伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 -… 伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 - 1952年4月3日)は、長野県飯田市出身の実業家・鉄道経営者。
東京帝国大学:1,023人
伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 -… 伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 - 1952年4月3日)は、長野県飯田市出身の実業家・鉄道経営者。
甘露寺 受長(かんろじ おさなが、1880年〈明治23年〉1… 甘露寺 受長(かんろじ おさなが、1880年〈明治23年〉10月5日 - 1977年〈昭和52年〉6月20日)は、日本の華族(伯爵)。甘露寺家第35代当主。東宮侍従、侍従、侍従次長、明治神宮宮司を歴任した。官位は従二位勲一等。 1880年(明治23年)、甘露寺義長の長男として生まれる。母は子爵勘解由小路資生の四女・立子(たつこ)。 学習院初等科、中等科、高等科を経て東京帝国大学法科卒業。法学博士。学習院初等科在学中より皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の御学友として、宮中出仕した。 1910年(明治43年)12月、東宮侍従に任じられ、大正天皇践祚の後も東宮侍従として裕仁親王(のちの昭和天皇)に仕えた。
加藤 繁(かとう しげる/しげし、1880年〈明治13年〉9… 加藤 繁(かとう しげる/しげし、1880年〈明治13年〉9月3日 - 1946年〈昭和21年〉3月7日)は、明治から昭和前期にかけての東洋史学者。 1880年、島根県松江にて、旧松江藩士内田家の4男として生まれた。1歳のとき、同じ元松江藩士の加藤家の養子となった。松江中学時代に三宅雪嶺の支那(中国)研究論に惹かれて東洋史を志した。国民英学会を経て、22歳で東京帝国大学史学科支那史学科選科に入学。在学中に起こった日露戦争に伴う召集による休学を挟み、1906年に25歳で卒業した。この間に内田銀蔵の日本土地経済史の研究と師である白鳥庫吉の影響を受けて、当時日本ではほとんど研究されていなかった中国経済史研究をテーマに定めた。
逢坂 元吉郎(おうさか もときちろう、1880年6月25日 … 逢坂 元吉郎(おうさか もときちろう、1880年6月25日 - 1945年6月10日)は、日本の牧師、神学者である。既存の教会に限界を感じ、民衆教会を提唱した。 1880年(明治13年)、石川県江沼郡大聖寺町字番場町(現加賀市)に、父 平塚鎌吉、母 きしのの五男として生まれた。後に、逢坂家の養子となる。石川県尋常中学校および第四高等学校に在学中に西田幾多郎の感化を受けて、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学政治学科へ入学した。上京後の1904年(明治37年)、植村正久から洗礼を受けた。一時的に、植村が創立した東京神学社にも籍を置いた。 東京帝国大学を中退し、1908年(明治41年)に渡米。
工藤 十三雄(くどう とさお、1880年(明治13年)5月1… 工藤 十三雄(くどう とさお、1880年(明治13年)5月16日 – 1950年(昭和25年)12月17日)は、衆議院議員(政友本党→立憲政友会)、ジャーナリスト。 弘前市出身。東京帝国大学法科大学独法科を中退後、時事新報の記者となった。東洋拓殖株式会社嘱託を経て、郷里で陸奥日報社や弘前新聞社の経営にあたった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。6期連続当選を果たした。その間、平沼内閣で鉄道政務次官を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。戦後、公職追放となる。1951年(昭和26年)追放解除。 その他、石川島飛行機製作所顧問を務めた。
守山 恒太郎(もりやま つねたろう、1880年4月27日 -… 守山 恒太郎(もりやま つねたろう、1880年4月27日 - 1912年2月12日)は、東京都出身の野球選手。 獨逸学協会学校を卒業し、1899年に第一高等学校へ入学。 ドロップボールを駆使して、「一高第二次黄金時代」の左投手として活躍した。 1901年5月に横浜外国人チーム(横浜アマチュアクラブ)と対戦し5対6で敗れた。その後、制球力を向上させるため、一塁側グラウンドの後方にあったレンガ塀に5寸大の穴が開くまで投げ続けたり、投球練習中に痛めた左肘を治すため、校庭の桜の木に左手一本でぶら下がり伸ばすなど、校友会雑誌に「上野の杜にカラスの鳴かぬ日はあれど、守山の姿を運動場に見ざる日はなし」と書かれるほど猛練習に明け暮れた。
矢鍋 永三郎(やなべ えいざぶろう、1880年(明治13年)… 矢鍋 永三郎(やなべ えいざぶろう、1880年(明治13年)3月15日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 岡山県出身。第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。統監府書記官となり、日韓併合後、財務部長、税関長として各地に勤務した。1917年(大正6年)より朝鮮総督府事務官、財務局関税局長、同理財課長、参事官、黄海道知事を歴任した。 1925年(大正14年)に退官した後は、朝鮮殖産銀行理事、漢城銀行取締役、朝鮮金融組合聯合会長、朝鮮土地改良株式会社監査役、中川鉱業株式会社社長、国民総力朝鮮聯盟理事、不二興業株式会社社長などを務めた。 戦後、公職追放となった。
保井 コノ(やすい コノ、1880年2月16日 - 1971… 保井 コノ(やすい コノ、1880年2月16日 - 1971年3月24日)は、日本の植物学者・細胞学者。理学博士(東京帝国大学・論文博士・1927年)。日本初の女性博士号取得者。東京女子高等師範学校教授(39歳)、お茶の水女子大学教授などを経て、お茶の水女子大学名誉教授(72歳)。男女差別の著しい時代に、女性科学者として多くのことに、日本初のという形容詞が付く先駆者の道を歩み、女性科学者の道を拓いた。保井の学位取得をきっかけに、他の分野でも女性博士が出るようになる。 1880年香川県生まれ。香川県師範学校を経て女子高等師範学校を卒業、教師となる。34歳で渡米し、シカゴ大学で細胞学、ハーバード大学で石炭学を研究。
金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 196… 金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 1962年1月3日)は、日本の英文学者、翻訳者。 1880年(明治13年)、新潟県中頸城郡新井町に生まれる。高田中学校から東京の郁文館中学校、第四高等学校を経て1905年に東京帝国大学英文科を卒業した。 帝大在学中、一年の前半は小泉八雲、八雲退任後の三年間は夏目漱石の講義に出席して、その様子を詳しく日記に記している。日記の内容は著書『人間漱石』(いちろ社、1948。増補版は協同出版、1956)や、孫の金子三郎が編纂した『川渡り餅やい餅やい――金子健二日記抄』(上中下巻、私家版、1998)、『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』(リーブ企画、2002)等に紹介されており、漱石研究者にとって非常に貴重な資料となっている。
岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3… 岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3日 - 1954年(昭和29年)12月14日)は、日本の教育者。 岡上市次・竹の次男として高知県長岡郡大篠村(現・南国市)に生まれる。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)、第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 私立有恒学舎教授、金沢第一中学校教諭、佐沼中学校校長、第七高等学校造士館教授、第五高等学校教授、東亜同文書院副院長、徳島中学校校長、新潟高等学校校長、広島高等学校校長を歴任した。1936年(昭和11年)、浦和高等学校校長に就任し、1939年(昭和14年)に第四高等学校校長に転じた。
櫻井 天壇(さくらい てんだん、1879年〈明治12年〉10… 櫻井 天壇(さくらい てんだん、1879年〈明治12年〉10月18日 - 1933年〈昭和8年〉9月10日)は、日本のドイツ文学者、文芸評論家。第八高等学校第二語学科主任教授。会津八一の先輩で義弟。本名は櫻井 政隆(さくらい まさたか)。 新潟県南蒲原郡中野原新田村(現 三条市中野原)出身。1893年(明治26年)4月に新潟県尋常中学校に入学、「九泉童子」と号し、文芸雑誌『文庫』に投稿。 1898年(明治31年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1901年(明治34年)7月に第一高等学校を卒業、9月に東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学、カール・フローレンツに師事。 1903年(明治36年)6月から「天壇」と号し、『帝國文學』に評論を発表、1904年(明治37年)7月に東京帝国大学文科大学を最優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
貝原 良介(かいばら りょうすけ、1879年8月17日 - … 貝原 良介(かいばら りょうすけ、1879年8月17日 - 1918年10月22日)は、日本の教育者、物理学者。 福岡藩士族貝原信の長男として、福岡県に生まれる。1898年福岡県立尋常中学修猷館、1901年第五高等学校理科を経て、1904年東京帝国大学理科大学理論物理学科を卒業。 1906年学習院教授に就任し、物理、数学を講じた。 1918年10月22日、腎臓病により死去、従五位勲六等。
物集 高量(もずめ たかかず、1879年4月3日 - 198… 物集 高量(もずめ たかかず、1879年4月3日 - 1985年10月25日)は、国文学者・作家。「物集 梧水」名義による著作もある。 1879年、国学者の物集高見と夏子(旧姓岩田)の長男として東京市神田区駿河台(東京都千代田区神田駿河台)に生まれた。同年7月、父が出羽三山の宮司に任命されたため、1882年夏まで山形県東田川郡手向村(現在の鶴岡市)に育つ。 1882年に帰京し、東京市本郷区弓町(東京都文京区本郷)に住んだ。1883年、父の高見が東京帝国大学講師に就任。1884年、父の教育方針で4歳9ヶ月にして本郷小学校に入れられるが、第1学年で落第を経験。1885年2月3日、はしかを患う。後遺症で骨膜炎となり、終生左脚の自由を失う。
佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月2… 佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月20日 - 1929年〈昭和4年〉11月29日)は、大正・昭和初期の外交官。広島県出身。妻は小村寿太郎の娘・文子。 佐分利家は備後福山藩士で佐分利流槍術を営む家柄であった。貞男は、1879年(明治12年)1月20日、父・好直、母・八代の五男として出生した。1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業、10月、外交官及領事官試験に合格した。外交官補として清国、ロシア、フランス在勤などを経て、外務省参事官、大使館参事官、通商局長、条約局長等を歴任。 1929年(昭和4年)8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐ソ大使への出世を犠牲に駐支那公使に就任。
大河内 正敏(おおこうち まさとし、1878年(明治11年)… 大河内 正敏(おおこうち まさとし、1878年(明治11年)12月6日 - 1952年(昭和27年)8月29日)は、日本の物理学者、実業家。 東京府出身。子爵。理化学研究所(理研)の3代目所長、貴族院議員。身長は180cmと長身だった。妻は大河内信古の娘で、婿養子となった。息子は大河内信威、大河内信定、大河内信敬。孫の一人に女優の河内桃子がいる。無名時代の田中角栄を引き立てたことでも知られる。 旧上総大多喜藩主で、子爵大河内正質の長男として東京浜松町に生まれた。のち旧三河吉田藩の子爵大河内家(江戸時代前期に活躍し、「知恵伊豆」と呼ばれた老中松平伊豆守信綱の子孫の家系で、大多喜藩主家の遠縁)の養子となり、最後の藩主・大河内信古の娘を妻に迎える。
荒川 文六(あらかわ ぶんろく、1878年(明治11年)11… 荒川 文六(あらかわ ぶんろく、1878年(明治11年)11月18日 - 1970年(昭和45年)2月9日)は、日本の電気工学者。位階は正三位。九州帝国大学総長。工学博士。 神奈川県横浜生まれ。荒川省吾の長男。1886年、日本組合番町教会で小崎弘道から受洗。高等学校時代に信仰告白をなし、日曜学校教師、オルガニストとして活躍。後に福岡組合基督教会(現、日本基督教団福岡警固教会)に移り、福岡女学院理事長、日本基督教団常議員をつとめた。 九州帝国大学教授、同大総長の他、九州タイムズ社長も歴任する等、西日本での電気工学界の中心人物として活躍する。1946年3月22日、貴族院勅選議員に任じられ、無所属倶楽部に属し1947年5月2日まで在任した。
石川 日出鶴丸(いしかわ ひでつるまる、1878年(明治11… 石川 日出鶴丸(いしかわ ひでつるまる、1878年(明治11年)10月5日 - 1947年(昭和22年)11月8日)は、医師。専門は生理学、鍼灸治療。 1878年(明治11年)、代々医家を営む石川昌徹の五男として石川県射水郡小白石村(後に富山県小杉町を経て、現在の射水市)に生まれた。1888年(明治21年)、10歳の時に父を亡くす。富山県尋常中学校(現・富山県立富山高等学校)、旧制第四高等学校を卒業し、東京帝国大学医学部に進んだ。1903年(明治36年)、東京帝国大学医学部を卒業。 卒業後は、1904年(明治37年)より京都帝国大学医科大学生理学教室の天谷千松の下で研究を続けた。1905年、京都帝国大学医学部助教授となった。
宮城 長五郎(みやぎ ちょうごろう、1878年〈明治11年〉… 宮城 長五郎(みやぎ ちょうごろう、1878年〈明治11年〉9月5日 - 1942年〈昭和17年〉6月25日)は、明治から昭和にかけての裁判官、検察官、政治家。司法大臣、貴族院議員。旧少年法および矯正院法(少年院法の前身)の成立に尽力した人物として名高い。 埼玉県出身。農業・宮城藤次郎の二男として生まれる。郁文館中学、第一高等学校を経て、1906年(明治39年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法官試補となり千葉地方裁判所詰となる。 1908年(明治41年)4月、判事に任官し東京地方裁判所に着任。以後、八王子区裁判所予審判事、東京地裁判事を歴任。1913年(大正2年)5月、東京区裁判所検事に異動し、同年9月、司法省参事官となり法務局に勤務。
田中 茂穂(たなか しげほ、1878年8月16日 - 197… 田中 茂穂(たなか しげほ、1878年8月16日 - 1974年12月24日)は、日本の魚類学者であり、東京帝国大学の動物学の教授である。「近代魚類分類学の父」として知られる。魚類やサメに関する多くの論文を発表し、著名なアメリカ人科学者であるデイビッド・スター・ジョーダンおよびジョン・オターバイン・スナイダー(英語版)とともに日本の魚類に関する書籍(Jordan, Tanaka & Snyder 1913)を共著し、一般性の高い地方名に基づく標準和名を提唱した。財団法人板垣会顧問。 研究論文を約300編、書籍は50冊に及ぶ著作を行っている。
真鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、正字体:眞鍋 嘉一郞、18… 真鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、正字体:眞鍋 嘉一郞、1878年(明治11年)8月8日 - 1941年(昭和16年)12月29日)は、明治後期から昭和初期の医学者、日本における物理療法(理学療法)、レントゲン学、温泉療法の先駆者。東京帝国大学教授。日本内科学会会頭、日本医学放射線学会初代会長を歴任。X線に「レントゲン」の名を初めて使用し日本に定着させたことでも知られ、医聖(いせい)と呼ばれた。族籍は東京府士族。 愛媛県新居郡大町村(現・西条市大町)に生まれる。真鍋虎吉の長男。1882年(明治15年)、家督を相続した。 西条高等小学校、愛媛県尋常中学校(現・松山東高)に学ぶ。中学の教員に夏目漱石、同級生に松根東洋城がいた。
東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7… 東久世 秀雄(ひがしくぜ ひでお、1878年(明治11年)7月19日 - 1951年(昭和26年)11月18日)は、日本の農商務・宮内官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府出身。伯爵・東久世通禧の四男として生まれる。1897年(明治30年)12月6日、分家に際し父・通禧の功により男爵を叙爵した。 第一高等学校を経て、1905年(明治38年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年、農商務省に入省し農商務属となる。 以後、農商務省山林局書記、山林局事務官、宮内事務官、帝室林野局事務官、貴族院書記官、同書記官長代理、農商務書記官兼同参事官、皇后宮主事、内匠頭などを歴任。
倉敷 福太郎(くらしき ふくたろう、旧姓・渡部、1878年〈… 倉敷 福太郎(くらしき ふくたろう、旧姓・渡部、1878年〈明治11年〉7月 - 1942年〈昭和17年〉2月4日)は、日本の教育家。学習院名誉教授。族籍は鳥取県平民。位階は正三位、勲等は勲二等。 島根県簸川郡上津村大字上島字和久輪(現・出雲市上島町和久輪)・渡部桑右衛門の四男、渡部金三郎の弟。松江生まれ。 松江中学校、第四高等学校を卒業。東京帝国大学に入り、在学中鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)・倉敷岩太郎の養子となる。1904年に東京帝国大学理科大学数学科を卒業。1925年に家督を相続する。 宮城県立第一中学校教諭を経て後学習院教授に任じ、教務課長を命ぜられる。秩父宮、高松宮、三笠宮などの教育に当る。
田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 -… 田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 - 1943年〈昭和18年〉2月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、衆議院議員。田艇吉の子。 兵庫県氷上郡、のちの柏原町(現:丹波市)で、衆議院議員・田艇吉の長男として生まれる。鳳鳴義塾、開成中学、第一高等学校を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年同月、大蔵省に入り煙草専売局属として本局に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1905年(明治38年)12月、煙草専売事務官に就任。以後、煙草専売局主事、兼大蔵書記官、専売局主事、大蔵書記官・主計局司計課長、理財局国庫課長、兼大蔵省参事官、主計局予算決算課長、連合国経済会議(パリ)特派委員、海外駐箚財務官(米国駐在)、大蔵省主計局長などを歴任。
今井 嘉幸(いまい よしゆき、1878年(明治11年)5月2… 今井 嘉幸(いまい よしゆき、1878年(明治11年)5月25日 - 1951年(昭和26年)6月30日)は、衆議院議員、弁護士。法学博士。 愛媛県周桑郡小松町南川(現在の西条市)生まれ。今井角次の二男。1897年に愛媛県立松山中学校を、1900年に第一高等学校を卒業し、1904年7月に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。さらに同大学院で国際法を専攻。修了後、東京地方裁判所判事に任命された。1908年、清の招聘で判事在職のまま天津の北洋法政学堂で司法制度を教授した。 1914年、帰国して判事を退官し、大阪で弁護士の業務に就く。同年12月24日に法学博士の学位を授与された。1916年、中華民国での護国戦争に際し、雲南軍政府の招きで軍務院の顧問に就任した。
佐々木 隆興(ささき たかおき、1878年(明治11年)5月… 佐々木 隆興(ささき たかおき、1878年(明治11年)5月5日 - 1966年(昭和41年)10月31日)は、日本の医学者。専門は、生化学、内科学、実験腫瘍学。学士院恩賜賞(二回)受賞。文化勲章受章。 生前、1935年・1936年・1939年・1941年にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 東京生まれ。蘭方医・佐々木東洋の養嗣子である佐々木政吉の養嗣子、獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)卒業後、東京帝国大学卒。ドイツに留学し、ストラスブルク大学生化学ホーフマイステル教授、ベルリン大学化学フィッシャー教授、ベルリン伝染病研究所、ベルリン病理学研究所細菌血清学モルゲンロート博士、ベルリン大学内科ヒス、フリードマン教授らに学ぶ。
長與 又郎(新字体:長与 又郎、ながよ またお、1878年(… 長與 又郎(新字体:長与 又郎、ながよ またお、1878年(明治11年)4月6日 - 1941年(昭和16年)8月16日)は、日本の病理学者、男爵。癌研究の世界的権威。号は雷山。 1878年、医学界の重鎮・長與專齋の三男として東京神田で生まれた。慶應義塾幼稚舎、正則学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に進学。1904年12月に卒業。その後、医学修行のためドイツのフライブルク大学に留学した。 1910年に帰国し、東京帝国大学助教授に就いた。翌年に教授に小学し、病理学講座を担当した。夏目漱石の主治医でもあり、1916年に漱石が病死した際には、未亡人夏目鏡子の希望で、漱石の遺体を解剖した。
岩城 準太郎(いわき じゅんたろう、1878年3月12日 -… 岩城 準太郎(いわき じゅんたろう、1878年3月12日 - 1957年4月9日)は、日本の国文学者。 富山県上新川郡大広田村字大村(現富山市)出身。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)、第四高等学校を経て、1902年東京帝国大学文学部国文科卒。三重県立第一中学校教師、第四高等学校教授、1916年奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)教授。1906年『明治文学史』を刊行し、明治文学史を初めて文学史の対象とした。おもな著作に「明治大正の国文学」「新修日本文学史」などがある。
二上 兵治(ふたがみ ひょうじ / へいじ、1878年(明治… 二上 兵治(ふたがみ ひょうじ / へいじ、1878年(明治11年)2月25日 - 1945年(昭和20年)11月19日)は、日本の官僚、政治家。枢密院書記官長、行政裁判所長官、貴族院議員、枢密顧問官等を歴任した。法学博士。 石川県射水郡高岡縄手中町(現富山県 高岡市)で、酒造業・二上兵太郎の長男として生まれる。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)、第四高等学校(首席)を経て、1904年(明治37年)7月11日、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業、成績優秀のため銀時計を授与された。逓信省に入省し、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、東京郵便局郵便課長、逓信省通信局外信課長、同参事官兼逓信書記官・通信局外信課長、兼大臣官房秘書課長などを歴任。
岩崎 勲(いわさき いさお、1878年(明治11年)2月25… 岩崎 勲(いわさき いさお、1878年(明治11年)2月25日 – 1927年(昭和2年)1月18日)は、日本の弁護士、弁理士、政治家。衆議院議員(静岡県第五区選出、当選4回)。族籍は静岡県士族。 静岡県駿東郡八幡村(清水村八幡を経て現清水町)の人である。三嶋大社の禰宜岩崎元功の長男。家は代々八幡神社の社掌だったが、父の代に至って三嶋神社の禰宜を兼ねた。 静岡県尋常中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学に入る。在学中には各大学の同志とともに青年革進協会を組織してその幹部となり、雑誌『革進』の編集主任を務めた。 1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業、同年文官高等試験に合格したが、官界には入らず弁護士・特許弁理士となった。
松根 東洋城(まつね とうようじょう、1878年〈明治11年… 松根 東洋城(まつね とうようじょう、1878年〈明治11年〉2月25日 - 1964年〈昭和39年〉10月28日)は、俳人。本名豊次郎。位階は従四位。夏目漱石の門下生。 松根権六(宇和島藩城代家老・松根図書の長男)の次男として東京の築地に生まれた。母は宇和島藩主伊達宗城の三女敏子。弟に「電力界のフィクサー」とも呼ばれた実業家の松根宗一(1897 - 1987)がいる。 愛媛県尋常中学校(現松山東高等学校)時代に同校に教員として赴任していた夏目金之助(漱石)に英語を学んだことから、卒業後も交流を持ち続け俳句の教えを受けて終生の師と仰いだ。旧制一高、東京帝国大学から転じて京都帝国大学仏法科卒業。1906年(明治39年)宮内省に入り式部官、書記官、会計審査官等を歴任、1919年(大正8年)退官。
生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年… 生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年)2月1日 - 1973年(昭和48年)3月1日)は、日本の鉄道官僚・技師、土木技術者、鉄道実業家。台湾総督府交通局総長、京浜電気鉄道社長。 大分県大分郡、のちの稙田村(大分村、大分町を経て現大分市)で生野米蔵の長男として生まれる。大分尋常高等小学校、京都府立中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 逓信省に入省し鉄道作業局に配属された。1909年(明治42年)欧米に留学し1911年(明治44年)に帰国。鉄道院運輸局に配属され、1912年(明治45年)3月のジャパン・ツーリスト・ビューロー(現日本交通公社)創立に際して幹事に就任。
秋月 致(あきづき いたす、1878年1月26日 ー 196… 秋月 致(あきづき いたす、1878年1月26日 ー 1963年5月)は、日本基督教会の牧師。1918年から25年間、日本統治時代の朝鮮京城で牧師を務めた。植村正久門下。 1878年(明治11年)、徳川慶喜の御典医、柏原孝章の三男として静岡市に生まれる。致(いたす)は徳川慶喜が命名。静岡師範学校附属小学校、静岡県尋常中学校卒業。尋常中学では、兄の柏原知格が結成した城内倶楽部(静岡中学野球部の前身)に所属した。第四高等学校在学中にクリスチャンとなり、1908年(明治41年)東京帝国大学法科卒業後、直ちに牧師となった。 「父が福沢諭吉と同門の親友で維新前後のハイカラであったため、科学的精神を尊重し、無宗教、伝説打破、個人の自由を標榜し、運動を奨励、健康で体格の良いことを誇りとしたが、このような家庭に成長した私がどのようなものに成ったかと言えば、放縦我侭、傲慢軽率、胸中燃える野心を抱蔵する一個の始末に負えぬ人物と成った。
鈴木 虎雄(すずき とらお、1878年〈明治11年〉1月18… 鈴木 虎雄(すずき とらお、1878年〈明治11年〉1月18日 - 1963年〈昭和38年〉1月20日)は、日本の古典中国文学者。新潟県西蒲原郡粟生津村(のち吉田町、現在は燕市に合併)出身。燕市名誉市民。 父鈴木惕軒は、長善館二代館主、その八男(戸籍上は五男)。一時大橋家の養子となり、大橋姓を称したが、後に鈴木姓に復した。甥には岩手県知事(官選)を務めた鈴木脩蔵がいる。妻鶴代は陸羯南の次女。 幼少時は長善館で父惕軒に師事する。上京後、東京英語学校、東京府尋常中学、第一高等中学校で学び、1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学漢学科卒業。同大学院中退後、日本新聞社、台湾日日新報社、東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)講師・教授などを経て、1908年(明治41年)に新設間もない京都帝国大学文科大学助教授に就任する。
垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1… 垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1952年8月25日)は、日本の国語教育学者・国文学者。 岐阜県高山市出身。旧姓は代情(よせ)。6歳で分家の垣内雲嶙の養嗣子となった。1903年東京帝国大学国文科卒。 東京帝国大学講師、東京女子高等師範学校教授、1919年ヨーロッパ外遊、1920年東京高等師範学校講師、1924年教授。のち東洋大学教授。 筆名として「まつみ」とも読ませた[要出典]。墓所は雑司ヶ谷霊園。 垣内は国学を研究すると同時に、言語学・心理学・現象学といった西洋諸科学とを止揚する学術体系の構築を目指し、生涯をかけてこれに取り組んでいるが、その渉猟する学術領域の広さ、探究する対象群の深さ、そして独創的な発想と理想の高さは、いずれにおいても他の追随を許さないものとなっている。
有田 延(ありた のぶ、1878年1月2日 - 1944年1… 有田 延(ありた のぶ、1878年1月2日 - 1944年10月19日)は、日本の造船技術者。海軍造船少将。 福岡県出身。1896年福岡県立尋常中学修猷館、1899年7月第五高等学校工科を経て、1902年7月東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。東大在学中の1901年2月、海軍造船学生試験に合格。 1902年呉海軍造船廠に入り、その後、造船廠と造兵廠が合併し、呉海軍工廠が設立されると、その造船部部員となる。1907年佐世保海軍工廠造船部部員となる。ここで筑摩型防護巡洋艦の設計を行い、この型の巡洋艦として、筑摩、 矢矧、平戸の3隻が建造された。 1911年造船監督官として英国に出張。ヴィッカース社による戦艦金剛の建造を監督し、竣工まで立ち会っている。
吉岡 荒造(よしおか こうぞう、1878年 - 没年不詳)は… 吉岡 荒造(よしおか こうぞう、1878年 - 没年不詳)は、日本の台湾総督府官僚。
渋谷 米太郎(しぶや よねたろう、1877年(明治10年)1… 渋谷 米太郎(しぶや よねたろう、1877年(明治10年)12月20日 - 1971年(昭和46年)9月28日)は、日本の実業家。三菱ふそう自動車初代会長などを務めた。妻・ミサは山口鋭之助の長女。長女・光子は井上薫の妻。 渋谷家は、山形県東田川郡藤島町西川原(現・鶴岡市)の代々地主農であった。米太郎は渋谷五右衛門の4男として生まれる。 1903年(明治36年)、東京帝国大学英法科卒業後、三菱合資会社入社。門司副支店長、香港、神戸各支店長を歴任。 その後、三菱商事に移り、金属部長を経て取締役に選任され、常務に進み、かたわら北洋漁業常務を兼任し、三菱内燃機、三菱航空各常務を務めた。 戦後は、三菱重工業、理研金属各監査役、国際電気通信取締役、三菱ふそう自動車を発足させると初代会長、太平興業相談役、第一貨物顧問を歴任したほか、庄内地方出身者の男子学生寮を運営する荘内館の理事を務めた。
近藤 平三郎(こんどう へいざぶろう、1877年12月11日… 近藤 平三郎(こんどう へいざぶろう、1877年12月11日 - 1963年11月17日)は、日本の薬剤師、薬学者(薬化学)。勲等は文化勲章。学位は薬学博士。日本学士院会員。 陸軍薬剤官、塩野義商店顧問、乙卯研究所所長、東京帝国大学教授、日本薬学会会頭、日本薬剤師会会長などを歴任した。 現在の静岡県賀茂郡松崎町にて生まれた。本郷のドイツ語学校から東京帝国大学医科薬学科に進み、長井長義に師事。帝大卒業後は大学に籍を置きながらも陸軍薬剤官として入隊し、日露戦争に薬剤師として従軍。陸軍医学校教官を経て、ベルリン工科大学に留学して有機化学を専攻した。 1911年に帰国すると塩野義商店の塩野長次郎の懇請を受け、塩野義商店顧問に就任。
船田 一雄(ふなだ かずお、1877年12月7日 - 195… 船田 一雄(ふなだ かずお、1877年12月7日 - 1950年4月18日)は大正、昭和期の日本の実業家。三菱合資会社理事長を務めた。 愛媛県上浮穴郡東明神(明神村→久万町を経て、現・久万高原町)出身。久万高等小学校卒業翌年の1892年(明治24年)、試験により愛媛県尋常中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)2年に編入学する。中学5年の1895年(明治28年)に夏目漱石が教員として赴任し、船田も漱石に食事などのもてなしを受けたという。 1896年(明治29年)、愛媛県尋常中学校卒業とともに第五高等学校文科に進学。1899年(明治32年)に第五高等学校を卒業して東京帝国大学法科大学独法科に進んだ。在学中に父が病死し、7年を要して1906年(明治39年)に卒業した。
柴田 善三郎(しばた ぜんざぶろう、1877年11月 - 1… 柴田 善三郎(しばた ぜんざぶろう、1877年11月 - 1943年8月25日)は、日本の官僚。静岡県出身。
末広 恭二(すえひろ きょうじ、1877年10月24日 - … 末広 恭二(すえひろ きょうじ、1877年10月24日 - 1932年4月9日)は日本の造船工学者。東京帝国大学教授、地震研究所所長。日本の造船工業の発展に寄与。末広鉄腸の次男。末広恭雄の父。 1900年東京帝国大学工科大学を卒業、長崎三菱造船所に入社。1911年東大教授となる。 主に船体の応力・振動・動揺について研究した。1919年三菱造船所に研究所の設置を提案、自ら所長になる。また、関東大震災後、寺田寅彦とともに東京帝大地震研究所の創設につくし、初代所長となる。 1922年「伝動軸の捩れ計の研究」で帝国学士院賞を受賞する 1931年には米国土木学会に招かれ渡米し、日本の地震学、地震工学を紹介した。
河井 彌八(かわい やはち、1877年(明治10年)10月2… 河井 彌八(かわい やはち、1877年(明治10年)10月24日 - 1960年(昭和35年)7月21日)は、日本の官僚・政治家。侍従次長や参議院議長(第4代)を歴任する。静岡県出身。 静岡県佐野郡上張村にて生まれた。1897年(明治30年)静岡県尋常中学校卒業。1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 内務省に入省して佐賀県内政部長代理などを歴任する。1918年(大正7年)に内閣法制局に移り、翌年に貴族院書記官長、1926年に内大臣府秘書官長となった。1927年(昭和2年)から侍従次長兼皇后宮大夫、1930年(昭和5年)から7年間にわたって皇后宮大夫兼侍従次長として昭和天皇・香淳皇后の側近として仕えた。
浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23… 浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23日 - 1928年〈昭和3年〉12月1日)は、日本の歴史学者。専門は中国法制史、日中関係史。 1877年(明治10年)、兵庫県神戸に生まれた。1896年、兵庫県尋常中学校を卒業し、熊本の第五高等学校に入学。1899年、東京帝国大学文科大学漢学科史部に入学。大学では東洋史の市村瓚次郎、国史の星野恒、経済史の内田銀蔵、法制史の宮崎道三郎らから学び、1902年(明治35年)に卒業。同大学大学院に進学した。 1905年、台湾総督府に設置された臨時台湾旧慣調査会の嘱託となり、『清国行政法』の編纂に従事。1915年(大正4年)、『清国行政法』完成と同時に調査会を辞職し、帰郷した。
尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2… 尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2日 ‐ 1965年(昭和40年)9月19日) は、日本の実業家・政治家。衆議院議員。 愛媛県温泉郡松山(現松山市)で愛媛県士族・尾崎敬正の長男として生まれた。年少のころは文学者を志していた。愛媛県尋常中学校(のち松山中学校、現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。さらに同大学院で経済学、財政学を研究した。官界を志望していたが実業界に転じた。 三井銀行に入行し、調査課長、部長を歴任。中国興業(中日実業)公司設立の際に三井銀行から出向して専務取締役に就任。その他、浦口土地組合代表、中国綿業取締役、中日銀行取締役、東洋拓殖理事、朝鮮鉄道監事を務めた。
古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)… 古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)は、日本の教育者。 福岡県山門郡沖端村(後の柳川町、柳川市の一部)出身で、古賀生三の子。同じく沖端村(柳川)出身の詩人北原白秋の親友であったといわれている。中学伝習館(現:福岡県立伝習館高等学校)、1899年7月第五高等学校文科を経て、1902年7月東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 青森県立八戸中学校教諭を経て、長崎県立島原中学校校長、埼玉県立川越中学校校長、埼玉県立熊谷中学校校長を歴任。1924年から1930年まで鹿児島県立第二鹿児島中学校校長。在任中に鹿児島県議会を説得し、第二鹿児島中学校校舎の鉄筋コンクリート造新校舎への建て替えに尽力。
田子 勝彌(たご かつや、1877年(明治10年)5月26日… 田子 勝彌(たご かつや、1877年(明治10年)5月26日 - 1943年(昭和18年)12月23日) は、日本の動物学者。 福島県石城郡三阪村(現在のいわき市)に生まれる。東京帝国大学の学生時代からサンショウウオを研究していた。内務省時代に史蹟名勝天然記念物調査の考査員を務めた。
太刀川 平治(たちかわ へいじ、1877年〈明治10年〉4月… 太刀川 平治(たちかわ へいじ、1877年〈明治10年〉4月7日 - 1966年〈昭和41年〉2月15日)は、日本の電気技術者。工学博士。東京電燈研究所長・技師長・工務部長・常務取締役、東京電力顧問。電気学会名誉員。 新潟県古志郡長岡表五ノ町(現 長岡市表町4丁目)の薬種商・太刀川善蔵の四男として出生。 新潟県尋常中学校を経て、1899年(明治32年)7月に第一高等学校を卒業、1902年(明治35年)7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。 1902年(明治35年)7月に逓信省電気試験所に技手として入所、1903年(明治36年)12月に一年志願兵として陸軍歩兵第1連隊に入隊、日露戦争に応召、1905年(明治38年)6月に陸軍歩兵少尉に任官、戦後、逓信省を退官。
野坂 康二(、明治10年(1877年)4月 - 没年不明)は… 野坂 康二(、明治10年(1877年)4月 - 没年不明)は日本の実業家。ゼオライト工業(株)社長。米子製鋼所、日本信号各取締役。鉄道省嘱託。大阪鉄道学校理事長。 元衆議院議員野坂茂三郎の弟。元鳥取県米子市長野坂寛治の叔父。 鳥取県米子市法勝寺町出身。商家の生まれである。屋号は油屋。野坂與八郎の六男。 明治35年(1902年)東京帝国大学工科機械科を卒業。大正14年(1925年)、甥寛治方より分家す。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日… 額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日 - 1972年(昭和47年)7月29日)は、日本の医師・医学者(内科学)・教育者。東邦大学共同創立者。日本大学医学部医学科初代医学科長。日本大学名誉教授。 1878年(明治11年)、岡山県邑久郡に医師の長男として生まれた。上京して獨逸学協会学校中等部、旧制一高に通い、東京帝国大学医学科に入学した。大学在学中はボート部で活躍し、大学を休みがちであったがドイツ語の原書を読んで補った。 大学卒業後の1907年(明治40年)にドイツへ3年間私費留学する。留学中にドイツ女性に感銘を受け、女性を対象とした教育を使命と考える。 帰国後に医学博士の学位を取得する。
島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう、1877年(明治10年… 島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう、1877年(明治10年)3月12日 - 1937年(昭和12年)4月27日)は、日本の医師、内科学者、医学博士。和歌山県、現在の和歌山市出身。脚気がビタミン欠乏症であることを発見した。 1877年3月12日、和歌山県、現在の和歌山市(当時は市制施行以前)に須藤暢の次男として生まれた。父を幼少期に亡くし、母と13歳上の兄の丑彦に育てられた。和歌山中学校在学中に才覚を見込まれ、医師の島薗家の娘婿として養子となる。卒業後、第一高等学校を経て、1899年に東京帝国大学医科大学に進学。大学在学中は、三浦謹之助教授、高橋順太郎教授の指導を受けた。1904年に卒業し、ドイツに留学。