今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年… 今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年)9月16日 - 1988年(昭和63年)4月11日)は、日本の教育者、宗教家、翻訳家。正則学院名誉理事、日本自由宗教連盟、東京帰一教会各会長、神学博士。 その他、兵庫基督教会牧師・日本大学講師・新目黒計器会長などを歴任した。
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今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年… 今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年)9月16日 - 1988年(昭和63年)4月11日)は、日本の教育者、宗教家、翻訳家。正則学院名誉理事、日本自由宗教連盟、東京帰一教会各会長、神学博士。 その他、兵庫基督教会牧師・日本大学講師・新目黒計器会長などを歴任した。
米窪 満亮(よねくぼ みつすけ、1881年(明治14年)9月… 米窪 満亮(よねくぼ みつすけ、1881年(明治14年)9月16日 - 1951年(昭和26年)1月16日)は、日本の労働運動家、小説家、政治家。日本海員組合副会長を経て、戦後、日本社会党に所属し、片山内閣の国務大臣、初代労働大臣を歴任した。小説家としての筆名は「米窪太刀雄」がある。
田村 源太郎(たむら げんたろう、前名・治郎吉、1881年〈… 田村 源太郎(たむら げんたろう、前名・治郎吉、1881年〈明治14年〉9月15日 - 没年不明)は、日本の商人(肥料商)、醸造家、実業家、地主、鳥取県多額納税者。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)出身。田村源太郎の長男。家業は肥料及び酒類醸造業を営む。1926年、家督を相続し、前名・治郎吉を改める。中国貯蓄銀行、中国興業銀行、米子共立検番各取締役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は米子市糀町2丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
角田 順(かくた じゅん、1881年9月14日 - 1915… 角田 順(かくた じゅん、1881年9月14日 - 1915年3月1日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。1915年3月1日極秘任務遂行中に千葉県沖で汽艇の沈没事故により死亡。 石川県出身。1881年9月金沢市 金石味噌屋町の医師角田元伯の長男として生まれる。石川県尋常中学校(現在の石川県立金沢泉丘高等学校)を経て、1903年12月、海軍兵学校(31期)を188人中13番の成績で卒業。翌年9月、海軍少尉任官を待って金田ケン子と結婚。妻は(一般女性を対象とした日本初のミス・コンテストと言われる)時事新報社の令嬢美人コンクールで全国2位の経歴を持つ。 日露戦争では軍艦「鎮遠」乗組み殊勲を挙げ、1905年には中尉となる。
斎藤 巳之吉(さいとう みのきち、1881年(明治14年)9… 斎藤 巳之吉(さいとう みのきち、1881年(明治14年)9月14日 - 1965年(昭和40年)2月17日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家。山形県酒田市長。 斎藤茂助の四男として、山形県飽海郡大町村(西平田村を経て現酒田市地内)に生まれ、社会事業家・斎藤千里の婿養子となる。専修大学を卒業し、新潟県官房主事、北魚沼郡長、佐渡支庁長、赤十字新潟支部病院事務長などを歴任した。ほか、郷里出身の高級官僚・太田政弘の知遇を受け、台湾、朝鮮などに赴任した。 1933年(昭和8年)初代酒田市長の中里重吉に招かれ同市助役に就任。1937年(昭和12年)10月、中里の引退した後を受けて酒田市長に就任した。戦時下の市政に手腕を発揮し、酒田港築港整備、軍需産業の誘致、学童疎開、建物疎開による空襲対策などに尽力した。
岡村 柿紅(おかむら しこう、1881年(明治14年)9月1… 岡村 柿紅(おかむら しこう、1881年(明治14年)9月14日 - 1925年(大正14年)5月6日)は日本の劇作家・劇評家。狂言をもとにした歌舞伎舞踊の作品「身替座禅」「棒しばり」等は今日でもよく上演される。1915年以降、市村座の運営に関わった。 本名久寿治。高知市北奉公人町に生まれ、5歳のとき、両親と叔母に従い東京へ移った。叔母『加藤はま』は、初代竹本綾之助らと女義太夫を盛んにした『竹本東玉』である。 中学卒業後独逸学協会に在籍したものの、叔母の感化で芸能界に親しみ、1901年から1909年まで中央新聞に勤め、次に二六新報に転じて劇評を書いた。1908年の有楽座開場時には、顧問を引き受けた。
籾山 重幸(もみやま しげゆき、1881年9月11日 - 1… 籾山 重幸(もみやま しげゆき、1881年9月11日 - 1957年11月26日)は、日本海軍の軍人。 最終階級は海軍大佐。
井戸 泰(いど ゆたか、1881年(明治14年)9月8日 -… 井戸 泰(いど ゆたか、1881年(明治14年)9月8日 - 1919年(大正8年)5月4日)は、日本の大正時代の医学者。医学博士。東京帝国大学助教授を経て、九州帝国大学教授。 大正4年(1915年)、恩師でもある九州帝国大学第一内科稲田龍吉教授と共に、ワイル病(黄疸出血性スピロヘータ病)の病原体を発見する。第6回帝国学士院恩賜賞を受け、ノーベル医学賞の候補にも推薦されるなど、当時の日本を代表する医学者として将来を嘱望されながらも、大正8年(1919年)5月8日死去、37歳。 岡山県勝田郡北吉野村荒内西(現:奈義町荒内西)で酒造業を営む家(井戸酒店)に長男として生まれる。父・恒四郎、母・たけよ。
山本 芳治(やまもと よしじ、1881年(明治14年)9月8… 山本 芳治(やまもと よしじ、1881年(明治14年)9月8日 – 1950年(昭和25年)12月28日)は、衆議院議員(革新倶楽部→立憲政友会)。厚生参与官。弁護士。 兵庫県加古郡八幡村(現在の加古川市)出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。司法官試補となるが辞して、大阪市に弁護士事務所を開業し、後に大阪地方裁判所所属弁護士会副会長に選ばれた。 大阪市会議員、市参事会員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。当選回数は合計で5回を数え、その間に第1次近衛内閣で厚生参与官を務めた。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では大政翼賛会の推薦を受けて当選した。
後藤 七郎(ごとう しちろう、1881年(明治14年)9月7… 後藤 七郎(ごとう しちろう、1881年(明治14年)9月7日 - 1962年(昭和37年)12月7日)は、大正から昭和時代の日本の外科学者、大日本帝国陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医少将。位階勲等は正三位勲一等。胃・十二指腸潰瘍の権威で、日本初の輸血を行った人物として知られる。 後藤貞治の三男として福岡県山門郡柳河村(現柳川市)にて生まれる。1907年(明治40年)12月、京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)卒業。翌年6月、陸軍二等軍医・歩兵第1連隊附となる。1909年(明治42年)京都帝国大学福岡医科大学大学院、1911年(明治44年)九州帝国大学医科大学大学院を経て、同年、同大講師となる。
正岡 芸陽(まさおか げいよう、1881年(明治14年)9月… 正岡 芸陽(まさおか げいよう、1881年(明治14年)9月5日 - 1920年(大正9年)3月24日)は、日本の評論家、ジャーナリストである。芸陽は筆名で、本名は猶一。 広島県に生まれる。10歳で父を失い、翌日に母を失った。12歳で広島監獄の給仕となる。その傍ら、濱名眞金(はまなまがね)に漢学を学び、同時に三浦某に英語を学ぶ。13歳(明治27年)キリスト教を受洗し布教に従事していたが、14歳で東京に出て苦学し、15歳から16歳にわたって伊豆湯河原温泉近在、泉村の小学校で教鞭を執った。同校を辞して再び東京に出て青山学院大学に学ぶものの幾ばくもせずに退学し、17歳の時に北海道の新聞社に記者として赴き、半年間在職後に帰京しやまと新聞社に入社。
横田 誠一郎(よこた せいいちろう、1881年(明治14年)… 横田 誠一郎(よこた せいいちろう、1881年(明治14年)9月 - 1920年(大正9年)4月3日)は、日本の外務官僚。岡山県新見市出身。 1881年(明治14年)岡山県哲多郡矢神村(現:新見市)に生まれる。地元に近い旧制・高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1901年(明治34年)第六高等学校に進学、その後、1904年(明治37年)7月に同校卒業、同年に東京帝国大学法科大学政治学科へ進学した。1908年(明治41年)7月、26歳で同大学を卒業した。 大学を卒業した翌年の1909年(明治42年)文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)に合格した。外務省の同期には、徳川宗家17代当主の徳川家正、後に文部大臣になる岡部長景がいた。
瀬尾 栄太郎(せのお えいたろう、1881年(明治14年)9… 瀬尾 栄太郎(せのお えいたろう、1881年(明治14年)9月 - 没年不詳)は、ロシアで活動した日本人実業家である。 徳島県阿波郡柿原村(柿島村、板野郡吉野町を経て現阿波市吉野町柿原)出身。日露戦争に従軍した。奉天の会社「松茂洋行」の支配人となり、ロシア内の鉄道線路南方[どこ?]で鉱物の試掘許可を受けて、試掘して成功し、本採掘を出願しているが、ロシア革命が起きると白軍であるグリゴリー・セミョーノフ軍の顧問となった[要検証 – ノート]。1926年、国際探訪通信社を立ち上げ、日本の機密費を受けて中国・ロシアの一般情報収集を行う。1932年には、国体擁護連合会の常務実行委員となっている。1936年、二・二六事件の関係者となる[要検証 – ノート]。
竹内 茂代(たけうち しげよ、1881年8月31日 - 19… 竹内 茂代(たけうち しげよ、1881年8月31日 - 1975年12月15日)は、日本の医師(医学博士)、政治家。 長野県南佐久郡原村(現川上村)で庄屋を世襲した家系で、元村長・元郡会議員井出喜重の長女として生まれた。1907年、東京女医学校(現東京女子医科大学)を卒業。女性としては27番目の医師となった。同年夏には、自殺を図った原阿佐緒の治療にあたった。1916年医師の竹内甲平と結婚し、1919年新宿に井出医院を開業する傍ら、市川房枝らと社会運動に参加、婦人参政権運動の財務理事を務めた。1933年東京帝国大学医学博士。論文の題は「日本女子の體質に関する研究」。 1946年東京都第1区から第22回衆議院議員総選挙出馬し、女性として初めて当選、日本自由党に属し総務及び婦人部長を務めたが、翌年公職追放となった。
秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日… 秋田 清(あきた きよし、1881年〈明治14年〉8月29日 - 1944年〈昭和19年〉12月3日)は、日本の政治家。第30代衆議院議長、厚生大臣、拓務大臣を務めた。 徳島県出身。旧制徳島中学(現:徳島県立城南高等学校)、日本法律学校(現:日本大学)、東京法学院(現:中央大学)卒業。高知地方裁判所の判事、二六新報の編集および社長職を経て政界入り。1932年(昭和7年)、衆議院議長に就任。1937年(昭和14年)、内閣参議に就任。1939年(昭和14年)、阿部内閣で厚生大臣に就任。1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣で拓務大臣に就任。1944年(昭和19年)12月3日死去。
山下 新太郎(やました しんたろう、1881年〈明治14年〉… 山下 新太郎(やました しんたろう、1881年〈明治14年〉8月29日 - 1966年〈昭和41年〉4月11日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。二科会および一水会創立者のひとり。 画風はオーギュスト・ルノワールの影響を受けた美しい色彩が特徴である。また、パリ滞在中に表具師の家に生まれたことから敦煌から招来された仏画の修理を手がけたのを切っ掛けに、油彩画の修復や保存も学び、この分野の日本に於ける草分けとなった。同時に留学中から額縁を蒐集し、自作の額装にも配慮を欠かさなかった。 1881年(明治14年)東京・根岸の表具師の長男として生まれる。 幼少時から絵画に親しみ、また特に天神像を好んだことで実父と懇意にしていた狩野芳崖に天神図を依頼、その図画を手本として過ごした。
中村 孝太郎(なかむら こうたろう、1881年〈明治14年〉… 中村 孝太郎(なかむら こうたろう、1881年〈明治14年〉8月28日 - 1947年〈昭和22年〉8月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。林内閣の陸軍大臣。石川県出身。子息は、陸軍中佐中村雅郎(44期)、陸将中村薫正(58期)。 石川県金沢市水溜町出身、石川県士族中村芳房の長男。(大野敏明著「西郷隆盛の首を発見した男」p.177,178、文春新書、2014年) 石川県第一尋常中学校(現:石川県立金沢泉丘高校、第6期生、同期には政治家永井柳太郎がいる)から陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校に進む。1901年(明治34年)11月22日に陸士13期を19番/722名の優秀な成績で卒業している。
竹崎 瑞夫(たけざき みずお、1881年8月28日 - 19… 竹崎 瑞夫(たけざき みずお、1881年8月28日 - 1961年9月7日)は、日本の経営者、ダイハツ工業社長、会長を務めた。高知県高知市出身。 1908年に京都帝国大学工科機械科を卒業。名古屋瓦斯支配人、竹崎鉄工所代表役員、島津製作所取締役などを経て、1932年に発動機製造(現在のダイハツ工業)取締役に就任し、1947年には社長に昇格。1955年に会長に就任。 1937年に大阪府実業功労賞を受賞し、1956年11月に池田市名誉市民に選ばれ、1957年3月に藍綬褒章を受章。 1961年9月7日、肋膜炎のために死去。
弓削 幸太郎(ゆげ こうたろう、1881年〈明治14年〉8月… 弓削 幸太郎(ゆげ こうたろう、1881年〈明治14年〉8月28日 - 1957年〈昭和32年〉12月16日)は、朝鮮総督府官僚。位階は正四位。勲等は勳三等。 岡山県赤磐郡豊田村(現在の赤磐市)出身。弓削新平の孫。1900年(明治33年)、日本法律学校(現在の日本大学)法科を卒業。1904年(明治37年)に高等文官試験に合格。専売局属、千葉県属、同警視、鹿児島県事務官、朝鮮総督府書記官、同学務課長、同宗教課長、同鉄道部長を歴任した。 退官後は復興建築助成株式会社取締役・支配人、中央朝鮮協会理事、中央協和会理事、東京府協和会理事を務めた。終戦後は千葉県農地委員となった。
岩波 茂雄(いわなみ しげお、1881年〈明治14年〉8月2… 岩波 茂雄(いわなみ しげお、1881年〈明治14年〉8月27日 - 1946年〈昭和21年〉4月25日)は、日本の出版人、岩波書店創業者。貴族院多額納税者議員。 次男の岩波雄二郎は岩波書店・二代目社長。孫の岩波律子は岩波ホール支配人。次女小百合は岩波書店会長の小林勇の妻。 長野県諏訪郡中洲村(現在の諏訪市中洲)の農家に生まれる。父義質は村の助役をしていた。 尋常小学校、高等小学校をへて、1895年(明治28年)に旧制諏訪実科中学校(現・諏訪清陵高)に進むも、在学中に父が病死し、戸主となる。母を助け農業をしていたが1899年に上京し、杉浦重剛を慕い、日本中学に入学。母が学資を仕送りしてくれた。ある時母親が上京すると茂雄は東京見物をさせようと思うも母は用事が済むとさっさと帰郷してしまった。
中尾 敬吉(なかお けいきち、1881年〈明治14年〉8月2… 中尾 敬吉(なかお けいきち、1881年〈明治14年〉8月26日 - 没年不明)は、日本の実業家、醸造家、政治家。若桜町会議員。 鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)出身。中尾徳次郎の二男。1902年、中尾修家より分家する。病気のため鳥取中学校を3学年で中途退学する。若桜赤松組合村会議員に挙げられる。 1912年、若桜神社氏子総代、同年に醤油醸造業を経営する。1917年、江島神社崇敬総代。第1回国勢調査員となる。三倉谷土工森林組合監事、中尾製糸場持主、淵見製材合資会社有限責任社員である。 1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、中尾敬吉の地価所有高は「852円25銭」である。趣味は書画、書道、骨董。
蒔田 広城(まいた ひろなり、旧字体: 蒔田 廣城、1881… 蒔田 広城(まいた ひろなり、旧字体: 蒔田 廣城、1881年(明治14年)8月25日 - 1943年(昭和18年)3月18日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・新之助。 元伊予宇和島藩主・伊達宗城の十一男として生まれ、子爵・蒔田広孝の養子となる。養父の隠居に伴い、1912年(明治45年)7月20日に子爵を襲爵した。 学習院を経て、京都帝国大学法科大学を修了。1911年、アメリカ合衆国を視察。帰国後、小田原急行沿線企業の重役を務めた。 1919年(大正8年)12月26日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、1925年(大正14年)7月9日まで在任。さらに、1932年(昭和7年)7月10月、貴族院子爵議員に当選し、研究会に所属して活動し1939年(昭和14年)7月9日まで通算2期在任した。
井上 貞治郎(いのうえ ていじろう、明治14年〈1881年〉… 井上 貞治郎(いのうえ ていじろう、明治14年〈1881年〉8月16日 - 昭和38年〈1963年〉11月10日)は、日本の実業家。 「段ボール」の実用新案を取得。大量生産と強固な段ボール箱の開発に成功し、聨合紙器(現社名・レンゴー)を設立した。「日本の段ボールの父」と評される。 兵庫県姫路市郊外で農業を営む長谷川家の三男として生まれた。2歳の時に、兵役を逃れるため遠縁にあたる井上家の死籍相続人になる。 高等小学校を卒業後、1895年(明治28年)から神戸の商家で丁稚を始める。その後中国料理店、パン屋、石炭屋等職を転々とする。1905年(明治38年)には妻・お雪と別れ、1人満州に旅立つ。 1909年(明治42年)に放浪の旅から立ち直り、東京で「三盛舎」(後に「三成社」と改名)を創業。
副島 千八(そえじま せんぱち、1881年(明治14年)8月… 副島 千八(そえじま せんぱち、1881年(明治14年)8月15日 - 1954年(昭和29年)2月15日)は、日本の明治期から昭和期の官僚。幣原内閣の農林大臣や関東証券の社長を務めた。位階および勲等は従三位、勲二等。 佐賀中学校(旧制)から郁文館中学校に転校。第一高等学校に進学し、1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学を卒業した。 農商務省に入省し、農政課長、食糧局長、製鉄所次長、鉱山局長を歴任した。1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省商務局長に就任し、関税率改正準備委員会臨時港湾調査会、国産振興委員会委員、関税常設委員会、損害保険制度調査委員会、不当廉売審査委員会などの委員を務めた。
鈴木花蓑(すずき はなみの、1881年(明治14年)8月15… 鈴木花蓑(すずき はなみの、1881年(明治14年)8月15日または12月1日 - 1942年(昭和18年)11月6日)は、愛知県出身の俳人、大審院書記。本名は鈴木喜一郎(きいちろう)。 愛知県知多郡半田町(現半田市)生まれ。半田裁判所で書記見習いをしていた時に「ホトトギス」の存在を知り投句。1909年には名古屋裁判所に移り、1915年に上京、大審院書記となる。この年初めて「ホトトギス」で入選。また東大俳句会を指導し、後の水原秋桜子や高野素十らの4S時代を築く礎となった。晩年は「あをさ」「百舌鳥」などの俳誌を創刊するも、戦時中の紙不足に巻き込まれ廃刊を余儀なくされる。60歳を迎えて日本俳句作家協会常任理事となるも、間も無くして病に倒れた。
加藤 信太郎(かとう しんたろう 1881年8月14日 - … 加藤 信太郎(かとう しんたろう 1881年8月14日 - 1962年1月15日)は、日本の実業家。デンツプライ三金の創業者、初代社長・初代会長。
長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月… 長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月13日 - 1953年(昭和28年)4月29日)は大正・昭和期の日本の大蔵官僚、実業家。日本証券投資協会長。 広島県広島市堺町(現・広島市中区)生まれ。旧広島藩士・長崎正平の三男。旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)卒業後、旧制第一高等中学(一高)、東京帝国大学法科大学と進み、1907年(明治40年)、大蔵省理財局国庫課入り。1910年(明治43年)、台湾銀行を経て、1913年(大正2年)、幻の総合商社、神戸の鈴木商店に帝大出身者として初の入社、大番頭金子直吉の片腕として多くの事業を手がける。特に東京総支配人(東京支店長)時代、当時の政財界人のトップが集った「番町会」のメンバーになるなど縦横に交流する。
松本 喜一(まつもと きいち、1881年8月12日 - 19… 松本 喜一(まつもと きいち、1881年8月12日 - 1945年11月13日)は、埼玉県秩父郡出身の官僚・教育者。東京高等師範学校教授、帝国図書館長を歴任。 第二高等学校を経て、1906年に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。山口県萩中学校教諭、群馬県師範学校教諭、茨城県女子師範学校長、茨城県師範学校長を経て、1921年に東京高等師範学校教授。1921年には田中稲城の後任として帝国図書館長事務取扱に就任したが、図書館界との関りがなかった松本が就任したことで反対の声も上がっている。 1923年1月11日、田中の後任として帝国図書館長(2代目)に就任。1926年から1927年にはアメリカ・ドイツ・イギリスの図書館を視察している。
望月 歓厚(もちづき かんこう、1881年8月12日 - 1… 望月 歓厚(もちづき かんこう、1881年8月12日 - 1967年11月28日)は、日蓮宗の僧、仏教学者。 山梨県出身。旧姓は田中。号・日電秋江。1888年得度。1910年日蓮宗大学林(現立正大学)卒業。研究院に学び内地研究員を経て、日蓮宗大学教授。1926年立正大学教授、文学部長、1944年学長、日蓮宗学研究所長。1952年定年退任、名誉教授。1957年「日蓮教学の研究」で東洋大学文学博士。静岡・富西寺住職、本覚寺住職、東京・宣明院住職、山梨・妙法寺住職。記念として日蓮宗の仏教研究に対する望月学術賞が創設されている。
斎藤 真三郎(さいとう しんざぶろう、1881年(明治14年… 斎藤 真三郎(さいとう しんざぶろう、1881年(明治14年)8月12日 - 1925年(大正14年)7月18日)は、衆議院議員(革新倶楽部)。新聞編集者。 山形県東田川郡渡前村(現在の鶴岡市)出身。1903年(明治36年)、早稲田大学邦語政治科を卒業。渡前村長、東田川郡会議員、同参事会員、同副議長、同議長、東田川西田川両郡組合会議員、同参事会議員を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、両羽実業新聞を経営した。
潮 恵之輔(うしお しげのすけ、1881年〈明治14年〉8月… 潮 恵之輔(うしお しげのすけ、1881年〈明治14年〉8月11日 - 1955年〈昭和30年〉1月9日)は、日本の内務官僚。後に内務大臣兼文部大臣、最後の枢密院副議長を務める。 1881年(明治14年)、綿職人・潮房太郎の二男として島根県美濃郡横田村(後に同郡豊田村字横田となり、現在は益田市横田町)に生まれる。郁文館中学、一高を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学卒業後に内務省入省。行政法の専門家として活動、衛生局長・地方局長などを歴任した。1928年(昭和3年)に田中義一内閣の内務次官となり、濱口内閣・第2次若槻内閣で次官を務めた後に1931年(昭和6年)に貴族院勅選議員となる(研究会所属)。
木村 泰賢(きむら たいけん、1881年8月11日 - 19… 木村 泰賢(きむら たいけん、1881年8月11日 - 1930年5月16日)は、日本の曹洞宗の僧侶(岩手県東慈寺住職)で、インド哲学者・仏教学者。日本における近代仏教学の確立に貢献した。学位は、文学博士。東京帝国大学教授。 1881年に岩手県滝沢村一本木(現在の滝沢市一本木)に、父亀治と母リツの次男として生まれる。幼名二蔵。一家は1984年に大更村(現在の八幡平市大更)へ移り住み、父は当地で酒造業を営む工藤家の家事手伝いを勤めた。1891年に父が亡くなった後、母の労苦を見かねて酒造店で小僧修業していたところ、東慈寺の住職であった十九世村山実定に見込まれて養子となり出家。実定の号である泰山から一字を与えられ、泰賢と称した。
中山 友次郎(なかやま ともじろう、1881年(明治14年)… 中山 友次郎(なかやま ともじろう、1881年(明治14年)8月6日 - 1946年(昭和21年)11月15日)は、日本の海軍軍人、教育者。最終階級は海軍大佐。 1881年(明治14年)8月6日、高知街通町の商家阿波屋・中山友治の長男に生まれる。海南学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1901年(明治34年)12月、海軍兵学校(29期)を卒業し、少尉候補生になる。1903年(明治36年)1月に海軍少尉任官。 その後、兵学校教官、「富士」航海長などを歴任。第一次世界大戦では駆逐艦艦長として紀淡海峡の警備につく。また地中海では第二特務艦隊第22駆逐隊(第10駆逐隊から改称)司令として英国商船の護衛に当り、ドイツ潜水艦を捕獲し勇名をあげた。
太田 茂(おおた しげる、1881年(明治14年)8月5日-… 太田 茂(おおた しげる、1881年(明治14年)8月5日-1940年(昭和15年)2月26日)日本のスポーツジャーナリスト。筆名は太田四州、太田志蹴。 1881年(明治14年)8月5日に香川県に生まれる。高松中学校を卒業し、1902年(明治35年)に和仏法律学校(現在の法政大学)法律科を卒業する。 『二六新報』、『読売新聞』、『国民新聞』などに大学野球の記事を書き、1921年(大正10年)から雑誌『運動界』を主宰する。スポーツジャーナリストの草分け的人物であり、神宮球場の建設など、学生野球の発展に尽力した。1940年(昭和15年)2月26日に死去、享年60。 1972年(昭和47年)、野球の啓蒙に尽瘁し、生涯を野球批評のために貫き、文筆をもって学生スポーツの健全な発展に献身した功績により野球殿堂(特別表彰)入りする。
長 延連(ちょう のぶつら、1881年〈明治14年〉8月4日… 長 延連(ちょう のぶつら、1881年〈明治14年〉8月4日 - 1944年〈昭和19年〉4月21日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、警視総監。 静岡県敷知郡浜松常盤町(浜名郡浜松町大字常盤を経て現浜松市中央区常盤町)出身。長唯連の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1907年に京都帝国大学法科大学を卒業。文部省に入り普通学務局属となる。1908年11月、文官高等試験行政科試験に合格。文部省普通学務局第三課長を務める。 内務省に移り、香川県事務官、高知県事務官・警察部長、山梨県警察部長、福岡県警察部長兼港務部長、大分県・山口県・京都府の各内務部長などを歴任。 1922年6月、岡山県知事に就任。
会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年… 会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年〈明治14年〉8月1日 - 1956年〈昭和31年〉11月21日)は、日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人・渾斎。1951年に新潟市名誉市民。 早大英文科卒。奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、『南京新唱』(1924年)を刊行。のち上京、早大教授となり、「東洋美術史」等を講じた。晩年は新潟市に戻り、書に専念。歌集に『鹿鳴集』(1940年)など。 新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。
鍵和田 良平(かぎわだ りょうへい、明治14年(1881年)… 鍵和田 良平(かぎわだ りょうへい、明治14年(1881年)8月1日 - 昭和31年(1956年)7月24日)は、日本の工学者。 電気起重機の発明で有名。 神奈川県足柄下郡足柄村(現・小田原市)出身。父は明治13年(1880年)頃に村長を務めた。明治40年(1907年)に京都帝国大学機械工学科を卒業した。すぐに芝浦製作所に入所し、設計係となった。明治44年(1911年)に石川島造船所に転じ、多くの発明を行った。昭和3年(1928年)9月に昭和肥料会社理事に就任した。 1956年7月24日、脳出血のため東京都渋谷区青葉町の自宅で死去。 娘の貴代は、子爵の堤経長と結婚した。
西村 禎一郎(にしむら さだいちろう、1881年(明治14年… 西村 禎一郎(にしむら さだいちろう、1881年(明治14年)8月 - 不明 )は日本の銀行家であり弁護士である。岡山県新見市出身。 1881年(明治14年)岡山県阿哲郡上市村井村(現:新見市上市)の西村幸三の6男として生まれる。20歳の時、1902年(明治35年)旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業し、旧制第六高等学校文科へ入学。ドイツ語を専攻する。1905年(明治38年)7月に同校を卒業し、京都帝国大学法科大学へ入学した。その後、仮面浪人を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学へ入学し、1912年(大正元年)10月に同大学独法学科を31歳で卒業した。 卒業後は村井銀行へ就職。
原 正鼎(はら せいてい、1881年(明治14年)8月 - … 原 正鼎(はら せいてい、1881年(明治14年)8月 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 山形県米沢市出身。1906年(明治39年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業して、司法官試補となった。京都地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事を経て、1909年(明治42年)に朝鮮に渡り、京城区裁判所判事、京城地方裁判所判事、京城覆審法院判事、高等法院判事を歴任。1920年(大正9年)、朝鮮総督府法務局民事課長に転じ、1923年(大正12年)に欧米に出張した。帰国後、高等法院判事、京城地方法院長、高等法院部長を経て、1932年(昭和7年)に大邱覆審法院長となり、1939年(昭和14年)に高等法院長に就任した。
大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1… 大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1920年1月20日)は、日本の俳人・俳論家。福島県相馬郡中村町(現在の相馬市)生まれ。本名・績(いさお)。 祖父は儒学者の神林復所で父は漢学者で漢詩人の大須賀筠軒。福島尋常中学校(現在の福島県立安積高等学校)、宮城県第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)から第二高等学校(現在の東北大学)を経て東京帝国大学文科大学国文科卒業。卒業後は教員として中学、高等女学校で教えたのち、若くして東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授に就任した。東大卒で学者一族の家系という毛並みの良さと文才を評価され、早くから新傾向俳句の旗手として嘱望された。『海紅』の河東碧梧桐に師事、同じ旧制二高出身(ただし碧梧桐は中退)で才能も評価された乙字に対し碧梧桐の期待は高かったが、海紅堂事件に端を発する海紅同人同士の内部対立により1915年5月に離脱。
長井 真琴(ながい まこと、1881年〈明治14年〉7月28… 長井 真琴(ながい まこと、1881年〈明治14年〉7月28日 - 1970年〈昭和45年〉8月8日)は、日本の仏教学者。学位は、文学博士(東京帝国大学)。福井県丹生郡殿下村(現福井市)出身。浄土真宗高田派勝鬘寺の長井真応住職の長男。真向法創始者長井津、海軍少将長井満は実弟。長男に仏教学者長井真先、四女に鎌倉女子大学学園主松本紀子、次男に東京大学名誉教授長井善見。姪孫に仏教学者佐々木閑。 日本におけるパーリ語仏典研究の草分けと評される。1924年(大正13年)、高楠順次郎らとパーリ語仏典の律の注釈書『サマンタパーサーディカー』の校訂に着手し、30年をかけて完成させている。NHKのパーリ語のラジオ講座も担当した。
小山内 薫(おさない かおる、1881年〈明治14年〉7月2… 小山内 薫(おさない かおる、1881年〈明治14年〉7月26日 - 1928年〈昭和3年〉12月25日)は、明治末から大正・昭和初期に活躍した日本の劇作家、小説家、演出家、批評家、詩人。 日本の演劇界の革新にその半生を捧げた"新劇の父" 。 1909年に「自由劇場」を、1924年に土方与志らと「築地小劇場」を設立し、新劇運動に尽力した。戯曲に『第一の世界』(1920年)、『息子』(1922年)などがある。また、1919年に松竹本社理事兼松竹蒲田撮影所撮影総監督となり、1920年松竹キネマ俳優学校校長、松竹キネマ研究所設立を通して、トーキー(発声映画)が登場する日本映画黎明期に深く関わった。 1881年(明治14年)7月26日、広島陸軍衛戍病院長・小山内建の二男として後の広島市細工町(現在の大手町一・二丁目付近)に生まれた。
荒川 真郷(あらかわ まさと、1881年(明治14年)7月2… 荒川 真郷(あらかわ まさと、1881年(明治14年)7月25日 - 1951年(昭和26年)10月26日)は、日本の陸軍軍人、政治家。衆議院議員、陸軍少将。 熊本市出身。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業。1903年(明治37年)2月12日、歩兵少尉に任官。その後、日露戦争・済南事件に従軍した。1928年(昭和3年)8月10日、歩兵大佐に昇進し富山連隊区司令官に就任。1931年(昭和6年)8月1日、歩兵第21連隊長に転じた。1933年(昭和8年)8月1日、陸軍少将に進級し待命となり、同年8月30日、予備役に編入された。 その後、熊本県選挙粛正地方委員、九州司法保護事業聯盟評議員、熊本県社会教育協会副会長、帝国在郷軍人会熊本市聯合分会長などを務めた。
大谷 米太郎(おおたに よねたろう、1881年7月24日 -… 大谷 米太郎(おおたに よねたろう、1881年7月24日 - 1968年5月19日)は、日本の実業家、稲川部屋所属の元大相撲力士。四股名は鷲尾嶽。太平洋戦争前は「鉄鋼王」と称された。戦後の一時期は菊池寛実、南俊二とともに「日本の三大億万長者」と並び称された。ホテルニューオータニ創業者。 富山県西礪波郡正得村(現・小矢部市)水落集落出身。 貧農の家庭に長男として生まれ、31歳になるまで一家を養うために農家の小作として使われる生活を送った。31歳の時、僅かな金(20銭)を親から借りて裸一貫で上京したが、保証人もいない単身田舎から出てきた男にまともな仕事は見つからず、日雇人夫となっていた。 やがて力自慢でならしていた米太郎に稲川部屋から声がかかり、大相撲力士となる。
松井 房治郎(まつい ふさじろう、1881年(明治14年)7… 松井 房治郎(まつい ふさじろう、1881年(明治14年)7月23日 - 1937年(昭和12年)12月10日)は、朝鮮総督府官僚。 京都府愛宕郡岩倉村(現在の京都市左京区)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学を卒業。大蔵省を経て、朝鮮総督府で財務部長や税関長を務め、全羅南道内務部長、慶尚南道内務部長、京畿道内務部長、京城府尹を歴任し、1929年(昭和4年)に咸鏡南道知事に就任した。 1930年(昭和5年)に退官した後は、朝鮮米穀倉庫株式会社社長、朝鮮郵船株式会社取締役、朝鮮農会副会長などを務めた。
高木 繁(たかぎ しげる、1881年7月20日 - 1946… 高木 繁(たかぎ しげる、1881年7月20日 - 1946年11月27日)は、明治-昭和時代前期の日本の医学者。泌尿器科学における日本のパイオニア。九州帝国大学医学部泌尿器科を設立し、初代教授となる。1933年皆見省吾と雑誌「皮膚と泌尿」を創刊。皮膚疾患治療剤グリテールを開発した。また、江戸末期の浮世絵師、歌川国芳に注目し、その作品を収集。息子である高木健太郎が繁の遺志を継ぎ、健太郎の妻の節子が平成12年に「高木繁浮世絵コレクション」として約530点を名古屋市博物館に寄贈。『名古屋市博物館資料図版目録二』に全作品が掲載されている。 下山順一郎(日本最初の薬学博士、東京大学教授、私立薬学校:現東京薬科大学の創立者、初代校長)と母志満の長男として、東京都神田区新石町に生まれる。
岡村 金蔵(おかむら きんぞう、1881年7月17日 - 没… 岡村 金蔵(おかむら きんぞう、1881年7月17日 - 没年不明)は、日本の工学者。 オイルシェール(油母頁岩)から含有される石油を採取する方法を発明した。この発明を実施しつつあった南満洲鉄道株式会社撫順炭鉱の1938年の生産量は、粗油14万5千トン(重油8万5百トン)に達した。1939年の日本の十大発明家の1人に選出されている。 1906年に京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。その後、八幡製鉄所に入る。1910年に京都市技師を経て、1913年に南満洲鉄道株式会社に入る。1928年に撫順炭鉱臨時製油工場建設事務所長となり、同社の研究所長、化学課長を歴任した。1934年に退社した。
松山 茂(まつやま しげる、明治14年〈1881年〉7月14… 松山 茂(まつやま しげる、明治14年〈1881年〉7月14日 - 昭和12年〈1937年〉12月29日)は、大正・昭和期の日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。長崎・平戸出身。 旧平戸藩士・松山雲八の五男。私立尋常中学猶興館より海軍兵学校に入学。海兵30期を187名中74位で卒業。30期の首席は百武源吾大将。同期8名の中将の中では156位の重岡信治郎中将、99位の湯地秀生中将に次ぐハンモックナンバー下位のスタート。「松島」での遠洋航海を終えて「磐手」乗組が初任地。日露戦争をそのまま「磐手」のクルーとして経験し、蔚山沖海戦・日本海海戦に参加。蔚山沖海戦後の明治38年(1905年)1月12日、中尉に進級している。
細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 -… 細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 - 1968年6月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県多可郡松井庄村(現・多可町)生まれ。1907年、早稲田大学商科卒。農業の傍ら、松井庄村議、多可郡議、同参事会員、兵庫県参事会員となる。また、松井庄商事(株)専務理事、多可郡工業会長、兵庫県播州織工業組合、工業組合中央会、商工組合中央会各理事、兵庫県織物組合連合会、同県織物統制組合各理事長を歴任した。 1923年9月25日の兵庫県会議員選挙に多可郡選挙区から立候補して、当選した。しかし、1924年4月11日に失職した。その後、1927年9月25日に返り咲いた。1931年、1935年、1939年の選挙にも当選した。
村瀬 玄(むらせ げん、1881年(明治14年)7月12日 … 村瀬 玄(むらせ げん、1881年(明治14年)7月12日 - 1963年(昭和38年)5月6日)は、日本の会計学者。元東京商科大学(現・一橋大学)附属商学専門部教授。日本会計学会発起人。 愛知県出身。1899年愛知県名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)卒業、同校嘱託教員。1903年東京高等商業学校(現・一橋大学)附属商業教員養成所卒業。1923年ペンシルベニア大学ウォートン・スクール卒業、MBA(経営学修士)。 熊本県立商業学校(現・熊本県立熊本商業高等学校)教諭時代の教え子に、のちに同僚になる堀潮がいた。小倉市立小倉商業学校(現・福岡県立小倉商業高等学校)校長を経て、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)教授在任中、1921年から1924年までイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国に留学。