庄司 光(しょうじ ひかる、1905年8月29日 - 199… 庄司 光(しょうじ ひかる、1905年8月29日 - 1994年11月23日)は、日本の環境衛生学者。専門は、環境衛生学・公衆衛生学。学位は、医学博士(京都帝国大学・1942年)。京都大学名誉教授。1975年勲三等旭日中綬章受章。京都府生まれ。 厚生省生活環境審議会委員、日本学術会議・公害問題特別委員会委員、日本学術会議・環境問題特別委員会委員、大阪府公害審査会委員、大阪府総合計画審議会委員、大阪府公害対策審議会委員、京都府公害対策審議会委員、京都市公害対策審議会会長、神戸市公害対策審議会委員、神戸市環境影響評価専門委員会会長、大阪市公害対策審議会委員などを歴任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
田鶴浜 弘(たづはま ひろし、1905年8月29日 - 19… 田鶴浜 弘(たづはま ひろし、1905年8月29日 - 1991年8月15日)は、日本のスポーツライター、プロレス評論家。 日本ボディビル協会の副会長も務めた。 早稲田大学卒業。報知新聞記者を皮切りにスポーツ記者として広く活躍し、とりわけプロレスでは「プロレス評論家の草分け的存在」と称される。日本初のプロレス専門誌『月刊プロレス』の創刊にも携わった。 1972年の全日本プロレス創立から1985年頃まで、日本テレビの『全日本プロレス中継』で解説者を務める。なおメインの解説者は田鶴浜より28歳若い山田隆で、田鶴浜は二番手のポジションだった。1975年に全日本で行われたオープン選手権では準備委員会の委員を務めた。
伊賀山 正光(いがやま まさみつ、1905年8月25日 - … 伊賀山 正光(いがやま まさみつ、1905年8月25日 - 2001年10月29日)は、日本の映画監督である。本名・旧名伊賀山 正徳(いがやま まさのり)。 1905年(明治38年)8月25日、秋田県秋田市保戸野表鉄砲町 (現在の同市保戸野鉄砲町)に生まれる。 旧制・秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)を卒業、東京に移り、明治大学に入学する。日本大学法文学部美学科(現在の日本大学藝術学部)に移籍し、在学中の1925年(大正14年)、国際活映巣鴨撮影所が製作した内田吐夢監督の『義血』で助監督を務めている。同作の撮影技師は円谷英二であり、同作は同年2月6日に公開されている。1927年(昭和2年)、同学の卒業と同時に、タカマツ・アズマプロダクション吾嬬撮影所に助監督として入社したが、同社は同年後半に活動を停止しており、翌1928年(昭和3年)には、京都の勝見庸太郎プロダクションに移籍した。
丸山 和歌子(まるやま わかこ、1905年〈明治38年〉8月… 丸山 和歌子(まるやま わかこ、1905年〈明治38年〉8月22日 - 1945年〈昭和20年〉)は、戦前に活動した日本の女性歌手。ステージからレコードで活動し、その分野では珍しく広い音域(特に高音のソプラノ)を持つ歌手だった。浅草オペラ館で活躍した。 東京・神田で篠原幼稚園を営む丸山和太郎の次女として生まれる。女子学院を経て、東洋音楽学校本科声楽部を卒業。永井郁子らに師事。 卒業後は、姉とともに実家の幼稚園経営を引き継いだ。1931年に浅草の金龍館で歌手デビューし、同年にはレコードもリリースされた。ステージに立つと「ワカちゃーん」というかけ声が上がったという。 1937年(昭和12年)にレコード歌手を引退した後はステージでの歌手活動を続け、戦争中は慰問活動で歌声を披露した。
大島 一衛(おおしま いちえ、1905年8月22日 - 19… 大島 一衛(おおしま いちえ、1905年8月22日 - 1961年9月23日)は、昭和時代前期に活動した日本の新聞編集者。 1905年(明治38年)、石川県で山中一兵の長男として出生。1928年(昭和3年)に京都帝国大学経済学部を卒業し、新愛知新聞社に入社する。入社後に新愛知の創業者・大島宇吉の次男で愛知県守山町の第6代町長を務めた大島藤次郎の婿養子となり、1935年(昭和10年)に新愛知傘下の国民新聞社へ営業局長として出向した。 翌1936年(昭和11年)、新愛知編集主幹兼国民新聞代表取締役の田中斉が読売新聞の正力松太郎から職業野球への参入を持ち掛けられたことを契機として「大日本野球連盟」と称する独自のリーグ設立構想を立て、新愛知傘下で名古屋軍(大日本野球連盟名古屋協会)、国民新聞傘下で大東京軍(大日本野球連盟東京協会)をそれぞれ発足させたが、この時は一衛が大東京軍の監査役と名古屋軍の取締役を兼ねていただけでなく田中が両球団の専務、義兄(妻の実兄)の大島一郎が名古屋軍副会長兼大東京軍取締役、新愛知の社外から名古屋軍会長に迎えられた弁護士の大野正直が大東京軍の取締役を兼ねる名実共に「兄弟球団」の体制であった。
友田 三八二(ともだ みやじ、1905年8月22日 - 20… 友田 三八二(ともだ みやじ、1905年8月22日 - 2002年2月9日)は、日本の経営者、工学博士。横河電機製作所(現在の横河電機)社長を務めた。広島県出身。 1927年に広島高等工業学校電気工学科を卒業し、同年に横河電機製作所(現在の横河電機)に入社。1940年7月に取締役に就任し、1949年12月に常務、1960年11月に副社長を経て、1966年11月に社長に就任し、1971年6月までに務めた。 1958年4月に紫綬褒章を受章し、1975年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年2月9日肺炎のために死去。96歳没。
今里 英三(いまざと えいぞう、1905年(明治38年)8月… 今里 英三(いまざと えいぞう、1905年(明治38年)8月21日 - 2007年(平成19年)8月20日 )は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長(大阪電気軌道創立から8代目)。奈良県奈良市八島町出身。 1930年(昭和5年)、慶應義塾大学経済学部卒業とともに当時の大阪電気軌道に入社。同社が合併を経て近畿日本鉄道となったのち、1958年(昭和33年)に取締役経理局長となる。以後、1960年(昭和35年)常務取締役、1965年(昭和40年)専務取締役を経て、1971年(昭和46年)に取締役副社長。1973年(昭和48年)5月、近鉄中興の祖といわれた佐伯勇の後任として社長に就任する。近鉄社長としては初の私大卒であり、退任後も現社長の小林哲也(早稲田大学卒)まで私大卒の社長はいなかった。
奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日… 奥田 東(おくだ あずま、1905年(明治38年)8月19日 - 1999年(平成11年)4月28日)は日本の農学者。京都大学総長、日本WHO協会理事長、ユネスコ国内委員などを務めた。位階は正三位。 1905年8月19日に奈良県畝傍で教師・奥田清の長男として生まれる。なお、戸籍は京都府熊野郡久美浜町(現:京丹後市)。父親の転勤に伴い広島県福山市に移り、福山南小学校に入学。その後さらに転勤のため京都市上京区の京極小学校に転校した。1918年に旧制京都府立京都第一中学校(現:洛北高校)に入学。同窓生には朝永振一郎、桑原武夫、湯川秀樹らがおり、全員が旧制高校と大学も一緒で、かつ後に京都大学の教授となっている。
小林 運美(こばやし かずみ、1905年(明治38年)8月1… 小林 運美(こばやし かずみ、1905年(明治38年)8月18日 - 1978年(昭和53年)10月2日)は、日本の実業家、政治家。男性。 長野県小県郡上田町(現上田市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、上田蚕糸専門学校製糸科卒業。山十製糸に入社し、中央蚕糸会、全国産業組合製糸組合連合会、全国共営蚕糸組合などの蚕糸団体の役職を歴任し、昭和4年(1929年)ニューヨークで開かれた第2回国際生糸技術会議に出席した。また日本紡毛会長、東邦製糸取締役、帝国製糸専務などを歴任した。 同22年(1947年)第23回衆議院議員総選挙に長野県第2区から出馬し、初当選した。改進党中央常任委員や、国会対策委員を務めた。
旭川 幸之焏(あさひかわ ゆきのじょう、1905年8月18日… 旭川 幸之焏(あさひかわ ゆきのじょう、1905年8月18日 - 1978年1月31日)は、北海道上川郡旭川町(現:北海道旭川市、出生地は富山県下新川郡(現:富山県魚津市))出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は宮坂 幸吉(みやさか こうきち)。最高位は西関脇。 1905年8月18日、富山県下新川郡(現:富山県魚津市)で生まれる。2歳の時に家族で北海道上川郡旭川町(現:北海道旭川市)へ移住し、1921年の夏に友綱の一行が巡業で北海道へ来る際に、先乗りとして一足先に北海道へやって来た同郷の立浪親方(元小結・緑嶋)に見い出され、立浪部屋へ入門した。1922年1月場所で初土俵を踏み、1927年5月場所で新十両昇進を果たすが、ここから幕下との往復が5年以上繰り返されることとなる。
今井 啓一(いまい けいいち、1905年8月17日-1975… 今井 啓一(いまい けいいち、1905年8月17日-1975年11月27日)は、日本の歴史学者。 京都府出身。神宮皇學館卒。大東文化学院高等科修了。1961年「帰化の研究」で國學院大學文学博士。立命館大学教授、近畿大学教授、大阪樟蔭女子大学学芸学部教授。
中山 定義(なかやま さだよし、1905年(明治38年)8月… 中山 定義(なかやま さだよし、1905年(明治38年)8月16日 - 1995年(平成7年)1月16日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵54期恩賜。第4代海上幕僚長。島根県出雲市出身。東京都目黒区在住であった。長男は第10代明治学院長の中山弘正。 旧制島根県立大社中学校より海軍兵学校第54期入校。席次は入校時は79名中4番、卒業時は68名中3番で恩賜の短剣を拝受。 海兵54期は、ワシントン軍縮会議の結果、艦船のみならず海軍士官も余剰と判断され、海軍兵学校生徒の採用数が通常年度の半分以下になった2期目のクラスである。 佐官になってからは、軍政部門での勤務が多かった。海軍大学校甲種第36期在校中に日中戦争が勃発、人手不足も手伝って、大学校在校者も駆り出され、中山は中国在勤を命ぜられる。
杉浦 健一(すぎうら けんいち、1905年(明治38年)8月… 杉浦 健一(すぎうら けんいち、1905年(明治38年)8月16日 - 1954年(昭和29年)1月15日)は、日本の文化人類学者である。 愛知県岡崎市の生まれ。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、同大学院に入学するが中退する。その後は日本国内の辺地民俗学の調査の参加や、1937年(昭和12年)に南洋庁に入庁した事により、人類の調査のため1941年(昭和16年)に退職するまで5度ミクロネシアやパラオ等当時日本の直轄下であった南洋諸島を訪問した。またこの頃に文部省(現在の文部科学省)に入省し、同省の民族研究所の研究員として活動する。 第二次世界大戦後はアメリカ国内における文化人類学の影響もあり、親族組織論等多彩な人類学の研究に携わる。
岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 - 1… 岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 - 1964年9月10日)は、日本の洋画家。「孤独と貧困の鬼才」などと呼ばれる。 1905年(明治38年)8月15日、埼玉県川越町(現川越市)に生まれた。本名は「かつへい」と読む。父は育太郎、母は育太郎の後妻の満つ。育太郎は川越商業会議所副会頭を勤めるなど川越の有力者で、勝平の叔父には福澤諭吉の娘婿で「日本の電力王」と呼ばれた実業家の福澤桃介、伯母には「激情の歌人」として知られる女流歌人の杉浦翠子がいる。翠子の夫は洋画家の杉浦非水。 川越中学校(現埼玉県立川越高等学校)在学時から絵画の世界に惹かれ杉浦非水の紹介で岡田三郎助の本郷洋画研究所へ通う。
杉田元宜(すぎた もとよし、1905年8月15日 - 199… 杉田元宜(すぎた もとよし、1905年8月15日 - 1990年1月14日)は、日本の物理学者、科学史家、一橋大学名誉教授。 熊本県八代町(現・八代市)生まれ。高知育ち、甲南高等学校卒、1929年東京帝国大学理学部物理学科卒、逓信省勤務、1934年海軍機関学校教官、1945年東京産業大学教授、1949年一橋大学法学社会学部教授、「過渡的現象の熱力学」で京都大学理学博士。1951年一橋大学社会学部教授。1969年一橋大定年退官、名誉教授、青山学院大学教授、1976年退職。妻は日系カナダ人。没後、正四位勲三等瑞宝章叙勲。墓所は多磨霊園(25-1-60) ゼミの指導学生に北畠能房(環境学者、京都大学名誉教授)、鶴野史朗(アイ・アール ジャパンホールディングス創業者)、有賀貞一(CSK副社長、ミスミグループ本社副社長、リアルワールド会長等を歴任)など。
田辺 弥八(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月1… 田辺 弥八(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月13日 - 1990年(平成2年)4月29日)は、日本の海軍軍人。海兵56期。ミッドウェー海戦において、伊号第百六十八潜水艦長として米空母ヨークタウンを撃沈した武功で知られる。最終階級は海軍中佐。 香川県出身。旧制香川県立三豊中学校(第21回)を経て海軍兵学校(56期)を卒業。海兵56期の同期生に高橋赫一、大谷藤之助、三上作夫らがいる。 田辺は通信学校甲種を修了していわゆる「通信屋」となったが、次いで潜水艦水雷長養成過程である潜水学校乙種を修了し、潜水艦乗りとなる。海軍大尉時代は「伊八潜」通信長を5ヶ月、第二潜水戦隊参謀を1年8ヶ月務め、1940年(昭和15年)11月海軍少佐へ進級。
葛西 康(かさい やすし、1905年〈明治38年〉8月13日… 葛西 康(かさい やすし、1905年〈明治38年〉8月13日 - 1990年〈平成2年〉3月26日)は、日本の洋画家。青森県出身。秋田大学教授、一陽会会員、菁々会会員。 1905年(明治38年)に青森県弘前市で生まれる。1925年(大正14年)に青森師範学校(現・弘前大学)を卒業。1930年(昭和5年)に青森師範学校(現・弘前大学)専攻科を卒業。 1933年(昭和8年)に上京し、板橋区江古田町1856番地に落ち着き、東京・滝野川小学校に訓導として勤める。その後、東京・四谷第一小学校に移り同校訓導として勤める。鈴木信太郎に師事する。1941年(昭和16年)に菁々会の会員に推挙され、同年12月9日から銀座・菊屋画廊で開催された第3回菁々会展に『海』・『山』・『川』・『風景』の4点を出品。
黒田 嘉一郎(くろだ かいちろう、1905年(明治38年)8… 黒田 嘉一郎(くろだ かいちろう、1905年(明治38年)8月13日 - 1988年(昭和63年)5月13日)は、日本の医学者。息子は徳島大学医学部教授の黒田泰弘。 京城帝国大学を卒業。京城帝国大学助教授、三井産業医学研究所医化学部長を務めた後、1950年に徳島医科大学(現徳島大学)教授、1959年医学部長、1971年徳島文理大学学長を歴任。 1975年に坂口あさと共に第1回徳島県文化賞を受賞。1976年勲三等旭日中綬章受章。徳島ペンクラブや四国文芸協議会では理事や会長を務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
小泉 清三郎(明治38年(1905年)8月11日 - 没年不… 小泉 清三郎(明治38年(1905年)8月11日 - 没年不明)は、日本の実業家。小泉商店代表社員。 大正12年(1923年)島根県立商業学校卒。鳥取県履物統制組合理事長、同履物工業統制組合理事、同屑ゴム利用製品統制組合理事長、米子商工会議所議員、米子市万能町町内会長等を歴任。万能神社総代、瑞仙寺檀徒総代を兼任す。 趣味は読書。宗教は禅宗。住所は米子市万能町。 昭和9年(1934年)3月1日、万能町・小泉清三郎方より出火損害五千圓。 大正11年(1922年10月)『西伯之資力』によると、地価二百円以上納入者として、小泉清三郎(履物製造、九百九十六円八十八銭)、河原仁十(魚類問屋業、四百七十八円五十四銭)の二人がみえ、所得税納入者は十七人、国税営業税納入者として次の十七人の名が記されている
森田 忠勇(もりた ちゅうゆう、1905年8月10日 - 1… 森田 忠勇(もりた ちゅうゆう、1905年8月10日 - 1975年12月2日)は、兵庫県出身の野球選手・監督・公式記録員。
山崎 栄治(やまざき えいじ、1905年8月9日 - 199… 山崎 栄治(やまざき えいじ、1905年8月9日 - 1991年8月27日)は、日本の詩人、フランス文学者。 1905年に佐賀県西松浦郡伊万里町で生まれる。幼少期に中国に移住して幼稚園時代を奉天市で過ごし、小学校の途中で大連市から東京市の青山に移っている。大倉商業学校に進み、教科書に載っていたロングフェローの詩やウォルト・ホイットマンの『草の葉』を英語で読んだ他、15歳の頃にジャン=ジャック・ルソーの『懺悔録』、16歳の頃に野口米次郎の詩、そして17歳頃に萩原朔太郎の詩をそれぞれ読み、詩作への影響を受けた。東京美術学校の受験に失敗して東京外国語学校に進み、1925年には『日本詩人』に投稿した詩が四等に入選している。
池田 不二男(いけだ ふじお、1905年(明治38年)8月8… 池田 不二男(いけだ ふじお、1905年(明治38年)8月8日-1943年(昭和18年)11月27日)は昭和初期の音楽ディレクター、作曲家。38歳で亡くなるまでの僅かな期間であったが、戦前の日本歌謡史に残る抒情的な佳曲を多数残した。その作風はクラシックや海外の音楽を積極的に取り入れたものであり、ワルツやタンゴを好み、編曲も自らによるものが多い。ペンネームは原野為二、金子史郎、池上敏夫などがある。 1905年(明治38年)8月8日、佐賀県に生まれる。祖父は佐賀(鍋島)藩医の池田陽雲、父は蘭学者・医者・技術者の池田陽一。 佐賀県立佐賀中学校(現:佐賀西高等学校)を卒業し上京、東京高等音楽学院(現:国立音楽大学)にて矢田部勁吉、片山禎太郎に師事し、声楽を専攻。
森 蘊(もり おさむ、1905年8月8日 - 1988年12… 森 蘊(もり おさむ、1905年8月8日 - 1988年12月14日)は、日本庭園の研究者、作庭家。庭園研究家。『作庭記』など古文献の研究と、桂離宮や修学院離宮など多くの日本庭園における実地測量や発掘調査を組み合わせて、研究や庭園の復元整備に取り組んだ。旧大乗院庭園にかかる朱塗りの反橋、日本最古の人工滝である法金剛院の青女瀧などは、森が時代考証や現地調査を経て復元した。法華寺「仔犬の庭」や慈光院の新書院庭園など、古風な作庭も自ら手掛けた。 東京府北多摩郡立川村(現・東京都立川市)生まれ。1932年に東京帝国大学農学部農学科を卒業。在学中は、田村剛の造園学の講義を聴き造園研究の道に進むことを決める。
小川 信雄(おがわ のぶお、1905年(明治38年)8月7日… 小川 信雄(おがわ のぶお、1905年(明治38年)8月7日 - 1993年(平成5年)11月19日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。山口県出身。 1929年(昭和4年)に東京帝国大学法学部を卒業。北海道電燈の旭川支社に入社したが、3ヶ月で退社。「文化が進むにつれて専門技術を身につけるのが大切」と考え、1932年(昭和7年)に弁護士登録をした。 企業の法律相談を手がけ、二十数社の顧問弁護士をした。刑事事件については鮎川金次郎派の選挙違反事件を扱った。 1946年(昭和21年)に村上義一運輸大臣の秘書官をしたことがある。 1970年(昭和45年)12月22日に最高裁判所判事に就任。就任時に「最高裁長官の意見に対しても、他の判事からどしどし意見が出され、実にいいと思った。
和島 岩吉(わじま いわきち、1905年〈明治38年〉8月5… 和島 岩吉(わじま いわきち、1905年〈明治38年〉8月5日 - 1990年〈平成2年〉5月13日)は、日本の弁護士、大阪府羽曳野市名誉市民。和島法律事務所所長。大阪弁護士会会長、日本弁護士連合会人権擁護委員長、日本弁護士連合会会長を歴任。和島陶牛名義による句集もある。 大阪府南河内郡埴生村(現・羽曳野市向野)で馬肉卸商の家庭の三男として生まれる。 苦学して専検に合格。1928年、松江高等学校文科乙類卒業。1931年に京都帝国大学法学部を卒業。同年、弁護士を開業。加藤老事件、徳島ラジオ商殺し事件、狭山事件、甲山事件などで弁護活動を行う。 1946年、部落解放大阪青年同盟委員長。1953年、大阪府同和事業促進協議会会長。
海老原 一郎(えびはら いちろう、1905年8月4日 - 1… 海老原 一郎(えびはら いちろう、1905年8月4日 - 1990年5月7日)は日本の建築家、日本芸術院会員。 東京府生まれ。本所区の府立第三中学校卒業。1924年、東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)建築科に入学。 在学中に山口文象と知り合い、近代建築運動団体・創宇社建築会(1923年結成)に参加。1929年の創宇社第6回展・第7回展、1930年の第8回展に、労働診療所、労働者アパートメント、消費組合食堂などの作品を出品した。 1930年3月に東京美術学校を卒業後、石本建築事務所に勤める。1938年に独立し、海老原建築事務所を設立する。 1950年代に尾崎記念館(現在の憲政記念館)、1960年代に日本最初の超高層ビル「ディックビル」(18階建)を設計。
小川 徳治(おがわ とくじ、1905年8月2日 - 2001… 小川 徳治(おがわ とくじ、1905年8月2日 - 2001年1月5日)は、日本の経済学者。立教大学経済学部元教授。専門は貿易商務。恩師のポール・ラッシュとともに立教大学にアメリカンフットボール部を創設して部長を務め、明治大学のアメリカンフットボール部の創設も支援した。日本アメリカンフットボール協会理事長も務め、フットボールの発展に携わった。日本アメリカンフットボール殿堂顕彰者。立教大学学生部長、就職部長、総務部長など大学運営の要職も務めたほか、立教大学の硬式野球部や空手部、スキー部の各部長も歴任し、アメリカンフットボールのみならず学生スポーツの振興に大きく貢献した。 東京市小石川区原町に小川延秋の二男として生まれる。
新村 猛(しんむら たけし、1905年(明治38年)8月2日… 新村 猛(しんむら たけし、1905年(明治38年)8月2日 - 1992年(平成4年)10月31日)は、日本のフランス文学者・言語学者・国語辞書編纂者。名古屋大学名誉教授。元橘女子大学学長。 新村出の次男。息子新村徹は中国文学者(妻は中井正一の三女)。他に学術編集者の新村恭がいる。 東京府で生まれた。京都第一中学校、第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に入学。すぐに仏文科へ転攻し卒業する。 1935年2月、中井正一や真下信一や武谷三男たちと共に同人誌『世界文化』を創刊、また週刊紙『土曜日』の常連執筆者として反ファシズム運動に関わった。このため、同志社大学予科教授であった1937年11月に真下信一らとともに治安維持法違反で逮捕され、2年間の獄中生活を送る。
高村 象平(たかむら しょうへい、1905年(明治38年)8… 高村 象平(たかむら しょうへい、1905年(明治38年)8月2日 - 1989年(平成元年)5月11日)は、第11代慶應義塾塾長、経済人類学研究者、ハンザ史研究者。中央教育審議会会長、日本学士院会員等を歴任。従三位勲一等瑞宝章。専攻はドイツ中世都市の研究、とくにドイツ・ハンザの研究。
伊藤 武雄(いとう たけお、1905年(明治38年)8月2日… 伊藤 武雄(いとう たけお、1905年(明治38年)8月2日 - 1987年(昭和62年)12月2日)は、日本の声楽家(バリトン)、教育者。広島県広島市出身。 1930年東京音楽学校(東京芸術大学)卒業。研究科に残りヘルマン・ヴーハーペニッヒ、ネトケ=レーヴェに師事。1935年デビューリサイタル。戦前から歌曲とオペラに活躍。1937年日中戦争に召集され従軍、上海の戦闘で右手を失うが、帰国後は母校の助教授として後進の育成に尽力した。またコロムビア・レコード専属となり、ドイツ歌曲の吹き込みを行う。1940年山田耕筰に請われオペラ『夜明け』で初舞台。しかし助教授がオペラに出るのは学校も文部省も当時許さず、学校は退職した。
本坊 豊吉(ほんぼう とよきち、1905年8月1日 - 19… 本坊 豊吉(ほんぼう とよきち、1905年8月1日 - 1992年1月6日)は、日本の経営者。鹿児島県加世田市出身。 1932年に慶應義塾大学法学部を卒業。長崎自動車、上海食品工業各社長を経て、1961年に薩摩酒造、本坊酒造各社長に就任し、鹿児島放送の設立にも携わり、社長と会長を務め、九州コカ・コーラボトリング社長も務めた。1974年5月に会長を経て、1978年6月から相談役を務めた。「さつま白波」ブランドを育て、焼酎ブームの立役者となった 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1976年4月に勲四等瑞宝章を受章した。 1992年1月6日心不全のために死去。86歳没。
岡本 成蹊(おかもと せいけい、明治38年(1905年)7月… 岡本 成蹊(おかもと せいけい、明治38年(1905年)7月31日 - 1988年4月28日)は、日本のイギリス文学者、法政大学名誉教授。 鳥取県米子市東町出身。父は薬剤師の岡本正。 良善幼稚園、啓成尋常小学校、米子中学校(現米子東高校)を経て昭和5年(1930年)法政大学文学部英文科卒業。34年法政大講師、日本出版文化協会勤務ののち、46年法政大教授。60年「イギリスに於ける近代小説の形式 その系譜と要因」で法政大文学博士。文学部長をへて76年定年退職、名誉教授。埼玉医科大学の創立にかかわり教養部教授。 宗教は曹洞宗。趣味は野球、その他のスポーツ。 実業家の坂口平兵衛 (2代)とは幼稚園、小学校、中学校と同期であり、親しい関係にあった[要出典]。
井上 清一(いのうえ せいいち、1905年〈明治38年〉7月… 井上 清一(いのうえ せいいち、1905年〈明治38年〉7月31日 - 1967年〈昭和42年〉1月8日)は、日本の内務官僚、政治家。参議院議員(2期)、京都市長。 1905年に富山県婦負郡速星村の多額納税者井上清孝の長男として生まれる。第四高等学校から東京帝国大学法学部政治学科に進学し、在学中の1929年(昭和4年)10月に高等試験行政科試験合格。翌1930年帝大卒業とともに内務省へ入省し、四国地方行政事務局次長、同物価事務局長、京都府警察部長を歴任。 京都府知事木村惇の下で副知事を務めるが、1950年(昭和25年)4月に木村が公職選挙法違反で辞任したことで保守系の推薦で京都府知事選挙に立候補するも蜷川虎三に敗れる。
木村 公平(きむら こうへい、1905年(明治38年)7月3… 木村 公平(きむら こうへい、1905年(明治38年)7月31日 - 1976年(昭和51年)9月27日)は、日本の政治家。 岐阜県、現在の大垣市出身。1929年(昭和4年)に明治大学卒業。1937年(昭和12年)に大垣市会議員に当選して政界入り。同市会副議長を経て、岐阜県会議員選挙に立候補して同県会議員。1946年(昭和21年)衆議院議員当選。以降5選。衆院内閣委員長、第4次吉田内閣の運輸政務次官、内閣総理大臣秘書官を歴任。党務では、日本自由党幹事、民主自由党総務、副幹事長などを務めた。1948年(昭和23年)に政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。実業に於いては、岐阜県西部紙工、山陽織物の社長などを務めた。
岡垣 久晃(おかがき ひさあき、1905年(明治38年)7月… 岡垣 久晃(おかがき ひさあき、1905年(明治38年)7月30日-1992年(平成4年)11月30日)は日本の法律家。弁護士、元大阪高等裁判所判事。 1905年(明治38年)7月30日に京都府で生まれる。1928年(昭和3年)に法政大学法学部を卒業し、同年高等文官試験司法科に合格する。 京都地方裁判所判事などを経て、1967年(昭和42年)に和歌山地方裁判所長に就任し、1969年(昭和44年)に大阪高裁判事に就任する。 1975年(昭和50年)に勲二等瑞宝章を受章する。 1992年(平成4年)11月30日に死去、87歳。
妹尾 幹(せのお かん、1905年(明治38年)7月29日 … 妹尾 幹(せのお かん、1905年(明治38年)7月29日 - 1969年(昭和44年)8月13日)は、日本の教育者。東京音楽学校教授(現:東京藝術大学・音楽学部)を務めた後、旧制山口高等学校(山口大学経済学部の前身)・島根大学教授、岡山大学助教授、北海道大学、神奈川大学教授となる。岡山県高梁市出身。 1905年(明治38年)、岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の妹尾善平の子として生まれる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1923年(大正12年)旧旧制松江高等学校文科乙類に進学、1926年(大正15年)、同校を卒業し、東京帝国大学文学部独文学科へ進学した。1930年(昭和4年)3月に同大学を卒業した。
牛久保 海平(うしくぼ かいへい、1905年〈明治38年〉7… 牛久保 海平(うしくぼ かいへい、1905年〈明治38年〉7月26日 - 1999年〈平成11年〉11月20日)は、日本の実業家。サンデン創業者。群馬県出身。伊勢崎市議会議員(1期)。群馬県名誉県民。位階は正五位。 1905年(明治38年)7月26日、群馬県佐波郡豊受村長沼(現・伊勢崎市長沼町)に、父・鋭、母・つねの次男として生まれる。1922年(大正11年)に高崎商業学校を卒業後、1年間伊勢崎工業学校に学ぶ。 家業の染色業を継いだが、太平洋戦争下の1943年(昭和18年)に機械の供出により廃業、同年三共電器株式会社を設立し社長となった。 戦時中はコンデンサーの製造などを行っていたが、1948年(昭和23年)に自転車用発電ランプの製造販売を開始し、「ふくろうマーク」で広く知られるようになった。
野中 正造(のなか まさぞう、1905年〈明治38年〉7月2… 野中 正造(のなか まさぞう、1905年〈明治38年〉7月25日 - 2019年〈平成31年〉1月20日)は、日本のスーパーセンテナリアン。北海道足寄町在住であった長寿の男性。2016年10月以降より存命する日本最高齢男性、2018年1月29日以降より存命する世界最高齢男性となっていた。 1905年、足寄町上利別にて野中温泉の創業者である父・益次郎(現在の富山県中新川郡立山町から北海道に入植)と母・キヨの間に生まれる。畑作との兼業で温泉を運営し、111歳の時点でなお温泉にて家族と暮らしており、1日3回の食事をとるほか、新聞も毎日読んでいた。長寿の秘訣について、野中は新聞社の取材に「温泉のおかげ」と語っている。
伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年〈明治38年〉7月2… 伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年〈明治38年〉7月21日 - 1929年〈昭和4年〉9月24日)は、昭和初期の運動家。 長野県諏訪郡湖南村南真志野(現・諏訪市)の農家に生まれる。2歳で母と死別、9歳で亡母の実家・岩波家に移り養育される。諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)に進学、同校教諭(のち校長)で歌人の土屋文明から英語・国語・修身の授業を受ける。同校卒業後は諏訪郡の高島尋常高等小学校の代用教員となるが、1924年(大正13年)私立尚絅女学校(宮城県仙台市、現・尚絅学院中学校・高等学校)高等科英文予科を経て、翌年には東京女子大学英語専攻部2年に編入。同大学社会科学研究会で活躍。
彦坂 竹男(ひこさか たけお、1905年(明治38年)7月2… 彦坂 竹男(ひこさか たけお、1905年(明治38年)7月21日 - 1985年(昭和60年)4月7日)は、日本の昭和の出版人。判例時報社、一粒社を創設した。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校を経て、1929年(昭和4年)、東京帝国大学法学部卒業。1941年秋、開戦直前に日本評論社から同盟通信社に移籍。1944年11月27日、検挙される(横浜事件)。時事通信社を経て、1951年(昭和26年)、法律関係の専門出版社一粒社を、1953年(昭和28年)、判例速報誌判例時報社を創設した。 この項目は、出版に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ出版)。 項目が文学作品の場合には{{Lit-stub}}を、文学作品以外の書籍・雑誌の場合には{{Book-stub}}を、漫画の場合には{{Manga-stub}}を貼り付けてください。
猪野 省三(いの しょうぞう、1905年7月20日 - 19… 猪野 省三(いの しょうぞう、1905年7月20日 - 1985年1月8日)は、日本の児童文学作家。プロレタリア児童文学の活動などに参加した。 栃木県上都賀郡鹿沼町(現:鹿沼市)で生まれた。父・春吉は一時鹿沼町の町長も務めていた。1923年に、宇都宮中学校を卒業。卒業後は小学校の代用教員として勤務した。 1926年に教職を辞めて上京し、画家を志して太平洋画研究所に入所。江馬修らと知り合い、翌年江馬の紹介で日本プロレタリア芸術連盟に加入。はじめは画家として参加していたが、次第に文学に関心を持ち、1928年に初の童話「ドンドンやき」を『プロレタリア芸術』に発表。その後も相次いで童話を発表し、プロレタリア児童文学者として認知されるようになった。
上條 勉(かみじょう つとむ、1905年7月20日 - 19… 上條 勉(かみじょう つとむ、1905年7月20日 - 1983年5月7日)は、日本の航空機技術者。三菱重工業名古屋航空機製作所(現・三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所)機体部設計課技師、技術部設計課技師を経て、新三菱重工業名古屋航空機製作所小牧工場初代工場長、同名古屋航空機製作所副所長を歴任。クリスチャン。 日露戦争終結間近の、1905年(明治38年)7月20日、長野県松本市北深志東ノ丁に警察署勤務の上條亀十郎の三男として誕生した。2年前にライト兄弟が動力飛行に成功している。1906年(明治39年)から、父亀十郎は浅野総一郎が経営していた茨城県真壁町の浅野石材部(浅野石材工業株式会社)勤務になった。
堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 199… 堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 1996年12月21日)は、日本の化学者、京都大学名誉教授。専門は高分子化学。工学博士(1934年)。大阪府生まれ。
松田 解子(まつだ ときこ、本名:大沼 ハナ、1905年〈明… 松田 解子(まつだ ときこ、本名:大沼 ハナ、1905年〈明治38年〉7月18日 - 2004年〈平成16年〉12月26日)は、日本の小説家。秋田県仙北郡荒川村出身。長男に記録映画作家の大沼鉄郎がいる。 三菱鉱山経営の荒川鉱山に育った松田は、大盛小学校を卒業すると鉱山の事務所でタイピストなどをしながら文学に触れていた。1923年に秋田女子師範(本科第二部、一年制)に入学、卒業後母校の大盛小学校に赴任する。1926年に職を辞して上京した。上京後、労働運動に参加し、その中で大沼渉と結婚する。結婚、子育てのなかの体験が初期の作品のなかに生かされている。1928年、読売新聞の女流新人短編募集に応じた「産む」が入選し、1929年には『女人芸術』に「乳を売る」が掲載された。
須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 -… 須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 - 1975年4月17日)は、漫画家、洋画家、美術評論家、漫画評論家、社会運動家。昭和初期のプロレタリア美術運動に参加。生前、日本における漫画評論の第一人者として知られた。生前は一水会、草炎会および日本美術会会員。別名義は宇野圭。 明治38年(1905年)、長野県下伊那郡鼎村(鼎町を経て、現・飯田市)に生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、昭和5年(1930年)、東京美術学校西洋画科卒業。『文章倶楽部』(新潮社)、『戦旗』(戦旗社)などに漫画を執筆。『無産者新聞』に漫画「アジ太プロ吉」を連載。 昭和6年、日本プロレタリア美術家同盟の中央委員および書記長に就任。
田中重久(たなか しげひさ、1905年7月17日 - 197… 田中重久(たなか しげひさ、1905年7月17日 - 1979年5月24日)は、日本の美術史家である。特に仏教美術に関して、多くの著作をのこしている。別名義としてたなか しげひさがある。 1905年(明治38年)7月17日、滋賀県甲賀郡水口町葛籠町に、父・豊吉郎、母・ゆりの五男として生まれる。豊吉郎は「小さい地方銀行家」であり、1928年(昭和3年)より栗太銀行の取締役をつとめた。京都市立中立小学校を経て滋賀県立膳所中学校に入学する。同校で日本史の教鞭をとっていた佐々木恒清に薫陶を受けるかたちで、14歳にして仏教美術を志すようになる。 大村西崖の東洋史の講義を受けるべく、1925年(大正14年)に東京美術学校に進学するも、彼の易簀を受けて翌年3月に中退、早稲田大学に転学する。
藤原 定(ふじわら さだむ、1905年7月17日 - 199… 藤原 定(ふじわら さだむ、1905年7月17日 - 1990年9月17日)は、日本の詩人、評論家、翻訳家。 福井県敦賀市に生まれる。法政大学文学部哲学科で三木清・谷川徹三に師事する。大学時代から「生活者」に小説・詩を投稿し、1936年(昭和11年)に草野心平に誘われ『歴程』の同人となる。その後、南満州鉄道調査部に勤務し、評論を上梓する。 1944年に第一詩集『天地の間』を刊行、戦後は法政大教授となる。1957年(昭和32年)に山室静らと詩雑誌『花粉』を発行する。1964年(昭和39年)には山梨県北巨摩郡大泉村西井出(現・北杜市大泉町西井出)に山荘を所有し、夏季の間は同地で詩作を行う。1979年(昭和54年)には第五詩集『環』を刊行し、『環』には「甲斐駒のうしろから」などの八ヶ岳山麓を題材とした詩も含まれている。
平井 太郎(ひらい たろう、1905年〈明治38年〉7月17… 平井 太郎(ひらい たろう、1905年〈明治38年〉7月17日 - 1973年〈昭和48年〉12月4日)は、日本の政治家、実業家。四国新聞社、西日本放送社長、参議院議員(4期連続当選)を務めた。 玉藻座社長を務めた平井実の長男として、香川県木田郡田中村(現・三木町)に生まれる。 1928年(昭和3年)明治大学専門部商科卒業後、高松市会議員に当選し玉藻組(のちの玉藻建設)の社長となる。 1937年(昭和12年)8月から約1年間、陸軍主計少尉として応召、除隊後、玉藻組など実業界で活躍しているうち、終戦を迎える。 1946年(昭和21年)高松商工会議所会頭、1948年香川県経営者協議会会長、1950年香川県商工会議所連合会会長、1951年四国電力監査役に選ばれる。
河津 勝(かわづ まさる、1905年〈明治38年〉7月17日… 河津 勝(かわづ まさる、1905年〈明治38年〉7月17日 - 1985年〈昭和60年〉1月23日)は、昭和時代の政治家。相模原市長。位階は従五位。 河津養積、計以の二男として、神奈川県高座郡相原村(現相模原市)に生まれる。1920年(大正9年)相原村役場に奉職し、戦後、1946年(昭和21年)相模原町相原出張所長、1951年(昭和26年)総務課長兼財政課長、市制施行以降、建設部長、総務部長などを歴任した。 1957年(昭和32年)から8年間に渡り相模原市の助役を務め、1965年(昭和40年)その実績から市長選に立候補し、第5代市長に当選した。 市長在任中は、当時全国屈指の人口急増都市であった同市の都市機能の整備に力点を置き、1968年(昭和43年)相模原市総合計画を策定したほか、米軍基地返還問題について中央官庁との折衝に動いた。
可愛嶽 実男(えのだけ さねお、1905年7月17日 - 没… 可愛嶽 実男(えのだけ さねお、1905年7月17日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は森 実雄。最高位は十両4枚目。 宮崎県延岡市出身。出羽海部屋に入門し、1926年1月「嶋和泉」の四股名で序ノ口に就く。番付を上げ、1932年1月には幕下上位だったが、春秋園事件による大量の脱退者が出たため、その穴埋めのため十両に昇進した。2場所続けて勝ち越すことなく同年5月に幕下に落ちた。この場所から「可愛嶽」と改名した。1933年1月再び十両に上がったが、2場所続けて負け越して幕下に落ち、1934年1月に廃業した。