佐藤 正二(さとう しょうじ、1903年(明治36年)2月2… 佐藤 正二(さとう しょうじ、1903年(明治36年)2月28日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、海軍司政官。 福井県福井市に生まれる。静岡高等学校を卒業。1929年(昭和4年)3月、京都帝国大学法学部を卒業し、同年10月高等試験行政科に合格する。1932年(昭和7年)12月、府属に任ぜられ、1937年(昭和12年)11月、地方理事官に進み、高雄州潮州郡守に就任。 その後は、高雄税関監視部長、外事部第二課勤務、台南州教育課長、同州地方課長、同州総務課長などを歴任した。1943年(昭和18年)3月31日、海軍司政官に任じられ南西方面艦隊ボルネオ民政部部員に発令された。
高橋 衛(たかはし まもる、1903年〈明治36年〉2月26… 高橋 衛(たかはし まもる、1903年〈明治36年〉2月26日 - 1986年〈昭和61年〉4月26日)は、日本の台湾総督府官僚、大蔵官僚、政治家。参議院議員(3期)、経済企画庁長官(第14-15代)。 福井県武生市(現越前市)出身。高橋茂平の長男として生まれる。武生中学、第四高等学校を経て、1927年3月、東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。1926年11月、高等試験行政科試験に合格。1927年4月、台湾総督府属となり財務局に配属。新竹州内務部教育課長、総督官房審議室、兼台湾総督府秘書官などを歴任。1937年3月から1939年2月まで欧米各国に出張した。 1939年7月、台湾総督府財務局主計課長に就任。
丸山 義二(まるやま よしじ、1903年2月26日 - 19… 丸山 義二(まるやま よしじ、1903年2月26日 - 1979年8月10日)は、農民作家。 兵庫県揖保郡誉田村(現・たつの市)生まれ。龍野中学校(現・兵庫県立龍野高等学校)中退。農家を営み、醤油会社勤務を経て上京、「萬朝報」の記者となる。編集長を経て昭和初年退社、日本プロレタリア作家同盟に参加し、貴司山治、伊藤永之介、鶴田知也と交わる。1938年「田植酒」で芥川賞候補。農民文学懇話会の結成に参加。また上京直後の水上勉を日本農林新聞に世話した。戦後は日本農民文学会に参加。 三男(事実上の長男)に丸山工作、その下に丸山匠がいる。
羽田野 次郎(はたの じろう、1903年(明治36年)2月2… 羽田野 次郎(はたの じろう、1903年(明治36年)2月26日 - 1988年(昭和63年)4月29日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。衆議院議員。旧姓・前田。 大分県大野郡緒方村(緒方町を経て現豊後大野市)で、篤農家・前田弥三郎の二男として生まれる。大分県立竹田中学校(現大分県立竹田高等学校)を経て、1928年(昭和3年)長崎高等商業学校(現長崎大学)を卒業した。 同郷の羽田野ワキと結婚して羽田野に改姓し、東京市役所に勤務。その後帰郷し、教員、産業組合理事を務めたが、病のため療養した。 1946年(昭和21年)緒方村農地委員会長に就任し、大分県農地委員、緒方村助役を歴任。緒方村農業協同組合長、大分県農業協同組合連絡協議会長を務め、1948年(昭和23年)農協五連(信用、購買、販売、指導、厚生)結成発起人会総代表となり各連合会の結成に尽力し、大分県信用農業協同組合連合会長に就任した。
石津 照璽(いしづ てるじ、1903年2月26日 - 197… 石津 照璽(いしづ てるじ、1903年2月26日 - 1972年6月6日)は、日本の宗教哲学者。 山口県美祢郡大田村(現美祢市)出身。旧姓は秋里。1926年東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科卒。東大副手、1931年日本大学講師を経て、1938年東北帝国大学法文学部助教授、1943年教授、東北大学文学部教授、1960年文学部長、1963年東北大学学長。1965年、宮城教育大学学長併任。同年東北大学学生、農学部移転問題にからんで大学自治を要求し無期限全学ストライキ(9月20日まで)、9月28日、石津学長を辞任。1966年定年退官、名誉教授、慶応義塾大学教授、駒澤大学教授を務めた。1956年から四期日本宗教学会会長。
窪川 鶴次郎(くぼかわ つるじろう、1903年2月25日 -… 窪川 鶴次郎(くぼかわ つるじろう、1903年2月25日 - 1974年6月15日)は、日本の文芸評論家。 静岡県菊川市出身。掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)から金沢の第四高等学校に進学し、中野重治と知り合う。そのために、理系ではあったが文学に熱中するようになる。文学への欲求のために高校を中退して上京し、貯金局に勤務する。大学進学のために上京した中野と再び文学活動をはじめ、堀辰雄たちも含めて同人誌『驢馬』のメンバーとなる。 そのころ知り合った佐多稲子と1927年に結婚。稲子は彼や中野のすすめで小説「キャラメル工場から」を発表し、小説家窪川稲子としてプロレタリア文学の新進作家として登場するが、鶴次郎はなかなか日の目を見なかった。
吉武 恵市(吉武 惠市、よしたけ えいち、1903年2月25… 吉武 恵市(吉武 惠市、よしたけ えいち、1903年2月25日 – 1988年2月3日)は、昭和期の政治家、官僚。衆議院議員(3期)、参議院議員(3期)、労働大臣(第6代)、厚生大臣(第21代)、自治大臣(第8-9代)、富山県知事(官選第32代)。 山口県萩市に生まれる。萩中学、旧制五高を経て、1928年東京帝国大学法学部政治学科を卒業、内務省に入省する。東京府属。京都府保安課長、東京都官房人事課長を経て、1945年官選富山県知事となる。この間、労働問題について勉強を重ね、戦後はその努力を買われて1946年厚生省労政部長、1947年労働省初代事務次官となる。 1949年、第24回衆議院議員総選挙に民主自由党から旧山口1区(定数4)にて立候補し初当選。
小松崎 軍次(こまつざき ぐんじ、1903年〈明治36年〉2… 小松崎 軍次(こまつざき ぐんじ、1903年〈明治36年〉2月25日 - 1995年〈平成7年〉4月30日)は日本の政治家。東京都江東区長(6期)を務めた。 茨城県稲敷郡古渡村堀之内(現:稲敷市堀之内)に生まれる。1909年4月、古渡尋常高等小学校(現:稲敷市立古渡小学校)に入学する。学業優秀で、卒業時に当時の稲敷郡長だった安井誠一郎から郡長賞として硯箱を授与されている。その後、高等科に進学しそこでも再び郡長賞を授与されている。1918年4月、江戸崎農学校2年次に編入学した。しかし、同年7月末に義兄を頼って東京府東京市小石川区小石川掃除町(現:東京都文京区小石川1・3丁目と白山1丁目)に飛び出して、正則英語学校(現:正則学園高等学校)に入ったが、半年後に病気と父の諫言によって帰省した。
平等 通昭(びょうどう つうしょう、1903年2月25日 -… 平等 通昭(びょうどう つうしょう、1903年2月25日 - 1993年9月20日)は、浄土真宗の僧、仏教研究者。 神奈川県横浜市出身。別名・都筑照雄、平等通照。浄土真宗本願寺派善教寺の継嗣。本名・通照(みちてる)、得度して通昭だが、双方を用いた。 早稲田高等学院を経て、1926年東京帝国大学文学部梵文学科卒。自寺に印度学研究所を設け著述刊行した。1929年善教寺住職となり、1962年新羽幼稚園を設立、園長となる。なお、1947年と1951年の横浜市議会議員選挙(港北区選挙区)に日本社会党公認で立候補し落選している。
杉山 善太郎(すぎやま ぜんたろう、1903年(明治36年)… 杉山 善太郎(すぎやま ぜんたろう、1903年(明治36年)2月25日 - 1988年(昭和63年)2月21日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 愛知県幡豆郡、のちの吉良町(現西尾市)で生まれる。1924年(大正13年)日本大学工学科を卒業した。 日本海員組合組織部員を経て、1945年(昭和20年)全日本海員組合の結成に加わり中央執行委員に就任。1946年(昭和21年)日本社会党に入党。1953年(昭和28年)新潟県労働組合協議会が結成されると議長に就任し9期在任した。 1962年(昭和37年)の参院選に新潟県地方区から社会党公認で出馬して初当選。任期満了に伴う1968年(昭和43年)の参院選には出馬を見送り、2年後の新潟県知事選に立候補するが現職の亘四郎に敗れる。
中尾 純利(なかお すみとし、1903年2月25日 - 19… 中尾 純利(なかお すみとし、1903年2月25日 - 1960年4月26日)は日本のパイロットである。1939年(昭和14年)8月、世界一周親善飛行を行った純国産機、「ニッポン号」の機長を務めた。 1903年(明治36年)、鹿児島県出水郡阿久根村(後の阿久根市)に生まれた。選抜試験に合格し航空局委託操縦生の第一期生として1921年(大正10年)1月に所沢陸軍飛行学校へ入学。同年9月に首席で卒業すると、三菱重工業のテストパイロットとなった。1928年(昭和3年)には日本陸軍の次期戦闘機の競争試作に応募した陸軍三菱隼型試作戦闘機(1MF2)を操縦し、所沢飛行場での試験飛行で急降下中にパラソル翼が機体から外れ、中尾はパラシュートを使って脱出した。
大橋 薫(おおはし かおる、1903年(明治36年)2月24… 大橋 薫(おおはし かおる、1903年(明治36年)2月24日 - 1983年(昭和58年)4月30日)は、日本の新聞記者、経済評論家。 大蔵省や都市銀行の頭取クラスに対して絶大な影響を持ち、アジア開発銀行の設立やがん保険の認可に関わり、「金融界の黒幕」や「金融界のフィクサー」と呼ばれた。 栃木県下都賀郡絹村(現: 小山市)出身[要出典]。 1929年に慶應義塾大学文学部史学科を卒業後、ジャパンタイムズに入社、1937年頃からは同盟通信社に転じた。 戦前には日本経済連盟会(日本経済団体連合会の前身)による対外資本の導入を研究し、外務省の矢野征記らとともに原案を草案した。 その後戦時中は大東亜省に転じた[要出典]。
逗子 八郎(ずし はちろう、本名:井上 司朗、1903年2月… 逗子 八郎(ずし はちろう、本名:井上 司朗、1903年2月23日 - 1991年7月7日)は、日本の歌人、情報局官僚。新短歌運動を推進し、1929年、短歌誌「短歌と方法」を主宰した。 立教中学校から第一高等学校 (旧制)を経て、1924年、東京帝国大学文学部国文科に入学。在学中、逗子開成中学校の英語と国語と漢文の講師を務め、逗子開成学園の校歌を作詞している。弁護士である義兄の切望その他で、1925年、東京帝国大学法学部政治学科に入り直し、1928年に卒業。 朝日新聞社と安田銀行を受験し、第一志望の前者で不採用となったため後者に入る。1939年、内閣情報部情報官に任官、情報局第五部第三課長、第二部文芸課長を歴任するが、1944年5月、中央公論社と改造社に対する情報局からの自発廃業勧告に反対し、内務省系の上司たちから睨まれるようになる。
堀田 健男(ほった たけお、1903年(明治36年)2月23… 堀田 健男(ほった たけお、1903年(明治36年)2月23日 - 1966年(昭和41年)11月28日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。勲三等旭日中綬章。 大阪府出身。堀田勇次の三男として生まれる。第三高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業。内務省に入省し土木局属となる。 以後、岩手県書記官・警察部長、内務省社会局書記官、厚生書記官などを歴任。 1942年7月、奈良県知事に就任し、戦時下の対応に尽力。1943年7月、企画院第三部長に転任。新潟県参事官、内務省国土局長を歴任。1945年9月、静岡県知事に転任し、戦災の復興に尽力した。
中島 道雄(なかじま みちお、1903年2月22日 - 19… 中島 道雄(なかじま みちお、1903年2月22日 - 1983年5月10日)は、日本の経営者。RKB毎日放送社長、会長を務めた。 東京都出身。1927年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年5月に毎日新聞社に入社。1958年9月にRKB毎日放送に転じ、1961年1月に取締役に就任し、1965年11月に常務、1967年11月に専務を経て、1969年11月には社長に就任した。1973年5月に会長を経て、1975年5月には相談役に就任。 1983年5月10日、心不全のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
若杉 末雪(わかすぎ すえゆき、1903年2月22日 - 1… 若杉 末雪(わかすぎ すえゆき、1903年2月22日 - 1973年5月10日)は、日本の実業家。第3代三井物産代表取締役社長や、初代三井広報委員会会長を務めた。 長崎県出身。1925年長崎高等商業学校(現長崎大学)卒業。米国三井物産社長などを経て、1969年から三井物産社長を務め、イラン石油化学開発の設立などを行った。1972年初代三井広報委員会会長。
中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月… 中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月21日 - 1979年(昭和54年)6月11日)は、フランス文学者、文芸評論家。ヴァレリーやボードレールなどを翻訳紹介する一方、当時まだ無名だった宮澤賢治の作品に光を当て、戦後はいわゆる進歩的知識人の一人として反戦平和運動に貢献すると共に、日本文芸家協会の再建や著作権保護、日中の文化交流に尽力した。中国切手の世界的なコレクターとしても有名である。
功力 金二郎(くぬぎ きんじろう、1903年2月20日 - … 功力 金二郎(くぬぎ きんじろう、1903年2月20日 - 1975年12月19日)は、日本の数学者。専門は集合論、位相空間論、関数論で、特に複素関数論。 山梨県韮崎市神山町武田出身。旧制甲府中学、松本高等学校 (旧制)を経て、1926年東京帝国大学理学部数学科卒業、旧制東京高等学校教授となる。1927年に北海道帝国大学への1930年理学部設置が決まり、数学関係の創立委員となった師の吉江琢児の指名により教授候補者の1人として内定したのは東京帝国大学卒業後1年余であった。 北海道帝国大学理学部数学科開講までの準備期間3年の内、教授候補者は約2年間を海外留学することとなっており、1928年3月よりフランスに留学、パリ大学のモーリス・ルネ・フレシェに師事し、Docteur ès Science(フランス政府理学博士号)を取得、1930年9月に帰国。
筒井 嘉隆(つつい よしたか、1903年2月19日 - 19… 筒井 嘉隆(つつい よしたか、1903年2月19日 - 1989年4月17日)は、日本の動物学者で自然保護活動家。血液型はA型。 藍問屋の三男として大阪府大阪市西区北堀江に生まれ育つ。旧制桃山学院中学校から旧制第三高等学校理科甲類を経て、1924年、京都帝国大学理学部動物学科に入学。京都帝国大学大学院修了まで川村多実二教授に師事する。 1932年から大阪市の吏員として大阪市天王寺動物園に勤務する。「(動物園は)興行師的立場を捨て去り、一般大衆に迎合することなく動物学的な高所に立って、市民を導いてゆかなければならない」という1936年の発言に、学者としての筒井の姿勢がよくあらわれている。1945年から1946年まで天王寺動物園園長。
錦小路 頼孝(にしきこうじ / にしきのこうじ よりたか、1… 錦小路 頼孝(にしきこうじ / にしきのこうじ よりたか、1903年〈明治36年〉2月19日 - 1950年〈昭和25年〉6月13日)は、昭和期の教員、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・在孝。 子爵・唐橋在正の五男として生まれる。叔父、子爵・錦小路在明の死去に伴い、その家督を継承して頼孝と改名し、1912年(明治45年)6月10日に子爵を襲爵した。 1927年(昭和2年)東京帝国大学文学部を卒業した。1928年(昭和3年)東京府立園芸学校教諭に就任。その他、逓信省委員、運輸通信省委員、歌会始講頌などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
若瀬川 栄蔵(わかせがわ えいぞう、1903年2月19日 -… 若瀬川 栄蔵(わかせがわ えいぞう、1903年2月19日 - 1990年3月20日)は、秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は楯山部屋)に所属した大相撲力士。本名は佐藤 永藏(さとう えいぞう)→ 中川 永藏(なかがわ えいぞう)。身長167cm、体重90kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は左四つ、突き、押し。引退後は一時期、年寄として後進の指導に尽力した。 同郷の縁で清瀬川敬之助のもとに入門、1921年5月場所に初土俵を踏む。丁度この場所より、清瀬川が所属していた熊ヶ谷部屋を出て、楯山部屋預かりの状態になっていたため、書類上は楯山部屋所属となっていた。 1925年1月には三段目で全勝するなど、下位でも力を発揮し、幕下では少しもたつくも1929年1月に十両昇進、1930年の1月場所に新入幕を果たした。
岡田 時彦(おかだ ときひこ、本名・高橋英一、明治36年(1… 岡田 時彦(おかだ ときひこ、本名・高橋英一、明治36年(1903年)2月18日 - 昭和9年(1934年)1月16日)は、大正・昭和初期の日本の俳優。無声映画時代を代表する二枚目俳優であった。 東京市神田区宮本町(現・千代田区外神田2丁目)に生まれる。父の放浪癖のため、川崎に3年、茅ヶ崎に1年、その後逗子に移るなど各地を転々とした。大正4年(1915年)に神奈川師範附属小学校を卒業。同級生に江川宇礼雄、国木田虎雄、青柳信雄らがいた。旧制・逗子開成中学校(のち中退)には抜群の成績で入学したが、伊勢佐木町の映画館で観た『名金』に感動して、学業そっちのけで浅草六区に足を運ぶほど映画に熱中した。 大正9年(1920年)、4月に設立され、山下公園に撮影所をもつ横浜の映画会社大正活映(大活)の俳優募集に応募し、17歳で入社。
駒井 志づ子 (こまい しづこ、1903年(明治36年)2月… 駒井 志づ子 (こまい しづこ、1903年(明治36年)2月18日 - 1978年(昭和53年)1月2日)は、大正・昭和期に活動した、石川県出身の女性運動家、政治家、歌人。 1951年(昭和26年)に女性初の石川県議会議員となり、以降5期25年にわたって在任した。 当時金沢市議会議員(後の第6代金沢市長)であった飯尾次郎三郎の長女として生まれる。 1918年(大正7年)、石川県立金沢第一高等女学校(現在の金沢二水高等学校)を卒業。 1920年(大正9年)に法学士の駒井粂吉と結婚したが、1934年(昭和9年)に死別した。夫の粂吉は、読書家で政治に関心を持っており、このことが妻の志づ子にも影響を与えたとされる。
市川 一郎(いちかわ いちろう、1903年2月18日 - 1… 市川 一郎(いちかわ いちろう、1903年2月18日 - 1981年9月29日)は、将棋棋士。八段。棋士番号は9。大崎熊雄九段門下。東京府東京市(現:東京都文京区)出身。 1927年に入門し1930年に四段に昇段。奨励会(関東)の創設は1928年であるため、奨励会に参加していたと思われる。 1940年に五段に昇段。戦後の1946年の順位戦C級クラスに参加し、8勝6敗と成績上位だったため六段に昇段。C級には第10期まで所属し、第10期にC級2組で降級が決まった事により引退。 この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
松尾 靜磨(まつお しずま、1903年2月17日 - 197… 松尾 靜磨(まつお しずま、1903年2月17日 - 1972年12月31日)は運輸省航空庁長官および日本航空社長・会長を務めた人物。 佐賀県杵島郡若木村(後の武雄市)出身。 連合国軍最高司令官総司令部によって航空事業が壊滅的な打撃を受けた中、民間航空の再建に取り組み、フラッグ・キャリアの日本航空の設立に実現したことから戦後日本航空業界の父と言われる。 杵島郡若木村(後の武雄市若木町)に4人兄弟の次男として生まれた。松尾家は代々庄屋を務める旧家であり、靜麿の祖父・安兵衛は土木建築業・松尾組(現、松尾建設)を創業、更に佐賀県内の各種企業の経営に参画するなど地元財界にて重きを成した。 旧制佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)、旧制佐賀高等学校(現・佐賀大学)を経て、九州帝国大学工学部機械工学科卒業。
松尾 靜麿(まつお しずま、1903年2月17日 - 197… 松尾 靜麿(まつお しずま、1903年2月17日 - 1972年12月31日)は、元運輸省航空庁長官および元日本航空社長・会長。佐賀県杵島郡若木村(後の武雄市)出身。連合国軍最高司令官総司令部によって航空事業が壊滅的な打撃を受けた中、民間航空の再建に取り組んだことから戦後日本航空業界の父と言われる。
和田 博雄(わだ ひろお、1903年〈明治36年〉2月17日… 和田 博雄(わだ ひろお、1903年〈明治36年〉2月17日 - 1967年〈昭和42年〉3月4日)は、日本の政治家、農林官僚。農林大臣(第4代)、経済安定本部総務長官(第4代)、物価庁長官(第4代)。衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。 旧制中学校教員の息子として埼玉県川越市に生まれる。父が岡山県の中学校に転任したため、尋常小学校から旧制高校(六高)まで学校教育を岡山県で受ける。 旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進み、1925年卒業。後に企画院事件で検挙された者には社会主義運動出身者が多く、また和田自身は統制経済派であったが、社会主義・左翼系の学生運動に参加したことはない。 農林省入省。
蜂須賀 正氏(はちすか まさうじ、1903年〈明治36年〉2… 蜂須賀 正氏(はちすか まさうじ、1903年〈明治36年〉2月15日 - 1953年〈昭和28年〉5月14日)は、日本の鳥類学者、華族(侯爵)、貴族院議員、探検家、飛行家。絶滅鳥ドードー研究の権威として知られた他、沖縄本島と宮古島との間に引かれた生物地理学上の線である蜂須賀線に名をとどめている。徳川家斉の玄孫。 旧徳島藩藩主・蜂須賀家の当主。蜂須賀小六から数えて第18代目にあたる。 1903年(明治36年)2月15日、東京で誕生した。父・蜂須賀正韶は侯爵、貴族院副議長。母・筆子は徳川慶喜の四女。長姉・年子はデザイナー。 学習院初等科に入った頃から生物に著しい関心を示し、先輩の黒田長禮に出会ってから鳥類学に志す。
平山 嵩(ひらやま たかし、1903年2月15日 - 198… 平山 嵩(ひらやま たかし、1903年2月15日 - 1986年11月20日)は、日本の建築家・建築学者。専門は、建築環境工学。工学博士。 1903年、東京府(現・東京都)出身。1926年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。留学してハーバード大学修了の後、マサチューセッツ工科大学大学院に進み修了した。 帰国した後大蔵省営繕管財局に入り、国会議事堂の室内意匠・音響設計等に従事。1930年、東京帝大工学部講師となった。翌1931年に東大助教授に昇格し、助教授時代に公衆衛生院建築衛生部長を兼任した。1940年より東大教授。1963年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は東洋大学工学部教授として後進の指導にあたった。
杉田 村雄(すぎた むらお、1903年(明治36年)2月14… 杉田 村雄(すぎた むらお、1903年(明治36年)2月14日 - 1986年(昭和61年)7月17日)は、日本のクラシックギター・マンドリン音楽家、指揮者。 東京府南多摩郡多摩村東寺方(現・東京都多摩市東寺方)の村医 杉田武雄の長男として生まれる。暁星中学校(旧制)時代、クラスメートの齋藤秀雄とともに比留間賢八に師事、2人で暁星マンドリン倶楽部から静美社音楽部へと音楽活動を進める。杉田は中央大学に進学し中央大学音楽研究会マンドリン倶楽部に所属。一方齋藤は上智大学に進学し「オルケストル・エトワール」を結成、1923年(大正12年)1月に武井守成主宰「シンフォニア・マンドリニ・オルケストラ」(1915年(大正4年)発足)主催の第1回全国マンドリン合奏団競演会に出場し同団を指揮し入賞するが、音楽に専念するために上智大学を中退し近衛秀麿に随伴してドイツに留学する。
山添 利作(やまぞえ りさく、1903年2月14日 - 19… 山添 利作(やまぞえ りさく、1903年2月14日 - 1979年7月7日)は、日本の農林官僚。農林事務次官を務め、退官後は農林漁業金融公庫総裁や日銀政策委員などを歴任した。長女・祥子の夫は参議院議員・衆議院議員を務めた藤井裕久。 京都府与謝郡岩滝町(現与謝野町)で父・山添小三郎、母・たかの次男として生まれる。1920年、京都府立宮津中学校を卒業し、第一高等学校仏法学科へ入学。1923年、一高を卒業し、東京帝国大学へ進学。在学中に高等試験行政科を合格し、1926年に農林省へ入省した。戦前から戦後に至るまで、蚕糸局での勤務が長く蚕糸行政には最も長く関与している。また戦後の農地改革では、その立案と実施に行政の責任者として取り組んだ。
布施 欽吾(ふせ きんご、1903年2月13日 - 1971… 布施 欽吾(ふせ きんご、1903年2月13日 - 1971年3月8日)は、日本の漢学者、教育者。中央大学文学部教授、立教大学文学部教授。 千葉県出身。1928年(昭和3年)東京帝国大学文学部卒業。1929年(昭和4年)4月に、立教大学文学部教授に就任し、漢文を担当する。 戦後、1949年(昭和24年)より中央大学文学部教授を務め、1952年(昭和27年)に文学部に哲学専攻が発足すると、中国哲学を教える。 1961年(昭和36年)5月1日には中央大学学生部長に就任。1963年(昭和38年)11月、中央大学文学部長に就任。 1971年(昭和46年)3月8日、脳塞栓のため東京都杉並区荻窪の東京衛生病院で死去 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
前島 勘一郎(まえじま かんいちろう、1903年(明治36年… 前島 勘一郎(まえじま かんいちろう、1903年(明治36年)2月13日 - 1981年(昭和56年)2月25日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 実業家・前島彌の長男として生まれる。父の死去に伴い、1935年(昭和10年)7月1日、男爵を襲爵した。 1929年(昭和4年)東京帝国大学農学部を卒業。1936年、早稲田大学出版部理事となる。その他、肥田製作所取締役などを務めた。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
加藤 多喜雄(かとう たきお、1903年2月12日 - 19… 加藤 多喜雄(かとう たきお、1903年2月12日 - 1991年4月19日)は、日本の化学者。東北大学名誉教授。理学博士(東北大学、1935年)。弟に地球物理学者の加藤愛雄、生物学者の加藤陸奥雄、地質学者の加藤磐雄、孫に数学者の加藤文元がいる。 1903年、千葉県夷隅郡大多喜町に生まれる。出生地に因んで多喜雄と命名される。科学者として名高い加藤四兄弟の長男である。旧制仙台一中、旧制二高を経て、1926年に東北帝国大学理学部化学科を卒業。1935年に学位論文「アルカリ金属の研究」で東北帝国大学より理学博士の学位を取得。同大学助手を経て、1929年に東京工業大学助教授、1944年に東北大学工学部教授となり、1945年より東北大学非水溶液化学研究所教授を兼務。
戸叶 武(とかの たけし、1903年2月11日 – 1982… 戸叶 武(とかの たけし、1903年2月11日 – 1982年12月25日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。参議院議員(4期、日本社会党)。妻は衆議院議員の戸叶里子。 田中正造の政治的後継者で、下野新聞社長を務めていた戸叶薫雄の長男として、栃木県安蘇郡田沼町(現佐野市)に生まれた。旧制豊山中学校(現日本大学豊山高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学部へ入学。在学中は、高野実などと社会主義学生団体「文化会」を率いる。また、雄弁会に参加し、1922年(大正11年)には先輩である浅沼稲次郎の推薦により幹事となった。 1925年(大正14年)1月24日、学校教練に反対するデモにリーダー格で参加して麹町警察署に一時検束される。
龍田 静枝(たつた しずえ、1903年2月11日 - 196… 龍田 静枝(たつた しずえ、1903年2月11日 - 1962年1月21日)は、大正末期から昭和初期のサイレント映画で活躍した女優である。本名塩野 静枝(しおの - 、旧姓)、山形県出身。 女優以前の経歴には不明な点が多く、複数の説がある。 1903年(明治36年)2月11日、山形県南村山郡堀田村(現在の上山市金瓶)で生まれる。「1906年(明治39年)山形市生まれ」説あり。 山形高等小学校(旧制、現在の山形市立第一山形小学校)を卒業後、山形高等女学校(現在の山形県立山形西高等学校)卒業の説、米沢高等女学校(現在の同県立米沢東高等学校)卒業の説あり。 上京して日本女子大学に入学するも写真家を目指して中退、いっぽう「17歳で結婚、直後に夫病死、1923年(大正12年)母とともに上京」説あり。
吉田 富三(よしだ とみぞう、1903年(明治36年)2月1… 吉田 富三(よしだ とみぞう、1903年(明治36年)2月10日 - 1973年(昭和48年)4月27日)は、日本の医師、病理学者。学位は医学博士(東京大学・1936年)。長崎医科大学教授、東京大学医学部長などを歴任。文化勲章・勲一等旭日大綬章受章。 福島県石川郡浅川村(現・浅川町)生まれ。ラットの腹水癌である吉田肉腫と腹水肝癌の発見で実験腫瘍学に新たな扉を開いた。財団法人癌研究会癌研究所長、財団法人佐々木研究所研究所長、日本学術会議会員・副会長(第6期)、国語審議会委員(第1-6期)などを務めた。テレビディレクターの吉田直哉は長男である。動物学者の田子勝彌は叔父である。
鮫島 宗雄(さめじま むねお、1903年2月10日 - 19… 鮫島 宗雄(さめじま むねお、1903年2月10日 - 1947年8月6日)は、昭和初期の日本の臨床医師、医学研究者(医学博士)。南洋庁立の病院の医師として、トラック医院、パラオ医院、ヤップ医院、ヤルート医院、ポナペ医院で現地日本人およびミクロネシア人を診察した。その傍ら、ミクロネシア人についての医学的、人類学的、疫学的研究をおこなった。 1920年(大正9年)、岡山医学専門学校に進学する。在学中の1922年に岡山医学専門学校は岡山医科大学に昇格した。1924年(大正13年)3月、岡山医科大学付属専門部を卒業。 日本の各地の医師を経て、南洋群島に渡り1934年(昭和9年)頃に南洋庁の官医となる。
下村 兼史(しもむら けんじ、1903年2月10日 − 19… 下村 兼史(しもむら けんじ、1903年2月10日 − 1967年4月27日)は、日本の鳥類生態写真家、記録映画監督。 映画作品『或日の干潟』(理研科学映画、1940年)が文部大臣賞、皇紀2600年奉祝芸能祭文化映画コンクール首席、『ちどり』(東宝教育映画部、1947年9月公開)が映画世界賞受賞、文部省選定、『こんこん鳥物語』(東宝教育映画、1949年)が文部大臣賞、第4回毎日映画コンクール教育文化映画賞受賞。その他の作品でも受賞多数。鳥類を中心に、写真や映像に野生生物をフィルムに収め、日本初の鳥類生態写真集を刊行し、鳥類標本では得られない生態の研究に貢献した。 鳥類を撮影した写真は、財団法人山階鳥類研究所にかなりの数が収蔵されている。
中村 禎二(なかむら ていじ、1903年(明治36年)2月9… 中村 禎二(なかむら ていじ、1903年(明治36年)2月9日 - 1991年(平成3年)6月9日)は、昭和期の農業技術者、政治家。参議院議員(2期)、長崎県議会議長。 長崎県西彼杵郡時津村(現時津町)で生まれる。1923年(大正12年)長崎県立農学校(現長崎県立諫早農業高等学校)を卒業した。 小学校教員、農業技術員を務めた。長崎県議会議員に選出され5期在任し、同議長も務めた。また、自由民主党長崎県連総務会長、同幹事長などを歴任した。 1971年(昭和46年)6月の第9回参議院議員通常選挙に長崎県地方区から自民党公認で出馬して初当選し、1977年(昭和52年)7月の第11回通常選挙でも再選され、参議院議員を連続2期務めた。
吉川 重国(きっかわ しげくに、1903年(明治36年)2月… 吉川 重国(きっかわ しげくに、1903年(明治36年)2月9日 - 1996年(平成8年)3月16日)は、日本の宮内省官僚、華族。岩国藩主吉川家分家の人物。父は吉川重吉、兄に吉川本家の家督を継いだ吉川元光。妻は福井松平家分家の子爵松平慶民の次女、綾子。従四位男爵。 吉川重吉の次男として東京で生まれる。京都帝国大学卒業後の大正5年(1916年)に男爵となった。東洋拓殖に勤務の後、昭和2年(1927年)からヨーロッパへ留学。帰国後、宮内省に入省し、式部官狩猟官となる。昭和16年(1941年)には課長に昇進。 戦後は宮中儀礼の専門家として活動。昭和28年(1953年)のエリザベス2世戴冠式出席の皇太子明仁親王に随行した。
砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 199… 砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 1992年12月12日)は、日本のジャーナリスト、政治家。元日本共産党衆議院議員。民医連運動発祥の地とされる、大崎無産者診療所で看護師を務めていた、社会運動家の秋子は配偶者。 静岡県田方郡土肥村(土肥町を経て現在は伊豆市)出身。錦城中学校、第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学経済学部を卒業。一高在学中の1923年9月1日に発生した関東大震災では、新人会のメンバーと「一高震災防護団」を立ち上げ、被災者救援活動を行った。また、帝大入学後は新人会へ加入、1927年には無産者新聞へ無給社員として入る。翌年の三・一五事件以後責任者に就くと共に、日本共産党へ入党する。
繪島 千歌子(えじま ちかこ、1903年2月8日 - 没年不… 繪島 千歌子(えじま ちかこ、1903年2月8日 - 没年不詳)は、日本の女優である。新漢字表記絵島 千歌子、本名・旧芸名東 八重子(あずま やえこ)。舞台協会在籍時、日活向島撮影所との提携で映画初出演を果たし、後年は東亜キネマ甲陽撮影所の看板女優として大正末期まで活動した。 1903年(明治36年)2月8日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川)に生まれる。『世界のキネマスター』(報知新聞社)によれば、本名は東 八枝(あずま やえ)であるという。 日本聖公会系の立教高等女学校(現在の立教女学院中学校・高等学校)を卒業する。満18歳のときに1921年(大正10年)、花柳章太郎が同年に設立した新派の劇団・新劇座に参加、翌1922年(大正11年)には、山田隆弥らの新劇の劇団・舞台協会に参加している。
棈松 源一(あべまつ げんいち、1903年2月7日 - 19… 棈松 源一(あべまつ げんいち、1903年2月7日 - 1993年2月18日)は、日本のモンゴル語学・モンゴル文化学者。日本におけるモンゴル語研究の先駆者で、大阪外国語学校(現:大阪大学外国語学部)初の日本人モンゴル語専任教員。大阪外国語大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市小川町生まれ。鹿児島市立名山小学校から鹿児島市立清水小学校に移り卒業した後、鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制、現:鹿児島県立甲南高等学校)を1921年に卒業。官立大阪外国語学校(現:大阪大学外国語学部)に進み本科蒙古語部第1期生として1925年3月に卒業。 1927年、鹿児島県の花岡村立古江商業実務学校勤務。1929年、母校・大阪外国語学校蒙古語部講師となり、1935年に助教授に就任し、後に教授に昇任。
高井 ルビー(たかい ルビー、1903年2月7日 - 197… 高井 ルビー(たかい ルビー、1903年2月7日 - 1972年7月5日)は、日本の歌手、女優である。本名は「天田 春音(あまだ はるね)」。大正期~昭和初期の浅草オペラでソプラノの歌姫として活躍。 東京都本所区向島にて出生。東京育ちではあるが、祖父は群馬の博徒国定忠治の子分の一人であり左の腕にあたる人物であったという。 鎌倉高等女学校を卒業後、歌手・井上起久子に師事。1920年に演出家の獏与太平に見初められオペラ女優の仲間入りを果たす。初期の芸名は「高井爾美」(読み同じ)。この芸名は井上に付けられたという。なお、芸名の由来は駆け出しの頃大学生のパーティに招かれた際、指輪がないので小道具の指輪をはめて行き、学生に「あっ、高いルビー」と言われたのにちなんだと言われる。
齊藤 金作(さいとう きんさく、1903年2月6日 - 19… 齊藤 金作(さいとう きんさく、1903年2月6日 - 1969年11月25日)は、日本の刑法学者。従四位勲三等旭日中綬章。埼玉県出身。
百井 盛(ももい さかり、1903年〈明治36年〉2月5日 … 百井 盛(ももい さかり、1903年〈明治36年〉2月5日 - 2015年〈平成27年〉7月5日)は、日本の教育者、長寿者(スーパーセンテナリアン)。埼玉県さいたま市中央区在住。2014年6月8日以降死去するまで男性長寿世界一となっていた。 福島県相馬郡石神村(現、南相馬市)出身。福島師範学校卒業後、1924年に東京帝国大学農学部へ入学。1927年に同大学、同学部(専門課程:農芸化学)卒業。同年、咸鏡北道公立新義州高等普通学校に化学教諭として赴任。1948年から1951年まで福島県立塙高等学校(現、福島県立塙工業高等学校)の初代校長、1953年から1959年まで埼玉県立与野高等学校の第5代校長を務めた。
前川 佐美雄(まえかわ さみお、1903年2月5日 - 19… 前川 佐美雄(まえかわ さみお、1903年2月5日 - 1990年7月15日)は、昭和期の歌人。妻の前川緑、長男の前川佐重郎も歌人。五味康祐夫人千鶴子は妻の妹。 奈良県南葛城郡忍海村(現葛城市忍海)の素封家の長男として生まれる。父は佐兵衛、母は久菊。祖父佐重良は一族の長老として分家にも采配を振るっていた。 小学校六年で初めて短歌を作り、14歳で奈良の儒者越智黄華の漢学塾に学ぶ。1921年、下淵農林学校卒業。同年竹柏会「心の花」入会、佐佐木信綱に師事する。1922年に上京して東洋大学専門部倫理学東洋文学科に入学。木下利玄、石槫茂(後の五島茂)ら「心の花」の精鋭が集まる「曙会」にも参加し、「心の花」の新鋭として注目を浴び始める。
猿丸 吉左衛門(さるまる きちざえもん、1903年(明治36… 猿丸 吉左衛門(さるまる きちざえもん、1903年(明治36年)2月4日 - 1983年(昭和58年)1月4日)は、日本の実業家・政治家。芦屋市長(1948年 - 1952年)、兵庫県議会議員。初名は吉雄。 スポーツ黎明期に万能選手として知られた人物である。相撲では学生横綱となり、柔道でも活躍、陸上競技では砲丸投とハンマー投で日本記録を残した。 現在の兵庫県芦屋市出身。芦屋の猿丸家は猿丸大夫の末裔を称する旧家で、そのうち当主が「吉左衛門」の名を世襲する家系の出身である。 同じ名を名乗った父の猿丸吉左衛門(1853年 - 1932年)は、1928年から1930年にかけて精道村(芦屋市の前身)の村長を務めた。
武原 はん(たけはら はん、1903年(明治36年)2月4日… 武原 はん(たけはら はん、1903年(明治36年)2月4日 - 1998年(平成10年)2月5日)は、徳島県出身の日本舞踊家。本名・武原幸子。 1903年2月4日、徳島県徳島市籠屋町に生まれる。家は花街の裏手にあり、父親はブリキ職人だった。1915年、大阪宗右衛門町の大和屋芸妓学校に入学。山村流の上方舞を修行。14歳で芸者になり、20歳まで大和屋で働いた。1930年、青山二郎の後妻として結婚。青山を通じて小林秀雄、永井龍男、中原中也、宇野千代らとの交流が始まる。1931年、上京し、料亭「灘万」の若女将を務める。藤間勘十郎や二世西川鯉三郎に師事、関西の上方舞を東京に根付かせるのに尽力した。1934年、青山と離婚。