あさたろう、慶応4年5月29日(1868年7月18日) - 昭和11年(1936年)11月13日)は、日本の法学者。専門は刑法。弟子に穂積重遠など。 号は三面子、虚心。川柳の研究家としても知られ、「岡田三面子」名義で『日本史伝川柳狂句』全27巻(遺稿、古典文庫、1972年 - 1981年)などの著作がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
加藤 茂苞(かとう しげもと、慶応4年5月17日(1868年… 加藤 茂苞(かとう しげもと、慶応4年5月17日(1868年7月6日) - 1949年(昭和24年)8月16日)は、出羽国鶴岡(現・山形県鶴岡市)出身の農学者。農学博士。九州帝国大学教授。水原高等農林学校教授。東京農業大学教授。 水稲の品種改良に約25年に渡り取り組み続け、数多くの新品種の創出を指導し東北稲作改良の父といわれた。代表的な新品種に「陸羽132号」がある。また、世界に存在する稲を印度型と日本型の2種類の型に分類する事を提案した。著作物に、水稲品種の改良、新品種育成に関する論文25編、講演筆記22編がある。
丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日)… 丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日) - 1955年〈昭和30年〉1月18日)は、明治時代-昭和初期の土木技術者、工学博士。 1868年(慶応4年)名古屋生まれ、1889年東京帝国大学工科大学土木学科を卒業。内務省に入り内務技師。仙台、大阪、名古屋の土木監督署で勤務。1900年-1901年に欧米出張(横浜港新港埠頭建設のため)。大蔵省臨時建築部第二課長橫浜支部長、同臨時建築課長などを歴任。この間、木曽川、淀川、最上川の治水事業、横浜、神戸の港湾改良事業などに携わる。1915年、工学博士。1919年、依願免官。同年、日本水力株式会社取締役。1921年、東京市道路局長、河川課長・建築課長事務取扱。
森島 庫太(もりしま くらた、1868年4月29日(明治元年… 森島 庫太(もりしま くらた、1868年4月29日(明治元年4月7日) - 1943年(昭和18年)3月18日)は、日本の医学者、京都帝国大学医学部教授。 医師・森島玄仙の長男として1868年に美濃国(現・岐阜県)で生まれる。1893年東京帝国大学医科大学を卒業。薬物学教室の高橋順太郎教授のもとで助手として採用される。1896年よりドイツ、ベルギーに留学しストラスブール大学(当時ドイツ領)でシュミーデベルク教授に師事した他、ライプチヒ大学、ゲント大学で研究に携わる。 1899年、京都帝国大学医科大学助教授に任じられ、1900年 帰国と同時に薬物学第一講座教授となる。1925年7月21日-1928年4月21日の間医学部長をつとめた後、1928年退官し、名誉教授となった。
仁保 亀松(にほ かめまつ、1868年4月24日(慶応4年4… 仁保 亀松(にほ かめまつ、1868年4月24日(慶応4年4月2日)- 1943年(昭和18年)9月26日)は、日本の法学者。京都帝国大学名誉教授。財団法人立命館初代協議員。日本民法典の成立に寄与。 指導教官である穂積陳重の法律進化論の流れを汲み、法理学・法史学・比較法学を近接させた立場であった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
鶴田 賢次(つるた けんじ、1868年3月1日(慶応4年2月… 鶴田 賢次(つるた けんじ、1868年3月1日(慶応4年2月8日) - 1918年(大正7年)6月10日)は、日本の物理学者。東京帝国大学教授。勲五等。理学博士。 ニコンの前身である東京計器製作所の光学計器部の設立にもかかわった、明治-大正期におけるガラス・光学レンズの第一人者で、三角型体温計の発明者。
松波 仁一郎(まつなみ にいちろう、1868年1月25日(慶… 松波 仁一郎(まつなみ にいちろう、1868年1月25日(慶応4年1月1日) - 1945年(昭和20年)11月3日)は、日本の法学者。専門は海商法。大阪府出身。民法典・商法典起草補助委員の一人。 1868年(慶応4年)岸和田藩士の松波仁右衛門と、妻・八重の長男として大阪岸和田並松町に生まれる。1881年(明治14年)同志社英学校普通科に入学。1886年(明治19年)卒業。キリスト教に対しては批判的だったが、新島襄はそういったことを理由に学生を差別するようなことは全くなく深い感銘を受けたという。同志社卒業後は帝国大学予備門に進学。東京帝国大法科大学に進み、卒業後は1893年(明治26年)に法典調査会起草委員補助に任命され梅謙次郎を補佐、日本民商法典成立に貢献した。
関野 貞(せきの ただし、1868年1月9日(慶応3年12月… 関野 貞(せきの ただし、1868年1月9日(慶応3年12月15日)- 1935年(昭和10年)7月29日)は、日本の建築史学者、建築家・美術史・考古学者。東京帝国大学名誉教授。 高田藩士関野峻節とヤエの次男として生まれた。旧制一高を経て、1895年に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業。卒業論文は平等院の研究であった。辰野金吾の指揮下に日本銀行の工事に参加する。古社寺保存法が立案された1896年に伊東忠太の勧めで内務省技師、奈良県技師となり、奈良の古建築を調査し、建築年代を判定していった。 1889年に平城宮址を発見した。1922年、国の史跡(のちに特別史跡・特別名勝)に指定された。
小野 瓢郎(おの ひさごろう、1867年12月18日(慶応3… 小野 瓢郎(おの ひさごろう、1867年12月18日(慶応3年11月23日) - 1921年(大正10年)10月19日)は、日本の薬学者。従四位勲四等。薬学博士。富山薬学専門学校校長。愛知薬学校校長。族籍は愛知県平民。 江戸出身。北海道平民・小野新之丞の五男。1893年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業して薬学士の称号を得た。1898年、愛知医学専門学校教諭、愛知病院薬剤科長、1908年、愛知薬学校長。1915年7月、薬学博士の学位を授与された。同年9月、富山県技師および富山県立薬学専門学校長兼教授。1921年10月19日死去。享年55。 人柄は温厚篤実、気宇闊達と評された。部下を大切にし、死の前日にも再び校務に就くことを願うほど、仕事に忠実であった。
塩田 泰介(しおた たいすけ、1867年12月5日(慶応3年… 塩田 泰介(しおた たいすけ、1867年12月5日(慶応3年11月10日) ‐ 1938年2月5日)は、日本の造船工学者、実業家。工学博士。 三菱造船常務取締役。 備前国赤坂郡今井村(現・岡山県赤磐市今井)に正好家の四男として生まれる。眞徳小学校に在籍していた1878年、松田金次郎の書生として上京する。 泰介は上京後すぐに松田の転勤に伴って大阪に行き、1881年(明治14年)に大阪商船学校に入学。数学や航海術を本格的に学び、造船製図手になる。 1887年に帝国大学工科大学造船学科に入学。端連の長男である花房義質子爵の書生となる。 帝大卒業後は三菱合資会社に造船技師として入社し、長崎に赴任。1895年、端蓮の妹である塩田鶴の養子となり塩田姓を名乗る。
脇水 鉄五郎(わきみず てつごろう、慶応3年11月9日(18… 脇水 鉄五郎(わきみず てつごろう、慶応3年11月9日(1867年12月4日) - 昭和17年(1942年)8月10日)は、明治から昭和前期の地質学者、土壌学者。東京帝国大学名誉教授。 美濃大垣(現:岐阜県大垣市)に生まれる。1893年(明治26年)東京帝国大学地質学科卒業。1896年(明治29年)同大学農科大学助教授を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学教授となる。1911年から1915年頃に掛けてヨーロッパおよびアメリカに留学し、オーストリアで森林土壌学、イタリアで砂防学を研究。帰国すると地質学や森林土壌学講座を担当した。樺太および北海道にて気候的植生の土壌に対する影響を調査し、表層地質学の新天地を開拓した。
岸上 鎌吉(きしのうえ かまきち、ローマ字表記:Kamaki… 岸上 鎌吉(きしのうえ かまきち、ローマ字表記:Kamakichi Kishinouye、慶応3年11月4日(1867年11月29日) - 昭和4年(1929年)11月22日)は、日本の動物学者・水産学者。日本の水産学黎明期の学者であり、水産上の重要生物を中心に日本に於ける動物分類学の基礎を築いた学者の一人として位置づけられる。 慶応3年、尾張国知多郡横須賀村(後の愛知県知多郡横須賀町、現在の東海市)に生まれる。明治13年(1880年)に愛知県立旭丘高等学校の前進である愛知県中学校へ入学、明治16年(1883年)東京大学予備門へと進む。帝国大学理科大学動物学科へ入学後、箕作佳吉に師事する。丘浅次郎とは動物学科での同期であるが、岸上は本科生であり丘は撰科生である。
伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867… 伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867年11月21日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月7日) は、明治から昭和期の建築家、建築史家である。号は紅雲。位階・勲等・学位・称号は、正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・早稲田大学教授。出羽国米沢(現山形県米沢市)出身。米沢市名誉市民第1号。 少年時代を東京、佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。 西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。
高橋 作衛(たかはし さくえ、1867年11月5日(慶応3年… 高橋 作衛(たかはし さくえ、1867年11月5日(慶応3年10月10日)- 1920年(大正9年)9月12日)は、日本の法学者・政治家。専門は国際法。学位は、法学博士。東京帝国大学名誉教授。帝国学士院会員、貴族院議員、法制局長官。 信濃国高遠藩儒で、維新後に長野県立長野中学教諭となった高橋白山の長男として肥前国(長崎県)に生まれる。第一高等学校を経て、1894年9月、帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。海軍教授となり、日清戦争に際し常備艦隊司令長官付の幕僚(法律顧問)、さらに旅順口根拠地司令長官付(通訳)に異動。1895年5月、海軍大学校勤務となり1896年3月まで務めた。1897年9月から英仏独に留学。
外山 亀太郎(とやま かめたろう、慶応3年9月26日(186… 外山 亀太郎(とやま かめたろう、慶応3年9月26日(1867年10月23日) - 1918年(大正7年)3月29日)は、日本の遺伝学者。カイコにおいてメンデルの法則を実証した功績で知られる。細菌学者の青木薫は実弟。 相模国愛甲郡上古沢村(現・神奈川県厚木市上古沢)に生まれる。1885年に東京農林学校(1890年に帝国大学農科大学となる)に入学。1892年の卒業後も無給助手として数年留まった。1896年に同年創立された福島県蚕業学校(現・福島県立福島明成高等学校)の初代校長に就任しているが、研究に熱中するあまり排斥運動がおこり、1899年に辞任して東京帝国大学へ大学院学生として戻る。1902年、シャムより蚕業指導者の招聘があり、これに応じるため農科大学の助教授に任ぜられ、農務省蚕業技師長として3年間バンコクに赴任した。
野中 到(のなか いたる、1867年9月19日(慶応3年8月… 野中 到(のなか いたる、1867年9月19日(慶応3年8月22日) - 1955年(昭和30年)2月28日)は、日本の気象学者、登山家。妻・千代子と共に富士山頂で最初の越冬観測を試みたことで知られる。 多くの場合、野中至と表記されるが、本名は「到」であり、「至」はペンネームである。墓所は妻・千代子と共に東京都文京区の護国寺にある。 筑前福岡藩士・野中勝良の息子として筑前国(現・福岡県)に生まれる。富士山観測所の設立を思い立ち、1889年に大学予備門(現・東京大学)を中退。この年、富士山頂久須志岳の石室で中村精男ほか2名が、山中湖畔では近藤久治朗が38日間、初めて正式な気象観測を開始している。当時はまだ高地測候所は信州にしかなく、高山での観測は年に数回に限られていたが、野中は富士山での年中観測を目指した。
高根 義人(たかね よしと、慶応3年7月11日〈1867年8… 高根 義人(たかね よしと、慶応3年7月11日〈1867年8月10日〉 - 1930年〈昭和5年〉7月14日)は、日本の法学者。専門は商法。 豊前国英彦山の修験者で攘夷運動家の高根正也の次男として生まれる。平河学校(現・千代田区立麹町小学校)卒業。平河学校では、学年は違うものの児童文学者の巖谷小波や洋画家の黒田清輝、能書家の宮島詠士らと親しくなり、その交流は終生続いた。1886年(明治19年)東京専門学校(現早稲田大学)卒業、1892年(明治25年)東京帝国大学法科大学卒業、同大学院進学。1901年(明治34年)法学博士。 1892年(明治25年)東京専門学校(現早稲田大学)講師就任。ベルリン大学留学等を経て、1900年(明治33年)京都帝国大学法科大学商法第一講座教授、京都法政学校(現在の立命館大学)講師、1907年(明治40年)京都帝国大学を退官し弁護士登録。
田村 律之助(たむら りつのすけ、1867年7月25日〈慶応… 田村 律之助(たむら りつのすけ、1867年7月25日〈慶応3年6月24日〉 - 1932年〈昭和7年〉12月15日)は、下野国都賀郡西水代村(現・栃木県栃木市大平町西水代)出身の農学者。栃木県におけるビール麦(二条大麦)栽培の基礎を作った人物として「ビール麦の父」と呼ばれている。 慶応3年6月24日(1867年7月25日)、下野国都賀郡西水代村(現・栃木県栃木市大平町西水代)に長男として生まれる。自らを律し、律儀な人になるようにと「律」を、田村家の跡継ぎとして父の名から1字を取って「助」を、それぞれ取って律之助と名付けられた。祖父は律之助を立派な跡取りにしようと箸の持ち方や返事の仕方、姿勢など厳しくしつけ、律之助は従順に育った。
市瀬 恭次郎(いちのせ きょうじろう、1867年7月24日(… 市瀬 恭次郎(いちのせ きょうじろう、1867年7月24日(慶応3年6月23日) - 1928年(昭和3年)8月15日)は、明治から大正時代の土木工学者、内務技監、大日本帝国陸軍軍人。 市瀬亨介の次男として丹波国多紀郡(現丹波篠山市)に生まれ、1893年(明治26年)3月、分家する。1890年(明治23年)7月、帝国大学工科大学土木科を卒業し、工学士の称号を得る。1911年(明治44年)工学博士。同年、内務省土木監督署に出仕し、技師試補を拝命。さらに12月には陸軍志願兵となり日清戦争に従軍。1892年(明治25年)8月、陸軍歩兵少尉に進む。1893年(明治26年)11月、土木監督署技師に任じ、広島土木監督署在任中に児島港築港事業に従事した。
神保 小虎(じんぼ ことら、慶応3年5月17日(1867年6… 神保 小虎(じんぼ ことら、慶応3年5月17日(1867年6月19日) - 大正13年(1924年)1月18日)は、明治時代から大正時代にかけての地質鉱物学者。 江戸幕府幕臣神保長致の長男として江戸で生まれる。言語学者の神保格の兄。明治20年(1887年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)で地質学を専攻。同大卒業後、北海道庁技師、全道地質鉱産調査主任を務める。明治25年(1892年)ドイツのベルリン大学に留学し、鉱物学や岩石学などを学ぶ。 帰国後の明治27年(1894年)、母校の東京帝国大学理科大学助教授となり、明治29年(1896年)教授、鉱物学教室設立とともに主任教授となり鉱物学講座を担任した。
服部 宇之吉(はっとり うのきち、慶応3年4月30日(186… 服部 宇之吉(はっとり うのきち、慶応3年4月30日(1867年6月2日) - 昭和14年(1939年)7月11日)は、日本の中国学者。近代的な中国哲学研究の開拓者の一人。東京帝国大学教授、京城帝国大学総長、國學院大學学長、ハーバード大学教授、東方文化学院院長などを歴任。帝国学士院会員。現福島県二本松市出身。 1867年、陸奥国の二本松藩士の三男として生まれる。幼時に生母が早世し、戊辰戦争での父の戦死や自身の右眼失明など苦労を重ねた。1873年、養父の叔父一家と東京に移住、麻布小学校、共立学校に学ぶ。 1883年、大学予備門(後に第一高等学校)入学。1887年、第一高等学校卒業、帝国大学文科大学(後に東大文学部)入学。
池口 慶三(いけぐち けいぞう、1867年5月26日〈慶応3… 池口 慶三(いけぐち けいぞう、1867年5月26日〈慶応3年4月23日〉 - 1933年〈昭和8年〉12月1日)は、日本の薬学者。薬学博士。正四位勲三等。日本薬局方調査会会長。日本薬剤師会顧問。東京薬学専門学校長。族籍は兵庫県平民。 但馬国七美郡(のち兵庫県美方郡村岡町、現香美町)出身。池口吉兵衛の三男。旧村岡藩士である。1885年、家督を相続する。1890年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業し、薬学士の称号を得た。 警視庁技師、衛生試験所技師、内務技師、特許局技師同検査官等歴任。1907年11月、薬学博士の学位を授与された。内国製薬常務取締役兼技師長をへて1927年、東京薬専校長となった。著作に『日本薬局方通解』がある。
一木 喜徳郎(いちき きとくろう、旧字体: 一木 喜德郞、1… 一木 喜徳郎(いちき きとくろう、旧字体: 一木 喜德郞、1867年5月7日〈慶応3年4月4日〉- 1944年〈昭和19年〉12月17日)は、日本の内務官僚、法学者(公法学)、政治家。位階勲等は従一位大勲位。爵位は男爵。旧名は岡田 丘平(おかだ きゅうへい)。号は梁舟。 公法学を専門とする法学者で、帝国大学の法科大学では教鞭を執り、帝国学士院会員にも選任された。天皇機関説を提唱したことでも知られており、美濃部達吉ら後進の育成に努めたが、のちに天皇機関説事件において美濃部らとともに激しい批判に晒された。貴族院勅選議員に勅任されてからは、第1次桂内閣の法制局長官をはじめ、第2次大隈内閣の文部大臣や内務大臣など要職を歴任した。
岡村 金太郎(おかむら きんたろう、慶応3年4月2日(186… 岡村 金太郎(おかむら きんたろう、慶応3年4月2日(1867年5月5日) - 昭和10年(1935年)8月21日)は、日本の海藻学者・水産学者。日本海藻学の開拓者として明治から昭和初期にかけて活躍し、養殖の基礎を築いた。また、日本で初めてプランクトンを定性的に研究した。発表した論文は約250編、海藻に関する著書が極めて多い。 慶応3年4月2日(1867年5月5日)に岡村清七、セイの長男として江戸芝新幸町(現在の東京都港区新橋1丁目)に生まれる。芝新銭座町の攻玉塾、東京大学予備門を経て明治18年(1885年)7月に東京大学理学部(後の帝国大学理科大学)へ入学した。明治22年(1889年)7月の帝国大学理科大学植物学科卒業後は同大学大学院に入学、矢田部良吉のもとで藻類学研究を開始した。
原 嘉道(はら よしみち(かどう)、1867年3月23日〈慶… 原 嘉道(はら よしみち(かどう)、1867年3月23日〈慶応3年2月18日〉- 1944年〈昭和19年〉8月7日)は、日本の官僚、弁護士、法学者、政治家。男爵、法学博士。帝国弁護士会名誉会員。第9代中央大学学長。 田中義一内閣の司法大臣や太平洋戦争開戦当時の枢密院議長を歴任した。 1867年3月23日信濃国高井郡小山村(現在の長野県須坂市小山)に原茂作の長男として生まれる。幼名は亀太郎。父は旧須坂藩の足軽小頭を務めたが、もともとは原虎胤の末裔を称する庄屋格の農家の出である。明治維新で秩禄処分後も、農家だったのでさほど生活苦を味わわずに済んだ。 大学予備門を経て、旧制第一高等学校、1890年(明治23年)帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)英法学部を首席で卒業する。
土井 助三郎(どい すけさぶろう、慶応3年2月6日(1867… 土井 助三郎(どい すけさぶろう、慶応3年2月6日(1867年3月11日) - 大正14年(1925年)2月15日)は、日本の化学者。教育者。 1867年東京府生まれ。1887年(明治20年)、東京帝国大学理科大学応用化学科を卒業。1889年(明治22年)より山口高等中学校教諭となり、1899年(明治32年)からは石川県工業学校校長を務めた。1903年(明治36年)より応用科学研究のためイギリス・フランス・ドイツに留学した。帰国後の1905年(明治38年)からは名古屋高等工業学校校長に就任した。さらに1918年(大正7年)からは大阪工業高等学校校長に転じた。
岡村 司(おかむら つかさ、慶応2年12月14日〈1867年… 岡村 司(おかむら つかさ、慶応2年12月14日〈1867年1月19日〉 - 1922年〈大正11年〉3月23日)は、明治・大正期の法学者・弁護士。子に数学者の岡村博がいる。 下総国猿島郡古河町(現:茨城県古河市)に古河藩家臣・岡村忠右衛門の次男として生まれた。二松学舎で漢学を学んだ後、帝国大学でフランス法を専攻する。1892年(明治25年)に大学を卒業し、陸軍経理学校教授などを経て1899年(明治32年)に京都帝国大学法学部助教授となりフランスに留学、3年後に帰国して教授になった。同じころの留学生に坪井玄道、谷本富、大村仁太郎、森岡常蔵らがいる。1900年(明治33年)には中川小十郎が設立した京都法政学校講師に就任。
大幸 勇吉(おおさか ゆうきち、1867年1月17日(慶応2… 大幸 勇吉(おおさか ゆうきち、1867年1月17日(慶応2年12月12日)- 1950年(昭和25年)9月9日)は、日本の化学者。京都帝国大学名誉教授。 物理化学の基礎を池田菊苗と共に生み出したことで知られている。 士族であった雨夜平八の次男として加賀に生まれる。東京帝国大学に入学し櫻井錠二から理論化学を学ぶ。1892年(明治25年)に卒業後、第五高等学校を経て東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)にて教鞭を執った。 1899年(明治32年)には親交のあった池田と共にドイツに研究のため留学した。ライプツィヒ大学に入学し、同大学の教授であったヴィルヘルム・オストヴァルトから触媒作用研究に携わり、後に転校しゲッティンゲン大学にてヴァルター・ネルンストから電気化学を学ぶ。
勝本 勘三郎(かつもと かんざぶろう、1867年1月17日(… 勝本 勘三郎(かつもと かんざぶろう、1867年1月17日(慶応2年12月12日) - 1923年(大正12年)12月17日)は、日本の法学者(刑法)・検察官・弁護士。京都帝国大学などを歴任。財団法人立命館初代協議員。 フランス刑法が通説的地位を支配していた旧刑法時代に、ドイツにおける旧派と新派の学派争いを日本に紹介した人物であり、基本的立場は、新派刑法理論に立つが、その犯罪理論は、不能犯において客観説をとるなどむしろ主観主義的色彩の薄いものであった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大槻 弌(おおつき はじめ、1867年1月(慶応2年12月)… 大槻 弌(おおつき はじめ、1867年1月(慶応2年12月) - 1942年2月15日)は、日本の薬学者。正六位勲六等。薬学博士。大阪薬学専門学校長。長女・芳は法医学者古畑種基の妻。 大阪府人・大槻季夫の長男。1894年7月、帝国大学医科大学薬学科卒業、薬学士の称号を得た。更に大学院に学んだ。1915年、博士会の推薦により薬学博士の学位を授けられた。 1921年、家督を相続した。趣味は旅行。宗教は神道。大阪府在籍で、住所は堺宿院町。1950年の時点で故人。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
荒木 寅三郎(あらき とらさぶろう、慶応2年10月17日〈1… 荒木 寅三郎(あらき とらさぶろう、慶応2年10月17日〈1866年11月23日〉 - 1942年〈昭和17年〉1月28日)は、日本の医学者。京都帝国大学総長、学習院長や枢密顧問官を歴任した。号に鳳岡。 慶応2年(1866年)に上野国碓氷郡板鼻宿(現・群馬県安中市板鼻)に、儒医・荒木保爾の次男として生まれた。長子の夭折により戸籍上は長男として育つ。1873年(明治6年)板鼻学校(現・安中市立碓東小学校)が開校されると8歳から11歳まで学んだ。11歳の時に上京し萩原西畴の塾に学ぶ。1882年(明治15年)東京大学医科大学別課医学科に入学。1887年(明治20年)同課を卒業後、郷里で医師として開業した。
上野 金太郎(うえの きんたろう、1866年11月15日〈慶… 上野 金太郎(うえの きんたろう、1866年11月15日〈慶応2年10月9日〉 - 1936年〈昭和11年〉6月4日)は、日本の薬学者、薬学博士、東京薬学専門学校理事兼校長、資産家、実業家。大日本麦酒顧問。族籍は東京府士族。 東京府士族・上野銈三郎の三男。小石川久堅町(現・東京都文京区)生まれ。1883年、家督を相続した。 第一高等中学校を経て1891年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業、薬学士の称号を得た。日本麦酒会社に入り技師となり1906年、技師長に進んだ。同社解散に伴い大日本麦酒目黒工場長に就任した。1908年、薬学博士の学位を取得。 1917年、取締役に挙げられ転じて1925年、監査役となる。
藤井 健次郎(ふじい けんじろう、1866年11月11日〈慶… 藤井 健次郎(ふじい けんじろう、1866年11月11日〈慶応2年10月5日〉 - 1952年〈昭和27年〉1月11日)は、日本の植物学者、遺伝学者。理学博士、東京帝国大学名誉教授。文化勲章受章。 1866年、加賀国金沢で[要出典]、加賀藩士の家に生まれる。幼くして両親を亡くし、叔母に育てられる。 1892年(明治25年)、東京帝国大学理科大学生物学科卒業。卒業後、同大学助手、助教授として植物学教室で研究と学生の指導を継続。 藤井は中等教育教科書の編纂に注力する一方で、長らく学位論文を提出せず、学位は論文提出ではなく、総長推薦によって授与された。 1901年から帝政ドイツ、英国に留学、植物形態学、細胞学、化石学などを学び帰国。
木村 駿吉(きむら しゅんきち、1866年11月8日(慶応2… 木村 駿吉(きむら しゅんきち、1866年11月8日(慶応2年10月2日) - 1938年10月6日)は、明治から昭和期の物理学者、工学者、教育者。日本海軍の軍属(技師)、特許弁理士のほか、第一高等中学校(現・東京大学)教授、立教学校(現・立教大学)教頭、第二高等学校(現・東北大学)教授、海軍大学校教授を歴任。海軍技師として、日露戦争の勝利に貢献した三六式無線電信機を開発したことでも知られる。 幕臣・木村摂津守喜毅(木村芥舟)の三男として江戸(芝 新浅座、現在の港区浜松町1丁目あたり)で生まれた。父・芥舟は、江戸幕府の海軍伝習所取締として日本の海軍創設に関わり、日本への西洋の科学技術導入の黎明期で活躍し、軍艦奉行として咸臨丸を指揮し、日本人による初の太平洋往復の渡航を成功させた人物である。
赤堀 又次郎(あかほり またじろう、1866年10月18日〈… 赤堀 又次郎(あかほり またじろう、1866年10月18日〈慶応2年9月10日〉 - 1945年〈昭和20年〉)は、日本の国学者、国語学者、書誌学者、図書館学者。 明治10年代初頭の東京大学文学部は、洋学尊重の時代的風潮に影響されて和漢文学を専攻する学生は乏しかった。これを憂えた小中村清矩の献策に基づいて、文学部に古典講習科が付設された。赤堀はここに入学し、修業年限3年の後に卒業した。本科に比してこの科に学ぶものが多く、落合直文らの実力を有する学者が輩出して、古典研究の発展に寄与するものが少なくなかった。 1888年(明治21年)創立の私立言語取調所(会長伊達宗城)で、のちに『国語学書目解題』として出版される書籍の編纂に、林 美、落合直澄、逸見仲三郎とともに着手したが出版に至らず、1890年(明治23年)10月9日に取調所の図書、器具、金員の帝国大学への寄付が願い出られて許されたときに、この初稿も含まれていた。
棚橋 寅五郎(たなはし とらごろう、1866年10月12日(… 棚橋 寅五郎(たなはし とらごろう、1866年10月12日(慶応2年9月4日)- 1955年(昭和30年)12月11日)は、日本の化学者、実業家である。 新潟に生まれる。後に東京帝国大学(現在の東京大学)応用化学科に所属し、ヨウ素の研究に尽き、特に海藻から抽出された医薬品用のヨードを生産した、ヨウ化カリウムの製造方法の研究によって有名となった。なおこの化合物は後にマッチ製造の原料にもなった。その後も硝酸カリウムや塩化カリウム、クロム酸塩等の研究や開発に携わり、同化合物を用いた肥料も開発した。またこの頃に工学博士を取得している。 1893年(明治26年)に卒業後は多くの企業の設立に携わり、1908年(明治41年)には日本化学工業の設立に携わった。
得能 文(とくのう ぶん、1866年10月5日(慶応2年8月… 得能 文(とくのう ぶん、1866年10月5日(慶応2年8月27日) - 1945年(昭和20年)2月8日)は、日本の哲学者。 越中国(現富山県)生まれ。1892年東京大学文科大学哲学科選科修了。第四高等学校、東洋大学、日本大学、東京帝国大学講師、東京高等師範学校教授。1927年定年。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
平山 松治(ひらやま まつじ、1866年9月28日(慶応2年… 平山 松治(ひらやま まつじ、1866年9月28日(慶応2年8月20日) - 1925年(大正14年)7月23日)は、日本の薬学者。正四位勲三等。薬学博士。大阪衛生試験所長。富山薬学専門学校校長。族籍は大阪府士族。 美濃国(現岐阜県)出身。平山耕雲の長男。1890年、帝国大学医科大学薬学科を卒業、薬学士の称号を得た。京都府医学校教諭、衛生試験所技師等を歴任。1904年、大阪衛生試験所長となる。大阪市東区石町に居住。 1913年5月、薬学博士の学位を授与される。1921年、富山薬学専門学校長となる。富山市鹿島町に居住。1925年7月23日死去。享年60。遺族宅は東京市駒沢町上馬(現世田谷区上馬)。
本多 静六(ほんだ せいろく、慶応2年7月2日(1866年8… 本多 静六(ほんだ せいろく、慶応2年7月2日(1866年8月11日) - 昭和27年(1952年)1月29日)は、日本の林学者、造園家、株式投資家。日本の「公園の父」といわれる。旧名、折原静六。 東京帝国大学農科大学教授となり、「月給4分の1天引き貯金」を元手にした投資で富を築き、定年退官とともに全財産を寄付した。孫に光触媒研究の本多健一がいる。 武蔵国埼玉郡河原井村(現埼玉県久喜市菖蒲町河原井)に折原家の第6子として生まれた。東京山林学校に入学するまでのあいだ河原井村で少年時代を過ごした。当時の河原井村は、戸数25軒ほどの小さな村だったが、中でも折原家は代々名主役を務める裕福な農家だった。ところが9歳の時に父親が急死すると同時に多額の借金が家に舞い込み、今までとは違った苦しい生活を強いられるようになった。
土肥 慶蔵(どひ けいぞう、慶応2年6月9日(1866年7月… 土肥 慶蔵(どひ けいぞう、慶応2年6月9日(1866年7月20日) - 昭和6年(1931年)11月6日)は、日本の医学者。号は鶚軒。日本における皮膚科学の開祖。 1866年、越前国武生領の医者・五世石渡宗伯の次男として、越前府中松原(現・福井県越前市武生)に生まれた。1880年、15歳のときに兄・秀實に伴われて上京し、下谷(現・台東区下谷)の進學舎でドイツ語を学んだ。同年、東京外国語学校(現、東京外国語大学)に入学。1885年には東京帝国大学医学部予科に入学した。1889年、母方の叔父土肥淳朴の養子となり、以降土肥姓を名乗った。1891年に卒業。 卒業後は、東京帝国大学附属第一医院外科医局に入局し、外科医スクリバの助手となった。
三島 通良(みしま みちよし、1866年7月17日(慶応2年… 三島 通良(みしま みちよし、1866年7月17日(慶応2年6月6日) - 1925年(大正14年)3月9日)は、明治から大正期にかけての日本の衛生学者、医師。文部省からの委嘱により日本の児童の調査を行い、日本独自の学校衛生を提唱、推進した。また、母子衛生法の改良、三島式種痘法の発明などを行った。しばしば「日本の学校衛生の生みの親」と称される。号は静堂。 慶応2年(1866年)に武蔵国入間郡霞関村笠幡(現・埼玉県川越市笠幡)に生まれる。父の通郷(つうけい)は嘉永から安政年間に私塾を開いて地元の子弟に漢字や習字を教え、明治維新後に受け持っていた修験道場が廃止されると家財や田畑を売り払って上京して遊学し、神奈川県検事などの官職を務めた人物であった。
黒木 欽堂(くろき きんどう、1866年4月25日(慶応2年… 黒木 欽堂(くろき きんどう、1866年4月25日(慶応2年3月11日) - 1923年(大正12年)8月31日)は、明治・大正時代の書家・漢学者。名は安雄。字は武卿。別号に欣堂、蓍園。讃岐国(香川県)出身。金石文の権威であり、楚辞や文選等を得意とした。 慶応2年(1866年)讃岐国那珂郡良野村(現・まんのう町吉野)大宮神社祠官黒木茂矩(しげのり)の子として生まれる。黒木家は江戸時代から続く漢学者の家系で、父・茂矩は秋山厳山、日柳燕石らに学び、高松藩藩校・講道館学寮教授、教部省の神道教導職、金刀比羅宮の禰宜(ねぎ)等を務めた。 欽堂は父・茂矩と片山冲堂に学んだ後、漢学塾・二松學舍を経て、1885年(明治17年)東京大学文学部附属古典講習科漢書課後期入学、1888年(明治21年)7月卒業。
猪子 吉人(いのこ きちんど、1866年3月28日(慶応2年… 猪子 吉人(いのこ きちんど、1866年3月28日(慶応2年2月12日) - 1893年(明治26年)9月20日)は明治時代の薬理学者。医学博士。但馬豊岡藩(兵庫県)家老猪子清の次男。兄は京都帝国大学医科大学名誉教授の猪子止戈之助。 長兄の止戈之助は外科学者として京都府立医学校長、京都帝大医科大学教授を歴任した。姉のふて(ふで)は沖野忠雄の妻となる。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、薬学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:薬学/Portal:医学と医療/Portal:化学)。
副島 義一(そえじま ぎいち、慶応2年1月5日(1866年2… 副島 義一(そえじま ぎいち、慶応2年1月5日(1866年2月19日) - 昭和22年(1947年)1月27日)は、日本の衆議院議員、法学者。専門は憲法学で、天皇機関説を唱えた。 肥前国佐賀郡本庄村(現在の佐賀県佐賀市)出身。1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に進んだ。さらにベルリン大学に留学し、1901年(明治33年)から1902年(明治34年)にかけて、渡辺廉吉に代わって東京高等商業学校(現一橋大学)で憲法を講じた。 1908年(明治41年)に法学博士の学位を受けた。早稲田大学で教授・評議員を務めるかたわら、辛亥革命の際には寺尾亨とともに南京の臨時政府の法律顧問に就任し、また1920年(大正9年)には第14回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たした。
大瀬 甚太郎(おおせ じんたろう、1866年2月9日(慶応元… 大瀬 甚太郎(おおせ じんたろう、1866年2月9日(慶応元年12月24日) - 1944年(昭和19年)5月29日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の教育学者。文学博士。号は金城。 近代日本における体系的な教育学の樹立者、西洋教育史学の開拓者として評価されている。 現在の石川県金沢市生まれ。加賀藩士族・大瀬直温の長男。上京後、進文学舎、東京大学予備門を経て、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)哲学科に入学。 文科大学の同級生には大西祝、渡部董之介、三上参次(国文学科)、谷本富(選科生)がいる。卒業後、同大学院に進学し心理学を専攻する。1891年に第五高等中学校に赴任、嘉納治五郎が同校の校長だった時期と重なっている。