土井 虎賀壽(どい とらかず、1902年2月19日 - 19… 土井 虎賀壽(どい とらかず、1902年2月19日 - 1971年3月10日)は、哲学者・文学者。香川県出身。 香川県木田郡の医師の家に生まれる。旧姓久保。第三高等学校理科乙類(ドイツ語クラス)から京都帝国大学理学部(物理)へ進むが、哲学科へ再入学、1926年卒業。学生時代は大山定一と下宿が同じで、親友であった。卒業後いったん実家に帰り女学校に勤め結婚する。しかし、二年で妻に先立たれ京都へ戻って大学院に進む。1929年、三高講師となる。1941年、三高教授、京都帝国大学講師となる。1948年、三高、京大を辞職、東京大学仏文科大学院に入学して二年間学ぶ。1953年、相模女子大学教授、学習院大学講師となる。
川上 六馬(かわかみ むつま、1902年(明治35年)2月1… 川上 六馬(かわかみ むつま、1902年(明治35年)2月13日- 1986年(昭和61年)7月28日)は、日本の医学者であり、満州国ハンセン病療養所・同康院の初代院長を務めた後、厚生省医務局長を務めた。国立がん研究センターの設立に深く関わり、顧問となっている。岡山県高梁市出身。位階は正五位。 1902年(明治35年)岡山県川上郡成羽町吹屋(現:高梁市)の川上佐源太の三男として出生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、京都大学医学部名誉教授になる三宅儀、言語学者の鳴瀬恒太郎がいた。1920年(大正10年)同校を卒業し、慶應義塾大学予科へ進学する。その後、慶應義塾大学医学部へ入学し、小林六造教授に従う。
李 泰圭(イ・テギュ、朝鮮語: 이태규、1902年1月26日… 李 泰圭(イ・テギュ、朝鮮語: 이태규、1902年1月26日 - 1992年10月26日)は、大韓民国の化学者。日本の植民地統治期には数少ない朝鮮人の博士号取得者・帝国大学教員の一人であった。 本貫は全州李氏。政治家の李会昌の伯父に当たる。 大韓帝国忠清南道礼山郡に生まれた。京城高等普通学校を経て1922年に広島高等師範学校(現・広島大学)を卒業。 1927年に京都帝国大学理学部(現在の京都大学理学部)化学科を卒業し、1931年に『還元ニッケルの存在に於ける一酸化炭素の分解』という論文で理学博士号を取得した。 その後、同大学で教鞭を執り、1935年には同大学化学研究所助教授、1938年にプリンストン大学に派遣され研究者として在職し、1941年に京都帝国大学に戻り量子化学を研究、1943年に化学研究所教授となった。
今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6… 今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6日 - 1992年(平成4年)6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。位階は従三位。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学・1939年)。京都府出身。 今西の活動は登山家、探検隊としてのものと、生態学者としてのものがあり、彼の中では両者が不可分に結びついている。探検家としては国内で多くの初登頂をなし、京都大学白頭山遠征隊の隊長などを務めた。生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。
小林 太市郎(こばやし たいちろう、1901年12月27日 … 小林 太市郎(こばやし たいちろう、1901年12月27日 - 1963年5月7日)は、美術史家・芸術学者。 京都西陣生まれで生家も西陣織の織り元である。母テウは京都御所の東で塾を開いていた宮津藩士宮城盛信の次女。京都帝国大学哲学科卒。 ソルボンヌ大学に三年間留学し、帰国後、東方文化学院研究嘱託、大阪市立美術館学芸員を経て、1950年、神戸大学教授となり芸術学の講座を担当した。1947年、『大和絵史論』で毎日出版文化賞受賞(また、同論文によって東大より博士号を授与されている)。没後、淡交社から『小林太市郎著作集』が刊行された。膨大な蔵書が神戸大学に寄贈され、神戸大学人文科学図書館に「小林文庫」として保管されている。
曽我部 静雄(そがべ しずお、1901年10月7日 - 19… 曽我部 静雄(そがべ しずお、1901年10月7日 - 1991年1月2日)は、日本の東洋史学者。 徳島県美馬郡美馬町(現美馬市)出身。1927年京都帝国大学文学部史学科卒、1947年「宋代財政史」で文学博士。 京都帝大副手、東北帝国大学法文学部助教授を経て、1940年教授。東北大学教授、1965年定年退官し名誉教授。1966年国士舘大学教授。1973年退職。
木村 常信(きむら つねのぶ、1901年9月4日 - 199… 木村 常信(きむら つねのぶ、1901年9月4日 - 1991年4月24日)は、日本の民法学者。京都大学名誉教授。長女は推理小説家の山村美紗、長男は政治学者で北海道大学名誉教授の木村汎、孫は女優の山村紅葉。
竹脇 又一郎(たけわき またいちろう、1901年 <明治34… 竹脇 又一郎(たけわき またいちろう、1901年 <明治34年> 7月11日 - 1979年 <昭和54年> 6月29日)は、日本の物理学者。主な著書に「物理学」(三省堂)がある。大阪大学名誉教授。位階は正四位。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
瀧 巖(たき いわお、1901年(明治34年)6月19日 -… 瀧 巖(たき いわお、1901年(明治34年)6月19日 - 1984年(昭和59年)5月31日)は、日本の軟体動物学者、分類学者。表記揺れにより、瀧巌や滝巌と表記されることもある。兄である滝庸や波部忠重、黒田徳米らと共に、多板類、頭足類や腹足類など、多くの軟体動物を記載した。 1901年(明治34年)6月19日に愛媛県松山市に生まれる。兄に勧められ、1920年(大正9年)広島高等師範学校理科第3部(博物・地理)に入学し、1924年(大正13年)卒業し福岡県立中学伝習館教諭となる。1925年(大正14年)京都帝国大学理学部動物学科に入学し、1928年(昭和3年)に卒業とともに嘱託として瀬戸臨海実験所で働く。
佐藤 通次(さとう つうじ、1901年5月26日 - 199… 佐藤 通次(さとう つうじ、1901年5月26日 - 1990年7月3日)は、日本の独文学者、哲学者。学位は文学博士(九州帝国大学・1944年)。皇學館大学学長。皇學館大学名誉教授。 山形県川西町生まれ。旧制山形高等学校を経て、1926年に京都帝国大学文学部独文科卒。九州帝国大学法文学部助教授、文部省教学錬成所員、大日本言論報国会理事。1944年に「ゲーテノ生命体験」で九州帝国大学より文学博士の学位を取得。 戦後は、『皇道哲学』を著したことから公職適否審査会の調査対象となり、言論報国会理事であったことで公職追放となり、追放解除後の1955年に亜細亜大学教授、1965年に皇學館大學教授、1973年から1980年まで同学長、名誉教授。
清棲 幸保(きよす ゆきやす、1901年〈明治34年〉2月2… 清棲 幸保(きよす ゆきやす、1901年〈明治34年〉2月28日 - 1975年〈昭和50年〉11月2日)は、日本の鳥類学者。位階は正五位。宇都宮大学教授。 東京帝国大学卒業。学位は理学博士(京都大学)。 爵位は伯爵。位階は正五位。伊達政宗の男系子孫である。旧姓・真田(真田伯爵家)。清棲家は、2代当主が幸保である。 幸保は、鳥類の渡り、繁殖、食性、日本アルプス、中国、朝鮮などの鳥の生態を研究、特に野鳥の写真を撮影し、貴重な資料とした。日本における野鳥撮影の第一人者である。14年をかけたて完成させた「清棲図鑑」と呼ばれる『増補改訂版・日本鳥類大図鑑全3巻、増補版1巻』は戦後最高の鳥類図鑑で名著と名高く、黒田長禮による『鳥類原色大図説』、山階芳麿による『日本の鳥類と其の生態』と並び、日本鳥類三大図鑑と呼ばれ、多くの鳥類学者に影響を与えた。
天野 元之助(あまの もとのすけ、1901年2月22日 - … 天野 元之助(あまの もとのすけ、1901年2月22日 - 1980年8月9日)は、日本の中国経済史学者。大阪市立大学文学部教授を経て、追手門学院大学名誉教授。 1901年、大阪市生まれ。1926年に京都帝国大学経済学部を卒業。卒業後は満鉄調査部に入り、満州、山東省、華中、海南島などで農村調査に従事し、同時に古典農書の研究も行った。 1945年に太平洋戦争が終結するが、1946年に中国長春鉄路公司科学研究所経済調査局に主任研究員として留用されることが決定。同研究所に勤務し、1948年に日本へ帰国。帰国後は京都大学人文科学研究所に入り、中国農業史を研究した。1951年、学位論文『中国農業経済要論』を京都大学に提出して経済学博士の学位を取得。
野口 恒樹(のぐち つねき、1901年2月7日 - 1989… 野口 恒樹(のぐち つねき、1901年2月7日 - 1989年11月7日)は、日本の哲学者。皇学館大学名誉教授。 福岡県遠賀郡芦屋町生まれ。愛媛県師範学校教諭、海軍教授、長崎県立短期大学教授を経て、皇学館大学教授・名誉教授。
速水 敬二(はやみ けいじ、1901年(明治34年)2月5日… 速水 敬二(はやみ けいじ、1901年(明治34年)2月5日 - 1974年(昭和49年)7月8日)は、日本の哲学者。専門はヘーゲルの哲学。 1901年、三重県で生まれた。京都帝国大学で学び、卒業。 1946年に國學院大學教授となった。1962年、学位論文『誰:顔の形而上学』を國學院大學に提出して文学博士号を取得。1974年に死去。 「学者一家」として知られる東畑家の次男坊で、速水家に婿養子に入った。
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。学位は、理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。 宮地が定年退官後、京都大学の教室は京大出身で九州大学助教授であった森下正明が引き継いだ。 その森下正明が定年退官後、川那部浩哉が引き継いだ。杉山幸丸も宮地の流れを汲んでいる。
吉川 大二郎(きっかわ だいじろう、1901年(明治34年)… 吉川 大二郎(きっかわ だいじろう、1901年(明治34年)1月14日 - 1978年(昭和53年)9月25日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は、法学博士(1947年)(学位論文「保全訴訟における裁判の効力」)。立命館大学名誉教授。元日本弁護士連合会会長。国際法曹協会名誉会長。1971年勲一等瑞宝章受章。 戦前から戦後のながきにわたり日本の民事手続法研究と実務をリードした。特に民事執行・保全法に関する研究は吉川がこの分野のパイオニアとされる。そのため吉川の考えは現在の民事執行法・保全法の基本的な考えとなっている。例えば、吉川以前は、保全訴訟において被保全権利の存在は審理の対象ではなかったが、吉川が被保全権利の存在は仮処分命令の発令要件であると唱えて以来、この考えが通説となっている。
瀧本 義一(たきもと ぎいち、1900年(明治33年)12月… 瀧本 義一(たきもと ぎいち、1900年(明治33年)12月23日 - 1986年(昭和61年)8月5日)は、日本の建築工学・建築構造学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(京都大学)。建築学教室担当。 専門は、建築工学・建築構造(特にラーメン構造・構造計算)、建築材料(特にコンクリート工学)。 京都帝国大学工学部建築学科卒業(指導教授:京都帝国大学建築学科創設者で、関西建築界の父といわれる武田五一)。のちに工学博士(京都大学)。大阪工業大学工学部建築学科に着任。1958年同学科教授。1971年大阪工業大学名誉教授。大阪工業大学建築学科にて長きに渡り教鞭を執り、大学初期の建築構造・建築材料の研究推進・育成に貢献した。
矢川 徳光(やがわ とくみつ、1900年11月26日 - 1… 矢川 徳光(やがわ とくみつ、1900年11月26日 - 1982年2月23日)は、日本の教育学者。ソビエト教育学研究会会長。 1900年、長崎県長崎市に生まれた。1919年、旧制山口高等学校に入学。1926年、京都帝国大学文学部英文学科を卒業。戦前は日本大学工学部予科教授などを務めた。英語教育に携わる傍ら、科学読物の英和注釈本などの出版を通して、科学教育の実践を試みた。独学でロシア語を習得し、ソビエト教育理論や実践を紹介した。 太平洋戦争後は、教育学者として民間教育運動の理論的指導者として活躍した。学界では1960年以降、ソビエト教育学研究会会長を務めた。1982年に死去。 これらの他にロシア共和国教育科学アカデミー編『ソビエト教育科学アカデミヤ版ソビエト教育科学辞典』明治図書出版、1963をソビエト教育学研究会が編訳。
平澤 興(ひらさわ こう、1900年(明治33年)10月5日… 平澤 興(ひらさわ こう、1900年(明治33年)10月5日 - 1989年(平成元年)6月17日)は、日本の医学者。新潟県出身。専門は脳神経解剖学。京都大学教授、京都大学第16代総長などを務めた。 1900年(明治33年)新潟県西蒲原郡七穂村(のち味方村、現新潟市南区)に生まれる。 幼時より医師になることを志し、地元の小学校を卒業した後父の居た京都に独りで赴き、1912年(大正元年)に京都市立平安中学に入学、1915年(大正4年)に府立第二中学へ転校し1917年(大正6年)に卒業。同年7月、金沢の第四高等学校(金沢大学の前身)に入学、1920年(大正9年)高校を卒業し、京都帝国大学医学部に入学。
戸坂 潤(とさか じゅん、1900年9月27日 - 1945… 戸坂 潤(とさか じゅん、1900年9月27日 - 1945年8月9日)は、日本の哲学者。
草薙 正夫(くさなぎ まさお、1900年9月20日 - 19… 草薙 正夫(くさなぎ まさお、1900年9月20日 - 1997年8月1日)は、日本の哲学者。神奈川大学名誉教授。 1900年、香川県生まれ。1928年、京都帝国大学文学部哲学科を卒業。 卒業後は神奈川大学教授。1950年12月、武藤光朗・鈴木三郎・金子武蔵らとヤスパース協会創立のための準備会を開き、翌年2月23日(2月23日はヤスパースの誕生日)発足。1960年に学位論文「実存哲学の根本問題 ヤスパース研究」を國學院大學に提出して文学博士の学位を取得。1971年に神奈川大学を定年退任し、名誉教授の称号を得る。神奈川県立外語短期大学学長を務めた。
池内 義資(いけうち よしすけ、1900年9月9日 - 19… 池内 義資(いけうち よしすけ、1900年9月9日 - 1979年10月18日)は、日本の法制史学者、教員。 愛媛県生まれ。広島高等師範学校で新見吉治に学び、1923年卒業。高知師範学校で教員を務めた後、1927年京都帝国大学文学部史学科に入学し、卒業論文「武士発生史の研究」をまとめ、1931年3月に卒業。京都府立第一高等女学校、兵庫県立第二神戸中学校、大分県立宇佐中学校等の教員を勤め、愛媛県立松山北高等学校校長等を歴任する。その傍ら、中世法制史研究を行い、佐藤進一と共に「中世法制史料集」(岩波書店)の編纂を行う。また、特に御成敗式目の研究を専門として、1971年に「式目傅寫本の系譜に関する研究」により京都大学から文学博士の学位を授与される。
田中 周友(たなか かねとも、1900年9月4日 - 199… 田中 周友(たなか かねとも、1900年9月4日 - 1996年11月14日)は、日本の法学者。専門はローマ法。京都大学博士。 1900年9月4日、京都市に生まれる。実家は700年続く下鴨神社の社家で、自宅は糺の森の一角・京都市左京区下鴨森本町24番地(旧・愛宕郡下鴨村24番地)にあった。夏目漱石は、当時この家を借りていた親友・狩野亨吉(京都帝国大学文科大学初代学長)を訪ね、1907年3月28日から15日間滞在し、短編「京に着ける夜」(『大阪朝日新聞』1907年4月9日~4月11日)を執筆し、『虞美人草』の構想を練った。 1924年3月、京都帝国大学法学部独逸法律学科を卒業。1926年1月から1929年3月にかけて、ローマ法研究のためドイツ、フランス、イタリアへ文部省在外研究員として出張。
臼井 二尚(うすい じしょう、1900年〈明治33年〉8月2… 臼井 二尚(うすい じしょう、1900年〈明治33年〉8月27日 - 1991年〈平成3年〉3月8日)は、日本の社会学者。京都大学名誉教授。 長野県南安曇郡三田村田尻(現:安曇野市堀金三田)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校文科乙類を経て、1926年京都帝国大学文学部社会学科を卒業した。 1929年、京都帝国大学専任講師に着任。ドイツ、米国、フランスに研究留学した後、1932年に助教授昇進。1944年に教授昇進。1945年、学位論文『社会と民族』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。1949年より京都大学文学部教授。1963年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。
清水 亘(しみず わたる、1900年8月20日 - 1986… 清水 亘(しみず わたる、1900年8月20日 - 1986年9月20日)は、水産学者。愛媛県出身。 1927年京都帝国大学農学部卒。1947年より京都大学農学部教授。1963年の京大退官以降は日本大学農獣医学部教授となった。 魚肉ハムや魚肉ソーセージの考案者である。1960年には魚肉冷凍すり身を考案するなど水産加工品の発展に大きく寄与し、初代かまぼこ博士として知られた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大岩 誠(おおいわ まこと、1900年(明治33年)7月8日… 大岩 誠(おおいわ まこと、1900年(明治33年)7月8日 - 1957年(昭和32年)1月11日)は、日本の政治学者。専門は政治思想史。 東京出身。1926年京都帝国大学法学部卒、同助教授となるが、1933年滝川事件で滝川教授の休職処分に抗議し辞職。立命館大学教授兼図書館長となり、満鉄調査局を経て、戦時期には東南アジア、南アジアの独立運動を研究。 戦後1948年公職追放。日本電報通信社広告室(現:電通)、カトリック通信社などに勤め、1951年南山大学教授。 18世紀フランス啓蒙思想、イタリア・ルネサンスの思想原典(多賀善彦名義を含め)の翻訳を行った。 1957年1月11日、心臓衰弱のため死去、享年56歳。
松浦 栄(まつうら さかえ、1900年7月1日 - 1990… 松浦 栄(まつうら さかえ、1900年7月1日 - 1990年5月3日)は、日本の法学者、警察官僚、衆議院議員(当選1回)。専門は行政法。地方自治法や警察法を研究対象としている。 福井県福井市で生まれ、まもなく北海道追分町(のち安平町)に移住。1922年(大正11年)に北海道帝国大学農学部卒業。1924年、京都帝国大学法学部英法科卒業。 北海道庁警部兼通訳、北海道警察練習所所長、北海道庁外事課長・警視課長、沖縄県警察部長、長崎県警察部長、宮城県学務部長、茨城県内務部長、茨城新聞社理事などを歴任。 1947年には、第23回衆議院議員総選挙で日本自由党公認で、北海道4区から出馬し初当選するが、1949年の第24回衆議院議員総選挙では落選。
佐々 憲三(ささ けんぞう / さっさ けんぞう、1900年… 佐々 憲三(ささ けんぞう / さっさ けんぞう、1900年5月4日 - 1981年11月18日)は、日本の土木・地球物理学者。理学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授、大阪工業大学第4代学長。日本の地すべり・防災工学研究の第一人者の一人。勲二等旭日重光章受章。 日本地すべり学会創設者・初代会長。文部省測地学審議会委員、日本学術会議会員、地震学会委員長(現・日本地震学会会長)、京都市防災会議地震対策委員会委員長、財団法人防災研究協会理事長などを歴任した。京都大学関連では京都大学防災研究所元所長、京都大学阿武山地震観測所元所長、元桜島火山観測所施設長などを歴任している。 専門は、地球物理学・土木地質学・地学/地すべり学、地震学・火山学・防災工学。
中原与茂九郎(なかはら よもくろう、正字は中原與茂九郎、19… 中原与茂九郎(なかはら よもくろう、正字は中原與茂九郎、1900年〈明治33年〉4月16日 - 1988年〈昭和63年〉3月27日)は、日本の西洋史学者、アッシリア学者、京都大学名誉教授。日本における古代メソポタミア研究の先駆けの一人で、特にシュメール行政・経済文書の研究で優れた業績を残した。 出身は岡山県倉敷市浅口郡西阿知町(現・倉敷市西阿知地区)。1919年(大正8年)に岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)、1922年(大正11年)に第六高等学校、1925年(大正14年)3月に京都帝国大学文学部(西洋史学専攻)を卒業した。同大文学部助手ののち、翌1926年(大正15年)3月、新設の広島高等学校教授に任命された。
冨倉 徳次郎(とみくら とくじろう、1900年3月8日 - … 冨倉 徳次郎(とみくら とくじろう、1900年3月8日 - 1986年5月26日)は、日本の国文学者、博士。駒澤大学名誉教授。専門は中世文学。 東京生まれ。第二高等学校理科から東京帝国大学理学部を経て、1926年(大正15年)3月に京都帝国大学文学部国文科を卒業。京都女子専門学校教授を命ぜられるが、軍隊に服する。 京大時代は講師として立命館中学に赴任。生徒の一人に中原中也がいた。あるとき、中也が答案の代わりに詩を書いて提出したことがきっかけで彼との交友が始まった。友人富永太郎を中也に引き合わせたことでも知られる。 1952年、駒澤大学に着任し教授。のち国文学科主任、大学院国文専攻主任をつとめる。
西谷 啓治(にしたに けいじ、1900年〈明治33年〉2月2… 西谷 啓治(にしたに けいじ、1900年〈明治33年〉2月27日 - 1990年〈平成2年〉11月24日)は、日本の哲学者。専門は宗教哲学。京都学派に属する。京都大学名誉教授。文化功労者。 1900年、石川県鳳珠郡能登町生まれた。宇出津小学校に入学するが、1年生の時に一家で東京へ移住。1912年に早稲田中学に進学。成績優秀であり、卒業時には大隈重信総長から優等賞を授与された。しかし、中学卒業時に肺結核へ罹患していることが分かり、大きな衝撃を受けた。第一高等学校への進学をあきらめて北海道函館で療養生活を送ったが、1年後に回復し、第一高等学校へ進学。 大学進学にあたっては、若年のうちに同郷(現かほく市)の出身である西田幾多郎の著書『思索と体験』に出会っていたこともあり、京都帝国大学文学部哲学科に入学。
上野 益三(うえの ますぞう、1900年(明治33年)2月2… 上野 益三(うえの ますぞう、1900年(明治33年)2月26日 - 1989年6月17日)は、日本の生物学者(昆虫学者)、陸水学者。京都大学名誉教授。水生昆虫の分類および生態学的研究のほか、日本の生物学史(博物学史)の研究でも知られる。動物分類学会名誉会員。長男は昆虫学者の上野俊一。 大阪府大阪市生まれ。小学校5年生の時に豊中村(現:豊中市)に引越し、旧制大阪府立北野中学校、旧制大阪薬学専門学校を卒業。1923年に京都帝国大学理学部動物学科に進学、川村多実二に師事。鰓脚類の研究を行い1926年に卒業、動物学教室の助手に就任した。また在学中にはトワダカワゲラを発見し、のちに新種として記載した。 1929年には京都帝国大学の大津臨湖実験所に講師として就任。
中井 正一(なかい まさかず、1900年(明治33年)2月1… 中井 正一(なかい まさかず、1900年(明治33年)2月14日 - 1952年(昭和27年)5月18日)は、日本の美学者・評論家・社会運動家。国立国会図書館副館長をつとめた。相愛女子専門学校(現:相愛女子短期大学・相愛大学)講師。 1900年2月14日 大阪市の緒方病院で帝王切開にて誕生。日本最初期の帝王切開で、執刀医の緒方正清は緒方洪庵の孫娘の婿。正清から一字もらって正一と命名された。本籍は広島県賀茂郡竹原町(現:竹原市)で、尾道市に育った。 広島高師附属中学に入学し、1918年に卒業。第三高等学校文科甲類に進み、1922年に卒業した。 1922年、京都帝国大学文学部哲学科に入学。大学では、深田康算、九鬼周造らに師事した。
黒田 覚(くろだ さとる、1900年2月1日 - 1990年… 黒田 覚(くろだ さとる、1900年2月1日 - 1990年12月2日)は、日本の法学者。京都大学教授、東京都立大学 教授、神奈川大学教授および学長代行を務めた。 京都府京都市出身。第三高等学校から1923年3月に京都帝国大学法学部を卒業、同年4月より大学院に進む。京都帝大では憲法学・国法学の正系とされる森口繁治に師事[要出典]。 1925年(大正14年)京都帝大法学部助教授に就任した。ドイツ法を専攻し、純粋法学のハンス・ケルゼンと彼が所属したウィーン学派の研究を手がけた。1927年から1930年まで、文部省在外研究員として渡欧し、このときにはケルゼン本人に受講、個人的な親交を結んでいる。しかし、帰国後にケルゼンの影響からは次第に遠ざかったとされる。
高坂 正顕(こうさか まさあき、1900年(明治33年)1月… 高坂 正顕(こうさか まさあき、1900年(明治33年)1月23日 - 1969年(昭和44年)12月9日)は、日本の哲学者(カント哲学)。京都学派の一人。西谷啓治、高山岩男、鈴木成高と共に「京都学派四天王」と呼ばれている。 1900年、愛知県名古屋市で生まれた。第四高等学校を卒業し、京都帝国大学哲学科に進んだ。大学では、慕っていた西田幾多郎に師事し、カント哲学の研究の道に進んだ。同期には、三土興三などがいた。1923年に京都帝国大学を卒業。 卒業後は京都医科大学予科の教授に就任。兼任で三高、同志社大学、母校の京都帝国大学法学部ならびに文学部でも教鞭をとった。東京文理科大学助教授、東京商科大学、武蔵高等学校でも講師を務めた。
小竹 文夫(おだけ ふみお、1900年1月18日 - 196… 小竹 文夫(おだけ ふみお、1900年1月18日 - 1962年10月16日)は、日本の東洋史学者。 1900年、石川県で生まれた。上海の東亜同文書院で学び、1922年6月に卒業後(第19期生)。1928年。その後、京都帝国大学文学部東洋史学科を卒業。 修了後は、東亜同文書院大学教授となった。 戦後は金沢大学、東京教育大学で教授を務めた。1961年、学位論文『清代社会経済史の基礎研究:人口と耕地の問題』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。1962年に死去。 司馬遷『史記』の全訳を弟の小竹武夫と共に行った。
宮崎 松記(みやざき まつき、1900年(明治33年)1月1… 宮崎 松記(みやざき まつき、1900年(明治33年)1月10日 - 1972年(昭和47年)6月14日)は、日本の医学者。国立療養所菊池恵楓園の園長を勤め、その後インドで救らいセンターを作った。ハンセン病研究・患者の治療を行い、「日本のシュヴァイツァー」と呼ばれた。熊本県八代市日奈久町生まれ。位階は従三位。 第五高等学校学生時代、ハンナ・リデルの回春病院にいきハンセン病に興味をもつ。京都帝大をへて大阪赤十字病院外科部長。1934年(昭和9年)九州療養所所長。本妙寺事件、龍田寮事件などに関与した。1951年(昭和26年)の参議院に参考人として招かれ、光田健輔と共に隔離政策の強化を主張したが、批判をあび、後に発言を取り消した。
堀 健夫(ほり たけお、1899年12月7日 - 1994年… 堀 健夫(ほり たけお、1899年12月7日 - 1994年6月9日)は、日本の物理学者。 富山県生まれ。京都帝国大学理学部物理学科を1923年に卒業、旅順工科大学教授を経て、1935年(昭和10年)、北海道帝国大学理学部教授となる。分子が発する光のスペクトルを実験的に調べ、量子力学を使って解析するという、分光学の実験的研究を行い、この分野の後進の育成にもあたった。戦後は二度にわたって北海道大学低温科学研究所の所長を務め、霧についての「総合的研究」をリードする。北大を辞してからは、関西学院大学、京都産業大学で教壇に立った。 堀は25歳のとき京都の旧制第三高等学校で講師として力学の授業を担当する。
石山 脩平(いしやま しゅうへい、旧姓:小林、1899年11… 石山 脩平(いしやま しゅうへい、旧姓:小林、1899年11月18日 - 1960年6月18日)は、日本の教育学者。東京教育大学初代教育学部長。専門はギリシア教育史。梅根悟とともに教育課程「コア・カリキュラム」を推進した。伝統的な三読法(通読・精読・味読)を提唱した。 静岡県出身。静岡県浜松師範学校、東京高等師範学校を経て、1929年に京都帝国大学文学部哲学科を卒業。東京文理科大学教授、1949年、東京教育大学初代教育学部長。1952年、「ポリス教育の成立と性格」で広島文理科大学より文学博士の学位を取得。1955年6月、小、中学校における教科書関係事件に関し衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。
篠田 統(しのだ おさむ、1899年9月21日 - 1978… 篠田 統(しのだ おさむ、1899年9月21日 - 1978年8月10日)は、日本の食物史学者。東アジア食物史の開拓者として知られる。栄養生理学から食物史研究に転じた。 大阪府出身。1923年京都帝国大学理学部化学科卒業、同大学院動物学科に入学。1926年から1928年までユトレヒト大学(オランダ)、ミュンヘン大学(ドイツ)、ナポリ水族館(イタリア)に留学。1928年ユトレヒト大学から学位授与。1929年、京都帝大講師、同年「昆虫の腸の分泌に就て」で京大理学博士。1938年、関東軍防疫技師として従軍し、1940年には北支軍軍医部所属として昆虫防疫に従事。1945年8月まで北京衛生試験所技師を勤め、同年12月に引き揚げた。
八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18… 八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18日 - 1964年(昭和39年)5月6日)は日本の医学者、医師(産婦人科医)。岡山大学教授、同大医学部長、1958年-1962年まで第3代学長などを歴任した。義兄(妻の兄)に競泳選手の松沢一鶴。 兵庫県出身。第三高等学校(旧制)、京都帝国大学を卒業し、岡山医科大学(旧制)教授に招かれ産婦人科教室を主宰した。新制岡山大学に移行し、同医学部教授となる。昭和32年8月医学部長、翌33年6月1日より昭和37年5月31日まで岡山大学長(第3代)に就任。 第三高等学校在学時代からエスペラントに惹かれ、普及のための講演活動に従事したが、生涯継続した。
望月 信成(もちづき しんじょう、1899年6月14日 - … 望月 信成(もちづき しんじょう、1899年6月14日 - 1990年5月28日)は、日本の美術史学者。 1899年、京都府京都市で生まれた。東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業し、大学院は京都帝国大学大学院に進んだ。1929年に京都帝国大学大学院を修了。 卒業後の1929年9月に、恩賜京都国立博物館鑑査員となった。1931年4月より文部省帝国美術院付属美術研究所嘱託を勤め、1936年に大阪市美術館主事に転じた。 1949年9月に大阪市立美術館館長に任命され、1950年には大阪市立大学教授にも任命された。大阪府史跡名勝天然記念物調査協力委員など多数の役職を兼ね、大阪の文化の発展に尽くした。1965年に大阪市立美術館を定年退職した後は、帝塚山学院大学教授として教鞭をとった。
武智 馨(たけち かおる、1899年4月20日 - 1987… 武智 馨(たけち かおる、1899年4月20日 - 1987年12月3日)は、日本の機械工学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(名古屋大学)。元広海軍工廠鋳物実験部長・海軍技術者。日本鋳造協会関西支部元顧問。鋳物工学研究の第一人者の一人。 専門は、鋳造工学・鋳物工学。 1899年愛媛県松山市生まれ。1923年京都帝国大学工学部機械工学科卒業。広海軍工廠・横須賀海軍工廠などで、鋳物砂の調査に携わる。1935年ドイツ留学(技術監督官)、国際鋳物会議へ出席。1940年広海軍工廠鋳物実験部所長、戦艦のプロペラ鋳造に従事。1944年東京軍儒省鋳造技術指導班班長(第1級鋳物工場の技術指導)を経て、広海軍工廠素材部長兼鋳物実験部長。
池田 源太(いけだ げんた、1899年4月18日 - 199… 池田 源太(いけだ げんた、1899年4月18日 - 1995年11月18日)は、日本の日本文化史学者、奈良教育大学名誉教授。 大分県宇佐市生まれ。1932年京都帝国大学文学部国史科卒業。西田直二郎に師事。京都市立第一商業学校、京都府立第一中学校教諭、龍谷大学講師、橿原文庫主事。1949年、奈良学芸大学教授、奈良教育大学教授。1961年、「歴史の始源と口誦伝承」で京都大学文学博士。1963年、定年退官、名誉教授、龍谷大学教授。1978年、勲三等瑞宝章を受章。
福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977… 福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977年3月13日)は日本の経済学者・社会科学者。大阪経済大学、旧制大阪商科大学、大阪市立大学の学長を歴任。学位は経済学博士(大阪商科大学)。大阪市立大学名誉教授。 愛知県出身。第八高等学校を経て1922年京都帝国大学経済科卒、同大学院に進学、河上肇に師事した。1925年、福島高等商業学校(現・福島大学経済学部)教授。1929年に旧制大阪商科大学助教授に就任し1933年教授、経済学原論やドイツ語を講じた。戦後は学制改革に伴い1949年に大阪商科大などを母体に発足した大阪市立大学経済学部教授。翌1950年からは前年に急逝した黒正巌に代わり大阪経済大学の学長(第2代)も務めた(-1960年)。
佐保田 鶴治(さほだ つるじ、1899年2月11日 - 19… 佐保田 鶴治(さほだ つるじ、1899年2月11日 - 1986年9月11日)は、日本の宗教学者、哲学者。大阪大学名誉教授、文学博士。インド哲学・宗教学専攻。 30数年に及ぶ教授生活を送ったが、若年の頃から虚弱体質で悩み続けていた。ところが、還暦を過ぎた62歳の時に、インド人の手ほどきによるヨーガに出会うことにより、健康をめきめき取り戻し、それまでの不健康な生活が一変し、周囲が驚くほどの健康体となった(典拠『ヨーガ入門』)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
岡田 信次(おかだ しんじ、1898年〈明治31年〉12月1… 岡田 信次(おかだ しんじ、1898年〈明治31年〉12月13日 - 1986年〈昭和61年〉3月22日)は、昭和時代の土木工学者、政治家、鉄道官僚、運輸官僚。参議院議員。運輸政務次官。陸軍司政長官。 岡田竹五郎の子として東京府に生まれる。1923年(大正12年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道省工務局改良課に奉職する。同年、関東大震災による鉄道被害の復旧のため国府津改良事務所で東海道線の復旧、改良工事に従事し、のち国府津改良事務所長となる。1932年(昭和7年)から2年間、在外研究員として欧米に留学した。1939年(昭和14年)広島鉄道局工務部長、1942年(昭和17年)鉄道省工務局計画課長を経て、1944年(昭和19年)陸軍司政長官となり、フィリピンに赴任した。
坂田 徳男(さかた とくお、1898年12月7日 - 198… 坂田 徳男(さかた とくお、1898年12月7日 - 1984年7月19日)は、日本の哲学研究者、大阪市立大学名誉教授。 1898年、兵庫県で生まれた。京都帝国大学文学部哲学科で学び、卒業。 修了後は、関西学院大学教授に就いた。戦後、大阪市立大学教授。1961年に大阪市立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、帝塚山大学教授として教鞭を執った。1984年に死去。
瀧 庸(たき いさお、1898年(明治31年)12月6日 -… 瀧 庸(たき いさお、1898年(明治31年)12月6日 - 1961年(昭和36年)5月18日)は、日本の軟体動物学者。理学博士。3歳下の弟に軟体動物学者の瀧巖をもち、共に多板類などの軟体動物の記載を行った分類学者である。甥に花井哲郎を持つ。 1898年(明治31年)12月6日、愛媛県松山市に瀧幾太郎の次男として生まれる。長男は幼くして亡くなったため、相続者となる。愛媛県師範学校附属尋常小学校・附属高等小学校を終え、1年後の1914年(大正3年)に師範学校に入学した。当時、子供たちに昆虫採集のような博物趣味がブームとなっており、彼はいつとはなしにそうした趣味を持つようになっていた。それが実家の近くに住んでいた小松崎三枝に知られたことが、入学の動機の一つであった。
三林 隆吉(みばやし りゅういち、1898年4月19日 - … 三林 隆吉(みばやし りゅういち、1898年4月19日 - 1977年2月7日)は、日本の産婦人科学者。京都大学医学部附属助産婦学校第4代校長を歴任。 基靭帯基底部に浸潤した子宮癌に対する超広汎性子宮全摘術や、子宮癌の放射線治療に回転照射術式を考案した。 石川県で生まれる。旧制第四高等学校を経て、1923年(大正12年)に京都帝国大学医学部を卒業する。新潟医科大学(現・新潟大学医学部)の講師を務め、1926年(大正15年) に助教授となる。1929年(昭和4年)医学博士を修める。1930年(昭和5年)ドイツに留学する。 帰国後、1936年(昭和11年)に新潟医科大学産婦人科の第4代教授となる。1938年(昭和13年)、京都帝国大学教授に転任。