秋野 不矩(あきの ふく、1908年(明治41年)7月25日… 秋野 不矩(あきの ふく、1908年(明治41年)7月25日 - 2001年(平成13年)10月11日)は、静岡県出身の女流日本画家。本名はひらがなでふく。日本画家沢宏靱との間に6人の子を儲けた。絵本画家の秋野亥左牟は次男。 昭和初期より西山翠嶂門下で官展の入選・特選などを重ねた。戦後は画塾を出て「創造美術」(現創画会)の結成に参画する一方、美術学校(現京都市立芸術大学)にて後進を指導。50代で赴任したインドの風景に魅せられ、以後インドを主題にした作品で新しい境地を開拓する。 神主の父惣吉と母かつの五女として静岡県に生まれる。貧乏な田舎暮らしで玩具も絵本もなかったため、好きな絵を描いて育った。小学六年の時、東京の美術学校出身の教師と親しく接し、ゴッホやゴーギャンの絵画を知る。
櫻井 鴻有(さくらい こうゆう、1906年(明治39年) –… 櫻井 鴻有(さくらい こうゆう、1906年(明治39年) – 1960年(昭和35年))は、昭和時代の日本画家。生涯にわたり立山を主題に描き続けた。 富山県高岡市に生まれる。富山県立工芸学校図案科(現・富山県立高岡工芸高等学校)を経て、1927年京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学、後に同校研究科に進む。1930年第11回帝展に「北越山村」で初入選、以後同展、新文展に出品。1945年高岡に疎開。以後、郷土で日本画の発展に尽力した。
沢 宏靱(さわ こうじん、明治38年(1905年)3月18日… 沢 宏靱(さわ こうじん、明治38年(1905年)3月18日 - 昭和57年(1982年)9月24日)は、日本画家、秋野不矩と結婚するが後に離婚。日本画団体「創造美術」設立に関与した。 沢宏靱は、明治38年(1905年)3月18日に滋賀県坂田郡長浜町神戸(現滋賀県長浜市元浜町)で、洋品雑貨商の父喜代吉と母民の次男として生まれ、日露支(ひろし)と名付けられた。大正9年(1920年)に、京都画壇の重鎮西山翠嶂の内弟子となり、東京の美術展での入選を目指し大正13年(1924年)上京し、昭和2年(1927年)に初めて帝展(現日展)に出展するが落選した。京都に戻り、西山翠嶂が主催する画塾『青甲社』に入塾し秋野不矩と出会う。
福田 豊四郎(ふくだ とよしろう、1904年(明治37年)1… 福田 豊四郎(ふくだ とよしろう、1904年(明治37年)11月27日 - 1970年(昭和45年)9月27日)は、秋田県出身の日本画家。官展から在野へと活動の場を移しながら、生涯日本画の革新を掲げて活躍した。本名は福田豊城。息子に俳優の福田豊土がいる。 秋田県鹿角郡小坂町の生まれ。15歳で画家を志し、京都に出て洋画家・鹿子木孟郎にデッサンを学ぶ。日本画家・川端龍子の作品に感銘を受け、1921年(大正10年)東京で弟子入りするも、師に勧められ一年余で再び京都へ移り、日本画家・土田麦僊に師事する。翌1924年(大正13)第4回国画創作協会展(国展)初入選。同協会は師・麦僊らが文展の審査に不満を持って結成した革新的な団体であり、豊四郎は以後1928年(昭和3年)の同協会解散まで出品を続けた。
奥村 厚一(おくむら こういち、1904年(明治37年)7月… 奥村 厚一(おくむら こういち、1904年(明治37年)7月1日 - 1974年(昭和49年)6月25日)は、京都市北区生まれの日本画家。 主に風景画を得意とし、大きな作品はもとよりスケッチも味わい深い。1946年(昭和21年)第2回日展において「浄晨」が特選。
甲斐 巳八郎(かい みはちろう 1903年1月24日 - 1… 甲斐 巳八郎(かい みはちろう 1903年1月24日 - 1979年6月16日)は、日本の画家。水墨画を中心とした日本画の創作を行った。 1903年(明治36年)1月24日、熊本県熊本市に生まれる。京都市立絵画専門学校本科に入学して福田平八郎に師事。1927年に卒業すると中国大陸へ渡り、南満州鉄道社員会報道部に勤務しながら日本画を中心とした作品制作などに携わった。また『北京画集』『満州郷土人形』などを著した。第二次世界大戦終結後の1947年、日本へ引揚げて福岡県に定住する。1948年には日本美術院展に「筑紫路」を出展、初入選したことを足掛かりに、以降、多くの作品を発表。水墨画を現代化した独自の作風を生み出した。
上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年〈明治35年〉1… 上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年〈明治35年〉11月4日 - 2001年〈平成13年〉3月11日)は日本画家。花鳥画の近代化に貢献し、文化功労者となりさらに文化勲章を受章した。京都市立芸術大学教授。 本名は信太郎。母は近代美人画の大家、上村松園。未婚で松篁を出産した松園はその父について自ら語ることはなかったが、一部の書籍では松園の師の日本画家・鈴木松年が父であるとみなされている。松年が実の父であることは、松篁が著作中で明らかにしており、13歳のころに初めて松年を父と紹介されたとしている。 息子は同じく日本画家の上村淳之。 1902年(明治35年)、上村松園の長男として京都府京都市中京区四条堺町に生まれる。
中島 菜刀(なかじま さいとう、1902年8月16日 - 1… 中島 菜刀(なかじま さいとう、1902年8月16日 - 1955年7月19日)は、日本の画家。 中島菜刀は、明治35年(1902年)、鳥取県八頭郡賀茂村(現在の八頭町)にて村芝居の巡業一座の座長格の父と結髪担当の母の両親の元に生まれた。幼いころからの恵まれた画才から、郷里の人々の後援を得て京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)に学ぶ。苦学をしながらも卒業し、昭和4年(1929年)第16回日本美術院展に初入選を果たし、以降院展を主な舞台として活躍した。昭和16年(1941年)『樹海』が横山大観から激賞され、翌年『薫風梨園』が第29回院展で第三席(白寿賞・この年の絵画の部では最高位)を獲得し、その高い画力が認められる。
徳力 富吉郎(とくりき とみきちろう、明治35年(1902年… 徳力 富吉郎(とくりき とみきちろう、明治35年(1902年)3月22日 - 平成12年(2000年)7月1日)は明治時代末期から平成時代にかけての版画家。 京都市の西本願寺絵所を預かる家系の12代目として生まれる。京都市立美術工芸学校に学んだ後、大正12年(1923年)に京都市立絵画専門学校を首席で卒業する。卒業後、土田麦僊に師事した。昭和3年(1928年)に国画創作家協会に日本画を出品、樗牛賞を受賞する。翌昭和4年(1929年)には麻田弁次、浅野竹二、亀井藤兵衛らとともに「京都創作版画協会」を創立した他、国画賞を受賞している。主に京都で多くの創作活動をし、仏教版画の研究を行った。この頃から富吉郎は木版を始めており、平塚運一や棟方志功らと同人誌『版』を創刊する。
野々内 保太郎(ののうち やすたろう、1902年 - 198… 野々内 保太郎(ののうち やすたろう、1902年 - 1985年12月5日)は、日本画家。 明治35年(1902年)島根県八束郡東出雲町(現・松江市)で生を受け、西山翠嶂に師事し京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)を卒業。「祥雲」という号を名乗っていたが、1932年から本名の保太郎へ改め、その翌年の1933年第13回帝展に「みやまの春」が初入選。以来、帝展・文展・日展に28回の入選を重ねる。1959年に皆川千恵子らと共に「牧人社」結成。画風は、細密かつ華麗な花鳥画を得意としていた。息子の、野々内良樹、井上稔、野々内宏の3人も絵の道に進み日本画家として活躍している。 この項目は、日本の文化に関連した書きかけの項目です。
川上 拙以(かわかみ せつい 1901年5月1日 - 197… 川上 拙以(かわかみ せつい 1901年5月1日 - 1976年12月3日)は、日本の日本画家。戦前は風景花鳥を得意としたが、戦後は人物画を多く描いた。 1901年(明治34年)愛媛県新居浜郡生まれ。京都市立絵画専門学校を卒業後、西山翠嶂に師事。1922年(大正11年)の第4回帝展から帝展に出品を続ける。1934年(昭和9年)第15回帝展に出品した「幽香煎茗」は特選に選ばれた。1936年(昭和11年)文展招待展には「清風聽声」を出品。京都市展、大阪市展などにもそれぞれ委員、無鑑査等により出品している。 第二次世界大戦後も、1950年(昭和25年)の第6回日展から出品を行っている。 1976年(昭和51年)12月3日、心筋梗塞により京都専売病院で死去。
三輪 晁勢(みわ ちょうせい、本名:三輪 信郎、1901年〈… 三輪 晁勢(みわ ちょうせい、本名:三輪 信郎、1901年〈明治34年〉4月30日 - 1983年〈昭和58年〉9月7日)は、日本画家。日本芸術院会員、京都府美術工芸功労者、京都市文化功労者、与板町名誉町民(現在は長岡市名誉市民)。堂本印象の義弟。 1901年(明治34年)新潟県三島郡与板町長丁(現長岡市)に生まれる。父は洋画家の三輪越龍(本名:三輪大次郎)。与板町立与板尋常小学校卒業後、画家修業の為に京都へ移住し1913年(大正2年)京都市立美術工芸学校入学。1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業。 堂本印象に師事し、当初は超世と号した。1927年(昭和2年)第8回帝展に「東山」が初入選。
杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - … 杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - 1984年8月31日)は、京都市出身の日本画家。号は遊子。おもに水彩画や油彩画を手がけ、洋画の技法を取り入れた作品が多い。 京都市下京区に生まれた杉田は、長じて京都市立絵画専門学校(京都市立美術大学の前身)に学び、在学中の1920年に「海近く」で国画創作協会展に初入選した。1922年に卒業した後も、入江波光に師事しながら。その後も国画創作協会展などに出品し、1926年には国画創作協会会員に推されたが、同会日本画部は1928年に解散してしまう。そこで、新樹社に参加するが、1931年には脱退する。 1934年に満州へ渡って美術教師となり、旅順高等公学校や大連の芙蓉高等学校で教鞭を執った。
浅野 竹二(あさの たけじ、1900年(明治33年)10月2… 浅野 竹二(あさの たけじ、1900年(明治33年)10月24日-1998年(平成10年)2月10日)は、京都の日本画家、版画家。 土田麦僊の門人。1900年(明治33年)、父、浅野眞三郎、母、もとの子として京都市に生まれた。大正4年(1915年)から作画を始めており、1919年(大正8年)に京都市美術工芸学校絵画科(日本画)を卒業、1921年(大正10年)、京都市立絵画専門学校本科1年に入学して日本画を専攻したが、本科2年の頃から油絵を独学している。1923年(大正12年)に絵画専門学校を卒業し、1926年(昭和元年)頃、再び日本画に復帰、翌1927年(昭和2年)に麦僊の画塾「山南塾」に入り、第6回国画創作協会展に「風景」を出品、翌1928年(昭和3年)、第7回国画創作協会展に「白帆遥暎」を出品、ともに入選するなど日本画家として活躍した。
山口 華楊(やまぐち かよう、1899年〈明治32年〉10月… 山口 華楊(やまぐち かよう、1899年〈明治32年〉10月3日 - 1984年〈昭和59年〉3月16日)は、山口華楊は日本画家。早くから動物画・花鳥画で知られ、戦後の京都画壇で中心人物の一人となった。 山口は1899年(明治32年)に京都市中京区で本名・米次郎として生まれた。父(安之助)は江戸時代からつづく友禅染めの彩色職人で、母親(なを)は京都市内で成功した絵具屋の娘だった。幼いころから絵を描くことを好み、5歳上の兄・松之助も後に玲熙(れいき)と号して菊池芳文に支持、帝展に入選を果たしている。 山口は1912年(明治45年)に京都市立格致尋常小学校を卒業すると、当時の日本画壇の大家だった西村五雲の画塾に入門する。
中村 大三郎(なかむら だいざぶろう、1898年3月21日 … 中村 大三郎(なかむら だいざぶろう、1898年3月21日 - 1947年9月14日)は、京都市生れの日本画家。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)教授。
浜田 観(はまだ かん、旧字体: 濱田 觀、1898年(明治… 浜田 観(はまだ かん、旧字体: 濱田 觀、1898年(明治31年)2月20日 - 1985年(昭和60年)10月6日)は、日本画家、日本芸術院会員。本名は浜田 仙太郎(はまだ せんたろう)。位階は正五位。 兵庫県(現在の姫路市手柄)生まれ。京都絵画専門学校卒。金島桂華の紹介で竹内栖鳳に師事。在学中に帝展入選。戦後は日展に出品。1965年(昭和41年)日本芸術院賞受賞。1984年(昭和59年)芸術院会員。勲四等旭日小綬章、紺綬褒章受章。日展顧問。1985年死去。死没日付をもって正五位に叙された。花鳥画を得意とした。日本画家浜田昇児は子。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
猪原 大華(いのはら たいか、1897年(明治30年)2月1… 猪原 大華(いのはら たいか、1897年(明治30年)2月17日 - 1980年(昭和55年)2月5日)は日本画家。広島県深安郡(現・福山市)出身。本名は寿(ひさし)。花鳥草木を得意とした。 自然観照に基づいた穏健な画風と枯淡な色彩で知られており、写実を越えた現代花鳥画の方向性を導く物として期待され、装飾的画題を荒いタッチで処理した独特の画風を展開した。 1897年(明治30年)2月17日、広島県深安郡八尋村(現・福山市)にて地主農家の生家に生まれる。 1915年、18歳のとき画家を志し広陵中学校(現・私立広陵高校)を中退。伯父を頼って大阪に出た折に金島桂華を知る。1918年京都市立絵画専門学校別科(現・京都市立芸術大学)入学。
栗盛 吉蔵(くりもり きちぞう、1897年(明治30年)2月… 栗盛 吉蔵(くりもり きちぞう、1897年(明治30年)2月 - 1974年(昭和49年))は、昭和時代に活躍した日本画家、美術教師。号は大地。 奈良県奈良市高畑町にウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の自宅兼アトリエを構え、志賀直哉の高畑サロンに参加した。後に故郷の秋田県大館市で美術教師として教育に従事し、同地の美術界に大きな影響を与えた。 1897年(明治30年)2月、秋田県大館町に、父栗盛倉松、母ヤエの三男として生まれる。生家の栗盛家は、曾祖父栗盛吉右衛門が一代で財を築いた北秋田郡有数の資産家で、吉右衛門は奨学金の貸し付けなどの育英事業を行う栗盛教育団を設立している。 大正年間に京都市立芸術大学の前身である京都市立美術工芸学校本科を卒業した。
稲垣 仲静(いながき ちゅうせい、本名:稲垣 廣太郎(いなが… 稲垣 仲静(いながき ちゅうせい、本名:稲垣 廣太郎(いながき ひろたろう)、1897年(明治30年) - 1922年(大正11年)6月25日)は、大正時代の日本画家。京都市出身、 日本画家で工芸図案家の稲垣竹埠の長男に生まれ、克明な自然描写の中に官能性や凄みを表現する画家として、将来を期待されながらも早逝した。 弟は型絵染の人間国宝に認定された染織家の稲垣稔次郎。 1912年(明治45年)に京都市立美術工芸学校(美工)に入学し、京都派の基礎とも言える写生技術を身につけた。1917年(大正6年)京都市立絵画専門学校(絵専)に進学し、翌1918年(大正7年)に美工出身者の研究団体「密栗会」に参加した。
宇田 荻邨(うだ てきそん、1896年〈明治29年〉6月30… 宇田 荻邨(うだ てきそん、1896年〈明治29年〉6月30日 - 1980年〈昭和55年〉1月28日)は、日本画家、日本芸術院会員。三重県松阪市生まれ。本名・善次郎。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
林 重義(はやし しげよし、1896年4月29日 - 194… 林 重義(はやし しげよし、1896年4月29日 - 1944年3月16日)は戦前日本の洋画家、版画家。 1896年に兵庫県神戸市に生まれた。始めは京都市立絵画専門学校において日本画を学ぶが、中退している。関西美術院において鹿子木孟郎に師事し油絵を学んでいる。1922年に小林和作とともに東京へ上京し、1923年に二科展に出品、初入選を果たす。1926年に「庭の一隅」で二科賞を受賞した。1928年から渡欧して、渡欧先から二科展に作品を出品している。1930年までヨーロッパに滞在、帰国後、二科会を退会する。1930年代に主に石版画を制作、発表した。1931年には独立美術協会の創立に参加するが、1937年には同会からも退会、同年、文展に出品している。
徳岡 神泉(とくおか しんせん、1896年〈明治29年〉2月… 徳岡 神泉(とくおか しんせん、1896年〈明治29年〉2月14日 - 1972年〈昭和47年〉6月9日)は、京都市生まれの日本画家。本名、時次郎。 京都写生派の流れに立った写実を発展させ、神泉様式とも表現される幽玄かつ象徴的な独自の日本画は、戦後の日本画に大きな影響を与えた。作品全体に深い印象を与える繊細な地塗りも有名。1966年(昭和41年)文化勲章受章。 1896年(明治29年)2月14日、京都市上京区に生まれる。 1909年(明治42年)に土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学ぶ。翌年には京都市立美術工芸学校絵画科に入学。卒業までの4年間に、金牌、銀牌を獲得するなど優秀な成績を修め、卒業制作の『寒汀』は学校買い上げの栄誉を受けた。
池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月… 池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月1日 - 1988年(昭和63年)9月26日)は、倉敷市出身の日本画家。本名は池田 昇一。長男は同じく画家の池田道夫。 岡山県浅口郡乙島村(現・倉敷市玉島乙島)に生まれる。紡績会社の技師であった父親の転勤に伴い大阪市に転居。幼少より画才があり、1910年(明治43年)大阪の松原三五郎が主宰する天彩画塾に入門し洋画を学ぶ。1914年(大正3年)第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が入選する。わずか18歳での入選が話題となり天才少年画家として名声を得る。 1919年(大正8年)京都市に移り竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入門し日本画に転向する。同年に第1回帝展に「南郷の八月」が入選。
前田 荻邨(まえだ てきそん、1895年10月 - 1947… 前田 荻邨(まえだ てきそん、1895年10月 - 1947年1月19日)は、神戸市出身の日本画家。本名は八十八。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
渡辺 幾春(わたなべ いくはる、明治28年(1895年)- … 渡辺 幾春(わたなべ いくはる、明治28年(1895年)- 昭和50年(1975年))は、昭和時代に活躍した名古屋の日本画家、版画家。 明治28年、名古屋市西区江川端町に生まれる。9歳の時、名古屋の日本画家、水谷芳年に師事、日本画を学んだ後、大正6年(1917年)、上京している。翌大正7年(1918年)に23歳で、第12回文展に出品した「百日紅」が初入選を果たす。その後、大正11年(1922年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科に入学、同年、第4回帝展に「若き女」で入選する。また、同年から大正14年(1925年)まで、同校を卒業後には京都において山元春挙に師事している。 29歳で名古屋へ戻った幾春は大正13年(1924年)、朝見香城、喜多村麦子、織田杏逸ら地元在住の画家たちと中京美術院を創立、日本画の革新を目指した。
岡本 神草(おかもと しんそう、1894年11月10日 - … 岡本 神草(おかもと しんそう、1894年11月10日 - 1933年2月13日)は、神戸市出身の日本画家。本名は敏郎。 若くして没したため、充分な活躍はできなかった。作品はいずれも濃艶な雰囲気の女性像で、成熟した女性の美しさや舞妓の持つ人工的美しさをモティーフに独自の作風をみせている。菊池契月に師事する。10代半ばで卓越した技術で花鳥画を制作した後、竹久夢二に魅了されて雑誌などに掲載された絵を模写したり、夢二風の少女の絵などを描いた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
梥本 一洋(まつもと いちよう、1893年(明治26年)11… 梥本 一洋(まつもと いちよう、1893年(明治26年)11月29日 - 1952年(昭和27年)3月9日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 京都中京区油小路四条上ルで、染色図案を営む家の4人兄弟のうち長男として生まれる。本名は謹之助。弟も日本画家の梥本武雄。家は祖父の代から日本画家を出すことを志しており、父吉次郎も菊池芳文に入門し芳樹と号した。しかし、途中で諦め息子たちを日本画家になるよう教育した。1899年(明治32年)本能小学校入学、1905年高等小学校に進む。1910年(明治43年)京都市立美術工芸学校に進学。卒業した後、1912年(明治45年)京都市立絵画専門学校に進み、1915年(大正4年)に卒業する。
玉村 方久斗(たまむら ほくと、本名:善之助、1893年11… 玉村 方久斗(たまむら ほくと、本名:善之助、1893年11月13日 - 1951年11月8日)は、大正から昭和初期に、日本画における前衛を追求したことで知られる日本画家。別号に、連城、北斗がある。本名の玉村善之助、またタマムラ・ゼンノスキーと名乗っての活動もあった。 京都市(後の中京区)の下駄問屋の家に生まれる。京都市立美術工芸学校から京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学の前身)に進んで菊池芳文に師事し、1915年に卒業した。岡本神草、甲斐庄楠音、入江波光らと日本画研究団体「密栗会」を結成し、展覧会を開催するが、並行して院展にも出品し入選する。 1916年に東京へ移り、院展を中心に活動し、1918年には「樗牛賞」を受賞したが、1919年を最後に院展を離れた。
山本 倉丘(やまもと そうきゅう、1893年〈明治26年〉1… 山本 倉丘(やまもと そうきゅう、1893年〈明治26年〉10月12日 - 1993年〈平成5年〉9月5日)は、日本の日本画家。高知県幡多郡出身。本名は伝三郎。 四条派の伝統の上に近代的な様式を加えた花鳥画で知られ京都画壇の重鎮であった。 1893年2月17日、高知県幡多郡に生まれる。 1918年山元春挙(早苗会)に師事、1926年、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)在学中に「麗日」が第7回帝展入選。1933年同校選科修了。同年、「菜園の黎明」が第14回帝展特選。 山元春挙没後の1939年、堂本印象(東丘社)に師事。 戦後は日展に出品を続けたほか、東丘社展・京展・関西展等で活躍。1958年の社団法人日展発足時に日展評議員就任。
福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、1892年2月28日 -… 福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、1892年2月28日 - 1974年3月22日)は、大分県出身の日本画家。
堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉1… 堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉9月5日)は、日本画家。帝室技芸員。日本芸術院会員。本名:堂本三之助。 1891年(明治24年)12月25日、京都府京都市出身。 1910年(明治43年)、旧制京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)を卒業。西陣織の図案描きの仕事をしていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。 1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校研究科修了。 1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選した。帝展第3回展では「調鞠図」で特選、第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められた。
須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月… 須田 國太郎(すだ くにたろう、1891年〈明治24年〉6月6日 - 1961年〈昭和36年〉12月16日)は洋画家。京都市立美術大学名誉教授。重厚な作風と東西技法の融合に特色。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11… 小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、近現代日本画を代表する日本画家。75年間の画業を通して、日本の自然の美しさを描き続けた。本名は小野英吉。 1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に四男として生まれる。祖父と長兄は画家であった。1903年(明治36年)長兄の勧めで京都に上り、竹内栖鳳に師事。「竹橋」の号を授かる。1909年(明治42年)栖鳳の勧めで同画塾の土田麦僊とともに、京都市立絵画専門学校(絵専、現:京都市立芸術大学)の第一期生として入学(1911年卒業)。 当時の栖鳳は写生派の伝統とカミーユ・コローの写実表現を融合した作品を描いていた。
野長瀬 晩花(のながせ ばんか、明治22年(1889年)8月… 野長瀬 晩花(のながせ ばんか、明治22年(1889年)8月17日 - 昭和39年(1964年)3月31日)は、和歌山県出身の日本画家。国画創作協会の創立メンバーとして大正時代の日本画界で活躍した。 和歌山県西牟婁郡近野村(現:田辺市中辺路町近露)に資産家の三男として生まれる。本名、弘男。初め蘆秋と号する。 明治36年(1903年)14歳で大阪に出て、円山派の中川蘆月のもとで4年間基礎を学び、その後京都の谷口香嶠塾に移る。 明治42年京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学(同級に小野竹喬、土田麦僊ら)。2年目には授業に出席せず(翌々年退学)、秦テルヲや竹久夢二をはじめとする進歩的な若い芸術家たちとの交流を深めた。
足立 源一郎(あだち げんいちろう、1889年〈明治22年〉… 足立 源一郎(あだち げんいちろう、1889年〈明治22年〉7月8日 - 1973年〈昭和48年〉3月31日)は、日本の画家、作家、登山家。山岳作家として国内外に足跡を残し、『滝谷ドームの北壁』『北穂高岳南峰』など、数々の名作を世に送り出した。 大阪府大阪市南船場生まれ。1905年に京都市立美術工芸学校(現:京都市立芸術大学)に入学し、翌年からは京都岡崎に新設された関西美術院にも通って浅井忠や鹿子木孟郎の指導を受けた。 1907年に上京して太平洋画会研究所に入る。さらに柚木久太の勧めで1914年から渡欧。1914年〜1918年、1923年〜1926年の7年のパリへの渡欧を経て画家としての基礎を学ぶ。
平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 196… 平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 1969年8月30日)は、京都府京都市生まれの日本画家。帝国美術院展覧会審査委員。本名は平井秀三。 1906年(明治39年)に京都市立美術工芸学校絵画科卒業。1907年(明治40年)新古美術展四等受賞(夕月)第1回文展入選(宮苑の朝)。 1910年(明治43年)に京都市立美術工芸学校卒業生入江波光・榊原紫峰らによる研究会「桃花会」を結成し、翌年には、榊原紫峰・野長瀬晩花・星野空外ら京都大学文学研究者たちと「バトサヤ」を立ち上げる。文部省美術展覧会(初期文展・新文展)・帝国美術院展覧会に無鑑査出品を続け、戦後は後援会の楳推会を中心に活躍した。
小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 - 19… 小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 - 1974年11月4日)は、日本の洋画家。主に風景画を手がけた。 1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる。生まれつき、吃音があった。1908年、京都市立美術工芸学校卒業。日本画家の川北霞峰に師事し、号を「霞村」とする。1910年、京都市立絵画専門学校(現 京都市立芸術大学)に入学。在学中、第4回文展に入選。1913年、同校を卒業。1918年頃、日本画から洋画に転向し、鹿子木孟郎の画塾に通う。1922年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。1925年、第3回春陽会で春陽会賞を受賞。翌年も出品し、春陽会賞を受賞した。
村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3… 村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3日 - 1939年〈昭和14年〉11月11日)は、大正~昭和期の日本画家。 1888年(明治21年)、大阪(北区松ケ枝町)に生まれる。本名は武田震一(のち村上震一)。甲州武田氏の末裔。家庭の事情により幼い頃に実父母のもとを離れ、叔母の嫁ぎ先である神戸の村上家に預けられて、神戸の小学校に通った。1901年(明治34年)、震一13歳の時には実父が死に、実母は再婚して行方知れずとなり、少年であった震一が武田家の家督を継ぐこととなった。3年後の1904年(明治37年)、武田家の廃家が許可され、震一は養父母の姓である「村上」を名乗ることとなる。父方の祖母は、日本初の感化院とされる「池上感化院」を自宅に設立した池上雪枝。
入江 波光(いりえ はこう、1887年9月26日 - 194… 入江 波光(いりえ はこう、1887年9月26日 - 1948年6月9日)は、日本画家。 本名幾治郎。京都市上京区に生まれる。1913年(大正2年)京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校研究科で竹内栖鳳らに師事し修了。1915年(大正4年)同窓生であった岡本神草、甲斐荘楠音や玉村方久斗らと前衛的日本画研究集団「密栗会」の結成に参加。1918年(大正7年)母校絵画専門学校の助教授に就任し古画の模写にあたる。この年国画創作協会展に『降魔』を出品して国画賞を受賞、翌年同人に推された。1922年に京都府の命で菊池契月らとともに外遊。1928年(昭和3年)国画創作協会日本画部解散後は画壇を離れ、後進の育成と再び模写に打ち込んだ。
榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月… 榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月8日 - 1971年〈昭和46年〉1月7日)は、京都市出身の日本画家。本名は安造。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
秦 テルヲ(はだ てるを、明治20年(1887年)3月20日… 秦 テルヲ(はだ てるを、明治20年(1887年)3月20日 - 昭和20年(1945年)12月26日)は、明治から昭和にかけて活動した日本画家。本名、輝男。名前の読みについては、広島市内の秦姓はすべて静音で「はた」と読むというが、テルヲ自身は「はだ」と濁音で読ませた。 明治20年3月20日広島市に生まれる。幼少期に一家で京都市に移住するが、まもなく父が死去。貧困の中で明治37年京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)図案科を卒業する。千總の輸出用ビロード工場に勤める傍ら、京都や神戸の貧困街や労働者の写生に励む。 明治42年、前衛的な日本画家たちの研究会と展覧会を目的に千種掃雲らによって結成された「丙午画会」に参加。
土田 麦僊う(つちだ ばくせん、 1887年(明治20年)2… 土田 麦僊う(つちだ ばくせん、 1887年(明治20年)2月9日 - 1936年(昭和11年)6月10日)は大正~昭和期の日本画家である。 明治20年(1887年)、新潟県佐渡郡新穂村(現佐渡市新穂)の農家の三男として生まれる。本名は金二。哲学者の土田杏村(茂)は弟である。明治37年(1904年)、竹内栖鳳に弟子入り。明治44年(1911年)、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業している。同年には小野竹喬らとともに前衛的な絵画運動の会である仮面会(ル・マスク)を結成。黒猫会に参加。文展には在学中の明治41年(1908年)から出品していた。この頃の作品にはゴーギャンの影響が見られる。
佐野 五風(さの ごふう、1886年 - 1974年)は四条… 佐野 五風(さの ごふう、1886年 - 1974年)は四条派の日本画家である。本名・佐野曠。 京都府出身。1905年京都市立美術工芸学校本科卒、1907年同専攻科卒。竹内栖鳳に師事し円山・四条派の伝統を受け継ぐ。 1907年、第一回文展(文部省展覧会)入選以降、文展・帝展で活躍し、1930年第11回帝展推薦、無鑑査資格を獲得する。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
上村 松園(うえむら しょうえん、1875年〈明治8年〉4月… 上村 松園(うえむら しょうえん、1875年〈明治8年〉4月23日 - 1949年〈昭和24年〉8月27日)は、日本画家。気品あふれる美人画を得意とした。1948年に女性として初めての文化勲章を受章。息子に日本画家の上村松篁。孫に上村淳之。 京都に生まれ育ち、本名は上村 津禰(うえむら つね)、常子(つねこ)と名乗っていたこともある。 1875年(明治8年)、京都府京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。父は上村太兵衛、母は仲子。松園の祖父・上村貞八は大塩平八郎の甥と言われる。父・太兵衛は松園が生まれる2ヶ月前に他界したが、仲子は再婚することなく女手一つで娘2人を育て上げた。
原 撫松(はら ぶしょう、慶応2年1月27日(1866年3月… 原 撫松(はら ぶしょう、慶応2年1月27日(1866年3月13日) - 大正元年(1912年)10月27日)は、明治期の洋画家。今日、知名度は高いとはいえないが、明治期において本格的な油彩技法を修得した最も優れた画家の一人とされ、肖像画を得意とした。 岡山市出石村で、岡山藩士原金兵衛久則の長男として生まれる。幼名は熊之介、のち改め熊三郎、1883年(明治16年)からは熊太郎を名乗る。父・久則は岡山藩の御融通方に勤務し、後に第二十二国立銀行創設に加わった。1879年(明治12年)化成小学校卒業後は進学せず、当時岡山にいた洋画家多賀清光と平野雄也に就いて、主に水彩画を習う。1881年(明治14年)3月に京都府画学校に入学し、小山三造、田村宗立に洋画を学ぶ。
竹内 栖鳳(たけうち せいほう、元治元年11月22日〈186… 竹内 栖鳳(たけうち せいほう、元治元年11月22日〈1864年12月20日〉 - 1942年〈昭和17年〉8月23日)は、戦前の日本画家。戦前の京都画壇の中心として多数の弟子を育成し、日本画の近代化に足跡を残した。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。 本名は竹内 恒吉(たけうち こうきち/つねきち)。最初は棲鳳と号した。霞中庵の号もある。 京都府京都市中京区御池通油小路の料理屋「亀政」に生まれる。竹内政七・きぬ夫妻の長男で、きょうだいには姉の琴がいる。「亀政」の常連であった北村甚七という友禅画家が短冊に墨で燕子花を描いたのを幼少期に目にし、心を奪われたという。母は1877年(明治10年)に死去。
片山 雅史(かたやま まさひと)は、日本の画家、現代美術家、… 片山 雅史(かたやま まさひと)は、日本の画家、現代美術家、九州大学大学院芸術工学研究院准教授。東京都に生まれ、京都府で育つ。 1982年、京都市立芸術大学美術学部卒業。1984年、京都市立芸術大学大学院美術研究科絵画専攻修了。1988年アジアン・カルチュラル・カウンシルの助成により米国ニューヨークに滞在。1995年、文化庁派遣芸術家在外研修員として英国ロンドンに滞在、ロンドン大学ゴールドスミス校に在籍。京都市立芸術大学在学中より活動を始める。 活動初期には、「風のなる日のために」「風の系譜」と題された黒い筆致によるモノクロームの抽象絵画を展開。その後、1990年中頃より金地にシルエットの植物が描かれたHANAシリーズを、1990年代後半より視覚と記憶との関係に関心を持って制作された「皮膜」シリーズを発表。
8代目 望月 玉蟾(はちだいめ もちづき ぎょくせん)は、日… 8代目 望月 玉蟾(はちだいめ もちづき ぎょくせん)は、日本の絵師である。江戸中期の日本画家望月玉蟾の子孫にあたる。 元禄5年より京都において漆芸や大和絵(宮中の御用絵師)を生業としてきた本家望月家の八代目(ぎょくせん)として生を受けた。本名は望月重宏。 2002年に桑沢デザイン研究所を卒業後、プロダクトデザイン事務所に勤務の傍、7代目望月玉船に師事した。2005年に総合デザイン事務所プライマリースタイルを設立し、2008年に株式会社プライマリースタイルに法人化をし、代表取締役に就任。京都市立芸術大学(非常勤講師)を経て、京都精華大学(非常勤講師)に勤務する。2017年に京都市立芸術大学プロダクト・デザイン領域において博士号を取得した。
緑茶麻悠(りょくちゃ まゆ)は、日本の映画監督、画家、俳優。… 緑茶麻悠(りょくちゃ まゆ)は、日本の映画監督、画家、俳優。 京都出身で、京都市立芸術大学美術学部美術科油画専攻を卒業。 京都市立芸術大学美術学部油画専攻を修了後、舞台や映像作品に俳優として出演。 その後、映画制作に進み、監督・脚本・出演を兼ねる独自のスタイルを確立。 2025年、映画『ロマンチック金銭感覚』を監督。お金や価値観の変化をテーマに、人と自然との関係を描いた作品として制作された。