十六代目 市村羽左衛門(じゅうろくだいめ いちむら うざえも… 十六代目 市村羽左衛門(じゅうろくだいめ いちむら うざえもん、1904年(明治37年)1月15日 - 1952年(昭和27年)10月4日)とは、大正から昭和時代前期にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は橘屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に可江(かこう)がある。本名市村 勇(いちむら いさむ)。 京橋区築地に生まれ、のち十五代目市村羽左衛門の養子となる。二代目市村吉五郎は養父を共にする弟にあたる。1910年(明治43年)4月、東京歌舞伎座『鞍馬山祈誓掛額』の牛若丸で四代目市村竹松を襲名し初舞台。以後成駒屋五代目中村福助、片岡千代之助らとともに若手の旗手として将来を嘱望された。1925年(大正14年)1月には七代目(自称・十五代目)市村家橘を襲名。
吉田 安三郎(よしだ やすさぶろう、明治37年(1904年)… 吉田 安三郎(よしだ やすさぶろう、明治37年(1904年)1月14日 - 昭和47年(1972年)4月20日)は、日本の都市計画家。建築官僚、建築指導者。大学卒業と同時に内務省大臣官房都市計画課に入省後、都市計画東京地方委員会技師、建設省指導課長、大阪府建築部長などを経て、昭和30年に新たに発足した日本住宅公団では計画、建築担当の理事。本格的な団地造成の仕事に取り組む。公団退任後は塚本不動産、八千代エンジニヤリング、鹿島建設、東亜不動産など幅広い活動を続けると同時に、日本都市計画学会副会長、会長をつとめ、同学会当時の社団法人化を実現、また後進の指導につとめる。幅の広い活躍をする一方、いろいろな会の仕事など多方面に精力的に活動した。
米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 19… 米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 1971年6月20日)は、日本の経営者、工学博士。久保田鉄工(現在のクボタ)社長を務めた。 広島県呉市出身。1928年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に久保田鉄工(現在のクボタ)に入社。1946年に取締役に就任し、1949年に常務、1960年に専務を経て、1967年に社長に就任した。 1968年11月に紫綬褒章を受章した。 1971年6月20日、胃がんのために死去。67歳没。
羽生 三七(はにゅう さんしち、1904年〈明治37年〉1月… 羽生 三七(はにゅう さんしち、1904年〈明治37年〉1月13日 - 1985年〈昭和60年〉12月30日)は、大正、昭和期の日本の政治家、社会運動家。日本社会党参議院議員。「参議院の良心」と呼ばれた論客であった。 明治37年(1904年)1月13日長野県下伊那郡鼎村(現・飯田市)に米屋の長男として生まれる。飯田の松濤義塾に学び、家業のかたわら青年運動に参加する。山川均と出会い社会主義運動に加わるようになる。大正11年(1922年)秋、「下伊那文化会」を発展させ、自由青年連盟(Liberal Younger's League)を結成し、機関誌『第一線』を発行する。大正13年(1924年)治安警察法違反で検挙、起訴され、禁固4か月の判決を受ける。
愛ノ花 初義(あいのはな はつよし、1904年1月13日 -… 愛ノ花 初義(あいのはな はつよし、1904年1月13日 - 1944年11月11日)は、愛媛県宇和島市出身で押尾川部屋に所属した元大相撲力士。本名は宮川 初義。最高位は十両2枚目。 大阪相撲の押尾川部屋に入門。東西合併により、1927年5月三段目に付出され、その場所で三段目優勝を果たす。1931年5月十両に昇進したが、2場所続けて負け越し、1932年1月場所の番付では幕下に落ちた。ところが、番付発表直後に起きた春秋園事件により、大量の幕内十両の脱退者が出たため、一転して十両残留となった。以後6場所連続十両の地位にあった。1934年1月に幕下に落ち、翌5月三段目まで陥落したところで廃業した。1944年死去。
池田 敏子(いけだ としこ、1904年1月13日- 1984… 池田 敏子(いけだ としこ、1904年1月13日- 1984年7月5日)は、日本の著作家、池田書店創業者。 山形市生まれ。東京保母伝習所卒業。1929年(昭和4年)高山菊次と結婚、1935年(昭和10年)に教材社を創業、高山晴洲の筆名で執筆活動を始める。 1946年(昭和21年)離婚、1949年(昭和24年)2月23日に池田書店を創業する。1960年(昭和35年)出版の『性生活の知恵』は、英語版80万部も含めて400万部以上のベストセラーに、性に関する啓蒙書を多く出すほか、『下村湖人全集』などを刊行する。近藤信緒(こんどう・のぶお)の筆名で自らも多くの著書を著し、1949年(昭和24年)出版の『人に好かれる法』は、50万部以上のベストセラーとなった。
中平 解(なかひら さとる、1904年〈明治37年〉1月12… 中平 解(なかひら さとる、1904年〈明治37年〉1月12日 - 2001年〈平成13年〉11月12日)は、日本のフランス語学研究者。日本民俗語学者。 1904年(明治37年)1月12日、愛媛県南宇和郡一本松村広見(現・愛南町)に生まれる。父・中平幾男、母・栄。「わたしの家は三万石の〔伊予〕吉田藩〔宇和島藩の支藩〕の小船頭の役をしていて、祖父は殿様が参勤交代のときに大阪まで行ったようである」。「祖父は四万十川が氾濫したとき、政府(県かもしれない)が呉れた米を、御上のくれた物は食べないと言って頑張った、という話を聞いたこともあるが、わたしのアマノジャクも、この祖父の性質を受けているのかもしれない」。
野村 末一(のむら すえかず、1904年(明治37年)1月1… 野村 末一(のむら すえかず、1904年(明治37年)1月12日 - 1975年(昭和50年)9月28日)は、日本の実業家。三井東圧化学(現三井化学)社長や、日本化学工業協会会長を務めた。 1924年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業、三井鉱山入社。1931年三池窒素工業入社。1937年東洋高圧工業入社。1946年東洋高圧工業取締役に昇格。1947年東洋高圧工業専務取締役。1957年東洋高圧工業取締役副社長。1963年から東洋高圧工業取締役社長を務め、1968年には三井銀行本店で三井化学工業の石毛郁治取締役社長との間で、合併調印式を行い、合併後の三井東圧化学でも社長を務めた。同年日本化学工業協会会長。
聴濤 克巳(きくなみ かつみ、1904年(明治37年)1月1… 聴濤 克巳(きくなみ かつみ、1904年(明治37年)1月11日 - 1965年(昭和40年)8月30日)は日本のジャーナリスト、労働運動家。息子は元参議院議員の聴濤弘。 香川県生まれ。関西学院大学卒業後、朝日新聞社に入社。朝日新聞記者として論説委員などを歴任。戦後の1945年に日本共産党入党。朝日新聞労働組合委員長(初代)にも就任した。1946年には全日本新聞通信労働組合委員長(初代)と全日本産業別労働組合会議(産別会議)議長(初代)に就任した。 二・一ゼネストでは伊井弥四郎とともに最高責任者の1人になったが、1947年1月20日に右翼団体・新鋭大衆党による襲撃を受け全治1ヶ月の重傷を負った。
水上 不二(みずかみ ふじ、男性、1904年(明治37年)1… 水上 不二(みずかみ ふじ、男性、1904年(明治37年)1月10日 - 1965年(昭和40年)3月31日)は、日本の詩人、童話作家、絵本作家、作詞家。 宮城県本吉郡大島村(現在の気仙沼市)字長崎にて父・佐助、母・あやの の次男として生まれる。 1918年(大正7年)、本吉郡立水産学校(現在の宮城県気仙沼向洋高等学校)に入学し、卒業後は1922年(大正11年)9月より本吉郡内の小学校3校に勤務した。その後、1928年(昭和3年)4月に上京し、東京府南葛飾郡の松江第一小学校に勤務した。 1930年(昭和5年)、処女詩集『私の内在』を発行する。この頃より鈴木三重吉、北原白秋らが発刊した「赤い鳥童謡運動」に参加。
長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10… 長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10日 - 1994年(平成6年)8月21日 )は、日本の登山家であり、随筆家でもある。まだ日本では珍しかった山小屋であるヒュッテ・霧ヶ峰を経営した人物として有名。日本山岳会員、日本児童文芸家協会・日本国立公園新社理事。岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市)の長尾家に生れる。大正4年度吹屋小学校を卒業。地元の旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。長尾自身、好奇心旺盛な性格であり、5年生の夏には、神戸市の貧民窟(スラム)へ見物に行く。そこは、人一人やっと通れる位の路地があり、病める者、貧しき者、悩める者、弱き者、虐られた者等、世の中の敗者とされる人々がひしめき合い、これを見て世の中の不平等さを認識した。
祖父江 寛(そぶえ ひろし、1904年(明治37年)1月9日… 祖父江 寛(そぶえ ひろし、1904年(明治37年)1月9日 - 1979年(昭和54年)2月14日)は、日本の応用化学者である。 愛知県名古屋市に生まれる。東京帝国大学(現在の東京大学)に入学後、工学部に所属し応用化学を専攻した。卒業後は東京工業大学に勤務し、講師を経て助教授として活動する。1936年(昭和11年)より留学のため渡英し羊毛の研究に携わり、その後ドイツに移住しアルカリセルロースの研究にも携わった。 1939年(昭和14年)に帰国後は、その応用として合成繊維(アルカリ繊維素)の研究に携わる。これによって、1941年(昭和16年)に理学博士の称号を得た。翌1942年(昭和17年)より教授に昇格し、1948年(昭和28年)に母校の東京大学に復帰し同大学で教鞭を執る。
高見 三郎(たかみ さぶろう、1904年1月8日 – 197… 高見 三郎(たかみ さぶろう、1904年1月8日 – 1978年2月28日)は、昭和期の政治家、内務・警察官僚。位階は正三位。 衆議院議員(8期)、文部大臣を歴任した。 山口県美祢郡東厚保村(現・美祢市)小杉に、農業・高見政五郎の次男として生まれる。高等小学校を卒業後、炭焼きをしながら独学で教員免許を取得、小学校代用教員となる。その後軍隊生活等を経て、1928年大阪府天王寺師範学校第二部(現・大阪教育大学)を卒業、1929年関西大学専門部法科卒業後、大阪府庁学務部に勤務するが、1929年に高等文官試験行政科に合格する。翌1930年には法律科にも合格し、1938年内務省に入省する。 秋田県社会部長、警視庁警視、和歌山県警察部長、奈良県経済部長等を経て、静岡県経済部長となるが、1951年次期県知事の有力候補者であった県総務部長の斎藤寿夫と親しいことを理由に、当時の小林武治知事によって左遷される。
長谷川 潾二郎(はせがわ りんじろう、1904年1月7日 -… 長谷川 潾二郎(はせがわ りんじろう、1904年1月7日 - 1988年1月28日)は、日本の画家。猫の絵で有名。また、地味井 平造(じみい へいぞう)の筆名で探偵小説を執筆した小説家でもある。 1904年、父・長谷川清(後に淑夫に改名)、母・長谷川ユキの二男として函館に生まれる。長兄に、牧逸馬・林不忘・谷譲次の三つのペンネームを用いて活躍した作家の長谷川海太郎がおり、弟には、ロシア文学者で詩人の長谷川濬(三男)、作家の長谷川四郎(四男)がいる。 旧制函館中学(現・北海道函館中部高等学校)卒業。中学の同級生に、探偵小説家・編集者の水谷準がいた。その後、画家を志して1924年に上京し、松本泰が大家をつとめる下宿で、水谷と共同生活を送る。
牧野 文子(まきの ふみこ、1904年(明治37年)1月7日… 牧野 文子(まきの ふみこ、1904年(明治37年)1月7日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の作家、詩人、翻訳家、イタリア文学者で、イタリア民謡「山の大尉」の歌詞も訳した。父は高級住宅街「苦楽園」を開発した実業家中村伊三郎。夫は「広辞苑」「少年少女ファーブル昆虫記」「生き物図鑑」などのイラスト画家牧野四子吉(よねきち)。 1904年(明治37年)大阪府大阪市北区上福島(現福島区)生まれ。大阪市立靱尋常小学校(現大阪市立明治小学校)、大阪府立清水谷高等女学校(現大阪府立清水谷高等学校)を経て、神戸女学院大学部英文科(現神戸女学院大学)へ進学(のちに中退)。1924年(大正13年)東京時事新報(現産経新聞)に勤務。
瀬戸山 三男(せとやま みつお、1904年1月7日 - 1… 瀬戸山 三男(せとやま みつお、1904年1月7日 - 1997年6月23日)は、日本の政治家。位階は正三位。 元衆議院議員(当選11回)。都城市長・建設大臣・法務大臣・文部大臣を歴任。 熊本県天草郡下津浦村(現・天草市)に、村の収入役を務めた河内寿松の三男として生まれる。熊本通信生養成所を卒業後、天草の郵便局での電信技術者、下津浦村書記を経て、向学心に燃え上京。苦学しながら開成中学校夜間部(のちの昌平高校)、さらに明治大学法学部に進み、1932年卒業。司法省に入り、岡山・山口等の各地裁判事を歴任する。1933年宮崎県都城市の金物商瀬戸山徳蔵の一人娘香代と結婚したが、後に瀬戸山家の血筋が絶えたため、1942年瀬戸山家の婿養子となる。
趙 瓊奎(チョ・ギョンギュ、朝鮮語: 조경규、1904年1月… 趙 瓊奎(チョ・ギョンギュ、朝鮮語: 조경규、1904年1月6日 - 1983年1月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の産婦人科医、実業家、政治家。第2・3・4代韓国国会議員、第3代前・後期民議院副議長。 本貫は咸安趙氏。ジャーナリストの趙鏞寿(朝鮮語版)の叔父である。 慶南咸安出身。培材高普、セブランス医学専門学校(現・延世大学校)卒、京都帝大大学院修了。産婦人科医、大邱民報社長、大邱時事新報社長、慶北国民訓練院長、国民会大邱市副委員長・大邱支部組織部長・慶尚北道支部長・中央本部副会長、大韓労総最高委員を歴任した。1948年の初代総選挙に出馬したが落選し、1950年の第2代総選挙で大邱市から初当選し、自由党院内議員部政策委員長・中央委員、国会懲戒資格委員長・内務治安委員長・全院委員長・内務委員長、第3代国会民議院副議長を務めた。
平澤 貞二郎(ひらさわ ていじろう、1904年1月5日 - … 平澤 貞二郎(ひらさわ ていじろう、1904年1月5日 - 1991年8月20日)は、日本の実業家・詩人である。 平澤貞二郎は福井県坂井市三国町の仏壇屋に生まれ、15歳の時に上京した。1921年に東京府立商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)を卒業したのち、大沢商会や報知新聞社などに勤務した。その傍らで詩の創作活動に励み、1925年に萩原朔太郎や室生犀星らが出していた雑誌『感情』の流れを汲んだ『帆船』に参加したり、1927年に詩誌『金蝙蝠』を創刊したり、1928年に詩集『街の小民』を出版したり、1930年にはプロレタリア詩誌合同のプロレタリア詩人会の委員長に就任して機関誌『プロレタリア詩』を13号まで刊行したりするなど、1920年から1930年代頃にはプロレタリア詩人として活動している。
本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2… 本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2008年1月29日)は、日本の経営者、銀行家。北國銀行頭取を務めた。長男は北國銀行第6代頭取の本陣靖司。 石川県小松市出身。1929年に京都帝国大学法学部を卒業し、1930年2月に加越合同銀行に入行した。1943年12月に北國銀行に転じ、1948年2月に常務に就任し、1950年10月に専務、1954年11月に副頭取を経て、1961年1月には頭取に就任。1966年7月には会長も兼任し、1968年11月には頭取を退任。 近現代の日本画をはじめとした美術品収集を趣味としており、小松市立本陣記念美術館にコレクションが収蔵されている。 2008年1月29日、老衰のために死去。
石田 龍次郎(いしだ りゅうじろう、1904年1月4日 - … 石田 龍次郎(いしだ りゅうじろう、1904年1月4日 - 1979年1月11日)は、日本の地理学者。一橋大学名誉教授。日本地理学会会長(1966-67)。 石川県能美郡小松町(現・小松市)で酒類販売商を営む麦谷家の六男として生まれる。14歳で尋常高等小学校の高等科を修了し、石川県立小松中学校に入学する。1921年第四高等学校理科甲類に入学し、1924年に卒業。1927年、東京帝国大学理学部地理学科卒業。在学中は山崎直方、辻村太郎、多田文男等の指導を受ける。同年4月、石田姓を継いで石田龍次郎と改姓。同年東京商科大学予科講師に就任。同専門部講師、予科教授を経て、1949年一橋大学社会学部教授。1967年、定年退官、名誉教授。
比佐 芳武(ひさ よしたけ、本名:武久 猛〈たけひさ たかし… 比佐 芳武(ひさ よしたけ、本名:武久 猛〈たけひさ たかし〉、1904年1月4日 - 1981年12月17日)は、日本の元脚本家である。マキノ正博のもっとも苦しんだ若い時期に惜しみなく協力した盟友であり、「七つの顔を持つ男」で知られる片岡千恵蔵の当たり役「多羅尾伴内」の生みの親である。 現在の北海道滝川市に生まれる。 マキノ・プロダクションに入社、同社で初めて採用されたのはオリジナルストーリーであった。中川信夫が脚本化し、マキノ正博が監督したこの『浪人太平記』は、1931年(昭和6年)3月19日に公開された。同年のマキノ解散後は、高村正次が興した「正映マキノキネマ」で1932年(昭和7年)、マキノ正博が「青山正雄」名義で監督した『喧嘩道中記』、おなじくマキノが監督した『二番手赤穂浪士』の2作にオリジナル脚本を書いた。
黒田龍馬(くろだ りょうま、1904年(明治37年)1月3日… 黒田龍馬(くろだ りょうま、1904年(明治37年)1月3日 - 1986年(昭和61年)6月18日)は、日本のジャーナリストで経営者。 毎日新聞社取締役、中部本社社長や毎日大阪会館社長を務めた。1921年 全国中学校大会で走高飛1m69cmの日本記録を樹立しアジア大会(当時:極東選手権大会)に出場。日本学生陸上競技連合の設立に関わる。 1904年 (明治37年)1月3日 東京市神田区小川町3番地にて父 安吉と母 くりの長男として生まれる。二人の弟と3人の妹の6人兄弟。 1911年(明治44年)4月 東京市小川尋常小学校(平成2年に閉校)に入学 1917年(大正6年)龍馬13歳 小川尋常小学校卒業。
湯藤 実則(ゆとう みのり、1904年1月3日 - 1989… 湯藤 実則(ゆとう みのり、1904年1月3日 - 1989年8月24日)は、日本の経営者、銀行家。日本不動産銀行頭取を務めた。広島県出身。 1925年に山口高等商業学校を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行した。1957年に日本不動産銀行に就任し、1963年に副頭取を経て、1965年には頭取に就任。1969年に会長に就任。 経済団体連合会、全国銀行協会連合会の各理事も務めた。 1970年に藍綬褒章を受章し、1976年に勲二等旭日重光章を受章。 1989年8月24日脳梗塞のために死去。85歳没。
稲山 嘉寛(いなやま よしひろ、1904年(明治37年)1月… 稲山 嘉寛(いなやま よしひろ、1904年(明治37年)1月2日 - 1987年(昭和62年)10月9日)は、日本の実業家、財界人。第5代経済団体連合会(経団連)会長(1980年 - 1986年)。 東京市京橋区銀座(現:東京都中央区銀座)に、「稲山銀行」頭取・稲山伝太郎の二男として生まれる。銀行を始めたのは祖父稲山久仙で千葉県の農家の二男として生まれ幕末、11歳の時江戸へ出て働くうちに見込まれ、稲山家の養子になり勤倹貯蓄のすえ、小なりとはいえ銀行をつくった。 入学試験・入社試験には苦労し続け、泰明小を経て、中学受験では東京府立一中、府立四中、開成中、麻布中に落ち、神田の錦城中に入学する。その後も府立一中の転入試験を二度受け、二度目の受験時には制服制帽も買い揃えていたが失敗。
伏見 猛彌(伏見 猛弥、ふしみ たけや、1904年〈明治37… 伏見 猛彌(伏見 猛弥、ふしみ たけや、1904年〈明治37年〉1月2日 - 1972年〈昭和47年〉3月15日)は、日本の教育学者。戦後日本の英才教育の先駆者として知られる。福島県出身。国民精神文化研究所では哲学者の小島威彦、国家学者の大串兎代夫と共に三羽烏と呼ばれた。 1928年、東京帝国大学文学部教育学科卒業。東京帝国大学大学院修了。 東京帝国大学助手兼日本大学講師。1936年、文部省国民精神文化研究所所員。1943年、教学錬成所錬成官。戦後公職追放。1951年、学校図書株式会社顧問。1952年、追放解除、玉川大学教授。1963年教授。玉川大学教育学科長。1965年、英才教育研究所設立、同所長。
池島 重信(いけじま しげのぶ、1904年(明治37年)1月… 池島 重信(いけじま しげのぶ、1904年(明治37年)1月2日 - 1991年(平成3年)8月18日)は、日本の哲学者、文芸評論家。専門はドイツ哲学。法政大学名誉教授。 1904年(明治37年)1月2日に茨城県水戸市に生まれる。1929年(昭和4年)に法政大学法文学部哲学科を卒業する。 法政大学助手を経て講師になるが、1935年(昭和10年)の法政騒動で野上豊一郎たちと共に辞職、日本放送協会教養部に勤務し、教養部副部長に就任する。 戦後、1946年(昭和21年)に法政大学に復職し、文学部助教授に就任、教授・文学部長などを歴任する。 1991年(平成3年)8月18日に死去、87歳。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
石井 繁丸(いしい しげまる、1904年〈明治37年〉1月1… 石井 繁丸(いしい しげまる、1904年〈明治37年〉1月1日 - 1983年〈昭和58年〉10月8日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(3期)、前橋市長(5期)。前橋市立工業短期大学学長。大日本帝国陸軍軍人(陸軍曹長)[要出典]。 群馬県勢多郡木瀬村大字野中(現・前橋市野中町)出身。永明尋常高等小学校を経て、1922年(大正11年)県立前橋中学校卒業。警視庁麻布警察署書記として勤務の後、日本大学に学ぶ。1926年(大正15年)司法試験合格。1927年(昭和2年)に日本大学法科を卒業し、同年法律評論社の編集記者として勤める。1928年(昭和3年)弁護士となる。須永好による強戸村農民運動に協力した。
仁井田 陞 (にいだ のぼる、1904年〈明治37年〉1月… 仁井田 陞 (にいだ のぼる、1904年〈明治37年〉1月1日 - 1966年〈昭和41年〉6月22日)は、日本の法制史学者。東京大学名誉教授。中田薫門下。中国法制史の開拓者として知られる。正三位勲二等瑞宝章。宮城県仙台市生まれ。 旧制松本高等学校文科甲類を経て、1928年に東京帝国大学法学部を卒業。東方文化学院東京研究所研究員に着任。第二次世界大戦中は華北農村、北京商工ギルドの調査に従事。戦後その研究成果として、法社会学的な観点も取り入れた『中国の社会とギルド』『中国の農村家族』を著した。本業の中国法制史の分野でも、『中国法制史』『中国法制史研究』(朝日賞受賞)などの大著を世に送り、学会をリードした。
富田 常雄(とみた つねお、1904年(明治37年)1月1日… 富田 常雄(とみた つねお、1904年(明治37年)1月1日 - 1967年(昭和42年)10月16日)は、日本の小説家。柔道五段。東京府生まれ。明治大学商学部卒。初め心座文芸部に入って新劇運動に参加したのち、『姿三四郎』が大変な人気を呼んで流行作家となる。戦後『面』『刺青』で直木賞受賞。映画化、ドラマ化された作品も多く、大衆文学の大家として人気を博した。 柔道家富田常次郎の子として東京府に生まれる。永田町小学校(現千代田区立麹町小学校)、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業、明治大学商学部。在学中、詩誌『感情革命』を創刊する。1928年、河原崎長十郎らの心座文芸部に参加する。他のメンバーに舟橋聖一、村山知義らがいた。
桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年… 桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年(明治37年)1月1日 - 1986年(昭和61年)6月23日)は、日本の化学者。京都大学名誉教授。日本学士院会員。紫綬褒章・文化勲章受章。 1939年(昭和14年)に日本初の合成繊維であるポリビニルアルコール系合成繊維(ビニロン)を李升基、川上博(大日本紡績)らと共同開発した。このほか、桜田の粘度式をはじめとして高分子に関する様々な研究を展開し、日本の高分子化学の基礎を築いた。高分子という日本語を定着させたのも彼である。 エスペランティストでもあった。 京都府生まれ。京都一中を卒業。三高時代にエスペラントを学ぶ。三高を卒業。 1924年ルドヴィコ・ザメンホフの演説集をエスペラントから日本語訳して、カニヤ書店から『夜の空の星の如くに』として出版した。
森谷 克己(もりたに かつみ、1904年(明治37年)1月1… 森谷 克己(もりたに かつみ、1904年(明治37年)1月1日 - 1964年(昭和39年)11月17日)は、日本の経済学者。専門は経済史。 1904年、岡山県上房郡上水田村(現:真庭市北房地域)生まれ。岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、関西電力取締役になる板野道夫がいた。1921年3月に同校を卒業、板野と同じく同年4月第六高等学校文科乙類に進学。1924年3月六高卒業、同年4月東京帝国大学法学部に入学。1927年3月東大法学部卒業した。 1927年6月、京城帝国大学法文学部助手に任ぜられる。1929年京城帝大助教授に就任。1945年11月敗戦により引き上げ。1946年5月名目のみ教授となるが自然退官。
進藤 一馬(しんとう かずま、1904年(明治37年)1月1… 進藤 一馬(しんとう かずま、1904年(明治37年)1月1日 - 1992年(平成4年)11月28日)は、日本の政治家、実業家。 早稲田大学政治経済学部卒業後、中野正剛秘書、西日本新聞社の前身の九州日報社取締役を経て、玄洋社社長となる。戦後に自由民主党に加わり、衆議院議員を経て、福岡市市長を4期務めた。 福岡市西職人町(現中央区舞鶴)出身。旧福岡藩士・進藤喜平太(玄洋社の創立者の一人)の四男。 旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)、早稲田大学政治経済学部卒業。1929年(昭和4年)、中野正剛の秘書となり、1933年(昭和8年)に中野が結成した東方会に入会し総務部長となる。その後、九州日報社(現・西日本新聞社)取締役を経て、1944年(昭和19年)10月、第10代玄洋社社長に就任し、1946年(昭和21年)にGHQにより解散させられるまで社長を務めた。
増本 甲吉(ますもと こうきち、1904年(明治37年)1月… 増本 甲吉(ますもと こうきち、1904年(明治37年)1月1日 - 1991年(平成3年)3月14日)は、日本の拓務・内務官僚、国会職員。最後の官選岐阜県知事。 現在の大阪府羽曳野市出身。増本有吉の五男として生まれる。第三高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、日本電力株式会社に入社。1929年、拓務省に入省し、拓殖局属となる。 以後、台湾総督府事務官、拓務書記官、樺太庁内務部長、石川県内務部長などを歴任。 1947年3月、前任の桃井直美が知事選に出馬のため辞任したことに伴い岐阜県知事に就任。県議会議員選挙、知事選挙などを執行して同年4月に知事を退任。
土州山 好一郎(としゅうざん こういちろう、1904年1月1… 土州山 好一郎(としゅうざん こういちろう、1904年1月1日 - 1977年5月4日)は、高知県香美郡赤岡町(現香南市)出身で二子山部屋に所属した大相撲力士。本名は武内 好春。最高位は東前頭4枚目(1934年5月場所)。 現役時代の体格は179cm、112kg。得意手は上突っ張り、出し投げ。 同郷の土州山役太郎の経営していた二子山部屋に入門、1922年5月場所に初土俵を踏む。三段目から幕下で苦労していたが、土佐ノ海から師名の土州山に四股名を改めた直後の1932年1月に起きた春秋園事件で大量の脱退者が出たので、繰り上がって同年2月の改正番付で新十両を果たした。その機会を生かして1933年1月場所に入幕、以後6年にわたって幕内中堅力士として活躍した。
長島 又男(ながしま またお、1904年1月 - 没年不明)… 長島 又男(ながしま またお、1904年1月 - 没年不明)は、日本のジャーナリスト。機関紙連合通信社設立者、日本機関紙通信社元理事長 埼玉県北足立郡小谷村(現・鴻巣市)に生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、早稲田大学政治経済学部に進学した。しかし、大山郁夫に絡んで、在学中の1927年に大学を中退する。 1929年、新聞連合に加入する。1936年、同盟通信社に入社し、南方部長を務める。 1945年の日本の敗戦後、同盟通信社はGHQの指令により解散となる。長島は、解体に伴って設立された共同通信社に移り、解説委員長となる。同年、民報社を設立して取締役となり、東京都で第二次世界大戦後最初に創刊された夕刊紙である『民報』を創刊して主筆を務めた。
金巻 賢字(かなまき けんじ、1904年(明治37年) - … 金巻 賢字(かなまき けんじ、1904年(明治37年) - 1984年(昭和59年))は、日本の経済学者・経営学者・教育者。専門は社会思想史・簿記論。元・札幌商業高等学校校長。北海道生まれ。 この他、1949年(昭和24年)北海学院兼任教授や、1949年(昭和24年)~1956年(昭和31年)まで学校法人北海学園理事。また、1948年(昭和23年)~1984年(昭和59年)まで学校法人北海学園評議員。
三友 國五郎(みとも くにごろう、1904年 <明治37年>… 三友 國五郎(みとも くにごろう、1904年 <明治37年> - 1983年 <昭和58年> 3月1日)は、日本の地理学者、考古学者。吉野ヶ里遺跡の発見者。位階は正四位。 埼玉県大里郡久下村(現・熊谷市)に生まれる。 旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学)を経て、1931年に京都帝国大学文学部史学科を卒業した。 卒業後は旧制福岡県立東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)の教諭となる。当地では北九州郷土史研究会に参加した。1934年に吉野ヶ里遺跡を学会に報告し、七田忠七とともに発見者となった。 1938年に日本統治下の朝鮮にあった旧制平壌第三中学校に転任、1940年に旧制平壌第一中学校に移る。
佐野 喜智平(さの きちへい、1904年(明治37年) - … 佐野 喜智平(さの きちへい、1904年(明治37年) - 1979年(昭和54年))は、日本の実業家。粕壁宿で慶長年間創業15代400年の老舗伊勢屋当主。 佐野喜智平は1904年(明治37年)、埼玉縣南埼玉郡粕壁町に生まれる。旧制縣立粕壁中學校を1922年(大正11年)に卒業後、老舗伊勢屋に勤務。1934年(昭和9年)に伊勢屋代表取締役社長を継承した。 戦後の高度成長時代には、スーパーマーケット・プラスを立ち上げた。1968年(昭和43年)に伊勢屋代表取締役会長に就任した。 氏は、1970年代に将来移転予定の春日部薬草園の跡地に、文化施設を提案。および、粕壁三枚橋の薬草園の隣接地に商業施設を誘致した。
岡田 家武(おかだ いえたけ、1904年 - 1970年)は… 岡田 家武(おかだ いえたけ、1904年 - 1970年)は、中国語名を馬謝民、後には馬植夫といい、華西大学(四川大学の前身の一つ)教授を務めるなど、主に中国で活動した日本の地球化学者。 逓信省鉄道局の官吏だった父・岡田甲子之助と、母・與志の間の長男として、東京府東京市麹町区(後の千代田区の一部)に生まれる。弟に、後に物理学者となる岡小天がおり、ほかに弟がもう一人と、妹が二人いた。 当時は内幸町にあった東京府青山師範学校附属小学校(後の東京学芸大学附属世田谷小学校の前身)から、市ヶ谷加賀町にあった東京府立第四中学校(後の東京都立戸山高等学校の前身)に進んだが、幼少時から鉱物に関心をもっていた岡田は、この頃から各地を旅して鉱物採集を行ない、東京帝国大学理学部教授の神保小虎(鉱物学)の研究室にも出入りしたといわれる。
田中 均一郎(たなか きんいちろう、1904年 - 1979… 田中 均一郎(たなか きんいちろう、1904年 - 1979年)は、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の実業家。名古屋市南区の機械製造会社である太平製作所社長。1963年(昭和38年)に名古屋市に土地と建物を寄付し、同施設は翌年に名古屋市南図書館として開館した。「蛇々子」の俳号をもつ俳人としても知られる。 1904年(明治37年)に印刷工の息子として愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に生まれた。父親は刈谷町にある太田商事の印刷部主任を務めた人物である。 享栄貿易学校(現・享栄高等学校)を卒業し、名古屋市西区の木工所に勤めた。やがて名古屋市南区戸部町の機械製造会社である太平製作所に転職し、1943年(昭和18年)に39歳で社長となった。
深沢 要(ふかざわ かなめ、1904年 - 1947年)は、… 深沢 要(ふかざわ かなめ、1904年 - 1947年)は、日本のこけし研究家・版画家・童話作家。本字での表記は深澤要。 東京市下谷区池之端七軒町に生まれる。少年期は、医師である父に従って九州で育った。1917年、福岡県嘉穂中学校に入学するが病気のため退学。1921年、大阪泰西学館に入学するも病気のため退学。 1925年、大阪市立工業学校(現大阪市立都島工業高等学校、翌年、大阪市立都島工業学校と改称)に勤務。かたわら童話研究を志す。1929年、都島工業学校を退職。行人社書店を設立するが病気のため閉店。『古本屋の棚』『子供考』を出版。1933年、東京に移る。1934年、このころより、こけしの収集研究が始まり産地訪問が始まる。
北村 謹次郎(きたむら きんじろう、1904年(明治37年)… 北村 謹次郎(きたむら きんじろう、1904年(明治37年) - 1991年(平成3年))は、日本の実業家・茶人。北村林業取締役、北村文華財団理事長。 奈良県吉野郡上市町(現・吉野町)出身。林業を営む北村又左衛門の二男。衆議院議員の北村又左衛門は実兄。1928年、京都帝国大学経済学部を卒業した。 文化人として40歳の時に建設が終了した四君子苑で多くの文化人や茶人をもてなした。 謹次郎が収集した茶道具・古美術品を保存するため、1975年に財団法人北村文華財団が設立、1977年に北村美術館が開館した。1991年に死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
金 憲植(キム・ホンシク、朝鮮語: 김헌식、1904年 - … 金 憲植(キム・ホンシク、朝鮮語: 김헌식、1904年 - 没年不詳)は、大韓民国の医師、政治家。第2代韓国国会議員。 京都帝国大学(現・京都大学)研究科卒。医師であったほか、論山邑消防署長などを務めた。1950年の第2代総選挙では論山甲選挙区から無所属で出馬し当選したが、朝鮮戦争時に北朝鮮に拉致された。
山東 茂一郎(さんどう もいちろう、1904年 - 1985… 山東 茂一郎(さんどう もいちろう、1904年 - 1985年)は、日本の商学者。和歌山大学教授、甲南大学教授を歴任した。甲南大学名誉教授。専門はマーケティング論、販売政策。 日本の高度経済成長期において、販売政策やブランド論(有標品)の研究で先駆的な業績を残した。日本商業学会賞を2度受賞している。 1904年(明治37年)、大阪府大阪市に生まれ、その後和歌山県和歌山市で育つ。実家は和歌山市内で文房具商を営む家であった。父は商売人としての矜持を持ち、家業が繁盛していたため、長男である茂一郎に家業を継ぐことを望んでいた。一方で、士族出身の母は商売よりも学問や精神性を重んじる気風を持っていた。 小学校卒業時、成績優秀であったが、父は「商売を継ぐのに学問はいらない」として、進学予備校的な役割も果たしていた旧制和歌山中学校(現・桐蔭高校)への進学を認めなかった。
城 憲三(じょう けんぞう、1904年 - 1982年)は、… 城 憲三(じょう けんぞう、1904年 - 1982年)は、数学者、コンピュータ技術者。日本のコンピュータパイオニアで、ほぼ最初期にコンピュータに取り組んだ一人。大阪府大阪市生まれ。 日本の初期のコンピュータ開発は、電子式では、城によるもの以外に、1949年に開発着手し1956年に完成動作した岡崎文次のFUJIC、1952年にプロジェクトが開始され1959年完成動作した東大TACがある。城の「阪大真空管計算機」 は、1953年のまとまった科学試験研究費により本格的に始まっている。しかし、予備実験的な段階までを含めると、1948年にはじまる三田繁による東芝TAC もあるが、城はENIACについての1946年のニューズウィークの記事を見て電子式の計算機械に取り組み、1950年にはENIACの1桁分のブロック線図にもとづいた10進4桁の演算装置を完成させている。
森下辰夫(もりした たつお、1904年 - 1970年)は、… 森下辰夫(もりした たつお、1904年 - 1970年)は、日本のフランス文学の言語学者である。 大阪府に生まれる。1928年京都帝国大学文学部仏文科卒業。外資系会社オデオン、天理外国語学校、関西日仏協会勤務、1938年満州建国大学教授。1941年霊能力を得たと信じる。敗戦後公職追放。1949年京都工芸繊維大学教授。1967年京都産業大学教授。没後勲三等遺贈。英文で書き未発表だった『心霊問題と人間』が没後邦訳された。 失職した森下が大阪の帝塚山学院で開いていた仏独語の塾で、谷沢永一と開高健が出会った(谷沢『回想開高健』)。日東蓄音機ツバメ印ニットーレコード社長、森下辰之助の長男として生まれる。「皇国史観」の代表的歴史家の平泉澄の義弟である。
小幡 功(おばた いさお、1904年 – 1976年) は、… 小幡 功(おばた いさお、1904年 – 1976年) は、日本の松濤館 空手師範の先駆 。 松濤館流空手道拳心会初代師範。彼は船越義珍古参の弟子で、現代の空手の創設者として広く認識され、1949年船越の下での小幡は日本空手協会(JKA)設立の重要人物となった。また、米国空軍へのデモンストレーションを、そして彼の弟子たち、特に大島劼らを通して、空手をアメリカ合衆国に紹介し広めた。
堤 徳三(つつみ とくぞう、1904年〈明治37年〉 - 没… 堤 徳三(つつみ とくぞう、1904年〈明治37年〉 - 没年不明)は、日本の音楽家、実業家。堤商店会長。 東京府士族・堤徳蔵の長男。1926年、慶應義塾大学卒業。江南産業、堤不動産、新橋興業各社長、堤商事代表取締役。堤商店取締役・同社長・同会長、結核予防会評議員、東京砂糖取引所理事などをつとめる。 族籍は東京府士族、会社重役であった。住所は東京市大森区南千束、東京都千代田区一番町で東京都港区在籍。別宅は神奈川県三浦郡逗子町小坪。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小野 祖教(おの もとのり、1904年 - 1990年)は、… 小野 祖教(おの もとのり、1904年 - 1990年)は、神道学者。 静岡県出身。旧姓木村、幼名政次。前名木村祖教。1930年国学院大学卒。大倉精神文化研究所所員、国民精神文化研究所嘱託、神社本庁教学部長・同常任講師、母校教授歴任。
宮田 幸一(みやた こういち、1904年 - 1989年)は… 宮田 幸一(みやた こういち、1904年 - 1989年)は、日本の英文学者、博士。鶴見大学教授。 鶴見大学文学部教授。 1974年、論文「英語文法における単語種の歴史的および分析的研究」で博士号(文学、駒澤大学)取得。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。