信夫 清三郎(しのぶ せいざぶろう、1909年4月8日 - … 信夫 清三郎(しのぶ せいざぶろう、1909年4月8日 - 1992年10月10日)は、日本の政治学者・歴史学者。日本政治学会理事長。名古屋大学名誉教授。 外交官で国際法学者の信夫淳平の三男として、父の任地である韓国の仁川で生まれる。信夫韓一郎(新聞記者、元朝日新聞社代表取締役専務)は兄。1934年、九州帝国大学を卒業し、マルクス主義的な立場から在野で日本近代史の研究を行う。唯物論研究会に所属し、1938年には治安維持法違反容疑で、特別高等警察に逮捕されたこともある。 1943年9月に出版した『ラッフルズ――イギリス近代的植民政策の形成と東洋社会』(日本評論社)は、発売一週間で内務省により敵国のイギリスを褒めているという理由で発売禁止の処分を受けた。
滝沢 克己(たきざわ かつみ、1909年3月8日 - 198… 滝沢 克己(たきざわ かつみ、1909年3月8日 - 1984年6月26日、正字では「瀧澤」)は、日本の哲学者、キリスト教神学者。号は「等石」。 1909年、栃木県宇都宮市に生まれた。小・中学と1年飛び級で卒業。九州帝国大学法文学部哲学科で学び、1931年に卒業した。ドイツに渡ってボン大学にてカール・バルトに師事。 帰国後、山口高等商業学校教授となった。その後、母校である九州帝国大学助教授に就任。1949年より九州大学文学部哲学科教授。1969年からは文学部長を務めた。大学闘争では全共闘の学生を支持して大学を批判、1970年に辞職した。海外では、ハイデルベルク大学、マインツ大学ほかで客員教授を務めた。
大塚 幸男(おおつか ゆきお、1909年2月18日 - 19… 大塚 幸男(おおつか ゆきお、1909年2月18日 - 1992年9月9日)は、日本のフランス文学者、比較文学者。福岡大学名誉教授。 佐賀県佐賀市生まれ。1933年九州帝国大学仏文科卒、1957年パリに遊学。のち福岡大学教授。アナトール・フランスなど近代フランス文学専攻、比較文学会でも活躍し、著書・翻訳は多数ある。 漫画家の小林よしのりは教え子の一人。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
金 三純(キム・サムスン、朝鮮語: 김삼순、1909年2月3… 金 三純(キム・サムスン、朝鮮語: 김삼순、1909年2月3日 - 2001年12月11日)は、大韓民国の生物学者。韓国最初の女性農学博士で、特に菌類学の分野ではヒラタケの韓国国内での人工栽培の実現など多くの業績があり、著書に『韓国産キノコ図鑑』がある。 号は声至。3人の兄弟(金洪鏞、金汶鏞、金星鏞(朝鮮語版))と夫の姜世馨はいずれも国会議員を務めた。政治家の李会昌は妹と李弘圭(朝鮮語版)の息子である。 金海金氏の7人きょうだいの上から4番目の三女として大韓帝国全羅南道潭陽郡昌平面に生まれた。1929年、京畿高等女学校卒業。1933年3月、東京女子高等師範学校理科選科修了。のち東京女子高等師範学校研究科を経て、1941年4月、北海道帝国大学理学部植物学科入学。
太田 清之助(おおた せいのすけ、1909年(明治42年)1… 太田 清之助(おおた せいのすけ、1909年(明治42年)1月19日 - 1989年(平成元年)2月26日)は、日本の実業家。元・博多大丸会長。元・大日本麦酒技師。 第一徴兵保険(後の東邦生命保険)社長、衆議院議員、貴族院議員などを務めた四代目太田清蔵の四男。東邦生命保険社長五代目太田清蔵の弟。元・自民党衆議院議員太田誠一、ホテル日航福岡社長太田輝幸の実父。妻・俊子は商工大臣、農林大臣、大蔵大臣など歴任した櫻内幸雄の三女。 福岡県福岡市出身。旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1933年に九州帝国大学農学部農芸化学科を卒業。大日本麦酒に入り1938年、兵役。1946年香椎農園、1949年日東食品を各経営。
黄 鍾律(ファン・ジョンニュル / ジョンユル、朝鮮語: 황… 黄 鍾律(ファン・ジョンニュル / ジョンユル、朝鮮語: 황종율 / 황종률、1909年 - 1972年1月21日)は、満洲国および大韓民国の官僚、政治家。第8代国会議員。カトリック教徒。 1909年に漢城府で誕生。日本の内地に留学し、中央大学予科を経て、1935年九州帝国大学法文学部法科を卒業。満州国大同学院を経て、同国の官吏となった。満洲国経済部金融司において金融事務官を務め、経済分野に注力した。 第二次世界大戦終戦で満州国が消滅すると、朝鮮半島の軍政庁地域に戻った。1945年から延禧専門学校(現延世大学校)教授をしばらく務めた後、在日本公館長(1947年)、外資購買処長(1952年)、外資管理局長(1952年)、東国大学校法政大学教授(1959年)、忠清北道知事(1960年-1961年)を歴任。
大村 武彦(おおむら たけひこ、1908年12月19日 - … 大村 武彦(おおむら たけひこ、1908年12月19日 - 1994年8月23日)は、日本の銀行家。西日本相互銀行社長、会長を務めた。福岡県出身。位階は正五位。 1936年に九州帝国大学法科を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行。 1947年3月に福岡税務署で勤務し、1948年3月に熊本財務局理財局長を経て、1952年2月に西日本相互銀行に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務、1971年5月に専務を経て、1973年7月に社長に就任。1982年10月に会長に就任し、1984年6月に名誉会長を経て、1986年6月に常任相談役に就任。 1975年9月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等瑞宝章を受章。
岡田 武彦(おかだ たけひこ、1908年(明治41年)11月… 岡田 武彦(おかだ たけひこ、1908年(明治41年)11月22日 - 2004年(平成16年)10月17日)は、日本の哲学者・著述家。 兵庫県飾磨郡白浜村字中村(白浜町を経て、現在の姫路市白浜町)で生まれる。姫路高等学校を経て、1934年(昭和9年)九州帝国大学法文学部支那哲学史専攻(当時)を卒業した。富山県立神通中学校(現在の富山県立富山中部高等学校)教諭を務め、1938年(昭和13年)に宮崎県立延岡中学校(現在の宮崎県立延岡高等学校)教諭、1939年(昭和14年)に福岡県立中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)教諭を務めた。1943年(昭和18年)に長崎師範専門学校(現在の長崎大学教育学部)教諭、1945年(昭和20年)に熊本陸軍幼年学校教官、1946年(昭和21年)に福岡県立修猷館高等学校教諭を務めた。
鏡山 猛(かがみやま たけし、1908年 <明治41年> 1… 鏡山 猛(かがみやま たけし、1908年 <明治41年> 10月20日 - 1984年 <昭和59年> 10月24日)は、日本の考古学者。位階は正五位。 福岡県浮羽郡田主丸町(現・久留米市)生まれ。1932年九州帝国大学法文学部史学科卒。1934年九州帝大法文学部助手、1936年講師。その後兵役につき、1946年公職追放、1951年解除。1952年九州大学文学部助教授を経て、1958年九州大学考古学講座初代教授。1972年に定年退官、名誉教授、太宰府に新設の九州歴史資料館の館長に就任、約10年間務めた。1965年レジオン・ドヌール勲章、1972年西日本文化賞受賞、1980年勲三等瑞宝章受勲。1984年死去。
玉置 明善(たまき あきよし、1908年〈明治41年〉8月8… 玉置 明善(たまき あきよし、1908年〈明治41年〉8月8日 - 1981年〈昭和56年〉6月2日)は、昭和時代の実業家。 清の大連にて玉置準三の長男として生まれる。本籍は佐賀県。旧制佐賀高等学校、1930年に九州帝国大学工学部応用化学科を卒業。同年、三菱合資会社に入社。翌年1931年、三菱石油(現 JXTGエネルギー)に移る。1946年に工事部長、1948年に同社工事部が分離独立して千代田化工建設が発足すると常務取締役となる。1957年11月、初代社長の大久保繁雄に代わり社長に就任。1970年会長兼務。 安全工学協会(現: 特定非営利活動法人安全工学会)の第2代会長(1967年-1978年)や、化学工学協会(現: 公益社団法人化学工学会)の第16代会長(1967年-1969年)、日本プラントメンテナンス協会の初代会長(1981年)を務めた。
許 世賢(シュー・シーシェン、きょ せけん、1908年4月1… 許 世賢(シュー・シーシェン、きょ せけん、1908年4月1日 – 1983年6月30日)は台湾の政治家・医師である。台湾で初めて博士号を取得した女性であり、台湾で最初の女性市長、女性市議会議員、女性高等学校長でもある。また、日本で3人目の女性医師である。 1908年4月1日に台南庁(現台南市)で生まれた。父親の許煥章は、清王朝の学者を務めた。日本統治時代の台湾に生まれた世賢は、幼い頃から植民地主義に反対した。 台南州立高等女学校(現国立台南女子高級中学)を経て、東京女子医科大学に入学した。学生時代は、天皇誕生日を認めることを拒否し、泉漳語を話す人を擁護した。卒業後、台湾に戻り、台南州立台南病院に就職した。
三宅 貞祥(みやけ さだよし : 1908年(明治41年)3… 三宅 貞祥(みやけ さだよし : 1908年(明治41年)3月23日 - 1998年(平成10年)9月30日)は、昭和・平成期の日本の動物学者。農学博士。十脚目、特に異尾類の分類で功績を残した。九州大学名誉教授、日本甲殻類学会会長。 日本甲殻類学会設立時のメンバーの一人であり会長も務めるなど、甲殻類研究の発展に寄与した。 1908年(明治41年)3月23日、香川県小豆島に生まれ、1920年(大正9年)に岡山県へ移った。1931年(昭和6年)に岡山市の旧制第六高等学校を卒業し、九州帝国大学(現 : 九州大学)農学部に入学した。指導教官の大島広は棘皮動物研究者であったが、三宅の最初の論文はカクレガニの幼生についてのものであった。
高橋 浩之(たかはし ひろゆき、1908年3月2日 - 19… 高橋 浩之(たかはし ひろゆき、1908年3月2日 - 1962年1月23日)は、日本の農林省官僚、農林技官。コシヒカリ生みの親。 広島県高田郡川根村(現在の安芸高田市)出身。旧制三次中学(現在の三次高校)、旧制広島高校卒業。三代続いた医者の息子で、医者になることを望まれたが解剖を嫌い九州大学農学部に進み育種学を専攻。中学時代は落第もしたが大学時代の成績は優秀で、1935年卒業時には九大からただ一人推薦されて農林省農事試験場に採用された。農林技官として関東東山農業試験場(現在の埼玉県鴻巣市)に赴任し小麦の品種改良などを研究。5年後の1940年、新潟県農事試験場に転勤し水稲新品種育成試験地の主任となる。
安松 京三(やすまつ けいぞう、1908年(明治41年)3月… 安松 京三(やすまつ けいぞう、1908年(明治41年)3月1日 - 1983年(昭和58年)1月25日)は、日本の昆虫学者。九州大学名誉教授。日本における天敵による害虫防除の草分け。
里井 達三良(さとい たつさぶろう、1908年(明治41年)… 里井 達三良(さとい たつさぶろう、1908年(明治41年)2月21日 - 1998年(平成10年)12月21日)は、昭和期の経営者である。 大阪府泉佐野市出身。九州大学経済学部卒業。大阪商工会議所の勤務を経て、関西国際空港ビルディング株式会社社長、大阪商工会議所副会頭など歴任し、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会、1974年(昭和49年)には中国展覧会の運営に中枢的役割を果たす。 また、インターグループ株式会社設立時の顧問、大阪ロータリークラブ会長、文楽協会の評議員、大阪府「なにわ塾」創始時の委員など、多くの文化団体の役員や委員として大阪の文化の振興発展に精力的に活躍する。1984年(昭和59年)、大阪文化賞を受賞。
鄭 寅笑(チョン・インソ、朝鮮語: 정인소、1907年11月… 鄭 寅笑(チョン・インソ、朝鮮語: 정인소、1907年11月11日または1908年 - 1977年8月21日または8月27日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の大学教員、政治家。第5代韓国国会議員。本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 ソウルまたは忠北陰城出身。大阪府立中学校、北京外国語専門学校世界語科、九州帝国大学(現・九州大学)法文学部政経科、ピープル大学大学院博士課程修了(文学博士)。若い頃は民族解放運動をしたため、当局の特別高等要視察人とされ、128回も検束投獄に遭った。特に世界語普及および禁酒・禁煙・阿片・公娼・蓄接などの廃止運動で活躍し、私財で愛の世界社、国際禁酒同盟、韓国世界語総連盟を設立し総裁を務めた。
真鍋 信喜(まなべ のぶき(「のぶよし」との記載もあり)、1… 真鍋 信喜(まなべ のぶき(「のぶよし」との記載もあり)、1907年11月3日 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者。 真鍋盛太郎の二男として福岡市に生まれる。1925年福岡県立中学修猷館を経て、1937年3月九州帝国大学法文学部を卒業(法学士)。 卒業後、満洲国通信社に入社。戦後、1948年信濃毎日新聞に論説委員として入社し、1956年編集副主幹を経て、1962年取締役に選任され、1970年論説主幹に就任する。1976年退社。 その後、長野県教育委員長などを務めた。
水野 高明(みずの たかあき、1907年 <明治40年> 8… 水野 高明(みずの たかあき、1907年 <明治40年> 8月21日 - 1996年 <平成8年> 2月12日)は、日本の土木工学者。九州大学総長や、日本コンクリート工学協会会長を務めた。位階は正三位。 福岡県出身。1930年九州帝国大学工学部土木工学科卒業。1935年内務省技師。1938年九州帝国大学助教授。1943年九州帝国大学教授。1948年九州大学工学博士。1967年九州大学総長。1969年九州大学名誉教授。1978年から1993年まで攻玉社工科短期大学学長。1984年日本コンクリート工学協会会長。間組顧問なども務めた。昭和52年度土木学会功績賞受賞。1981年、勲二等旭日重光章を受章。
千眼 智見(せんがん ちけん、1907年(明治40年)7月9… 千眼 智見(せんがん ちけん、1907年(明治40年)7月9日 - 2001年(平成13年)12月2日)は、日本の哲学者。元徳島県農業大学校校長。元高野山大学教授。元徳島女子大学教授。九州帝国大学法学部卒業。徳島県美馬市出身。 美馬郡脇町(現在の美馬市)生まれ。九州帝国大学法学部卒業。高野山大学教授・徳島女子大学教授・高野山高等学校校長・徳島県立池田中学校校長・徳島県立穴吹高等学校校長・徳島県立脇町高等学校校長・徳島県立城北高等学校校長を歴任。 1969年(昭和44年)より徳島県農業大学校校長に就任。徳島文理小学校名誉校長に就任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山屋 三郎(やまや さぶろう、1907年7月7日 - 198… 山屋 三郎(やまや さぶろう、1907年7月7日 - 1982年9月11日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。法政大学名誉教授。 福岡県生まれ。九州帝国大学英文科卒。戦後、法政大学教授を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
勝木 司馬之助(かつき しばのすけ、1907年6月30日 -… 勝木 司馬之助(かつき しばのすけ、1907年6月30日 - 1993年4月20日)は、日本の医師。熊本大学教授、九州大学教授、宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)初代学長を務めた。脳血管障害のコホート研究である久山町研究を始めた。長男は分子生物学者の勝木元也。 若い時は、脳橋と呼吸調節中枢や、熊本大学時代は、間脳の臨床を行ったが、九州大学の教授になってから、福岡県糟屋郡久山町における脳血管障害の疫学的研究を始めた。1961年春から全教室員協力のもとに40歳以上の男女全住民を対象として循環器検診から開始した。その際、死亡者の解剖を重視し、1963年以降は剖検率は90%以上を維持、対象者全員を全員追跡するという徹底した疫学的調査が行われた。
樋口 謙太郎(ひぐち けんたろう、1907年5月14日 - … 樋口 謙太郎(ひぐち けんたろう、1907年5月14日 - 1994年3月8日)は、日本の医学者、皮膚科医。久留米大学、九州大学、福岡大学で皮膚科の教授を務め、多くの弟子を育てた。 エッセイストとしても知られている。教科書を多数著した。専門は真菌学、梅毒などである。
藤見 敬譲(ふじみ けいじょう、1907年3月20日 - 1… 藤見 敬譲(ふじみ けいじょう、1907年3月20日 - 1982年12月9日)は、日本の経営者。明治乳業社長を務めた。 山口県出身。1930年に九州帝国大学農学部農芸化学科を卒業。明治製菓での勤務を経て、1937年に明治乳業に転じ、1959年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1977年6月に社長に就任した。 1982年12月9日、肝臓癌のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
由水 政次(よしみず まさじ、1907年3月10日 - 20… 由水 政次(よしみず まさじ、1907年3月10日 - 2004年10月24日)は、日本の経営者。北越製紙社長を務めた。 石川県出身。1931年に九州帝国大学法科を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。1958年5月に取締役に就任し、1960年6月には北越製紙専務に就任し、1972年6月に副社長を経て、同年12月には社長に就任した。1977年7月に会長を経て、1981年6月には相談役に退いた。 2004年10月24日、老衰のために死去。97歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)1… 山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)12月15日 - 2000年(平成12年)3月23日)は、日本の詩人・文芸評論家・翻訳家。 教師であった父茂次郎、母いまの第5子として、赴任先の鳥取県鳥取市に生まれる。兄に中部日本新聞社社長となった山室次郎、九州大学教授・中国哲学者の山室三良がいる。母も断続的に教師として勤務していた。7歳から父母の郷里である長野県北佐久郡岩村田町(現佐久市)で育ち、旧制野沢中学(現在の長野県野沢北高等学校)卒業後、代用教員などを務め) 1927年に岩波書店に入社、東洋大学夜間部、日本大学夜間部に通い、1930年に労働争議により岩波書店を退社、アンドリュウス商会に勤めたが、1937年に同社の解散により失業している。
田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 199… 田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 1998年5月17日)は、日本の教育者、哲学者。山口大学第2代目学長。同大名誉教授。文学博士(1944年、九州大学にて取得)。雅号は周陽。 1906年山口県防府市の生まれ。旧制山口高等学校を経て、1930年九州帝国大学哲学科を卒業。1938年に広島高等学校教授兼九州帝国大学助教授、1944年より九州帝国大学専任となる。1952年より山口大学文理学部西洋哲学科教授。1944年8月、九州大学にて、「プラトンとアリストテレス」で文学博士。1958年山口大学第2代目学長に就任(1962年まで)。同大名誉教授、1970年より山口女子大学(現・山口県立大学)学長・名誉教授。
中田 正一(なかた しょういち、1906年(明治39年)10… 中田 正一(なかた しょういち、1906年(明治39年)10月28日 - 1991年(平成3年)10月27日)はNGOである「風の学校」の創設者。農学博士。東京医科歯科大学名誉教授の中田修は実弟。 千葉県などで、伝承される古式の井戸掘り技術である「上総掘り」を中心に、風車や揚水技術などの生活基盤の整備技術と農業技術を学ぶための学校である。適正技術といって発展途上国の物資のない状況でもすぐに活用できる技術に重きを置いた。卒業生は100名を超え、その卒業生は、培った技術を発展途上国の現地の人々だけでなく、日本の国際協力を志す後輩にも伝え、その育成にも努めている。
初島 住彦(はつしま すみひこ、1906年9月11日 - 2… 初島 住彦(はつしま すみひこ、1906年9月11日 - 2008年1月22日)は、日本の植物学者。鹿児島大学名誉教授。農学博士。 1906年、長崎県島原市に生まれた。鹿児島高等農林学校卒業後、九州帝国大学(現:九州大学)に進学。戦前に金平亮三とニューギニアやジャワ島の植物調査を実施した。1931年、農学部林学科卒業。 1942年に九州帝国大学で農学博士の学位を取得。学位論文は「亜細亜産黄楊属の検討」。 戦後は鹿児島大学で教鞭をとり、佐藤正己などを指導した。1972年の定年まで同大に勤務後、琉球大学理工学部(現理学部)へ教授として3年間赴任。その後も南日本の植物研究と教育に尽力した。 2008年1月22日、胆管癌のため鹿児島市の病院で死去。
花澤 武夫(はなざわ たけお、1906年〈明治39年〉8月1… 花澤 武夫(はなざわ たけお、1906年〈明治39年〉8月16日 - 1987年〈昭和62年〉3月5日)は、日本の内務・厚生官僚。位階は従四位。中高年齢者福祉協会(現:中高年齢者雇用福祉協会)理事長、船員保険会常務理事、厚生省保険院保険局年金課長などを歴任した。勲三等瑞宝章受章者。 花澤徳蔵の長男として東京府に生まれる。1927年(昭和5年)東京外国語学校を経て、1928年(昭和3年)高等試験行政科に合格。1930年(昭和5年)九州帝国大学法文学部卒業後、保険院社会局に入る。戦時色強まる1940年(昭和15年)の秋、厚生年金(当時は労働者年金保険)の創設を発表した。労働者年金は1942年(昭和17年)に創設し、2年後に厚生年金と名称を変えた。
広瀬 正雄(ひろせ まさお、戸籍上では「廣瀨 正雄」、190… 広瀬 正雄(ひろせ まさお、戸籍上では「廣瀨 正雄」、1906年7月3日 - 1980年12月3日)は、日本の政治家。日田市長、衆議院議員(自由民主党所属)。 佐藤内閣郵政大臣。
安 東赫(アン・ドンヒョク、朝鮮語: 안동혁、1906年3月… 安 東赫(アン・ドンヒョク、朝鮮語: 안동혁、1906年3月11日 - 2004年10月14日)は、大韓民国の化学者。本貫は順興安氏。日本名は安東 赫。 1906年(光武10年)3月14日、京畿道高陽市に生まれた。徽文高等普通学校を経て、1926年、京城高等工業学校卒業。1929年、九州帝国大学工学部(現在の九州大学工学部)を卒業した後、京城工業専門学校の教師として赴任した。 1933年には教鞭を取り、中央試験所化学工業部に旗手業務も兼任した。京城工業と中央試験所を行き来しながら化学工学の講義と研究にまい進し、専門の油脂工業分野で6つの特許を取り、約10本の論文を発表した。大韓化学会、大韓窯業総協会、韓国食品科学会会長を歴任し、学術活動にも大きく貢献し、学術院の初代会員や副会長を経て、韓国科学会理事会の1、2代理事長など、様々な学会の会長を歴任し、大韓民国の化学共同学術活動の基礎を固めた。
古賀 進(こが すすむ、1906年2月21日 - 1996年… 古賀 進(こが すすむ、1906年2月21日 - 1996年9月22日)は、日本の経営者。住友セメント(現在の住友大阪セメント)社長、会長を務めた福岡県出身。 1930年に九州帝国大学工学部採鉱学科を卒業し、同年に住友石炭鉱業に入社。1950年3月に取締役に就任し、1956年3月に常務、1960年8月に専務を経て、1963年5月に磐城セメント(のちの住友セメント)副社長に就任し、1970年4月には社長に昇格。1974年5月に会長、1978年6月に取締役相談役を経て、1980年6月に相談役に就任。 1996年9月22日脳梗塞のために死去。90歳没。
上林 忠次(かんばやし ちゅうじ、1906年〈明治39年〉2… 上林 忠次(かんばやし ちゅうじ、1906年〈明治39年〉2月11日 - 1968年〈昭和43年〉11月23日)は、昭和期の農業技術者、技官、政治家。参議院議員、日本専売公社理事。 京都府出身。1930年(昭和5年)九州帝国大学農学部を卒業した。 1930年、大蔵省に入省し、専売局たばこ技術課長、同生産課長、日本専売公社生産部長、同理事などを歴任した。 1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、1959年(昭和34年)6月の第5回通常選挙に全国区から自由民主党公認で出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。この間、緑風会政務調査会副会長、自民党政審副会長、参議院建設委員長、第2次池田内閣・通商産業政務次官、国会たばこの会副会長などを務めた。
堀内 仁(ほりうち まさし、1906年2月5日 - 1988… 堀内 仁(ほりうち まさし、1906年2月5日 - 1988年5月30日)は、日本の弁護士、法学者。 福岡県出身。1928年九州帝国大学法学部卒。弁護士、日本勧業銀行、第一勧業銀行調査部顧問を経て、大東文化大学法学部教授。1976年定年、その後非常勤講師。金融法務が専門。
具島 兼三郎(ぐしま かねさぶろう、1905年11月5日 -… 具島 兼三郎(ぐしま かねさぶろう、1905年11月5日 - 2004年11月12日)は、日本の国際政治学者。 1905年福岡生まれ。1928年に九州帝国大学法文学部を卒業後、1935年に『ファシズム論』を唯物論全書の一冊として共著で刊行した。 その後、南満州鉄道に入り、調査部で各種調査に従事。独ソ戦序盤、ナチスドイツが圧倒する戦局の中、石油供給量の緻密な分析を通して、ドイツ不利の予測を立てた。そこでの研究内容は軍部に批判的とされ、満鉄調査部事件で逮捕された。 戦後は九州大学教授や長崎大学学長、長崎総合科学大学長崎平和文化研究所所長などをつとめた。
赤沢 与仁(赤澤 與仁、あかざわ よじん、1905年(明治3… 赤沢 与仁(赤澤 與仁、あかざわ よじん、1905年(明治38年)10月6日 – 1960年(昭和35年)2月13日)は、昭和期の農政家、実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員。 徳島県板野郡大津村吉永(現鳴門市大津町吉永)で、赤沢時太郎、サキの長男として生まれる。1930年(昭和5年)九州帝国大学法文学部法科を卒業した。 1933年(昭和8年)産業組合中央会徳島県支会主事補に就任。その後、徳島県農業会長、全国農業会理事、大津農業協同組合長、徳島県農業協同組合連合会理事、同会長、全国農業協同組合連合会理事、徳島県信用農業協同組合連合会長、農林中央金庫評議員、全国農業共済組合連合会理事、徳島民報社監査役、日本ガイドショップ社長、石岡電機顧問などを務めた。
天児 民和(あまこ たみかず、1905年8月31日 - 19… 天児 民和(あまこ たみかず、1905年8月31日 - 1995年4月6日)は、日本の整形外科医。九州大学名誉教授。 先祖は「滝根」と称していたが、明治三年の氏姓制度で「天児」姓を名乗る。「天児」は「あまがつ」と読み、『源氏物語』若菜にもみえる、災難を除くため祓に用いられた子供の人形のこと。しかし「あまがつ」と正確に読んでくれる人がいないため、呼びやすく「あまこ」にしたと伝え聞いている、という。 神戸市出身。1926年九州帝国大学医学部入学、1930年卒業、1931年同整形外科教室入局、神中正一教授に師事。1936年ドイツ留学(ライプッチヒ大学整形外科学教室)、同年開催のベルリンオリンピックの嘱託医師などを務め、1936年医学博士、九州大学助教授、軍医をへて、1945年新潟医科大学教授、1949年新潟大学医学部付属病院長。
松田 ふみ子(まつだ ふみこ、1905年3月19日 - 没年… 松田 ふみ子(まつだ ふみこ、1905年3月19日 - 没年不明)は、日本の女性ジャーナリスト。奈良県出身。梅花女子専門学校(梅花女子大学の前身)から、九州帝国大学文学部に進み、1930年に卒業。1937年、中央公論社に入社し、『婦人公論』の編集を担当。1944年、毎日新聞社に移り、『サンデー毎日』の記者として活躍。1961年、退社。1966年 - 1975年、労働省婦人少年局審議会委員。1980年 - 1993年、エリザベス・サンダースホーム理事長。
竹重 貞蔵(たけしげ ていぞう、1905年3月-1997年8… 竹重 貞蔵(たけしげ ていぞう、1905年3月-1997年8月5日)は、日本の都市計画家。土地区画整理技術者。 戦後広島の戦災復興都市計画立案、また1955年発足した日本住宅公団の初期事業に携わる。 福岡県旧甘木町(現朝倉市)生まれ。 17歳から胸を病み青年壮年期30年間大半を病床に送っていたというが、著書の土地区画整理用語辞典を編纂したのは80歳の時である。 広島県時代は後に市長となった浜井信三助役が1946年当時に原爆ドーム周辺を公園用地に指定した。このため県都市計画課長だった竹重は独断で取り壊し中止を決定し国からの解体予算危険建造物整理事業補助を返上。残すかどうかの決定を先送りにした。また公園の都市計画決定の際、世界平和復興を「記念」する公園として制定した。
藤田 武夫(ふじだ たけお、1905年2月27日 - 198… 藤田 武夫(ふじだ たけお、1905年2月27日 - 1988年10月6日)は、昭和期の経済学者、立教大学名誉教授。専門は財政学。財政学研究の第一人者として、地方財政論を開拓した権威。 1905年(明治38年)、京都府宮津市に生まれる。1930(昭和5年)九州帝国大学(現・九州大学)経済学部卒業。1934年(昭和9年)京都大学大学院修了。 立命館大学講師、財団法人東京市政調査会(現・後藤・安田記念東京都市研究所)調査課長、明治大学講師、中央大学講師を務めたのち、1946年(昭和21年)、立教大学教授に就任。 1952年(昭和27年)、立教大学経済学部経済学科長に就任。1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)まで経済学部長を務め、大学施設の増築にともない大学院読書室の開設を実現し、経営学科(現・経営学部)関連のスタッフの充実に尽力した。
白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 19… 白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 1981年11月10日)は、元軍人、マスコミ学者。 旧制山口高等学校を経て、九州帝国大学文学部哲学科卒。師範学校で教育学を教え、1937年応召、陸軍中尉として1941年『戦陣訓』を草す。戦後は日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の創設期に調査部長、のち東京造形大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
浜 正雄(はま まさお、1905年1月30日 - 没年不詳)… 浜 正雄(はま まさお、1905年1月30日 - 没年不詳)は、日本の実業家。 浜磯之助の長男として福岡県早良郡鳥飼村(現・福岡市)に生まれる。日本学士院会員の医学者浜清は実弟。1922年福岡県立中学修猷館、1925年3月旧制福岡高等学校文科甲類を経て、1928年3月九州帝国大学法文学部を卒業。 1928年3月徴兵により佐世保重砲兵大隊に1年間入隊。1931年4月外務省文化事業部補給生として中国に留学し北京大学、清華大学、東亜同文書院などで現代中国の研究を行う。 1934年4月南満洲鉄道(満鉄)に入社し、対中国要員として満鉄調査部に配属される。青島事務所を経て、1936年4月北京事務所へ異動し、同年12月中国における満鉄の権益拡大をコントロールする機構である、大連本社の総裁室東亜課に勤務。
大隅 芳雄(おおすみ よしお、1905年(明治38年)1月2… 大隅 芳雄(おおすみ よしお、1905年(明治38年)1月24日 - 1987年(昭和62年)6月7日)は、日本の鉱山学者。九州大学名誉教授。岳父は日本史学者で九州大学名誉教授の長沼賢海。長男は日本史学者で東京女子大学名誉教授の大隅和雄、二男は生物学者でノーベル賞受賞者の大隅良典。孫は歴史学者の大隅清陽。 1905年、広島県広島市生まれ。旧制広島高師附属中学、旧制山口高等学校を経て、1929年に東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業。 大学卒業後は九州帝国大学講師に採用。助教授を経て、1943年に教授昇進。1961年より工学部長を務めた。 趣味は刀剣。宗教は真宗。 九州帝国大学に勤務し、福岡県福岡市大字香椎に居住していた。
高 宗武(こう そうぶ、1905年 - 1994年)は、中華… 高 宗武(こう そうぶ、1905年 - 1994年)は、中華民国の外交官。日中戦争の和平派であり、のちハノイに脱出した汪兆銘と行動を共にしたが、汪兆銘政府樹立直前に日本側の条件があまりにも過酷である事を批判して汪兆銘と訣別した。 1928年、渡日して九州帝国大学法学部に入学、政治学を専攻。その後東京帝国大学へ学士入学。1932年、中国に帰国。『中央日報』紙に書いた「五・一五事件」についての論文が注目され、まもなく蔣介石のブレーンの一人となった。1934年、28歳の若さにして国民党政府の亜州司長(日本の「外務省アジア局長」に相当)に就任。 盧溝橋事件の際に、高宗武は和平交渉中に日高信六郎と会見をしている。
清水 盛光(しみず もりみつ、1904年12月25日 - 1… 清水 盛光(しみず もりみつ、1904年12月25日 - 1999年1月16日)は、日本の社会学者。 愛知県渥美郡田原町出身。本籍・広島県。1931年九州帝国大学法文学部哲学科卒。九大助手を経て満鉄調査部に勤務し、「支那社会の研究」を発表。京都帝国大学人文科学研究所助教授、1949年京都大学人文科学研究所教授、58年「支那家族の構造」で京都大学文学博士。68年定年退官、名誉教授、関西大学教授、1974年松山商科大学教授、1977年駒澤大学教授。中国の社会関係の研究を行った。
川上 米男(かわかみ よねお、1904年11月29日 - 1… 川上 米男(かわかみ よねお、1904年11月29日 - 1990年2月25日)は、日本の実業家、技術者である。長府製作所の実質的創業者であり、同社の社長と会長を歴任した。 1904年に福岡県久留米市に生まれる。第七高等学校(旧制)を経て、1928年3月九州帝国大学農学部を卒業する。 卒業後、農林省に入省し、農業試験場で農機具の試験などを行った。1946年山口県農業会長府工場の製造部長に就任する。8カ月ほどで見切りをつけたが、1949年山口県経済連(旧山口農業会)長府工場の再建を依頼され工場長として復帰し、以降実質的な経営者となる。 1954年長府工場が「株式会社長府製作所」へ改組後、専務取締役に就任する。
森 清治(もり せいじ、1904年8月25日 - 1975年… 森 清治(もり せいじ、1904年8月25日 - 1975年5月29日)は、日本の経営者。 佐賀県出身。1929年に九州帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に小野田セメントに入社。1955年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1966年5月には社長に就任。1973年10月には会長に就任。 1974年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1975年5月29日肝臓腫瘍のために死去。70歳没。
米田 正文(よねだ まさふみ、1904年8月14日 - 19… 米田 正文(よねだ まさふみ、1904年8月14日 - 1984年6月20日)は、日本の内務及び建設官僚、政治家。参議院議員(3期)。 現在の福岡県田川郡添田町出身。佐賀高等学校理科甲類を経て、1928年(昭和3年) 九州帝国大学工学部土木学科卒業後、内務省入省、内務技師として奉職する。 1933年(昭和8年)8月、満洲国国道局技正(薦任七等)へ採用(この際、内務省は依願退職の形となっている)。満洲国では、時期不明ながら、満洲国国道局技正、奉天省交通庁長を務めており、1940年(康徳7年・昭和15年)9月に安東省公署土木廳から交通部遼河治水調査處に転じていることが確認できる。その後、1941年(康徳8年・昭和16年)までには大東港建設局處長となっており、岸信介、直木倫太郎らの支持の下、事業の推進にあたっている。
我堂 武夫(がどう たけお、1904年〈明治37年〉7月27… 我堂 武夫(がどう たけお、1904年〈明治37年〉7月27日 - 1984年〈昭和59年〉4月15日)は、日本の政治家。大阪府堺市長(第15代)。1976年(昭和51年)、堺市の政令指定都市移行を目標として発表(移行は2006年〈平成18年〉)。行政改革や財政再建と都市再開発を進め「名市長」と呼ばれた。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 堺市出身。大阪府立堺中学校(旧制中学校。現大阪府立三国丘高等学校)、1930年(昭和5年)九州帝国大学(現九州大学)法文学部を卒業。 帝塚山学院講師を経て1936年(昭和11年)堺市役所に入った。堺市の助役などを経て、1972年(昭和47年)10月に浪速医科大学(仮称、不認可)をめぐる詐欺・横領で堺市長(第14代)を辞職した土師半六の出直し選挙に出馬し、第15代の市長に当選した。
大浜晧 / 大濱晧(おおはま あきら、1904年7月22日ー… 大浜晧 / 大濱晧(おおはま あきら、1904年7月22日ー1987年12月20日)は、日本の中国哲学者。 1904年(明治37)沖縄県石垣市登野城生まれ。実姉に『八重山生活誌』の著者である宮城文がいる。 1934年(昭和9)九州帝国大学法文学部支那哲学科卒業、1939年(昭和14)東京帝国大学大学院満期退学。1941年(昭和16)台北帝国大学予科教授となり、敗戦により内地に帰還。1947年(昭和22)東京帝国大学文学部副手着任、1948年(昭和23)11月名古屋大学文学部助教授、1949年(昭和24)同大学教授昇格。1957年(昭和32)文学博士学位授与、1968年(昭和43)定年退官、名古屋大学名誉教授となる。