青嶋 次郎(あおしま じろう、1897年(明治30年) - … 青嶋 次郎(あおしま じろう、1897年(明治30年) - 1949年(昭和24年))は、日本の飛行家・実業家。青島文化教材社の創業者。 静岡県静岡市葵区両替町生まれ。 静岡尋常高等小学校(現・静岡市立葵小学校)卒業後、近くの建具店に奉公に出るが、1915年(大正4年)に家出同然で上京。 その後、伊藤音次郎を頼り、1917年に(大正6年)に工員として伊藤飛行機研究所に入る。1919年(大正8 年)には飛行機の操縦訓練を受けるようになり、1921年(大正10年)に、勤め先で知り合った女性と結婚。1923年(大正12年)に三等飛行機操縦士免状を交付され、退社。 翌1924年(大正13年)、安東練兵場の隣地に青島文化教材社の前身となる青島飛行機研究所を設立し、資金を集めてニューポール83型機「静岡号」で郷土訪問飛行を果たした。
上杉修(うえすぎ おさむ、1897年(明治30年) - 19… 上杉修(うえすぎ おさむ、1897年(明治30年) - 1979年(昭和54年))は、八戸市の郷土史家。 八戸町上組町生まれ。1922年(大正11年)から1932年(昭和7年)まで小中野町にタクシー会社を経営し、1933年(昭和8年)に番町に公衆浴場を営む。 郷土史家としても八戸藩日記など数多くの郷土資料を収集した。 1946年(昭和21年)に、八戸南部家の子孫から八戸藩日記などの資料を購入し、野田健次郎と八戸藩の研究に取り組んだ。その結果、1950年(昭和25年)に安藤昌益の家族構成などが判明した。 1967年(昭和42年)に、自宅が火災に見舞われたため、自身が所有していた八戸藩の資料が一部焼失した。
朝井観波(あさい かんぱ、1897年‐1985年)は、日本画… 朝井観波(あさい かんぱ、1897年‐1985年)は、日本画家。東京都本郷出身。 1897年、漢学者朝井国南の家に生まれる。はじめ川端玉章の川端画学校で、のち日本美術院研究所に学ぶ。1917年(大正6年)の再興第4回院展への最初の出品作が入選し、同作品が美術院の大物後継者、原三渓の目をひく。三渓の援助により、荒井寛方のインド旅行に観波も随行できることとなり、帰国後、インドでの研究成果を活かした制作に専念する。1918年(大正7年)と1920年(大正9年)の院展で入選した出品作はともにインドの伝統的絵画から着想を得て描いたものであった。1922年(大正11年)日本美術院を脱退。その後は荒木十畝に師事し読書会に所属、以後は平福百穂の画風に接近した作風で、帝展の入選を重ねる。
横田 嘉右衛門(よこた かえもん、1897年(明治30年) … 横田 嘉右衛門(よこた かえもん、1897年(明治30年) - 1981年(昭和56年)9月24日)は、日本の薬学者。製薬学(有機製造化学)を専門とした富山薬学専門学校校長、富山大学学長を歴任。学位は、薬学博士(東京帝国大学)、日本薬学会名誉会員。 福島県出身で、生家は薬屋、造り酒屋を営んでいた。会津中学、四高第二部薬学科を経て、1923年(大正12年)に東京帝国大学医学部薬学科を卒業。同年1年志願兵として入営(陸軍三等薬剤官)。1925年(大正14年)、東大医学部助手に任ぜられる。 慶松勝左衛門教授(薬品製造学教室)の助手として勤務し、慶松との共同論文を発表した。横田は制癌剤合成研究の先駆者の一人である。
文 時煥(ムン・シファン、朝鮮語: 문시환、1897年または… 文 時煥(ムン・シファン、朝鮮語: 문시환、1897年または1899年 - 1973年11月11日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、官僚、政治家。東萊郡郡守、制憲韓国国会議員、慶尚南道知事。本貫は南平文氏(朝鮮語版)。 釜山蓮山洞(現・釜山広域市蓮堤区蓮山洞)または福泉洞出身。私立東萊東明学校、東京正則英語学校、モスクワ東方共産大学卒。満洲の安東で中国人貿易商会の書記を務めながら、秘密政治結社の花郎徒に参加した後、1920年に朝鮮共産党に入党した。1922年10月、ベルフネウジンスクで開催された高麗共産党連合大会に出席し、党中央委員会第3書記部(国内)委員となった。
稲塚 権次郎(いなづか ごんじろう、旧字:稻塚 權次郎、18… 稲塚 権次郎(いなづか ごんじろう、旧字:稻塚 權次郎、1897年(明治30年) - 1988年(昭和63年)12月7日)は、日本の農学者。 緑の革命以降、世界に流通することになった小麦品種「ゲインズ」の親品種である「小麦農林10号」(ノーリン・テン)の育成者として知られる。 2015年に稲塚権次郎の生涯を描く映画『NORIN TEN〜稲塚権次郎物語〜』(稲塚秀孝監督)が公開された。
高橋 貞一郎(たかはし ていいちろう、1897年〈明治30年… 高橋 貞一郎(たかはし ていいちろう、1897年〈明治30年〉 - 1955年〈昭和30年〉9月18日)は、長野県岡谷市出身の洋画家。諏訪地域の美術界の草創期を支え、美術教育にも力を注いだ人物である。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校。教師に西岡瑞穂がいた)を経て、長野師範学校(現・信州大学教育学部)を卒業。 1922年、岸田劉生に師事し、「夏牛」の雅号が贈られた。教員をしながら油絵を制作。母校である諏訪中学校で絵画部顧問を勤め、同部の教え子に矢崎博信がいる。 1937年、フランスへ留学しポール・セザンヌを研究。一水会会員、日展委嘱作家となった。
久野 源蔵(くの げんぞう、1897年(明治30年) - 1… 久野 源蔵(くの げんぞう、1897年(明治30年) - 1965年(昭和40年)4月16日)は、日本の政治家。愛知県三好村長、三好町長などを歴任。 愛知用水を引く運動に加わり、三好池の造成に尽力した。銅像がみよし市役所前に設置されている。 愛知県西加茂郡三好村(現・みよし市)に庄屋の子として生まれる。1917年3月、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。 1931年、三好村長(第11代)に就任。以後1945年まで就任。1952年、愛知用水土地改良区の理事に就任。1956年、三好村長(第16代)に就任。 1958年4月1日の三好村の町制施行により初代町長に就任。1960年、町長選挙で再選。
小那覇 舞天(おなは ぶーてん、1897年 - 1969年1… 小那覇 舞天(おなは ぶーてん、1897年 - 1969年1月25日)は沖縄県出身の演劇人、歯科医師である。本名・小那覇全孝。 国頭郡今帰仁間切(現在の今帰仁村)生まれ。旧制沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)から旧制日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を経て嘉手納で歯科医院を開業するかたわら、沖縄の伝統芸能の保存、普及に努め、また大衆演劇人として弟子の照屋林助とともに、占領下の焦土と化した沖縄で大きな人気を博し、沖縄のチャップリンと呼ばれた。
常葉 隆興(ときわ たかおき、1897年 - 1977年9月… 常葉 隆興(ときわ たかおき、1897年 - 1977年9月20日)は、日本の牧師、神学者。日本キリスト改革派教会の創立者の一人。 山形県の新庄藩の士族の常葉作太郎とその妻常葉ノブの長男として生れる。父は上山小学校校長であった。1915年(大正4年)沖縄県立第一中学校を卒業。東京高等工業学校(現東京工業大学)に入学。 1918年(大正7年)に父が死去。叔父の常葉金太郎によってキリスト教信仰に導かれ、同年1918年、日本基督教会の指導者植村正久牧師より富士見町教会にて洗礼を受ける。 1920年(大正9年)、植村正久の創立した東京神学社に入学、1923年(大正12年)に卒業。同級生に熊野義孝。小野村林蔵牧師の司式で結婚する。
西 義雄(にし よしお、1897年 - 1993年3月29日… 西 義雄(にし よしお、1897年 - 1993年3月29日)は、臨済宗の僧、仏教学者。
金 載学(キム・ジェハク、朝鮮語: 김재학/金載學、1897… 金 載学(キム・ジェハク、朝鮮語: 김재학/金載學、1897年 - 1984年11月21日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家。 号は白坡(ペクパ、백파)。 慶尚南道統営郡(現・統営市)出身。1912年に大阪工業専修学校(現・大阪大学)卒。茂朱郡茂豊鉱山を経営したほか、土木、建築業界で経営者として、また朝鮮土建協会(現・大韓建設協会)理事、朝鮮人土建共済組合長を務め、代表者としても活動した。そのほかに東亜日報統営支局長(1917年)、京畿道貨物自動車輸送協会理事長、ソウル市城東区中央市場協会理事長などを務めた。1948年の初代総選挙では韓国民主党所属で統営甲選挙区から出馬して当選、国会議員在任中は交通分科委員を務めた。
岩田 正俊(いわた まさとし、1897年(明治30年) - … 岩田 正俊(いわた まさとし、1897年(明治30年) - 1997年8月12日)は、日本の昆虫学者、寄生虫学者。近畿学校保健学会会長。 島根県荒島町(現:安来市)に生まれた。1923年に京都帝国大学理学部動物学科に入学、川村多実二に師事し、当時日本で全く研究が進んでいなかったトビケラの幼虫について研究を行った。鴨川や三井寺山内の細流などを調査のフィールドとし、1927年から1930年にかけて動物学雑誌に「日本産毛翅目研究 第1-5報」とした論文を発表、多くの新属新種を和名付きで記載した。また1927年には同大を卒業し、京都帝国大学附属の大津臨湖実験所に移って研究を続けた。 1930年に同研究所を離れて大阪医科大学(現:大阪大学医学部)に移り、吉田貞雄に師事して寄生虫の研究に従事した。
稲垣 仲静(いながき ちゅうせい、本名:稲垣 廣太郎(いなが… 稲垣 仲静(いながき ちゅうせい、本名:稲垣 廣太郎(いながき ひろたろう)、1897年(明治30年) - 1922年(大正11年)6月25日)は、大正時代の日本画家。京都市出身、 日本画家で工芸図案家の稲垣竹埠の長男に生まれ、克明な自然描写の中に官能性や凄みを表現する画家として、将来を期待されながらも早逝した。 弟は型絵染の人間国宝に認定された染織家の稲垣稔次郎。 1912年(明治45年)に京都市立美術工芸学校(美工)に入学し、京都派の基礎とも言える写生技術を身につけた。1917年(大正6年)京都市立絵画専門学校(絵専)に進学し、翌1918年(大正7年)に美工出身者の研究団体「密栗会」に参加した。
伊藤 久秋(いとう ひさあき、1897年 - 1980年10… 伊藤 久秋(いとう ひさあき、1897年 - 1980年10月27日)は、日本の経済学者。青山学院大学経済学部名誉教授。立地論が専門。 長崎県出身。長崎高等商業学校卒、1944年「地域の経済理論」で京都帝国大学より経済学博士の学位を取得。長崎高等商業学校教授、1926年までドイツ・フライブルクに学び、のち青山学院大学経済学部教授。1968年定年、名誉教授、大東文化大学教授。
春日 俊吉(かすが しゅんきち、1897年 - 1975年7… 春日 俊吉(かすが しゅんきち、1897年 - 1975年7月7日)は、大正・昭和期の登山家・ノンフィクション作家。本名は伊藤照雄。 現在の千葉県山武市(旧松尾町)出身。1920年に早稲田大学英文科卒業後に読売新聞社に入り、新聞記者をする傍ら、登山家・作家活動を行う。 学生時代に木曽駒ヶ岳大量遭難事故を知って山岳遭難事故に関心を抱くようになり、遭難事故に関する多くの著作を著した。『中央公論』及び『山と渓谷』両誌に掲載されたものを纏めた『日本山岳遭難史』(三省堂、1933年)は、日本の山岳遭難記の先鞭と言える。しかし、参考文献の欠如や感傷的で興味本意の文章が多いとする批判もある。 主な著作に『日本山岳遭難史』、『登山遭難の実相と対策』、『山岳遭難記』(全6巻)、『山と雪の墓標 松本深志高校生徒落雷遭難の記録』、『山の遭難譜』などがある。
具 中会(ク・ジュンフェ、朝鮮語: 구중회/具中會、1897… 具 中会(ク・ジュンフェ、朝鮮語: 구중회/具中會、1897年または1898年4月21日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の教育者、独立運動家、大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の政治家。号は蓮波(ヨンパ、연파)。天道教徒。 同じく独立運動家の具南会は弟。 慶尚南道昌寧郡霊山面出身。霊山公立普通学校(現・霊山初等学校)、普成中学校卒。己未独立運動での投獄を経て、しばらく周時経の下で韓国語文を学んだ後、早稲田大学高等師範学校英文科(現・早稲田大学教育学部)に留学し1926年に卒業した。大卒後は密陽郡北面私立精進学校設立校長、馬山中学校校長、木浦女子高等学校校長を歴任し、天道教の宣教活動にも従事した。
清水 清(しみず きよし、明治30年(1897年)- 昭和7… 清水 清(しみず きよし、明治30年(1897年)- 昭和7年(1932年)1月27日)は、日本の陸軍軍人。満州事変のハルビン占領前に陸軍砲兵大尉で戦死、特進して少佐。 山口県長府町大字門峠の出身。1921年(大正10年)7月27日、陸軍士官学校33期卒業。1931年8月、砲兵大尉となる。 小倉野戦重砲兵隊所属であった1932年1月27日、ハルビン飛行場を偵察中、搭乗した八八式偵察機570号が反吉林軍からの対空砲火により被弾し、ハルビン郊外に不時着した。操縦士の福井中尉が陸軍特務機関に報告と来援を請いに向かった間、反吉林軍騎兵に包囲され、射殺された。
両角 守一(もろずみ しゅいち、1897年 - 1936年2… 両角 守一(もろずみ しゅいち、1897年 - 1936年2月4日)は、日本の銀行家、考古学者。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。父は教育者の両角新治。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を卒業した。長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)にあった小口(おぐち)銀行(現・八十二銀行)に勤務。旧制諏訪中学の同級生に彫刻家清水多嘉示がおり、生涯にわたって親交があった。1923年清水が絵画修行のために渡仏した際には、両角と立木茂が中心となり「渡欧後援画会」を組織し、フランス滞在時の清水の芸術を支えた。また、渡仏滞在費用は清水の父親と渡欧後援画会で支えた。その後、清水を通じて彫刻家アントワーヌ・ブールデルと交流があった。
黒田 泰治(くろだ やすじ、1897年(明治30年) - 1… 黒田 泰治(くろだ やすじ、1897年(明治30年) - 1976年(昭和51年)12月10日)は、日本の武術家。号は鉄心斎。身長165cm。黒田家に代々伝わってきた武術である民弥流居合術、駒川改心流剣術、四心多久間流柔術、椿木小天狗流棒術、誠玉小栗流殺活術を引き継ぐ振武館の道場主。父は黒田正郡。振武館の技は泰治の子の黒田繁樹、そして孫の黒田鉄山へと継承された。古武術の高度な理合を昭和の時代に体現することのできた達人であったと評される。 ※以上は孫の黒田鉄山が祖父から伝え聞いた話として著書等で語ったものである。
十三ノ浦 金四郎(とさのうら きんしろう、1885年12月2… 十三ノ浦 金四郎(とさのうら きんしろう、1885年12月27日 - 1914年10月9日)は、青森県北津軽郡中里町出身で二十山部屋に所属した力士。本名は岩田 金四郎。170cm、120kg。最高位は西前頭9枚目。 東奥義塾を卒業し、二十山部屋に入門。非常に文章・文筆巧みであったという。当時としては体格が良く、「アンコウ」の異名をとり、左四つからの寄りには威力があった。1903年5月初土俵、1909年6月十両昇進。新橋倶楽部事件では力士側の書記役を務めた。1911年2月に入幕し、前頭9枚目まで昇進。しかし病の為に不振に陥り幕下まで転落。1914年1月に廃業したが、年内に没した。
山田真山(やまだ しんざん、1885年(明治18年)12月2… 山田真山(やまだ しんざん、1885年(明治18年)12月27日 - 1977年(昭和52年)1月29日)は、明治から昭和にかけての彫刻家、画家。本名は渡嘉敷 兼慎(とかしき けんしん)。 沖縄県那覇市壺屋にて、士族で漢学者の渡嘉敷兼礼の五男として生まれるが、幼少時に父が病没したため貧困の少年時代を過ごす。手先の器用さが認められ、大工の修行をする。やがて上京、20歳で東京美術学校へ進んで木彫科・彫塑科を専攻、山田泰雲に師事し、その養子となる。また、高村光雲の教えを受ける。1906年に清国の北京芸徒学堂教授となるが翌1907年に帰国して東京美術学校に戻り、小堀鞆音に日本画を学ぶ。1914年、文展入選。
一ノ瀬 俊民(いちのせ としたみ、1885年(明治18年)1… 一ノ瀬 俊民(いちのせ としたみ、1885年(明治18年)12月27日 - 1958年(昭和33年)6月16日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県杵島郡武雄町長。 佐賀県杵島郡、のちの武雄町(現武雄市)で、一ノ瀬傳三郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)長崎高等商業学校(現長崎大学)を卒業。1920年(大正9年)家督を相続し農業を営む。 政界では、武雄町長、佐賀県会議員を務めた。1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙に佐賀県第2区から立憲政友会公認で出馬して当選し、翼賛議員同盟に所属して衆議院議員に1期在任した。 戦後、公職追放となる。1951年(昭和26年)追放解除。
岡本 利吉(おかもと りきち、1885年(明治18年)12月… 岡本 利吉(おかもと りきち、1885年(明治18年)12月25日 - 1963年(昭和38年)10月14日)は、日本の社会運動家、思想家でもあり、人工言語ボアーボム(Babm)の発明者としても知られる。思想家としては、岡本普意識(おかもと ふいしき)と名乗っていた。 高知市に生まれる。東京郵便電信学校を卒業したのち、逓信省・三菱倉庫に勤務した。その後、1919年(大正8年)に企業立憲協会を組織した。翌1920年(大正9年)には東京亀戸に消費者組合亀戸協働社を開設、関東消費組合に発展させた。1928年(昭和3年)富士山麓愛鷹山中腹に農村青年共働学校を開設して、開墾や自給自足の農本自治を理念とした、農村中堅青年の育成をめざした。
入沢 宗寿(いりさわ むねとし、旧字体では入澤宗壽、1885… 入沢 宗寿(いりさわ むねとし、旧字体では入澤宗壽、1885年12月23日 - 1945年5月13日)は、日本の教育学者。鳥取県日野郡宮内村(現日南町)生まれ。1911年東京帝国大学哲学科卒業後、神宮皇学館教授を経て、1932年東京帝国大学教授に就任。大正新教育運動の旗手の一人。専門は欧米教育思想史。新学校あるいは体験学校と名付けた実践的研究を行った。また、新教育協会を設立した。 1929年、東京大学文学博士。論文の題は「汎愛派教育思想の研究」。 1945年5月13日、東京帝大小石川分院で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
林 道倫(はやし みちとも、1885年(明治18年)12月2… 林 道倫(はやし みちとも、1885年(明治18年)12月21日 - 1973年(昭和48年)3月28日)は、日本の精神医学者、教育者。新制岡山大学の初代学長を務めた。名前は「どうりん」と音読みされることもある。 宮城県仙台市出身。仙台第一中学校、第二高等学校を経て、1910年12月東京帝国大学医学部卒業。帝大在学中は日本の精神病研究の先駆者である呉秀三の薫陶を受け、歌人の斎藤茂吉は同級生であった。1921年からドイツに3年間留学する。 帰国から間も無い1924年7月、岡山医科大学(現岡山大学医学部)精神科教授に就き、生涯にわたり岡山を活動拠点とする。しかし、就任早々林を待ち受けていたのが、日本脳炎の流行であった。
青塚 恒治(あおづか こうじ、1885年(明治18年)12月… 青塚 恒治(あおづか こうじ、1885年(明治18年)12月21日 - 1958年(昭和33年)7月15日)は、大正から昭和時代前期の政治家。山形県酒田市長。 地主青塚岩治の二男として山形県飽海郡酒田本町に生まれる。生家は代々金物屋を営んだ。荘内中学校を経て第一高等学校に進み、俳句や漢詩を嗜んだ。1917年(大正6年)酒田町会議員に当選し、1920年(大正9年)消防組頭を経て、1926年(大正15年)酒田町助役に就任した。1931年(昭和6年)山形県会議員に当選し、酒田市会議員、同議長を経て、1945年(昭和20年)10月、酒田市長に就任したが、間もなく公職追放となった。 のち初代監査委員に就任した。
大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - … 大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - 1968年6月4日)は、日本の政治家、逓信官僚、俳人。岡田内閣の法制局長官、林内閣の内閣書記官長、社団法人日本放送協会第4代会長、日本電信電話公社第2代総裁。現在の富山県高岡市出身。 日本放送協会会長時、終戦時の玉音放送に携わった。戦後の通信事業近代化に貢献。おじは漢詩人の大橋十右衛門。 富山縣高岡中學校、石川縣尋常中學校を経て、1906年(明治39年)7月に第四高等學校を卒業。 1910年(明治43年)7月に東京帝国大学法科大学を卒業した後、逓信省に入省。同年11月、高等文官試験に合格する。1925年(大正14年)10月に郵務局長、1928年(昭和3年)7月に経理局長となる。
小圃 千浦(おばた ちうら、1885年(明治18年)12月1… 小圃 千浦(おばた ちうら、1885年(明治18年)12月18日 - 1975年(昭和50年)10月6日)は、日本出身のアメリカ合衆国の画家、版画家。アメリカの大自然を日本画の技法で描き、新しい美の世界を切り開いた。また、米国で日本人初の野球チームを共同設立した。戦争中、日系人収容所のトパーズ戦争移住センターに収容されたことでも知られる。 岡山県後月郡井原村(現・井原市)に8人兄弟の末子として生まれる。本名、佐藤蔵六。5歳で仙台に住む洋画家・美術教師の兄六一(伊達藩家老だった小圃家に婿入りしていた)の養子となる。7歳から日本画を学んだ。14歳のときに東京に出て、「大政奉還図」で有名な邨田丹陵に師事した。
星島 義兵衛(ほしじま ぎへえ、1885年(明治18年)12… 星島 義兵衛(ほしじま ぎへえ、1885年(明治18年)12月17日 - 1968年(昭和43年)7月25日)は、日本の実業家。元岡山県農工銀行頭取。岡山商工会議所設立者・初代会頭。 岡山県児島郡藤戸村生まれ。1905年岡山県立岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)卒業。1909年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。1913年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部銀行科卒業。 星島銀行入行後、1925年岡山県農工銀行取締役。1928年岡山県農工銀行頭取。1934年初代岡山ロータリークラブ会長。1936年日本赤十字社評議員。 1943年岡山県商工経済会会頭。1944年日本勧業銀行顧問。1946年岡山商工会議所発起人総代・初代会頭。
山中 峯太郎(やまなか みねたろう、1885年(明治18年)… 山中 峯太郎(やまなか みねたろう、1885年(明治18年)12月15日 - 1966年(昭和41年)4月28日)は、日本の陸軍軍人、小説家、翻訳家。陸士19期・陸大退校(25期相当)、最終階級は陸軍歩兵中尉(依願免官)。 山中未成、大窪逸人、石上欣哉、三条信子などのペンネームも用いた。 大阪府で呉服商を営んでいた馬淵浅太郎(旧・彦根藩士)の次男として生まれる。幼少時に、陸軍一等軍医(大尉相当官)山中恒斎の婿養子となり、のちに恒斎の娘の「みゆき」を娶った。大阪偕行社附属小学校(現・追手門学院小学校)、天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)を経て、1901年(明治33年)、大阪陸軍地方幼年学校(大幼)に入校。
伊藤 文吉(いとう ぶんきち、1885年(明治18年)12月… 伊藤 文吉(いとう ぶんきち、1885年(明治18年)12月15日 - 1951年(昭和26年)11月25日)は、日本の実業家。華族、貴族院男爵議員。 初代内閣総理大臣伊藤博文の実子。伊藤家に行儀見習いに来ていた多摩出身の女性との間にできた婚外子で、当初は、博文の後妻の兄である木田幾三郎の長男として育てられたが、後に戸籍上伊藤の養子となる。旧制山口県立豊浦中学校(第1期)、山口高等学校卒業。1908年(明治41年)東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、農商務省の商工局に勤務、文官高等試験を経て翌年山林事務官兼農商務書記官となり、1910年(明治43年)休職し、渡英。農商務省参事官、同山林局書記官、外務書記官、内閣総理大臣秘書官、軍需省顧問、鮎川義介が創立した日本産業(日産)取締役、日本鉱業社長などを務めた。
近藤 元久(こんどう もとひさ、1885年12月15日 - … 近藤 元久(こんどう もとひさ、1885年12月15日 - 1912年10月6日)は日本の初期のパイロットで、ロサンゼルスの近郊で、事故死した。航空機の事故で死亡した最初の日本人である。 伊予松山藩士・近藤南洲の次男として大阪で生まれた。松山中学の漢学の教師をしていた叔父・近藤元弘の養子となり松山中学を卒業後、1903年に単身、渡米した。8年ほどアメリカ合衆国で暮らした後、飛行家となることをめざしてサンディエゴのカーチス飛行学校で学び、1912年(明治45年)4月27日、万国飛行免状を得た。カーチス飛行学校では武石浩玻とともに学び、同校初の日本人卒業生となった。カーチス飛行学校で日本海軍の山田忠治、河野三吉、中島知久平の三人のカーチス水上機の実習の手伝いなどをした。
斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)1… 斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)12月13日 - 昭和23年(1948年)5月18日)は、日本の医師、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍軍医中将。鳥取県米子市長。正四位勲一等瑞宝章。 鳥取県米子市尾高町に生まれた。開業医斎藤勇夫の長男。 米子中学(現在の米子東高校)を経て大正元年(1912年)九州帝国大学医学部卒業後、熊本歩兵第13連隊軍医に任官。昭和3年(1928年)、浜田陸軍病院長に就任。昭和5年(1930年)3月、一等軍医正(大佐相当官)に昇進し豊橋陸軍病院長となる。昭和6年(1931年)8月、名古屋陸軍病院長に異動。昭和7年(1932年)12月、第12師団軍医部長となり、第3師団軍医部長に転じた。
除野 康雄(よの やすお、1885年(明治18年)12月12… 除野 康雄(よの やすお、1885年(明治18年)12月12日 - 1969年(昭和44年)10月9日)は、日本の内務・警察官僚。官選滋賀県知事。 熊本県飽託郡健軍村(現在の熊本市東区)出身。除野正稔の二男として生まれる。第五高等学校を卒業。 1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁理事官、茨城県理事官、鹿児島県警察部長、鳥取県書記官・内務部長、秋田県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長などを歴任。 1931年1月20日、滋賀県知事に就任。同年12月18日、知事を休職となる(政友会の犬養内閣成立に伴う更迭)。
岡山 不衣(おかやま ふい、1885年(明治18年)12月9… 岡山 不衣(おかやま ふい、1885年(明治18年)12月9日 - 1943年(昭和18年)11月29日)は岩手県花巻市出身の俳人、新聞編集者。岩手毎日新聞社(1933年廃刊。現在の毎日新聞とは無関係)の主筆(編集長)でもあった。生誕時の本名は伊藤儀七であったが、幼少時に養子に出たことで岡山儀七となった。 1885年(明治18年) のちの貴族院議員伊藤儀兵衛の四男として、花巻に生まれる。1889年(明治23年)、岡山直機の養子となる。 旧制岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学し、石川啄木と出会う(学年は啄木が1年上)。1901年(明治34年)に啄木のほか野村長一(後の野村胡堂)や、後に医学博士となる小林茂雄や瀬川深(せがわふかし)、猪川浩らと短歌会「白羊会」を結成する。
高橋 勝四郎(たかはし かつしろう、1885年(明治18年)… 高橋 勝四郎(たかはし かつしろう、1885年(明治18年)12月9日 - 1972年(昭和47年))は、日本の獣医師。馬産家として名高い。岩手県胆沢郡南下幅村(現在の奥州市)出身。父の高橋音四郎は南都田村の村議会議員。 生家は農家で、馬の飼育も手掛けていた。そのことから勝四郎は幼少の頃から馬と身近に接しながら育った。当時の慣例により5歳の時に南下幅尋常小学校に入学。卒業後農業補習科に3年通い、水沢尋常高等小学校の高等科4年生に編入。卒業後は師範学校に進学するつもりであったが13歳だった勝四郎は入学年齢に達しておらず、入学年齢に達するまでの間、母校の南下幅尋常小学校に代用教員として勤務することになった。
佐々木精治郎(ささき せいじろう、1885年〈明治18年〉1… 佐々木精治郎(ささき せいじろう、1885年〈明治18年〉12月8日 - 1971年〈昭和46年〉11月28日)は、日本の画家。岩手県江刺郡黒石村出身。 ロサンゼルス美術学校、ニューヨーク美術学院を卒業し、帰国。それ以降も渡欧などを経て、多くの展覧会出品や個展を開催する。 パステル画を中心とした作品が特徴である。 1885年12月8日、岩手県江刺郡黒石村長根(現:奥州市水沢黒石町字長根)の農家に7人兄弟の次男として生まれる。実家はかつて庄屋を務めるほど豪農である。1892年ごろ黒石村立博文尋常小学校(のちの奥州市立黒石小学校)に入学し、熊野神社神主より漢学を学んだ。卒業後、当時村内には高等小学校が無いため、胆沢郡前沢町の前沢尋常高等小学校へ進み、のちに七光社同人となる村上隆一と自炊生活を始めた。
富田 愛次郎(とみた あいじろう、1885年(明治18年)1… 富田 愛次郎(とみた あいじろう、1885年(明治18年)12月5日 - 1954年(昭和29年)11月3日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、衆議院議員。 愛知県出身。富田治郎右衛門の三男として生まれる。第四高等学校を経て、1913年、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大学卒業後、内務省に入り京都府属となる。 以後、京都府警視、埼玉県理事官、同視学官、内務省警保局事務官兼内務書記官、社会局第一課長、同書記官、同労働部長、同社会部長、中央職業紹介事務局長などを歴任。 1935年1月、三重県知事に就任。1937年1月、広島県知事に転じた。
飛鳥井 雅四(あすかい まさし、1885年〈明治18年〉12… 飛鳥井 雅四(あすかい まさし、1885年〈明治18年〉12月4日 - 1974年〈昭和49年〉7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1885年(明治18年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第18期、陸軍砲工学校高等科第16期(優等)卒業。1914年(大正3年)に、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 イギリス駐在を経て、1928年(昭和3年)8月に陸軍通信学校研究部主事に就任し、1930年(昭和5年)3月6日に陸軍工兵大佐に進級、8月1日に電信第2連隊長に転じた。1932年(昭和7年)4月に近衛師団司令部附となり、日本大学に配属された。 1933年(昭和8年)8月に陸軍砲工学校教官に転じ、1934年(昭和9年)8月1日に陸軍少将に進級と同時に津軽要塞司令官に着任。
坂口 康蔵(さかぐち こうぞう、1885年(明治18年)12… 坂口 康蔵(さかぐち こうぞう、1885年(明治18年)12月2日 - 1961年(昭和36年)7月28日)は、日本の医師・内科医学者・政治家。東京帝国大学教授や貴族院勅選議員を務めた。 東京府出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、附属病院副手、伝染病研究所技手、東京帝国大学助手を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学講師となった。同年、医学博士号を受ける。1926年(大正15年)より欧米に留学し、1928年(昭和2年)に帰国したのち、東京帝国大学助教授、東京警察病院院長となった。その後、同大学教授、同医学部附属病院院長、同医学部長となり、1946年に定年退官した。1946年から1956年まで厚生技官となり、国立東京第一病院院長、国立東京第一病院附属高等看護学院長を務めた。
今井 博茂(いまい ひろしげ、1885年12月1日 - 19… 今井 博茂(いまい ひろしげ、1885年12月1日 - 1935年7月29日)は、日本の造兵技術者。海軍造兵少将。 福岡県出身。1905年福岡県立中学修猷館、1909年7月第五高等学校工科を経て、1912年7月東京帝国大学工科大学造兵学科を卒業。東大在学中の1911年2月、海軍造兵学生試験に合格。 1912年海軍造兵技士として呉海軍工廠に入り、呉海軍工廠砲熕部部員、舞鶴海軍工廠造兵部部員を務めた後、1918年造兵監督官として米国に出張。帰国後、佐世保海軍工廠造兵部部員、呉海軍工廠砲熕部部員などを務め、1929年11月海軍造兵大佐に累進し、横須賀海軍工廠造兵部部員となる。1932年10月呉海軍工廠砲熕部部員を経て、1934年11月佐世保海軍工廠造兵部長に就任する。
大藪 虎亮(おおやぶ こりょう、1885年12月1日 - 1… 大藪 虎亮(おおやぶ こりょう、1885年12月1日 - 1966年)は、日本の国文学者。号は紫牛。 福岡県出身。1905年福岡県立尋常中学修猷館、1909年第五高等学校英語文科を経て、1912年東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。 1920年第四高等学校教授に就任し、国語を講じる。1935年旧制広島高等学校教授に転じて、国語を講じる。
平田 昇(ひらた のぼる、1885年12月1日 - 1958… 平田 昇(ひらた のぼる、1885年12月1日 - 1958年5月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
池田 蔵六(いけだ ぞうろく、1885年〈明治18年〉12月… 池田 蔵六(いけだ ぞうろく、1885年〈明治18年〉12月1日 - 1940年〈昭和15年〉4月12日)は、日本の大蔵・台湾総督府官僚。台湾総督府専売局長、同財務局長。 東京府東京市出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、高等文官試験に合格した。専売局書記、参事補、副参事、参事を務め、三田尻専売局長、徳島専売局長、岡山専売局長、専売局煙草課長を歴任した。その後、台湾総督府専売局参事に転じ、1929年(昭和4年)には専売局長となった。翌年には財務局長に就任した。 退官後は東洋葉煙草株式会社社長を務めた。
園部 マキ(そのべ まき、明治18年(1885年)12月1日… 園部 マキ(そのべ まき、明治18年(1885年)12月1日 - 昭和19年(1944年)1月)は、保育事業家。 大正3年(1914年)に、京都市最初の保育園を開設した。 明治18(1885)年12月1日、宮崎県高鍋で士族の家庭に生まれる。旧姓は、藤田。 明治33(1900)年に、同志社女学校(現在の同志社女子大学)入学し、明治38(1905)年、に卒業する。同年、京都看病婦学校1年に編入し、同年5月には渡米、フィラデルフィアの一致協会附属看護学校(Presbyteriam Hospital of Nursing)に留学する。 明治42(1909)年4月、卒業。その後、社会施設事業等を見学視察し、同年11月に帰国。
有村 慎之助(ありむら しんのすけ、1885年〈明治18年〉… 有村 慎之助(ありむら しんのすけ、1885年〈明治18年〉12月 - 1960年以降没)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。大同電力取締役兼営業部長・工務部長などを務めた。福井県出身。 有村慎之助は、1885年(明治18年)12月、福井県人・有村静江の次男として生まれた。1906年(明治39年)7月金沢の第四高等学校第二部工科を卒業、次いで1909年(明治42年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 大学在学中の実習で、富士水電という静岡県東部の電力会社が行っていた発電所建設工事に関わったことから、富士水電に懇望されて卒業後はそのまま同社に技師として入社した。
藤山 竹一(ふじやま たけいち、1885年(明治18年)12… 藤山 竹一(ふじやま たけいち、1885年(明治18年)12月 - 1930年(昭和5年)2月12日)は、佐賀県出身の日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事。板垣退助伯爵彰徳会(日光板垣会)初代名誉会長。 佐賀県出身。大地主・藤山ミスの三男として生まれた。第五高等学校を卒業。1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し富山県属となる。 1911年4月、富山県試補となる。以後、同事務官補、同教育課長、同警視・警察部警務課長、和歌山県理事官・学務課長、同視学官などを経て、1918年1月、福島県警察部長に就任。1919年6月に休職。
近藤 民雄(こんどう たみお、1885年(明治18年)11月… 近藤 民雄(こんどう たみお、1885年(明治18年)11月30日 - 1967年(昭和42年)7月20日)は、日本の商法学者。
宇野 円空(宇野圓空、うの えんくう、1885年11月27日… 宇野 円空(宇野圓空、うの えんくう、1885年11月27日 - 1949年1月1日)は、日本の宗教学者・民族学者。 1885年、京都市にある西本願寺派の尊徳寺で生まれた。東京帝国大学文科大学哲学科で学び、1910年に卒業。大学では、マルセル・モースに師事した。同年、京都帝国大学大学院へ進んだ。 1912年より佛教大学教授となった。1920年から1923年にかけて欧州(フランス、ドイツ、オランダ)に研究留学し、宗教民族学の理論的研究に従事した。1922年、龍谷大学教授となった。1926年、東京帝国大学文学部専任講師となり、1927年に助教授昇格。1934年に学位論文『マライシアニ於ケル稲米儀礼』を東京帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。