堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1… 堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1941年4月14日)は日本の作詞家、教育者。名前は「しゅうあん」と音読される場合もある。号は鹿峡(ろくきょう)。 明治2年1月8日(西暦1869年2月18日)、尾張国丹羽郡善師野村(現在の愛知県犬山市)に生まれる。犬山城下稲置村の丹羽葉栗第一番高等小学校を卒業した後、尋常小学校の教員手伝いを経て1891年(明治24年)に上京、東京国語伝習所(大成高等学校の前身校)で上田萬年に師事して国文学を学んだ。 卒業後は長野県や北海道、香川県、愛媛県で旧制中学校や高等女学校の教員を務め、特に香川・愛媛の両県で校歌や市町村歌を多数作詞した。旧制三豊中学校(現在の香川県立観音寺第一高等学校)の校長職に在った1921年(大正10年)、大阪市が3代目市庁舎落成を記念して公募した「大阪市歌」で応募作が一等入選する。
青柳 信五郎(あおやぎ しんごろう、1869年2月17日(明… 青柳 信五郎(あおやぎ しんごろう、1869年2月17日(明治2年1月7日)- 1914年(大正3年)11月22日)は、明治期の地主、政治家。衆議院議員。 越後国三島郡河根川村(新潟県三島郡王寺川村大字河根川を経て現長岡市河根川町)で、大地主・農業、青柳逸庵の五男として生まれる。漢学を修めた。1884年(明治17年)に英学を修め大学予備門に進んだが、家庭の事情で勉学を断念し1890年(明治23年)に帰郷した。 大寺川村会議員、三島郡会議員、新潟県会議員などを務めた。自由主義を標榜し、立憲政友会が組織されると入党して新潟県支部幹事に就任し、党勢の拡大に尽力した。1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙に新潟県郡部から政友会所属で出馬して初当選。
土田 万助(萬助、つちだ まんすけ、1869年2月16日(明… 土田 万助(萬助、つちだ まんすけ、1869年2月16日(明治2年1月6日)- 1942年(昭和17年)6月15日)は、明治から昭和時代の大地主、篤農家、林業家、政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 出羽国平鹿郡、のちの秋田県平鹿郡館合村(大雄村を経て現横手市)で土田吉治の長男として生まれ、土田彦七の養子となる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て秋田師範学校に進学したが中退して帰郷した。1905年(明治38年)養父の隠居により家督を相続した。 1900年(明治33年)館合村農会を設立し、科学農法を導入し米の品質改良に尽力。1905年(明治38年)に計画された区画整理事業を推進し、1917年(大正6年)までに450ヘクタールが完成した。
菅原 通敬(すがわら みちよし、1869年2月16日(明治2… 菅原 通敬(すがわら みちよし、1869年2月16日(明治2年1月6日)– 1946年(昭和21年)12月18日)は、日本の大蔵官僚・政治家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官、錦鶏間祗候。 仙台藩士・郡長、菅原通実の長男として生まれる。仙台中学、第一高等学校を経て、1895年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵省に入省し大蔵属となり、主税局に配属された。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1895年11月、横浜税関倉庫課長に就任。以後、沖縄県収税長、司税官・熊本税務管理局、税務監督官・主税局内国税課、函館税務管理局長、丸亀税務管理局長、神戸税務管理局長、神戸税務監督局長、大蔵書記官・主税局内国税課長、主税局長などを歴任。
塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1… 塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1月3日) - 1913年(大正2年)2月1日)は、日本の詩人、国文学者、翻訳家。本名・正男。 兵庫県豊岡市出身。豊岡藩士の子。1886年(明治19年)7月、第一高等中学校に入学。1892年(明治25年)7月、第一高等中学校文科を卒業。同月、東京帝国大学に入学。 1895年(明治28年)7月、東京帝国大学文科大学国文科卒。落合直文に師事。同年『帝国文学』の創刊とともに編集委員となり、擬古文で名を知られた。詩人として新体詩の普及に貢献する一方で、国文学者としても活躍。 1895年(明治28年)9月、立教学校(現・立教大学)の教授に就任し、国文国語を講じた。
堀江 正三郎(ほりえ しょうざぶろう、1869年2月12日(… 堀江 正三郎(ほりえ しょうざぶろう、1869年2月12日(明治2年1月2日) - 1934年(昭和9年)10月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1889年、東京高等工業学校卒。京橋区議、東京府議、同市部会議員、同議長となる。千代田護謨、東京製靴、東京商船各(株)専務取締役、原安商会、秋葉商店、茨城鉄道、大谷石材鉄道、栗山電燈、稲敷電気各(株)取締役社長などを務める。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において茨城3区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。在職中の1934年10月に死去した。
大池 鎌次郎(おおいけ かまじろう、1869年2月7日(明治… 大池 鎌次郎(おおいけ かまじろう、1869年2月7日(明治元年12月26日)- 1959年(昭和34年)5月1日)は、明治から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員、愛知県会議長。 尾張国丹羽郡古知野村(愛知県丹羽郡古知野町を経て現江南市古知野町)で、代々酒造業を営む大池家当主・大池與平の息子として生まれる。 愛知県生糸製造同業組合組長、興益銀行取締役、愛知製絹社長、丹羽郡酒造家組合盛昌組組長、古知野銀行取締役などを務めた。1916年(大正5年)10月、名古屋株式取引所一般取引員となり力商店を開設した。 1893年(明治26年)以降、古知野町会議員、学務委員、学校組合議員、勧業諮問会員、丹羽郡会議員、同参事会員、同徴兵参事員、道路組合会議員などを務めた。
高嶺 朝教(たかみね ちょうきょう、1869年2月6日(尚泰… 高嶺 朝教(たかみね ちょうきょう、1869年2月6日(尚泰21年12月25日) - 1939年(昭和14年)1月12日)は、沖縄県出身の実業家、政治家。同県選出初の衆議院議員の一人。向氏高嶺家十一世。唐名は向承徳。 首里山川村(現那覇市首里山川町)で、高嶺家十世・高嶺朝長(唐名は向善継)の長男として生まれる。1882年に第1回県費留学生として上京し、学習院、慶應義塾で学ぶ。 1893年9月、尚順、太田朝敷らと協力して『琉球新報』を創刊。1900年、尚家の出資を元に沖縄銀行の設立に参画して頭取に就任。1909年、第1回沖縄県会議員選挙に出馬して当選し、初代県会議長に就任。同年6月28日から1912年5月20日まで務めた。
三宅 花圃(みやけ かほ、1869年2月4日(明治元年12月… 三宅 花圃(みやけ かほ、1869年2月4日(明治元年12月23日) - 1943年(昭和18年)7月18日)は、明治時代の小説家、歌人。著書『藪の鶯』は、明治以降に女性によって書かれた初の小説。 姓は田辺、本名は竜子。花圃と号す。本所番場町に住む旧幕臣で元老院議員の父・田辺太一、母・己巳子(きみこ)の長女に生まれる。戸籍では10月5日生まれ。竜子は8歳で麹町小学校に入学したが、その後、跡見花蹊の跡見女学校に学び、ついで桜井女学校、明治女学校と次々と学校を変ったのち、最後に、森有礼の理想によって女子の最高学府として設立された一つ橋の東京高等女学校(現・お茶の水女子大学)専修科に入学、1889年(明治22年)に卒業した。
各務 鎌吉(かがみ けんきち、1869年2月3日(明治元年1… 各務 鎌吉(かがみ けんきち、1869年2月3日(明治元年12月22日) - 1939年(昭和14年)5月27日)は、明治から昭和にかけての日本の実業家。三菱財閥系の東京海上火災保険などの社長・会長をはじめ、三菱財閥の要職を務めて三井財閥の池田成彬とともに内外より重んじられ貴族院議員を務めた。その業績は、「損害保険業界の父」といわれ、国際的にも世界保険殿堂に日本人として初めて選出。大正8年(1919年)ICC(国際商業会議所)の設立メンバー(アトランティック通商会議日本国代表)。 美濃国方県郡安食村(現在の岐阜県岐阜市)の農家の次男として生まれた。父省三は西南戦争勃発の1877年に駅逓寮(のちの郵便局)の下級官吏として勤務した関係で上京したが、鎌吉が中学生のころに辞めて京橋で葉茶屋を始めた。
大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869… 大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869年2月1日〉 - 1931年〈昭和6年〉3月2日)は、日本の美学者、東京帝国大学教授(文学博士)。日本における学術的な美学の創設者とされる。夏目漱石との交友でも知られる。旧姓・小屋。 明治元年(1869年)上野国勢多郡木瀬村大字笂井(現・群馬県前橋市笂井町)に、小屋宇平治(卯平治/宇兵衛)の次男として生まれる。兄・右兵衛は木瀬村長を務めた。笂井小学校を経て、1884年(明治17年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業。旧制第一高等学校を経て、1891年(明治24年)に帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)哲学科を卒業。大学院で美学を専攻する。
杉野 耕三郎(すぎの こうざぶろう、明治元年12月19日(1… 杉野 耕三郎(すぎの こうざぶろう、明治元年12月19日(1869年1月31日) - 没年不詳)は、日本の逓信官僚。大連市長。 岐阜県養老郡高田町(現在の養老町)出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。通信事務官、関東都督府在旅順軍郵便監査、郵便為替貯金管理所証券課長、北京郵便局長、神戸逓信管理局総務部長、神戸郵便局長、神戸税関事務官、長野郵便局長、名古屋郵便局長、逓信局書記官、臨時電信電話建設局事務官、熊本逓信局監理課長などを歴任し、1920年(大正9年)に関東庁逓信局長となった。 1924年(大正13年)に退官した後は大連市長を務め、1928年(昭和3年)に退任。
白神 源次郎(しらがみ げんじろう/しらが げんじろう、明治… 白神 源次郎(しらがみ げんじろう/しらが げんじろう、明治元年12月19日(1869年1月31日) - 明治27年(1894年)7月29日)は、日清戦争で戦死した日本陸軍兵士。備中国浅口郡水江村(現在の岡山県倉敷市)出身。 貧しい農家に生まれ、高瀬舟の人足などをして暮らしていた。1894年(明治27年)、広島の歩兵第21連隊に入営してラッパ手となった。兵役中、源次郎の力強い喇叭は評判が高く、21連隊の喇叭手と言えば白神の名がでるくらいであったが満期除隊した。日清戦争で予備役召集され、第五師団の一等卒として出征。7月29日、成歓の戦いにおいて武田秀山中佐率いる右翼隊第21連隊第9中隊に属し、戦闘中、水濠にはまり溺死した。
湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日〈1869… 湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日〈1869年1月30日〉 - 昭和6年〈1931年〉2月23日)は、明治・大正・昭和戦前期の日本の洋画家。政治家・湯浅治郎の長男。湯浅八郎は弟。上野国(現・群馬県安中市)出身。 明治元年12月18日(1869年1月30日)、安中で醤油味噌の醸造販売を行う「有田屋」の長男として生まれる。 同郷の新島襄が開校した同志社英学校(現・同志社大学)を明治20年(1887年)に卒業した後、山本芳翠の生巧館画塾で学び、山本芳翠が画塾の経営から身を引くと、それを譲り受けた黒田清輝の天真道場に学んだ。明治29年(1896年)東京美術学校(現・東京藝術大学)に西洋画科が設置されると黒田清輝の推薦を受け3年生に編入し明治31年(1898年)7月卒業。
高瀬 武次郎(たかせ たけじろう、明治元年12月16日〈18… 高瀬 武次郎(たかせ たけじろう、明治元年12月16日〈1869年1月28日〉 - 1950年〈昭和25年〉2月9日)は明治から昭和にかけての陽明学者。号は惺軒。従三位勲三等文学博士京都帝国大学名誉教授。 漢詩は鈴木豹軒、和歌は山本行範に学んだ。 明治元年12月16日(1869年1月28日)、讃岐国山田郡西十川村仲下所(香川県高松市十川西町107番地1)佐々木弥惣八(八十八、小五郎)の四男に生まれた。鰹宇神社で森口四郎に儒学を学ぶ。 京都府立第一中学校(京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校(金沢市)または第五高等学校(熊本市)を経て、明治31年(1898年)7月東京帝国大学文科大学漢学科を卒業し、同大学院に進学、明治38年(1905年)11月論文「先秦諸子哲学」により文学博士号を取得、明治39年(1906年)1月東京帝国大学講師、同時に哲学館、日蓮宗大学、佛教大学、早稲田大学、曹洞宗大学、明治大学講師も務めた。
佐々木 文一(ささき ぶんいち、明治元年12月15日〈186… 佐々木 文一(ささき ぶんいち、明治元年12月15日〈1869年1月27日〉 - 昭和5年〈1930年〉1月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 美濃国可児郡伏見村(岐阜県御嵩町から可児市)出身。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。弁護士試験に合格し、1894年(明治27年)から開業した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その後、4回の当選回数を数えた。 その他、神中鉄道株式会社・東北起業株式会社取締役や日本大学理事を務めた。
佐藤 沢(さとう さわ / たく、明治元年12月13日(18… 佐藤 沢(さとう さわ / たく、明治元年12月13日(1869年1月25日) - 昭和23年(1948年)7月25日)は、日本の医師。福島市長。 宮城県亘理郡亘理町出身。1891年(明治24年)、第二高等中学校医学部卒業。1896年(明治29年)、福島市に病院を開設し、1927年(昭和2年)に東京に移転した。1901年(明治34年)、福島町会議員となり、福島市会議員、同副議長、同議長を歴任した。 1929年(昭和4年)に福島市長に選出され、1945年(昭和20年)まで16年間務めた。その後、公職追放となり、追放中の1948年(昭和23年)死去。
白川 義則(しらかわ よしのり、1869年1月24日(明治元… 白川 義則(しらかわ よしのり、1869年1月24日(明治元年12月12日) - 1932年(昭和7年)5月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、栄典は勲一等功二級男爵。
岡倉 秋水(おかくら しゅうすい、明治元年12月11日(18… 岡倉 秋水(おかくら しゅうすい、明治元年12月11日(1869年1月23日) - 昭和25年(1950年)12月30日)は明治時代の日本画家。 越前国福井老松下町に生まれる。本名は覚平。岡倉天心は叔父にあたる。幼少の頃に上京、明治11年(1878年)4月に東京外国語学校仏蘭西学部に入学しフランス語を学んでいる。明治13年(1880年)に退学して画家を志し狩野芳崖に師事して絵の修業を始め、明治16年(1883年)5月からアーネスト・フェノロサについて美学を学ぶ。岡不崩、狩野忠信とともに鑑画会に少壮画家として参加、明治18年(1885年)の第1回鑑画会大会にはフェノロサの示唆を受け「文殊」、「羅漢」、「鷲」を出品すると「鷲」が四等褒状を受け、明治19年(1886年)4月の第2回鑑画会大会には「山水」を出品している。
中村 尚武(なかむら なおたけ、1869年1月22日(明治元… 中村 尚武(なかむら なおたけ、1869年1月22日(明治元年12月10日)- 1937年(昭和12年)5月11日)は、明治から昭和前期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、千葉県山武郡鳴浜村長。 上総国山辺郡白幡村(千葉県山武郡鳴浜村、成東町を経て現山武市白幡)で、酒造業・石田藤蔵の長男として生まれた。1890年(明治23年)東京専門学校(現早稲田大学)法律科を卒業した。 1893年(明治26年)まで岡山地方裁判所書記を務めた。帰郷して酒造業、農業を営む。九十九里鉄道社長なども務めた。 1907年(明治40年)9月、千葉県会議員に選出され1911年(明治44年)9月まで1期在任し、同副議長も務めた。
市川 莚十郎(いちかわ えんじゅうろう、旧暦 明治元年12月… 市川 莚十郎(いちかわ えんじゅうろう、旧暦 明治元年12月10日 / グレゴリオ暦 1869年1月22日 - 1943年3月2日)は、日本の歌舞伎役者、俳優である。本名は生田 宮吉(いくた みやきち)。幼名及び旧芸名は市川 左伊次(いちかわ さいじ、市川 左い次とも)、市川 榮升(いちかわ えいしょう)。映画草創期に主演俳優として活躍した一人であり、5代目澤村四郎五郎との名コンビとして知られる。 1869年1月22日(旧暦 明治元年12月10日)、武蔵国(後の東京府東京市浅草馬道3丁目、現在の東京都台東区)に生まれる、とされている。1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』(揚幕社)には、生年月日は「明治三年十二月十日」(グレゴリオ暦 1871年1月30日)、生地は東京市浅草区馬道町1丁目(現在の台東区浅草1丁目)である旨が記されている。
津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日(1869年1月… 津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日(1869年1月18日) - 昭和12年(1937年)10月5日)は、衆議院議員(新政会)、弁護士。 上総国山辺郡片貝村(現在の千葉県山武郡九十九里町)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科を卒業し、1893年(明治26年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、1896年(明治29年)より、鹿児島区裁判所、姫路区裁判所、神戸区裁判所の判事を歴任した。 1899年(明治32年)、台湾総督府法院検察官に就任。1905年(明治38年)、台湾総督府で検察官制度廃止の議論が起きると、反対の議論を展開した。これが児玉源太郎台湾総督や後藤新平民政長官に認められ、桃園庁長に登用された。
田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 -… 田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 - 1946年1月20日)は日本の柔術家(不遷流4世・宗家)、柔道家(大日本武徳会範士)。社団法人兵庫県柔道整復師会初代会長。 1886年・翌87年の警視庁武術大会での大勝を機に日の出の勢いとなった新興の講道館柔道が各地に根付く柔術各派を圧倒し、在京の各派の多くが講道館の軍門に下る中、それでも一部の流派が講道館に挑み続けてその急先鋒と云われたのが不遷流出身の田辺であった。得意の寝技を以って講道館四天王の山下義韶や大豪・戸張滝三郎を破るなどし、富田常次郎、横山作次郎、西郷四郎など並居る講道館の重鎮たちが田辺との試合を避けてきた史実から、“講道館が最も恐れた男”として伝説的な存在となっている。
賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938… 賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938年3月21日)は、日本の映画監督、演出家、小説家。本名は賀古 保五郎(かこ やすごろう)。 日本映画界最古参の監督の一人。新派の座付作家を経て創設されたばかりの松竹蒲田撮影所に入社。新派調の悲劇映画を多く撮ったが、その一方で映画研究にも余念がなく、松竹映画の基礎固めに寄与した。門下生に牛原虚彦、池田義信らがいる。妻は女優の中川芳江、義妹に小松みどりがいる。 1869年1月13日(明治元年12月1日)、石川県金沢市に生まれる。ニコライ神学校卒。 若くして島崎藤村、馬場孤蝶らと雑誌『文学界』に参加し、新体詩や小説などを発表する。残夢はその時以来のペンネームである。
西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治… 西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治元年11月26日) - 1935年(昭和10年)12月27日)は、長門厚狭郡厚南村(現・山口県宇部市)出身の建築家。1897年(明治30年)から1917年(大正6年)までは福岡県営繕係や愛知県営繕係に奉職し、1918年(大正7年)に名古屋市初の個人建築事務所を開設して活動した。 父は西原英治郎、母はノエ。1869年1月8日(明治元年11月26日)、長門厚狭郡厚南村大字東須恵(現・山口県宇部市)に西原家の長男として生まれた。厚狭郡須恵小学校(現・宇部市立厚南小学校)を卒業し、吉敷郡山口町の山口黒城塾で学んだ後、大阪商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)に入学した。
寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869… 寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869年1月8日) - 大正12年(1923年)1月8日)は、日本の造船学者。 東京府出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学工科大学を卒業。同大学院で商船構造学を研究。1892年(明治25年)より同助教授となり、1897年(明治30年)より造船学研究のためイギリスに留学した。1899年(明治32年)、帰国とともに教授に就任。1901年(明治34年)、工学博士の学位を得た。1918年から1920年まで工科大学長、次いで工学部長を、その後は航空研究所長を務めた。三菱造船所で建造した、主機に輸入タービンを搭載した義勇艦隊さくら丸、日本における貨客船のクラスにおいて初めて1万トンを超えた客船天洋丸・地洋丸の船体設計・建造に関与した.斯波忠三郎,大森房吉らと行った船体振動(機関回転数と振動数の関係に関わる)実験は世界的にも開拓的な業績と評価されている.1914年には日本鉄鋼協会の創立に発起人として参画し,1915年の創立後は理事/評議員として貢献した.造船共會(現在の日本船舶海洋工学会)理事を務め,1905年から新潟鉄工所の造船業務指導にあたった。
新納 忠之介(にいろ ちゅうのすけ、明治元年11月25日〈1… 新納 忠之介(にいろ ちゅうのすけ、明治元年11月25日〈1869年1月7日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月13日)は、日本の彫刻家。号を古拙。2,631体の仏像等の多くの文化財を修理した。修理前後の写真や書面など詳細な記録を残しており現在の文化財修理の基礎を築いた。 岡倉天心は新納が仏像修復のパイオニアとしての方向性を決定づけた張本人であると言える。生涯にわたって岡倉を師と仰いで恋慕し続けてきた事は、新納に近しい人々の談で知られる所である。そうした運命の鍵となったのが明治34年(1901)から漸次開始された奈良の仏像修理事業である。奈良の修理に先んじて明治30年(1897)、東京美術学校が委託された奥州平泉・中尊寺金色堂の修理事業に新納は参加する。
高野 房太郎(たかの ふさたろう、1869年1月6日(明治元… 高野 房太郎(たかの ふさたろう、1869年1月6日(明治元年11月24日)-1904年3月12日)は明治期日本の労働組合運動の先駆者。長崎県長崎市出身。日本の社会科学者の一人。社会統計学者の高野岩三郎は弟。 長崎銀屋町で生まれる。幼名は久太郎で、父は仕立業を営んでいた。1877年に家族とともに東京に移り、父は現在の千代田区東神田付近の自宅兼店舗で旅館兼廻漕業の「長崎屋」を新たに始める。1879年8月に若くして父が死去し、長男の高野は形式上戸主となった。さらに、1881年2月に火災で「長崎屋」は焼失した。「長崎屋」は近辺に移転する形で営業を再開したが、この年に公立江東小学校の高等小学校(現・墨田区立両国小学校)を卒業した高野は、横浜に住む伯父の汽船問屋兼旅館に住み込みで働き、夜は横浜商法学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)に通学した。
川村 精之(かわむら せいし、1869年1月2日(明治元年1… 川村 精之(かわむら せいし、1869年1月2日(明治元年11月20日) - 1927年(昭和2年)5月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岩手県出身。1887年、岩手県尋常師範学校卒。小学校訓導、同校長、稗貫郡亀ヶ森村(のち大迫町→花巻市)長、稗貫郡会議員、岩手県会議員、稗貫郡産馬畜産組合長となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から憲政会公認で立候補して当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では岩手5区から立候補したが落選した。1927年死去。
樺山 資英(かばやま すけひで、明治元年11月19日(186… 樺山 資英(かばやま すけひで、明治元年11月19日(1869年1月1日) - 昭和16年(1941年)3月19日)は、日本の官僚、政治家。貴族院議員。 明治元年(1868年)薩摩国、後の鹿児島市西田町生まれ。樺山資雄の次男として生まれる。明治15年(1882年)4月に旧制東京府中学校(府立一中、現東京都立日比谷高等学校)へ入学し、明治17年(1884年)4月に旧制栃木県第一中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)へ転校、明治19年(1886年)7月に栃木県中学校(栃木県第一中学校から改称)高等中学科卒業。
水田 南陽(みずた なんよう、1869年1月(明治2年) -… 水田 南陽(みずた なんよう、1869年1月(明治2年) - 1958年1月3日(昭和33年))は、日本の翻訳家、小説家、編集者、新聞記者、実業家。日本へシャーロック・ホームズを紹介した先駆者。別名は、南陽 外史(なんよう がいし)。本名は、水田 栄雄(みずた ひでお)。 1869年1月、淡路国薦江(兵庫県)生まれ。大阪・川口の英和学舎(立教大学の前身の一つ)を経て、1890年、立教大学卒業。 ミッション・スクール(現立教大学)在学中の1889年、東京能弁学会に加入し、機関誌『能弁』にシェイクスピア劇の翻訳を掲載。東京能弁学会の幹事である大岡育造に認められ、『能弁』の編集に参加した。 1890年頃、大岡育造が経営していた中央新聞に入社し、同紙にエミール・ガボリオの『オルシヴァルの犯罪』を『大探偵』と題して訳出したのを始め、『夢中の玉』『珊瑚の徽章』などを次々発表した。
加藤 幹雄(かとう みきお、明治2年(1869年) - 大正… 加藤 幹雄(かとう みきお、明治2年(1869年) - 大正5年(1916年))は、日本の弁護士。 明治2年、庄内藩に生まれる。旧制山形中学校、共立中学校、司法省正則法学校、第一高等中学校を経て、帝国大学法科大学に入学し、首席で卒業後、同大学院で国際法を研究し、弁護士となる。仙台で活躍した後、山形に戻り、鶴岡で生涯を送った。
中谷 巳次郎(なかや みじろう、1869年(明治2年) - … 中谷 巳次郎(なかや みじろう、1869年(明治2年) - 1936年(昭和11年))は、大分県由布市の由布院温泉で油屋熊八とともに旅館亀の井別荘を開いた実業家。 加賀国片山津(現在の石川県加賀市)出身。実家は裕福な十村庄屋加賀・中谷家の分家筋であったが、巳次郎は資産を蕩尽した挙げ句、別府市に流れ着く。実家の骨董品を並べて不老町で骨董屋を開き、そこで、亀の井旅館(のちの亀の井ホテル)の経営者で別府温泉の観光開発に尽力した油屋熊八に出会い、意気投合し、その片腕となる。1921年(大正10年)、熊八が大阪の資産家に話を持ち掛けて買わせた由布院温泉の金鱗湖畔の土地に、賓客をもてなすための草庵が建てられ、巳次郎はそれを託される。
湯浅 勘兵衛(ゆあさ かんべえ、1869年(明治2年) - … 湯浅 勘兵衛(ゆあさ かんべえ、1869年(明治2年) - 1917年(大正6年))は、日本の農民・慈善家。奨学資金を寄付した。 福井県大飯郡高浜町宮崎出身。父祖の農業に没頭し、斯業の改善と公共の利益に多大の貢献があった。1899年、卒先して耕地整理の実行につとめ、労費を悋まず、遂に10数町歩を完了した。奨学資金5000円を義捐した。高浜町に尽くした事は枚挙にいとまがない。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
安藤 國重(あんどう くにしげ、新字体:安藤国重、明治2年〈… 安藤 國重(あんどう くにしげ、新字体:安藤国重、明治2年〈1869年〉 - 昭和14年〈1939年〉)は、日本の神職。安積国造神社第61代宮司(社司)。 明治2年(1869年)生まれ。福島県尋常中学校(のち福島県立安積高等学校)の2期生。2期下でのち歴史学者となる朝河貫一と親交を深めた。国学者久米幹文に皇学を、渡辺重石丸に和漢学を、林甕臣に国語学を学んだ。 1889年(明治22年)、家業たる安積国造神社の祠官となる。1895年(明治28年)、開成山大神宮社司を兼補。 1912年(明治45年 / 大正元年)、福島県神職養成所を設立し所長に就任。 1923年(大正12年)3月17日、内閣より奏任官待遇を受ける。
林 和太郎(はやし わたろう、1869年(明治2年) - 1… 林 和太郎(はやし わたろう、1869年(明治2年) - 1918年(大正7年)3月10日)は、明治期の鉄道官吏(帝国鉄道庁参事)。 筑前国(現・福岡県福岡市)生まれ。福岡中学を経て、1892年(明治25年)慶應義塾大学部理財科を卒業し、福岡新報の前身である福陵新報に入社。小幡篤次郎のすすめで山陽鉄道に入り、鉄道国有化に伴い帝国鉄道庁(のち鉄道院)に移った。1907年(明治40年)、同庁参事(高等官六等)に叙任され、運輸部運転課勤務。1909年(明治42年)1月、鉄道院を依願退官し、玉川電気鉄道の取締役に転じた。
占部 百太郎(うらべ ひゃくたろう、1869年〈明治2年〉 … 占部 百太郎(うらべ ひゃくたろう、1869年〈明治2年〉 - 1945年〈昭和20年〉3月5日)は、日本の西洋史学者。 福岡県遠賀郡岡垣村出身。1894年慶應義塾大学部文学科卒。 時事新報、日本新聞などの記者をへて、1899年大学部教務掛。 1911年に大学部文学科教員となった。図書館監督も務め、1923年に理事、1926年に高等部主任となり、1940年に退職した。
尾田 信忠(おだ のぶただ、1869年〈明治2年〉 - 19… 尾田 信忠(おだ のぶただ、1869年〈明治2年〉 - 1957年〈昭和32年〉4月28日)は、日本の教育者。錦鶏間祗候。 新潟県に上田義信の長男として生まれ、尾田信通の養子となった。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。陸軍教授となり、東京陸軍地方幼年学校教頭、教育総監部出仕を経て、陸軍士官学校教頭を務めた。 1935年(昭和10年)4月8日に退官し、翌年に錦鶏間祗候となった。 1957年(昭和32年)4月、脳溢血で死去した。
吉村 平造(よしむら へいぞう、1869年(明治2年) - … 吉村 平造(よしむら へいぞう、1869年(明治2年) - 1935年(昭和10年)7月23日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。号は胆南。 近江国坂田郡柏原村(現在の滋賀県米原市)出身。生家は中山道で代々脇本陣を営んでいた。明治法律学校(明治大学)卒業。大阪朝日新聞社の政治記者として、義和団事件や日露戦争の際に従軍記者として活躍した。保険会社重役などを経て、大阪市助役(1906年5月 - 1909年9月)、第11代広島市長(1915年1月22日 - 1916年12月25日)などを務めた。 市長退任後、久原本店勤務を経て、北日本鉱業専務を務めた。 息子に、フランス文学者の吉村正一郎や映画監督の吉村公三郎などがいる。
高橋 直武(たかはし なおたけ、1869年4-5月(明治2年… 高橋 直武(たかはし なおたけ、1869年4-5月(明治2年3月) - 1929年(昭和4年)6月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階および勲等、軍功は従四位・勲三等・功四級。 新潟県頚城郡高田町(現在の上越市)出身。1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。 1916年(大正5年)11月に陸軍歩兵大佐・中津連隊区司令官を経て、1917年(大正6年)8月に歩兵第14連隊長(第12師団、歩兵第12旅団)に任官し、シベリア出兵に従軍。ハバロフスクおよびブラゴベシチェンスクを占領した。ついで1921年(大正10年)6月に陸軍少将に進級と同時に待命、同年10月に予備役に編入した。
19代 木村庄之助(じゅうきゅうだい きむら しょうのすけ、… 19代 木村庄之助(じゅうきゅうだい きむら しょうのすけ、明治2年〈1869年〉 - 1932年〈昭和7年〉5月30日 )は、大相撲の立行司の一人。木村庄之助としての在位期間は1926年1月 - 1932年5月。所属は若藤部屋 - 友綱部屋 - 入間川部屋 - 出羽ノ海部屋。 東京府本所(現・東京都墨田区両国)出身。本名は鬼頭多喜太。骨董商の家に生まれたが、9代式守伊之助の弟子となり、1881年若藤部屋に入門し行司となる。1885年1月場所、式守多喜太の行司名で番付についた。 名行司として知られ、立行司昇格まで長く5代式守与太夫の名を名乗り、3代式守勘太夫、3代式守錦太夫とともに「名行司三太夫」と呼ばれていた。
佐藤 三吉(さとう さんきち、1857年12月30日(安政4… 佐藤 三吉(さとう さんきち、1857年12月30日(安政4年11月15日) - 1943年(昭和18年)6月17日)は明治〜昭和期の外科医、医学博士、貴族院議員。美濃国大垣藩(現岐阜県大垣市)出身。 東京帝国大学教授、東京帝国大学医科大付属医院長、東京帝国大学医科大学長として、同じ岐阜県出身の青山胤通とともに、日本近代医学の創生期に活躍した。 佐藤三吉は1857年(安政4年)に大垣藩士佐藤只五郎の三男として生まれた。1870年(明治3年)父が死去し、義兄安藤就高の援助を受け上京し勉学の場を与えられた。 妻の滋子(1871年生)は小崎利準の長女。 実弟に東京興信所所長の佐藤正美、興業主の米山米吉がいる。
岩崎 行親(いわさき ゆきちか、安政4年11月13日(185… 岩崎 行親(いわさき ゆきちか、安政4年11月13日(1857年12月28日) - 昭和3年(1928年)4月24日)は、日本の教育者。号は岳東。 讃岐国(現在の香川県)丸亀出身。1881年(明治14年)、札幌農学校を第2期生として、新渡戸稲造、宮部金吾、内村鑑三、広井勇、南鷹次郎らとともに卒業した。農学士の称号を得て、開拓使御用掛、札幌県属、大阪府属を歴任。1894年(明治27年)より鹿児島県で教職につき、1901年(明治34年)に鹿児島県立鹿児島中学校校長から第七高等学校造士館校長に転じた。1912年(大正元年)に退官。 1918年(大正7年)から1924年(大正13年)まで福山中学校校長を務めた。
奥宮 健之(おくのみや けんし、1857年(安政4年)12月… 奥宮 健之(おくのみや けんし、1857年(安政4年)12月27日(旧暦11月12日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、日本の社会運動家。 自由民権運動で活躍し、幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人だった。 1857年(安政4年)12月27日(旧暦11月12日)に土佐国土佐郡布師田村(現:高知県高知市布師田)で生まれる。父親の奥宮慥斎(1811 - 1877)は土佐藩のなかでも一流の陽明学者で、山内容堂の侍講だった。健之は11~12歳で東京へ向かい、三菱へ入社したが自由党が結党されると間もなく退職して入党した。党内では馬場辰猪と共に「土佐の二俊秀」と称された。 1882年(明治15年)に嚶鳴会と対決するものとして、馬場・大石正巳・西村玄道らと「国友会」を結成した。
内田 周平(うちだ しゅうへい、1857年12月26日〈安政… 内田 周平(うちだ しゅうへい、1857年12月26日〈安政4年11月7日〉 - 1944年〈昭和19年〉12月23日)は、日本の漢学者・哲学者。朱子学崎門派の末裔、中国哲学研究の開拓者、西洋哲学の紹介者、国体論者。哲学館・慶應義塾・大東文化学院など東京の大学や、熊本の第五高等学校で講義した。 字は仲準。号は遠湖(内田遠湖)・遠湖釣者・帆影子。堂号は谷門精舍。 1857年(安政4年)、遠江国浜松にて、漢学者兼蘭法医の父のもとに生まれる。生年を1854年(安政元年)とする文献もあるが誤りとされる。 1875年(明治8年)、上京し本郷壬申義塾でドイツ語を学ぶ。1876年外国語学校入学。1877年東京大学医学部予科入学、1881年本科進学。
児嶋 幸吉(こじま こうきち、安政4年11月1日(1857年… 児嶋 幸吉(こじま こうきち、安政4年11月1日(1857年12月16日) - 昭和4年(1929年)12月1日)は日本の実業家。鳥取ガス株式会社の創業者。昭和44年(1969年)9月24日、鳥取市名誉市民に選ばれた。 商家に育ったからさしたる教育は受けていなかったが、心が至って敏く、物事に綿密で早くからなかなか商才に富んでいた。 明治9年(1876年)19歳で酒造業を開設、明治21年(1888年)因幡酒造組合を設立し、組合長として業界の指導に当たり、明治23年(1890年)市会議員に当選して4期11年間市政に参画し、都市計画、発電計画案を作るなど市政の発展と経済の振興に尽力された。明治25年(1892年)鳥取汽船会社を設立して阪神地方へ農産物の移出を行う。
白石 直治(しらいし なおじ、安政4年10月29日(1857… 白石 直治(しらいし なおじ、安政4年10月29日(1857年12月15日) - 1919年(大正8年)2月17日)は、明治から大正時代の土木技術者、土木工学者、東京帝国大学教授、衆議院議員、実業家。旧姓は久家。 土佐藩儒で漢学者の久家種平(忘斎)、峰の長男として土佐国長岡郡十市村(現・高知県南国市十市)に生まれ、1874年(明治7年)白石栄の養嗣子となる。13歳の時、土佐藩校・致道館に学ぶ。母の弟・中島信行の影響により勤王論に刺激され、長州に走ったこともあったが、維新後上京し後藤象二郎家に寄寓する。 1881年(明治14年)東京帝国大学工科大学土木学科卒業。農商務省を経て、東京府勤務となる。1882年(明治15年)竹内綱の二女・菊と結婚。
宮内 治三郎(みやうち じさぶろう、1857年12月12日(… 宮内 治三郎(みやうち じさぶろう、1857年12月12日(安政4年10月26日)- 1906年(明治39年)2月13日)は、明治期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員。 伊予国伊予郡郡中灘町(愛知県伊予郡郡中灘町、郡中町を経て現伊予市灘町)で、酒造家の家に生まれた。酒造業を営む。 1886年(明治19年)町の有志と郡中銀行を設立し、のち頭取を務めた。1889年(明治22年)1月、愛媛県会議員に選出され、同副議長を務め、1894年(明治27年)4月まで在任した。 1894年9月、第4回衆議院議員総選挙(愛媛県第1区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。 実業界では、1894年1月に南予鉄道会社の設立に参画して社長に就任し、1896年(明治29年)7月、郡中-藤原間が開業。
十一代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、安政4年10… 十一代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、安政4年10月18日(1857年12月4日) - 昭和9年(1934年)10月16日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した歌舞伎役者。主に立役。屋号は松嶋屋。定紋は七ツ割丸に二引。俳名に我當、萬麿。本名は片岡 秀太郎(かたおか ひでたろう) 養子に十三代目片岡仁左衛門。 安政4年(1857年)、八代目片岡仁左衛門の四男として江戸猿若町に生まれる。文久元年(1861年)、本名の片岡秀太郎で初舞台。翌年父と兄・三代目片岡我童とともに大坂へ移るが、翌文久3年(1863年)父が死去。後ろ盾を失いながらも子供芝居で修業を続ける。 明治5年(1872年)ごろから大阪竹田の芝居などに出演、その才能が認められはじめる。
陸 羯南(くが かつなん、安政4年丁巳10月14日(1857… 陸 羯南(くが かつなん、安政4年丁巳10月14日(1857年11月30日) - 明治40年(1907年)9月2日)は、日本の国民主義の政治評論家。日本新聞社長。正岡子規を育て、池辺三山、徳富蘇峰とともに明治の三大記者と称された。幼名は巳之太郎、のち実、号は羯南。 弘前藩の御茶坊主頭・中田謙斎と妻・なほ(旧姓、種市)の子として、陸奥国弘前(現・弘前市)在府町に生まれた。長男・次男 の両説がある。謙斎は微禄であった。 明治4年(1871年)頃から、藩校の教官・工藤他山の私塾・思斉堂に学び、明治6年(1873年)、旧藩校の後身・東奥義塾へ進み、明治7年(1874年)に宮城師範学校に転じたが、明治9年(1876年)に校長・松林義規(旧大村藩士)に逆らい退校処分を受けた。