佐藤 弘(さとう ひろし、1897年4月21日 - 1962… 佐藤 弘(さとう ひろし、1897年4月21日 - 1962年12月23日)は、日本の地理学者。一橋大学名誉教授。経済地理学会初代会長(1953年 - 1962年)。日本工業立地センター理事長。正三位、勲一等瑞宝章。 経済地理学を開拓し、その発展に大きく貢献した。晩年に随筆を刊行し、佐藤 弘人の筆名で知られる。 1897年、大分県下毛郡中津(中津市)の商家に生まれる。大分県立中津中学校(現・大分県立中津南高等学校)、第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)を経て、1918年に東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)地質学科に入学する。翌年、地質学科から分離独立した地理学科に転科。山崎直方らの指導を受け、1922年に飯本信之と共に同大学を卒業した。
秋山 理敏(あきやま まさとし、1897年〈明治30年〉4月… 秋山 理敏(あきやま まさとし、1897年〈明治30年〉4月12日 - 1947年〈昭和22年〉9月29日)は、日本の外交官。駐パナマ公使を経て、第二次世界大戦後、終戦連絡京都事務局局長を務めた。 長野県上伊那郡藤沢村(現伊那市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1920年(大正9年)、東京高等商業学校を卒業し、高等試験外交科に合格した。外務属となり、1922年(大正11年)には東京商科大学(現在の一橋大学)専攻部領事科を卒業した。領事官補、外務事務官・通商局第一課勤務、イタリア大使館三等書記官、同二等書記官、通商局第三課勤務・外務大臣秘書官、外務書記官・大臣官房電信課長、企画庁調査官・総裁秘書官、企画院書記官、中華民国大使館一等書記官、シドニー総領事を歴任。
新関 八洲太郎(にいぜき やすたろう、1897年(明治30年… 新関 八洲太郎(にいぜき やすたろう、1897年(明治30年)4月2日 - 1978年5月30日)は、埼玉県浦和市出身の実業家で、元三井物産社長・会長。
山根 春衛(やまね はるえ、1897年4月 - 1981年2… 山根 春衛(やまね はるえ、1897年4月 - 1981年2月25日)は、日本の実業家。栃木県下都賀郡瑞穂村大字土与(現・栃木市大平町土与)出身。大正海上火災保険(現在の三井住友海上火災保険)の社長を務めた。 1917年3月に栃木中学校を卒業し、東京商科大学に入学。在学中は中国・南洋各地を旅行視察し、1921年7月卒業、大正海上火災保険に入社して東京本店勤務。1927年2月、社命を受けて欧米各国の保険事業を研究するため出張、1929年5月に帰国して大阪支店長代理を務める。1945年4月に取締役、翌1946年6月に常務取締役、さらに翌1947年5月に社長に就任する。 1957年5月に藍綬褒章を受章した。
近藤 孝太郎(こんどう こうたろう、1897年3月24日 -… 近藤 孝太郎(こんどう こうたろう、1897年3月24日 - 1949年11月6日)は、日本の社会運動家、著述家、芸術家。大正期から昭和20年代前半にかけて、郷里岡崎市の社会主義運動および文化活動を牽引した。 愛知県額田郡常磐村大字米河内(現・岡崎市米河内町)の代々続く清酒醸造を業とする家に近藤伍三郎の長男として生まれ、祖母に育てられる。1914年(大正3年)、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。芸術家になることを夢み、東京美術学校進学を希望するが父の反対にあい、やむなく東京高等商業学校(現・一橋大学)に進む。在学中から若山牧水に師事し「創作社」同人となった。この頃、府立一中の蔵原惟人、浅野晃らと同人誌『りらの花』(後『リラ』)発行。
田中 英篤(たなか ひであつ、1897年 <明治30年> 3… 田中 英篤(たなか ひであつ、1897年 <明治30年> 3月16日 - 1984年 <昭和59年> 4月2日)は、日本の経営者。北越銀行頭取を務めた。新潟県出身。位階は従五位。 1922年に東京高等商業学校専攻科を卒業し、1927年4月に長岡銀行(のちの北越銀行)に入行。 1948年6月に常務に就任し、1962年1月に専務を経て、1965年11月から1970年11月までに頭取を務めた。 1972年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1984年4月2日老衰のために死去。87歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
野田 岩次郎(のだ いわじろう、1897年(明治30年)2月… 野田 岩次郎(のだ いわじろう、1897年(明治30年)2月15日 - 1988年(昭和63年)12月15日)は長崎県長崎市出身の実業家。第二次世界大戦後、連合国占領統治下の日本に於いて、持株会社整理委員会(HCLC)常務委員・委員長として財閥解体に当たり、HCLC解散後はホテルオークラの立ち上げに参加。日本ホテルの国際化の礎を築いた。 生家は三菱長崎造船所御用達の洋服商。外交官を目指し東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、当時活況にあった貿易業に興味を持ち進路を転換。1918年の卒業とともに三井物産に入社。英語が得意だったことから、すぐシアトル出張所に配属された。 1922年、現地の弁護士の娘で米国の三井物産でタイピストをしていたアリス・カリタ・コーストン(愛称はカリタ)と結婚するが、人種偏見が強い当時の国際結婚は双方の家族や社内の抵抗を受け、これが原因となって翌年三井物産を退社する。
北村 初雄(きたむら はつお、 1897年〈明治30年〉2月… 北村 初雄(きたむら はつお、 1897年〈明治30年〉2月13日 - 1922年〈大正11年〉12月2日)は、大正期の日本の詩人。 東京市麹町区飯田町(現・東京都千代田区飯田橋)で、北村七郎の長男として生まれる。 横浜市南太田町(現・南区内)で育ち、1903年に横浜市老松小学校(現・横浜市立本町小学校)に入学した。 1912年に神奈川県立第一横浜中学校(現・神奈川県立希望ケ丘高等学校)に進む。中学校在学中から三木露風に師事した。 1917年に中学校を卒業し、東京高等商業学校(現・一橋大学)予科に入学した。1921年に同校本科を卒業して、三井物産に入社したが、1922年に結核のため鵠沼の旅館東屋に転地療養し、同年死去した。
田尻 愛義(たじり あきよし、1896年11月28日 - 1… 田尻 愛義(たじり あきよし、1896年11月28日 - 1975年10月29日)は、日本の外交官。特命全権公使として上海在勤ののち、外務省政務局長や、大東亜次官、外務次官を務めた。 中国の民族主義を尊重する立場をとり、外交官生活の大半を中国で送った。日中和平交渉史の中では、汪兆銘側から求められて香港総領事に就任したことで知られるが、実際には田尻は「汪兆銘工作」に対して強い批判を持っていた。 1896年11月、島根県に生れる。1920年3月、東京高等商業学校(のちの一橋大学)附設商業教員養成所を卒業し、同年4月、京都市立第一商業学校(のち京都市立西京高等学校)の教諭となる。1921年外交官及領事官試験合格。
福田 敬太郎(ふくだ けいたろう、1896年9月24日 - … 福田 敬太郎(ふくだ けいたろう、1896年9月24日 - 1980年1月15日)は、日本の商学者・経済学者。学位は、商学博士。神戸大学名誉教授。第3代神戸大学学長(在任:1959年12月16日 - 1963年12月15日)。名古屋学院大学初代学長。独自の観点で商学を体系化した「福田商学」で知られる。弟子は荒川祐吉。 1896年、大阪府大阪市東区で生まれた。大阪府立茨木中学校(現大阪府立茨木高等学校)、神戸高等商業学校(のちの神戸大学、1918年卒)、東京高等商業学校(のちの旧制東京商科大学、現一橋大学)専攻部に進学し、1920年に卒業。同期に平井泰太郎神戸大学名誉教授がいる。 神戸高等商業学校では田崎慎治ゼミナールに所属し、卒業論文のテーマは「海上保険における再保険の研究」であった。
赤松 要(あかまつ かなめ、1896年8月7日 - 1974… 赤松 要(あかまつ かなめ、1896年8月7日 - 1974年12月20日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。日本における経済政策学の第一人者で、雁行形態論(のち小島清や山澤逸平らにより発展)等を提唱したことで知られる。 福岡県に旧久留米藩藩士の長男として生まれる。久留米商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)、神戸高等商業学校(現神戸大学)を経て、1921年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。1944年経済学博士(東京商科大学)。福田徳三門下。 1921年、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)講師、1922年、同教授。1923年から留学し、ドイツでハインリヒ・リッケルトとヘルマン・グロックナーに師事したのちアメリカ合衆国でに移りハーヴァード大学でケースメソッドを学んだ。
手塚 寿郎(てづか すみお/じゅろう、明治29年(1896年… 手塚 寿郎(てづか すみお/じゅろう、明治29年(1896年)4月12日 - 昭和18年(1943年)5月3日)は、日本の経済学者。小樽高等商業学校(現小樽商科大学)教授や東亜同文書院大学教授を務め、日本への近代経済学の導入を行った。 栃木県出身。宇都宮市立宇都宮商業学校(現栃木県立宇都宮商業高等学校)を経て、無試験入学で小樽高等商業学校(現小樽商科大学)に進学し、1916年に同卒業。1919年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部経済科卒業。福田徳三ゼミ出身。 経済学及び統計学研究のため、1920年から1926年までイギリス、アメリカ、フランスに留学。1921年小樽高等商業学校教授、叙従七位。オーストリア学派などの日本への導入を行った。
竹内 俊一(たけうち しゅんいち、1896年1月17日 - … 竹内 俊一(たけうち しゅんいち、1896年1月17日 - 1976年10月26日)は日本の実業家。三菱石油(現ENEOSホールディングス)社長・会長や、石油連盟会長を務めた。 大阪府出身。津山中学校(現岡山県立津山高等学校)を経て、1917年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三菱合資会社入社。三菱商事を経て、1941年から三菱石油。 1946年三菱石油社長、1936年同会長。社長就任後、各ポストの職名を変え、責任を明確化。方針決定は、合議制で行われるように組織改編を行った。 石油連盟会長や、日経連常任理事、東京ロータリークラブ会長等も歴任。 趣味はゴルフと歌舞伎鑑賞。
増地 庸治郎(ますち ようじろう、1896年1月5日 - 1… 増地 庸治郎(ますち ようじろう、1896年1月5日 - 1945年3月10日)は、日本の経営学者。東京商科大学教授兼東京帝国大学教授を務めたが、東京大空襲で死去した。 1896年、京都府で生まれた。東京高等商業学校(現・一橋大学)で学び、上田貞次郎に師事した。1919年に専攻部商工経営科を卒業。 卒業後は住友総本店へ入社するも、1921年に退社して母校へ戻り助手となった。1923から1925年までベルリン高等商業学校(現・フンボルト大学ベルリン経済学部)に留学を命じられた。当時はちょうど東京高商の大学昇格に合わせて拡充がなされていた時期であり、多くの教員が留学に出ていた。在外研究中の研究者には東京高等商業学校同僚の本間喜一、渡邉大輔、大塚金之助、金子鷹之助、井藤半彌、吉田良三や、神戸高等商業学校から留学していた八木助市、坂本彌三郎、石田文次郎、田中金司、五百籏頭眞治郎、北村五良、平井泰太郎、名古屋高等商業学校の宮田喜代蔵、赤松要らがいた。
儀間 真謹(ぎま しんきん、1896年 - 1989年)は、… 儀間 真謹(ぎま しんきん、1896年 - 1989年)は、日本の空手家。儀間派松濤館流最高師範。鹿島建設参与、沖縄空手道協会会長、全日本空手道連盟相談役、全日本空手道志誠会連合名誉会長等を歴任した。 沖縄県首里区(現那覇市)出身。旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。1912年糸洲安恒、屋部憲通に師事。1922年船越義珍の手伝いとなり、1923年船越より初段を授与される。日本空手協会技術顧問、甲府市立甲府商業高等学校校長を経て、鹿島建設参与に就任し、同社空手道部師範となる。沖縄空手道協会会長、全日本空手道連盟相談役、儀間派松濤館流会長、全日本空手道志誠会連合名誉会長を歴任した。1956年十段。
塚本 毅(つかもと たけし、1896年〈明治29年〉- 19… 塚本 毅(つかもと たけし、1896年〈明治29年〉- 1973年〈昭和43年〉12月7日)は、昭和期の日本の外交官。 熊本県玉名郡に生まれる。熊本県立玉名中学校(1916年卒業)を経て、1921年(大正10年)に東京高等商業学校(現一橋大学)本科を卒業した。1920年(大正9年)高等試験行政科試験に合格し、1921年に外務省に入省した。若手の頃から白鳥敏夫らとともに革新派官僚と呼ばれる。 外務省アメリカ局第二課長、スイス公使館書記官、外務省南洋局長心得、拓務省拓南局参与、ハルビン総領事や、スイス公使、外務省通商局勅任事務官、サイゴン公使、仏印総督府総務長官などを経て、1945年(昭和20年)から翌年にかけて最後の仏印大使を務めた。
菅谷 重平(すがや じゅうへい、1896年 - 1981年6… 菅谷 重平(すがや じゅうへい、1896年 - 1981年6月18日)は、日本の実業家、経営学者。 千葉県香取郡出身。小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒、1923年東京商科大学(現一橋大学)卒。住友金属工業に入り、査業部長、製鋼品部長、調査部長、企画部長、経理部長。1947年取締役支配人。1948年経済安定本部生産局長。1949年住友に復帰。1951年常任監査役。1952年関東特殊製鋼会長、関西経済同友会代表幹事。1960年「日本鉄鋼業論」で早稲田大学経済学博士。1964年同相談役。近畿大学教授、同名誉教授、東海大学教授。宇部化学工業取締役、大阪第一信用金庫理事。1969年勲四等瑞宝章受勲。
鈴木 信治(すずき しんじ、1896年 - 1981年)は、… 鈴木 信治(すずき しんじ、1896年 - 1981年)は、福島県出身の会社経営者。 福島県安達郡玉井村で1896年(明治29年)7月21日に鈴木直蔵の二男として生まれる。1920年に東京高等商業学校を卒業し、同年に横浜正金銀行に入行。漢口、ニューヨーク、上海、カルカッタの各支店勤務などを経て、大阪と神戸支店で副支配人、営口とハルピン支店で支配人を務めた。1960年2月、日本IBMの社長に、1962年10月には同社会長に就任。 1981年(昭和56年)6月20日心筋梗塞のために死去。84歳没。妻の満壽子は東京ポートサービス協会初代理事長を務めた荒川敬の長女。長男の謙一(1931年生)は日本興業銀行に勤め、その妻・秀子はIMF理事を務めた湯本武雄(湯本武比古の長男)の二女。
山下 陸奥(やました むつ、1895年(明治28年)12月2… 山下 陸奥(やました むつ、1895年(明治28年)12月24日 - 1967年(昭和42年)8月29日)は、日本の歌人。 広島県尾道市千光寺通りに生まれる。 尾道市立土堂小学校、広島県第一中学校(現広島県立広島国泰寺高校)を経て、東京高等商業学校(現一橋大学)中退。住友合資に入社し、愛媛県新居浜住友工業所に勤務。上司の川田順の勧めで佐佐木信綱の竹柏会に入り、新井洸、木下利玄に私淑。のち上京して信綱、石槫千亦を助けて「心の花」の編集を担当。信綱、久松潜一から国文学を学ぶ。 1930年(昭和5年)、歌誌「一路」を創刊、主宰した。「一路」には岡部桂一郎や山崎方代、塩野崎宏、角宮悦子などが参加したが、戦後に多く離反していった。
井口 良二(いぐち りょうじ、1895年〈明治28年〉10月… 井口 良二(いぐち りょうじ、1895年〈明治28年〉10月11日 - 1991年〈平成3年〉12月14日)は、日本の実業家。日東製粉社長。三菱商事常務取締役。衆議院議員岸田文武の義父。衆議院議員で第27代自由民主党総裁かつ第100代内閣総理大臣岸田文雄の母方の祖父。 佐賀県唐津市に生まれる。井口兆之助の二男。1919年、東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。三菱商事に入社。本店、倫敦、スラバヤ、神戸、大阪各支店に勤務。同社常務、旭交易、日東製粉各社長などをつとめた。 1991年12月14日に死去。享年96歳。墓所は青山霊園。 趣味は園芸、音楽、屋外運動。宗教は仏教。住所は東京都渋谷区神宮前六丁目穏田マンション内、世田谷区羽根木。
蜂谷 輝雄(はちや てるお 1895年10月4日 - 197… 蜂谷 輝雄(はちや てるお 1895年10月4日 - 1979年7月2日)は、日本の外交官。自由インド仮政府初代公使や内閣総理大臣秘書官を務めた。
杉村 廣藏(すぎむら こうぞう、1895年10月3日 - 1… 杉村 廣藏(すぎむら こうぞう、1895年10月3日 - 1948年1月8日)は、経済哲学者。旧制東京商科大学(一橋大学の前身)助教授や予科教授を務めていたが、白票事件と呼ばれる学内抗争に巻き込まれ大学を退職したのち、三菱商事監査役等を務めたが早世した。師の左右田喜一郎とともに経済哲学の創始者とされる。東京商科大学経済学博士。 北海道函館生まれ。函館商業学校(現北海道函館商業高等学校)本科を経て、1915年東京高等商業学校(一橋大学の前身)予科に進み、同本科や専攻部で左右田喜一郎や三浦新七に師事する。 1921年同校専攻部卒業、商学士。同年旧制東京商科大学(東京高等商業学校から大学に昇格、新制一橋大学の前身)助手、1923年同大学助教授就任。
二神 範蔵(ふたかみ のりぞう、明治28年(1895年)6月… 二神 範蔵(ふたかみ のりぞう、明治28年(1895年)6月29日 - 没年不明)は日本の実業家。元山下近海汽船社長。 二神は、東京都知事石原慎太郎の父潔の死後、慎太郎に一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめた 愛媛県南宇和郡城辺町(現在の愛南町)出身。二神彦一の男。 大正7年(1918年)東京高商(現在の一橋大学)を卒業し三井物産を経て、昭和6年(1931年)6月山下汽船に入社し日濠定航事務所長、紐育支店副長、名古屋支店長を歴任。 昭和18年(1943年)山下近海機船常務に転じ、昭和22年(1947年)3月同社社長に挙げられ、昭和24年(1949年)4月第二会社山下近海汽船を設立し社長に就任した。
江島 伊兵衛(えじま いへえ、1895年(明治28年)4月1… 江島 伊兵衛(えじま いへえ、1895年(明治28年)4月10日 - 1975年(昭和50年)10月10日)は、日本の実業家、能楽研究家。筆名荏寺 枚平(えじ まいへい)。 東京に生まれる。幼名は銀次郎。1912年に東京高等商業学校(現・一橋大学)予科に入学し、1917年に同校本科を卒業した。弓道部出身。 1918年に神田豊穂と春秋社を設立。同社の社長に就任する。その後家業を株式会社化し、1928年にわんや書店社長となる。1935年に鴻山文庫を設立した。 1961年、わんや書店の会長に就任した。松下塗料専務取締役、早稲田印刷監査役、野上記念法政大学能楽研究所顧問、宝生会理事なども歴任した。 著書・論文も多く、また、発行している雑誌『宝生』で「火曜研究会」と銘打った研究座談会を佐藤芳彦ともども主催して、能・謡曲の演者と研究者の交流の場を設けた。
長沼 直兄(ながぬま なおえ、1894年11月16日 - 1… 長沼 直兄(ながぬま なおえ、1894年11月16日 - 1973年2月9日)は、日本語教育者。 1894年11月16日、群馬県伊勢崎市近郊に長沼宗雄の三男として誕生。1915年6月、21歳の時に東京高等商業学校(一橋大学の前身)入学。隣人のアメリカ人の依頼で日本語教師の代行をしたことをきっかけに、「日本語教育」の道を歩んだ。ハロルド・E・パーマーとの出会いを機に、「英語教授研究所」に関わってパーマーを援け、その後、米国大使館で主任教官として米国陸海軍から送られたアメリカ人将校への日本語教育を担当した。日米開戦が近づき米国大使館の日本語教室は閉鎖され、文部省内に日本語教育振興会が設立されると、その理事としてアジア地域(大東亜)への日本語普及事業にも携わり、戦後は、財団法人言語文化研究所附属東京日本語学校を創立、生涯を日本語教育に尽力した。
渡辺 武次郎(わたなべ たけじろう、1894年(明治27年)… 渡辺 武次郎(わたなべ たけじろう、1894年(明治27年)10月20日 - 1997年(平成9年)12月4日)は日本の実業家。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。三菱地所の社長や会長を22年間務め、三菱地所中興の祖と呼ばれた。 岡山県矢掛町出身。1918年東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、三菱合資会社入社。 1937年三菱地所に転籍し、経理部長、取締役、常任監査役等を経て、1952年から1969年まで社長、1969年から1974年まで会長、1974年から1988年まで取締役相談役、1988年から1997年まで相談役を務めた。会長退任後も、中興の祖として実質的な人事権を握っていたとされる。
中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 19… 中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 1973年10月16日)は、王子製紙(現・王子ホールディングス)元社長、紙の博物館初代理事長。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校を経て東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業後、初代王子製紙へ入社。1946年、足立正の後任として社長に就任。1949年の初代王子製紙の解体後は、後継会社の苫小牧製紙(現・王子ホールディングス)の社長に就任。1967年に会長に異動するまで社長職に就いた。出身校の一橋大学の組織に当る如水会第14・15代会長も務めた(1961年 - 1966年)。 1973年10月16日、栗山町の王子製紙の林木育種研究所の訪問中に倒れ死去。
井藤 半彌(いとう はんや、1894年9月14日 - 197… 井藤 半彌(いとう はんや、1894年9月14日 - 1974年2月6日)は、日本の経済学者。専門は財政学。経済学博士。正三位勲一等瑞宝章。 海軍経理学校教授、一橋大学学長、日本学士院会員、自治庁参与、大蔵省税制特別調査会会長、日本ホッケー協会理事、大学基準協会常任理事などを歴任した。 京都市出身。京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)を経て、1918年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業、1920年同校専攻部貿易科卒業。福田徳三教授に師事。1920年東京商科大学(現一橋大学)助手、1910年東京商科大学附属商学専門部講師。1922年から財政学の内池廉吉教授に師事。1935年東京商科大学より経済学博士の学位を取得。
岡本 忠(おかもと すなお、1894年9月1日 - 1955… 岡本 忠(おかもと すなお、1894年9月1日 - 1955年9月2日)は、日本の実業家。学生時代よりテニス選手として活躍し、デビスカップやオリンピックに日本代表として出場した。 岡山県赤磐郡瀬戸町大字瀬戸(現在の岡山市東区)生まれ。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)を経て、東京高等商業学校(現在の一橋大学)に入学。学生時代からテニス選手として活躍した。 1917年(大正6年)、東京高等商業学校を卒業し、三井物産に入社した。 1921年(大正10年)、清水善造・鳥羽貞三と共に、皇居内コートでの初の「御前試合」に参加。 1924年パリオリンピックでは、日本代表選手4人のうちの1人で、男子シングルス (singles) と男子ダブルス (doubles) で出場。
田中 徳次郎(たなか とくじろう、1894年〈明治27年〉8… 田中 徳次郎(たなか とくじろう、1894年〈明治27年〉8月20日 - 1992年〈平成4年〉7月9日)は、日本の実業家。東京海上火災保険社長、日本損害保険協会会長などを歴任した。 群馬県西群馬郡高崎町(現高崎市)出身。1913年群馬県高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)卒業。1917年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。一橋基督教青年会出身。同年三菱合資入社。1935年三菱海上火災保険大阪支店長。1944年東京海上火災保険取締役。1947年東京海上火災保険社長。1948年日本損害保険協会会長。1952年海運造船合理化審議会委員、国際電信電話設立委員。1953年三菱銀行取締役。1955年日本海外移住振興設立委員、自動車損害賠償責任保険審議会委員。
尾高 豊作(おだか ほうさく、1894年7月9日 - 194… 尾高 豊作(おだか ほうさく、1894年7月9日 - 1944年1月4日)は、日本の実業家・教育者。刀江書院創業者で、同社長、埼玉銀行頭取、日本技術教育協会会長、日本児童社会学会会長などを務めた。 秋田県で尾高次郎の長男として生まれる。母は渋沢栄一の娘。埼玉県出身。妻豊子は、最後の岸和田藩主で司法大臣などを務めた子爵岡部長職の三女。娘の泰子は、最後の鳥羽藩主稲垣長敬の孫で子爵稲垣長賢の弟・稲垣重兼の妻。 東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。武州銀行副頭取、埼玉銀行頭取などを歴任し、多数の会社の役員も務めたが、1925年出版業を通じて日本の文化向上を図るため刀江書院を創業、社長を務める。 郷土教育連盟や日本児童社会学会を設立して前者の代表、後者の会長を務め、また日本技術教育協会会長なども務め、戦間期の日本の民族教育において、文部省などに対し指導的役割を果たした。
大屋 晋三(大屋 晉三、おおや しんぞう、1894年〈明治2… 大屋 晋三(大屋 晉三、おおや しんぞう、1894年〈明治27年〉7月5日 - 1980年〈昭和55年〉3月9日)は、日本の政治家、実業家。運輸大臣、商工大臣、参議院議員、帝人社長。戦前から戦後にかけて通算26年間にわたって帝人社長を務めた。妻は大屋政子。 群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣(現・明和町)に生まれた。父・央(なかば)は佐貫村尋常小学校の校長をしていた。母・ツネは埼玉県粕壁の本陣杉田家の娘。大屋家は代々川越藩士で、祖父は大屋門平といって柔術を指南していた。晋三が生まれた佐貫村大字川俣は館林から利根川の岸に沿う街道筋で、明治のはじめまでは宿場として本陣もあった。 1901年(明治34年)に尋常小学校に入学。
古村 誠一(こむら せいいち、1894年6月18日 - 19… 古村 誠一(こむら せいいち、1894年6月18日 - 1960年3月9日)は、日本の実業家。三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)代表取締役社長、日本電子金属(現・SUMCO)代表取締役社長を務めた。 長野県上伊那郡朝日村(現・辰野町)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1917年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。三菱鉱業(現・三菱マテリアル)小樽支店長(小樽支店での部下に斎藤英四郎がいた。)を経て、1950年三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)取締役副社長、1956年代表取締役社長。その他、日本電子金属(現・SUMCO)代表取締役社長、三菱油化(現・三菱ケミカル)取締役、大日本塗料取締役を務めた。
宮崎 清(みやざき きよし、1894年(明治27年)4月12… 宮崎 清(みやざき きよし、1894年(明治27年)4月12日 - 1970年(昭和45年)1月20日)は、日本の実業家。三井物産社長や、リッカーミシン会長、日本ユニバック会長等を務めた。 愛媛県今治市生まれ。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三井物産入社。1943年三井物産常務取締役。1944年から三井物産社長。同年大正海上火災保険取締役。第二次世界大戦後、三井財閥の解体にあたり、住井辰男三井本社筆頭常務理事らと、連合国軍総司令部との交渉にあたった。1946年電気化学工業特別管理人。三井物産解体後は、公職追放となり、白洋貿易社長、リッカーミシン会長、日本ユニバック会長等を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
京極 杜藻(きょうごく とそう、明治27年(1894年)4月… 京極 杜藻(きょうごく とそう、明治27年(1894年)4月1日 - 昭和60年(1985年)11月7日)は、日本の俳人、実業家。元京極運輸商事会長。旧姓桶谷。本名友助。 鳥取県米子市尾高町出身。家業は食料品商。桶谷庄蔵の次男。 大正2年(1913年)3月米子中学(現在の米子東高校)卒業。東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進んだ。大正3年(1914年)同級の京極山琅子などと学校内に俳句会“南琴吟社”を創立、喝鞭と号し、“ホトトギス”に投句して、初めて雑詠に二句入選する。大正4年(1915年)2月はじめて“ホトトギス”句会に出席し高浜虚子に会う。 大正6年(1917年)3月東京高商卒業。久原鉱業に入社したが、京極山琅子が急死したため、翌年久原を退社、山琅子の京極家を継ぐ。
槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日… 槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日 - 1942年(昭和17年)5月8日)は、日本の実業家。青年期に岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)から奨学金を受け、その後三菱商事に入社し水産部長とロンドン支局長を歴任した。財閥解体前の三菱最後の社長であり、再編後の最初の社長となった高垣勝次郎のライバルであった。岡山県新見市出身。 岡山県哲多郡神代村(現:新見市)出身。小作農槙原柳太郎の二男として生まれる。14歳で親戚を頼って上京し下働きなどをしていたが、岩崎弥太郎設立の本郷竜岡町(現・文京区湯島4丁目)の学寮「雛鳳館」の寮生に選ばれたことにより金銭的苦労がなくなり、東京高等商業学校在学中は学業とともにテニスに熱中した。
白 南雲(日本語読み;はく なんうん、朝鮮語読み;ペク・ナム… 白 南雲(日本語読み;はく なんうん、朝鮮語読み;ペク・ナムン、1894年2月11日 - 1979年6月12日)は、日本統治時代の朝鮮・連合軍軍政期の南朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の経済学者、政治家。学者としての専門は朝鮮社会経済史。 韓国のマルクス主義歴史学の創始者として知られ、京城帝国大学教授、ソウル大学校教授等を務めたのちに北朝鮮に渡り、朝鮮民主主義人民共和国初代教育相、最高人民会議議長、祖国統一民主主義戦線議長等を歴任した。論文「金日成同志の英雄的偉業」により金日成勲章受章。 全羅北道高敞郡の貧しい家で生まれ育つ。本貫は水原白氏。1911年に結婚。同年朝鮮総督府附属水原農林学校(現ソウル大学校農業生命科学大学)に入学して農業政策を学び、1915年に卒業。
佐々木 長治(ささき ちょうじ、1894年(明治27年)2月… 佐々木 長治(ささき ちょうじ、1894年(明治27年)2月10日 - 1970年(昭和45年)9月12日)は、日本の実業家、政治家、衆議院議員(2期)。貴族院議員。旧名・馨。 愛媛県西宇和郡伊方村(現伊方町)で、佐々木長治(高二郎)の息子として生まれた。1914年(大正3年)家督を相続し、長治を襲名。1916年(大正5年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒。 伊方郵便局長、西宇和郡会議員、八幡浜市長のほか、西南銀行、第二十九銀行、予州銀行の各頭取などを務める。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で愛媛県第6区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。2期務める。その後、1939年(昭和14年)愛媛県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
徳増 栄太郎(とくます えいたろう、1894年 - 1963… 徳増 栄太郎(とくます えいたろう、1894年 - 1963年)は、日本の西洋経済史学者。初代横浜国立大学経済学部学部長。 神奈川県横浜市生まれ。1919年に東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部を卒業。上田貞次郎門下。 上智大学などで教鞭を執り、1921年から文部省在外研究員としてイギリス、ドイツ、フランスに留学した。1924年に帰国すると横浜高等商業学校の教授となり、経済原論及び商業史を担当した。 1947年一級官。1949年横浜国立大学経済学部学部長兼横浜経済専門学校校長事務取扱。1950年横浜国立大学附属図書館経済学部分館長兼務。退官後、横浜国立大学名誉教授。 1963年正四位勲二等瑞宝章、従三位。
田中金司(たなか きんじ、1894年-1985年)は、日本の… 田中金司(たなか きんじ、1894年-1985年)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。専門は、貨幣論・金融論・国際金融論。 1913年(大正2年)に群馬県高崎中学校(現群馬県立高崎高校)を卒業し、東京高等商業学校(現一橋大学)予科に入学。東京高商では佐野善作の指導を受けた。卒業後、神戸高等商業学校、神戸商業大学、神戸経済大学を経て神戸大学教授を務めた。さらに、神戸大学退官後は関西学院大学教授を務めた。 門下生には矢尾次郎神戸大学名誉教授、宮下忠雄神戸大学名誉教授、安居洋神戸市外国語大学名誉教授、小寺武四郎元関西学院大学教授・関西学院大学学長・学校法人関西学院・第10代院長などがいる。貨幣論では名目主義、一般的購買手段を主張したほか、全体的な経済理論としては貨幣的経済理論を主張した。
八木 助市 (やぎ すけいち、1893年 <明治26年> 6… 八木 助市 (やぎ すけいち、1893年 <明治26年> 6月24日 - 1974年 <昭和49年> 11月3日)は、日本の社会政策学者。神戸大学名誉教授。 広島県出身。1911年広島商業学校卒業。1917年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部貿易科卒業。福田徳三門下。1919年神戸高等商業学校教授。3年ほど勤めたのち、ドイツ留学し、ベルリン大学(1学期間研究生)やベルリン高等商業学校(de:Handelshochschule Berlin)で学んだ。 1929年神戸商業大学助教授。1930年神戸商業大学教授。1950年神戸大学学生部長。1954年神戸大学評議員。1957年に退官後、神戸大学名誉教授、福岡大学教授。
宮前 進(みやまえ すすむ、1893年(明治26年)6月4日… 宮前 進(みやまえ すすむ、1893年(明治26年)6月4日 - 1972年(昭和47年)2月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、秩父市名誉市民。 埼玉県秩父郡大宮町(現:秩父市)で生まれる。1915年、東京高等商業学校を卒業。書籍雑貨商を営む。 秩父町会議員、所得税調査委員、金銭債務調停委員、商工経済会評議員を務める。 実業界では、埼玉県文具卸施設組合理事長、秩父生活必需品小売業統制組合理事長、秩父商工会議所副会頭、埼玉県信用金庫理事、埼玉県商店会連合会長、秩父市商店連盟連合会長、全日本商店会連合会理事、秩父合同運送取締役社長、宮前商店取締役社長、養成社取締役社長、秩父乳業取締役社長などを務めた。
山口 茂(やまぐち しげる、1893年(明治26年)3月5日… 山口 茂(やまぐち しげる、1893年(明治26年)3月5日 - 1974年(昭和49年)8月21日)は、日本の経済学者。金融論、経済学史等を専攻した。一橋大学名誉教授。 神奈川県高座郡大和村(現・大和市)の地主の家に生まれる。暁星中学校を経て、1917年東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。1919年同校専攻部卒業。1921年から東京商科大学(現・一橋大学)附属商学部専門部助教授を務め、三浦新七、上田貞次郎のプロゼミに参加。1922年から銀行論の講義を担当し、佐野善作、高垣寅次郎の指導を受けた。1925年からイギリス、ドイツ帝国、フランス共和国、アメリカ合衆国に留学し、1927年に帰国すると東京商科大学助教授を兼任。
大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1… 大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1977年6月20日)は、経済学者・文芸評論家・歌人。 富山大学教授、神奈川大学教授、創価大学教授などを歴任。福田徳三門下。 山形県米沢市元籠町生まれ。旧制米沢興譲館中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。中学時代、浜田広介や上泉秀信と同人誌を作っていた。高商同期の歌人浦野敬はのちに、大熊の創刊した歌誌「まるめら」の同人となった。 1916年日清製粉入社。米沢商業学校で教鞭をとった後、1919年東京高等商業学校専攻部進学、1921年同卒。1941年経済学博士(東京商科大学)。論文の題は「経済理論における配分原理の所在並に適用に関する基礎的研究」。
金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 -… 金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 - 1951年5月7日)は、日本の歴史学者。東京商科大学(現一橋大学)教授を務めたが、日本の降伏後、教職追放令により免官された。 京都市出身。京都府立第二中学校(のちの京都府立鳥羽高等学校)卒業後、1915年東京高等商業学校(のちの一橋大学)本科卒業。1917年同専攻部貿易科を総代で卒業し、同校講師に就任。上田貞次郎門下。1919年同校教授。 1920年東京商科大学附属商学専門部教授。同年から1923年までイギリス、フランス、ドイツに留学。のち、東京商科大学教授兼附属商学部教授となり、1938年に全国高商文化聯合会が設立されると会長に就任。
澁澤 金三郎(しぶさわ きんざぶろう、1892年〈明治25年… 澁澤 金三郎(しぶさわ きんざぶろう、1892年〈明治25年〉11月3日 - 1970年〈昭和45年〉3月8日)は、日本の会社役員、銀行家。三菱銀行取締役。三菱電機監査役。 群馬県新田郡太田町(現太田市)出身。1915年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。第百銀行に入り大阪支店次長、横浜・丸ノ内各支店長を歴任し三菱銀行に転じ郵船ビル支店長、本店審査部副長、日本橋支店長を経て1947年、取締役に就任。 質商・初代澁澤金蔵の孫。二代目澁澤金蔵の二男。三代目澁澤金蔵の弟。趣味はスポーツ。宗教は浄土宗、仏教。住所は東京世田谷区玉川奥沢町 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
村瀬 新一郎(むらせ しんいちろう、1892年(明治25年)… 村瀬 新一郎(むらせ しんいちろう、1892年(明治25年)9月10日 - 1978年(昭和53年)12月31日)は、日本の実業家である。三井物産の社長を務めた。 愛知県に生まれ、東京高等商業学校(後の東京商科大学、現在の一橋大学)に入学する。1917年(大正6年)に卒業後は三井物産に入社し、シドニー支店の会計課長や神戸支店営業部の会計課長、福岡支店長、本店整理部長等を歴任した。第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に取締役経理部長となり、後に常務を務める。 同年には同社が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から解散命令を受け、清算人にあたった。その後は日東倉庫の社長に就任し、1953年(昭和28年)には大合同直前の三井物産の社長を務める。
結城 鉄雄(ゆうき てつお、1892年7月15日 - 197… 結城 鉄雄(ゆうき てつお、1892年7月15日 - 1971年6月18日)は、日本の経営者。大日本セルロイド社長を務めた。福岡県久留米市出身。 1915年に東京高等商業学校を卒業。三井物産での勤務を経て、大日本セルロイドに転じ、1937年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1955年1月には社長に就任。1964年1月から1968年1月までに会長を務めた。富士写真フィルム監査役も務めた。 1962年に藍綬褒章を受章し、1966年に勲三等旭日中綬章を受章。 1971年6月18日急性心不全のために死去。78歳没。
堀 潮(ほり うしお、1892年(明治25年)6月1日 - … 堀 潮(ほり うしお、1892年(明治25年)6月1日 - 1966年(昭和41年)4月18日)は、日本の思想史家。専門はイギリス政治思想、経済思想。一橋大学名誉教授。 熊本県玉名郡長洲町出身。熊本商業学校 (現・熊本県立熊本商業高等学校)在学中、のちに同僚となる村瀬玄に師事。1911年朝鮮銀行入行。1918年東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。外交官を志して、1920年に同校専攻部領事科専攻卒業。東京ではのちに尺八演奏家となった同郷の吉田晴風及びその母とともに、筑土八幡町の長屋の一隅を借りて生活した。 1920年堀光亀教授に請われ文部省在外研究員となるため、法政大学教授及び明治学院教授に就任。
上野 十蔵(上野 十藏、うえの じゅうぞう、1892年〈明治… 上野 十蔵(上野 十藏、うえの じゅうぞう、1892年〈明治25年〉3月10日 - 1972年〈昭和47年〉11月18日)は日本の実業家。中外製薬創業者・元代表取締役社長。位階は正五位。 鹿児島県薩摩郡隈之城郷(現在の鹿児島県薩摩川内市の一部)出身。実業家三代目上野喜左衛門の甥。 1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、三井鉱山入社。高等商業学校ではボート部に所属。 その後貿易会社の大正貿易商会紐育(ニューヨーク)支店長を務めたが、会社が倒産。関東大震災で子供をかばったまま死んだ母親の死体を見て衝撃を受け、1925年、32歳で中外新薬商会(現中外製薬)を設立。1942年に中外製薬に改組・改名。