大月 伸(おおつき しん、1896年(明治29年)12月18… 大月 伸(おおつき しん、1896年(明治29年)12月18日 - 1980年(昭和55年)4月13日)は、日本の弁護士、大阪弁護士会会長、第15代日本弁護士連合会会長、関西大学理事・顧問を務めた。岡山県高梁市出身。 1896年(明治26年)岡山県上房郡上竹荘村(現:高梁市)で生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、関西大学へ進学する。1917年(大正6年)7月に関西大学専門部法律学科を卒業し、翌年、1918年(大正7年)4月に日本大学法学高等研究科(現:日本大学法科大学院)を専攻する。1919年、同校を卒業し、1920年(大正9年)12月11日、大月は弁護士試験に合格する。
矢野 兼三(やの けんぞう、1896年(明治29年)9月13… 矢野 兼三(やの けんぞう、1896年(明治29年)9月13日 - 1981年(昭和56年)2月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選富山県知事、陸軍司政長官。号は蓬矢。 大阪市出身。矢野治三郎の三男として生まれる。1919年、私立関西大学法律学科を卒業し桜セメントに入社。1920年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1921年、内務省に入省し社会局嘱託となる。 以後、京都府愛宕郡長、警視庁事務官、青森県書記官・学務部長、千葉県書記官・警察部長、警視庁官房主事、岡山県総務部長などを歴任。 1938年4月、富山県知事に就任。戦時下の対応に尽力。1941年1月に休職となる。1942年7月7日、陸軍司政長官に発令。
山本 勝市(やまもと かついち、1896年〈明治29年〉3月… 山本 勝市(やまもと かついち、1896年〈明治29年〉3月20日 - 1986年〈昭和61年〉8月1日)は、日本の経済学者、政治家。和歌山高等商業学校教授、衆議院議員(5期)、大東文化大学教授。和歌山県出身。 京都帝国大学経済学部卒業、経済学博士 (東京商科大学)。戦前は経済学者として和歌山高商教授や文部省国民精神文化研究所所員を務め、戦後は日本自由党の結党に参加した。『福祉国家亡国論』の著述やマルクス主義への批判、経済計算論争の紹介など、自由主義経済の推進者として知られる。 1896年(明治29年)3月20日、和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市)生まれ。1913年(大正2年)3月、私立京都中学校(後の新制京都高等学校、廃校)卒業。
小林 和一(こばやし わいち、1895年(明治28年)11月… 小林 和一(こばやし わいち、1895年(明治28年)11月25日 - 1968年(昭和43年)6月1日)は、日本の政治家、地方公務員。第5代福山市長。 広島県福山町(現・福山市地吹町)に生まれる。1915年(大正4年)、広島県立福山誠之館中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。深安郡書記、大阪北区職員を勤めたあと、関西法律学校(現・関西大学)に入り、同校を卒業した。 1919年(大正8年)7月、福山市は大水害に見舞われる。帰郷を決意し、福山市役所に奉職。庶務課長、税務課長、収入役などを歴任した。 1939年(昭和14年)1月、助役に選任される。小林壽夫市長の懐刀と言われた。1944年(昭和19年)9月26日、三菱鉱業取締役会長などを務めた三谷一二が第6代市長に就任。
高木 益郎(たかぎ ますろう、1895年(明治28年)- 1… 高木 益郎(たかぎ ますろう、1895年(明治28年)- 1932年(昭和7年))は弁護士であり教育者。関西大学法学部教授、社会運動家。岡山県高梁市出身。 岡山県に生まれる。地元に近い旧制高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾がいる。このうち西雅雄、宇野弘蔵とは中学卒業後も親交があった。1915年(大正4年)に同校を卒業し、宇野と同じ第六高等学校文科丙類へ進学する。1918年(大正7年)同校を卒業、京都帝国大学法学部法律学科へ進学する。
谷岡 登(たにおか のぼる、1894年12月17日 - 19… 谷岡 登(たにおか のぼる、1894年12月17日 - 1974年11月22日)は、日本の学校経営者。大阪城東大学(現・大阪商業大学)初代学長、学校法人谷岡学園理事長などを務めた。 奈良県磯城郡朝倉村黒崎(現・桜井市黒崎)に、谷岡角松・きんの長男(弟四人、妹二人)として生まれた。谷岡家は、三町歩の田畑と山林を所有する裕福な農家で、父は村の総代を務める地域の有力者であり、製粉所の経営も行う実業家であった。生来の負けず嫌いから小学校では首席だった。それ以外にも生家の隣にある大日寺の住職から論語や四書を習い、少し長じて長谷寺方丈の漢学院で漢学を学んだ。1920年、常岡米蔵の長女・花枝と結婚。妻と兵庫県武庫郡住吉村呉田(現・神戸市東灘区住吉南町)に居を構え、大阪府西成郡役所に勤務。
久保松 勝喜代(くぼまつ かつきよ、1894年(明治27年)… 久保松 勝喜代(くぼまつ かつきよ、1894年(明治27年)10月25日 - 1941年(昭和16年)12月15日)は、囲碁棋士。兵庫県出身。方円社、日本棋院に所属、名誉九段。昭和初期の関西囲碁界の重鎮であり、橋本宇太郎、木谷實らを弟子としながら東京に送り出した他、多くの棋士を育てた。「偉大なる素人」と呼ばれ、大模様の碁を得意とし、初手天元も研究した。連珠八段でもあり、久保松機山を名乗った。 尼崎市生まれ。5歳の時に父が打っているのを見て碁を覚える。6歳で父を亡くし、伯父の後見で育つ。特定の棋士に師事することはなく、ほとんど独学で棋力を磨いた。9歳の時に禅晶寺の碁会で泉秀節に九子で対局して勝ち、秀節は養子にすることを望んだが伯父が許さなかった。
三好萬次(みよし まんじ 1893年5月28日 - 1967… 三好萬次(みよし まんじ 1893年5月28日 - 1967年7月30日)は、日本の実業家で近畿日本鉄道株式会社元代表取締役会長、近畿車輛株式会社取締役。京都府出身。 1915年(大正4年)、関西大学専門部法律学科在学中に大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)に入社。会計課長から総務部長を経て、1934年(昭和9年)には常務取締役、3年後専務取締役に就任。1944年(昭和19年)には常任監査役となるが、1947年(昭和22年)、公職追放令により同社を退職。1951年(昭和26年)、公職追放解除となり、再び近畿日本鉄道取締役に就任。1954年(昭和29年)には同社取締役会長に選ばれた。1960年(昭和35年)には関西大学第四代理事長に就任した。
田村 吉永(たむら よしなが、1893年2月7日 - 197… 田村 吉永(たむら よしなが、1893年2月7日 - 1977年8月17日)は、日本史学者。 奈良県吉野郡白銀村(現・五條市)生まれ。奈良師範学校卒。奈良県で中学校教員など。1923年大和史学会、1931年大和国史会を創設。1934年雑誌『大和志』を発刊する。1935年近畿日本鉄道史料編纂室勤務、44年嘱託。1960年「大和条里制と条坊制の研究」で関西大学文学博士。1964年梅光女学院短期大学講師、同教授。1967年梅光女学院大学文学部教授。74年退任。号は節嶺。
押谷 富三(おしたに とみぞう、1893年〈明治26年〉2月… 押谷 富三(おしたに とみぞう、1893年〈明治26年〉2月5日 - 1985年〈昭和60年〉4月15日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(5期)。幕末出石藩家老、河合長孝の孫にあたる。 滋賀県東浅井郡浅井町(現・長浜市)出身。1916年(大正5年)関西大学法科を卒業。弁護士となる。 1931年(昭和6年)9月25日、大阪府会議員選挙に大阪市北区選挙区から立候補して当選した。その後、再選して1936年(昭和11年)1月25日に辞職した。1939年(昭和14年)9月25日に3選を果たした。1946年(昭和21年)12月29日から1947年(昭和22年)4月29日まで第40代大阪府会副議長を務めた。
金井 正夫(かない まさお、1892年(明治25年)2月14… 金井 正夫(かない まさお、1892年(明治25年)2月14日 - 1979年(昭和54年)10月4日)は、日本の政治家、裁判官、弁護士。衆議院議員、和歌山県知事。旧名、当央。 鹿児島県大島郡龍郷方浦村(龍郷村を経て現:龍郷町浦)で金井当説の五男として生まれる。1915年(大正4年)に正夫と改名。 大勝尋常小学校(現:龍郷町立大勝小学校)から4年次に名瀬尋常小学校(現:奄美市立名瀬小学校)へ転入し卒業。鹿児島県立大島農学校(現:鹿児島県立大島高等学校)1年修了の後、東京の旧制順天中学校で学ぶ。旧制第五高等学校を経て、関西大学を卒業、1919年(大正8年)京都帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。
岩崎 卯一(いわさき ういち、1891年(明治24年)11月… 岩崎 卯一(いわさき ういち、1891年(明治24年)11月10日 - 1960年(昭和35年)6月8日)は、大正-昭和期の社会学者、政治学者。関西大学第17・19・20代学長。 佐賀県杵島郡武雄町生まれ。武雄町立高等小学校を卒業後、1908年(明治41年)に佐賀商船学校に進学したが、地元の有力者の勧めにより旅順夜学校に入学。しかし病を得て中退し、しばらく牟田万次郎(広滝水力電気専務)のもとに身を寄せていたが、鵜沢総明および原嘉道と面識を得たことがきっかけで法曹界に入ることを決意。神戸警察署で通訳を務めながら関西大学専門部法律学科に通い、在学中に弁護士試験に合格。1915年(大正4年)卒業後、関西大学初の留学生としてアメリカに派遣され、コロンビア大学で社会学および社会立法学を学び、ドクター・オブ・フィロソフィーの学位を得た。
山下 若松(やました わかまつ、1891年(明治24年)2月… 山下 若松(やました わかまつ、1891年(明治24年)2月6日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。屏東市長、台中市長。旧姓は川上。 川上勝右衛門の三男として岡山県岡山市に生まれ、のち山下全増の養子となる。岡山県商業学校、岡山県立高等簿記学校を経て、1912年に関西大学商業学科第2学年を修了する。この間、神戸税務監督局に勤めた。 台北庁税務吏を皮切りに、専売局書記、府秘書課統計主務を経て、1934年(昭和9年)5月、地方理事官に進み、基隆市助役に就任。ついで1937年(昭和12年)11月、台北州文山郡守に転じ、1939年(昭和14年)4月、新竹州苗栗郡守、1940年(昭和15年)6月、台南州新豊郡守を歴任したのち、1941年(昭和16年)6月、屏東市長に就任し、さらに1943年(昭和18年)1月には台中市長となった。
岡田 啓治郎(おかだ けいじろう、1890年2月10日 - … 岡田 啓治郎(おかだ けいじろう、1890年2月10日 - 1964年9月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 京都府出身。1915年関西大学専門部法律科卒。醤油製造を営む。養老村長、宮津町長、京都府町村会長、京都府議、同参事会員、同副議長、宮津市議、同議長、与謝郡農会長、同畜産組合長、京都府水産会副会長、同農会副会長、橋北汽船(株)取締役、与謝郡貨物自動車、京都物産各(株)取締役会長を歴任する。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では京都3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年に追放解除。1964年死去。
井上 吉次郎(いのうえ きちじろう、1889年4月13日 -… 井上 吉次郎(いのうえ きちじろう、1889年4月13日 - 1976年3月4日)は、ジャーナリスト、社会学者。 和歌山県出身。東京帝国大学卒。1916年東京日日新聞社入社、大阪毎日新聞社出版局次長。1946年創刊の「新大阪新聞」主筆。1949年関西大学教授、60年定年、1966年追手門学院大学教授。1959年「社会交通と文化交流に就いての社会学的考察」で関西大学文学博士。
辰馬 夘一郎(辰馬 卯一郎、たつうま ういちろう、1889年… 辰馬 夘一郎(辰馬 卯一郎、たつうま ういちろう、1889年〈明治22年〉3月26日 - 1979年〈昭和54年〉10月23日)は、日本の政治家。兵庫県西宮市長。西宮市会議員。西宮市名誉市民。 兵庫県武庫郡西宮町(現西宮市)出身。先代辰馬卯一郎の三男。 関西大学専門部に学び、中退する。1933年(昭和8年)、万歳酒造代表取締役となる。西宮町議を経て同市議に当選する。 1946年(昭和21年)3月2日から1959年(昭和34年)4月29日まで西宮市長を務めた。最後の官選市長であり、初代公選市長でもある。 1949年(昭和24年)には、夙川河川敷緑地に1,000本の桜の若木の植樹を行った。 1959年(昭和34年)、西宮市初の名誉市民。
松尾 高一(まつお たかいち、1888年 <明治21年> 7… 松尾 高一(まつお たかいち、1888年 <明治21年> 7月5日 - 1973年 <昭和48年> 5月19日)は、日本の実業家。尼崎信用金庫理事長を務めた。位階は正五位。 岡山県英田郡作東町(現在の美作市)出身。1912年に関西大学専門部経済科を卒業した。 大阪市役所、日本木管での勤務を経て、1921年1月に尼崎信用組合(現在の尼崎信用金庫)を創立し、理事に就任した。1944年5月には組合長(1951年の尼崎信用金庫への改組後は、理事長)に就任した。1954年1月には尼崎商工会議所会頭にも就任した。 1952年に緑綬褒章を受章し、1959年に紺綬褒章を受章し、1965年11月に勲四等旭日小綬章を受章し、1968年には尼崎市名誉市民の表彰を受けた。
小林 絹治(こばやし きぬじ、1888年(明治21年)2月2… 小林 絹治(こばやし きぬじ、1888年(明治21年)2月20日 - 1973年(昭和48年)3月28日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(7期)。 1888年(明治21年)2月20日、兵庫県加東郡河合村三和(現・小野市三和町)の農家の次男として生まれた。河合小学校を卒業し、関西大学法学部卒業。代用教員をしつつ正教員を目指したが一念発起してアメリカに渡り、1916年(大正5年)にカリフォルニア大学・同大学院法科を修了する。 帰国後は立憲政友会系の中央新聞主筆、同編集局長を経て、1921年(大正10年)には南満洲鉄道に入社。秘書、参与、ニューヨーク支店長、東京支店庶務課長を歴任した。1929年(昭和4年)に退社して立憲政友会に身を置く。
板橋 菊松(いたばし きくまつ、1888年(明治21年)2月… 板橋 菊松(いたばし きくまつ、1888年(明治21年)2月3日 - 1983年(昭和58年)1月23日)は、日本のジャーナリスト、大学教授である。 1888年(明治21年)2月3日、大阪府三島郡で出生。1905年(明治38年)、関西大学に入学するが、1907年(明治40年)、早稲田大学政経学科に転じる。卒業後、宮武外骨率いる大阪滑稽新聞に入社。記者として活躍し、宮武外骨が編集から離れたのちには、主筆を務めた。1920年(大正9年)朝鮮に渡り京城高等商業学校講師に就任。その後、1926年(大正15年)には、内地に戻り立教大学の講師に就任し、翌1927年(昭和2年)には商学部の教授に昇進した。1928年(昭和3年)司法省在外研究員としてアメリカ、イギリスに留学した。
北浦 圭太郎(きたうら けいたろう、1887年12月3日 -… 北浦 圭太郎(きたうら けいたろう、1887年12月3日 - 1954年10月16日)は、日本の政治家。衆議院議員を通算4期務めた。 奈良県出身。関西大学専門部法律科卒。小学校訓導、函館区裁検事を歴任。その後弁護士となる。 1930年に行われた第17回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で立候補して初当選。その後民政党を離党し、1939年に行われた衆議院議員選挙の再選挙に無所属で立候補して2度目の当選を果たす。 院内会派の第一議員倶楽部に所属し、1940年に北浦がかつて所属していた民政党の先輩議員にあたる斎藤隆夫が反軍演説で除名された際にも除名に反対票を投じている。この時除名反対票を投じたのは北浦を含めて7名であり、そのうち斎藤の所属政党である民政党に所属していたことがある議員は北浦以外では投票にあたり民政党を離党した岡崎久次郎のみであった。
古河 和一郎(ふるかわ わいちろう、1887年〈明治20年〉… 古河 和一郎(ふるかわ わいちろう、1887年〈明治20年〉6月18日 - 1945年〈昭和20年〉7月9日)は、日本の計理士、政治家。衆議院議員(兵庫県第四区選出、当選2回)。 1887年、兵庫県生まれ。古河弥太郎の長男。1902年、家督を相続する。関西大学専門部法律科で学び、中退した。 税務署に務めた後、一ノ宮商業銀行大阪支店長に就任する。同銀行退職後は、大阪北浜で株仲買店を経営する。1927年、計理士を開業し、計理士会理事、大阪市、大阪府各計理士会長を務める。その他、日本連管工業社理事長を務めた。 1928年の第16回衆議院議員総選挙から1932年の第18回総選挙まで兵庫県第4区から立候補し続けたが落選続きで、1936年の第19回総選挙で立憲政友会公認で立候補して初当選した。
岡田 春夫(おかだ はるお、1887年(明治20年)3月24… 岡田 春夫(おかだ はるお、1887年(明治20年)3月24日 - 1937年(昭和12年)12月11日)は、日本の政治家。通算3回衆議院議員選挙に当選した。 兵庫県生まれ。1911年(明治44年)関西大学法律科を卒業、北海タイムスに入社し政治部記者となる。美唄町議、北海道議、北海道参事会員を経て、1928年(昭和3年)普通選挙が日本に導入されて初の総選挙に立憲民政党公認で旧北海道4区から立候補したが落選。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員選挙に前回の総選挙と同じく民政党公認で立候補し初当選。 1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員選挙では次点だったものの、4年後の第19回衆議院議員選挙では再び当選し政界に返り咲いた。
竹崎 米吉(たけざき よねきち、1886年(明治19年)11… 竹崎 米吉(たけざき よねきち、1886年(明治19年)11月25日 - 1967年〈昭和42年〉)は、日本の内務官僚。大阪府岸和田市長。 高知県吾川郡仁西村(現在の高知市)出身。1914年(大正3年)、関西大学法律科を卒業し、警部補となる。1919年(大正8年)、高等文官試験に合格。大阪府属、同警部、沖縄県警視・警務課長、同巡査教習所長、同中頭郡長、同国頭郡長、愛媛県書記官・学務部長、沖縄県書記官・警察部長、同内務部長、同総務部長を歴任した。1936年(昭和11年)、佐賀県書記官・総務部長に就任し、翌年7月に退官した。 退官後の1937年(昭和12年)10月に岸和田市長に選出された。
北村 徳太郎(きたむら とくたろう、1886年5月9日 - … 北村 徳太郎(きたむら とくたろう、1886年5月9日 - 1968年11月15日)は日本の政治家、銀行家。 1886年5月9日、京都で生まれる。子供の頃から身体が弱く、ほとんど病床で過ごしたため、幼年時代の遊びは全く知らず、友だちと外で駆け回ったこともなかった。青年期も健康にはならなかった上に、二人の兄が早く死んだ。また一人の兄は16歳で亡くなったので、自分がその年頃になると、ますます死の恐れを感じ、この不安を何とか解決したいと思い悩んだ。生家は浄土真宗だったので、ただ阿弥陀如来に頼れば極楽浄土に往生すると教えられたが、信じることができなかったという。 読書するうちにトルストイの作品に出会い、感動し、聖書を読み始めるようになった。
松田 正一(まつだ まさかず、1884年(明治17年)12月… 松田 正一(まつだ まさかず、1884年(明治17年)12月23日 - 1972年(昭和47年)7月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 和歌山県名草郡、のちの海草郡貴志村(現和歌山市)で生まれた。関西法律学校を経て、1906年京都法政大学(現在の立命館大学)法律科卒。卒業後は古河鉱業から大阪市役所に勤務する。津市共融合資会社の法律顧問となり津市に来住。 その後、津市議、同副議長、三重県議などを経て、1930年の第17回衆議院議員総選挙では三重1区(当時)から立憲民政党非公認で立候補して最下位で初当選し、同選挙区で民政党4人目の当選者となった。以来連続7回当選。米内内閣大蔵参与官、第1次吉田内閣運輸政務次官などを歴任した。
大柏 清三郎(おおかし せいざぶろう、1884年〈明治17年… 大柏 清三郎(おおかし せいざぶろう、1884年〈明治17年〉2月18日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。香川県丸亀市長。 1905年(明治38年)関西大学専門部法律学科を卒業し、大阪府属となる。1909年(明治42年)香川県属に転じ、1919年(大正8年)高松市助役職務管掌を経て、1920年(大正9年)高松市助役に就任し、爾来15年間勤続する。1934年(昭和9年)7月、助役を辞し、同月25日に丸亀市長に当選した。
内藤 正剛(ないとう まさたけ、1883年(明治16年)2月… 内藤 正剛(ないとう まさたけ、1883年(明治16年)2月28日 - 1959年(昭和34年)1月22日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 岡山県阿賀郡新見村(現在の新見市)出身。関西法律学校(現在の関西大学)を卒業した後、中央大学で学び、判事検事登用試験に合格した。司法官試補となったが、後に弁護士となり、大阪弁護士会副会長を務めた。弁護士のかたわら大阪市会議員・同議長、大阪府議会議員・同議長を歴任した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回まで3回連続当選を果たした。 戦後、公職追放となる。1951年追放解除。 その他に大阪木材相互市場株式会社顧問、関西大学監事などを務めた。
福田 関次郎(ふくだ せきじろう、1882年(明治15年)3… 福田 関次郎(ふくだ せきじろう、1882年(明治15年)3月18日 - 1979年(昭和54年)7月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(通算3期)。 山口県出身。1904年、関西法律学校(現・関西大学)卒。朝鮮で小学校校長をした後、京都製薬所長、七寿肥料(株)社長などを務め、京都市議、京都府議を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙において京都1区(当時)から中立(無所属)で立候補して初当選した。以来3回連続当選。当選後の会派は第一控室を経て、立憲民政党に入った。民政党解党後は鳩山一郎率いる同交会に入り、1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補したが落選した。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙と翌1947年の第23回衆議院議員総選挙(京都1区)に日本自由党公認で立候補したがいずれも落選し、政界から引退した。
生方 賢一郎(うぶかた けんいちろう、1882年〈明治15年… 生方 賢一郎(うぶかた けんいちろう、1882年〈明治15年〉1月6日 - 1961年〈昭和36年〉2月25日)は日本の俳優である。本名同じ。 1882年、群馬県利根郡新治村新巻(現在の同県同郡みなかみ町)に生まれる。但し、殆どの資料では生誕地を「群馬県利根郡新新沼村新巻」とするが、誤りである。生家は農業を経営していた。衆議院議員・生方大吉は従兄弟にあたる。 群馬師範学校を経て関西大学法学部を卒業。卒業後は日本橋女学校(現在の開智日本橋学園中学校・日本橋女学館高等学校)の教師になったが、1916年に小山内薫の新劇場を振り出しに新劇協会、築地小劇場、心座、前衛座、舞台協会、松竹新喜劇、曽我廼家五九郎一座、堀田金星一座、笑の王国を転々として1932年、P.C.L.映画製作所に演技課長として入社する。
藤原 喜一(ふじわら きいち、1880年〈明治13年〉12月… 藤原 喜一(ふじわら きいち、1880年〈明治13年〉12月17日 - 1990年〈平成2年〉3月6日)は、編集者、東洋美術史・中国書道史研究者。号は楚水(そすい)。書や漢詩に関する著書多数。男性長寿日本一だった(109歳)。 大分県西国東郡呉崎村(現:豊後高田市)生まれ。呉崎小学校教師を経て、1901年、関西法律学校を卒業後、明治法律学校で法律・経済学を学び、1904年、実業之日本社に入社。編集長、理事を務める。1928年、退社後は三省堂出版部顧問に。 戦後は東洋美術史、中国書道史の著述をする傍ら、駒澤大学、東京学芸大学、横浜国立大学で東洋美術史、中国書道史を講義。1961年、論文『中国書道史』で博士号(文学、駒澤大学)を取得。
作間 耕逸(さくま こういつ、1880年(明治13年)5月1… 作間 耕逸(さくま こういつ、1880年(明治13年)5月15日 - 1951年(昭和26年)1月2日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、貴族院勅選議員、弁護士。 山口県吉敷郡秋穂二島村(現在の山口市)に音羽清逸の三男として生まれ、作間家の養子となった。東京郵便電信学校を卒業し、大阪逓信局に勤務した。在職中に関西大学法律科に入学し、1902年(明治35年)に卒業した。その後長崎逓信局で外国郵便課係長、監理課係長を務め、1906年(明治39年)に退職した。同年、上京して日本大学高等専攻科に入学し、弁護士試験に合格した。 1914年(大正3年)、東京市会議員に当選し、参事会員にも選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
広瀬 徳蔵(廣瀬 德藏、ひろせ とくぞう、1878年(明治1… 広瀬 徳蔵(廣瀬 德藏、ひろせ とくぞう、1878年(明治11年)5月19日 - 1933年(昭和8年)5月8日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(大阪府第三区選出、当選4回)。 大阪市出身。広瀬種蔵の長男。関西法律学校(現在の関西大学)出身。判検事登用試験・弁護士試験に合格し、判事に任命された。辞職して弁護士を開業した。白川静を事務所に雇い入れていたことがある。その後、大阪市会議員、大阪府会議員・議長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。憲政会、立憲民政党に所属。一方で、宝塚尼崎電気鉄道株式会社の取締役、城北土地株式会社・東神火災保険会社・大阪土地建物株式会社・境川運河株式会社の監査役を務めた。
大石 大(おおいし まさる、1878年(明治11年)1月28… 大石 大(おおいし まさる、1878年(明治11年)1月28日 - 1966年(昭和41年)2月10日)は、日本の政治家。 高知県長岡郡長岡村(現南国市)に出生。小学校を3年で退学。1895年(明治28年)以降、長岡村役場書記、代用教員、裁判所書記などを経て、1903年(明治36年)に明治法律学校を卒業。1904年(明治37年)、関西法律学校に学んだ。大阪府警部などを務めた後、1912年(明治45年)から実業界に転じ、愛媛鉄道、大分国東鉄道等の重役、社長を務めた。1918年(大正7年)、政界に転じ、1920年(大正9年)5月の第14回総選挙で政友会から立候補し、衆議院議員に当選(以降、5回当選)。
玉置 良直(たまき よしなお、1876年7月2日 - 193… 玉置 良直(たまき よしなお、1876年7月2日 - 1934年9月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 奈良県出身。十津川村会議員、同村長、吉野郡会議員、同議長、奈良県会議員、所得税調査委員、地方森林会議員、大和山林会評議員となる。 泊園書院(現・関西大学)を経て東京専門学校(現・早稲田大学)で学び、1920年の第14回衆議院議員総選挙において奈良5区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1934年に死去した。
和田 義為(わだ よしため、1875年12月 - 没年不明)… 和田 義為(わだ よしため、1875年12月 - 没年不明)は、日本の実業家。共同酒造株式会社社長、大倉恒吉商店(現・月桂冠)株式会社取締役。族籍は兵庫県士族。 京都府士族、和田重為の長男として、1875年(明治8年)12月に生まれる。尚、尊皇派志士・正五位の和田義亮は祖父である。 1895年(明治28年)に家督を相続し、1897年(明治30年)、関西法律学校(現・関西大学)法科を卒業する。卒業後は大倉恒吉商店に勤務。その後、共同酒造株式会社社長、大倉恒吉商店(現・月桂冠)株式会社取締役を歴任した。
板野 友造(いたの ともぞう、1874年(明治7年)5月18… 板野 友造(いたの ともぞう、1874年(明治7年)5月18日 - 1945年(昭和20年)12月12日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 岡山県吉備郡足守町(現在の岡山市北区)で生まれる。関西法律学校(現在の関西大学)を卒業後、明治法律学校(現在の明治大学)に学び、1901年に卒業した。同年、判検事試験に合格し、司法官試補として高松区裁判所に赴任するが、半年で辞した。1902年(明治35年)より大阪市で弁護士を開業。 1913年(大正2年)、大阪市会議員に選出され、副議長を務めた。1920年(大正9年)1月、衆議院に補欠当選。以後、当選回数は合計5回を数えた。当初は立憲国民党所属であったが、立憲国民党解党後は革新倶楽部を経て立憲政友会に参加した。
石原 市三郎(いしはら いちさぶろう、1873年〈明治6年〉… 石原 市三郎(いしはら いちさぶろう、1873年〈明治6年〉2月10日 - 1940年〈昭和15年〉8月29日)は、昭和時代戦前の政治家。岡山市長。 石原友治の長男として、岡山県津高郡田益村(御津郡横井村、津高町を経て、現岡山市北区津高地域)に生まれる。関西大学法科に学ぶ。1906年(明治39年)普通文官試験に合格。1904年(明治37年)神戸税務監督局に出仕。豊岡税務所長、主税局事務官を経て、1924年(大正13年)東京市役所に入り、区画整理局庶務課長、監査課長、収税課長を経て、1933年(昭和8年)経理課長を歴任した。 1934年(昭和9年)2月25日に岡山市長に就任し、早々に前任の守屋松之助が廃止した助役二部制を復活させた。
野田 文一郎(のだ ぶんいちろう、1872年4月12日(明治… 野田 文一郎(のだ ぶんいちろう、1872年4月12日(明治5年3月5日) - 1960年(昭和35年)3月9日)は、広島県三次郡三次町(後の三次市)出身の裁判官、政治家。関西法律学校(後の関西大学)卒業。正四位勲二等旭日重光章。 広島県三次町(後の三次市)の造り酒屋に生まれ、関西法律学校卒業後、明治法律学校を経て司法官試補となる。大津区裁を振り出しに神戸地方裁判所、大阪控訴院判事を歴任後、兵庫県神戸市で弁護事務所を開業した。1920年、後立憲民政党となる憲政会から出馬し衆議院議員初当選。しかし1924年の総選挙で落選し議員生活を離れる。このため若手弁護士グループに担ぎ出され神戸弁護士会会長に就任。
中林 友信(なかばやし とものぶ、明治4年2月3日(1871… 中林 友信(なかばやし とものぶ、明治4年2月3日(1871年3月23日) - 昭和3年(1928年)2月18日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)。 大阪府泉北郡東陶器村岩室(現在の堺市南区)出身。関西法律学校(現在の関西大学)を経て、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。1895年(明治28年)より破産管財人を務める。 泉北郡会議員、大阪府会議員を経て、1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は合計で5回を数えた。 大阪盲人学校を創設して校長を務め、また大阪府教育会副会長に就任した。 その他、東京自由通信社主幹、日刊近畿新聞社社長などを歴任した。
阿川 甲一(あがわ こういち、1870年(明治3年)11月 … 阿川 甲一(あがわ こういち、1870年(明治3年)11月 - 1948年(昭和23年)6月)は、日本の実業家。満洲阿川組社長、長春倉庫運輸株式会社社長、長春日本人商工会議所会頭などを務めた。 作家阿川弘之の父で、法学者阿川尚之、エッセイスト阿川佐和子の祖父。 山口県美祢郡伊佐村(現美祢市伊佐町)の農家に生まれる。父は阿川利七(阿川家の7代目)、母はのし。阿川家について阿川弘之によると「我が阿川家からは、朱子学蘭学を学んだ者も、勤皇の志士も、郷土史に名を残すほどの篤農家も出てゐないらしい。要するに代々平々凡々たる中くらゐの自作農であつたと思はれる」という。甲一は8代目を継ぐ立場だったが、数え20歳になって早々、代言人(いまの弁護士)を志して郷里をはなれ、家督を甥の太七に譲る。
下岡 忠治(しもおか ちゅうじ、1870年10月26日(明治… 下岡 忠治(しもおか ちゅうじ、1870年10月26日(明治3年10月2日) - 1925年(大正14年)11月22日)は、日本の内務・農商務官僚、政治家。衆議院議員、朝鮮総督府政務総監。号・三峰。 庄屋・酒造業、下岡直一の二男として摂津国川辺郡広根村(現:兵庫県川辺郡猪名川町)で生まれる。一時東京に転居し、麹町小学校を卒業。その後は、官立大阪中学校、泊園書院、第三高等中学校を経て、1895年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。第三高等中学校、帝国大学時代を通じての同級生に浜口雄幸と幣原喜重郎がいる。大学卒業後内務属となり内務省大臣官房文書課勤務となる。同年11月、文官高等試験に首席で合格。 1896年1月、熊本県参事官に就任し、京都府参事官、茨城県書記官、法制局参事官、兼法制局書記官などを歴任。
幣原 坦(しではら たいら、1870年10月12日(明治3年… 幣原 坦(しではら たいら、1870年10月12日(明治3年9月18日) - 1953年(昭和28年)6月29日)は、日本の東洋史学者、教育行政官。幼名・徳治郎(とくじろう)。名前の「坦」は「たん」と読まれることもある。 本職は朝鮮史を専攻する歴史家だが、戦前の統治行政・統治教育を推進した官僚、教育者としても知られている。 大阪府北河内郡門真村(現・大阪府門真市)の旧家である幣原家の長男として生まれる。父・新治郎は市川家に生まれ幣原家の婿養子となっている。坦の次弟は後に外交官・政治家として活動し戦後に内閣総理大臣となった幣原喜重郎である。 1882年(明治15年)泊園書院(現・ 関西大学)で漢学を学び、1893年(明治26年)東京帝国大学文科大学国史学科卒業。
後藤 武夫(ごとう たけお、1870年9月13日(明治3年8… 後藤 武夫(ごとう たけお、1870年9月13日(明治3年8月18日) - 1933年(昭和8年)2月25日)は、日本の実業家。帝国興信所(現・帝国データバンク)、日本魂社創業者。福岡県出身。 筑後国出身。1883年(明治16年)、福岡県立福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)を経て、1887年(明治20年)4月、上京して東京英語学校に入学するが、1890年(明治23年)に帰郷して井尻高等小学校 (現・福岡市立三宅小学校)の教員となる。1894年(明治27年)、妻子を伴って大阪市へ移り、 関西法律学校(現・関西大学)に入学し、勤めながら修学し、1897年(明治30年)に卒業する。福岡日日新聞記者を経て1898年(明治31年)上京の後、明治33年(1900年)に帝国興信所(現・帝国データバンク)を設立した。
東川 徳治(ひがしかわ とくじ、明治3年3月16日(1870… 東川 徳治(ひがしかわ とくじ、明治3年3月16日(1870年4月16日) - 1938年(昭和13年))は戦前日本の中国法制史学者。臨時台湾旧慣調査会補助委員、法政大学講師、東北帝国大学附属図書館事務嘱託。大町桂月と親交があった。 明治3年(1870年)3月16日土佐国(高知県)に生まれた。1881年(明治14年)小学校を卒業して佐川村に移り、佐川中学分校に入学した。1883年(明治16年)廃校後、伊藤蘭林・山本迂斎に漢学を学んだ。1886年(明治19年)高知に出て、奥宮暁峰・松下武重に経学を学んだ。 1888年(明治21年)大坂に出て、梅清処塾で山本梅崖に古文辞学・英学・数学を学び、1889年(明治22年)塾長となった。
成田 栄信(榮信、なりた しげのぶ、1869年12月16日(… 成田 栄信(榮信、なりた しげのぶ、1869年12月16日(明治2年11月14日)‐ 1946年(昭和21年)1月1日) は、日本の言論人、実業家、政治家。衆議院議員。 伊予国宇和郡下灘村(現愛媛県宇和島市) で、成田亀太郎の二男として生まれた。1897年(明治30年)に分家した。苦学して関西法律学校(現関西大学)、英吉利法律学校(現中央大学)で学び水産講習所(現東京海洋大学)を卒業した。 生命保険事業に従事し安田共済支店長を経て、東京社を創立して雑誌『東京』を発行し、1907年(明治40年)に東洋通信社を創立して社長に就任。その他、日本織物取締役を務めた。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙愛媛県郡部選挙区に立憲政友会(政友会)から出馬して当選したが、同年12月10日に衆議院議員選挙法違反事件の控訴を取下げて禁錮刑が確定したため議員を退職した。
津原 武(つはら たけし、1868年11月22日(明治元年1… 津原 武(つはら たけし、1868年11月22日(明治元年10月9日) - 1953年(昭和28年)5月20日)は、日本の弁護士・実業家・政治家。衆議院議員、加悦鉄道社長、宮津銀行監査役、丹後縮緬工業組合理事長。 1868年11月22日(明治元年10月9日)、因幡国鳥取に生まれた。関西法律学校、明治法律学校、和仏法律学校(現・法政大学)で学び、京都府与謝郡宮津町(現・宮津市)で弁護士を開業した。 与謝郡会議員・議長、宮津町長、京都府会議員などを経て、1915年(大正4年)に第12回衆議院議員総選挙に当選した。民政党に所属して5回の当選を果たしている。 また、加悦鉄道社長、宮津銀行・橋北汽船などの役員、丹後縮緬工業組合理事長などを歴任した。
坂本 素魯哉(さかもと そろや、1868年11月10日(明治… 坂本 素魯哉(さかもと そろや、1868年11月10日(明治元年9月26日) – 1938年(昭和13年)8月3日)は、日本の銀行家、政治家(衆議院議員)。実弟は、衆議院議員を務めた坂本志魯雄。 1868年、土佐国長岡郡瓶岩村亀岩(現・高知県南国市)出身。1885年、高知師範学院卒業。1893年、大阪の関西法律学校(関西大学の前身)を卒業。1896年、明治法律学校(明治大学の前身)卒業後、日本銀行に入行。台北出張所に赴任し、台湾銀行創設に参画。1905年、彰化銀行設立に伴い、支配人として招聘され、1914年、専務取締役に就任。1920年、第14回衆議院議員総選挙で立憲政友会から高知県第3区に立候補して当選。
武田 貞之助(たけだ ていのすけ、慶応4年4月15日(186… 武田 貞之助(たけだ ていのすけ、慶応4年4月15日(1868年5月7日) - 昭和17年(1942年)3月11日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 近江国伊香郡高時村(現在の滋賀県長浜市)出身。1884年(明治17年)に滋賀県師範学校を卒業し、小学校教員を務めていたが、大阪に出て関西法律学校(現在の関西大学)に入学した。1892年(明治25年)に卒業した後、弁護士試験に合格し、大阪に事務所を開いた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後大阪商業学校校主・理事、原田汽船株式会社監査役、虎屋信託株式会社監査役、福井商店監査役などを務めた。
山田 安民(やまだ やすたみ、前名・卯之吉、1868年2月2… 山田 安民(やまだ やすたみ、前名・卯之吉、1868年2月23日(慶応4年2月1日) - 1943年(昭和18年)4月13日)は、日本の実業家、薬剤師。族籍は奈良県平民。ロート製薬の創業者。私立奈良盲唖学校開設者。奈良県における障害児教育の先駆者。 姓は山田姓ではなく津村姓と異なってはいるが、津村重舎(津村順天堂創業者)、津村岩吉(津村敬天堂経営)は実弟。長男は山田輝郎(ロート製薬初代社長)。孫は山田安邦(元会長、輝郎の長男)、山田安廣(現・取締役兼アンズコーポレーション社長、輝郎の五男)。曾孫は山田邦雄(現・会長、安邦の長男)。 大和国宇陀郡池上村(のち奈良県宇陀郡伊那佐村池上、現・奈良県宇陀市)で、農家の父・安二郎と母・ナカの長男・卯之吉として生まれる。
内田 重成(うちだ しげなり、1868年2月18日(慶応4年… 内田 重成(うちだ しげなり、1868年2月18日(慶応4年1月25日)- 1965年(昭和40年)10月4日 )は、日本の裁判官、海軍法務官、政治家。最終階級は海軍法務中将。貴族院議員。旧姓は平井。山口県出身 長門国豊浦郡、のちの山口県豊浦郡内日村(現下関市 )で、清末藩士・平井貢蔵の二男として生まれ、1892年(明治25年)11月、下関市清末の内田護の養子となった。 関西法律学校(後の関西大学)、和仏法律学校(後の法政大学)卒業後、1890年(明治23年)12月、文官高等試験に合格。1891年(明治24年)1月、司法官試補に任官し千葉地方裁判所詰となる。以後、千葉区裁判所検事、弘前区裁判所判事、栃木区裁判所判事、前橋区裁判所判事を歴任。