大島 義夫(おおしま よしお、1905年 - 1992年8月… 大島 義夫(おおしま よしお、1905年 - 1992年8月30日)は、日本の言語学者、エスペラント学者。財団法人エスペラント学会理事。 東京生まれ。中学生時代にエスペラントと出会い、1924年に日本エスペラント学会入会。1929年、早稲田大学政治経済学部卒。 昭和初期から比嘉春潮・伊東三郎らとプロレタリア・エスペラント運動(プロ・エス)に従事。『プロレタリア・エスペラント講座』(鉄塔書院)全6巻の編集にあたり、運動の理論的指導者となる。また「高木弘」のペンネームでソ連のエスペランチスト、ドレーゼンの『世界語の歴史』を翻訳・出版。唯物論の立場から言語学にアプローチし、ソビエト言語学の紹介につとめる。
杜 運宇(と うんう、1905年 – 1960年10月27日… 杜 運宇(と うんう、1905年 – 1960年10月27日)は、中華民国・蒙古聯合自治政府(蒙古自治邦)の官僚。旧名は維俊。 1922年(民国11年)に京師公立第一中学を、1924年(民国13年)に上海滬江大学予科を、それぞれ卒業している。1926年(民国15年/大正15年)4月、日本へ留学して早稲田大学専門部政治経済学科に入学し、1929年(民国18年/昭和4年)に卒業した。 帰国後は山東省で任官し、交渉署日本科長、硝鉱総局総務科長、県長訓練班教授、第一県長考試委員会委員を歴任している。1934年(民国23年)、『済南日報』社主筆に転じた。1936年(民国25年)、察哈爾省(チャハル省)政府(主席:劉汝明)財政庁秘書となり、翌1937年(民国26年)、財政庁長兼財政委員会委員に昇進している。
藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - … 藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - 1981年2月18日)は、愛媛県松山市生まれのプロ野球監督。東京巨人軍初代監督。
丹羽 文雄(にわ ふみお、1904年〈明治37年〉11月22… 丹羽 文雄(にわ ふみお、1904年〈明治37年〉11月22日 - 2005年〈平成17年〉4月20日)は、日本の小説家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階は従三位。 三重県出身。複雑な生い立ちに立脚した私小説風作品や宗教的作品、マダム物をはじめとする風俗小説、戦争物などを独自のリアリズムで旺盛に執筆し、多数の読者と高い評価を得た。昭和を代表する作家の一人である。また、文壇の大御所的存在であり、各種文学賞の選考委員や、日本文芸家協会会長・理事長などを歴任したほか、「文学者」を主宰して後進の育成にも尽力した。中村光夫と風俗小説論争を展開したことでも知られる。 三重県四日市市北浜田にある真宗専修寺高田派の崇顕寺(現存する。
中馬 馨(ちゅうま かおる、1904年(明治37年)11月2… 中馬 馨(ちゅうま かおる、1904年(明治37年)11月20日 - 1971年(昭和46年)11月8日)は、日本の政治家。大阪市長(1963年 - 1971年)。元衆議院議員の中馬弘毅は長男。 1904年11月20日宮崎県児湯郡三納村(現:西都市)に中馬重顕の長男として出生。1916年宮崎県立宮崎中学校(現:宮崎県立宮崎大宮高等学校)入学。1920年攻玉社中学校(現:攻玉社中学校・高等学校)に編入し、1922年卒業。 1926年第一早稲田大学高等学院卒業。1929年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。大阪市役所に奉職。若い頃から關一ら歴代市長の側近にあって市政の枢要に触れる。市民局長、総務局長を経て、1948年に助役となり、大阪市立大学の開設、ジェーン台風被災者の救援活動に尽力した。
新庄 嘉章(しんじょう よしあきら、1904年11月10日 … 新庄 嘉章(しんじょう よしあきら、1904年11月10日 - 1997年8月26日)は、日本のフランス文学者。 広島県生まれ。早稲田大学仏文科卒、早稲田大学教授を務めるかたわら、アンドレ・ジッドなどを研究、数多くのフランス文学の翻訳をおこなった。定年退職後、名誉教授。1984年、『天国と地獄の結婚』で平林たい子文学賞受賞、1990年、日本芸術院賞・恩賜賞受賞、同年に日本芸術院会員。 仏文科教授在職中に、英文科出身の宮城谷昌光から同人小説冊子を送られ、読後、宮城谷を招き早稲田文学編集長だった立原正秋に推薦した。 1964年2月24日、東京中野の料亭「ほととぎす」で開催された「竹の会」の宴席で、木山捷平に暴行し右手薬指を負傷させた。
仲村 清栄(清榮、なかむら せいえい、1904年(明治37年… 仲村 清栄(清榮、なかむら せいえい、1904年(明治37年)10月15日 - 1958年(昭和33年)5月27日)は、昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 沖縄県那覇区垣花町(現那覇市垣花町)で、清水泡盛醸造元の仲村家に生まれる。1923年(大正12年)那覇市立商業学校を卒業。その後上京して、1927年(昭和2年)、早稲田大学法律科を卒業。 帰郷して家業に従事。その後、沖縄酒造組合連合会代議員、同評議員、那覇商工会議所議員、首里無尽社長などを務めた。 1941年(昭和16年)沖縄県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に選出され、同年9月20日に就任し交友倶楽部に所属したが、1942年(昭和17年)12月14日に議員を辞職した。
橋本 二郎(はしもと じろう、1904年(明治37年)9月1… 橋本 二郎(はしもと じろう、1904年(明治37年)9月16日 - 1977年(昭和52年)3月14日)は、昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、熊本県玉名郡滑石村長、玉名市長、玉名市名誉市民。 熊本県玉名郡滑石村(現玉名市滑石)で、橋本静太の二男として生まれる。1926年(大正15年)早稲田大学専門部政治経済学科を卒業。 1933年(昭和8年)滑石村会議員に選出された。その後、滑石村長、熊本県会議員に在任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に熊本県全県区から無所属で出馬して当選し、国民協同党に所属して衆議院議員に1期在任した。この間、協同民主党常任中央委員などを務めた。
中村 テル(なかむら てる、1904年8月24日 - 200… 中村 テル(なかむら てる、1904年8月24日 - 2009年5月3日)は、日本の登山家、日本山岳会名誉会員。 鉱山経営をしていた父親のもと、北海道夕張市にうまれるものの、父親が事業に失敗、福島県喜多方市に移り住むことになった。さらにその後は東京へと移り住み、文京区の本郷にある桜井ちか子による桜井女塾に入塾し英語を学んだ。10代より登山を始め、夏の富士山に登頂を成功、1927年1月1日に女性として初めて冬の富士山登頂を果たした。1961年には早稲田大学の山岳部OGが中心となって結成されたニュージーランド日本女子親善隊の隊長を勤め、エグモント山、ルアペフ山などの登頂に成功した。 2009年5月3日、老衰のため死去。
高橋 勝之(たかはし かつゆき、1904年8月15日 - 1… 高橋 勝之(たかはし かつゆき、1904年8月15日 - 1986年6月8日)は、日本のジャーナリスト、翻訳家。 高知市出身。1927年早稲田大学第二高等学院ロシア文科卒。筆名・里見三吉。日本共産党、新日本文学会に属し、マルクス主義について執筆・翻訳を行った。
李 相佰(イ・サンベク、1904年8月6日 - 1966年4… 李 相佰(イ・サンベク、1904年8月6日 - 1966年4月14日)は、朝鮮(大韓帝国)に生まれ、日本および大韓民国で活動した歴史学者・社会学者、バスケットボール選手・指導者。 早稲田大学に留学、日本における黎明期の大学バスケットボール選手となり、スポーツ理論・競技技術の普及や、スポーツ組織の結成・運営に大きな足跡を残した。戦後の韓国においてもスポーツ界の重鎮として活動、国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めた。学生バスケットボールの日韓対抗戦である李相佰盃に名を残している。また、学者としてはソウル大学校教授を務め、歴史学・社会学に業績を残している。号は想白(サンベク/상백、発音は本名と同じ)、百無一斎。
大山 功(おおやま いさお、1904年8月5日 - 1993… 大山 功(おおやま いさお、1904年8月5日 - 1993年8月)は、日本の演劇評論家。 岡山市生まれ。1932年早稲田大学文学部演劇学科卒、『藝術殿』『東宝』『日本演劇』『演劇界』などの雑誌編集のかたわら演劇評論を行う。1945年戦災で山形県へ疎開。 文筆活動を続け、1974年『近代日本戯曲史』で第6回河竹賞受賞。山形県嘱託。
小山 寛二(こやま かんじ、1904年8月3日 - 1982… 小山 寛二(こやま かんじ、1904年8月3日 - 1982年11月27日)は、熊本県八代市出身の小説家。 八代中学校卒業。早稲田大学中退。クロポトキンの影響を受け、アナキズム、左翼運動家の道を歩むが、1928年(昭和3年)、転向する。 三上於菟吉に師事し、大衆文学などを執筆した。作品に、1934年(昭和9年)に映画化された「明暦名剣士」、宮崎滔天を主人公とした「波浪の歌」、細川忠興の妻ガラシャを描いた「細川ガラシャ」、「曠野の父」、「風雲万里」、「江南碧血記」などがある。 随筆雑誌「騒友」主宰。1982年(昭和57年)、東京にて没した。
千田 是也(せんだ これや、1904年7月15日 - 199… 千田 是也(せんだ これや、1904年7月15日 - 1994年12月21日)は、日本の演出家、俳優。東京市出身、建築家・伊藤為吉の五男。本名は伊藤 圀夫。
塩田 賀四郎(しおた がしろう、1904年〈明治37年〉6月… 塩田 賀四郎(しおた がしろう、1904年〈明治37年〉6月31日 - 1989年〈平成元年〉9月7日)は、昭和期の実業家、ジャーナリスト、政治家。衆議院議員。 兵庫県出身。1923年(大正12年)大阪府立市岡中学校(現大阪府立市岡高等学校)を卒業。早稲田大学法律科で学んだ。 津自動車学院校長、同校主、交通日日新聞記者、三共製作所取締役、生球精工代表取締役、政治新聞社取締役社長、大東建設社長、サン通信社長などを務めた。 日本自由党の創立委員となり同党幹事に就任し、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で兵庫県第1区に日本自由党公認で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で兵庫県第2区に出馬して落選。
大沼 勘四郎(おおぬま かんしろう、1904年〈明治37年〉… 大沼 勘四郎(おおぬま かんしろう、1904年〈明治37年〉6月23日 - 没年不明)は、日本の造り酒屋経営者。寿虎屋酒造社長(第9代)・会長。山形県酒造組合連合会会長(第3代・3期)。山形商工会議所二号議員。沖正宗酒造株式会社監査役。
西大路 隆敏(にしおおじ たかあき、1904年(明治37年)… 西大路 隆敏(にしおおじ たかあき、1904年(明治37年)5月15日 - 1982年(昭和57年)8月2日)は、日本の実業家。西大路家の第22代当主。父は西大路吉光。早稲田大学卒業。東京都出身。 東京都出身。子爵・西大路吉光とその妻で金刀比羅宮宮司・琴陵宥常の娘・八千代の長男として生まれる。早稲田大学卒業。1953年(昭和28年)に父の吉光が亡くなり西大路家の家督を継いだ。 私生活では日本電力社長・池尾芳蔵の次女である正子と結婚し、1男2女を授かった。 1982年(昭和57年)、死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
打木 村治(うちき むらじ、1904年4月21日 - 199… 打木 村治(うちき むらじ、1904年4月21日 - 1990年5月29日)は、日本の小説家・児童文学作家。本名、打木 保(うつぎ たもつ)。 大阪府に生まれ、父の病気により、母の実家があった埼玉県比企郡唐子村(現・東松山市)で育つ。早稲田大学政治経済学部卒。大蔵省勤務のおりに知り合った川端康成に才能を認められ、文学活動に入り『作家群』を主宰した。その後、『文芸評論』への関りから1936年(昭和11年)にコム・アカデミー事件で検挙されるも、翌1937年(昭和12年)には『部落史』で芥川賞候補となった。昭和初期の不況を背景に資本主義下にあえぐ農村、都会の下層の人々を描き、農民文学作家の地位を築く。
小森田 一記(こもりだ かずき、1904年3月29日 - 1… 小森田 一記(こもりだ かずき、1904年3月29日 - 1988年9月25日)は、日本の雑誌編集者、事業家。 1904年に熊本県菊水町(現和水町)に生まれる。最初農業に従事しようと親戚の家で馬肥づくりをするが、途中で日本の文化界に尽くしたいと、独学で旧制中学四年の編入試験に合格、新聞配達等をして苦学しながら、1930年に早稲田大学政経学部経済学科を卒業。同郷である朝日新聞編集主幹・牧野輝智の庇護と推薦を受けて中央公論社に入社、28歳で婦人公論の編集長を務める。1937年から1940年の間は編集長を務めた。 1944年に横浜事件が発生すると事件の舞台となった雑誌『改造』とともに編集が左翼的であったとして『中央公論』も弾圧対象となり、小森田を含む8人の編集者らが逮捕、勾留された。
村井 順(むらい じゅん、1904年3月28日 - 1985… 村井 順(むらい じゅん、1904年3月28日 - 1985年3月5日)は、日本の国文学者。愛知淑徳短期大学教授を務めた。岐阜県出身。 岐阜県高富町生まれ。1929年、早稲田大学文学部国文科を卒業。1960年に『源氏物語論』で早稲田大学から文学博士を授与される。高等学校教諭を経て、1964年に愛知淑徳短期大学教授に着任。1974年に定年退職し、以後は非常勤講師として勤めた。愛知淑徳短期大学国文学科の創設期の指導者と評された。 「国文学教育は既存の文学を教えるだけでは片手落ちではないか?」との信念から、愛知淑徳短期大学国文学科の女子学生らに小説を書かせ、『女子大生小説集』(中部日本教育文化会、1973年)として刊行。
寺崎 浩(てらざき ひろし、1904年3月22日 - 198… 寺崎 浩(てらざき ひろし、1904年3月22日 - 1980年12月10日)は、日本の小説家、詩人。 岩手県盛岡市生まれ。父は検事。早稲田大学仏文科中退。1926年、同級の田畑修一郎、火野葦平らと同人誌『街』を創刊。西條八十に師事し、佐伯孝夫らと詩誌『棕櫚の葉』を創刊。のち横光利一に師事。 1935年、文壇デビューを果たし以後は小説を中心に執筆。1936年、徳田秋声の娘喜代と結婚。1941年、報道班員としてマレーに赴く。 戦後は中間小説を多く書いた。代表作に短編集『祝典』、長編『情熱』、詩集『落葉に描いた組曲』など。『からたちの花』は山田耕筰の伝記小説である。墓所はさいたま市思い出の里市営霊園。
荻野 三七彦 (おぎの みなひこ、1904年3月18日 - … 荻野 三七彦 (おぎの みなひこ、1904年3月18日 - 1992年8月12日)は、日本古文書学者。早稲田大学名誉教授。 1904年、文化財保護行政の荻野仲三郎の次男として東京市本郷区(現・東京都文京区)に生まれる。1929年、早稲田大学文学部史学科卒業。東京帝国大学文学部史料編纂所嘱託、1948年「聖徳太子伝古今目録抄の基礎的研究」で早稲田大学文学博士。1935年早稲田大学文学部講師、1942年助教授、1946年教授、1952年教務部長、1968年早稲田大学理事、1970年図書館長を歴任。1974年定年退職、名誉教授。1992年、死去。大学外では、聖徳太子奉讃会理事、永青文庫理事を務めた。 古文書学を確立し、日本古文書学会の設立に尽力した人物である。
水谷 準(みずたに じゅん、1904年(明治37年)3月5日… 水谷 準(みずたに じゅん、1904年(明治37年)3月5日 - 2001年(平成13年)3月20日)は、日本の小説家、推理作家、翻訳家。編集者でもあり、雑誌『新青年』編集長を累計18年務めた。本名は納谷 三千男。 北海道函館区(現在の函館市)船見町の生まれ。当時の函館は幕末に開かれて以来の国際的な港町であった。父はパン屋や外国人の執事をしており、外国人が三千男を「ジョン」と呼んでいたことから、のちに自らのペンネームを「準」とした。弥生小学校に在学中、鈴木三重吉が創刊した雑誌『赤い鳥』に童謡を投稿して入選した。 旧制函館中学(現:北海道函館中部高等学校)中退後、上京して早稲田高等学院に入学。在学中の1922年に博文館の雑誌『新青年』の懸賞に応募した「好敵手」が一等に入選。
殿田 孝次(とのだ こうじ、1904年2月27日 - 194… 殿田 孝次(とのだ こうじ、1904年2月27日 - 1949年8月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 石川県金沢市出身。1927年早稲田大学法律科卒業。アメリカのセントローレンス大学に留学し、政治学を学んだ。その後、帝国通信社政治部記者となり、渡米。帰国後は読売新聞政治部記者として、国際外交評論家となる。その後、中国に渡り、日本大使館上海事務所、中国銀行、交通銀行、物資統制審議委員会上海事務所、全国経済委員会顧問室各嘱託となる。帰国後は広瀬豊作大蔵大臣秘書官(大蔵省嘱託)、国民政府行政院顧問、外務省嘱託などを歴任した。 1942年の翼賛選挙に郷里の石川1区から無所属(非推薦)で出馬し、落選。
大田 政作(おおた せいさく、1904年2月12日 - 19… 大田 政作(おおた せいさく、1904年2月12日 - 1999年8月18日)は、日本の官僚、琉球政府の政治家。元琉球政府行政主席(1959年10月21日 - 1964年11月1日)。
青柳 優(あおやぎ ゆたか、1904年2月1日 - 1944… 青柳 優(あおやぎ ゆたか、1904年2月1日 - 1944年7月30日)は日本の詩人、文芸評論家。 長野県南安曇郡烏川村(現・安曇野市)に医師の三男として生まれる。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)では同級に唐木順三がいた。早稲田大学英文科在学中からアナーキズム文学雑誌『世紀文学』を創刊する。その後、文芸雑誌『黒色戦線』を創刊し、「丹沢明」の筆名で、同人誌にダダイズム的な評論や詩を発表した。1930年(昭和5年)『黒色戦線』を廃刊し、『黒戦』1932年『アナーキズム文学』を創刊する。1931年(昭和6年)京都帝国大学の青柳栄司の世話で、四条畷女子学校の英語教師となるが、2ヶ月ほどで退職し、千住税務署に勤務しながら文芸評論を続ける。
中山 省三郎(なかやま しょうざぶろう、1904年〈明治37… 中山 省三郎(なかやま しょうざぶろう、1904年〈明治37年〉1月28日 - 1947年〈昭和22年〉5月30日)は、日本の詩人、ロシア文学者。 茨城県真壁郡紫尾村大字酒寄(真壁町を経て現桜川市)で、開業医・中山清、りう の三男として生まれた。生後ひと月余りで母りうが亡くなり、紫尾村を離れて父の実家の大宝村へ移って育つ。同郷の詩人・横瀬夜雨の薫陶を受けて詩作を始め、田畑修一郎の勧めで早稲田大学露文科に進み原久一郎に学ぶ。火野葦平・田畑とともに同人誌を発行し、ロシア文学を翻訳・研究。また、詩人としては、日夏耿之介を介して北原白秋の知遇を得て、作品上でも私的にも親交があった。さらに、詩を書く他にも、横瀬夜雨や長塚節の遺稿集の編集などを行った。
進藤 一馬(しんとう かずま、1904年(明治37年)1月1… 進藤 一馬(しんとう かずま、1904年(明治37年)1月1日 - 1992年(平成4年)11月28日)は、日本の政治家、実業家。 早稲田大学政治経済学部卒業後、中野正剛秘書、西日本新聞社の前身の九州日報社取締役を経て、玄洋社社長となる。戦後に自由民主党に加わり、衆議院議員を経て、福岡市市長を4期務めた。 福岡市西職人町(現中央区舞鶴)出身。旧福岡藩士・進藤喜平太(玄洋社の創立者の一人)の四男。 旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)、早稲田大学政治経済学部卒業。1929年(昭和4年)、中野正剛の秘書となり、1933年(昭和8年)に中野が結成した東方会に入会し総務部長となる。その後、九州日報社(現・西日本新聞社)取締役を経て、1944年(昭和19年)10月、第10代玄洋社社長に就任し、1946年(昭和21年)にGHQにより解散させられるまで社長を務めた。
長島 又男(ながしま またお、1904年1月 - 没年不明)… 長島 又男(ながしま またお、1904年1月 - 没年不明)は、日本のジャーナリスト。機関紙連合通信社設立者、日本機関紙通信社元理事長 埼玉県北足立郡小谷村(現・鴻巣市)に生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、早稲田大学政治経済学部に進学した。しかし、大山郁夫に絡んで、在学中の1927年に大学を中退する。 1929年、新聞連合に加入する。1936年、同盟通信社に入社し、南方部長を務める。 1945年の日本の敗戦後、同盟通信社はGHQの指令により解散となる。長島は、解体に伴って設立された共同通信社に移り、解説委員長となる。同年、民報社を設立して取締役となり、東京都で第二次世界大戦後最初に創刊された夕刊紙である『民報』を創刊して主筆を務めた。
図師 嘉彦(ずし よしひこ、1904年 - 1981年)は、… 図師 嘉彦(ずし よしひこ、1904年 - 1981年)は、日本の建築家。日本建築学会・日本演劇学会共同委員会「劇場小委員会」に属し、劇場建築への造詣が深かった人物。東京出身。 鉄道官僚図師民嘉の次男として東京に生まれ、1929年に早稲田大学理工学部建築学科卒業後、大蔵省営繕課勤務を経てドイツに留学。1934年(昭和9年)帰国、直後に日本共産党に資金提供したとして治安維持法違反で逮捕。釈放後、1935年(昭和10年)に独立。1937年(昭和11年)、自らの建築設計事務所・株式会社図師設計事務所を設立。市浦健・土浦亀城らと新興建築家聯盟を結成。このころ日本共産党の地下印刷所などを設計。 1946年(昭和21年)、今泉善一、梅田穣、海老原一郎ら旧創宇社系メンバーで日本民主建築会結成。
赤城 源三郎(あかぎ げんざぶろう 1904年 ‐ 1999… 赤城 源三郎(あかぎ げんざぶろう 1904年 ‐ 1999年9月17日)は、日本の郷土史家。 新潟県東蒲原郡津川町生まれ。1929年、早稲田大学商学部を卒業。新潟県立津川高等学校等で教員を務める傍ら、東蒲原郡を対象とした地域史研究、民俗学研究を行う。東蒲原郡は越後国でありながら、会津藩領でもあったことから、自らの研究手法を「両属論」と名付けた。新潟県史編さん参与も務めた。
横田 瑞穂(よこた みずほ、男性、1904年 - 1986年… 横田 瑞穂(よこた みずほ、男性、1904年 - 1986年2月19日)は、ロシア文学者。元早稲田大学名誉教授。 北海道函館市出身。早稲田大学露文科卒。井伏鱒二に師事した。戦時中は情報局嘱託。1949年から母校の教員となり、教授として五木寛之や後藤明生を教えた。1974年定年退職。 ミハイル・ショーロホフ『静かなドン』の翻訳で知られる。他にゴーリキー、ゴーゴリなどの翻訳がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
柳 寅坤(リュ・インゴン、朝鮮語: 류인곤、1904年 - … 柳 寅坤(リュ・インゴン、朝鮮語: 류인곤、1904年 - 1970年10月10日)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 ユ・インゴン(漢字同、유인곤)とも表記される。 早稲田大学政経学部卒。鮮満拓殖の社員を務めた後、1950年の第2代総選挙では大韓国民党の候補として全南霊岩郡選挙区から出馬し、民主国民党の金俊淵を破って当選した。
玉井 操 (たまい みさお、1903年12月16日 - 19… 玉井 操 (たまい みさお、1903年12月16日 - 1978年12月23日)は、日本の実業家、サッカー選手。玉井商船社長 (2代目)、日本船主協会副会長、日本サッカー協会副会長などを歴任した。 兵庫県出身。玉井商船の創業者・玉井周吉の長男として生まれ、明治学院中等部在学中よりサッカーを始めた。1922年、第一早稲田高等学院に入学して早稲田大学ア式蹴球部に入部。1923年にはビルマ人留学生のチョウ・ディンよりサッカーの直接指導を受けた。1924年に早稲田大学政治経済学部に入学した後もア式蹴球部に在籍し、関東大学リーグ優勝などに貢献した。また、在学中の1927年8月に上海で開催された極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、中華民国代表戦で1得点を挙げた。
志賀 健次郎(しが けんじろう、1903年(明治36年)12… 志賀 健次郎(しが けんじろう、1903年(明治36年)12月10日 - 1994年(平成6年)9月28日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。 防衛庁長官(第15代)、衆議院議員(9期)を務めた。 岩手県東磐井郡大原町(のちの大東町、一関市)出身。岩手県立一関中学校を経て、1931年(昭和6年)早稲田大学政治経済学部政治学科卒。朝日新聞記者を経て、1941年大日本産業報国会参事、1942年に翼賛選挙に非推薦で立候補し敗れる[要出典]。1947年の総選挙で初当選(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘など)。保守合同後も有田喜一・荒木万寿夫・小島徹三らと芦田均派を維持するが、芦田の死後は三木武夫派に加入。
時岡 収次(ときおか しゅうじ、1903年12月10日 - … 時岡 収次(ときおか しゅうじ、1903年12月10日 - 1987年10月18日)は、日本の実業家、スポーツ指導者。 熊谷組創設者の一人で、代表取締役を務めた。また、スポーツでは熊谷組野球部の部長や監督も務めていた。 福井県大飯郡本郷村(現・おおい町)で生まれる。船員を志して福井県立小浜水産学校に進学し、1921年3月に卒業後は早稲田大学に進む。大学時代は相撲部に所属した。 1928年3月に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業して、飛鳥組(現・飛島建設)に入社した。この就職は、早稲田大学進学前に、建設中だった小浜線の工事のために飛島組の関係者が自宅を宿舎としており、その影響を受けたとされる。 大同電力寝覚発電所建設工事の時は現地に常駐した。
大庭 哲夫(おおば てつお、1903年(明治36年)12月2… 大庭 哲夫(おおば てつお、1903年(明治36年)12月2日 - 1979年(昭和54年)3月17日)は、日本の逓信官僚、実業家。航空庁長官、日本航空常務取締役、全日本空輸社長などを歴任。バスケットボールの選手、指導者としても活躍した。 高松藩家老の末裔として、香川県木田郡古高松村(現高松市)に生まれる。1929年、早稲田大学理工学部を卒業。1933年に逓信省航空局へ入る。 第二次大戦後の1946年、1月1日付けで逓信院電波局の中に航空保安部が置かれ、松尾静磨が部長に就任。大庭は同部の保安課長に就いた。また長野英麿、尾崎行良、亀山忠直らを保安部へ入るよう誘い、日米会話学院へ通わせて日本の民間航空再開の日に備えたとされる。
岩片 秀雄(いわかた ひでお、1903年(明治36年)11月… 岩片 秀雄(いわかた ひでお、1903年(明治36年)11月22日 - 1970年(昭和45年)6月11日)は、昭和時代の電気工学者、通信技術者。 東京に生まれる。1927年(昭和2年)早稲田大学電気科を卒業後、1931年(昭和6年)早稲田大学助教授、1943年(昭和18年)教授となる。1942年(昭和17年)工学博士。早稲田大学では電気通信工学科主任教授を務めた。ほか、電気通信学会副会長、東京支部長などを歴任した。著書に『電磁界及空中線』、『無線工学原論』など。 戦前は主にアンテナおよびマイクロ波伝送回路について研究し、その応用研究の成果は軍用レーダーの開発に生かされた。戦後はファラデー効果をマイクロ波で実現する研究を行い、マイクロ波用の高性能フェライト材料を試作・開発。
谷 耕平(たに こうへい、1903年11月20日 - 198… 谷 耕平(たに こうへい、1903年11月20日 - 1989年12月6日)は、日本のロシア文学者。長野県小県郡県村(現東御市)生まれ。本名は宮坂 好安。 旧制上田中学(長野県上田高等学校)を中途退学、東京府立青山師範学校本科、第一早稲田高等学院を経て、1932年早稲田大学文学部露文科卒業。戦前からロシア文学者として活動し、善隣外事専門学校でロシア語の教授、戦後は早稲田大学教授を務めた。1974年定年、名誉教授。
芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 19… 芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 1987年9月5日)は、日本のアマチュア野球選手・プロ野球監督・プロ野球球団経営者、スポーツ記者、野球解説者。兵庫県加東市出身(姫路市野里町とする資料もあり)。旧姓:氷室(ひむろ)。 兵庫県立姫路中学校卒業後、1922年に早稲田大学へ入学。早大野球部では飛田忠順監督の「精神野球」に鍛練され、外野手として活躍。1925年秋季には東京六大学リーグ最初の首位打者を獲得した(当時は「氷室武夫」)。1926年には主将を務めた。大学時代の通算成績は65試合出場、240打数63安打、打率.263、2本塁打(六大学リーグ以前も含む)。卒業後、満洲国へ渡り南満洲鉄道に入社し満洲倶楽部(大連市)の選手として活動。
本領 信治郎(ほんりょう しんじろう、1903年(明治36年… 本領 信治郎(ほんりょう しんじろう、1903年(明治36年)10月8日 - 1971年(昭和46年)7月24日)は、京都府出身の東京府東京市選出の政治家、教育者。衆議院議員、早稲田大学(以下、早大)教授、早大ラグビー部監督 & 選手。 京都市下京区寺町通五条上るの裂地袋物製造卸の本領順三郎の次男として生まれる。弟は正三郎(家業を継ぐ)、千吉郎(早稲田の工業出身)。叔父の善次郎は神戸市古湊通の貴金属時計商。京都市立第一商業学校(現、京都市立西京高等学校)を経て早大に進学。同校のラグビー部で活動し、ポジションはスクラムハーフ(SH)。1927年(昭和2年)のオーストラリア遠征では主将を務めた。卒業後の1928年(昭和3年)に早大監督に就任し、2シーズン同職を歴任。
石垣 綾子(いしがき あやこ、1903年9月21日 - 19… 石垣 綾子(いしがき あやこ、1903年9月21日 - 1996年11月12日)は、日本の女性問題評論家、社会運動家。旧姓・田中。 陸軍幼年学校物理学教授田中三四郎の二女として東京(現在の東京都新宿区市谷加賀町)に生まれる。2歳のときに早稲田南町に転居した。転居先の近所には夏目漱石が居住しており、漱石の三女とは小学校で同級だった。4歳の時母親と死別し、父親の手で育つ。府立第一高女に学び、YMCAの英語クラス、バイブル・クラスに通って社会運動にふれる。卒業後は自由学園高等科に入学。自由学園卒業後。警察に検挙されたことをきっかけに、家族の勧めにより、1926年に外交官としてワシントンに赴任する姉夫婦とともに米国に渡り、反戦・社会運動に参加する。
大河原 一次(おおかわら いちじ、1903年(明治36年)9… 大河原 一次(おおかわら いちじ、1903年(明治36年)9月20日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 福島県岩瀬郡長沼町(現須賀川市)で生まれる。1921年(大正10年)錦城中学校(現錦城学園高等学校)卒を経て、早稲田大学高等師範英文科を修了した。 1927年(昭和2年)古河鉱業(現古河機械金属)に入社し好間鉱業所に配属された。1930年(昭和5年)に退社し労働運動、農民運動に加わる。1945年(昭和20年)の終戦を迎えて常磐地方で日本社会党の支部と労働組合の結成に尽力し、日本炭鉱労働組合常磐地方本部執行委員長に就任し8期在任した。その他、福島県労働対策審議会委員などを務めた。
松崎 朝治(まつざき あさじ、1903年〈明治36年〉9月1… 松崎 朝治(まつざき あさじ、1903年〈明治36年〉9月10日 - 1964年〈昭和39年〉3月31日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県大里郡熊谷町(現:熊谷市)で生まれる。旧制熊谷中学を経て、1925年(大正14年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。 その後、松崎製糸社長、埼玉繊維工業社長、丸佐生糸取締役、日本輸出生糸保管監査役、日本製糸協会常任幹事、ジャパン・シルク・アソシエーション理事などを務めた。 1933年(昭和8年)5月、1937年(昭和12年)5月、1942年(昭和17年)7月の3回、熊谷市会議員に選出されている。またこの間、1939年(昭和14年)5月15日から1942年(昭和17年)7月20日まで第3代同副議長を、1944年(昭和19年)6月1日から1945年(昭和20年)4月25日まで第5代同議長を務めた。
大島 一郎(おおしま いちろう、1903年9月8日 - 19… 大島 一郎(おおしま いちろう、1903年9月8日 - 1985年4月21日)は、日本の実業家。中日新聞社社主、東海テレビ放送会長、東海ラジオ放送会長を務めた。愛知県東春日井郡小幡村(守山町→守山市を経て現在の名古屋市守山区)出身。 東海テレビ放送、東海ラジオ放送の創業者。 1927年(昭和2年)に早稲田大学政治経済学部を卒業し、時事新報を経て1929年(昭和4年)に祖父の大島宇吉が興した新愛知新聞社へ入社。傘下の國民新聞総務局長を経て1935年(昭和10年)に伯父の大島慶治郎が死去した後を受けて新愛知支配人となり、1941年(昭和16年)より同社社長に就任。翌1942年(昭和17年)には戦時下の新聞統制を受けて競合紙の名古屋新聞との合併により発足した中部日本新聞社の初代社長に就任し、名古屋新聞総務局長の小山龍三(小山松寿の娘婿)を副社長に迎える。
田畑 修一郎(たばた しゅういちろう、本名:田畑 修蔵(たば… 田畑 修一郎(たばた しゅういちろう、本名:田畑 修蔵(たばた しゅうぞう)、1903年(明治36年)9月2日 - 1943年(昭和18年)7月23日)は、島根県出身の作家。代表作は1933年に発表し、芥川賞候補にもなった『鳥羽家の子供』。 島根県美濃郡益田町(現益田市)に生まれる。3歳の時に母が病死、9歳の時に銀行支店長だった父も自殺し、旅館を営む田畑キクの養子になる。早稲田大学英文科に入学するも中退。その後、宇野浩二に師事する。また、火野葦平・寺崎浩・丹羽文雄らと「街の会」を作り、同人雑誌『街』を創刊する。 1933年に自伝的創作『鳥羽家の子供』を発表。『鳥羽家の子供』は、芥川賞の候補作となり、同じく候補作であった中山義秀の『厚物咲』と競うも落選する。
梁 柱東(ヤン・ジュドン、1903年8月16日〈太陰暦: 6… 梁 柱東(ヤン・ジュドン、1903年8月16日〈太陰暦: 6月24日〉 - 1977年2月4日)は、大韓民国の詩人、評論家、国文学者、英文学者、翻訳家、随筆家、教授。本貫は南海梁氏(済州梁氏)。号は无涯(ムエ、무애)。 京畿道開城に生まれた。幼児期をいっとき平壌で過ごし、長淵で育った。京城中東高等普通学校を経て渡日し、1928年に早稲田大学英語英文学科卒業。1919年に廉想渉と共同で『文芸公論』を発刊し、崇実専門学校(現・崇実大学校)教授を務め、1923年同人誌『金星』で文壇に登場した。1930年には詩集『朝鮮の脈拍』を出版した。その後、郷歌の研究をし、1942年に郷歌25首の解読を行った『朝鮮古歌研究』を出版した。
古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ 、古川 緑波とも、1903年… 古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ 、古川 緑波とも、1903年(明治36年)8月13日 - 1961年(昭和36年) 1月16日)は、1930年代の日本の代表的コメディアン。編集者、エッセイストとしても活動した。
南 松鶴(ナム・ソンハク、朝鮮語: 남송학、1903年7月2… 南 松鶴(ナム・ソンハク、朝鮮語: 남송학、1903年7月23日 - 1974年6月22日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家。第2・3代韓国国会議員。 本貫は宜寧南氏(忠簡公副正公派)、別名は南 禹鉉(ナム・ウヒョン、남우현)。キリスト教徒。 ソウル麻浦または忠北槐山出身。1922年に京城鉄道学校を卒業し、その後早稲田大学政経科を校外生として卒業し、陸軍歩兵学校幹部班卒業。1935年にイエス教長老会龍山教会長老・長老会長を歴任し、1936年に南洋印刷所を経営した。解放後は大韓独立促成国民会龍山区支部長・中央常務委員・中央総本部財政部長・ソウル市支部財政部長、総選挙対等委員会中央本部財政部長、民族代表者大会龍山区選出代議員、朝鮮印刷文化建設協会(現・大韓印刷文化協会)理事長、南洋印刷所・南洋印刷社経営者、大韓青年団龍山区団長、自由党中央本部訓練部長・最高委員・無任所常務委員、国会交通逓信分科委員長・海運造船各社に対する国政監査処理委員会委員長を務めた。
荒垣 秀雄(あらがき ひでお、1903年7月19日-1989… 荒垣 秀雄(あらがき ひでお、1903年7月19日-1989年7月8日)は、昭和期の新聞記者・コラムニスト。岐阜県吉城郡(現在の飛騨市)出身。 1926年、旧制斐太中学(現岐阜県立斐太高等学校)を経て早稲田大学政治経済学部卒業。東京朝日新聞に入社。1930年(昭和5年)に飛行家の東善作がロサンゼルスから東京へ三大陸横断飛行を達成した際には、朝日新聞紙上に連載された本人名義の紀行文のゴーストライターを務めている。その後満州事変の従軍記者として活躍し、1937年のジョージ6世戴冠式に特派され文名を高めた。1939年に東京本社社会部長になる。その後、リオデジャネイロ支局長やマニラ総局長を歴任する。 太平洋戦争終結後の1945年11月に論説委員となり、「天声人語」を17年半にわたって担当してその名を高め、1956年に第4回菊池寛賞受賞(「天声人語」の執筆により)。