松本 正雄(まつもと まさお、1917年(大正6年)6月1日… 松本 正雄(まつもと まさお、1917年(大正6年)6月1日 - 1986年(昭和61年)10月20日)は、日本の建築家・土木技術者、政治家。郷里である富山県小矢部市の市長を4期14年務めた。市長としては「メルヘン建築」の建設で知られる。 1917年(大正6年)、富山県西礪波郡東蟹谷村平桜(現在の小矢部市平桜)に生まれる。砺波中学校(現在の富山県立砺波高等学校)、第四高等学校を経て、東京帝国大学に進む。 東京帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入省。重要河川の改修工事に携わる。建設省北陸地方建設局長在任中の1969年(昭和44年)には、集中豪雨による富山大橋の橋桁沈下に対応した。同年、建設省を退官。
宇野 収(うの おさむ、1917年5月29日 - 2000年… 宇野 収(うの おさむ、1917年5月29日 - 2000年11月12日)は、日本の実業家。東洋紡績社長や関経連会長を務めた。 1917年、京都市上京区(現・左京区)東丸太町の野村家で3人兄妹の次男として生まれる。2歳の時に妹の出産時の産褥熱が原因で母が亡くなり、錦林小学校4年生の時に銀行員だった父も逝去した。その後は父の遺産の貸家で生計を立てた継母に育てられ、京都三中に進学。成績は校内で上位だったが受験の直前に肺尖カタルにかかって一年間浪人し、旧制三高に入学した。 自宅から三高までは徒歩20分程度の距離だったが兄の勧めで学生寮に入り、水泳部で選手やマネージャーを務めた。北村久寿雄と一緒に泳いだ事もあったという。
槇野 勇(まきの いさむ、1917年(大正6年)4月18日 … 槇野 勇(まきの いさむ、1917年(大正6年)4月18日 - 1994年(平成6年)11月2日)は、日本の警察官僚。警視総監。位階は正四位。 奈良県、現在の五條市出身。1935年奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)を経て、[要出典]第一高等学校を卒業。1941年10月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し東京府属となる。 短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進。1945年に復員。 内務省に復帰し内務省調査局調査課に配属。1953年、国家地方警察滋賀県本部警察隊長に就任。
安田 章生(やすだ あやお、1917年〈大正6年〉3月24日… 安田 章生(やすだ あやお、1917年〈大正6年〉3月24日 - 1979年〈昭和54年〉2月13日)は、昭和期の歌人、国文学者。文学博士。 尾上柴舟門下の歌人・安田青風の長男として兵庫県に生まれる。2歳のとき朝鮮・釜山に、4歳のとき京城に移る。1921年、兵庫県揖保郡龍野町(現たつの市)に転居。1925年、宍粟郡山崎町に移る。 龍野中学校(現兵庫県立龍野高等学校)、姫路高等学校文科を経て、東京帝国大学国語国文学科卒。大手前高等女学校教諭となる。戦中は土浦海軍航空隊教授嘱託、海軍教授を務める。1945年、天理語学専門学校(現天理大学)教授。1946年、樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学)教授。
原田 伴彦(はらだ ともひこ、1917年3月11日 - 19… 原田 伴彦(はらだ ともひこ、1917年3月11日 - 1983年12月8日)は、日本史学者、大阪市立大学名誉教授。
井上 栄一(いのうえ えいいち、1917年〈大正6年〉1月1… 井上 栄一(いのうえ えいいち、1917年〈大正6年〉1月1日 - 1993年〈平成5年〉3月3日)は、日本の農林技官、気象学者、農業気象学者、微気象学者。理学博士。元農林省農業技術研究所物理統計部気象科長。日本農業気象学会名誉会員。 新潟県新潟市出身。新潟尋常小学校を経て、1934年(昭和9年)3月に新潟中学校を卒業、1937年(昭和12年)3月に第一高等学校を卒業、1941年(昭和16年)3月に東京帝国大学工学部航空学科を卒業。 1941年(昭和16年)4月に陸軍航空技術学校に入校、軍曹に任官、6月に見習士官に任官、8月に陸軍技術中尉に任官、陸軍航空本部に配属。 航空技術将校として、太平洋戦争の戦地や大日本帝国軍の占領地に出向き、そこに残された戦闘機スーパーマリン スピットファイアや戦闘機P-40 キティホークなどの敵国の航空機や文書などを調査した。
居村 栄(いむら さかえ、1917年-2006年1月12日)… 居村 栄(いむら さかえ、1917年-2006年1月12日)は、日本の教育学者。 大阪府出身。大阪府立堺中学校、大阪高等学校、東京帝国大学文学部社会学科卒業。文部省に入り、山梨県教育委員会社会教育主事、1952年岡山大学教育学部助教授、教授、83年定年退官、名誉教授、就実女子大学教授。
豊 永光(ゆたか えいこう、1916年10月3日 - 200… 豊 永光(ゆたか えいこう、1916年10月3日 - 2001年7月12日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(1期)。名瀬市長(1期)。 鹿児島県名瀬市(奄美市)出身。鹿児島県立大島中学校 (旧制)四年修了で第七高等学校造士館 (旧制)に進学、卒業。1939年、高等試験行政科試験に合格、翌年東京帝国大学法学部を卒業。農林省に入り、畜産局資料課長、大臣官房広報課長、大阪、熊本の各営林局長となり、1967年の第31回衆議院議員総選挙に奄美群島区から無所属で立候補したが落選。1969年の第32回衆議院議員総選挙で保岡武久を破り、初当選した。しかし、1972年の第33回衆議院議員総選挙では保岡武久の息子の保岡興治に敗れて落選。
五島 昇(ごとう のぼる、1916年(大正5年)8月21日 … 五島 昇(ごとう のぼる、1916年(大正5年)8月21日 - 1989年(平成元年)3月20日)は、日本の実業家。東京急行電鉄社長・会長。日本商工会議所会頭。五島慶太の長男。 東京府東京市神田区駿河台(現・東京都千代田区神田駿河台)に、五島慶太、万千代(旧姓久米)の長男として生まれる。学習院初等科、中等科 (旧制)、高等科 (旧制) を経て東京帝国大学経済学部を卒業。学生時代は野球部に籍を置き捕手としてならしたが、のちにゴルフ部へ転部。ゴルフがきっかけで知遇を得た東京芝浦電気副社長・津守豊治の紹介で同社に入社した。昇には父の跡を継ぐ気がなかった。 慶太には昇と進という二人の息子がいた。兄・昇は常日頃から父に反抗し「絶対に(父の)を跡を継がない」と放言していた。
早川 崇(はやかわ たかし、 1916年(大正5年)8月21… 早川 崇(はやかわ たかし、 1916年(大正5年)8月21日 - 1982年 (昭和57年)12月7日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。自由民主党衆議院議員。自治大臣、国家公安委員会委員長、労働大臣、厚生大臣を歴任した。 1916年(大正5年)8月21日、現在の和歌山県田辺市に生まれる。田辺市立田辺第一小学校、旧制和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺高等学校)、第三高等学校文科甲類を経て、1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。東大では矢部貞治の門下で、同期生には中曽根康弘(後の首相)、小沢辰男(後の厚相)がいる。高等文官試験に合格し東大卒業後、内務省に入省する。
力石 健次郎(ちからいし けんじろう、1916年〈大正5年〉… 力石 健次郎(ちからいし けんじろう、1916年〈大正5年〉8月6日 - 1995年〈平成7年〉2月9日)は、日本の外交官。 愛媛県喜多郡大洲町(現:大洲市)出身。旧大洲藩士・力石八十綱の三男・力石敏三郎(海軍中佐)の次男として母マツ(海軍主計中将池辺安雄の妹)との間に横須賀市汐入で生を受ける。 敏三郎は力石雄一郎の弟にあたる。幼少期は海軍士官だった父の赴任先である朝鮮鎮海にも帯同している(妹 スミ子の出生地)。 父が本土に戻った後、一時期母マツの実家でもある熊本で暮らし熊本市立春日尋常小学校卒業~中学校入学となるが、その後横浜(神奈川区台町とも)に移り住み神奈川県立第一中学校に転校。 その後旧制第一高等学校を経て1940年(昭和15年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。
山本 重信(やまもと しげのぶ、1916年3月28日 - 2… 山本 重信(やまもと しげのぶ、1916年3月28日 - 2008年7月3日)は、日本の商工・通産官僚、実業家。階級は海軍主計大尉。位階は正四位。勲等は勲二等。 通商産業省通商局局長、中小企業庁長官、通商産業事務次官、トヨタ自動車工業副社長、トヨタ自動車副会長、日野自動車工業会長などを歴任した。 長野県須坂市に生まれる。長野県旧制須坂中学、旧制松本高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、1939年4月、商工省入省。短期現役海軍主計科士官(2期)に志願して、同年5月5日、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年9月5日に卒業。霧島に配属。第三遣支艦隊・磐手乗組、佐世保鎮守府経理部付、呉建築部員を歴任。
谷村 裕(たにむら ひろし、1916年(大正5年)3月26日… 谷村 裕(たにむら ひろし、1916年(大正5年)3月26日 - 1996年(平成8年)10月22日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、公正取引委員会委員長、東京証券取引所理事長等を歴任。 東京に生まれる。旧制暁星中学4年生修了、第一高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科卒業。採用試験20科目全てで優を取り、トップで大蔵省に入る。大臣官房文書課属。 1938年(昭和13年)短期現役海軍主計科士官(1期)を志願。同年7月、海軍経理学校に入学し、同年12月に卒業。海軍主計中尉に任官。名取に配属。第五艦隊司令部付妙高乗艦、呉海軍工廠会計部購買課勤務を歴任。1940年(昭和15年)11月、主計大尉に昇進。
梶井 健一(かじい けんいち、1916年(大正5年)3月1日… 梶井 健一(かじい けんいち、1916年(大正5年)3月1日 - 2011年(平成23年)7月16日 )は、日本の実業家。名古屋鉄道の元社長。梶井剛の長男。位階は正四位。 東京都出身。武蔵高等学校を経て、1940年(昭和15年)に東京帝国大学経済学部卒業とともに日本銀行に入行。短期現役海軍主計科士官(5期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。1941年(昭和16年)1月に経理学校を卒業。衣笠に配属され、以後、厦門警備隊勤務、岩国海軍航空隊副官兼海兵教官を歴任。1942年(昭和17年)5月、主計大尉に昇進。出水海軍航空隊主計長、兼国分海軍航空隊主計長、光州海軍航空隊主計長を務め、1945年(昭和20年)4月、光海軍工廠会計部に転任し、同年5月、主計少佐に進み終戦を迎えた。
多田 幸蔵(ただ こうぞう、1916年2月4日 - 2010… 多田 幸蔵(ただ こうぞう、1916年2月4日 - 2010年2月25日)は、日本の英文学者。東京大学名誉教授。 愛媛県生まれ。福岡高等学校を経て、1940年(昭和15年)東京帝国大学英文科卒。群馬県立高崎中学校教諭、1943年応召、満州で軍務につく。1946年福岡高校講師、1947年教授、1949年九州大学助教授、1950年東京大学教養学部助教授を経て教授、1976年定年退官し名誉教授、のち専修大学教授(1986年まで)。1989年勲三等旭日中綬章受章。2010年2月25日没 享年94。 受験生向けの英語参考書を多く執筆し、翻訳書が多くある。
景山 二郎(かげやま じろう、1916年〈大正5年〉1月13… 景山 二郎(かげやま じろう、1916年〈大正5年〉1月13日 - 1999年〈平成11年〉6月26日)は、日本の警察官僚、剣道家。位階は正四位。景山民夫の父。 広島県三次市で生まれ、小学生の時に祖母の実家である広島市内の景山家の養子となる。旧制武蔵高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省する。 1942年に警部補を拝命し、原爆投下時には徳島県で警察官をしていた。特高に席を置いていたため、敗戦後公職追放となる。 警視庁神田警察署長、刑事部鑑識課長、総務課長、第五方面部長、第一方面部長を務め、山梨県警察、秋田県警察、熊本県警察、埼玉県警察、神奈川県警察の各本部長を歴任。関東管区警察局長を最後に退官した。
山本 高治郎(やまもと たかじろう、1916年 - )は、日… 山本 高治郎(やまもと たかじろう、1916年 - )は、日本の小児科医、聖路加国際病院名誉医長。 滋賀県生まれ。1941年東京帝国大学医学部卒。1953年東京大学医学博士。論文の題は「穀粉栄養障碍に於けるビタミンA欠乏症状発現に関する実驗的研究」。 聖路加国際病院小児科医長、のち名誉医長。北里大学客員教授。1983年『母乳』で毎日出版文化賞受賞。
河村 喜典(かわむら よしぶみ、1915年12月27日 - … 河村 喜典(かわむら よしぶみ、1915年12月27日 - 2010年5月25日)は、日本の経営者。三共株式会社(現第一三共)代表取締役社長・会長。 1915年12月27日山口県生まれ。豊浦中学校、第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。 サラリーマン社長ながら1975年から25年間の長期にわたって三共株式会社社長を務め、抗炎症剤ロキソニンや高脂血症治療剤メバロチンなどを大型製品に育てた。1997年、勲二等旭日重光章受章。2000年に代表取締役会長に就任するが、同年、取締役である息子の不祥事によって会長を退任する。2011年5月25日死去、95歳。
三宅 真助(みやけ しんすけ、1915年(大正4年)10月5… 三宅 真助(みやけ しんすけ、1915年(大正4年)10月5日 - 没年不詳)は、実業家である。第二次世界大戦中に従軍し、大日本帝国陸軍主計中尉となり、戦後はクラレ東京支社長、クラレ不動産取締役を務めた。岡山県高梁市出身。 1915年(大正4年)、現在の岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)で生れる。その後、1928年(昭和3年)に地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学した。1933年(昭和8年)に同校を卒業し、翌年、岡山市にある旧制第六高等学校へ進学する。その後、1937年(昭和12年)3月に同校を卒業し、同年、東京帝国大学経済学部へ進学する。1940年(昭和15年)3月、同大学の経済学部経済学科を卒業する。
川合 武(かわい たけし、1915年9月21日 - 1991… 川合 武(かわい たけし、1915年9月21日 - 1991年1月15日)は日本の内務・自治官僚・政治家。元衆議院議員(1期)。 神奈川県出身。横浜一中、水戸高卒業。1940年、東京帝国大学法学部卒業後、内務省入省、長野県特高課長などを務めた。総理秘書官、自治省官房調査官を経て消防庁次長を務める。その後、日本消防協会常任顧問。1952年第25回衆議院議員総選挙(日本自由党公認)、1953年第26回衆議院議員総選挙(無所属)、1958年第28回衆議院議員総選挙(無所属)で神奈川県第1区(中選挙区。横浜市全域が選挙区)から立候補するも落選し、1971年横浜市長選挙に自民党推薦で立候補し現職の飛鳥田一雄に敗れたが、1976年、第33回衆議院議員総選挙で神奈川県第4区から新自由クラブから立候補し、初当選。
赤司 俊雄(あかし としお、1915年(大正4年)8月24日… 赤司 俊雄(あかし としお、1915年(大正4年)8月24日 - 1992年(平成4年)12月26日)は、日本の実業家。三和銀行元頭取。 福岡県久留米市出身。1941年に東京帝国大学経済学部を卒業後、三和銀行に入行。1967年5月に取締役に就任し、常務、専務、副頭取を経て、1976年4月に同行が発足して以来、初めての生え抜きとして頭取に就任し、「ピープルズバンク」をモットーに、カードローンや年金型預金商品の開発などにより、銀行の大衆化を進め、金融業界では初めてQC(品質管理)活動を導入した。1982年6月に会長に退く。 その一方で、日本銀行参与、大阪銀行協会会長、全国銀行協会連合会副会長、日本ソフトボール協会会長なども歴任した。
尾之内 由紀夫(おのうち ゆきお、1915年8月18日 - … 尾之内 由紀夫(おのうち ゆきお、1915年8月18日 - 2009年2月12日)は、日本の土木工学者。1967年に建設事務次官を務めた。 愛知県知多市八幡出身。愛知一中を経て、1939年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、内務省、人事院で務め、1963年、建設省の道路局長となり、1966年から技監および1967年より建設事務次官を務める。1970年に日本道路公団の副総裁となり、1976年に本州四国連絡橋公団の総裁となる。1975年から1976年にかけて土木学会の会長を務め、1980年から日本道路協会の会長を務めた。1987年、勲一等瑞宝章受章。 2009年2月12日に肺炎のため死去した。叙正四位。
小野 衛(おの まもる、1915年8月18日 - 2001年… 小野 衛(おの まもる、1915年8月18日 - 2001年11月14日)は、日本の邦楽作曲家、演奏家。 福岡県北九州市に生まれる。雅号は猷山。幼少より邦楽に親しみ、1933年福岡県中学修猷館、1935年3月旧制福岡高等学校理科甲類を経て、東京帝国大学理学部物理学科に進学。在学中に、島村卿山に尺八、宮城道雄に箏(琴)と三弦(三味線)を学び、1937年からは尺八のパートとして宮城道雄と共演する。1938年3月に東大を卒業後、宮城道雄の養女・よし子と結婚して婿養子となり、宮城衛と改姓。一方で、諸井三郎に作曲を学んでおり、1947年には諸井門下の柴田南雄、入野義朗、團伊玖磨らと新声会を結成し、『絃楽三重奏曲』、『五重奏曲』などを発表している。
毛利 昌三(もうり しょうぞう、1915年7月24日 - 1… 毛利 昌三(もうり しょうぞう、1915年7月24日 - 1999年6月22日)は、日本の教育学者。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業した。 東大卒業後の1940年から東京大学航空研究所航空心理部員となる。 戦後の1947年から熊本師範学校教諭となり、学制改革後の1949年からは熊本大学助教授に移る。1965年に岡山大学教育学部教授に就任した。1980年に退官し、名誉教授となる。その後、ノートルダム清心女子大学教授を1985年まで務めた。この間、1975年にNHK厚生文化事業団より研究奨励賞を受賞している。 その他の役職として日本精神薄弱研究協会評議員や岡山心理学会会長なども歴任した。
吉野 俊彦(よしの としひこ、1915年7月4日 - 200… 吉野 俊彦(よしの としひこ、1915年7月4日 - 2005年8月12日)は、日本銀行理事。父は逓信官僚の吉野圭三。 千葉県生まれ。武蔵高等学校を経て、1938年に東京帝国大学法学部を卒業し、日本銀行に入行する。日銀では調査局に勤め、内国調査課長、局次長、局長を経て1970年に理事に就任した。 1974年に山一證券経済研究所理事長に転じ、1984年に会長、1985年に特別顧問となり1998年まで務めた。また1978年1月に前川春雄副総裁を委員長とする日本銀行百年史編纂委員会が発足すると、呉文二、西川元彦と共に日本銀行百年史編纂委員会の委嘱委員を務めた。 神武景気以降、岩戸景気前夜の1950年代後半から1960年代初頭にかけて、戦後復興が一段落し、多くのエコノミストが「復興の勢いは終わり、これからは安定成長に移行する」と見通していた時期に、日本経済は依然として高い成長を維持できるか、それとも成熟・安定化すべきか、高度経済成長の是非と、日本経済の潜在能力をどのように評価するかを巡り、高度成長論者である下村治と安定成長論者の吉野の間で論争をおこなった。
鶴園 哲夫(つるぞの てつお、1915年 <大正4年> 5月… 鶴園 哲夫(つるぞの てつお、1915年 <大正4年> 5月28日 - 2006年 <平成18年> 4月11日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 鹿児島県知覧町(現南九州市)出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校、旧制第七高等学校造士館、東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業。1940年に農林省入省。全農林労働組合委員長を経て1959年、第5回参議院議員通常選挙全国区に日本社会党から出馬し初当選。1971年、第9回参議院議員通常選挙で鹿児島地方区に回り、当選。決算委員長や公害対策環境保全特別委員長などを歴任した。 1985年秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章。 2006年4月11日、呼吸不全のため東京都新宿区の病院で死去。
尚 明(しょう あきら、1915年4月5日 - 1991年6… 尚 明(しょう あきら、1915年4月5日 - 1991年6月11日)は、日本の官僚。元日本住宅公団副総裁。 琉球王国最後の国王・尚泰王の六男・尚光の息子として東京都に生まれる。1933年旧制武蔵高等学校卒業後、1938年に東京帝国大学を卒業し、大蔵省営繕管財局へ入省。1964年、建設省住宅局長を経て、1966年には日本住宅公団理事となり、1971年には日本住宅公団の副総裁に就任。その後も日本住宅リフォームセンター(現在の住宅リフォーム・紛争処理支援センター)初代理事長をはじめ住宅産業情報サービス、性能保証住宅登録機構などの理事長を務めた。 また、日本におけるダイニングキッチンの発明者としても知られている。
中西 一郎(なかにし いちろう、1915年3月29日 - 1… 中西 一郎(なかにし いちろう、1915年3月29日 - 1992年11月18日)は、日本の政治家、農林官僚。参議院議員(4期)。総理府総務長官、沖縄開発庁長官、危機管理担当大臣などを務めてきた。 兵庫県神戸市生まれ。兵庫県立第一神戸中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科卒業後、農林省に入省。短期現役海軍主計科士官(7期)を志願し、1941年8月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。同年12月、経理学校を卒業。陸奥に配属。1942年10月、特設巡洋艦りおん丸主計長となりラボールに赴任し、航空用ガソリン輸送に従事。1943年(昭和18年)6月、主計大尉に進む。1944年1月、ラボールで戦傷を受け、同年5月、海軍病院を退院し、海軍省兵備局第3課兼運輸総局船員局に転じて終戦を迎えた。
八田 亭二(はった こうじ、1915年3月17日 - 199… 八田 亭二(はった こうじ、1915年3月17日 - 1994年)は、日本の教育者。父は元旧制新潟高等学校初代校長の八田三喜。兄は演出家の八田元夫。 東京出身。東京帝国大学大学院理学部動物学科卒業。
楠瀬 正太郎(くすのせ まさたろう、1915年 <大正4年>… 楠瀬 正太郎(くすのせ まさたろう、1915年 <大正4年> 3月 - 1992年 <平成4年> 2月13日)は、日本の都市計画研究者。位階は従四位。 高知県出身。旧制第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)から第三高等学校を経て1940年に東京帝国大学工学部卒業。1961年工学博士(東京大学)。 建設省計画局、首都圏整備委員会事務局計画第一部第一調整官、新都市センター開発顧問、日本都市計画学会会長等を歴任し、戦災復興都市計画や筑波研究学園都市、多摩ニュータウンなどの計画に携わる。1992年死去。死没日付をもって従七位から従四位に進階。
大島 靖(おおしま やすし、1915年(大正4年)1月30日… 大島 靖(おおしま やすし、1915年(大正4年)1月30日 - 2010年(平成22年)8月7日)は、日本の政治家、官僚。第14代大阪市長。労働省労働基準局長。大阪市長を1971年から1987年まで、4期16年務めた。 1915年1月30日、和歌山県田辺市に生まれる。旧制和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺高等学校)、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業、1939年に内務省へ入省。 1949年から大阪府労働部長を務め、1954年に在ジュネーヴ領事へ転じた。1959年に労働省審議官に就任し、1960年には労働省労働基準局長に着任。1963年5月31日から中馬馨大阪市長のもとで大阪市助役となった。
永井 準(ながい じゅん、1915年(大正4年)1月5日 -… 永井 準(ながい じゅん、1915年(大正4年)1月5日 - 没年不詳)は、日本の実業家。米子今井書店元社長である。社団法人全国教科書供給協会 元理事副会長。 父は元鳥取県議会副議長永井貞録。境港市長を務めた安田貞栄の実兄。 1915年、永井貞録の三男として鳥取県境港市にて生まれた。鳥取県立米子中学校(現・県立米子東高等学校)、旧制山口高等学校を経て、1941年に東京帝国大学法学部卒業。同年、兵役に就く(陸軍主計中尉)。 1947年に鳥取県教科図書販売社長、1952年に富士書店社、1954年に全国教科書供給協会理事副会長、1971年に鳥取県書店組合理事長、日書連理事を歴任し、同年鳥取県印刷工業組合理事・副理事長に就任した。
由谷 敬吉(ゆたに けいきち、1915年 - 1943年11… 由谷 敬吉(ゆたに けいきち、1915年 - 1943年11月26日)は、日本のアマチュア野球選手。東武雄や梶原英夫と並んで、東京大学野球部史上の「名投手三羽烏」と呼ばれる人物の一人。1943年11月26日満州興山で戦死。野球殿堂博物館の「戦没野球人モニュメント」に刻まれている。
藤崎 萬里(ふじさき まさと、1914年(大正3年)12月1… 藤崎 萬里(ふじさき まさと、1914年(大正3年)12月16日 - 2006年(平成18年)10月6日)は、日本の最高裁判所裁判官、外交官(外務省条約局長、オランダ駐箚大使、タイ王国駐箚大使等)。 鹿児島県出身。川辺郡知覧町(南九州市)生まれ、揖宿郡山川町(指宿市へ合併)出身。馬場家に生まれ、伯父の藤崎家の養子となる。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1933年(昭和8年)第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1936年(昭和11年)、東京帝国大学文学部英文学科卒業。旧制高校の教師になろうと考えていたが就職口がなく、東京帝国大学法学部政治学科に再入学して学び1937年(昭和12年)外務省へ入省。
井浦 芳信(いのうら よしのぶ、1914年12月8日 - 1… 井浦 芳信(いのうら よしのぶ、1914年12月8日 - 1994年)は、日本の国文学者・演劇研究者。専門は、日本近世文学・近世演劇。中世に興った地方芸能の調査研究も行った。 福岡市地行西町(現・地行)にある浄土真宗本願寺派浄満寺の住職井浦領順の二男として生まれる。1932年福岡県中学修猷館、1935年旧制福岡高等学校文科甲類、1938年東京帝国大学文学部国文学科卒業、同大学大学院に進学し、1939年3月、同大学文学部副手となり国文学研究室に勤務する。 1945年10月旧制弘前高等学校教授となり、1950年3月同校が弘前大学となると、同大学文理学部の教授に就任。1953年8月から1959年4月まで同大学評議員も務めた。
上田 常光(うえだ つねあき、1914年11月25日 - 1… 上田 常光(うえだ つねあき、1914年11月25日 - 1995年3月1日)は、日本の外交官。位階は正三位。初代駐シンガポール特命全権大使や、外務省経済協力局長、駐ドイツ連邦共和国特命全権大使、日独協会会長などを歴任した。 東京生まれ。1934年東京高等学校文科甲類卒業。1937年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1938年高等試験外交科合格、外務書記生、ドイツ在勤。1939年外交官補。 1951年外務省管理局在外邦人課長。同年外務省欧米局渡航課長。1952年外務省アジア局第五課長。1957年在ドイツ日本国大使館参事官。1959年外務省情報文化局報道課長。 1961年外務省欧亜局外務参事官。1964年在シンガポール日本国総領事館総領事。
梅澤 濱夫(うめざわ はまお、1914年10月1日 - 19… 梅澤 濱夫(うめざわ はまお、1914年10月1日 - 1986年12月25日)は、日本の医学者、細菌学者、文化勲章受章者。 福井県小浜市生まれ。旧制武蔵高等学校を経て、東京帝国大学医学部卒業。卒業後、当時の東京帝国大学医学部細菌学教室、東京帝国大学付属伝染病研究所に勤務。1947年国立予防衛生研究所設立とともに初代抗生物質部長に就任。1954年以降は、東京大学応用微生物研究所教授(兼務)となる。 ペニシリンの国産化に尽力し、1956年、国産初の抗生物質カナマイシンを発見、精製。カナマイシンは、ストレプトマイシンの効きにくい耐性菌にも効果のある抗生物質として世界的に用いられた。当時の厚生大臣橋本龍伍の計らいにより、このカナマイシンの特許料を基金として、1959年財団法人微生物化学研究会を設立、理事長に就任。
前田 透(まえだ とおる、大正3年(1914年)9月16日 … 前田 透(まえだ とおる、大正3年(1914年)9月16日 - 昭和59年(1984年)1月13日)は、歌人。 東京府豊多摩郡大久保町(現新宿区)に、歌人前田夕暮の長男として生まれる。昭和10年(1935年)旧制成蹊高等学校文科乙類卒業。昭和13年(1938年)東京帝国大学経済学部卒業、扶桑海上(現三井住友海上)入社。翌年1月、台湾歩兵第2連隊補充隊に入隊。9月、経理部幹部候補生となり東京陸軍経理学校に入学。昭和15年(1940年)9月、同校卒業。のち中国、フィリピン、ジャワ、ポルトガル領チモール島に派遣される。チモール島では、宣撫を名目に現地王族の独立運動に協力した。昭和21年(1946年)帰国。
水芦 光子(みずあし みつこ、旧姓 布光子、1914年(大正… 水芦 光子(みずあし みつこ、旧姓 布光子、1914年(大正3年)9月12日 - 2003年(平成15年)10月13日)は、日本の詩人、小説家。室生犀星の女性初の弟子でもある。 石川県金沢市馬場五番丁六(現・東山3丁目29-13、14)生まれ。第四高等学校から東京帝国大学に進学する程のインテリであった次兄の雄吉の影響を受け、幼い頃から源氏物語などの古典に親しみ、歌舞音曲や映画鑑賞などの芸能を好む数寄者の母を持った影響から文学的才能を養った。 金沢市広坂にあった石川県立金沢第二高等女学校(現・石川県立金沢桜丘高等学校)4年の在学中に、水芦の父の篤が創業し、経営していた家業の金箔商経営が、受取手形が不渡りになった事によって不振に陥り、倒産。
河合 滉二(かわい こうじ、1914年7月28日 - 199… 河合 滉二(かわい こうじ、1914年7月28日 - 1998年6月29日)は、日本の経営者。サッポロビールの社長、会長を務めた。岡山県井原市出身。 1939年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に大日本麦酒に入社。1949年にサッポロビールに移り、1971年に取締役に就任し、専務などを経て、1978年に社長に就任。1983年に会長に就任し、1985年から取締役相談役を務めた。1961年には上島珈琲会館を設立し、社長に就任した。 1984年に勲三等瑞宝章を受章した。 1998年6月29日肝不全のために横浜市の病院で死去。83歳没。
木下 昌雄(きのした まさお、1914年 <大正3年> 7月… 木下 昌雄(きのした まさお、1914年 <大正3年> 7月3日 - 1995年 <平成7年> 7月19日)は、日本の経営者、工学博士。日立造船社長を務めた。位階は正四位。運動生理学者・木下東作の次男。兄は動物生理学者の木下治雄。妻・敦子は東京都知事・日本赤十字社社長を務めた東龍太郎の長女。 大阪府出身。1937年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。海軍造船大尉を経て、1940年に東京帝国大学工学部助教授に就任し、1946年に鉄道技術研究所での勤務を経て、1949年に日立造船に入社。1964年11月に取締役に就任し、1967年11月に常務を経て、1973年11月に副社長に就任し、1979年6月に社長に昇格。
田丸 秀治(たまる ひではる、1914年4月20日 - 19… 田丸 秀治(たまる ひではる、1914年4月20日 - 1990年1月25日)は、日本の実業家。電通代表取締役社長、代表取締役相談役、日本広告業協会理事長等を歴任。マルさんの愛称で親しまれた。 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1935年第七高等学校造士館文科卒業。1938年東京帝国大学文学部を卒業。旧制中学校の教諭を経て、七高先輩の吉田秀雄に招かれて1948年に日本電報通信社に入社。部長、局長を経て、1967年に電通常務取締役に就任。その後、専務取締役を経て、1977年に代表取締役社長に就任。同時に吉田秀雄記念事業財団の理事長にもなる。
高橋 延清(たかはし のぶきよ、1914年2月6日 - 20… 高橋 延清(たかはし のぶきよ、1914年2月6日 - 2002年1月30日)は、日本の森林学者。東京大学名誉教授。東京大学の北海道演習林(富良野市)で林長を務め、「森こそ教室」として東京での授業や教授会よりも現場観察を重視し、いつも泥まみれで歩く姿と、自らを「のろまでも、こうだと決めたらこつこつとやる」と亀にたとえていたことから「どろ亀さん」(ドロ亀さん)、「どろ亀先生」」の愛称で、多くの人に親しまれた。 氷雪や雪崩の研究家でエッセイストの高橋喜平は兄、元沢内村長の太田祖電と直木賞作家の高橋克彦は甥である。 1914年(大正3年)、岩手県和賀郡沢内村(現:西和賀町)に生まれる。出生届を出すのに数年かかったので、正確な生年月日は不明という(戸籍上は1914年2月6日生まれ)。
高田 浩運(たかた こううん、1914年2月4日 - 197… 高田 浩運(たかた こううん、1914年2月4日 - 1977年7月17日)は、日本の政治家、厚生官僚。位階は従三位。勲等は勲二等。参議院議員(2期)。 1914年(大正3年)熊本県玉名市生まれ。熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、1936年(昭和11年)、東京帝国大学卒業後、内務省に入省する。1937年(昭和12年)に香川県警警務課長。 1941年(昭和16年)に厚生省に配転され、1945年(昭和20年)より同省庶務課長、1955年(昭和30年)より医務局次長、1956年(昭和31年)より児童局長、1960年(昭和35年) より官房長、1962年(昭和37年)4月より保険局長を経て、同年7月社会保険庁長官に就任。
宮田 龍介(みやた りゅうすけ、1914年(大正3年)2月2… 宮田 龍介(みやた りゅうすけ、1914年(大正3年)2月2日 - 没年不詳)は、日本の実業家。民間企業に勤務した後、父である宮田重五郎が創業した宮田酒造場を相続し、宮田酒造を設立。その後、社名を三光正宗へ変更し、同社の社長・会長に就任する。1991年に岡山県三木記念賞を受賞。岡山県新見市出身。 1914年(大正3年)、岡山県阿哲郡哲西町矢田(現:新見市哲西町)にある宮田重五郎の長男として出生する。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1931年(昭和6年)同校を卒業し、岡山にある旧制第六高等学校文科乙類へ進学する。1934年(昭和9年)に同校を卒業し、東京帝国大学法学部へ進学する。
田畑 金光(たばた かねみつ、1914年(大正3年)1月22… 田畑 金光(たばた かねみつ、1914年(大正3年)1月22日 - 2013年(平成25年)4月22日)は、昭和期の政治家。民社党衆議院議員、いわき市長。 鹿児島県大島郡龍郷町芦徳出身。 1932年鹿児島県立大島中学校 (旧制)卒業。1936年大阪高等学校 (旧制)文科卒業。1939年東京帝国大学法学部法律学科卒業。 大学卒業後は満州国政府に勤めながら、大同学院を卒業。1940年に従軍し、1945年に陸軍主計大尉で復員。 戦後、福島県の現いわき市に移り、1946年大日本炭鉱勿来鉱業所勤務。1947年(昭和22年)福島県議会議員に当選。右派社会党公認で、1953年(昭和28年)に第3回参議院議員通常選挙福島県選挙区で初当選。
宮崎 宣久(みやざき のぶひさ、1914年(大正3年) - … 宮崎 宣久(みやざき のぶひさ、1914年(大正3年) - 1992年(平成4年))は、日本の出版人、編集者である。1914年(大正3年)、福岡市博多区須崎の生まれ。1932年(昭和7年)3月、福岡中学卒業。1936年(昭和11年)3月、福岡高等学校文科甲類を卒業。中学・高校時代の同級生には大西巨人がいる。 その後、東京帝国大学経済学部経済科に進学し、在学中は帝大新聞の編集に参画。卒業後は朝日新聞社の記者を務める。 1946年(昭和21年)4月、福岡で三帆書房を設立し、総合文化誌「文化展望」を創刊。編集には宮崎宣久・高田康治・大西巨人・牟田口宗一郎があたった。創刊号には太宰治の「十五年間」が掲載され、他にも織田作之助は「都市展望 大阪」を、坂口安吾は「ぐうたら戦記」、野間宏は「兄弟」などの作品が掲載された。
川瀨 健治(かわせ けんじ、1914年 - 1974年2月6… 川瀨 健治(かわせ けんじ、1914年 - 1974年2月6日)は、日本の商工、通産官僚。 旧制静岡中学、旧制静岡高校を経て、1937年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。商工省入省。終戦直後、1945年8月27日、日本政府の対GHQ渉外機関として外務省に終戦連絡事務局が設立され、商工事務官を務めていた川瀬が出向。通商産業省に変わってからも様々な役職を経て、福岡通産局長に就任。1956年、熊本県で水俣病が発生し深刻となり、1959年11月、不知火海漁業紛争調停委員会が発足、寺本広作熊本県知事は通産省の意向を取り入れるために川瀬をオブザーバーに加えている。その後、東京通産局長に就任した。正四位。墓所は多磨霊園。
鈴木 正雄(すずき まさお、1914年(大正3年) - 20… 鈴木 正雄(すずき まさお、1914年(大正3年) - 2006年(平成18年)11月7日)は、日本の実業家。三菱銀行入行を皮切りに、三菱グループで三菱重工業副社長や三菱自動車販売(現三菱自動車工業)社長・会長などを歴任した。
数江 教一(かずえ きょういち、1913年11月18日 - … 数江 教一(かずえ きょういち、1913年11月18日 - 2003年5月28日)は、日本の倫理学者、茶道研究家。茶号は瓢鮎子(ひょうねんし)。 長野県茅野市出身。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)、旧制松本高等学校を経て東京帝国大学文学部倫理学科卒。和辻哲郎に師事。1962年「日本の末法思想」で東京大学より文学博士の学位を取得。1952年中央大学文学部非常勤講師、1953年専任講師、1955年助教授、1960年教授、1984年定年、名誉教授となる。東大在学中に茶の湯同好会を作り茶道を研究する。 日本倫理学会、日本思想史学会、日本哲学会に所属した。