小山 三郎(こやま さぶろう、1885年(明治18年)3月1… 小山 三郎(こやま さぶろう、1885年(明治18年)3月16日 - 没年不明は埼玉県出身の土木技術者。台湾総督府の技師として日本統治時代の台湾各地で鉄道敷設に関わった。 1885年(明治18年) - 埼玉県大里郡熊谷宿(熊谷市の前身)で出生、本籍は東京市芝区三田綱町(現・東京都港区三田)。父・保政も逓信省、臨時台湾鉄道隊の鉄道技師で、日本統治直後の台湾で鉄道調査、鉄道整備に従事し、1899年に病死している。 1935年(昭和10年)の新竹・台中地震後は震災調査委員会の委員として被害調査および復旧事業などを担った。泰安旧駅(台中市豊原区)には小山による地震記念碑が現存しているほか、屏東線の下淡水渓鉄橋(旧橋)建設で殉職した友人の技師飯田豊二の記念碑を建てている。
沖島 鎌三(おきしま かまぞう、1885年3月15日 - 1… 沖島 鎌三(おきしま かまぞう、1885年3月15日 - 1975年6月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 島根県出身。1906年日本大学専門部法律科卒。南樺太に渡り、樺太合同運輸(株)取締役、(株)豊北木工場取締役社長、豊原町商業会議所特別議員、樺太日日新聞社長を経て、農林大臣秘書官、北日本製紙(株)会長、日本麻紡績協会会長となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙では島根2区から中立系(無所属)で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補したが落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で当選。1936年の第19回衆議院議員総選挙で落選。1937年の第20回衆議院議員総選挙で当選。
下田 光造(しもだ みつぞう、明治18年(1885年)3月1… 下田 光造(しもだ みつぞう、明治18年(1885年)3月14日 - 昭和53年(1978年)8月25日)は、日本の医学者、精神科医。鳥取大学・九州大学名誉教授。俳号鳥城。 1885年、鳥取県八頭郡佐貫村和奈見(現・鳥取市河原町和奈見)に生まれた。下田彌平の二男、同勘次の弟。 旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第四高等学校を経て、明治44年(1911年)東京帝国大学医科大学を卒業し、母校の精神科教室に入局。大正8年(1919年)兄勘次方より分家する。 大正10年(1921年)慶應義塾大学医学部の創立に尽力して教授となり、同年医学博士の学位を得る。ドイツほか西欧に留学。大正14年(1925年)九州帝国大学医学部の精神病学教室の主任教授となり、昭和16年(1941年)同医学部長となる。
小倉 金之助(おぐら きんのすけ、1885年〈明治18年〉3… 小倉 金之助(おぐら きんのすけ、1885年〈明治18年〉3月14日 - 1962年〈昭和37年〉10月21日)は、日本の数学者・数学史家・随筆家。大阪医科大学(現・大阪大学医学部)教授を歴任。山形県酒田市生まれ。 生家は酒田の回漕問屋。荘内中学校を経て、1905年(明治38年)に東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業。東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)化学選科に入学するが、家業を継ぐために中退し、山形に戻る。 林鶴一のもとで数学を学び、1911年(明治44年)東北帝国大学の助手となる。1916年(大正5年)に微分幾何の研究で、理学博士の学位を取得。 1917年(大正6年)から大阪医科大学(現・大阪大学医学部)塩見理化学研究所研究員。
勝部 謙造(かつべ けんぞう、1885年〈明治18年〉3月1… 勝部 謙造(かつべ けんぞう、1885年〈明治18年〉3月14日 - 1964年〈昭和39年〉12月16日)は、日本の哲学者である。 島根県に生まれ、京都帝国大学文科大学(京都大学大学院文学研究科・文学部)哲学科に入学する。1914年(大正3年)に卒業後は京都府立第一中学校(現在の京都府立洛北高等学校・附属中学校)で教鞭を執り、1921年(大正10年)には広島高等師範学校(現在の広島大学)の助教授をへて教授を務めた。1930年(昭和5年)には文部省における留学生としてドイツに渡り、ゲッティンゲン大学に留学しヴィルヘルム・ディルタイの哲学を研究する。 翌1931年(昭和6年)に帰国後は研究した成果をドイツ語で執筆したことで文学博士を取得し、後に広島文理科大学の教授となった。
岡田 信(おかだ まこと(通称:おかだ しん)、1885年(… 岡田 信(おかだ まこと(通称:おかだ しん)、1885年(明治18年)3月10日 - 1946年(昭和21年)8月15日)は、日本の大正・昭和期における大蔵省官僚・銀行家。大蔵省官僚としては主に特殊銀行・植民地金融を担当した。滋賀県出身。 1885年(明治18年)3月10日、滋賀県野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。 父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の三番目の妻・義子。八男七女の六男として誕生したが、長男・四男が夭折により対外的には四男と称す。 京都府立一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)より第四高等学校(1905年(明治38年)7月5日卒業)を経て、1909年(明治42年)7月10日東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。
中井 亮作(なかい りょうさく、1885年3月10日 - 1… 中井 亮作(なかい りょうさく、1885年3月10日 - 1951年8月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 熊本県出身。1911年東京帝国大学造船科卒。鉄道管理局技手、逓信局技師、手野村議、天草郡農会長、熊本県購買販売組合、同信用組合各連合会長、同森林組合連合会理事、産業組合中央金庫評議員、所得税調査委員、人事調停委員、借地借家調停委員、北天草電気(株)監査役、熊本県木材(株)取締役となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では熊本2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本自由党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。追放解除から間もなく死去した。
田中 秀作(たなか しゅうさく、1885年3月6日 - 19… 田中 秀作(たなか しゅうさく、1885年3月6日 - 1963年11月23日)は、日本の地理学者。 山口県防府市生まれ。1906年山口県師範学校卒、1910年東京高等師範学校地理歴史部卒、鹿児島県女子師範学校教諭、1915年京都帝国大学文科大学史学科地理学卒、大学院をへて1916年同助手、1917年京都府立第三中学校講師、12月満鉄に入社、1923年彦根高等商業学校教授、27 - 29年文部省在外研究員としてドイツ国、米国、英国に滞在。32年文部省視学委員、1943年華北綜合調査研究所研究員、46年引き揚げ、1947年北海道第三師範学校講師、1949年北海道学芸大学教授、1952年大阪学芸大学教授。
小堀 誠(こぼり まこと、1885年3月6日 - 1957年… 小堀 誠(こぼり まこと、1885年3月6日 - 1957年3月5日)は、日本の俳優である。本名は堀江 鎌太郎(ほりえ けんたろう)。旧芸名は小堀 銈作(こぼり けいさく)。同じく俳優の小堀阿吉雄は長男。 1885年(明治18年)3月6日、東京府荏原郡品川町(現在の東京都品川区)に生まれる。 1908年(明治41年)、小堀銈作名義で伊井蓉峰門下である新宿の新富座の『己が罪』で初舞台。1910年(明治43年)11月、井上正夫、桝本清らの新派俳優として本郷座の舞台に立ち、後に幹部となる。ただし、ほとんどの資料では同年、井上正夫が有楽座と契約して新時代劇協会を結成し、小堀も参加したとしている。1916年(大正5年)、深川座で一座を結成し、新派の一方の旗頭として浅草の御国座を本拠とする。
佐々木 積(ささき つもる、本名は同読で百千万億、1885年… 佐々木 積(ささき つもる、本名は同読で百千万億、1885年3月3日 - 1945年1月2日)は、日本の俳優である。坪内逍遥、島村抱月の「文芸協会」で「日本の女優第一号」こと松井須磨子の同期として新劇俳優を始め、「舞台協会」を設立、また日活や東亜キネマの無声映画にも出演した。のちのスター女優夏川静江、おなじくのちの俳優夏川大二郎は妻の連れ子である。 本名の「佐々木 百千万億」は珍名である。早稲田大学文学部露文科卒業。1909年(明治42年)4月、24歳のときに、坪内逍遥、島村抱月の「文芸協会」が設立した「文芸協会演劇研究所」に入学する。同期生は、武田正憲、林和、柳下富司、伊藤理基、掬月晴臣、日高清、久里四郎、志田徳三、松井須磨子、三田千栄子(のちの山川浦路、上山草人の妻)、五十嵐吉野の11名であった。
小笠原 長幹(おがさわら ながよし、1885年(明治18年)… 小笠原 長幹(おがさわら ながよし、1885年(明治18年)3月2日 - 1935年(昭和10年)2月9日)は、日本の政治家、華族。位階・爵位は従三位伯爵。小笠原宗家30代当主。 最後の小倉藩主だった華族の小笠原忠忱伯爵の長男。1897年(明治30年)3月、家督を相続する。学習院卒業後、イギリスのケンブリッジ大学に留学。帰国後に宮内省に入り式部官となり、1918年(大正7年)7月10日、貴族院議員となる。1920年(大正9年)に陸軍省参事官、1922年(大正11年)に国勢院総裁、その後、行政制度審議会委員などを歴任する。東京浅草の海禅寺に葬られたが、のちに多磨霊園に改葬。 1927年(昭和2年)、小倉藩下屋敷跡に建てられたスペイン風の邸宅(小笠原伯爵邸、新宿区河田町)は、東京都選定歴史的建造物第66号に指定され、2002年(平成14年)6月、民間によって修復され、結婚披露宴も行われるレストランとして利用されている。
川上 嘉市(かわかみ かいち、1885年(明治18年)3月1… 川上 嘉市(かわかみ かいち、1885年(明治18年)3月1日 - 1964年(昭和39年)4月6日)は、大正・昭和期の日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員(1期)、参議院議員(1期)。 静岡県浜松市浜北区内野小島出身。1909年(明治42年)東京帝国大学工科大学を首席で卒業。 東京瓦斯へ入社後、1910年(明治43年)に住友電線製造所(現在の住友電工)に転職。1914年(大正3年)にオーストリア・グラーツにゴム化学の研究の為に留学。同年7月に第一次世界大戦が開戦したことからベルリン経由でイギリスに脱出した。1925年(大正14年)から住友電線取締役を務めた。1927年(昭和2年)に労働争議で経営不振となった日本楽器製造(現在のヤマハ)の社長に就任。
田中 肥後太郎(たなか ひごたろう、明治18年(1885年)… 田中 肥後太郎(たなか ひごたろう、明治18年(1885年)3月1日 - 昭和24年(1949年)1月31日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。海軍医学校校長、海軍省医務局長を歴任する。熊本県出身。 明治18年(1885年)2月、熊本県で生れる。大正2年(1913年)東京帝国大学医学部を卒業する。その後、大正15年(1926年)欧米出張を行い、昭和2年(1927年)に帰国する。帰国後、霞ケ浦空軍医長となり、当職を兼務しながら軍医校教官も務める。昭和12年(1937年)12月1日に海軍軍医校教頭となり、佐世保病院長を経て、昭和14年(1939年)11月15日、海軍医学校校長と海軍中将に就任する。
高宮 元三郎(たかみや もとさぶろう、1885年3月 - 没… 高宮 元三郎(たかみや もとさぶろう、1885年3月 - 没年不詳)は、日本、中国、満洲、台湾の建築技術者、鉄道技術者。 高宮仁吉の三男として福岡市西堅粕村に生まれる。1904年福岡県立中学修猷館、1909年7月第五高等学校工科を経て、1913年7月東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。 1913年8月名古屋市の志水組(志水建築業店)に入社。1916年5月青島守備軍軍政署に転じ、1917年10月同民政部に移り、1919年同鉄道技手、1920年1月同技師兼鉄道技師、同年5月同鉄道技師、同年12月同技師を務めた後、1923年1月免官。 1923年3月南満洲鉄道(満鉄)に入社、同年4月参事として大連工務出張所所長を経て、1925年6月大連工務事務所所長に就任。
田中 千吉(たなか せんきち、1885年(明治18年)3月 … 田中 千吉(たなか せんきち、1885年(明治18年)3月 - 没年不詳)は、関東庁官僚。大連市長。 東京府出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。警視庁に入り、富坂警察署長、青山警察署長、三田警察署長を務めた。1913年(大正2年)、関東都督府秘書官に転じ、文書課長、地方課長、殖産課長を歴任。1923年(大正12年)、関東庁参事官・事務官となり、翌年に大連民政署長となった。 1930年(昭和5年)、大連市長に就任。退任後は、大連株式取引所理事長、大連商工会議所副会頭、大連市会議員、大連証券信託株式会社相談役などを務めた。
東郷 彪(とうごう ひょう、1885年〈明治18年〉2月28… 東郷 彪(とうごう ひょう、1885年〈明治18年〉2月28日 - 1969年〈昭和44年〉6月5日)は、日本の農商務官僚、宮内官僚、政治家。爵位は侯爵。東郷平八郎の子。宮内省内匠寮御用掛、貴族院議員などを歴任した。 温厚な人柄、恬淡とした性格で我が道を進み、新宿御苑で菊栽培などを手がけ、菊づくりの拡充強化に大きく貢献した。 東郷平八郎の長男として、1885年(明治18年)鹿児島県に生まれた。学習院に入るがその後中学済々黌を経て、1911年(明治44年)、東京高等農学校(現東京農業大学)を卒業した。卒業後は、農商務省の農事試験場興津園芸試験場(現在の農研機構果樹研究所·カンキツ研究興津拠点)に勤務した。
倉富 鈞(くらとみ ひとし、1885年〈明治18年〉2月28… 倉富 鈞(くらとみ ひとし、1885年〈明治18年〉2月28日 - 1977年〈昭和52年〉4月5日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。位階は従四位。 司法官僚・倉富勇三郎の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1936年(昭和11年)6月1日、男爵を襲爵した。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1928年(昭和3年)朝鮮銀行秘書課長兼国庫課長に就任。その後、同検査役、産業組合中央金庫参事・貸付課長、同理事、農地開発営団理事などを務めた。 1941年(昭和16年)9月6日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
窪田 忠彦(くぼた ただひこ、明治18年(1885年)2月2… 窪田 忠彦(くぼた ただひこ、明治18年(1885年)2月27日 - 昭和27年(1952年)10月31日)は、日本の数学者。東北帝国大学教授。統計数理研究所三代目所長。
青木 得三 (あおき とくぞう、1885年2月26日 - 1… 青木 得三 (あおき とくぞう、1885年2月26日 - 1968年7月31日) は、日本の大蔵官僚・経済学者。専門は財政学。経済学博士(1957年)。秋田県南秋田郡秋田町(現・秋田市)生まれ、東京帝国大学法科大学首席卒業。 1885年(明治18年)2月26日 (戸籍上は3月26日)、秋田県南秋田郡秋田町中島中丁にて出生。父青木定謙は角館町出身の官吏で、少年時代は父の転勤に伴って転居を繰り返した。旧制和歌山中学(現 和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)から旧制新潟中学校(現 新潟県立新潟高等学校)に転入し、 旧制第一高等学校(旧制一高)を経て1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学を首席で卒業した。
西村 茂生(にしむら しげお、1885年2月24日 - 19… 西村 茂生(にしむら しげお、1885年2月24日 - 1966年7月18日)は、日本の政治家、位階は従三位。 衆議院議員(7期)。岩国市長。岩国市名誉市民。 山口県玖珂郡岩国町(現・同県岩国市)出身。農商務省附属水産講習所(現・東京海洋大学)及び東京帝国大学理科大学卒業。20代から岩国町会議員・玖珂郡会議員・山口県会議員を歴任、山口県会においては県会副議長を務めた。1928年の普通選挙による最初の総選挙で旧山口2区から立憲政友会公認で立候補して当選、中央政界に入った。その後通算7回衆議院議員総選挙に当選した。1931年犬養内閣の海軍参与官に就任。政友会内では同じく山口県出身・選出の久原房之助と行動をともにし、1939年の政友会分裂に際しては久原や鳩山一郎とともに正統派に所属した。
内田 祥三(うちだ よしかず、1885年2月23日 - 19… 内田 祥三(うちだ よしかず、1885年2月23日 - 1972年12月14日)は、日本の建築学者、建築家。元東京帝国大学総長。
濃畑 三郎(のうはた さぶろう、1885年(明治18年)2月… 濃畑 三郎(のうはた さぶろう、1885年(明治18年)2月22日 - 1943年(昭和18年))は、日本の実業家、政治家。 宮市大丸(現在の大和)常務取締役、みくに新聞社社長、福井県会議員を務めた。 北海道朝田庄次郎の三男として福井県坂井郡三国町(現在の坂井市)に生まれ、その後先代・安吉の養子となる。濃畑家は三国町で金銀箔も扱う紙問屋・四日市屋で、「四の三(しのさん)」と呼ばれていた。『茶の本』『東洋の理想』等の著書で知られる日本美学界の泰斗・岡倉天心の母・この(旧姓:濃畑(野畑))とも関係があったという。 1922年(大正11年)、家督を相続する。明治大学修業、内務省勤務を経て福井県会議員や宮市大丸常務取締役を歴任した。
川本 増雄(かわもと ますお、1885年〈明治18年〉2月2… 川本 増雄(かわもと ますお、1885年〈明治18年〉2月21日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。郡山信用金庫専務理事。華道衡山流家元。号は見真斉一舟(けんしんさいいっしゅう)。 奈良県生駒郡郡山町大字洞泉寺町(現・大和郡山市洞泉寺町)に生まれる。川本増蔵の長男。郡山中学校を卒業する。貸座敷業を営む。遊廓改善等に奮闘努力する。 郡山町会議員に7回当選する。郡山信用金庫専務理事、奈良地裁調停委員、司法保護委員、郡山町農業会長をつとめる。 青年時代、非常な運動家で、特に野球の選手として活躍した。趣味は書画、骨董、読書。住所は奈良県生駒郡郡山町大字洞泉寺(現・大和郡山市洞泉寺町)。
小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月… 小畑 敏四郎(おばた としろう、1885年(明治18年)2月19日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。国務大臣。栄典は、正四位・勲一等(昭和20年8月19日時点)。本籍高知県。 いわゆる皇道派の中心人物とされる。同じ陸軍士官学校16期生である岡村寧次、永田鉄山と共に陸軍三羽烏の一人とされている。妻は第24代衆議院議長元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。 東京府麴町区上六番町で、男爵小畑美稲の四男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎、小畑厳三郎(陸軍少将)。京都府立第一中学校、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校を卒業(16期優等)。
中島 鵬六(なかじま ほうろく、1885年(明治18年)2月… 中島 鵬六(なかじま ほうろく、1885年(明治18年)2月17日 - 1931年(昭和6年)2月17日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 宮城県加美郡中新田村(現在の加美町)出身。中新田町長・中島金也の長男として生まれる。古川中学校(現宮城県古川高等学校)、第二高等学校を経て、1912年(大正元年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、弁護士となる。仙台産馬畜産組合長、大東銀行監査役を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。この間、馬政委員会委員、帝国馬匹協会理事を務めた。
吉田 貞次郎(よしだ ていじろう、1885年(明治18年)2… 吉田 貞次郎(よしだ ていじろう、1885年(明治18年)2月17日 - 1948年(昭和23年)7月25日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、北海道空知郡上富良野村長。 三重県奄芸郡一身田村(現津市)で農業・米穀商の吉田貞吉の長男として生まれる。家業の不振のため、1900年、16歳の時に三重団体に加わる父に従い北海道空知郡富良野村(現上富良野町)に移住した。忙しい開墾の合間に独学で学びを続け、徴兵時には一年志願兵を優秀な成績で終え、在郷中に陸軍歩兵中尉に昇進した。 村役場職員となり、以後、上富良野村会議員、同村長、信用購買組合長、農業組合長、農業会長、帝国在郷軍人会上富良野分会長、東中富良野及び草分土功組合長などを務めた。
黒崎 定三(くろさき ていぞう、1885年(明治18年)2月… 黒崎 定三(くろさき ていぞう、1885年(明治18年)2月16日 - 1948年(昭和23年)7月19日)は、日本の法制官僚、政治家。貴族院議員、法制局長官。 京都府出身。黑崎武右衛門の二男として生まれた。郡山中学、第三高等学校を経て、1911年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年12月、文官高等試験に合格。逓信省に入り通信局書記に就任。その後、法制局参事官、内閣恩給局審査官、法制局書記官などを歴任。その他、日独戦役講和準備委員、法制審議会幹事、交通審議会幹事などを務めた。1933年3月、齋藤内閣の法制局長官となり1934年7月まで在任。退任後すぐ同月3日に貴族院勅選議員に任命され、研究会に属し1946年(昭和21年)5月17日まで在任した。
水町 義夫(みずまち よしお、1885年〈明治18年〉2月1… 水町 義夫(みずまち よしお、1885年〈明治18年〉2月16日 - 1967年〈昭和42年〉12月31日)は、教師、西南学院院長。 旧制東筑中学、西南学院中学部教師、西南学院高等部長。1927年8月に米国の南部バプテスト神学校に留学し、一年後に帰国。1933年、西南学院第4代院長(日本人初)に就任し1948年に健康上の理由で勇退するまで在任。1921年中学部の英語教師時代に新約聖書「ヨハネの手紙一」からイメージを受け西南学院校歌を作詞する。作曲は島崎赤太郎。「岸を洗う紺碧の波」「松の緑青春の色」に始まる校歌であるが、当時、同校は現在埋立されているのと違って、木造の校舎のすぐ裏は海であり、まさに白砂青松であった。
有馬 寛(ありま ゆたか、1885年(明治18年)2月14日… 有馬 寛(ありま ゆたか、1885年(明治18年)2月14日 - 1951年(昭和26年)1月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 和歌山県出身。神野介寿の二男として生れ、有馬良橘の養子となる。東京府立第一中学校を経て、1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月に海軍少尉任官。海軍大学校(乙種)、海軍砲術学校高等科を卒業。「安芸」「摂津」の各分隊長、練習艦隊・第2艦隊の各参謀などを経て、1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。 以後、佐世保鎮守府参謀、ロシア駐在、兼ロシア大使館付武官補佐官、軍令部兼参謀(ペテルブルク、ストックホルム、オデッサ、パリ各駐在)、第2戦隊参謀、「春日」副長、横須賀鎮守府付、皇族(伏見宮博恭王)付武官、軍令部参謀(第3班第6課長)、「木曾」「古鷹」の各艦長、舞鶴要港部参謀長、ソ連大使館付武官などを歴任し、1930年12月、海軍少将に進級。
吉田 善吾(よしだ ぜんご、1885年〈明治18年〉2月14… 吉田 善吾(よしだ ぜんご、1885年〈明治18年〉2月14日 - 1966年〈昭和41年〉11月14日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。海軍大臣、連合艦隊司令長官を歴任した。 佐賀県出身。士族・峰與八の四男。米屋、吉田祐次郎の養子となる。旧制佐賀中学校に進み、「誠友団」と名づけた交友団体に加入。古賀峯一はこの時以来の友人であり、同会には下村湖人もいた。1923年(大正12年)、分家した。 海兵32期を192名中12番で卒業。すでに日露戦争は開戦しており、「韓崎丸」で訓練を受けた後、「春日」艦長(加藤定吉)附として日本海海戦に参戦した。 吉田が選んだ海軍兵科将校としての専門は水雷で、第一水雷戦隊参謀などを務めている。
猪俣 喜藤(いのまた きふじ、1885年〈明治18年〉2月1… 猪俣 喜藤(いのまた きふじ、1885年〈明治18年〉2月13日 - 1964年〈昭和39年〉4月30日)は、日本の内務官僚。大分県東国東郡国東町長。 大分県東国東郡北江村(国崎村、国東町を経て現国東市)出身。1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した 。逓信管理局書記、秋田県属、同河辺郡長、広島県佐伯郡長、鹿児島県理事官を経て、宮城県書記官・学務部長、石川県書記官・学務部長を経て、1929年(昭和4年)に福岡県書記官・学務部長に就任した。 1931年(昭和6年)に退官した後は、別府市、岡山市、尼崎市の助役を歴任した。1945年(昭和20年)6月には帰郷し、公選初代国東町長に当選した。
南 慎一郎(みなみ しんいちろう、1885年(明治18年)2… 南 慎一郎(みなみ しんいちろう、1885年(明治18年)2月8日 - 1965年(昭和40年)8月17日)は、日本の弁護士。富山県高岡市長。勲五等双光旭日章。 富山県高岡市出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。三共株式会社秘書・泰昌製薬株式会社取締役を務め、1921年(大正10年)に退職した。同年、弁護士を開業した。 1926年(大正15年)、高岡市長に選出され、1930年(昭和5年)まで在任した。 退任後は日本興業銀行取締役、高岡土地株式会社監査役を務め、1932年(昭和7年)より再び弁護士を開業した。1940年(昭和15年)から検事に転じ、岡山地方裁判所検事、横須賀区裁判所検事を務めた。
高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年2月7日 - … 高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年2月7日 - 1964年2月24日)は、日本の政治家・実業家。満洲重工業開発株式会社副総裁・第2代総裁、電源開発初代総裁、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任した。 大阪府島上郡三箇牧村(現在の高槻市)で生まれる。旧制茨木中学を卒業後、農商務省水産講習所(後の東京水産大学、現在の東京海洋大学)に入所。その後、メキシコ万博漁業に入社し、水産技師として勤務。1917年、東洋製罐を創立。1938年、東洋製罐専修学校(後の東洋食品工業短期大学)を設立。1942年、満洲重工業開発総裁に就任。1947年公職追放、1951年同解除。1952年、電源開発総裁に就任。
江副 孫右衛門(えぞえ まごえもん、1885年(明治18年)… 江副 孫右衛門(えぞえ まごえもん、1885年(明治18年)2月6日 - 1964年(昭和39年)8月24日)は、明治期の実業家。日本特殊陶業初代社長、日本碍子社長、東洋陶器(現 TOTO)社長・会長を務めた。有田町初代町長。 佐賀県有田町上幸平の陶磁器製造業の父八蔵の長男として生まれる。祖先は佐賀藩の有田皿山代官所の役人だったと言われ、廃藩により明治時代は祖父・父ともに窯焼きを家業としていた。白川尋常高等小学校(現・有田小学校)、佐賀県立有田工業高等学校製陶科を経て、1909年に東京高等工業学校(現 東京科学大学)窯業科を卒業し、継ぐ予定だった家業が破綻したため、日本陶器に入社。 対立した飛鳥井孝太郎技師長が1910年に追放されたことで、白色硬質磁器研究体制の中心となる。
堀 義貴(ほり よしあつ、1885年(明治18年)2月5日 … 堀 義貴(ほり よしあつ、1885年(明治18年)2月5日 - 没年不詳)は、日本の外交官。駐メキシコ公使兼初代駐エルサルバドル公使、初代駐グアテマラ公使、初代駐ホンジュラス公使、初代駐ニカラグア公使、初代駐コスタリカ公使。 鹿児島県に吉利靖の三男として生まれ、堀千夫の養子となった。1905年(明治38年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)専攻科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補、シンガポール領事、外務事務官・書記官、外務大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、中華民国公使館一等書記官、浦塩派遣軍政務部長、ロンドン総領事、中華民国大使館参事官、イギリス大使館参事官を歴任。 ロンドン海軍軍縮会議に全権事務所情報部長として参加し、1931年(昭和6年)、旭日中綬章受章。
宮川 米次(みやかわ よねじ、1885年(明治18年)2月4… 宮川 米次(みやかわ よねじ、1885年(明治18年)2月4日 - 1959年(昭和34年)12月26日)は、日本の医学者、病理学者、細菌学者。東京帝国大学伝染病研究所所長を務め、伝染病・感染症の拡大防止、撲滅などに寄与した。号は「豊山」。 愛知県渥美郡豊岡村(現:豊橋市)で、今泉七作の四男として生まれる。愛知県第四中学校卒業後、福江町(現:田原市)の資産家・宮川家の養子となる。 その後、第六高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学医科大学卒業。1917年(大正6年)2月、医学博士の学位を取得。 1934年(昭和9年)から1940年(昭和15年)には、東京帝国大学伝染病研究所所長を務める。
田辺 元(たなべ はじめ、1885年(明治18年)2月3日 … 田辺 元(たなべ はじめ、1885年(明治18年)2月3日 - 1962年(昭和37年)4月29日)は、日本の哲学者。旧字体での表記では田邊 元。西田幾多郎とともに京都学派を代表する思想家。京都大学名誉教授。1947年帝国学士院会員、1950年文化勲章受章。 東京に生まれる。父は、東京の開成中学校の校長を務め、逗子開成や鎌倉女学院を設立した田辺新之助である。弟は黒田清輝に学んだ東京美術学校教授の田邊至である。ピエール・ベール著作集の翻訳などで知られる東京都立大学教授、仏文学者の野沢協は甥である。なお、田邊の妻・千代(海軍教授・蘆野敬三郎娘)は藤村操の従姉妹である。したがって田邊がのちに対決することになる西田幾多郎の最初の全集の編者に名を連ねている安倍能成と田邊は、義理の従兄弟同士となる。
日比野 正治(ひびの まさはる、1885年(明治18年)2月… 日比野 正治(ひびの まさはる、1885年(明治18年)2月2日 - 1947年(昭和22年)3月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 愛知一中を経て、鳥羽商船学校本科修了後、1906年11月海軍兵学校(34期)を卒業し、1907年に少尉任官。1912年海軍砲術学校高等科を卒業後、第3艦隊副官、「鞍馬」分隊長を歴任。1917年、海軍大学校(甲種)を卒業。以後、「春日」乗組、軍令部第3班第5課参謀、アメリカ大使館付武官補佐官、「鬼怒」副長などを歴任。 1927年、「大井」艦長となり、さらに「浅間」艦長、海軍大学校教官、「日向」艦長を歴任し、1932年海軍少将に進級。以後、第1戦隊司令官、第11戦隊司令官を務め、1936年に海軍中将・駐満海軍部司令官を拝命。
和崎 ハル(わざき ハル、1885年2月1日 - 1952年… 和崎 ハル(わざき ハル、1885年2月1日 - 1952年12月30日)は日本の美容師、政治家。衆議院議員(1期)を歴任した。旧姓、栗谷。 秋田県秋田市楢山南新町出身。1904年秋田県立秋田高等女学校(現・秋田県立秋田北高等学校)卒業。上京して女子音楽学校で学ぶ一方、キリスト教小学校に勤務する。在学中に陸軍騎兵将校和崎豊之と結婚する。1921年に美容師となり、1922年に夫が死去すると故郷の秋田に戻る。秋田初の美容師として生計を立てたと言われる。 和崎の美容院は評判を呼び、秋田魁新報社の身の上相談欄の回答者に和崎が選ばれるほどであった。同年、早川かいらと日本基督教婦人矯風会秋田支部を設立し、公娼廃止運動に尽力した。
針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1… 針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年〈明治18年〉2月1日 - 1952年〈昭和27年〉6月5日)は日本の編集者、アマチュアテニス選手。『武侠世界』などの雑誌で主筆を務め、また日本のテニスの普及・振興に尽力した。 山形県南置賜郡南原芳泉村(現・米沢市芳泉町)出身。父親の幸主は地元の名士で、住民から記念碑を建立されるほどであった。 米沢中学(現・山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1903年(明治36年)に早稲田大学英文科に入学。早稲田を選んだのは坪内逍遥に憧れたためであった。また、庭球部に入部し、ここから本格的にテニスを始めることとなる。 早稲田大学卒業後、読売新聞、東京日日新聞を経て、1912年(明治45年)、押川春浪に請われて飛田穂洲と共に武侠世界社に入社。
岡本 幹輔(おかもと かんすけ、1885年〈明治18年〉2月… 岡本 幹輔(おかもと かんすけ、1885年〈明治18年〉2月1日 - 1939年〈昭和14年〉2月25日)は、日本の政治家。衆議院議員。 山形県飽海郡漆曽根村(現酒田市)で岡本敏貞の二男として生まれる。1902年(明治35年)、山形県立荘内中学校を卒業し、さらに1906年(明治39年)、東京高等商業学校を卒業した。同年7月、三井物産会社に入社し、札幌出張所、本店営業部などで勤務。1914年(大正3年)8月、日本製鋼所に移り、横須賀出張所長、室蘭支店会計主任、同支店商務主任、同事務部次長、同労務係長を歴任。その他、室蘭商業会議所特別議員、(株) 瑞穂商会顧問を務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙において北海道第5区から憲政会所属で出馬し当選。
塩川 正蔵(正藏、しおかわ しょうぞう、1885年(明治18… 塩川 正蔵(正藏、しおかわ しょうぞう、1885年(明治18年)2月1日 - 1952年(昭和27年)12月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、内務官僚。弁護士。 静岡県富士郡大宮町(現在の富士宮市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。高等文官試験に合格し、静岡県警部、同保安課長、岡山県後月郡長、同吉備郡長、同小田郡長、同水産課長を歴任した。1921年(大正10年)、東京市主事となり、商工課長、土木局庶務課長などを務めた。さらに麻布区長、本郷区長、京橋区長を歴任し、1935年(昭和10年)に東京市理事に就任した。退職後は弁護士を開業した。 1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に静岡2区から立憲政友会で出馬し、当選を果たした。
田辺 徳五郎(田邊 徳五郎、たなべ とくごろう、1885年(… 田辺 徳五郎(田邊 徳五郎、たなべ とくごろう、1885年(明治18年)2月1日 - 1947年(昭和22年)5月20日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家、地主、神奈川県多額納税者。衆議院議員(神奈川県第1区選出、当選1回)。旧姓は渡邊、旧名は眞吉、あるいは真吉。 神奈川県鎌倉郡戸塚駅(戸塚町を経て現横浜市戸塚区)に生まれる。渡邊三左衛門の弟。1909年(明治42年)長崎高等商業学校を卒業。横浜石川中村町(現南区中村町)の地主で金融業を営む田辺徳五郎の養嗣子となり、先代の没後に襲名する。 1914年(大正3年)田辺合資会社を設立。1922年(大正11年)横浜市会議員に当選し、1942年(昭和17年)まで務めた。
三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 … 三宅 富治(みやけ とみはる、1885年(明治18年)2月 - 不明 )は、日本の銀行家であり、実業家である。漢城銀行(現・新韓銀行)常務取締役となり、戦後日本製鋼所参事を務めた。岡山県高梁市出身。 1885年(明治18年)岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)に生れる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。 1903年(明治36年)、同校を卒業し、翌年、旧制第六高等学校文科甲類と札幌農学校予習科を受験する。岡山市にある旧制第六高等学校へ進学し、1908年(明治41年)6月に同校を卒業する。
岩崎 清行(いわさき きよゆき、1885年(明治18年)2月… 岩崎 清行(いわさき きよゆき、1885年(明治18年)2月 - 1970年(昭和45年)4月23日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。 宮崎県西諸県郡真幸村(真幸町、えびの町を経て現えびの市)出身。岩崎泰蔵の長男として生まれ、1904年(明治37年)家督を相続する。1914年(大正3年)東京帝国大学農科大学林学科卒業。 農業を営み、1919年(大正8年)以降、球磨川電気取締役、真幸村会議員、宮崎県会議員、同参事会員、都市計画宮崎地方委員会委員などを歴任した。 1932年(昭和7年)9月には宮崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1939年(昭和14年)9月28日まで務めた。
中馬 猪之吉(ちゅうまん / ちゅうま いのきち、1885年… 中馬 猪之吉(ちゅうまん / ちゅうま いのきち、1885年(明治18年)1月31日 - 1971年(昭和46年)1月23日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。参議院議員(1期)、鹿児島県国分市長(第2代)、鹿児島県会議長。 鹿児島県囎唹郡国分郷(現・霧島市)で、中馬猪之助の長男として生まれる。1906年(明治39年)12月、神戸高等商業学校(現神戸大学)を中退した。1922年(大正11年)父の隠居に伴い家督を相続し農業を営む。 青年団長などを務め、1923年(大正12年)9月、鹿児島県会議員に選出され1947年(昭和22年)まで連続5期在任した。この間、副議長、議長、東国分村長、大政翼賛会鹿児島県支部常務委員などを務めた。
福田 千代作(ふくだ ちよさく、1885年(明治18年)1月… 福田 千代作(ふくだ ちよさく、1885年(明治18年)1月30日 - 没年不明)は、日本の実業家。中華電気製作所、支那興業各取締役。住友本社、呉服販売店支配人。上海居留民団長。族籍は広島県士族。 広島県士族・福田千次郎の四男。広島市西白島町出身。1904年、県立広島中学校卒業。直に広島県より推選され清国留学生を命ぜられた。1907年、上海東亜同文書院商務科を卒業した。上海に在住し、支那貿易事務に従った。1935年、甥・光次郎方より分家した。 宗教は神道。趣味は大弓、漢籍。住所は広島市西白島町、上海市。
小谷 節夫(こたに せつお、1885年1月28日 - 195… 小谷 節夫(こたに せつお、1885年1月28日 - 1959年8月30日)は、日本の政治家。岡山県阿哲郡新見町(現・新見市)生まれ。近藤鶴代は妹。 新見の旧家・近藤家に生まれ、8歳の時に真庭郡八束村(現・真庭市)の小谷家の養子となる。岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)卒業後、1906年に上海の東亜同文書院入学(第5期生)。古河鉱業(現・古河機械金属)を経て、1914年に青島で『大青島報』(後の『青島大新民報』)を創刊、1916年には貿易会社「天佑公司」を創立した。帰国後、1928年に衆議院議員に当選し、1945年の日本の敗戦後に公職追放された。岡山では親切運動を展開した。
大島 忠康(おおしま ただやす、1885年(明治18年)1月… 大島 忠康(おおしま ただやす、1885年(明治18年)1月28日 - 1964年(昭和39年)4月1日)は、日本の鉄道官僚。樺太庁豊原市長。 富山県下新川郡道下村(現在の魚津市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業して、高等文官試験に合格した。鉄道院書記、同参事補、同参事、鉄道省参事を務め、仙台鉄道局庶務課長、札幌鉄道局教習所長、室蘭運輸事務所長を歴任した。1930年(昭和5年)に樺太庁鉄道事務所長に就任した。 退官後、富山県で弁護士を開業し、1940年(昭和15年)には魚津町(現在の魚津市)の町長に就任した。 1942年、豊原市長に就任。終戦後はソ連軍との折衝に尽力し、1947年(昭和22年)に引き揚げた。
前田 青邨(まえだ せいそん、1885年〈明治18年〉1月2… 前田 青邨(まえだ せいそん、1885年〈明治18年〉1月27日 - 1977年〈昭和52年〉10月27日)は、日本画家。位階は従三位。岐阜県中津川市出身。本名、前田 廉造(まえだ れんぞう)。妻は荻江節の5代目荻江露友。三女の夫が美術史家の秋山光和。 青邨は大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。ことに武者絵における鎧兜の精密な描写は有名である。 1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出されるが、翌1936年(昭和11年)年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日本芸術院メンバーなどとともに会員を辞任する。その後、1937年(昭和12年)に帝国美術院が改組して帝国芸術院として発足すると芸術院会員となった。