玉柳 実(實、たまやなぎ みのる、1903年(明治36年)1… 玉柳 実(實、たまやなぎ みのる、1903年(明治36年)10月27日 - 1960年(昭和35年)3月15日)は、昭和期の内務官僚、厚生官僚、政治家、弁護士。参議院議員。現在の愛媛県松山市生まれ。 愛媛県温泉郡味生村南斎院(現:松山市)で玉柳政吉の長男として生まれる。松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1923年(大正12年)に大阪高等商業学校(現大阪市立大学)中退。1929年(昭和4年)10月に高等試験行政科合格。1930年(昭和5年)に高等試験司法科に合格。同年、内務省に入省し岩手県属に任官。1943年(昭和18年)に厚生省保険局船員労災課長、1946年(昭和21年)に愛媛県農地部長、1948年(昭和23年)に愛媛県経済部長。
中内 正利(なかうち まさとし、1903年8月25日 - 1… 中内 正利(なかうち まさとし、1903年8月25日 - 1985年10月15日)は、英語学者。 大阪市生まれ。1925年大阪市立高等商業学校(現大阪公立大学)卒業、横浜正金銀行入行、大阪支店勤務。36-45年マニラ、ニューヨーク、リオデジャネイロ、青島の各支店に勤務。39年ニューヨーク市立大学で英語学を学ぶ。46年横浜正金銀行大阪支店、47年東京銀行に移行し、48年東京本店勤務。58年定年退職、60年早稲田大学専任講師、66年教授、74年定年退職。75―84年日本実用英語学会会長。84年名誉会長。墓所は小平霊園(13区2側)。
奥村 綱雄(おくむら つなお、1903年(明治36年)3月5… 奥村 綱雄(おくむら つなお、1903年(明治36年)3月5日 - 1972年(昭和47年)11月7日)は、昭和期の実業家。野村證券元社長・会長。野村證券中興の祖といわれる。 1903年(明治36年)3月5日、滋賀県甲賀郡信楽町(現:甲賀市)に生まれる。生家は代々信楽焼の窯元をやっていたが、父は綱雄が6歳の時に大阪堺に移住し菓子の製造販売業を始めた。 1923年(大正12年)大阪高等商業学校(現:大阪市立大学)卒業。1926年(大正15年)に京都帝国大学経済学部卒業後、野村證券へ入社。1936年に満州視察団に参加し、1945年に取締役に就任した。1946年(昭和21年)公職追放による経営陣退陣の中、綱雄は1947年(昭和22年)に専務、1948年(昭和23年)には第3代社長に就任した。
杉本 郁太郎(すぎもと いくたろう、1902年(明治35年)… 杉本 郁太郎(すぎもと いくたろう、1902年(明治35年)1月7日 - 1989年(平成元年)4月26日)は、日本の実業家、俳人である。 京都の生まれ。大阪商科大学高商部(現在の大阪市立大学)卒業後、上京し三越に入社し勤務した。その後京都に戻り、千葉県に出店していた奈良屋の経営に携わり、本店移動に携わった。1937年(昭和12年)には同社の社長に就任し、その後はニューナラヤに商号変更して古巣の三越と連携しながら会長を歴任した。 後に千葉県商工会議所連合会の会頭を務め、千葉県美術会及び1958年(昭和33年)には日本対がん協会の千葉県支部の設立(後に副会長に就任)にも携わった。また北柿の俳号で「原人」を主宰し、多くの句集を発行した。
小野 吉郎(おの きちろう、1902年1月2日 - 2006… 小野 吉郎(おの きちろう、1902年1月2日 - 2006年4月)は、昭和期の逓信官僚。元郵政事務次官、日本放送協会(NHK)第11代会長。広島県広島市出身。 広島商業学校、大阪高等商業学校を経て1931年、九州帝国大学法文学部卒。逓信省に入省し札幌鉄道郵便局長、広島逓信局経理局長、中華民国臨時政府副郵務長(華北郵政総務計画課長)、大連関東逓信局長などを経て1951年、郵政省貯金局長、1955年同簡易保険局長などを歴任の後、1956年郵政事務次官就任。 30代で大臣(郵政大臣)に初就任した田中角栄が進める放送局の免許大量交付や新聞社とテレビ局との統合系列化他で大きな役割を果たした。 1959年、日本放送協会(NHK)専務理事、1964年同副会長を経て1973年、田中に抜擢され第11代NHK会長に就任。
稲次 國利(いなつぎ くにとし、1901年11月19日 - … 稲次 國利(いなつぎ くにとし、1901年11月19日 - 1971年1月27日)は、日本の経営者。兵庫県朝来郡和田山町(現:朝来市)出身。 1924年に大阪市立高等商業学校本科を卒業し、同年に南海鉄道に入社。1947年3月に近畿日本鉄道と南海電気鉄道の各取締役に就任し、1949年8月に常務、1956年11月に専務を経て、1959年6月に副社長に就任し、1966年10月には社長に昇格。1968年4月に南海電鉄天下茶屋駅列車衝突事故における責任を取る形で社長を辞任。1966年10月には南海ホークスオーナーに就任。 1971年1月27日、大動脈瘤破裂のために死去。69歳没。
野淵 三治(のぶち さんじ、1901年(明治34年)10月2… 野淵 三治(のぶち さんじ、1901年(明治34年)10月29日 - 1971年(昭和46年)8月11日)は、日本の実業家。日本ガイシ代表取締役社長を務めた。 1925年大阪市立高等商業学校(現大阪公立大学)卒業、日本碍子入社。大阪営業所長を経て、1941年取締役に昇格。1944年常務取締役。1953年専務取締役。1956年取締役副社長。1959年昭和法人会会長。同年吉本熊夫社長の急逝を受け、後任社長に就任。電力会社依存の収益構造からの脱却を進めた。1961年日本陶器取締役、東洋陶器取締役、日本特殊陶業取締役。1962年日東石膏取締役。1966年地方制度調査会委員。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
杉原 荒太(すぎはら あらた、1899年8月28日 – 19… 杉原 荒太(すぎはら あらた、1899年8月28日 – 1982年1月20日)は、日本の政治家、外交官。参議院議員(4期)。防衛庁長官(第3代)。 佐賀県杵島郡中通村(後の山内町、現武雄市)に生まれる。 1917年旧制鹿島中学校卒業。旅順中学校を経て1922年大阪市立高等商業学校(後の大阪市立大学)を卒業後。外務省に入省。アメリカ合衆国ヴァーモント大学に留学、卒業する。 帰朝後は南京総領事、本省法規課長、企画課長、大東亜省総務局長、外務省調査局長、同条約局長を歴任。 戦後、首相となった吉田茂とは何かと対立し、1946年いわゆる“Y項パージ”で外務省を追放され、弁護士となる。 1950年、第2回参議院議員通常選挙に自由党から佐賀選挙区にて立候補し当選を果たす。
牛尾 健治(うしお けんじ、1898年〈明治31年〉11月 … 牛尾 健治(うしお けんじ、1898年〈明治31年〉11月 - 1958年〈昭和33年〉8月20日)は、日本の実業家。牛尾合資会社代表社員。中国合同電気、山陽商事各社長。神戸銀行副頭取。姫路商工会議所会頭。神戸経済同友会元代表幹事。兵庫県輸出工業協会長。 兵庫県姫路市出身。飾磨郡豊沢村・梅吉の長男。1920年、大阪高等商業学校卒業。1923年、東京商科大学(現一橋大学)卒業。東京で大学講師をしていたが、1934年に父・梅吉が他界し、帰郷して事業を引き継ぐことになった。1934年、家督を相続した。株式公債売買業を営む。中国合同電気に入社。 広沢製作所会長、大日本産業報国会理事、神戸銀行副頭取、鳥取電燈副社長、日本電球、但馬瓦斯、山陽瓦斯、山陽製紐、北海電気興業、日本商品、日本編物、ナニワ電球工業、牛尾興業、山陽商事各社長などを務め、神戸経済同友会の立上げも行った。
平井 常次郎(ひらい つねじろう、1898年6月13日 - … 平井 常次郎(ひらい つねじろう、1898年6月13日 - 1989年11月12日)は、日本の実業家。朝日放送元社長。 大阪府大阪市出身。1919年に大阪高等商業学校を卒業。朝日新聞大阪本社で社会部長、編集局次長などを歴任し、1951年に3月朝日放送に移り、専務に就任し、1959年6月に副社長を経て、1968年6月から1971年5月までに社長を、1979年6月から1983年6月までに会長をそれぞれ務めた。1964年に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲二等瑞宝章を受章した。また、大阪日伊協会会長を務めるなど日本とイタリアの親善交流に尽力し、その功績により、1974年にイタリア政府から勲二等イタリア政府功労章を受章した。
菊池 文吾(きくち ぶんご、1895年(明治28年)4月6日… 菊池 文吾(きくち ぶんご、1895年(明治28年)4月6日 - 1946年〈昭和21年〉6月28日)は、日本の実業家。 日本レイヨン第2代社長。日本レイヨン初代社長菊池恭三の四男であり、妻は貴族院議員下郷久成の二女。 大阪府菊池恭三四男。1895年に市立大阪商業学校(現大阪公立大学)卒業後、アメリカ合衆国にて遊学した。丸川商事社長、杉村倉庫取締役、尾三電力取締役、日本レイヨン取締役、日本レイヨン常務を歴任し、1938年から父の後任として日本レイヨン社長を務めた。また、南海鉄道監査役、スフ製造工業組合監事、日本化学繊維研究所監事なども兼任した。
筑田 勝二(つくだ かつじ、1895年 <明治28年> 3月… 筑田 勝二(つくだ かつじ、1895年 <明治28年> 3月21日 - 1968年 <昭和43年> 1月11日)は、日本の経営者。日本ペイント社長、会長を務めた。位階は従四位。 宮城県出身。1916年に大阪高等商業学校を卒業し、1918年に日本ペイントに入社。1943年に監査役に就任し、取締役、専務を経て、1947年2月から1965年6月までに社長を務めた。1956年に大阪商業学園理事長にも就任。 1955年に紺綬褒章を受章し、1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1968年1月11日、心筋梗塞のために死去。72歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
駒村 資正(こまむら すけまさ 1894年6月14日 - 1… 駒村 資正(こまむら すけまさ 1894年6月14日 - 1969年10月22日)は、日本の実業家。政商。大正時代から昭和時代にかけて活動した。 1894年に奈良県に生まれる。1915年に大阪高商(現大阪市立大学)を卒業後、三井物産に入社。綿花を取り扱う綿花部に配属される。1919年に棉花部が東洋棉花として独立した際に移り、海外で棉花の買い付けに従事した。1931年に昭和棉花常務、1945年には江商の社長に就任した。第二次世界大戦後は政財界に面識を広げ、関西財界のみならず全国区の論客としても知られるようになり、通商産業省顧問、大阪商工会議所副会頭、日本綿花協会理事長、経団連常任理事、日本貿易振興会理事長などを歴任した。
2代 竹腰 徳蔵(たけごし/たけこし とくぞう、1891年〈… 2代 竹腰 徳蔵(たけごし/たけこし とくぞう、1891年〈明治24年〉7月10日 - 1956年〈昭和31年〉7月24日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、群馬県会議員(6期)、群馬県群馬郡箕郷町長。幼名は五四二(いよじ)。群馬県知事選挙に立候補したが投票日の3日前に急逝し、弟・俊蔵が補充立候補により当選を果たした。 1891年(明治24年)、群馬県群馬郡箕輪村西明屋(現・高崎市箕郷町西明屋)で造り酒屋「十一屋」を営む竹腰徳蔵・コウ夫婦の長男として生まれる。竹腰家は新潟から移住してきた徳蔵の先々代が酒造業を創業、銘酒「友鶴」を醸造し、広大な山林田畑を持つ資産家だった。 旧制群馬県立高崎中学校を経て市立大阪高等商業学校を卒業。
2代 竹原 友三郎(たけはら ともさぶろう、1891年〈明治… 2代 竹原 友三郎(たけはら ともさぶろう、1891年〈明治24年〉4月4日 - 1973年〈昭和48年〉6月4日)は、大正から昭和にかけての日本の実業家である。大阪の証券会社竹原証券の社長や関西土地社長、不動化学工業(現・フドー化学)社長などを務めた。友三郎の名は養父・初代友三郎から継いだもので、襲名前は竹原 義一を名乗った。 2代竹原友三郎は、1891年(明治24年)4月4日、太田聿郎の長男として生まれた。出身地は大阪府高槻市、初名は義一。のちに伯父にあたる大阪市で両替商・株式仲買業を営む初代竹原友三郎の養子となる。また岸和田の富豪寺田甚与茂の次女・秀(1894年生)を妻とした。学業は1913年(大正2年)に大阪高等商業学校を卒業した。
村本 福松(むらもと ふくまつ、1890年3月23日 - 1… 村本 福松(むらもと ふくまつ、1890年3月23日 - 1973年6月22日)は、日本の経営学者。 大阪府大阪市出身。1910年大阪高等商業学校卒、1919年に日本人で初めてハーバード大学経営学大学院でMBAを取得し、日本におけるアメリカ経営学の導入に先駆的役割を果たす。1962年「経営の論理」で大阪市立大学商学博士。1928年旧制大阪商科大学教授、1942年学長事務取扱。神戸商科大学教授、浪速大学教授、校名変更で大阪府立大学教授、大阪市立大学教授、大阪府立産業能率研究所、京都産業大学教授を務めた。研究は、経営学、商学、経営者論、中小企業論、広告論等幅広い。東亜大学の設立に参加したが設立以前に死去した。
梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月… 梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月17日 - 1978年〈昭和53年〉8月4日)は、大正から昭和期の神職、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 男爵・梶野行篤の七男として生まれ、1913年(大正2年)6月、子爵・梅園実師の養子となる。養父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月10日、子爵を襲爵した。 1909年(明治42年)京都府立第二中学校を卒業。1912年(明治45年)3月、大阪市立高等商業学校を卒業。その後、京都帝国大学法科大学を修了した。 1916年(大正5年)官幣中社白峯宮主典に就任。以後、府社男神社社司、京都市主事、京都市嘱託、滋賀県嘱託、京都薬学専門学校講師、京都計理士会会長、三島製紙常務取締役、精版印刷監査役などを務めた。
飯田 壽作(飯田 寿作、いいだ じゅさく、1889年〈明治2… 飯田 壽作(飯田 寿作、いいだ じゅさく、1889年〈明治22年〉5月 - 1962年[要出典])は、日本の実業家。西宮酒造取締役。前名・卓三。 兵庫県西宮市出身。先代壽作の長男。1912年、大阪高等商業学校卒業。西宮酒造会社員となる。1930年、家督を相続し、前名・卓三を改め襲名する。 著書に『酒都遊観記』がある。趣味は和歌、俳句、絵画。宗教は真宗。住所は兵庫県西宮市松原町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
麻生 路郎(あそう じろう、1888年7月10日 - 196… 麻生 路郎(あそう じろう、1888年7月10日 - 1965年7月7日)は、大正・昭和初期の川柳家。川柳六大家の一人。本名・幸二郎。 広島県尾道市十四日元町生まれ。10歳の時大坂船場へ移り住み大坂高商(現大阪市立大学)在学中に川柳を始める。卒業後、大阪電信局、毎日新聞記者、病院事務長など色々な職に就いた。1924年、大阪で『川柳雑誌』を創刊。1936年“職業川柳人”を宣言した。川柳誌経営が職業として成り立つ時代だった。[要出典]麻生は、川柳を「川柳とは人間及び、自然の性情を素材とし、その素材の組み合わせによる内容を平原俗語で表現し、人の肺腑を衝く十七音字中心の人間陶冶の詩である」と定義付け、川上三太郎、岸本水府、前田雀郎、村田周魚、椙本紋太とともに「川柳六大家」と呼ばれた。
野村 元五郎(のむら げんごろう/もとごろう、1887年(明… 野村 元五郎(のむら げんごろう/もとごろう、1887年(明治20年)10月18日 - 1954年(昭和29年)2月14日)は、日本の実業家。野村銀行頭取や、同行会長、野村生命取締役、大阪ガス監査役等を歴任した。 大阪府で初代野村徳七の四男として生まれる。二代野村徳七は兄。1908年大阪高等商業学校(現大阪公立大学)卒業。1909年から6年間イギリスに留学した。1917年に家業が株式会社化され野村商店が設立されると監査役に就任した。 1918年に大阪野村銀行が設立されると頭取に就任し、昭和金融恐慌や昭和恐慌下でも順調に業容を拡大させた。1925年大阪瓦斯監査役。1934年野村生命取締役。1943年野村銀行会長。
岸本 彦衛(きしもと ひこえ、1887年(明治20年)4月1… 岸本 彦衛(きしもと ひこえ、1887年(明治20年)4月11日 - 1977年(昭和52年)1月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。旧姓・岡村。 山口県で岡村米吉の六男として生まれる。1907年(明治40年)大阪市立高等商業学校を卒業した。鉄鋼問屋岸本商店店主・4代岸本吉右衛門の養子となり、1929年(昭和4年)に分家した。 1918年(大正7年)岸本商店常務取締役に就任。以後、岸本商店副社長、大建産業副社長、日印通商取締役、函館船渠(現函館どつく)取締役、日本曹達監査役、大阪鋼材監査役、呉羽紡績監査役、日本繊維工業社長、大阪ロータリー倶楽部会長などを務めた。 1946年(昭和21年)3月22日、貴族院勅選議員に任じられ、同和会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
嶋居 哲(島居、しますえ てつ、1887年1月1日 - 19… 嶋居 哲(島居、しますえ てつ、1887年1月1日 - 1979年3月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 広島県出身。1909年、大阪高等商業学校卒。のち京都帝国大学独法科で学ぶ。その後、尾道市会議員、同議長、鉄道大臣秘書官となる。また、尾道電燈、尾道鉄道、広島農産各(株)取締役、尾道自動車(株)社長、備南銀行頭取、島居商店、島居電機(株)取締役社長、嶋居薬品、嶋居薬局各社長、中国薬品卸連合会会長を務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において広島3区(尾道市)から立憲政友会公認で立候補して当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では広島3区(中選挙区)から立候補して再選した。
長瀬 徳太郎(ながせ とくたろう、1886年12月15日 -… 長瀬 徳太郎(ながせ とくたろう、1886年12月15日 - 1972年12月13日)は、日本の経営者。長瀬産業社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1904年に大阪高等商業学校を卒業し、同年に長瀬商店(のちの長瀬産業)。1917年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1943年に社長に就任し、1968年5月には会長に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1966年に勲四等瑞宝章を受章。 1972年12月13日、心不全のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
畑 耕一(はた こういち、1886年5月10日 - 1957… 畑 耕一(はた こういち、1886年5月10日 - 1957年10月6日)は、大正・昭和時代前期日本の小説家、劇作家、作詞家。俳号は蜘盞子、別名義に多蛾谷 素一。 1886年(明治19年)、広島市堀川町で漆問屋の家庭に生まれる。生年については1887年(明治20年)、1896年(明治29年)など複数の説があったが、後年の研究で戸籍上の生年が「明治19年」であることが確認されている。父の平蔵は商業を学ばせるためとして耕一を大阪の商家へ奉公に出し、大阪府師範学校附属小学校(現在の大阪教育大学附属天王寺小学校)を経て市立大阪高等商業学校へ進学させる。大阪高商の予科を卒業した後、広島へ帰郷し中国新聞の「中国文壇」欄投稿者の親睦会「詞友会」結成に参加し、幹事を務める。
潮崎 喜八郎(しおざき きはちろう、1884年 <明治17年… 潮崎 喜八郎(しおざき きはちろう、1884年 <明治17年> 1月5日 - 1969年 <昭和44年> 9月1日)は、日本の経営者。兵庫県津名郡一宮町(現:淡路市)出身。位階は正五位。 1904年に大阪高等商業学校を卒業し、同年に日本綿花に入社。1939年に専務に就任し、1941年には社長に昇格した。1947年から会長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等旭日中綬章を受章。 1969年9月1日脳軟化症のために死去。85歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日… 吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日 - 1974年3月22日)は、大阪府大阪市出身の実業家。東京テアトル株式会社創業者。 1883年(明治16年)3月10日、大阪府大阪市の吉岡勘三郎の三男として生まれた。大阪高等商業学校(後の旧制大阪商科大学、大阪市立大学の母体の一つ)在学中は野球部捕手として活躍し、1903年(明治36年)に大阪高等商業学校を卒業した。1909年(明治42年)に箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)に入社して営業を担当。同時期に入社した人物には佐藤博夫がいる。1915年(大正4年)には同社が建設した豊中球場の活用策として、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)を発案して大阪朝日新聞の(当時社会部長)長谷川如是閑らと交渉し開催を実現させた。
大和田 正吉(おおわだ しょうきち、1881年〈明治14年〉… 大和田 正吉(おおわだ しょうきち、1881年〈明治14年〉5月 - 没年不明)は、日本の実業家、福井県多額納税者。大和田家3代目。大和田銀行専務取締役。族籍は福井県平民。 福井県敦賀郡敦賀町(現敦賀市)出身。大和田荘七の長男。大阪高等商業学校卒業。大和田銀行に入り専務取締役として業務に専念する。また大和田貯蓄銀行、大和田炭鉱、東洋硫化工業各取締役、敦賀築港倉庫監査役をつとめる。 大和田勇の養弟。大和田金之助の養甥である。 銀行会社の重役で、県下の金融界に重きをなした。 割合に世情に明るく、何かにつけて知見豊富であった。 住所は福井県敦賀市蓬莱、同市松島、敦賀郡松原村。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 194… 片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 1948年5月6日)は日本の実業家。野村證券初代社長や会長を務めた。 岡山県岡山市出身。大阪商業学校(後の大阪市立大学、現・大阪公立大学)を経て、1906年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 日本興業銀行貸付課長を務めていた際に、切れ者との評判をきいた野村徳七にスカウトされ、新設された大阪野村銀行の実権を担う取締役兼支配人に37歳で就任。 1920年大阪野村銀行に証券部が新設され、片岡は証券部部長に就任。1922年に、アメリカ合衆国に証券業界視察のため派遣され、1923年に帰国。 1925年に設立された野村證券の初代社長に就任。1926年に公社債専門業者として営業を開始、1927年にニューヨーク出張所を開設。
副島 綱雄(そえじま つなお、1881年〈明治14年〉1月2… 副島 綱雄(そえじま つなお、1881年〈明治14年〉1月24日 - 1941年〈昭和16年〉11月27日)は、日本の実業家。元大阪三品取引所常務理事。佐賀県多久市出身。 上皇后美智子の祖父で、今上天皇の曽祖父にあたる。 1881年(明治14年)1月24日、佐賀県士族の副島哲吾の次男として同県多久市で生まれる。1896年(明治29年)に副島富五郎の養子となる。1902年(明治35年)大阪高等商業学校(現在の大阪市立大学)を卒業。 その後、1917年(大正6年)から1923年(大正12年)まで江商(現在の兼松)上海支店長を務める。また日本が上海に作った国策企業である中支那復興の常務理事も務めた。その他にも天満織物監査役や1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)までは大阪三品取引所常務理事を歴任。
上田 弥兵衛(うえだ やへえ、1880年9月28日 - 19… 上田 弥兵衛(うえだ やへえ、1880年9月28日 - 1950年9月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県川辺郡杭瀬村(小田村字杭瀬を経て現尼崎市)出身。大阪高等商業学校卒。米穀商を営み、日露戦争に参加、陸軍二等主計となる。大阪商業会議所特別議員、大阪穀物商同業組合長、大日本木管、網島土地、大日本石油鉱業、南洋護謨拓殖各(株)社長、大阪堂島米穀取引所、東京米穀会専任幹事、日本倉庫(株)取締役、日本米穀(株)理事となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において大阪市から無所属で立候補して当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では大阪3区から無所属で立候補して当選する。
山邑 太三郎(やまむら たさぶろう、1880年〈明治13年〉… 山邑 太三郎(やまむら たさぶろう、1880年〈明治13年〉2月13日 - 1928年〈昭和3年〉2月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県菟原郡、のちの武庫郡魚崎村(魚崎町を経て現神戸市東灘区)出身。1897年、大阪高等商業学校卒。日露戦争に従軍し、陸軍二等主計となる。魚崎村会議員、同村長、同町長、武庫郡東郷酒造組合長、東醤油(株)社長、山邑酒造、日章火災海上再保険、名古屋信託各(株)取締役、日章信託、太平洋水産、帝国紡績、日清生命保険各(株)監査役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において兵庫4区から無所属で立候補して当選した。御影師範学校附属小学校保護者会役員であったことから、1923年頃から灘校設立運動を支援。
2代 阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、前名・龍蔵、1879年… 2代 阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、前名・龍蔵、1879年(明治12年)4月1日 - 1965年(昭和40年)10月25日)は、日本の商人(米穀商)、実業家、大阪府多額納税者。族籍は大阪府平民。 滋賀県・阿部市蔵の長男。1898年、大阪高等商業学校を卒業。慶應義塾大学に学ぶ。先代・彦太郎の養子となり、1904年、家督を相続し、前名・龍蔵を改め襲名する。米国に2年留学し、帰途欧州各国を巡歴して英国に至り、5年滞在して研学に費やす。 米穀商を営み、会社の重役である。角一山林土地会長、大阪阿部代表社員、内外綿、豊国火災保険、日本生命保険、大阪商船、住友信託各取締役、東洋紡績、大阪製麻、角一ゴム各監査役などをつとめる。
下河辺 建二(しもこうべ けんじ、1878年(明治11年)1… 下河辺 建二(しもこうべ けんじ、1878年(明治11年)10月30日 - 1964年(昭和39年)2月28日)は、日本の実業家。大阪府平民。 大阪府下・下河辺俊斎二男。大阪商業学校(現・大阪市立大学)卒業後、大阪百三十銀行に就職。兵役のため銀行を辞め、その後藤田組の小坂鉱山で働く。そこで藤田組創立者の甥である久原房之助を知り、久原が興した久原鉱業の一員として同社が買収した日立鉱山で働く。久原が病に倒れ久原鉱業が日本産業として再建されると、専務として新社長の鮎川義介を支える。のちに日本鉱業(現・ENEOS)の社長、日産農林工業(現・兼松サステック)の会長等を歴任した。 戦後、公職追放となった。
第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年(明治11年)… 第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年(明治11年)8月7日 - 1945年(昭和20年)1月15日)は、日本の実業家。両替商の野村徳七 (初代)の長男で野村財閥を築いた二代目(幼名は信之助)。 1878年(明治11年)8月7日、初代野村徳七の長男として生まれる。幼名は野村信之助。野村元五郎は弟。 1892年(明治25年)大阪市立商業学校(大阪高等商業学校の前身校。後の大阪商科大学、大阪市立大学、現在は大阪公立大学)に入学。予科在学中1895年(明治28年)に肺炎になり休学。本科への進学は断念し家業に専念する。 八千代商店(後の八千代証券)での見習いを経て、野村商店を引き継ぎ、両替から公債や株式を扱うようになり1907年(明治40年)、初代徳七の隠居に伴い信之助が徳七を襲名し弟の実三郎、元五郎らと野村商店を運営した。
大谷 恭助(おおたに きょうすけ、1878年〈明治11年〉2… 大谷 恭助(おおたに きょうすけ、1878年〈明治11年〉2月 - 没年不明)は、日本の実業家。南北綿業社長。内海紡績常務取締役。東洋綿花取締役。上海紡織取締役。中央紡織監査役。族籍は大阪府平民。俳優の大谷亮介は孫、高畑裕太は曽孫。 大阪府人・大谷嘉兵衛の長男。1898年、大阪高等商業学校を卒業する。1911年、父退隠の後を承け家督を相続する。 東洋綿花、上海紡織、内海紡績、中央紡織、南北綿業各会社重役を歴任する。 住所は大阪市東区高麗橋3丁目、兵庫県武庫郡住吉村字観音林。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
佐藤 市十郎(さとう いちじゅうろう、旧姓・海井、1878年… 佐藤 市十郎(さとう いちじゅうろう、旧姓・海井、1878年〈明治11年〉1月 - 1936年〈昭和11年〉3月2日)は、日本の実業家。海市商会社長。族籍は山口県士族。 山口県人・海井荒助の二男。先代ヒデの養子となり、1894年に家督を相続する。大阪高等商業学校を卒業。朝鮮の貿易商に就職の口があって渡鮮する。店務を帯びてたびたび大阪へ出張する所から、悪友に誘い誘われ酒色に耽溺し、滞鮮4年間は放蕩堕落の淵に沈淪し、主家へも迷惑をかけるに至る。 久原家に入り、欧州大戦中久原鉱業会社支店長としてロンドンに在勤し、帰朝後久原商事会社常務取締役に転じ、1921年にこれを辞する。1936年3月2日永眠。行年60才。
大野順末(おおの じゅんまつ、1877年(明治10年)10月… 大野順末(おおの じゅんまつ、1877年(明治10年)10月 - 1954年(昭和29年)10月)は、日本の実業家、政治家。 初代大泊町町長、樺太銀行専務取締役。 石川県江沼郡瀬越村(現在の加賀市大聖寺瀬越町)出身。1877年(明治10年)10月本谷惣次郞の四男として生まれる。 1897年(明治30年)大阪高等商業学校を卒業した後北海道に渡り、小樽の板谷商船に入社する。数年後適齢と共に陸軍に入隊し、満期後も再役して陸軍二等主計となる。 1906年(明治39年)に樺太へ渡島して商界に従事する。米穀雑貨酒造業を営み豊原に支店を構える。1911年(明治44年)に小樽に本店を設ける。 樺太銀行専務取締役に就任。
喜多 又蔵(きた またぞう、1877年(明治10年)9月11… 喜多 又蔵(きた またぞう、1877年(明治10年)9月11日 - 1932年(昭和7年)1月31日)は、日本の実業家。日本綿花(現双日)社長や、鈴政式織機社長を務めた。 奈良県南葛城郡葛城村(現御所市)字鳥井戸で、金剛山下の酒屋喜多長七郎の三男として生まれる。1894年に市立大阪商業学校(現大阪市立大学)を卒業し、成瀬隆蔵校長の紹介で日本綿花(現双日)に入社。田中市兵衛の知遇を得て、ムンバイ支店長、本店支配人、常務取締役を経て、1917年から社長を務め、東洋棉花(現豊田通商)の児玉一造と仕手で争いを繰り広げた。1919年には第一次世界大戦のパリ講和会議全権大使隨員を務め勲三等に叙された。1920年鈴政式織機(現エンシュウ)社長。
石川 又八(いしかわ またはち、1877年(明治10年)6月… 石川 又八(いしかわ またはち、1877年(明治10年)6月14日 - 1935年(昭和10年)9月6日)は、明治後期から昭和前期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県佐賀郡久保田村長。 佐賀県佐賀郡久保田村久保田宿(久保田町大字久保田を経て現佐賀市久保田町大字久保田)で、石川謙助の長男として生まれる。大阪市立高等商業学校(のち大阪商科大学)を卒業。1897年(明治30年)家督を相続し、農業を営む。日露戦争に従軍し、陸軍歩兵中尉で除隊した。 1903年(明治36年)頃より農業改良に取り組み、田での正条植えを奨励し、村内の篤農家と共に晩生稲の時代を主張して、1913年(大正2年)全国五石収穫懸賞会で入賞してその成果が認められた。
岩本 栄之助(いわもと えいのすけ、明治10年(1877年)… 岩本 栄之助(いわもと えいのすけ、明治10年(1877年)4月2日 - 大正5年(1916年)10月27日)は、大阪の株式仲買人。大阪市中央公会堂の寄付者として知られる。 大阪の両替商「岩本商店」を営む岩本 栄蔵の次男として、大阪市南区安堂寺橋通2丁目(現在の大阪市中央区南船場2丁目付近)に生まれる。市立大阪商業学校、大阪清語学校及び明星外国語学校で、商業学及び外国語(英語、フランス語、清語)を修める。1904年日露戦争に出征して陸軍中尉となり、凱旋後、従七位に叙し勲六等単光旭日章を授けられる。 明治39年(1906年)3月、栄之助は早死にした兄に代わり、父・栄蔵の家督を相続し、株式仲買人となる。
田中 太介(たなか たすけ、1876年8月7日 - 1963… 田中 太介(たなか たすけ、1876年8月7日 - 1963年2月)は、日本の実業家。近畿車輛の創業者。兵庫県出身。 1892年に大阪市立大学を中退し、家業の肥料雑貨に従事し、1918年10月には尼崎市に田中鉄工を設立し、1920年には田中車輛工場(のちの近畿車輛)社長に就任。1944年には会長に就任。 1937年、1939年、1946年の3度で紺綬褒章を受章。
今給黎 誠吾(いまきいれ せいご、1876年(明治9年)5月… 今給黎 誠吾(いまきいれ せいご、1876年(明治9年)5月30日 - 1953年(昭和28年)2月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家。衆議院議員(1期)、第3代東南方村長・初代枕崎町長(現枕崎市)。枕崎市名誉市民。 鹿児島県出身。鹿児島県川辺郡鹿籠村西鹿籠(後に西鹿籠村、東南方村、枕崎町、枕崎市)の今給黎久清(児玉久清、初代東南方村長)の長男として生まれる。1878年(明治11年)家督を相続する。長谷場敦(衆議院議員、串木野町長)は実弟。 市立大阪商業学校に学ぶ。農業を営む傍ら、同県川辺郡東南方村長、鹿児島県会議員、同参事会員、枕崎町長を歴任する。1910年(明治43年)第3代東南方村長に就任してから初代枕崎町長を1947年(昭和22年)に退任するまで、連続36年8カ月在任した。
杉山 金太郎(すぎやま きんたろう、明治8年(1875年)9… 杉山 金太郎(すぎやま きんたろう、明治8年(1875年)9月19日 - 昭和48年(1973年)3月10日)は、日本の実業家。豊年製油(現J-オイルミルズ)会長。
瀧川 儀作(たきがわ ぎさく、1874年(明治7年)12月8… 瀧川 儀作(たきがわ ぎさく、1874年(明治7年)12月8日 - 1963年(昭和38年)1月31日)は、日本の実業家、政治家。瀧川辨三の養嗣子。旧姓梶岡。 瀧川辨三が発展させた東洋燐寸株式会社社長を引き継ぎ日本のマッチ王と呼ばれる。 奈良県吉野郡、のちの高見村(現東吉野村)で豪家梶岡源重郎、たみの三男として生まれた。後旧長州豊浦藩藩士瀧川辨三の養子となり、明治32年(1899年)分家す。 明治29年(1896年)大阪商業学校卒業。岳父を助けて幾多の事業に参画。 1918年1月には兵庫県下の28工場を合併して帝国燐寸株式会社を設立、2月には膠州湾租借地に青島燐寸株式会社を設立。神戸商業会議所会頭、神戸日華実業協会長、瀧川学園理事を歴任。
水落 露石(みずおち ろせき、1872年4月18日(明治5年… 水落 露石(みずおち ろせき、1872年4月18日(明治5年3月11日) - 1919年(大正8年)4月10日)は、日本の俳人。本名は義一、のちに庄兵衛。別号に聴蛙亭。大阪府出身。 1872年(明治5年)に大阪府安土町(現在の大阪市中央区、いわゆる船場にあたる)の裕福な商家に生まれる。府立大阪商業学校(のちの大阪商科大学、現在の大阪市立大学)を経て、泊園書院(現・ 関西大学)で藤沢南岳に漢学を学ぶ。その頃から俳句を始め、日本派の正岡子規に師事。東京の子規庵句会、松山の松風会に継いで3番目となる日本派の拠点、京阪満月会を興す。京阪満月会は寒川鼠骨、中川四明ら京都や大阪の日本派俳人を中心に拠った。しかしわずか1年で露石は地元の大阪で京阪満月会とは別に大阪満月会を興し、それに大阪の俳人たち、松瀬青々、野田別天楼、青木月斗らも続いた。
安川 雄之助(やすかわ ゆうのすけ、1870年5月4日(明治… 安川 雄之助(やすかわ ゆうのすけ、1870年5月4日(明治3年4月4日) - 1944年(昭和19年)2月13日)は日本の実業家。東洋拓殖総裁、三井合名会社理事。 1870年(明治3年)4月4日、京都府南桑田郡篠村(現・亀岡市)に生まれる。第三高等学校に入学するも、大阪商業学校(大阪市立天王寺商業高等学校および大阪市立大学の前身)に転じ、1890年(明治23年)に卒業する。卒業後、三井物産に入社し、天津支店長、満洲営業部長、大連支店長を経て、1914年(大正3年)に本店営業部長となる。1918年(大正7年)に取締役、同年さらに南条金雄、武村貞一郎とともに常務取締役となり、1924年(大正13年)に筆頭常務に就任する。
矢野 荘三郎(やの しょうざぶろう、1867年9月25日(慶… 矢野 荘三郎(やの しょうざぶろう、1867年9月25日(慶応3年8月28日) - 1925年(大正14年)9月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 伊予国宇和郡川之石浦(愛媛県西宇和郡川之石村、川之石町、保内町を経て現八幡浜市)で生まれた。1896年大阪府立商業学校(現・大阪市立大学)卒。のちに慶應義塾に学ぶ。鉱業に従事し、伊予製鉱、宇和紡績、第二十九銀行、愛媛鉄道、龍野電気鉄道各(株)取締役、明治製煉(株)専務取締役を務めた。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において愛媛県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
佐伯 茂治(さえき しげはる、1月27日 - )はゲームミュ… 佐伯 茂治(さえき しげはる、1月27日 - )はゲームミュージックの作曲家。コナミデジタルエンタテインメント所属。大阪市立大学経済学部卒業。主に懐メロ風楽曲やテクノポップが主体であり、時には自ら歌唱する場合もある。長らくjubeatのサウンドディレクターを務め、jubeat関係では顔出しも頻繁に行っていた。S-C-U(shot-cyo-u)名義では動物や生き物をテーマにした楽曲を多数制作している。 ショッチョー名義でコナミの音楽ゲームブランドBEMANIシリーズの『GUITARFREAKS&drummania』、『jubeat』シリーズを中心に活動。ショッチョーの由来は焼肉屋で小腸ばかり食べるから。
大久保 武夫 は、日本の経営者。江崎グリコ社長、会長を務めた… 大久保 武夫 は、日本の経営者。江崎グリコ社長、会長を務めた。徳島県出身。
石井 雄二 は、日本の経済学者。