水津 一朗(すいづ いちろう、1923年1月1日 - 199… 水津 一朗(すいづ いちろう、1923年1月1日 - 1996年4月8日)は、日本の地理学者。人文地理学を専攻。伝統的地理学と計量革命後の計量地理学の止揚を目指し、「位相地理学」を提唱した。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1971年)。京都大学名誉教授。奈良大学元学長。 1923年山口県山口市生まれ。山口県立山口中学校(山口県立山口高等学校の前身)、旧制山口高等学校(現・山口大学)文科甲類卒業、1942年10月に京都帝国大学文学部史学科に進学するも、学徒出陣により兵役に従う。後に復員、復学。1946年9月に同大学を卒業。その後は特別研究生として大学院に進学。 1952年大阪市立大学講師、同大学助教授を経て、1959年に京都大学文学部助教授に就任(1966年から1967年まで、在外研究でヨーロッパに赴き、ドイツ、スウェーデンに滞在)。
若林 誠郎(わかばやし まさお、1923年1月1日 - )は… 若林 誠郎(わかばやし まさお、1923年1月1日 - )は、日本の実業家。京都市の百貨店「丸物」入社後、近鉄グループ入り・社名変更後の京都近鉄百貨店で社長を務めた。 東京府(現・東京都)出身で、旧制・東京府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)を卒業後、京都帝国大学へ進んだ。 学徒動員から復員後の京都帝大は混乱の中ではあるが、学問に対する熱気があふれているように感じたという。1947年(昭和22年)3月に大学を卒業した後、同年9月に京都市の百貨店「丸物」へ入社した。 設立以来、同社は創業者の中林仁一郎がずっと社長を務めていたが、1960年3月末に死去。長男の中林仁良が社長となって以降、1962年にはいったん伊藤忠商事の傘下を経て、1966年春には近畿日本鉄道(現・近鉄グループホールディングス)の子会社となり、資本構成などが大きく変化したものの、若林は昇進を続けた。
矢木 勉(やぎ つとむ、1923年または1924年生まれ)は… 矢木 勉(やぎ つとむ、1923年または1924年生まれ)は、日本の造園系地方公務員。 神戸市に生まれる。京都大学農学部林学科を卒業した。[要出典] 神戸市役所では公園緑地部長を務めた。 1980年に、第6回日本公園緑地協会北村賞を受賞した。 著書に『花時計賛歌』(神戸新聞総合出版センター、2011年)、『日本の花時計』(山と渓谷社、2001年)、『世界と日本の花時計』(神戸新聞総合出版センター, 2018年、英文併記)があり、「日本花時計の会」という団体で会長を務めている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
矢島 聖使(やじま せいじ、1923年 - 1981年)は、… 矢島 聖使(やじま せいじ、1923年 - 1981年)は、材料工学を専門とする工学者および化学者。 無機材料工学を専門としており、かつては原子力関連の研究をしていた。1975年に有機金属化学が専門の林丈三郎、大森守の協力の下で高強度と耐熱性を併せ持つ炭化珪素繊維を開発した。有機珪素高分子を1000℃以上の不活性雰囲気中で焼成する事によってセラミック繊維を製造した。 炭化珪素繊維を開発した。有機ケイ素ポリマーのポリカルボシランの焼成前の不融化処理の工程に劣化の原因となる酸素が入らないように電子線を照射する手法を開発した。ジェットエンジンや発電用ガスタービンの高性能化には高強度、耐熱性を併せ持つセラミック繊維が不可欠なため、近年注目される。
吉山 一郎(よしやまいちろう、1923年 - 2002年)と… 吉山 一郎(よしやまいちろう、1923年 - 2002年)とは日本の技術者、実業家、元ミノルタ副社長。京都大学工学部卒業。 1970年代よりカメラは電子化する。当時のミノルタはSRから電子化されたXシリーズへと移行し、そのときの開発の陣頭に吉山一郎が立った。そしてミノルタはαで「αショック」を引き起こす。 1968年度第22回日本映画技術協会賞を受賞。 1993年から2001年まで大阪府技術教会会長を勤める。
竹岡 勝美(たけおか かつみ、1923年(大正12年) - … 竹岡 勝美(たけおか かつみ、1923年(大正12年) - 2016年(平成28年)7月22日)は、日本の官僚。位階は従四位。 元警察閣僚の四方修は実弟。 京都府亀岡市出身。警察庁で警察本部長を務め、首相官房を経て防衛庁で調達実施本部長。 警察庁交通規制課長時代の1970年、銀座通(中央通り (東京都)の銀座部分)他において日本初の歩行者天国を実施、またスクランブル交差点を発案。 冷戦終結まで盛んに喧伝された「ソ連脅威論」を、経験を元に“日本を自国の世界戦略に組み込んでおきたかったアメリカによるプロパガンダだった、その証拠に仮想敵国をソ連として北海道で行なわれた演習に米軍は参加しなかった”とインタビューで切り捨てた。
中江 要介(なかえ ようすけ、1922年12月30日 - 2… 中江 要介(なかえ ようすけ、1922年12月30日 - 2014年3月6日)は、日本の外交官。駐中華人民共和国大使などを務めた。位階は従三位。 1922年(大正11年)、大阪府生まれ。北野中学校、旧制第三高等学校を経て、京都大学法学部卒業、外務省に入省。チャイナ・スクールと誤解されることが多いが、実際はフランス語研修を受けたフレンチ・スクールで、条約局と国連外交が長い。 若い頃は演劇青年で学徒動員の経験をもち、「霞完(かすみ かん)」のペンネームでバレエの台本を執筆しており、『いのち』は東京とベオグラードにおいて、『動と静』は東京とカイロにおいて、『蕩々たる一衣帯水』は東京と北京において、それぞれ上演された。
中山 富太郎(なかやま とみたろう、1922年 <大正11年… 中山 富太郎(なかやま とみたろう、1922年 <大正11年> 12月12日 - 2017年 <平成29年> 10月23日)は、日本の経営者、銀行家。八十二銀行頭取を務めた。位階は正五位。 長野県出身。1946年に京都帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に八十二銀行に入行。1977年12月に取締役に就任し、1981年に常務、1984年に副頭取を経て、1989年6月に頭取に就任。1994年6月に会長に就任し、1997年6月には取締役相談役に就任。 1993年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2017年10月23日老衰のために死去。94歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
山田 作男(やまだ さくお、1922年11月27日 - 20… 山田 作男(やまだ さくお、1922年11月27日 - 2001年4月2日)は日本の歴史学者。専門は西洋史学。 長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)生まれ。幼少時を三重県桑名市で過ごす。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校を経て、昭和23年(1948年)京都大学文学部史学科西洋史学専攻卒業。同27年(1951年)同大学院中途退学。愛知教育大学教授を経て、同61年(1986年)愛知学院大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
西八條 實(にしはちじょう みのる、1922年11月15日-… 西八條 實(にしはちじょう みのる、1922年11月15日- 2015年2月1日 )は、日本の経営者、工学博士。島津製作所社長、会長を務めた。 京都府京都市出身。1945年に京都帝国大学工学部を卒業し、京大大学院に進学したが、1947年7月に中退し、島津製作所に入社。1973年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1985年3月に副社長に就任し、翌年6月には社長に昇格した。1992年6月から会長を務め、1998年6月から相談役を務めた。 1986年11月には藍綬褒章を受章し、1993年4月には勲二等瑞宝章を受章した。 1996年1月から1999年5月まで関西経済連合会の副会長。 2015年2月1日、老衰のために死去。
川勝 義雄(かわかつ よしお、1922年(大正11年)11月… 川勝 義雄(かわかつ よしお、1922年(大正11年)11月8日 - 1984年(昭和59年)4月4日)は、日本の東洋史学者。京都大学人文科学研究所教授。専門は六朝期の中国史、中国思想史。京都市生まれ。 京焼の一つ粟田口焼の窯元の息子として生まれ、京都府立第一中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校、京都帝国大学文学部卒業。京都大学人文科学研究所の司書系の助手になり、後研究系の助手、フランスに留学してヨーロッパ東洋学を学び、東洋学者アンリ・マスペロの著書を翻訳した。帰国後京都大学人文科学研究所教授在職中に没した。 内藤湖南・宮崎市定の魏晋南北朝時代を中世とする論を受け継ぐ京都学派の一人であり、特に中国の貴族制研究において谷川道雄と共に「豪族共同体論」を展開し、矢野主税・越智重明らと激しい論争を繰り広げた。
中埜 肇(なかの はじむ、1922年11月7日 - 1997… 中埜 肇(なかの はじむ、1922年11月7日 - 1997年5月11日)は、日本の哲学者。専攻は現代文明論としての哲学。 東京出身。成城高等学校 (旧制)を経て、京都大学文学部哲学科卒業。筑波大学思想学科系教授、岡崎学園国際短期大学学長、放送大学教養学部教授を歴任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
若杉 光夫(わかすぎ みつお、1922年10月28日 - 2… 若杉 光夫(わかすぎ みつお、1922年10月28日 - 2008年12月18日)は、日本の映画監督、演出家。 京都大学法学部卒業後、1947年大映京都撮影所に入所。黒澤明らの助監督を務めるが、1950年レッド・パージで退社。1951年に島耕二の助監督を経験し、劇団民藝演出部に入団。女優の南風洋子と結婚。民藝所属の女優である若杉民(わかすぎ たみ)は娘。 1960年、有馬頼義の小説を原作とする映画『ガラスの中の少女』を監督。同作品で吉永小百合と浜田光夫は初共演した。 「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めていた。2008年12月18日、呼吸不全により神奈川県相模原市の病院で死去。
大野 英二(おおの えいじ、1922年10月20日 - 20… 大野 英二(おおの えいじ、1922年10月20日 - 2005年9月6日)は、日本の経済学者、京都大学名誉教授。
森重 敏(もりしげ さとし、1922年10月15日 - 20… 森重 敏(もりしげ さとし、1922年10月15日 - 2007年5月28日)は、日本の国語学者、国文学者、奈良女子大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市生まれ。1945年京都帝国大学国文科卒。京都女子大学助教授、奈良女子大学助教授、教授、1986年定年退官、名誉教授、天理大学教授、1996年退任。 1999年、勲三等旭日中綬章を受章。2007年5月28日、肺癌のため死去。没後正四位叙勲。
松下 眞一(まつした しんいち、Shin-ichi Mats… 松下 眞一(まつした しんいち、Shin-ichi Matsushita、1922年10月1日 - 1990年12月25日)は、日本の現代音楽の作曲家・数学者・物理学者・宗教学者・哲学者。 大阪府茨木市生まれ。大阪府立旧制茨木中学校を経て、旧制第三高等学校(現・京都大学)に入学する。この間に、父・松下久一より作曲を、中村良治にピアノと和声、永井巴に作曲と和声、朝比奈隆に指揮を師事した。 幼少の頃より、音楽、文学、科学や天文学に関心を抱く。中学時代より、ミヨー、ドビュッシー、オネゲル、ストラヴィンスキー、バッハ等の楽曲に親しむとともに、十二音技法の始祖ヨーゼフ・マティアス・ハウアーの思想に傾倒し、13歳で最初の交響曲を作曲していた。
粟屋 和彦(あわや かずひこ、1922年9月15日 - 19… 粟屋 和彦(あわや かずひこ、1922年9月15日 - 1995年5月11日)は、日本の教育者、医学者。山口大学第7代目学長。医学博士(1956年、京都大学にて取得)。 山口県宇部市出身。1943年、九州帝国大学附属医学専門部卒業。1955年、山口県立医科大学(現:山口大学医学部)解剖学教室にて「核酸と形質細胞反應」(共著)を著す。1956年、京都大学にて「卵アルブミン刺戟に対するリンパ系の反応様式:特にリンパ球造血における二次小節の役割について」で医学博士となる。1965年より山口大学医学部教授、1977年から1981年まで医学部長。1984年同大学第7代目学長に就任(1990年まで)。1990年より宇部短期大学学長。
星島 一夫(ほしじま かずお、1922年9月10日 - 20… 星島 一夫(ほしじま かずお、1922年9月10日 - 2003年8月3日)は、日本の経済学者(社会政策論)。愛媛大学名誉教授。経済学博士。岡山県岡山市出身。 1922年(大正11年)岡山県岡山市生まれ。旧制釜山中学、旧制第六高等学校を経て、1948年(昭和23年)京都帝国大学法学部卒、昭和26年愛媛大学文理学部助手、昭和44年法文学部教授、附属図書館長、昭和60年法文学部長、愛媛大学退官後松山大学経済学部教授、平成5年今治明徳短期大学長。この間株式会社えひめ勤労者生活情報センター所長も務める。社会政策、労働問題を精力的に研究し、特に来島グループの坪内寿夫の経営姿勢や労務管理に批判的であった。後年には伊賀貞雪・愛媛県知事の推進した「生活文化」を賞賛した。
岩井 忠熊(いわい ただくま、1922年〈大正11年〉8月1… 岩井 忠熊(いわい ただくま、1922年〈大正11年〉8月17日 - 2023年〈令和5年〉11月4日)は、日本の歴史学者。専攻は日本近代史。立命館大学名誉教授。 熊本県熊本市出身。名前の「忠熊」は熊本生まれに因む。京都大学文学部卒業。立命館大学教授・副学長を歴任。 京都大学から学徒出陣した、特攻艇・震洋の元特攻隊員である。しかし、石垣島へ移送中に敵軍の魚雷攻撃を受けて船が沈没。3時間泳いだ末に救助され、特攻せずに存命したまま終戦を迎えた。元特攻隊員であることは晩年になってから明かしたことで、明かした理由は「特攻を公然と賛美する動きに腹が立ったからです」と語っている。 2歳上の兄・忠正も慶應義塾大学在学中に学徒出陣し、伏龍・回天の元特攻隊員であった。
森川 達也(もりかわ たつや、1922年8月14日 - 20… 森川 達也(もりかわ たつや、1922年8月14日 - 2006年5月5日)は、日本の文芸評論家、僧侶。 兵庫県出身、本名は三枝洸一。京都大学文学部卒。1951年作家の三枝和子(結婚後の姓)と結婚、ともに同人雑誌『文藝人』を創刊。1963年兵庫県の実家の寺を継ぐ。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
横井正美(よこい まさみ、1922年8月12日 - 2000… 横井正美(よこい まさみ、1922年8月12日 - 2000年2月11日)は日本の大蔵官僚。国税庁次長、大阪万博記念協会理事長などを務めた。 香川県出身。京都帝国大学法学部卒業。京都大学大学院を中退し、1948年9月 大蔵省入省。給与局第四課配属。1949年6月 主計局共済課。1950年4月 横浜税関監視部。1951年6月 米国出張(留学)(〜1953年3月)。1953年5月 徳山税務署長。1954年7月 造幣局総務部総務課長。その後は主税局税関部、管財局総務課、理財局証券部、証券局などで課長補佐として勤務。1964年7月 東京税関総務部長。1969年8月:東京国税局総務部長。1971年6月 国税庁長官官房総務課長。
福島 徳壽郎(ふくしま とくじゅろう、1922年7月29日 … 福島 徳壽郎(ふくしま とくじゅろう、1922年7月29日 - 1995年6月3日)は、日本の政治学者。京都大学名誉教授。 鹿児島県生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)(1940年3月卒)、第七高等学校造士館 (旧制)文科(1944年9月卒)、京都大学法学部(旧制)(1949年3月卒)をそれぞれ卒業。1949年4月に京都大学法学部大学院特別研究生となった後、1950年4月に京都大学助手に、1953年1月に神戸商科大学助教授に就任する。1957年4月に京都大学法学部助教授に就任し、1962年5月に同教授へ昇任し、1986年3月31日の定年まで務め、同年4月1日付けで名誉教授となる。京都大学法学部教授在任中、法学部長(1976年10月22日~1978年10月21日)や評議員(1972年3月19日~1974年3月18日)も務めた。
鈴木 正(すずき ただし、1922年 <大正11年> 7月8… 鈴木 正(すずき ただし、1922年 <大正11年> 7月8日 - 2008年 <平成20年> 2月28日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長、会長を務めた。位階は正五位。 兵庫県神戸市出身。1947年に京都大学法学部政治学科を卒業し、同年に山陽電気鉄道に入社した。1963年11月に取締役に就任し、1971年6月に常務、1978年6月に専務、1981年7月に副社長を経て、1986年6月に社長に就任。1992年6月に会長に就任し、1995年6月には相談役に就任。 1995年11月に勲三等瑞宝章を受章。2008年死去。死没日付をもって正八位から正五位に進階した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
森 進一(もり しんいち、1922年6月10日 - 2005… 森 進一(もり しんいち、1922年6月10日 - 2005年10月11日)は、日本の古代ギリシア哲学研究者、小説家、関西医科大学名誉教授。 京都府京都市出身。京都帝国大学文学部で古代ギリシア哲学を専攻し、田中美知太郎の指導を受け、京大大学院古代哲学専攻博士課程中退。京都大学非常勤講師を経て、64年関西医科大学教養部助教授、65年教授、91年定年、名誉教授。 また森泰三の名で文学作品も発表、1963年「砧」で芥川賞候補、1972年「冬へ」、1976年「結婚」で3度候補にあがった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
降旗 武彦(ふりはた たけひこ、1922年6月9日-2002… 降旗 武彦(ふりはた たけひこ、1922年6月9日-2002年8月8日)は、日本の経営学者。 長野県南安曇郡三郷村(現安曇野市)出身。旧制弘前高等学校卒、京都帝国大学に入るが兵役で入隊し、1945年 軽巡洋艦 矢矧に乗り込み大和を護衛して出撃するが撃沈されて負傷する。1947年京都帝国大学経済学部卒、同大学院をへて、1971年「経営管理過程論の新展開 Management Theory Jungleへの一試論」で経済学博士。1951年京都大学経済学部講師、1957年助教授、1970年教授。1986年定年退官し、名誉教授となり、朝日大学教授、1989年大阪国際大学教授を務め、95年退職。70年「経営管理過程論の新展開」で日経・経済図書文化賞受賞。
近藤 宗平(こんどう そうへい、1922年5月7日 - 20… 近藤 宗平(こんどう そうへい、1922年5月7日 - 2014年6月10日)は、日本の遺伝学者、大阪大学名誉教授。放射線ホルミシスの研究者。理学博士。 福岡県出身。京都帝国大学理学部物理学科(実験原子核物理専攻)卒。広島市への原子爆弾投下を受けて、学生として京大原爆物理調査班に参加、放射性物質で汚染された資料の採取、放射能の測定などを行う。核物理学から遺伝学、基礎医学への道へ進む。国立遺伝学研究所室長、大阪大学医学部放射線基礎医学教室教授、近畿大学原子力研究所教授などを歴任。大阪大学名誉教授、近畿大学原子力研究所特別研究員。放射線と健康を考える会会員。1958年 京都大学理学博士 「Thermodynamical fundamental equation for spherical interface」。
邦寿王(くにながおう、1922年(大正11年)4月21日 -… 邦寿王(くにながおう、1922年(大正11年)4月21日 - 1986年(昭和61年)4月16日)は、日本の元皇族、陸軍軍人。最終階級は陸軍大尉。賀陽宮恒憲王の第1王子。臣籍降下(皇籍離脱)後は賀陽邦寿(かや くになが)。明仁上皇(第125代天皇)の再従兄にあたる。 1922年(大正11年)4月21日午前0時45分、賀陽宮恒憲王と同妃敏子の第1男子として誕生。御七夜の4月27日に「邦寿」と命名された。 学習院中等科を経て、東京陸軍幼年学校(40期)卒業後、1941年(昭和16年)7月、陸軍士官学校(55期)を卒業。陸軍少尉に任官する。大尉時代には早淵四郎中将の下で豊橋第一陸軍予備士官学校の教官を務め、精神訓話と戦術の講義を担当した。
川崎 寛治(かわさき かんじ、1922年(大正11年)4月1… 川崎 寛治(かわさき かんじ、1922年(大正11年)4月18日 - 2005年(平成17年)12月3日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。日本統治時代の台湾の台南市生まれ。台北高等学校 (旧制)を経て、京都帝国大学法学部へ進む。1943年(昭和18年)から学徒動員で従軍し、台湾最南端の地で終戦を迎える。1946年(昭和21年)春に鹿児島県川辺町に引き揚げて、大学に復学し卒業。 高校教諭、参議院議員秘書などを経て、1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙で社会党公認で旧鹿児島1区に立候補し落選、3度目の挑戦となった1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で初当選する。
北村 英三(きたむら えいぞう、1922年4月17日 - 1… 北村 英三(きたむら えいぞう、1922年4月17日 - 1997年3月7日)は、日本の俳優、演出家。晩年の芸名は喜多村 英三、本名は北村 英蔵(いずれも読みは同じ)。東京府東京市牛込区新小川町(現:新宿区新小川町)出身。妻は関えつ子、娘は北村岳子。 旧制第四高等学校(現:金沢大学)を経て、京都帝国大学文学部国語国文科に入学。学生演劇で当時の日本人男性としては長身だった体躯を生かし、翻案劇の主演と演出を数多く務めた。在学中の1947年に『劇団くるみ座』の創立に参加する。1948年、京都帝大を卒業。 近畿で製作された舞台、ラジオドラマ、テレビドラマ、映画に数多く出演した個性派俳優として知られ、映画『吸血鬼ゴケミドロ』の政治家・真野剛造のような権力者役や、結束信二脚本・司馬遼太郎原作のテレビドラマ『新選組血風録』と『燃えよ剣』での井上源三郎役、『部長刑事』の大阪府警捜査一課の大鍋部長刑事のような市井の人などの脇役を終生演じ続けた。
中埜 肇(なかの はじむ、1922年3月31日 - 1985… 中埜 肇(なかの はじむ、1922年3月31日 - 1985年8月12日)は、日本の実業家、プロ野球球団経営者。 阪神電気鉄道株式会社(以下、阪神電鉄)専務取締役鉄道事業本部長、阪神タイガース(以下、阪神)取締役社長を歴任した。球団社長在職中の1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故により死去した。 京都帝国大学工学専攻卒業後、1947年に阪神電鉄へ入社し、子会社の阪神土木工業専務・社長を経て、阪神電鉄専務取締役に就任。土木・技術畑出身で、阪神電鉄グループ関連の建築物以外にも、国内の大型建造物やレジャー施設の建設にも関与していた。 1984年10月、子会社であるプロ野球球団・阪神タイガースに出向し、球団社長へ就任した。
仮谷 志良(かりや しろう、1922年(大正11年)3月13… 仮谷 志良(かりや しろう、1922年(大正11年)3月13日 - 1997年(平成9年)9月2日)は、日本の政治家。和歌山県出身。和歌山県知事を5期務めた。 1922年(大正11年)3月13日、和歌山県西牟婁郡串本町(現・東牟婁郡串本町)で生まれる。1947年(昭和22年)に京都帝国大学法学部を卒業し、1949年(昭和24年)に和歌山県庁に入庁した。1959年(昭和34年)に土木部次長、1963年(昭和38年)に経済部長、1967年(昭和42年)10月16日には出納長に就任している。1975年(昭和50年)に副知事となった。 同年10月4日の和歌山県知事・大橋正雄の急逝を受けて行われた和歌山県知事選挙に立候補して当選。
山田 晶(やまだ あきら、1922年〈大正11年〉3月7日 … 山田 晶(やまだ あきら、1922年〈大正11年〉3月7日 - 2008年〈平成20年〉2月29日)は、日本の哲学研究者で、西洋中世哲学研究の第一人者であった。京都大学名誉教授。 長野県諏訪市出身。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、第八高等学校文科乙類を経て、1944年(昭和19年)京都帝国大学文学部哲学科卒業、山内得立に師事。翌年まで徴兵された。 1951年(昭和26年)大阪市立大学文学部講師、1955年(昭和30年)同助教授、1965年(昭和40年)京都大学文学部助教授、1968年(昭和43年)同教授、1976年(昭和51年)同大文学部長。1985年(昭和60年)京大を停年退官、名誉教授。
上柳 克郎(うえやなぎ かつろう、1922年3月5日 - 2… 上柳 克郎(うえやなぎ かつろう、1922年3月5日 - 2007年12月7日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1989年)。京都大学名誉教授。1998年日本学士院会員。勲等は勲二等。京都帝国大学法学部助教授、京都大学法学部教授、京都大学法学部学部長、大阪学院大学法学部教授、大阪学院大学法学部学部長などを歴任。大隅健一郎門下。 1922年(大正11年)生まれの法学者である。専門は商法であり、学位論文「商法の基礎的研究」にて1989年に法学博士の学位を取得した。1980年に『会社法・手形法論集』を有斐閣より上梓したことで知られている。また、1999年には『商事法論集』を有斐閣より上梓した。
小池 澄(こいけ きよし、1922年 <大正11年> 3月4… 小池 澄(こいけ きよし、1922年 <大正11年> 3月4日 - 2006年 <平成18年> 2月22日)は、日本の経営者。名古屋鉄道副社長、名鉄百貨店社長を務めた。位階は正五位。 愛知県出身。1946年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に名古屋鉄道に入社。1966年11月に取締役に就任し、常務、専務、代表取締役を経て、1978年6月に副社長に就任。1980年6月から1993年6月までに取締役相談役を務めた。 一方で、1979年5月に名鉄百貨店副社長に就任し、同年11月には社長に昇格。1995年5月に会長に就任し、1999年5月に取締役相談役を経て、2001年5月には相談役に就任。 1978年6月に運輸大臣表彰を受け、1982年11月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等瑞宝章を受章。
本島 等(もとしま ひとし、1922年〈大正11年〉2月20… 本島 等(もとしま ひとし、1922年〈大正11年〉2月20日 - 2014年〈平成26年〉10月31日)は、日本の政治家。1979年(昭和54年)から1995年(平成7年)までの4期にわたり長崎県長崎市長を務めた。 長崎県南松浦郡北魚目村(現在の同郡新上五島町)に生まれる。洗礼名、イグナチオ・ロヨラ。カトリック教徒。 隠れキリシタンの末裔であるカトリック教徒で母は未婚であることから戦時中はスパイ疑惑を掛けられた。旧制高校在学中の21歳の時に徴兵されて見習士官として新兵に大砲の撃ち方を指導した。所属する西部軍管区教育隊・砲兵生徒隊が疎開する熊本市郊外の山奥で終戦を迎えた。1945年8月砲兵少尉に昇進予定だった。
辻村 公一(つじむら こういち、1922年〈大正11年〉2月… 辻村 公一(つじむら こういち、1922年〈大正11年〉2月18日 - 2010年〈平成22年〉5月28日)は、京都大学名誉教授。 1922年、静岡県浜松市で生まれた。京都帝国大学文学部に入学して田辺元の下で学び、1946年に卒業。 卒業後は、1948年に京都大学教養部助教授となった。1967年、同大学文学部哲学科助教授に配置換え。1974年、学位論文『ハイデッガー論攷』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1974年に教授昇格。1982年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。1993年、日本学士院会員に選出された。2010年に死去。 専門は西洋哲学で、ハイデッガーを翻訳・研究した。なおその特徴として、それまで「存在と時間」として訳されていた「Sein und Zeit」に対し、「有と時」としたことが挙げられる。
中島 章夫(なかじま あきお、1922年2月18日 - 19… 中島 章夫(なかじま あきお、1922年2月18日 - 1997年)は、日本の化学者。大阪工業大学工学部応用化学科元教授。工学博士(京都大学)。元京都大学医用高分子材料研究センター(現:京都大学医生物学研究所)長。高分子学会第14期会長。 専門は、高分子材料・機能性高分子・繊維化学。 1943年京都帝国大学工学部繊維化学科(のちの高分子化学科)卒業。1951年工学博士(京都大学)。1961年京都大学工学部高分子化学科教授として、第五講座(高分子分子論)を担当。その後、京都大学医用高分子材料研究センター(のちの生体医療工学研究センター、現京都大学医生物学研究所)長などを歴任し、京都大学退官。1985年大阪工業大学工学部応用化学科に教授として着任、応用化学教室を担当。
服部 達(はっとり たつ、1922年(大正11年)2月13日… 服部 達(はっとり たつ、1922年(大正11年)2月13日 - 1956年(昭和31年)1月1日)は日本の文芸評論家、翻訳家。 第一高等学校理科を経て京都大学文学部独文科中退(学徒兵として応召)。1954年(昭和29年)、奥野健男、日野啓三、清岡卓行、村松剛、島尾敏雄、遠藤周作、吉本隆明たちと「現代評論」を創刊。同年「新世代の作家たち」を発表。1955年(昭和30年)、評論「われらにとって美は存在するか」を「群像」3月号から9月号まで連載。マルクス主義を背景にしたイデオロギー的批評の全盛期にあって、それとは全く異質な審美的批評の確立を図り、新進批評家として注目を集める。 しかし出版社への借金が嵩み、このことを苦にして、1956年(昭和31年)1月1日、八ヶ岳山麓の清里村キリスト教団清里センター清泉寮から失踪。
前川 嘉一(まえかわ かいち、1922年2月9日 - 199… 前川 嘉一(まえかわ かいち、1922年2月9日 - 1990年1月29日)は、日本の経済学者。 京都市生まれ。第三高等学校、兵役をへて1947年京都帝国大学経済学部卒。1968年「イギリス労働組合主義の発展」で京都大学より経済学博士の学位を取得。1949年京都大学経済学部助手、1950年講師、1954年助教授、1969年教授、1976-1977年経済学部長、1985年定年退官、名誉教授。
鎌田 皎(かまだ あきら、1922年(大正11年)1月30日… 鎌田 皎(かまだ あきら、1922年(大正11年)1月30日 - 2002年(平成14年)7月24日)は、昭和から平成時代の薬学者。大阪大学名誉教授。 1945年(昭和20年)9月、京都帝国大学理学部化学科卒業後、同学部副手、1949年(昭和24年)助手となる。のち1955年(昭和30年)8月、大阪大学薬学部薬剤学教室講師となり、1960年(昭和35年)助教授を経て、1971年(昭和46年)教授となった。1985年(昭和60年)定年退官と同時に同大名誉教授。 特に界面化学を薬学に応用する研究で知られ、界面活性剤を薬物投与に応用する研究から構造活性相関と生物製剤に関する研究まで広い分野に渡る研究を行った。
岩田 慶治(いわた けいじ、1922年1月12日 - 201… 岩田 慶治(いわた けいじ、1922年1月12日 - 2013年2月17日)は、日本の文化人類学者。国立民族学博物館名誉教授、東京工業大学名誉教授。 1922年、神奈川県横浜市で生まれた。旧制富山高校で学び、地理学に関心を持っていた。戦後の1948年、京都大学文学部市学科を卒業。卒業論文は、オーストラリアのアルンタ族の地域観に関するものであった。 その後は大阪市立大学助教授に就いた。東京工業大学教授の後、国立民族学博物館教授となった。1986年に国立民族学博物館を定年退官し、名誉教授となり、東京工業大学の名誉教授となった。その後は大谷大学教授として教鞭をとった。2013年2月17日、肺炎により死去。
桐榮 良三(とうえい りょうぞう、1922年1月12日 - … 桐榮 良三(とうえい りょうぞう、1922年1月12日 - 2003年2月16日)は、日本の化学工学者。京都大学名誉教授。主な専門は乾燥工学。工学博士(1953年)(学位論文「固体乾燥の応用的研究」)。香川県出身。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
橋本 南海男(はしもと なみお、1922年〈大正11年〉1月… 橋本 南海男(はしもと なみお、1922年〈大正11年〉1月8日 - 1997年〈平成9年〉12月11日)は、日本の経営者。沖電気工業社長、会長を務めた。群馬県出身。 1922年、群馬県富岡市出身の父・市郎の子として台湾に生まれる。台南市旧制第一中学校、旧制台北高等学校理科甲類卒。1944年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1946年に沖電気工業に入社した。1970年に取締役に就任し、1975年に常務、1979年6月に専務を経て、1982年5月に社長に就任。1988年6月に会長に就任し、1992年10月に相談役を経て、1993年6月に特別顧問に就任。通信機械工業会会長も務めた。 1983年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲二等瑞宝章を受章。
野崎 一(のざき ひとし、1922年〈大正11年〉1月1日 … 野崎 一(のざき ひとし、1922年〈大正11年〉1月1日 - 2019年〈令和元年〉9月25日)は、日本の化学者(有機合成化学・有機金属化学)。勲等は勲二等。学位は工学博士(京都大学・1949年)。京都大学名誉教授、日本学士院会員。 京都大学工学部教授、岡山理科大学教授などを歴任した。 有機合成化学、有機金属化学を専攻する有機化学者である。1922年〈大正11年〉1月1日生まれ、岡山県出身。太平洋戦争後の日本の有機化学研究を牽引した。京都大学名誉教授。2019年〈令和元年〉9月25日に死去。 三女は東京大学大学院工学系研究科で初の女性教授の野崎京子。 カルボカチオンを基盤としたテルペン類の合成、カルベノイドを利用した新規反応の開発などに取り組み、戦後復興期にあった日本有機化学界を牽引する業績を上げた。
浅野 二郎(あさの じろう、1922年 - )は、園芸学者。… 浅野 二郎(あさの じろう、1922年 - )は、園芸学者。千葉大学名誉教授。日本庭園学会会長などを歴任。農学博士。 福島県生まれ。京都大学農学部卒業。京都大学講師、香川大学助教授を経て1964年香川大学農学部教授就任。1977年千葉大学園芸学部教授。 主な庭園設計に徳島県徳島市の料亭「渭水苑」(旧和田吉郎邸)庭園がある。他、梁川城本丸の庭園遺跡調査など、多数。 1987年度日本造園学会上原敬二賞受賞。
葛西 善三郎(かさい ぜんざぶろう、1922年 - 2017… 葛西 善三郎(かさい ぜんざぶろう、1922年 - 2017年)は、日本の農学者。 旧制滝川中学校卒業鳥取高等農業学校卒業、鳥取大学農学部同窓会京都支部設立に参画し初代支部長を務める。京都大学農学部農林化学科卒業。1947年京都大学助教授、1957年京都大学食糧科学研究所教授。1985年京都大学を定年退官、同年京都大学名誉教授となる。京都大学を定年退官後は近畿大学農学部教授となる。 1956年日本土壌肥料学会賞受賞。
吉井巌(よしい いわお、1922年 -1995年 )は、国文… 吉井巌(よしい いわお、1922年 -1995年 )は、国文学者。大阪に生まれる。京都大学文学部を卒業。国文学を専攻。帝塚山学院大学教授。 『古事記』を中心とした『記紀』系譜の研究が有名で、特に『上宮記』一伝にいう、継体天皇の父系の祖であるホムタワケが通常応神天皇とされるところを、垂仁天皇の子・誉津別命と解釈したことはよく知られる(『天皇の系譜と神話 二』)。また王朝交代説において応神天皇が始祖的な大王とされたのに対し、いち早く応神天皇の始祖性を否定する見解を示した(『天皇の系譜と神話 一』)。『ヤマトタケル』においては、ヤマトタケルの伝承のそれぞれがヤマトタケルの別名と密接に結びついていることに注目し、その名前に関連して述べられた伝承を1人の英雄像として統合する形で生まれたのが『記紀』におけるヤマトタケルであると論じた。
福持通(ふくもちとおる、1922年 - 2014年)は日本の… 福持通(ふくもちとおる、1922年 - 2014年)は日本の実業家。元都ホテル(現ウェスティン都ホテル京都)社長。伊勢本街道保存会相談役。三重県名張市出身。祖父・善之丞は立憲憲政会員、名賀郡会議員。
鹿毛 誠一(かげ せいいち、1922年 - 1998年9月1… 鹿毛 誠一(かげ せいいち、1922年 - 1998年9月15日)は、日本の倫理学者。獨協大学名誉教授。 福岡県生まれ。1942年旧制佐賀高等学校 (旧制)理科甲類卒業。1947年京都帝国大学文学部哲学科卒業、1962年同旧制大学院修了。1951年大阪市立東第二高等學校敎諭、1965年獨協大学教養部助教授、1968年教授、1993年定年退職、名誉教授。
木下 良(きのした りょう、1922年(大正11年) - 2… 木下 良(きのした りょう、1922年(大正11年) - 2015年(平成27年)1月26日 )は、日本の地理学者。 長崎県生れ。1953年京都大学文学部史学科地理学専攻卒業。同志社女子中学校・高校教諭、1973年ころ神奈川大学教授、富山大学教授、1983年ころ國學院大学教授。古代交通研究会名誉会長。