三重野 栄子(みえの しげこ、1926年5月10日 - 20… 三重野 栄子(みえの しげこ、1926年5月10日 - 2013年11月27日)は、日本の政治家。社会民主党の参議院議員(2期)。位階は従四位。 福岡県大牟田市出身。福岡第一師範学校を経て、九州帝国大学経済学部に入学。1951年(昭和26年)に卒業した。同年岩田屋に入社、労組書記長などを務めた。1962年(昭和37年)日本社会党に入党。1983年(昭和58年)筑紫野市議に初当選。1988年(昭和63年)社会党福岡県本部副委員長に就任。1990年(平成2年)の小野明参議院副議長の死去にともなう参院福岡補選に立候補して初当選。自民党候補との一騎討ちを制した。1995年(平成7年)の第17回参議院議員通常選挙でも再選。
田原 隆(たわら たかし、1925年9月8日 - 2012年… 田原 隆(たわら たかし、1925年9月8日 - 2012年9月9日)は、日本の官僚、政治家。法務大臣(第54代)、自由民主党衆議院議員(6期)を歴任した。位階は従三位。 大分県田原村 (現杵築市) 生まれ。九州大学工学部土木工学科を卒業し、1949年に建設省に入省した。1979年に退官する。 1979年、第35回衆議院議員総選挙に旧大分県第2区から無所属で出馬し、初当選(当選同期に佐藤信二・保利耕輔・畑英次郎・小里貞利・岸田文武・白川勝彦・丹羽雄哉・亀井静香・吹田愰・宮下創平・亀井善之・船田元など)。その後自由民主党の党友組織である自由国民会議を経て自民党に入党し、追加公認を受けた。以後当選6回。
嶋崎 譲(嶋﨑 譲、しまさき ゆずる、1925年(大正14年… 嶋崎 譲(嶋﨑 譲、しまさき ゆずる、1925年(大正14年)1月21日 ‐ 2011年(平成23年)10月26日)は、日本の政治学者、政治家。衆議院議員(8期)。 石川県小松市粟津町に生まれる。兄の均は自由民主党所属の参議院議員、法務大臣を歴任し、兄弟で党籍が与野党に別れていた。また、弟の丞は石川県立美術館館長。 旧制第四高等学校を経て九州大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了。 大学院修士課程修了後、九州大学助教授、教授となる。向坂逸郎らと共に社会主義協会系の学者として活躍するが、1967年(昭和42年)社会主義協会分裂の際は太田派の中心人物の一人となった。 1969年(昭和44年)、社会党執行部から求められて九州大学教授を辞職し、旧石川1区から第32回総選挙に立候補するが落選。
市川 武(いちかわ たけし、1924年〈大正13年〉9月10… 市川 武(いちかわ たけし、1924年〈大正13年〉9月10日 - 2020年〈令和2年〉5月22日)は、昭和から平成時代の政治家。位階は正五位。 裾野市出身。1947年(昭和22年)九州帝国大学工学部土木工学科卒業。 1952年(昭和27年)静岡県庁に奉職し、1969年(昭和44年)港湾課長、1977年(昭和52年)土木部技監を経て、1978年(昭和53年)裾野市長に当選。4期務めた。 2020年(令和2年)5月22日死去、95歳。
諫山 博(いさやま ひろし、1921年12月5日 - 200… 諫山 博(いさやま ひろし、1921年12月5日 - 2004年11月27日)は、日本の政治家、弁護士。参議院議員、衆議院議員をそれぞれ1期ずつ務めた。 福岡県浮羽郡浮羽町(現・うきは市)生まれ。九州大学法文学部哲学科を経て、1951年に弁護士開業。以後自由法曹団幹事や共産党福岡県委員会法規対策部長、福岡第一法律事務所長などを歴任する。 九州では戦後初の自由法曹団員として、三井三池争議の現地弁護団に加わった。 1972年の衆院選に福岡1区から立候補し初当選を果たすが、再選を期して1976年、1979年、そして1980年の各衆院選に立候補するも落選。 1986年の同年の参院選で比例区から立候補し初当選となる。
竹内 潔(たけうち きよし、1920年10月4日 - 198… 竹内 潔(たけうち きよし、1920年10月4日 - 1984年8月21日)は、日本の政治家。自由民主党参議院議員(2期)。三木派。従四位勲二等
楢崎 弥之助(ならざき やのすけ、1920年〈大正9年〉4月… 楢崎 弥之助(ならざき やのすけ、1920年〈大正9年〉4月11日 - 2012年〈平成24年〉2月28日)は、日本の政治家。本名は、楢崎 弥之祐(読みは同じ)。衆議院議員(11期)、社会民主連合書記長、同党副代表を歴任した。衆議院議員を務めた楢崎欣弥は長男。
阿部 新(あべ あらた、1919年(大正8年)8月17日 -… 阿部 新(あべ あらた、1919年(大正8年)8月17日 - 2009年(平成21年)1月8日)は、昭和時代の政治家。秋田県鹿角市長。 鹿角市出身。1943年(昭和18年)九州帝国大学農学部卒業。 花輪町農業会長を経て、1948年(昭和23年)秋田県庁に奉職。鹿角地方事務所経済課長を経て、1956年(昭和31年)鹿角郡花輪町長に当選。1972年(昭和47年)合併により初代鹿角市長となった。3期務め、1988年(昭和63年)4月、落選した。ほか、尾去鉱山観光代表を歴任した。2009年(平成21年)1月8日死去、89歳。死没日をもって従四位に叙される。
山本 政弘(やまもと まさひろ、1918年9月16日 - 2… 山本 政弘(やまもと まさひろ、1918年9月16日 - 2005年8月11日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(7期)。衆議院功労議員表彰。 富山県生まれ。九州帝国大学法文学部法科卒業後、南満州鉄道社員。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。横須賀鎮守府付長官承命服務・山城乗組となる。第一海軍火薬廠廠長付、千歳丸主計長を経て、1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進む。同年10月、第36警備隊付に発令されフィリピン戦線に従軍。ネグロス島で終戦を迎え捕虜となるが、島内の投降拒否者の発見と説得に従事し、1946年(昭和21年)12月、名古屋に上陸し解員(復員)した。
山縣 有信(やまがた ありのぶ、1918年〈大正7年〉8月1… 山縣 有信(やまがた ありのぶ、1918年〈大正7年〉8月15日 - 1974年〈昭和49年〉7月22日)は、日本の政治家。栃木県矢板市長を務めた。 明治の元勲山縣有朋の曾孫(山縣有道の長男)として東京府で生まれる。学習院高等科を経て、九州帝国大学法文科を卒業。卒業後の1942年(昭和17年)、日本興業銀行に入るが、同年、第1期海軍兵科予備学生として海軍に入った。終戦直後の1945年(昭和20年)11月1日、父の死去に伴い、公爵を襲爵する。1946年(昭和21年)復員し、日本興業銀行に復職する。翌1947年(昭和22年)、同行を退職し、栃木県矢板町の山縣農場の経営に取り組む。 1963年(昭和38年)、矢板市長選挙に立候補し、初当選、以来連続3期務める。
金 東祚(김동조、キム・ドンジョ、1918年8月14日 - … 金 東祚(김동조、キム・ドンジョ、1918年8月14日 - 2004年12月9日)は、韓国の政治家。1965年から1967年にかけて初代駐日大使を務め、1973年から1975年にかけては大韓民国外務部の長官(外相)を務めた。 日本名は宗山 秀隆(むねやま ひでたか)。実業家で元国会議員の鄭夢準は末娘の夫。また、次女は元国防部長官の孫元一の息子、三女は実業家の許鼎九の息子とそれぞれ結婚した。元ヘラルドメディア会長の洪政旭(朝鮮語版)は孫娘婿。 1918年に釜山府で生まれる。釜山中学校を経て、1940年京城高等商業学校を卒業。1943年九州帝国大学法文学部法科を卒業。李東煥元内務次官は高等商業学校の同期。
大森 創造(おおもり そうぞう、1918年(大正7年)5月2… 大森 創造(おおもり そうぞう、1918年(大正7年)5月25日 - 1999年(平成11年)11月14日)は、昭和期の政治家。参議院議員、茨城県東茨城郡圷村長。 茨城県東茨城郡、のちの桂村(現城里町)で生まれる。九州大学中国文学科を卒業。又一貿易上海支店に勤めた。 1956年(昭和31年)日本社会党に入党。圷村民主同盟を結成した。圷村長に就任し2期在任。茨城県議会議員に選出され3期在任した。また、社会党茨城県連書記長、同党基地対策委員長などを務めた。 1959年(昭和34年)6月の第5回参議院議員通常選挙に茨城県地方区から社会党公認で出馬して初当選。1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙でも再選され、参議院議員に連続2期在任した。
李 坰鎬(イ・ギョンホ、朝鮮語: 이경호、1917年11月1… 李 坰鎬(イ・ギョンホ、朝鮮語: 이경호、1917年11月1日 - 1987年2月28日)は、大韓民国の官僚、検察官、憲法学者、政治家。第10代韓国国会議員、第14代保健社会部長官。本貫は全州李氏。号は仁山(인산、インサン)。日本名は李家 坰鎬。 岳父は制憲国会議員の晋直鉉、娘の李玲愛(朝鮮語版)とその夫の金賛鎮(朝鮮語版)も国会議員を務めたことがある。 全羅南道光陽に生まれた。1940年に京城法学専門学校を卒業。1942年に九州帝国大学法文学部法科(現・九州大学法学部)を卒業し、1943年に高等文官試験司法科に合格した。朝鮮光復後の1947年に憲法学者としてソウル大学校法科大学助教授、1950年に東国大学校教授を務めた。
山之口 安秀(やまのくち やすひで、1917年 <大正6年>… 山之口 安秀(やまのくち やすひで、1917年 <大正6年> 8月25日 - 2001年 <平成13年> 10月18日)は、日本の政治家。第18代鹿児島市長。位階は正五位。勲三等旭日中綬章受章。 鹿児島県日置郡東市来村(後に東市来町、日置市)出身。鹿児島県伊佐農林学校(現鹿児島県立伊佐農林高等学校)、宮崎高等農林学校(現宮崎大学農学部)を経て、1942年九州帝国大学農学部(現九州大学農学部)卒業。南満洲鉄道勤務、福岡県職員を経て、1949年鹿児島県庁に入職。鹿児島県の農業経済、農政などの各課長、農政部次長(1966年)、企画部長(1967年)などを歴任し、1971年県出納長に就任した。1975年の鹿児島市長選で保守系の候補として出馬、現職の末吉利雄を破り、初当選した。
宮崎 善吾(みやざき ぜんご、1917年(大正6年)4月17… 宮崎 善吾(みやざき ぜんご、1917年(大正6年)4月17日 - 2006年(平成18年)12月13日)は、日本の政治家、会社役員。元・佐賀県副知事。 宮崎林三郎(2代目)の長男として佐賀県に生まれる。 九州大学卒業後、佐賀県職員となる。同県副知事まで登りつめ、1978年(昭和53年)6月から1979年(昭和54年)5月までその地位にあった。ほかに佐賀清和学園理事長、エフエム佐賀社長、財団法人佐賀経済調査協会理事長などを歴任。佐賀の顔役の1人であった。1987年、勲三等瑞宝章を受章。 第一勧業銀行頭取を務めた宮崎邦次は実弟。邦次は『第一勧業銀行総会屋利益供与事件』の発覚によって非業の死を遂げるが、善吾はその死について多くを語らず、香典やおくやみの言葉を贈ろうとする者はかなりの数にのぼったが、一切、断った。
豊瀬 禎一(とよせ ていいち、1917年(大正6年)4月13… 豊瀬 禎一(とよせ ていいち、1917年(大正6年)4月13日 - 2007年(平成19年)2月9日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。筆名は冬欅。 福岡県筑紫郡席田村下月隈(現福岡市博多区下月隈)で生まれる。1937年(昭和12年)福岡師範学校本科第二部を卒業。その後、九州大学教育学部を修了した。 1937年、福岡市吉塚小学校教諭に就任。以後、東住吉国民学校、東光国民学校、馬出国民学校で勤務。戦後、福岡市立東光中学校教諭に就任した。また労働運動に加わり、福岡県教職員組合連合会長(1948-1949)、福岡県中学校教職員組合委員長(1949-1951)、第2代福岡県教職員組合委員長(1951-1953)を歴任した。
古賀 雷四郎(こが らいしろう、1915年12月23日 - … 古賀 雷四郎(こが らいしろう、1915年12月23日 - 2008年6月13日)は、日本の政治家。参議院議員(3期、自由民主党)。 佐賀県鳥栖市出身。旧制五高を経て1940年に九州帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入省し、河川局長、建設技監などを経て、退官。1971年6月27日投票の第9回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し、23位で初当選。自由民主党では佐藤栄作派(周山会)→田中角栄派(木曜クラブ)→竹下登派(経世会)に属した。 1977年7月10日投票の第11回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し、12位で2回目の当選。1983年6月26日投票の第13回参議院議員通常選挙に比例区から出馬し、26位で3回目の当選。
渡辺 武(わたなべ たけし、1915年(大正4年)3月24日… 渡辺 武(わたなべ たけし、1915年(大正4年)3月24日 - 2005年(平成17年)10月4日)は、日本の政治家、経済学者。日本共産党参議院議員。 静岡県沼津市出身。1941年(昭和16年)九州帝国大学法文学部経済学科を卒業する。福岡経済専門学校(後の福岡大学)教授を務めた後、1946年(昭和21年)日本共産党に入党。党中央委員、中央委員会経済調査部長、経済政策委員会責任者などを歴任。 1968年(昭和43年)第8回参議院議員通常選挙で全国区から立候補し当選する。当選回数2回。党参議院国会対策委員長などを務めた。 2005年(平成17年)10月4日多臓器不全のため死去。90歳。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
厳 敏永(オム・ミニョン、朝鮮語: 엄민영/嚴敏永、1915… 厳 敏永(オム・ミニョン、朝鮮語: 엄민영/嚴敏永、1915年2月4日 - 1969年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の政治家、官僚、弁護士。本貫は寧越厳氏。漢字表記は厳敏英とも。日本名は雉山 敏夫(きじやま としお)。 慶尚北道慶山郡または善山郡にて誕生。大邱公立高等普通学校(のちの慶北高等学校(朝鮮語版))を経て、1936年法政大学予科修了。1939年九州帝国大学法文学部法科卒業。米国ノースウェスタン大学法科大学院修了。高等文官試験行政科に合格して朝鮮総督府の官吏となり、京城地方専売局清州出張所で勤務した。1943年以後、全羅北道任実郡と茂朱郡の郡守を務めた。 太平洋戦争(大東亜戦争)終戦後は、全羅北道農商部長と全羅南道農林局長を務めた。
白 南檍(ペク・ナモク、朝鮮語: 백남억、1914年11月1… 白 南檍(ペク・ナモク、朝鮮語: 백남억、1914年11月11日 - 2001年1月15日)は、日本統治時代の朝鮮の鉄道官僚、大韓民国の教育者、政治家。初代大邱大学(現・嶺南大学校)大学院長、参議員・第6・7・8・9代韓国国会議員を歴任した。 本貫は水原白氏。漢字表記は白南憶とも。国民大学校経商大学学長の白種玹は息子、元国会議長の朴浚圭は妻の兄弟。実業家の李秉喆の妻の朴杜乙(朝鮮語版)は妻の従おば(岳父の従姉妹)。 日本統治時代の慶尚北道金泉郡(現・金泉市)出身。九州帝国大学(現・九州大学)法文学部、ミシガン大学大学院修了。解放前は鉄道系統で官吏を務めたが、解放後は教育界に転身し、大邱大学(現・嶺南大学校)教授、同校初代大学院長(1958年3月 - 1960年11月)、東国大学校・建国大学校大学院講師を務めた。
近藤 英一郎(こんどう えいいちろう、1913年(大正2年)… 近藤 英一郎(こんどう えいいちろう、1913年(大正2年)2月4日 - 2014年(平成26年)4月15日)は、日本の政治家。元参議院議員(1期)。元群馬県議会議員(5期)。元大間々町長。
山崎 平八郎(やまざき へいはちろう、1911年12月16日… 山崎 平八郎(やまざき へいはちろう、1911年12月16日 - 1989年1月11日 )は、日本の農林官僚、政治家。 国土庁長官(第14代、第2次中曽根内閣)、衆議院議員(7期)などを歴任。福岡県大川市出身。勲一等瑞宝章受章。 山崎四郎の息子として生まれた。幼くして父と死別したため、子供のいない父方の伯父・達之輔(のちに立憲政友会所属代議士、農林大臣・逓信大臣・農商務大臣)に育てられた。自治大臣を務めた山崎巌は父方の叔父にあたる。 旧制佐賀高等学校を経て1939年九州帝国大学農学部農業工学科卒業。 大学卒業後、農林省に入省。九州農政局長を退官後の1969年、前年死去した叔父・巌の後継者として衆議院議員選挙に福岡3区から自由民主党公認で立候補し初当選(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・渡部恒三・奥田敬和・林義郎・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。
矢嶋 三義(やじま みよし、1911年(明治44年)11月1… 矢嶋 三義(やじま みよし、1911年(明治44年)11月16日 - 1996年(平成8年)4月19日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。旧姓は安部。 大分県直入郡、現在の竹田市で安部家に生まれる。1933年(昭和8年)九州帝国大学附設教員養成所数学科を卒業した。 下野中学校教諭、栃木県立宇都宮中学校教諭、福岡県立八女中学校教諭、長崎県立長崎中学校教諭、熊本県立熊本中学校教諭、熊本県立熊本高等学校教諭などを務めた。 労働運動に加わり、熊本県教職員組合委員長、日本教職員組合九州地協委員長、熊本県学生協同組合理事長、同県教育会長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に無所属で出馬して当選し、1956年(昭和31年)7月の第4回通常選挙で全国区に日本社会党公認で出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
田中 敏文(たなか としぶみ、1911年11月9日 - 19… 田中 敏文(たなか としぶみ、1911年11月9日 - 1982年12月20日)は、日本の政治家。北海道知事。青森県出身。
麻生 太賀吉(あそう たかきち、1911年〈明治44年〉9月… 麻生 太賀吉(あそう たかきち、1911年〈明治44年〉9月29日 - 1980年〈昭和55年〉12月2日)は、日本の実業家、政治家。麻生セメント会長。衆議院議員(3期)。第92代内閣総理大臣麻生太郎の父。 1911年(明治44年)9月29日、九州の炭鉱王麻生太吉の三男・太郎を父に、子爵加納久朗の妹・夏子を母として福岡県嘉穂郡飯塚町(現・飯塚市)に生まれる。1929年(昭和4年)に旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)を卒業し、昭和4年から昭和7年まで九州帝国大学(現・九州大学)法文学部聴講生。1931年(昭和6年)に祖父の経営する麻生商店に入社し、1934年(昭和9年)に社長となる。1935年(昭和10年)、帝国軍人後援会福岡県支会経費として2000円寄付により1937年(昭和12年)褒状下賜。
金 裕澤(キム・ユテク、朝鮮語: 김유택、1911年4月10… 金 裕澤(キム・ユテク、朝鮮語: 김유택、1911年4月10日 - 1975年6月17日)は、大韓民国の政治家、官僚。韓国銀行総裁や駐日大韓民国代表部首席代表(現在の駐日大韓民国大使の前身)、大韓民国副首相兼経済企画院長官などを務めた。本貫は清風金氏(朝鮮語版)。 1911年に黄海道載寧郡で生まれる清風金氏。海州高等普通学校を経て、1932年京城高等商業学校卒業。1938年に九州帝国大学法文学部法科を卒業後、日本植民地時代に韓国銀行の前身である朝鮮銀行に入行し、貸付部長、理事、副総裁などを経験する。1951年から5年間は韓国銀行総裁を務め、国際通貨基金と国際復興開発銀行加入のために活躍する。1957年には駐日大韓民国代表部首席代表に着任し、その後は駐英韓国大使を経て1961年の5・16軍事クーデターを機に政界へ進出した。
田中 織之進(たなか おりのしん、1911年2月27日 - … 田中 織之進(たなか おりのしん、1911年2月27日 - 1978年3月2日)は、和歌山県の被差別部落出身の政治家、新聞記者、部落解放運動家。衆議院議員。 九州帝国大学法学部卒。読売新聞社政経部次長の時に日本の敗戦を迎え、1947年、第23回衆議院議員総選挙に日本社会党から出馬して当選。この選挙で当選した部落出身議員には、ほかに田中松月、松井豊吉、吉川兼光、加藤静雄、宮村又八がいた。以後、社会党左派の議員として8選を重ね、日米安保反対派として論陣を張る。 1966年、貿易商社の不正輸出事件に絡み東京地検に恐喝容疑で起訴され、7年後に無罪が確定。この事件を機に社会党を離れ、無所属となる。 かたわら、部落解放全国委員会常任中央委員、部落解放同盟和歌山県連委員長、部落解放同盟常任中央委員、同書記長を歴任。
植松 雅俊(うえまつ まさとし、1910年(明治43年)6月… 植松 雅俊(うえまつ まさとし、1910年(明治43年)6月19日 - 1958年(昭和33年)11月14日)は、昭和期の宮内官、政治家。京都府華族(子爵)。貴族院議員。正五位。 1910年(明治43年)6月、式部官・植松雅道の長男として生まれる。 1935年(昭和10年)九州帝国大学法文学部を卒業。同年以降、宮内省諸陵寮雇、同嘱託、殿掌などを務めた。 父の死去に伴い、1941年(昭和16年)7月1日、子爵を襲爵した。 1946年(昭和21年)6月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選した。研究会に所属し、1947年(昭和22年)5月2日まで在任した。 1958年(昭和33年)11月、死去。
全 禮鎔(전예용 チョン・イェヨン 1910年1月3日 - … 全 禮鎔(전예용 チョン・イェヨン 1910年1月3日 - 1994年7月4日)は、韓国の政治家・官僚。韓国銀行総裁や復興部長官、建設部長官などを務めた。日本名は江原 禮三。 京城府(現ソウル特別市)西大門区で銀行家の父のもとに生まれる。南大門商業学校を経て、1930年京城高等商業学校卒業。1933年に九州帝国大学法文学部法科を卒業後、同年高等文官試験に合格。朝鮮総督府内務局社会課長などを務め、終戦時には朝鮮総督府財務部長の職にあった。その後、復興部長官や韓国銀行総裁などを経て建設部長官に就任する。在韓国九州大学同窓会会長も務めた。 朝鮮戦争が勃発した1950年にソウル市の副市長を務めていたが、朝鮮人民軍がソウルを占拠したときに、市民に通知することなくあらかじめ避難していた。
黄 鍾律(ファン・ジョンニュル / ジョンユル、朝鮮語: 황… 黄 鍾律(ファン・ジョンニュル / ジョンユル、朝鮮語: 황종율 / 황종률、1909年 - 1972年1月21日)は、満洲国および大韓民国の官僚、政治家。第8代国会議員。カトリック教徒。 1909年に漢城府で誕生。日本の内地に留学し、中央大学予科を経て、1935年九州帝国大学法文学部法科を卒業。満州国大同学院を経て、同国の官吏となった。満洲国経済部金融司において金融事務官を務め、経済分野に注力した。 第二次世界大戦終戦で満州国が消滅すると、朝鮮半島の軍政庁地域に戻った。1945年から延禧専門学校(現延世大学校)教授をしばらく務めた後、在日本公館長(1947年)、外資購買処長(1952年)、外資管理局長(1952年)、東国大学校法政大学教授(1959年)、忠清北道知事(1960年-1961年)を歴任。
許 世賢(シュー・シーシェン、きょ せけん、1908年4月1… 許 世賢(シュー・シーシェン、きょ せけん、1908年4月1日 – 1983年6月30日)は台湾の政治家・医師である。台湾で初めて博士号を取得した女性であり、台湾で最初の女性市長、女性市議会議員、女性高等学校長でもある。また、日本で3人目の女性医師である。 1908年4月1日に台南庁(現台南市)で生まれた。父親の許煥章は、清王朝の学者を務めた。日本統治時代の台湾に生まれた世賢は、幼い頃から植民地主義に反対した。 台南州立高等女学校(現国立台南女子高級中学)を経て、東京女子医科大学に入学した。学生時代は、天皇誕生日を認めることを拒否し、泉漳語を話す人を擁護した。卒業後、台湾に戻り、台南州立台南病院に就職した。
鄭 寅笑(チョン・インソ、朝鮮語: 정인소、1907年11月… 鄭 寅笑(チョン・インソ、朝鮮語: 정인소、1907年11月11日または1908年 - 1977年8月21日または8月27日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の大学教員、政治家。第5代韓国国会議員。本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 ソウルまたは忠北陰城出身。大阪府立中学校、北京外国語専門学校世界語科、九州帝国大学(現・九州大学)法文学部政経科、ピープル大学大学院博士課程修了(文学博士)。若い頃は民族解放運動をしたため、当局の特別高等要視察人とされ、128回も検束投獄に遭った。特に世界語普及および禁酒・禁煙・阿片・公娼・蓄接などの廃止運動で活躍し、私財で愛の世界社、国際禁酒同盟、韓国世界語総連盟を設立し総裁を務めた。
広瀬 正雄(ひろせ まさお、戸籍上では「廣瀨 正雄」、190… 広瀬 正雄(ひろせ まさお、戸籍上では「廣瀨 正雄」、1906年7月3日 - 1980年12月3日)は、日本の政治家。日田市長、衆議院議員(自由民主党所属)。 佐藤内閣郵政大臣。
上林 忠次(かんばやし ちゅうじ、1906年〈明治39年〉2… 上林 忠次(かんばやし ちゅうじ、1906年〈明治39年〉2月11日 - 1968年〈昭和43年〉11月23日)は、昭和期の農業技術者、技官、政治家。参議院議員、日本専売公社理事。 京都府出身。1930年(昭和5年)九州帝国大学農学部を卒業した。 1930年、大蔵省に入省し、専売局たばこ技術課長、同生産課長、日本専売公社生産部長、同理事などを歴任した。 1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、1959年(昭和34年)6月の第5回通常選挙に全国区から自由民主党公認で出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。この間、緑風会政務調査会副会長、自民党政審副会長、参議院建設委員長、第2次池田内閣・通商産業政務次官、国会たばこの会副会長などを務めた。
赤沢 与仁(赤澤 與仁、あかざわ よじん、1905年(明治3… 赤沢 与仁(赤澤 與仁、あかざわ よじん、1905年(明治38年)10月6日 – 1960年(昭和35年)2月13日)は、昭和期の農政家、実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員。 徳島県板野郡大津村吉永(現鳴門市大津町吉永)で、赤沢時太郎、サキの長男として生まれる。1930年(昭和5年)九州帝国大学法文学部法科を卒業した。 1933年(昭和8年)産業組合中央会徳島県支会主事補に就任。その後、徳島県農業会長、全国農業会理事、大津農業協同組合長、徳島県農業協同組合連合会理事、同会長、全国農業協同組合連合会理事、徳島県信用農業協同組合連合会長、農林中央金庫評議員、全国農業共済組合連合会理事、徳島民報社監査役、日本ガイドショップ社長、石岡電機顧問などを務めた。
米田 正文(よねだ まさふみ、1904年8月14日 - 19… 米田 正文(よねだ まさふみ、1904年8月14日 - 1984年6月20日)は、日本の内務及び建設官僚、政治家。参議院議員(3期)。 現在の福岡県田川郡添田町出身。佐賀高等学校理科甲類を経て、1928年(昭和3年) 九州帝国大学工学部土木学科卒業後、内務省入省、内務技師として奉職する。 1933年(昭和8年)8月、満洲国国道局技正(薦任七等)へ採用(この際、内務省は依願退職の形となっている)。満洲国では、時期不明ながら、満洲国国道局技正、奉天省交通庁長を務めており、1940年(康徳7年・昭和15年)9月に安東省公署土木廳から交通部遼河治水調査處に転じていることが確認できる。その後、1941年(康徳8年・昭和16年)までには大東港建設局處長となっており、岸信介、直木倫太郎らの支持の下、事業の推進にあたっている。
我堂 武夫(がどう たけお、1904年〈明治37年〉7月27… 我堂 武夫(がどう たけお、1904年〈明治37年〉7月27日 - 1984年〈昭和59年〉4月15日)は、日本の政治家。大阪府堺市長(第15代)。1976年(昭和51年)、堺市の政令指定都市移行を目標として発表(移行は2006年〈平成18年〉)。行政改革や財政再建と都市再開発を進め「名市長」と呼ばれた。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 堺市出身。大阪府立堺中学校(旧制中学校。現大阪府立三国丘高等学校)、1930年(昭和5年)九州帝国大学(現九州大学)法文学部を卒業。 帝塚山学院講師を経て1936年(昭和11年)堺市役所に入った。堺市の助役などを経て、1972年(昭和47年)10月に浪速医科大学(仮称、不認可)をめぐる詐欺・横領で堺市長(第14代)を辞職した土師半六の出直し選挙に出馬し、第15代の市長に当選した。
柏 正男(かしわ まさお、1903年(明治36年)10月18… 柏 正男(かしわ まさお、1903年(明治36年)10月18日 - 1973年(昭和48年)6月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 青森県で生まれる。1936年、九州帝国大学法文学部法律科を卒業した。 日本社会党に所属して、1958年5月、第28回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。 全国選挙管理委員会委員、中央選挙管理会委員、東京家庭裁判所調停委員、アジア民族親善協会常任理事、日本ベトナム友好協会常任理事、日本中国国交回復国民会議理事、自由人権協会監事などを務めた。 1973年6月4日死去、69歳。死没日をもって勲三等瑞宝章追贈、正五位に叙される。
深川 タマヱ(ふかがわ たまえ、1903年7月26日 -19… 深川 タマヱ(ふかがわ たまえ、1903年7月26日 -1992年12月9日 )は、日本の政治家、参議院議員(2期)。 佐賀県出身。1933年九州帝国大学法文学部経済学科卒業。戦後、新日本婦人党総裁となり、1947年の第1回参議院選挙に東京地方区から(無所属)初当選。2期務めた。のち、民主党に移り、婦人部副部長や参議院民主党副会長などを務め、改進党では都連副会長や婦人部長となり、日本民主党を経て自由民主党に入った。国会では参議院建設委員長や懲罰委員長を務めた。1956年の第4回参議院議員選挙で落選した。 1974年秋の叙勲で勲三等宝冠章受章。 1992年12月9日死去、89歳。死没日をもって従四位に叙される。
三木 行治(みき ゆきはる、1903年 <明治36年> 5月… 三木 行治(みき ゆきはる、1903年 <明治36年> 5月1日 - 1964年 <昭和39年> 9月21日)は、日本の医師、政治家。岡山県知事。位階は正三位。勲二等瑞宝章。水島臨海工業地帯の誘致など岡山県の発展に貢献したことが認められ、日本人で初めてマグサイサイ賞を受賞した。 マグサイサイ賞の受賞金は郷土の発展に役立てたいとの考えから副賞1万米ドル全額が県に寄付され、この受賞金と県民からの寄附金を中心に岡山県三木記念事業基金が1965年に設置された。 また岡山県下にアイバンクを設置して自ら第1号の登録者となったことから、二人の女性に三木の角膜が移植された。 亡くなった時、私財は着ていた服と眼鏡だけだったといわれる。
三ッ井 卯三男(みつい うさお、1903年(明治36年)3月… 三ッ井 卯三男(みつい うさお、1903年(明治36年)3月8日 - 1977年(昭和52年)8月14日)は、日本の政治家。第16代鹿児島市長。位階は正四位。 長野県飯山市出身。東京高等商業学校(現・一橋大学)選科修了、九州帝国大学法文学部卒業。卒業後は長野、山形、福岡の各県の中学教師となる。1938年福岡県庁に入り、社会教育、振興、厚生の各課長を経て、1943年海軍司政官になる。帰国後の1947年福岡県秘書課長から鹿児島県庁に転じ、教育、総務の各部長、副知事を歴任する。 1959年の鹿児島市長選に保守系から立候補したが、元串木野市長で革新系の平瀬實武に敗れて落選した。4年後の1963年の市長選に現職の平瀬に挑戦する形で再び立候補し、前回と同じ保革対決となり、選挙の結果、現職の平瀬を破り当選した。
大島 多蔵(多藏、おおしま たぞう、1903年〈明治36年〉… 大島 多蔵(多藏、おおしま たぞう、1903年〈明治36年〉1月22日 - 1978年〈昭和53年〉5月20日)は、昭和期の教育者、政治家。衆議院議員(2期)。 佐賀県杵島郡、のちの江北村(現江北町)で、大島喜一の二男として生まれる。1929年(昭和4年)九州帝国大学法文学部法律科を卒業した。 佐賀県立鹿島中学校教諭、宮崎県立都城中学校教諭、熊本県中學済々黌教諭、佐賀県立佐賀商船学校教諭、同武雄中学校教諭、同唐津中学校教諭、長崎県立諫早中学校教諭、同対馬中学校教諭などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で佐賀県全県区に無所属で出馬して当選し、1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で佐賀県全県区に国民協同党公認で出馬して再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
孫 永寿(ソン・ヨンス、朝鮮語: 손영수/孫永壽、1902年… 孫 永寿(ソン・ヨンス、朝鮮語: 손영수/孫永壽、1902年8月12日または1905年 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家、実業家。初代河東郡郡守、第4代馬山市長、第4・5代釜山市長、第4代韓国国会議員を歴任した。 慶尚南道釜山出身、本籍地は密陽。東莱高等普通学校、京城法学専門学校、九州帝国大学(現・九州大学)法学部卒。1945年10月24日から1946年2月1日までは初代河東郡守、1947年11月5日から1949年6月20日までは第4代馬山市長、1952年5月8日から1954年7月9日までは第4・5代釜山市長を歴任した。特に4代目市長の在任中の1953年11月27日に発生した釜山大火災により同年12月11日に辞任したものの、その後はまた市長に選ばれ、12月17日より5代目市長となった。
西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990… 西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990年4月3日)は、日本の政治家。鳥取県知事。 鳥取市出身。九州帝国大学法文学部卒。鳥取県経済部開拓第一課長を経て、1947年の第1回鳥取知事選に立候補して初当選。当時は課長から知事への「三段跳び知事」と話題になった。同年11月、鳥取県に昭和天皇の戦後巡幸があり、随行役を務めた。 1952年の鳥取大火の復興に力を尽くした。2期目の1953年に南米への大量移住を唱え、議会を反対を押し切って5ヶ月にわたる南米視察の外遊をめぐってリコール運動に発展し、任期途中で辞職。出直し知事選で3期目を目指したものの落選し、1963年の鳥取市長選にも出馬したがこちらも落選に終わっている。
槇田 献太郎(まきた けんたろう、1902年(明治35年)7… 槇田 献太郎(まきた けんたろう、1902年(明治35年)7月4日 - 1964年(昭和39年)10月)は、日本の政治家。鳴門市長。九州帝国大学法文学部卒業。 1928年(昭和3年)、九州帝国大学法文学部法科を卒業後、南満州鉄道へ入社。 1932年(昭和7年)、満州国国務院総務庁法制局統計処資料課長に起用され、その後、同国官吏として新京特別市財務処長、ハルピン郵政管理局長、国務院総務庁参事兼厚生参事官などを歴任。 戦後は愛媛県松山市共催の愛媛県産業大博覧会事務局長として腕を振るい、1951年(昭和26年)4月26日に徳島県の鳴門市長に就任。 市長退任後は松山市に住み、日刊工業新聞松山市局長を勤めたが、1964年(昭和39年)10月、同地で死去。
三池 信(みいけ まこと、1901年1月12日 – 1988… 三池 信(みいけ まこと、1901年1月12日 – 1988年2月20日)は、昭和期の政治家。郵政大臣。 佐賀県神埼郡三田川村(現・吉野ヶ里町)に、三池鉄一の長男として生まれる。佐賀高等学校理科甲類を経て、1926年九州帝国大学工学部電気科を卒業、京浜電力株式会社に入社する。奈川渡発電所(信州)所長を経て、理化学研究所特殊製鉄株式会社に移り常務取締役となる。終戦は同社羅興(現・北朝鮮咸鏡南道)工場長として朝鮮半島で迎えた。 1949年、第24回衆議院議員総選挙に吉田茂率いる民主自由党から佐賀県全県区で立候補し当選する(当選同期に池田勇人・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二など)。
太田 典礼(おおた てんれい(旧名:武夫)、1900年10月… 太田 典礼(おおた てんれい(旧名:武夫)、1900年10月7日 - 1985年12月5日)は、日本の産婦人科医、政治家。元衆議院議員(当選1回)。九州帝国大学医学部卒業。京都帝国大学大学院産婦人科専攻(大正15年)修了。産児制限と安楽死を説き、子宮内避妊器具の草分けのひとつである「太田リング」を考案した。優生保護法の制定に尽力。日本安楽死協会(のち日本尊厳死協会と改称)を設立。 京都府与謝郡生まれ。代々産科医で、典禮の名が受け継がれており、武夫は八代目典禮を1942年に襲名した。京都府立第四中学校(現京都府立宮津高等学校)を卒業した後に、第三高等学校を卒業する。九州帝国大学医学部を卒業後に医師になる。
韓 巌回(ハン・アムェ、朝鮮語: 한암회/韓巖回、1900年… 韓 巌回(ハン・アムェ、朝鮮語: 한암회/韓巖回、1900年7月17日 - 1975年5月25日)は、日本統治時代の朝鮮のジャーナリスト、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。本貫は清州韓氏。 韓 厳回(ハン・オムェ、한엄회/韓嚴回)の表記もある。1960年代以降の報道では韓 邯錫または韓 甘錫(ハン・ガムソク、한감석)と紹介されていた。 ソウル市鐘路出身。養正高等普通学校、九州帝国大学農学部卒。日本統治時代は満州国および中華民国で活動しており、南満州農村天一農場農村振興会連合会理事、日大学院院長、上海中華日報社河南省支社長を務めた。1942年、蒋介石の統治区域で新聞の輸送をした際に日本兵に逮捕され、北京の日本軍の監獄で4か月間服役した。
三宅 徳三郎(みやけ とくさぶろう、1899年(明治32年)… 三宅 徳三郎(みやけ とくさぶろう、1899年(明治32年)12月3日 - 1982年(昭和57年)4月10日)は、日本の外科医、政治家。医学博士。 高松市長(在任1期)。 香川県三豊郡荘内村(現 三豊市詫間町)出身。地主の三男として生まれる。 旧制香川県立三豊中学校、旧制第四高等学校を経て、九州帝国大学医学部卒業。 三豊中学時代から第四高等学校、九州帝国大学と野球選手で通し、投手や一塁手で活躍、その間柔道、剣道、テニス、乗馬、弓術も行った。 1926年(大正15年)3月、九州帝国大学医学部卒業後、外科医局に4年間在局、三宅速教授、赤岩八郎教授の指導を受ける。1930年(昭和5年)5月、岩手医学専門学校教授ならびに青森県立病院外科部長に就任。
榊原 亨(さかきばら とおる、1899年〈明治32年〉11月… 榊原 亨(さかきばら とおる、1899年〈明治32年〉11月3日 - 1992年〈平成4年〉1月27日)は、大正末から昭和期の医学者、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)、医学博士。心臓外科の創始者。 福井県福井市宝永上町生まれ。幕臣榊原職直の後裔である。開業医の長男として生まれる。第四高等学校を経て、1925年(大正14年)九州帝国大学医学部を卒業した。 金沢医科大学(現金沢大学)に赴任し副手、助手を歴任。泉伍朗教授の元で脾臓手術を行い認められる。1928年(昭和3年)泉教授と共に岡山医科大学(現岡山大学医学部)に赴任し講師に就任し、1929年(昭和4年)助教授となる。収縮性心包炎の手術に成功して名を知られた。