五所 平之助(ごしょ へいのすけ、1902年1月24日または… 五所 平之助(ごしょ へいのすけ、1902年1月24日または2月1日 - 1981年5月1日)は、日本の映画監督、脚本家、俳人。日本最初の国産トーキー映画『マダムと女房』の監督として有名である。本名は五所 平右衛門(ごしょ へいえもん)。俳号は五所亭。 東京市神田区鍋町(現・千代田区内神田3丁目)に、「豊前屋」という大店の乾物問屋を営む父・平助の妾腹の子として生まれる。生みの母は新富町で芸者をしていた。5歳の時に長男が亡くなり、母のもとを離れて後継ぎにされた。1916年に慶應義塾商工学校に入学する。学生時代には俳句に没頭していた。 1921年、歩兵第1連隊に志願入隊し、見習士官で予備となる。1923年、慶應義塾商工学校卒業後、城戸四郎との出会いがきっかけで、父の友人の息子である島津保次郎の口添えもあって、松竹蒲田撮影所へ入社する。
英 修道(はなぶさ ながみち、1902年1月17日 - 19… 英 修道(はなぶさ ながみち、1902年1月17日 - 1994年9月9日)は、日本の国際政治学者。学位は、法学博士(東京帝国大学・1945年)(学位論文「中華民国に於ける列国の条約権益」)。慶應義塾大学名誉教授。1975年勲三等旭日中綬章受章。 東京生まれ。1926年慶應義塾大学法学部卒業。1945年「中華民国に於ける列国の条約権益」で東京帝国大学より法学博士の学位を取得。慶應義塾大学法学部助教授、教授、1968年定年、名誉教授。1968-1972年日本国際政治学会理事長。1975年勲三等旭日中綬章受勲。 長男は医学博士の英清道(慶應義塾大学医学部卒)。次男は外交官の英正道(慶應義塾大学経済学部卒)。
松原 秀治(まつばら ひでじ、1902年 - 1984年12… 松原 秀治(まつばら ひでじ、1902年 - 1984年12月)は、日本の外交官、言語学者。 慶應義塾大学卒業、外務省に勤務し、翻訳課で仏訳などを手がけるうちに、冠詞研究を深めていった。三宅徳嘉によれば、その業績は日本人の仏語研究としてフランス本国で高い評価を得た最初のものであるという。以後も外務省勤務の傍ら仏語研究や著述を続けた。 コンゴ代理大使などを経て、退官後は白百合女子大学教授。 1929年から32年までパリ、リヨン、グルノーブルに留学・勤務した。グルノーブル大学(フランス語版、英語版)に留学中、フランス文学者松原秀一が生まれている。青柳瑞穂の友人。娘は小山七々子の名で著作活動をしている。
辻 葦夫(つじ あしお、1902年(明治35年) - 198… 辻 葦夫(つじ あしお、1902年(明治35年) - 1980年(昭和55年)11月13日)は、日本の洋画家。「葦夫」は筆名で、本名は芳雄。 山梨県甲府市に生まれる。山梨県立甲府中学校(山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、上京して慶應義塾大学に入学する。大学時代から油絵をはじめ、1929年(昭和4年)には福沢一郎に師事する。翌年には地元で米倉壽仁らとシュルレアリスム絵画グループである「六人社」を結成する。また、1937年(昭和12年)に設立された山梨美術協会の結成にも参加し、1941年(昭和16年)・翌42年(昭和17年)には副委員長を務める。 1944年(昭和19年)には独立美術協会で《秋》、《静物》が入選し、同年にはサロン・ド・ジュワン会員となる。
横山 武夫(よこやま たけお、1901年12月15日 - 1… 横山 武夫(よこやま たけお、1901年12月15日 - 1989年8月22日)は昭和時代日本の歌人、作詞家。元青森県副知事、青森県立図書館館長。 1901年(明治34年)、青森市で日本鉄道(のち鉄道院→鉄道省を経て国鉄)職員の家庭に生まれる。1915年(大正6年)に有志で短歌誌『樹焔』を創刊し若山牧水、太田水穂らの寄稿・指導を受けた。旧制青森中学校を経て1924年(大正13年)に慶應義塾大学経済学部を卒業。青森へ帰郷後、県内の旧制中学校各校で教員を務める傍ら1928年(昭和3年)に短歌誌『羅漢柏』(アスナロ)を創刊、自ら主宰する。 1946年(昭和21年)に旧制青森中学校校長を退職後、県教育次長を経て津島文治知事に請われ、副知事に就任する。
浜崎 真二(はまざき しんじ、1901年12月10日 - 1… 浜崎 真二(はまざき しんじ、1901年12月10日 - 1981年5月6日)は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 現役時代は阪急ブレーブスに在籍。選手兼任監督として日本プロ野球史上最高齢公式戦出場記録を2014年9月5日に山本昌(中日)に破られるまで、64年間にわたり保持していた。また、身長は150cmから160cmまでいくつかの説があり、日本プロ野球史上最も背の低い選手とされることがある。 実弟・浜崎忠治も鶴岡一人らと広島商業で高校野球夏春連覇したときの選手(投手・内野手)で、その後審判として平和台事件の球審を務め、歴史的判断を下したことでも知られる。 呉海軍工廠で働く人達が家を建てた呉市西の山の手・三津田の生まれ。
三浦 岱栄(みうら たいえい、1901年12月3日 - 19… 三浦 岱栄(みうら たいえい、1901年12月3日 - 1995年3月14日)は、日本の精神科医師。慶應義塾大学医学部教授。杏林大学医学部教授。 フランス精神医学の研究、多くの精神科医師を育成した。小此木啓吾の慶應義塾大学医学部の指導教官。 杏林大学が創立される時に、精神科病院を母体として建学されたことから、初代の精神神経科教室の主任教授に招聘された。 新潟県長岡市に生まれる。旧制新潟県立長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)卒業。 1925年(大正14年)、慶應義塾大学医学部を卒業。学生時代にはカトリックに入信。敬虔な信者であり、その後もカトリック医師会をはじめ、この領域で指導的役割を果たした。
藤原 守胤(ふじわら もりたね、1901年10月11日 - … 藤原 守胤(ふじわら もりたね、1901年10月11日 - 1977年12月14日)は、日本のアメリカ史学者。慶應義塾大学名誉教授。日本初の女性弁護士の一人である久米愛は実妹。 福岡県福岡市生まれ。1925年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。翌年からイギリス、フランスに留学し、1927-1930年ハーバード大学大学院に在籍。1942年立教大学アメリカ研究所常務理事、1945年所長。1949年立教大学教授。1950年「アメリカ建国史論」で東京大学法学博士。1951年慶應義塾大学法学部教授。1958年同大学理事を務め、1964年義塾賞受賞。1970年退職、名誉教授。その後は京都外国語大学教授を務めた。
村野 四郎(むらの しろう、1901年〈明治34年〉10月7… 村野 四郎(むらの しろう、1901年〈明治34年〉10月7日 - 1975年〈昭和50年〉3月2日)は、日本の詩人。日本現代詩人会会長。理研コンツェルン役員。長男はセイコー株式会社代表取締役社長を務めた村野晃一。 東京北多摩郡多磨村に生まれた。父、兄たちが、それぞれ俳句や短歌を作るという文学的環境に育った。慶大理財科を卒業したが、詩への情熱は強く、1926年に第1詩集『罠』を刊行。ドイツ近代詩の影響を受け、モダニストの立場を鮮明にした。 頭で考えるのではなく、実際の物に即して考えるという新即物主義にもとづいた『体操詩集』は、人間存在と社会と宇宙の関係をとらえた画期的な詩集。戦後は独自の歩みをつづけ、「不在の神への近接」という実存的な詩境に達した。
浅野均一(あさの きんいち、1901年〈明治34年〉10月5… 浅野均一(あさの きんいち、1901年〈明治34年〉10月5日 - 1984年〈昭和59年〉12月13日)は、日本の医師、陸上競技指導者、スポーツ行政官。昭和期の日本陸上界を牽引し、国際復帰にも尽力した。荻窪病院理事長、日本陸上競技連盟名誉会長、日本オリンピック委員会(JOC)委員を歴任。医学博士。 1901年、東京市四谷区(現・東京都新宿区)に生まれる。慶應義塾大学医学部を1926年(大正15年)に卒業し、同大学にて医学博士号を取得。後に慶應義塾大学体育研究所教授を務め、退任後は名誉教授に就任した。 大学在学中から陸上競技(短距離)選手としても活動し、1923年(大正12年)の第6回極東選手権競技大会(マニラ)にて1600メートルリレー優勝メンバーとして国際大会で活躍した。
大江 良太郎(おおえ りょうたろう、1901年9月26日 -… 大江 良太郎(おおえ りょうたろう、1901年9月26日 - 1974年4月14日)は、日本の演劇評論家、演出家。 秋田県出身。慶応義塾大学在学中に劇作家や演出活動を行っていた小山内薫の指導を受けて演劇研究会を結成。1926年(大正15年)に卒業した後は松坂屋宣伝部に勤めながら演劇評論を発表。新派、新劇、文学座などの演出を行っていた久保田万太郎に師事し、1932年(昭和7年)には築地座結成に参加して文芸部に入った。 1939年(昭和14年)、築地小劇場が株式組織化した際には、新協劇団、新築地劇団関係者らとともに発起人となった。一方、同年からは新派との関りを深め、戦後の一時期には新国劇の文芸部に籍をおいたものの、長きにわたり新派を中心に演出活動を行った。
青木 岩雄(あおき いわお、1901年9月3日 - 1939… 青木 岩雄(あおき いわお、1901年9月3日 - 1939年5月2日)は、兵庫県神戸市出身の男子テニス選手。慶應義塾大学卒業。1920年代から1930年代前半にかけて、日本男子テニス界を代表した選手の1人であったが、腸閉塞症のため37歳で急死した。主な成績は、1924年の第3回全日本テニス選手権男子ダブルス優勝、1932年のウィンブルドン選手権男子シングルス4回戦進出などがある。彼は三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)に勤務し、1930年7月から1935年3月まで銀行のロンドン支店にいたことから、イギリス開催のテニストーナメント、とりわけウィンブルドン選手権で優れた戦績を出した。青木のテニスは、フォアハンド・ストロークに多少の弱点はあったが、バックハンド・ストローク、ボレー、スマッシュのいずれにもダブルスの分野で力を発揮し、とりわけロビングの技術に優れていた。
高橋 信三(たかはし しんぞう、1901年〈明治34年〉8月… 高橋 信三(たかはし しんぞう、1901年〈明治34年〉8月13日 - 1980年〈昭和55年〉1月19日)は、毎日放送(MBS、現・MBSメディアホールディングス)元代表取締役社長・会長、東京12チャンネル(TX、現・テレビ東京)元取締役。東京都出身。民間放送の創始者の一人。 慶應義塾大学経済学部卒業後、1926年(大正15年)[元号要検証]に大阪時事新報社に入社、1928年(昭和3年)毎日新聞社に移り、副主筆などをつとめた後1950年(昭和25年)にMBSの前身である新日本放送(NJB)設立に参加し、常務取締役に就任した。 MBSの設立・開局の中心人物として知られる。同局は毎日新聞系とされているが、実際には毎日新聞を依願退職した高橋が個人のコネクションをフルに活用し尽力して開局に漕ぎ着けたものであり、毎日新聞自体は余り積極的に支援しなかった。
田村 道美(たむら みちよし、1901年8月4日 - 199… 田村 道美(たむら みちよし、1901年8月4日 - 1990年代)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。戦前の無声映画時代に活躍し、当時の人気女優の入江たか子と結婚した。長女はおなじく女優の入江若葉である。 1901年8月4日、東京市京橋区新富町(現中央区新富)に生まれる。祖父の田村成義は、「田村将軍」の異名を持つ歌舞伎興行の大御所であった。 慶應義塾大学経済学部を卒業後、1931年、30歳にして京都の日活太秦撮影所に入社、同年11月13日公開の村田実監督の無声映画『白い姉 前篇』でデビューした。翌1932年、三枝源次郎監督の『海に散る花』では早くも主役の座を獲得する。 同年、当時人気絶頂、新興キネマと提携し映画製作会社「入江ぷろだくしょん」を設立したばかりの入江たか子(1911年 - 1995年)と交際、自らの人気を考え籍を入れず別居結婚とする。
藤岡 信吾(ふじおか しんご、1901年 <明治34年> 6… 藤岡 信吾(ふじおか しんご、1901年 <明治34年> 6月27日 - 1977年 <昭和52年> 9月3日)は、日本の経営者。三菱石油社長を務めた。位階は正四位。 茨城県出身。1925年に慶應義塾大学法学部を卒業し、同年に三菱商事に入社。1949年6月に三菱石油に転じ、195年11月に取締役に就任し、1955年11月に常務を経て、1961年5月には社長に就任。1973年5月に会長に就任し、1974年5月には取締役相談役に退いた。1965年5月には石油連盟会長に就任。 1963年11月に藍綬褒章を受章し、1971年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1977年9月3日腎盂腎炎のために死去。76歳没。
潮田 江次(うしおだ こうじ、1901年(明治34年)6月9… 潮田 江次(うしおだ こうじ、1901年(明治34年)6月9日 - 1969年(昭和44年)5月9日)は日本の政治学者。慶應義塾創立者福澤諭吉の孫で慶應義塾長、日本政治学会初代理事、第3代理事長を歴任。「政治概念論争」の口火をきったことで知られる。 1901年(明治34年)東京で、芝浦製作所技師・潮田伝五郎の次男として生まれる。福澤諭吉の五女光を母とする。つまり、福澤の孫にあたる。 慶應義塾幼稚舎から普通部を経て、1922年(大正11年)3月法学部政治学科第2学年を修了したのち、アメリカのコーネル大学に留学し、1923年(大正12年)7月帰国、1924年(大正13年)4月から法学部で教鞭をとった。
原島 進(はらじま すすむ、1901年5月17日 - 197… 原島 進(はらじま すすむ、1901年5月17日 - 1972年7月27日)は、日本の衛生学者。 東京出身。1926年慶應義塾大学医学部卒。1930年「麻醉の本態に関する研究」で医学博士。慶大助手、講師、1932年米国に渡り、1935年ジョンズ・ホプキンズ大学卒、帰国して慶大助教授、1946年教授。1967年定年、名誉教授、桃山学院大学教授。WHO専門委員、中央公害審議会委員、HLO労働衛生専門委員、厚生省生活環境審議会公害部会長を務めた。工業中毒、環境生理学、社会医学を研究した。
宮下 正美(みやした まさみ、1901年5月15日 - 19… 宮下 正美(みやした まさみ、1901年5月15日 - 1982年12月17日)は、日本の教育評論家、児童文学作家。男性。 長野県下伊那郡市田村(現高森町)生まれ。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、慶應義塾大学文学部心理学科卒。同幼稚舎教師を経て、戦後は小原國芳の湘南学園設立に参加し初代園長、杉野女子大学短期大学部教授。 自ら児童読物を多く書いたほか、教育指南書を著し、旧文部省の「幼稚園指導要綱」作成委員なども歴任した。 子に演劇評論家・「朝日ジャーナル」編集長の宮下展夫、ドイツ文学者・慶應義塾大学名誉教授の宮下啓三。
原 実(はら みのる、1901年(明治34年)4月29日 -… 原 実(はら みのる、1901年(明治34年)4月29日 - ?)は、日本の市民運動家。 鎌倉市の自然保護をめぐる市民運動の先駆者の一人で、その活動は古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法、いわゆる古都保存法の成立に結実した。全国歴史的風土保存連盟(以下「全風連」)の初代事務局長、同名誉会長を歴任。神奈川文化賞を受賞。 父は日本鉄道、鉄道院に勤務した原勇。父は沼津、母は会津出身である。幼時は各地を転々としたが、母方の実家から会津中学に通学し、1919年(大正8年)に卒業。慶應義塾に進学し、小泉信三に師事した。卒業後慶應義塾大学学生局、鉄道院図書館に勤務し、ロバート・モリソン・マキーバー(英語版)の『共同社会・結社・国家』を訳説したほか、『青年のために – 勉学について』を著す。
龍胆寺 雄(りゅうたんじ ゆう、1901年4月27日 - 1… 龍胆寺 雄(りゅうたんじ ゆう、1901年4月27日 - 1992年6月3日)は茨城県出身の作家、サボテン研究家。龍膽寺雄とも表記。 千葉県印旛郡佐倉町(現在の佐倉市)味噌部屋生まれ。茨城県真壁郡下妻町(現在の下妻市)育ち。本名は橋詰雄(はしづめ ゆう)。父橋詰孝一郎は長塚節の親友で、雄の出生当時は千葉県立佐倉中学校の国語教師だった。母の兄の連れ合いは松原姓で、その実兄にジャーナリストの松原二十三階堂がいる。 生後まもなく、父の転任に伴って下妻に移住。1918年、茨城県立下妻中学校卒業。第二高等学校 (旧制)を受験したが失敗し、その翌年、水戸高等学校 (旧制)受験の途次、急性の結核性頸部淋巴腺腫に倒れて受験を断念し、東京の順天堂医院に入院。
小高 泰雄(こだか やすお、1901年3月25日 - 196… 小高 泰雄(こだか やすお、1901年3月25日 - 1969年8月18日)は、日本の経営学者、会計学者。 神奈川県横浜市生まれ。1928年慶應義塾大学経済学部卒、1929年同助手となり、欧米留学を経て1937年助教授、1939年教授、1948年「企業に於ける資本計算制度の発展」で経済学博士の学位を取得。1963年商学部長。1969年定年となり、名誉教授。
黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3… 黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3月4日 - 1975年(昭和50年))は、日本の実業家。東京急行電鉄専務のほか、東横映画、東京映画配給、東急自動車、東京トヨタディーゼル社長などを務めた。広島県賀茂郡西条町(現・東広島市)出身。 岡田茂は実家の四軒隣で、医師の息子だった黒川は、旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て1926年(大正15年)、慶應義塾大学経済科卒業。 東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)に入社し同社開発、電燈各課長、東京急行電鉄事業部長、殖産局次長、取締役、専務を歴任。根っこからの野人、バケツの底が抜けたような大酒くらいで大風呂敷。お固い電鉄会社では型破りな人物で五島慶太に可愛がられた。
加宮 貴一(かみや きいち、1901年2月27日 - 198… 加宮 貴一(かみや きいち、1901年2月27日 - 1986年6月23日)は、日本の小説家。岡山県生まれ。慶應義塾大学英文科卒。1924年、川端康成らの『文藝時代』同人となる。戦後は文京区議会議員、おいらく山岳会会長などを務めた。墓所は小平霊園。
清水 雅(しみず まさし、1901年(明治34年)2月12日… 清水 雅(しみず まさし、1901年(明治34年)2月12日 - 1994年(平成6年)12月24日)は、昭和中期から平成期の実業家。小林一三に長年仕え、阪急の大番頭と呼ばれた。阪急電鉄より1947年に分社独立した後の阪急百貨店(現在のエイチ・ツー・オー リテイリング)初代社長であり、のちには阪急百貨店会長、阪急電鉄会長を歴任した。東宝社長・会長も歴任、東宝中興の祖と呼ばれた。 1901年(明治34年)、実業家・清水栄次郎の次男として大阪府大阪市阿倍野区に生まれる。清水家は砂糖商や鉱山業、銀行業などで財を成した戦前の地方財閥で、父の栄次郎も慶應義塾に学んだ後、材木業などで巨利を得た大阪財界人として知られる存在である。
宮本 延人(みやもと のぶひと、1901年2月8日 - 19… 宮本 延人(みやもと のぶひと、1901年2月8日 - 1988年7月12日)は、日本の民俗学者。 1901年、長野県上田市に生まれる。9歳の時に家族とともに東京に移り住んだ。1928年に慶應義塾大学文学部史学科卒業後、台湾に渡り、台北帝国大学で民俗学の講師をしながら台湾原住民の研究を行い、現在の台湾原住民に関する学問的基礎を築いた。1943年、京城帝国大学に転任し、人文科学研究所の助教授に就任した。 戦後は中華民国政府に請われて台湾に残り、台湾大学の教授を務めた。1948年に日本に帰国。その後は東海大学教授として文学部長など要職を歴任した。1972年に退官し、1975年に名誉教授となった。1988年に死去した。
宇佐美 洵(うさみ まこと、1901年〈明治34年〉2月5日… 宇佐美 洵(うさみ まこと、1901年〈明治34年〉2月5日 - 1983年〈昭和58年〉2月19日)は、日本の銀行家。三菱銀行頭取、全国銀行協会会長を経て、第21代日本銀行総裁を務めた。 東京市芝三田小山町に生まれる。市谷小学校に入学して1年後、父の勝夫が富山県知事に就任したことから、一家は富山に越し、2年間をすごした。その後、父が韓国統監府参事官に転任することになったため、父のみが京城に赴任し、母子は東京に戻った。だが、母・よしが急死し、父は母の姉・みつを後添に迎えることになったため、祖父・池田成章に連れられ、みつと子どもたちは朝鮮に渡った。 京城中学校を経て1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業。
木村 禧八郎(きむら きはちろう、1901年2月2日 - 1… 木村 禧八郎(きむら きはちろう、1901年2月2日 - 1975年5月13日)は、日本の政治家、経済評論家。日本社会党参議院議員。野党随一の財政政策通として知られて、特にインフレーション抑止政策を一貫して主張した。 東京の呉服商の家に生まれた。少年時代から勉強好きで知られ、1924年、慶應義塾大学経済学部を卒業する。同年時事新報に入社し、経済記者として活躍する。その後、毎日新聞、エコノミストを経て、戦後は北海道新聞に移り論説委員長を務める。記者時代からインフレーションに強い関心を持ち、1939年、岩波書店から『インフレーション』を出す。 1947年、第1回参議院議員通常選挙に社会党公認で全国区から立候補し当選する。
北村 小松(きたむら こまつ、1901年(明治34年)1月4… 北村 小松(きたむら こまつ、1901年(明治34年)1月4日 - 1964年(昭和39年)4月27日)は、日本の劇作家、小説家、脚本家。 青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)生まれ。八戸中学校を経て慶應義塾大学英文科卒。在学中から小山内薫に師事して劇作を学び、卒業後に松竹キネマ蒲田研究所に入社。松竹の『マダムと女房』(1931年)など多くの映画シナリオを書く。戦後はユーモア小説作家に転じた。『人物のゐる街の風景』(1926年)が初期代表作で、初期は左翼文学にも手を染めたが、戦時下は戦争協力小説を多く書き、スパイものを編纂した。ほか翻訳がある。終戦後の1948年(昭和23年)に公職追放を受けて活動停止追放処分となる(1950年(昭和25年)に解除)。
殷 体新(いん たいしん、1901年または1902年 – 1… 殷 体新(いん たいしん、1901年または1902年 – 1939年3月23日)は、中華民国の政治家。冀東防共自治政府に参与した人物で、政務長官・殷汝耕の甥である。 日本に留学し、慶応義塾大学経済学部を卒業。 1935年(民国24年)11月24日、冀東防共自治委員会が成立した。この際に殷体新は、委員長・殷汝耕の下にある8委員の1人となった。翌月に冀東防共自治政府へ改組されると、殷体新は参政の地位に移る。1936年(民国25年)4月に秘書長兼外交処長・池宗墨が満洲国との修好使節として新京に向かった際には、殷体新も同行している。 同年夏、自治政府実業庁が建設庁から分離されると、殷体新が実業庁長に任命された。
細江 静男(ほそえ しずお、1901年(明治34年) - 1… 細江 静男(ほそえ しずお、1901年(明治34年) - 1975年(昭和50年)8月29日)は、日本の医師。戦前から戦後にかけて、ブラジルの地域医療のためにつくし「ブラジルのシュバイツァー」「アマゾン先生」「道庵先生」と呼ばれていた。 明治34年(1901年)、岐阜県益田郡中原村和佐(現:下呂市和佐)に生まれる。19歳の時に上京。慶應義塾大学医学部卒。1930年(昭和5年)、3年の任期の予定で外務省の嘱託医としてブラジルに派遣される。当初2年ほどはサンパウロ州バストスで診療を行なっていたが、アマゾン川流域の日系人開拓地の医師不足を痛感し、そのままブラジルに残る決意をする。バストスとその周辺の無医村地帯の巡回診療にも力を注ぎ、アマゾン奥地まで治療に赴いた。
菅沼 貞三(すがぬま ていぞう、1900年12月11日 - … 菅沼 貞三(すがぬま ていぞう、1900年12月11日 - 1993年2月20日)は、日本美術史学者。 静岡県小笠郡菊川町(現・菊川市)生まれ。慶應義塾大学卒。1946年慶大助教授、1960年「渡辺崋山 近世日本画家の研究」で慶大文学博士。1962年教授。崋山、池大雅など、近世文人画を研究。1966年定年退任。常葉美術館館長、のち名誉館長。
藤林 敬三(ふじばやし けいぞう、1900年11月8日 - … 藤林 敬三(ふじばやし けいぞう、1900年11月8日 - 1962年9月15日)は、日本の経済学者。専門は労働経済論。 大阪市南区出身。1926年慶應義塾大学経済学部を卒業、経済学部助手に就任。1929年11月~32年2月の間に慶應義塾派遣留学生としてドイツ(ベルリン大学・ライプツィヒ大学)・フランス・イギリス・アメリカに留学し、心理学・産業心理学を学ぶ。1932年慶大経済学部助教授、1934年教授。1937年11月~39年8月の期間、看護兵として中支各地の病院に勤務した。1945年「労働者政策ト労働科学ニ就イテ」で慶大経済学博士を取得。その後も労働経済論・経済心理学を研究し、1959年には慶應義塾大学産業研究所初代所長に就任する。
大谷 贇雄(おおたに よしお、1900年11月2日 - 19… 大谷 贇雄(おおたに よしお、1900年11月2日 - 1970年12月23日)は、日本の政治家。名古屋市会議員(2期)、参議院議員(3期)。愛知県教育委員長(初代)、農林政務次官、参議院懲罰委員会委員長などを歴任した。位階勲等は従三位勲二等。 明治33年(1900年)11月2日、学校法人桜花学園の創立者である大渓専の長男として、鹿児島県に生まれる。鹿児島市出身。2歳になるまでを鹿児島、姫路にて過ごした後に、父の郷里である愛知県幡豆郡横須賀村(後の吉良町、西尾市)で育つ。大正8年(1919年)3月に旧制尾張中学校(現・名古屋大谷高等学校)を卒業した。 大正14年(1925年)3月に慶應義塾大学文学部を卒業すると、桜花高等女学校(現・桜花学園高等学校)で教鞭をとった。
宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 19… 宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 1971年4月28日)は、日本の画家、医師。 愛知県名古屋市出身。重陽の節句(9月9日)に生まれたので 重雄と名付けられた。愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に進学後、慶應義塾大学医学部入学。上京後は勉学と並行して学内に絵画部ジュヌ・パントル[仏語で若い画家の意]を創立、1923年には第1回春陽会に出品、見事入選を果たし、医師と画家、両立の道へと進んでいく。1925年同大学卒業。1928年 - 1930年パリ・パスツール研究所に留学し、医療に従事するかわたら洋画家梅原龍三郎に師事。春陽会、国画会に所属。1934年慶應義塾大学医学博士。
中村 一策(なかむら いっさく、1900年(明治33年)10… 中村 一策(なかむら いっさく、1900年(明治33年)10月30日 - 1966年(昭和41年)12月22日)は、日本の銀行家。日本勧業銀行頭取、第21代全国銀行協会会長。 長野県東筑摩郡朝日村に中村愛治の長男として生まれる。 旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、慶應義塾大学経済学部を卒業。1925年日本勧業銀行入行。 1955年監査役に就任。常務、副頭取を経て、1961年に頭取に就任する。 頭取時代は、特殊銀行から普通銀行に転換する多難な時期にあたり、積極的な経営を展開、特に預金の吸収に力を入れて業績を伸ばし、「預金の神様」と言われた。また、金融界に対しては利子課税、融資ルールなどの問題に対処して功績があった。
岡野 敏成(おかの としなり、1900年〈明治33年〉10月… 岡野 敏成(おかの としなり、1900年〈明治33年〉10月25日 - 1974年〈昭和49年〉9月6日)はよみうりテレビ代表取締役最高顧問。東京都出身。 1924年3月、慶応義塾大学を卒業と同時に大阪毎日新聞に入社。その後、時事新報、国民新聞と転々し、1934年に読売新聞に移籍。1949年、同社の取締役審議室長を務める。1963年5月によみうりテレビに移籍し専務取締役となる。1970年7月に同社の代表取締役社長に就任。1972年5月に最高顧問に退く。 1974年9月6日午後0時半、消化管出血のため、兵庫県芦屋市大原町11-5の伊藤外科病院で死亡(享年73歳)。
神田 俊二(かんだ しゅんじ、1900年10月25日 - 1… 神田 俊二(かんだ しゅんじ、1900年10月25日 - 1940年代)は、日本の俳優、元実業家である。本名同じ。短期間ではあるが、日活太秦撮影所に所属していた二枚目俳優である。 1900年(明治33年)10月25日、東京府東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区)に神田鐳蔵の庶子として生まれる。鐳蔵は紅葉屋商会、神田銀行(1927年倒産)を経営していた財界の大物であった。 暁星小学校を経て慶応義塾大学に入学するが、1923年(大正12年)に中退し、父が経営する紅葉屋商会の社員となる。1926年(大正15年)、特作映画社が製作した映画『我は海の子』(『吾は海の子』)で主演に抜擢されていたが、資金難で小笠原プロダクションに引き継がれ、主演も原田龍次(後の原田譲治、1904年 - 没年不詳)に変更された為、念願だった俳優になれずじまいであった。
中司 清(なかつかさ きよし、1900年10月21日 - 1… 中司 清(なかつかさ きよし、1900年10月21日 - 1990年5月1日)は、日本の実業家。鐘淵化学工業(現:カネカ)元社長、会長。山形県山形市出身。 1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、鐘淵紡績に入社した。満州の新京出張所所長などを歴任し、1944年からは取締役、常務を務め、1947年から副社長を務めた。 1949年6月に鐘淵紡績から分離発足した鐘淵化学工業の初代社長に就任し、塩化ビニールをいち早く企業化し、アクリル系合繊「カネカロン」の開発などにより、同社を日本有数の総合化学企業に育て上げた。社長在任中の1968年にカネミ油症事件が起きた。1969年5月に会長を務め、1974年11月に取締役相談役を経て、1978年6月から相談役名誉会長を務めた。
金子 秀三(かねこ ひでぞう、1900年9月14日 - 19… 金子 秀三(かねこ ひでぞう、1900年9月14日 - 1980年9月21日)は、日本の実業家である。RKB毎日放送の社長・会長を務めた。熊本県熊本市出身。 1924年、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。同年に毎日新聞社に入社し、大連支局長、天津支局長、北京支局長、西部本社論説委員などを歴任した。 1951年6月にラジオ九州設立と同時に代表取締役代表に就任した。専務、副社長を経て、1961年11月に社長に就任し、1969年11月に会長に就任し、1971年11月に相談役に就任した。日本民間放送連盟で理事、副会長、顧問を務めた。1965年に藍綬褒章を受章し、1970年に勲二等瑞宝章を受章した。著書に「音波から映像へ」、「私の飲み食い放談」などがある。
三井 高陽(みつい たかはる、1900年(明治33年)7月1… 三井 高陽(みつい たかはる、1900年(明治33年)7月10日 - 1983年(昭和58年)5月19日)は、日本の華族。爵位は男爵。三井財閥の創業者一族である三井十一家のうち南家の10代目当主。 1900年(明治33年)、三井南家の跡取り息子として東京府に生まれる。 1922年(大正11年)、慶應義塾大学部理財科・慶應義塾大学院を修了した後、三井鉱山に入社。ドイツに留学し、経済史、交通史などを修得して帰国した。慶應義塾や逓信省の付属研究所で講師をつとめた後、三井物産や三井鉱山の取締役、三井船舶の初代社長などを歴任した。 父の死去に伴い1937年(昭和12年)2月1日に男爵を襲爵した。また郵趣家でもあり、とりわけ軍事郵便の研究者として、『世界軍事郵便概要』(増井幸雄と共著、国際交通文化協会、1939年)など切手に関する著作を書いた。
阿部 金剛(あべ こんごう、1900年6月26日 - 196… 阿部 金剛(あべ こんごう、1900年6月26日 - 1968年11月20日)は、日本の洋画家。 岩手県盛岡市出身。父は内務省官僚で、東京府知事でもあった阿部浩。東京府立第一中学校を経て、慶應義塾大学文学部予科中退。在学中から岡田三郎助に師事し、1926年渡仏。1929年東郷青児と共に油絵展覧会を開催。同年二科会展に初入選した。以後もメキシコやアメリカにて創作活動に励む。二科会会員。 超現実主義(シュルレアリスム)的な作品で脚光を浴び、また萩原朔太郎の「詩人の運命」の装丁もした。 1930年三宅艶子との結婚も当時の新聞紙上を賑わした。娘はエッセイストの三宅菊子、息子は彫刻家の阿部鷲丸。1968年11月20日、心筋梗塞のため東京逓信病院で死去。
柳 満珠雄(やなぎ ますお、1900年6月22日 - 198… 柳 満珠雄(やなぎ ますお、1900年6月22日 - 1983年6月25日)は、日本の銀行家である。三井銀行(現・三井住友銀行)の社長を務め、全国銀行協会連合会会長、日本ポルトガル協会初代会長を歴任した。 柳満珠雄は1900年6月22日、東京府(現在の東京都)に生まれた。父親は、三井家再興および三井銀行の基礎を築いた三井財閥の重鎮・柳荘太郎である。満珠雄は慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業した。 大学卒業と同年の1923年、三井銀行に入行した。同行では、ニューヨーク支店長や大阪支店長などを務めた。戦後は1958年に副社長に就任し、翌1959年には佐藤喜一郎の後を継ぎ、三井銀行の社長に就任した。
野呂 栄太郎(のろ えいたろう、旧字体: 野呂 榮太郞、19… 野呂 栄太郎(のろ えいたろう、旧字体: 野呂 榮太郞、1900年〈明治33年〉4月30日 - 1934年〈昭和9年〉2月19日)は、日本の在野のマルクス経済学者で、戦前の非合法政党時代の日本共産党の理論的指導者の一人であるとともに、幹部(委員長)として党を指導するなど、実践活動にも関わった。 北海道長沼町に生まれ育ち、旧制北海中学(現北海高等学校)から慶應義塾大学部理財科(現在の経済学部)に進む。少年時代は野球のスコアラーを勤めたが、小学2年で関節炎のため片足を切断した。彼が北海中学、慶應義塾大学部に入学したのは、片足切断という障害のために公立中学・官立高校には入学を認められなかったからである。
小野 宮吉(おの みやきち、1900年4月27日 - 193… 小野 宮吉(おの みやきち、1900年4月27日 - 1936年11月20日)は、日本の俳優、演出家、脚本家。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。 この項目は、共産主義に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/プロジェクト 政治)。
椿 八郎(つばき はちろう、1900年4月18日 - 198… 椿 八郎(つばき はちろう、1900年4月18日 - 1985年1月27日)は、日本の作家。眼科医。本名は藤森 章。 長野県東筑摩郡松本町(現松本市)生まれ。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、慶應義塾大学医学部卒業後、1925年同大眼科教室助手となった。その後は満鉄長春医院眼科医長、満鉄撫順医院眼科医長を歴任。 1946年に引き揚げ、東京電力病院眼科医長などを歴任した。 「テノン氏嚢の研究」「ミュッレル氏筋の研究」など眼科研究論文を発表。 大学在学中、本名で正木不如丘主宰の同人誌『脈』に小品を発表。1949年『宝石』に「カメレオン黄金虫」を発表し推理小説作家として登場した。1951年に『宝石』に発表した「扉」が翌年の第5回探偵作家クラブ賞候補作となる。
飯田 慶三(いいだ けいぞう、1900年(明治33年)4月1… 飯田 慶三(いいだ けいぞう、1900年(明治33年)4月13日 - 1993年(平成5年)11月18日)は、日本の実業家。髙島屋社長・会長を務めた。京都府京都市出身。 髙島屋副社長を務めた飯田忠三郎の次男として生まれる。 1926年に慶應義塾大学法学部卒業後、高島屋へ入社。大阪支店長、常務、専務を経て、飯田直次郎社長の急逝に伴い、1952年2月に創業者一族3代目の社長に就任。横浜、ニューヨークへ出店するなど多店舗化を進め、トップマネジメントの強化を図り、組織を合理的に改革し、人事を刷新して新しい時代に即応する近代的な経営管理方法を推進した。1960年に会長に退き、新社長には飯田直次郎の長男である飯田新一が就任した。
木村 守江(きむら もりえ、1900年4月6日 - 1996… 木村 守江(きむら もりえ、1900年4月6日 - 1996年11月3日)は、日本の政治家、医師。福島県知事(公選第6-9代)、衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)を務めた。男性。 現在の福島県いわき市四倉生まれ。旧制磐城中学(現福島県立磐城高等学校)、慶應義塾大学医学部を経て医学博士、開業医となる。1938年1月、歩兵第65連隊の軍医として南京での捕虜の扱いについて『磐城時報』に軍事郵便で報告を寄せている。第二次世界大戦でも軍医でニューギニアなどで従軍。 1950年の第2回参議院議員通常選挙に福島県選挙区からで自由党から立候補し、当選。参議院議員を1期務めた後、衆議院に鞍替えし、1958年の第28回衆議院議員総選挙で旧福島3区から出馬して初当選(自民党)、以後3期連続当選を果たす。
三田 幸夫(みた ゆきお、1900年3月31日 - 1991… 三田 幸夫(みた ゆきお、1900年3月31日 - 1991年2月11日)は、大正から昭和にかけての登山家。神奈川県横浜市出身。「山のガキ大将」という異名があった。 慶應義塾大学経済学部在籍中は山岳部に属し、槇有恒の指導の下、大島亮介と共に中心的なメンバーとなった。1923年1月、立山(雄山)へ槇有恒、板倉勝宣らとスキー登山を敢行するが、松尾峠にて遭難してしまう。三田は1人救援を求めて立山温泉への下山を強行するも、疲労によって幻影を見るほどであったとされ、結果的に板倉の死を看取った槇に温泉手前で追いつかれるという苦い経験をしている。 1924年の大学卒業後は実業界に入って、後に岩井産業シンガポール支店長や万邦産業取締役、三和興業常務などを歴任した。
金子 佐一郎(かねこ さいちろう、1900年 <明治33年>… 金子 佐一郎(かねこ さいちろう、1900年 <明治33年> 2月1日 - 1978年 <昭和53年> 4月7日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 東京都出身。1925年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年4月に王子製紙に入社。 1949年8月に十條製紙に転じ、取締役、常務、専務、副社長を経て、1957年11月には社長に就任。1969年5月には会長に就任。 1963年に藍綬褒章を受章し、1970年には勲二等旭日重光章を受章。 1978年4月7日、膵臓腫瘍のために死去。78歳没。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
横山 通夫(よこやま みちお、1900年1月25日 - 19… 横山 通夫(よこやま みちお、1900年1月25日 - 1983年5月12日)は、日本の経営者。栃木県出身。 1917年に旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業。慶應義塾大学予科に入学 1922年に慶應義塾大学部理財科を卒業。九州電灯鉄道、東邦電力での勤務を経て、1942年に中部配電(のちの中部電力)理事に就任し、常務を経て、1951年に副社長に就任し、1961年4月に社長に昇格した。1969年5月には会長に就任し、1977年6月から相談役を務めた。 中部経済連合会会長、日本電気協会会長、日本ラグビーフットボール協会会長、名古屋鉄道監査役、東海銀行参与なども歴任した。 1960年11月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲一等瑞宝章を受章した。