櫻田 清芽(さくらだ きよめ、1885年(明治18年) - … 櫻田 清芽(さくらだ きよめ、1885年(明治18年) - 1958年(昭和33年)12月31日)は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県弘前市長。 青森県津軽郡弘前植田町(中津軽郡弘前植田町を経て現:弘前市植田町)に生まれる。弘前中学校を卒業後、明治大学予科に学ぶ。帰郷後は教員などを経て、1910年(明治43年)陸奥日報社に入社し、編集長、弘前新聞主筆兼社長を歴任する。 その間、弘前市会議員を26年、青森県会議員を20年務め、1951年(昭和26年)4月、弘前市長に就任した。中津軽郡11箇村との合併などを実現し、1955年(昭和30年)4月に満期退官。その後は、1957年(昭和32年)より県公安委員長を務めたが、任期中に急逝した。
國府 尽平(こうの じんぺい、1885年(明治18年) - … 國府 尽平(こうの じんぺい、1885年(明治18年) - 1956年(昭和31年)4月30日)は、日本の海軍軍人、医師。海軍中佐で予備役となったのち、医学博士号を取得した。 海軍兵学校35期。福島県北会津郡湊村(現・会津若松市)出身。 國府は二度改名しており、旧名は横倉房吉と穴澤房吉である。会津中学から府立一中に転校し、海兵の席次は172中名123番であった。同期生に近藤信竹、高須四郎、野村直邦などがいる。海兵35期の遠洋航海は「松島」が火災沈没事故を起こし、乗組んでいた國府は救助されたが、同期生30名以上が犠牲となっている。海軍将校として装甲巡洋艦・常磐、戦艦・富士、特務艦・朝日、呉海兵団、横須賀防備隊などで勤務した。
山脇 正治(やまわき まさはる、1885年 - 1959年1… 山脇 正治(やまわき まさはる、1885年 - 1959年12月24日)は、東京府出身のアマチュア野球選手、プロ野球監督。 旧制早稲田中学(現・早稲田中学校・高等学校)時代に早稲田大学野球部の創設者である安部磯雄に見いだされ、早稲田大学野球部に入部。捕手として「早稲田のエース」河野安通志を支え、1903年の第一回早慶戦や1905年の米国遠征に参加する。1907年から1910年まで早稲田大学野球部キャプテンを務め、1910年のハワイ遠征を以て大学野球を引退。そのままアメリカに残り、9年後の1919年11月に帰国。 早稲田大学野球部主将時代の1908年11月22日にアメリカ合衆国から米大リーグ選抜チームであるリーチ・オール・アメリカンチームが来日し、戸塚球場で早稲田大学野球部との試合を行った際に、早稲田大学創設者の大隈重信が日本野球史上初となる始球式を行うことになり、早稲田の先頭打者として打席に立った山脇が大隈の投じた一球をわざと空振りしたことが現在に伝わる始球式の形態になっていると言う。
荻田 常三郎(おぎた つねさぶろう、明治18年(1885年)… 荻田 常三郎(おぎた つねさぶろう、明治18年(1885年) - 大正4年(1915年)1月3日)は、滋賀県初の飛行操縦士、日本の民間飛行家の先駆者。 滋賀県愛知郡島川村(後の八木荘村、現愛知郡愛荘町島川)に呉服商・善三郎の嫡子として生まれた。明倫小学校を経て同志社中学を中退後、陸軍歩兵第9連隊に一年志願兵として入営、少尉となった。当初は自転車に関心があり、各地で競技会に参加していたが、陸軍在職中に深草練兵場で武石浩玻の事故死を目撃したことで飛行機に興味を持ち、除隊後家業を手伝う傍らで手に入る限りの飛行書を集め、飛行学校に入学するため大正2年(1913年)9月フランスに留学し、パリ郊外のヴェリジー=ヴィラクブレー飛行場(フランス語版)(現ヴィラクブレー空軍基地)にあるモラーヌ・ソルニエ飛行学校(L'école de pilotage Morane-Saulnier à Villacoublay )に入学した。
佐竹 僴一郎(さたけ かんいちろう、1885年 - 1937… 佐竹 僴一郎(さたけ かんいちろう、1885年 - 1937年3月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は騎兵大佐。 高知県香美郡田村(現在の南国市)に生まれる。共立学校、海南学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、陸軍騎兵少尉に任官。 陸軍騎兵学校教導隊長、陸軍士官学校馬術部教官、朝鮮龍山騎兵第28連隊長、豊橋陸軍教導学校騎兵隊長などを歴任。1936年(昭和11年)満洲に派遣され佐竹部隊長として活躍中に公傷を負い、翌年3月16日没。
石黒 魯平(いしぐろ ろへい、1885年(明治18年) - … 石黒 魯平(いしぐろ ろへい、1885年(明治18年) - 1956年(昭和31年)7月21日)は、日本の言語学者。学位は、文学博士。駒澤大学教授。「標準語の父」と言われる。 愛知県知多郡小鈴谷村の石黒重郎平の二男として生まれる。常滑市「鈴渓義塾」出身。東京帝国大学言語科卒業。東京高等師範学校附属中学校教諭ののち駒澤大学教授に就任。 文理大学講師、台北高校教諭を経て、1948年、法政大学石岡予科教授就任。 1956年『「標準語」原論 』で駒澤大学より文学博士の学位を授与される。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
周 竜光(しゅう りゅうこう、繁体字: 周龍光; 簡体字: … 周 竜光(しゅう りゅうこう、繁体字: 周龍光; 簡体字: 周龙光; 拼音: Zhōu Lóngguāng; ウェード式: Chou Lung-kuang、1885年(清光緒11年) - ?)は、中華民国の政治家。字は二為。 日本に留学し、東京帝国大学を卒業した。帰国後は北京大学教授、督弁魯案事宜公署秘書を歴任している。1925年(民国14年)からは、北京政府で司法部参事や特別関税会議専門委員を務めた。1928年(民国17年)、中国大学副校長となっている。 しかし同年6月、周竜光は国民政府に転じて外交部第二司司長に抜擢され、翌1929年(民国18年)1月には外交部亜洲司司長となった。その後、北平市政府参事に移り、1931年(民国20年)12月10日に天津市長代理に就任した(病気を理由に辞任した張学銘の後任)。
山本 安曇(やまもと あずみ、1885年 - 1945年3月… 山本 安曇(やまもと あずみ、1885年 - 1945年3月4日)は日本の鋳金美術家、本名は山本 菊一。 長野県南安曇郡有明村(現・安曇野市)に生まれる。旧制京北中学卒業後、郷里の小学校で教鞭をとり、研成義塾で井口喜源治の薫陶を受け、明治40年(1907年)東京美術学校(現東京藝術大学)鋳金科に入学。成績優秀で香取秀真の信望を受け、また在学中から同郷の荻原守衛(碌山)と親交を深め、その作品の鋳造に着手する。同45年(1912年)卒業。大正2年(1913年)青壺会、同7年(1918年)金人会、同13年(1924年)光爐会、同14年(1925年)工芸済々会などの結成に参加した。 昭和2年(1927年)第8回帝国美術院展(帝展)に出品した「三光(朧銀燭台)」で初入選し、同7年(1932年)帝展に「盤(果物盛器)」を出品し、審査員となる。
横河 一郎(よこがわ いちろう、1885年(明治18年) -… 横河 一郎(よこがわ いちろう、1885年(明治18年) - 1938年(昭和13年)6月2日)は、日本の通信事業経営者、株式会社横河電機製作所(現・横河電機)初代取締役社長。 日本を代表する建築家である横河グループ創業者・横河民輔の甥。父の横河震八郎は横河橋梁製作所(現・横河ブリッジ)の取締役を務めた。 1885年(明治18年)生まれ。電機学校(現・東京電機大学)卒業後、逓信省電気試験所に入所。当時、建築の設計監督を行っていた叔父である横河民輔から電気が民間にも行渡る時代が到来することを予見した話を聞き、将来日本では電気計測器が必要であると考えた。 1912年(明治45年)民輔の勧めによりドイツに留学。
殷 汝耕(いん じょこう、1885年〈明治18年〉 - 19… 殷 汝耕(いん じょこう、1885年〈明治18年〉 - 1947年〈昭和22年〉12月1日)は、中華民国の政治家。中国同盟会に属した革命派の人物で、民国期には中国国民党に加入している。後に、親日地方政権である冀東防共自治政府の政務長官となった。字は亦農。兄は殷汝驪。 地方名望家の家庭に生まれ、1902年(明治35年)に日本に留学した。日本文学院で日本語を学んだ後、1905年(明治38年)に第一高等学校予科に入学した。その翌年には、鹿児島第七高等学校造士館に転入している。この頃、留学生の間で革命思想が流行していたこともあって、留学中に中国同盟会に参加した。なお、殷汝耕は日本留学中に日本人女性と結婚している。
木下 茂(きのした しげる、1885年 - 1966年)は福… 木下 茂(きのした しげる、1885年 - 1966年)は福岡県出身の実業家。山一證券の会長をはじめ、多くの企業で要職を歴任した。 1885年(明治18年)5月28日、福岡県八女郡上広川村で西村武助の三男として出生。長崎市・木下キチの養子となり、1912年(明治45年)その家督を相続した。翌1913年(大正2年)に早稲田大学商学部を卒業すると三菱合資会社に入社。長崎支店で勤めた後、1915年に小池合資会社へ転じた。1917年(大正6年)4月、小池合資は山一合資へと改組。1926年(大正15年)には山一證券株式会社となる。茂は同社大阪支店長を経て専務となり、社長の太田収が急逝した1938年(昭和13年)の12月に社長に選任される。
三田 光一(みた こういち、1885年 - 1943年)は、… 三田 光一(みた こういち、1885年 - 1943年)は、日本の自称透視能力者。御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子らとともに福来友吉によって発掘された「超能力者」の一人。 宮城県気仙沼市生まれ。1933年に、福来友吉の発案により岐阜市で行なった、月の裏側の念写で知られる。 1931年6月24日と1933年11月12日に当時見ることのできなかった月の裏側の念写に成功したとされたが、これは長年検証できなかった。 アポロ計画の際アメリカ航空宇宙局(NASA)が発表した、実際に撮影された月の裏側の写真と三田が念写した写真を比較すると、三田の写真には実際の月の裏側にはほとんど存在しない「海」を思わせる黒い部分が写し出されている点や、月よりはるかに暗く見える星が月と同じ明るさで写っていたり、星の配置がランダムでなく人間の手で描いた特徴があるなど、似ても似つかないほど異なっている。
関田 為平(せきだ ためへい、1885年 - 1956年)は… 関田 為平(せきだ ためへい、1885年 - 1956年)は、高知県長岡郡大篠村(現 南国市)の社会教育家。 社会教育家。明治18年10月29日長岡郡大篠村 大そね乙1746(南国市)に生まれる。父可通、母喜代。県立第一中学校をへて、第一高等学校3年を中退する。高知市に無料施療所を開設し、大正6年頃には高知県連合青年団を結成して副会長 となり、長岡郡連合会長を兼任した。処女団を創設、部落解放運動として部落内青年団、処女団運動を起こす。からわら貧しい優秀な青年には学資を提供した。大正8年県会議員に当選。また大篠村長 や修養団高知県連合会 理事を務め希望社や生長の家にも関係する。こうした運動に 30町歩ほどの所有地を投入した。
大沢 豊子(おおさわ とよこ、1873年(明治6年)12月3… 大沢 豊子(おおさわ とよこ、1873年(明治6年)12月31日 - 1937年(昭和12年)6月15日)は、明治から昭和にかけての速記者、ジャーナリスト。群馬県館林市生まれ。生涯で三度職業を変え、それぞれの分野を女性の職業とする先鞭をつけた。 旧館林藩士であった父大沢師容、母やをの長女として生まれる。小学校を卒業後の1888年(明治21年)、15歳で東京に出て、遠縁であった佃与次郎の速記塾に入り、2年間速記を学んだ。 翌1889年(明治21年)、講演速記として業務を始め、7月、大日本婦人衛生学会の講演会の速記を初めて担当。同年の12月9日には、設立3年目であった婦人矯風会が主催した廃娼演説会で、同門の中村たま子と共に植木枝盛らの演説を速記した。
小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948… 小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948年12月13日)は、日本の登山家、随筆家、文芸批評家、浮世絵や西洋版画の収集家・研究家。本名は小島 久太。 1873年(明治6年)香川県高松生まれ。横浜商業学校卒業。横浜正金銀行に入行。銀行は定年まで勤め、シアトル支店長などを歴任。 横浜商業学校時代に友人と雑誌『学燈』を編集するなど、早くから文筆に興味を持つ。銀行に入ってから、1896年に出した『一葉女史』により評論家として世に注目される。 また、登山家としても知られ、1897年立川から甲府の昇仙峡まで徒歩で青梅街道を歩く、1899年休暇に浅間山 - 木曽へ山旅するなど、旅を趣味とした。
星 一(ほし はじめ、1873年(明治6年)12月25日 -… 星 一(ほし はじめ、1873年(明治6年)12月25日 - 1951年(昭和26年)1月19日)は、福島県いわき市出身の実業家・政治家。略称、ホシピン。SF作家星新一の父。写真植字機を開発した石井茂吉と森澤信夫が出会うきっかけとなった星製薬を築いた。また、星薬科大学の創立者。
松井 元興(まつい もとおき、1873年12月25日 - 1… 松井 元興(まつい もとおき、1873年12月25日 - 1947年5月24日)は、日本の物理化学者。京都帝国大学総長、立命館大学学長、日本物理化学研究会初代会長。
本多 正復(ほんだ まさもと、明治6年(1873年)12月2… 本多 正復(ほんだ まさもと、明治6年(1873年)12月23日 - 昭和9年(1934年)4月9日)は、日本の華族(子爵)。平戸藩主松浦詮の六男。初名は松浦復。長尾藩主本多正憲の娘・純子の婿養子となり名を改める。子に房子、本多正震、稲葉正弘(稲葉正顕養子)、恒子(田中真茂妻)。 学習院高等科を卒業。宮内省に入り、東宮侍従、掌典次長を歴任、その後宮中顧問官を務めた。大正15年(1926年)7月に養父が隠居し家督を継ぐ。昭和9年、62歳で没した。墓所は青山霊園(1イ20-23)で、藩主の墓所を浅草徳本寺や谷中霊園から改葬している。
滝 精一(たき せいいち、1873年(明治6年)12月23日… 滝 精一(たき せいいち、1873年(明治6年)12月23日 - 1945年(昭和20年)5月17日)は、日本の美術史家。東京帝国大学教授。 東京生まれ。滝和亭の長男。号は拙庵。東京帝国大学哲学科卒、1914年、母校の文学部に美術史学講座が開設された際に初代教授となり、昭和9年(1934年)の退官まで日本美術史と中国絵画史を講じた。1925年帝国学士院会員。1927年文学部長。大阪朝日新聞客員、東方文化学院理事長、会長を務め、『国華』の編集に携わる。1940年朝日文化賞受賞。 かつて滝に新聞学講座開設を阻止された小野秀雄の恨みを買い、没後、小野の回想録で憎悪に満ちた批判を受けた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月… 朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日)は、日本の歴史学者。日本人初のイェール大学教授。 福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士朝河正澄、母は旧田野口藩士の長女杉浦ウタ(ウタは貫一が2歳の時に亡くなったため、その後は父正澄と継母エヒに育てられる)。 1874年(明治7年)、父正澄が「伊達郡立子山村小学校」(現福島市立立子山小学校)の校長格として赴任するため、現在の福島県福島市立子山にある天正寺に移住した後、新校舎とともに建設された校長住宅へ移る。天正寺には朝河が4歳の時に描いた馬の絵が現存する。 1878年(明治11年)、立子山小学校初等科に入学後、初等科首席卒業し、飛び級により同校普通科・高等科(3級まで)を修了する。
山川 端夫(やまかわ ただお、1873年(明治6年)12月1… 山川 端夫(やまかわ ただお、1873年(明治6年)12月15日 - 1962年(昭和37年)3月2日)は、日本の海軍・外務官僚、政治家、国際法学者。法学博士、貴族院議員、法制局長官。 長崎県出身。山川景範の長男として生まれる。長崎中学、第五高等学校を経て、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年12月、文官高等試験に合格。1899年(明治32年)3月、海軍省に入り参事官に就任。その後、兼高等捕獲審検所事務官、兼鉄道院理事、海軍教官兼海軍省参事官、講和会議全権委員随員などを歴任。1919年(大正8年)4月、法学博士号を取得。 1920年(大正9年)4月、外務省に移り臨時平和条約事務局第1部長に就任し、さらに条約局長となる。
木暮 理太郎(こぐれ りたろう、1873年(明治6年)12月… 木暮 理太郎(こぐれ りたろう、1873年(明治6年)12月7日 - 1944年(昭和19年)5月7日)は、日本の登山家。 1873年(明治6年)12月7日、群馬県新田郡寺井村(現・太田市寺井町)の農家の長男として生まれる。東京の私立郁文館中学校を卒業後仙台の旧制第二高等学校に進み1897年(明治30年)に卒業した。さらに東京帝国大学に進学しはじめ哲学科、ついで史学科で学んだが、中途退学した。その後は博文館の雑誌『ハガキ文学』の編集に従事し、『泰西名画鑑』を著した。1907年(明治40年)からは東京市史料編纂室嘱託となり、亡くなるまで東京市史稿編集に携わった。 若年時から登山を趣味としていたが、田部重治と知り合ったことをきっかけに1913年(大正2年)9月に日本山岳会に入会した。
山辺 知春(やまべ ともはる、1873年(明治6年)12月6… 山辺 知春(やまべ ともはる、1873年(明治6年)12月6日 - 1936年(昭和11年)11月21日)は、日本の宮内官僚。教育者。 福島県人の山辺知一の子。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。一年志願兵として陸軍歩兵少尉となり、その後中等教育に従事した。1903年(明治36年)、北白川宮成久王の教育掛となり、1910年(明治43年)より北白川宮家家令を務めた。その後宮内事務官・式部官を務めた。1922年(大正11年)、秩父宮別当に就任し、1926年(大正15年)からは北白川宮永久王・美年子女王・佐和子女王・多恵子女王の保育係を務めた。1930年(昭和5年)、宮中顧問官に就任し、北白川宮家別当となった。
江木 翼(えぎ たすく、1873年〈明治6年〉12月5日 -… 江木 翼(えぎ たすく、1873年〈明治6年〉12月5日 - 1932年〈昭和7年〉9月18日)は、日本の内務官僚、政治家。法学博士。幼名は恵助(えすけ)。 1873年(明治6年)12月5日、山口県御庄村(現在の岩国市)に酒造業を営む羽村卯作の三男として生まれる。山口中学校、山口高等中学校予科、本科を経て、東京帝国大学法科大学英法科へ進学、1897年(明治30年)5月17日に、枢密顧問官、文部大臣、貴族院議員となる江木千之の養子となる。同年7月、帝大を卒業し、大学院に進学。1898年(明治31年)12月、文官高等試験に合格。1899年(明治32年)1月、内務省に入省する。神奈川県事務官、法制局参事官、1910年(明治43年)には拓殖局部長を歴任する。
高田 耘平(たかだ うんぺい、1873年(明治6年)12月1… 高田 耘平(たかだ うんぺい、1873年(明治6年)12月1日 - 1957年(昭和32年)6月29日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。衆議院有数の弁論家で農政通として知られた。 栃木県那須郡、のちの荒川村(南那須村、南那須町を経て現那須烏山市)で、高田啓三郎、トヨ夫妻の長男として生まれる。1892年(明治25年)栃木県尋常中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業。1902年(明治35年)11月に家督を相続し、農業を営む。 荒川村役場書記、栃木県会書記、税務属、荒川村助役、同村会議員、那須郡会議員を務め、1907年(明治40年)栃木県会議員に選出され2期在任し、参事会員も務めた。
和田 信二郎(わだ しんじろう、1873年12月 - 195… 和田 信二郎(わだ しんじろう、1873年12月 - 1950年8月29日)は、日本の国文学者・文部官僚。 若狭国小浜藩士・和田義比の次男。弟は和田光石。父の弟は和田維四郎、その子で従弟に推理作家の大坪砂男がいる。妹の夫は正木直彦。和田謹吾は五男。1891年東京英語学校、国語伝習所卒。1895年國學院卒。芳賀矢一に師事。奈良県立第一中学校(現奈良県立郡山高等学校)に赴任、のち津に移り、古事類苑編纂部に勤める。1903年文部省に入り、中学校高等学校教科書編纂官。1943年退任。
水野 幸吉(みずの こうきち、1873年(明治6年)12月 … 水野 幸吉(みずの こうきち、1873年(明治6年)12月 - 1914年(大正3年)5月23日)は、明治時代から大正時代の外交官。位階および勲等は従四位・勲三等。号は酔香で、俳人としても活動した。 旧尾張藩の勘定吟味役の水野尋樹の次男として姫路市龍野町に生まれる。父は明治維新後、東京に出て刑部省の役人となり、1872年に兵庫県庁に転職し1876年に淡路島洲本の支庁に移った。母は産後の肥立ちが悪く、産んだ5年後の1878年に没した。家は貧しかった。 幸吉は姉の栄子を頼り苦学し、1885年に京都の平安義校を卒業後、第三高等中学校に入学した。愛知県出身者のための愛育社の奨学金により、1897年に東京帝国大学政治学科を卒業。
齋藤 俊吉(さいとう しゅんきち、1873年(明治6年)12… 齋藤 俊吉(さいとう しゅんきち、1873年(明治6年)12月 - 1945年(昭和20年))は、日本の工学者。専門は繊維工業。元東京工業大学紡織学科主任教授。 1894年東京工業学校(現東京工業大学)化学工芸部染織工科卒業。1896年東京工業学校助教授着任。1902年から1906年まで文部省外国留学生としてイギリス及びドイツ帝国へ留学し、毛紡織研究を行った。 1906年東京高等工業学校教授に昇格。1929年東京高等工業学校の大学昇格に伴い東京工業大学附属工学専門部教授に就任し、のち東京工業大学紡織学科主任教授となった。1930年臨時産業合理局国産品愛用委員会委員。1939年蔵前工業会理事長。長女年子は陸軍中将北島熊男の妻。
三橋 久美(みつはし ひさよし、1873年〈明治6年〉11月… 三橋 久美(みつはし ひさよし、1873年〈明治6年〉11月27日 - 1943年〈昭和18年〉4月5日)は、明治から大正時代の日本の判事(裁判官)、教育者。大審院判事・部長、東京控訴院判事・部長、東京地方裁判所判事・部長、立教大学教授。 1873年(明治6年)11月、東京府人・三橋久實の長男として東京市小石川区で生まれる。その後、家督を相続する。 1901年(明治34年)7月、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した後、翌年3月に司法官試補(東京区裁判所詰)となる。 その後、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京地方裁判所部長、東京控訴院部長を歴任。 1924年(大正13年)1月、大審院判事に任じられ、1933年(昭和8年)1月には大審院部長に就任。
岸上 克己(きしがみ かつみ、1873年11月26日 - 1… 岸上 克己(きしがみ かつみ、1873年11月26日 - 1962年6月21日)は明治時代から昭和時代中期にかけて活動した日本のジャーナリスト、労働運動家。 筆名は香摘(こうてき)。栃木県出身。 栃木県河内郡宇都宮町(現在の宇都宮市)で元宇都宮藩の士族・岸上安敬の四男として生まれる。尋常小学校の頃は成績優秀であったが、教師に吃音をからかわれたことが原因で不登校となったため、従兄を頼って埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市浦和区)へ移り住んだ。 従兄は印刷工を営んでいたが、ここで知り合った高木旭山の誘いにより劣悪な環境での労働を強いられていた工員の待遇改善活動へ身を投じ、活版工懇話会の設立に参加して機関紙の編集委員となった。
津野田 是重(つのだ これしげ、1873年(明治6年)11月… 津野田 是重(つのだ これしげ、1873年(明治6年)11月25日 - 1930年(昭和5年)9月2日)は、大日本帝国陸軍の軍人、政治家。熊本県出身。最終階級は陸軍少将。衆議院議員。 熊本藩士、陸軍大尉・津野田是秋の長男として生まれる。中学済々黌、陸軍幼年学校を経て、1895年(明治28年)2月、陸軍士官学校(第6期)歩兵科を首席卒業。同年5月、陸軍歩兵少尉任官、近衛歩兵第1連隊付となる。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を優等で卒業。 1901年(明治34年)6月、参謀本部出仕となり、参謀本部部員、フランス駐在、参謀本部付を経て、1904年(明治37年)5月、第3軍参謀に発令され日露戦争に出征。
川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年〈明治6年〉11月… 川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年〈明治6年〉11月24日 - 1957年〈昭和32年〉6月30日)は、明治・大正・昭和時代の日本で活動した日本画家。本名は 川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)。画号は当初「玉舟(ぎょくしゅう)」、間もなく「玉堂」に改め、晩年は終の棲家と同名の「偶庵(ぐあん)」を別号として用いた。長男の真一は化学者で東京教育大学名誉教授。 愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町外割田)にて、1873年(明治6年)11月24日、筆墨紙商の長男として生まれる。1881年(明治14年)、一家は岐阜市に移住する。絵には12歳頃から親しむようになったという。1886年(明治19年)、京都の画家・青木泉橋が岐阜に来住すると、夫人も翠蘋と号する美人画家で、芳三郎少年は青木夫妻の知遇を得て大いに刺激を受けたという。
秋本 豊之進(あきもと とよのしん、1873年(明治6年)1… 秋本 豊之進(あきもと とよのしん、1873年(明治6年)11月21日 – 1934年(昭和9年)11月27日)は、衆議院議員。実業家。 山口県美祢郡秋吉村(現在の美祢市)出身。1895年(明治28年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、高等文官試験に合格した。会計検査官補・会計検査院書記官、奈良県参事官、大分県事務官・第四部長、統監府鎮南浦理事官、朝鮮総督府平壌府尹を歴任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、朝鮮京南鉄道株式会社常務取締役、同副社長、朝鮮中央鉱業株式会社代表取締役、桑原鉄工所株式会社取締役、月島鋳工場株式会社取締役、船木鉄道株式会社取締役などを務めた。
加藤 知正(かとう ちせい、1873年〈明治6年〉11月19… 加藤 知正(かとう ちせい、1873年〈明治6年〉11月19日 - 1947年〈昭和22年〉4月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 新潟県古志郡下塩谷村で、加藤周浄の二男として生まれる。1900年(明治33年)、東京高等蚕糸学校(のち東京繊維専門学校を経て、現在の東京農工大学)を卒業。北越蚕業講習所教頭、大日本蚕糸会技師、同理事、東京高等蚕糸学校講師、南光社社長などを歴任した。1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に無所属で立候補したが落選した。1924年(大正13年)の第15回総選挙において立憲政友会公認で立候補して当選。以来第19回総選挙を除いて通算6期務める。1942年(昭和17年)の第21回総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選。
内藤 馬藏(ないとう うまぞう、1873年(明治6年)11月… 内藤 馬藏(ないとう うまぞう、1873年(明治6年)11月17日 - 1940年(昭和15年)1月10日)は、日本の教育者。岡山県倉敷市出身。 1873年(明治6年)岡山県倉敷市に住む内藤永吉の次男として出生する。1899年(明治32年)、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、大学院に入った。1901年(明治34年)、第六高等学校教授となり、20年余り勤務した。1924年(大正13年)から1927年(昭和2年)まで高知高等学校校長を務めた。
吉川 安平(よしかわ やすひら、1873年(明治6年)11月… 吉川 安平(よしかわ やすひら、1873年(明治6年)11月17日 - 1959年(昭和34年)1月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山口県出身。吉川弥之助の長男として生れる。周陽学舎、鴻城義塾、山口高等学校を経て、1895年12月、海軍兵学校(22期)を卒業し、1897年1月、海軍少尉任官。日露戦争では、第14水雷艇隊艇長として出征し、日本海海戦には、駆逐艦「陽炎」艦長として参加した。海兵副官を経て、1909年5月、海軍大学校(甲種6期)を卒業した。 「豊橋」副長、第1潜水艇隊司令、イギリス駐在、海大教官、「伊吹」副長、第3艦隊参謀長、「利根」艦長、艦政本部造船造兵監督官、海軍省人事局第1課長、「比叡」艦長などを歴任し、1919年12月、海軍少将に進級。
平尾 喜三郎(ひらお きさぶろう、1873年〈明治6年〉11… 平尾 喜三郎(ひらお きさぶろう、1873年〈明治6年〉11月17日 - 1951年〈昭和26年〉3月10日)は、日本の実業家、政治家。沖縄の寄留商人で貴族院多額納税者議員を務めた。勲等は勲四等。 奈良県添上郡手貝町(現奈良市手貝町)で、平尾喜八の長男として生まれる。1883年(明治16年)、一家で沖縄に渡った。 反物行商などに従事し、雑貨商となり平尾商店を設立した。その後、奄美大島に支店を設け琉球反物を取扱い、さらにアサヒビール、味の素の沖縄代理店となる。1915年(大正4年)三共組帽子商会を設立しアダン葉帽子の製造・販売を行う。その他、南陽酒造社長、沖縄県酒造組合長、同顧問、同連合会長などを務め、1935年(昭和10年)10月、那覇商工会議所が設立され初代会頭に就任した。
山田 恵一(惠一、やまだ けいいち、1873年(明治6年)1… 山田 恵一(惠一、やまだ けいいち、1873年(明治6年)11月16日 - 1930年(昭和5年)12月13日)は、大正から昭和初期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 名東県山田郡、後の香川県山田郡前田村(木田郡前田村を経て現高松市前田)で山田光次郎の長男として生まれる。1904年(明治37年)1月に家督を相続した。奈良県立郡山尋常中学校(現奈良県立郡山高等学校)を経て、第三高等学校を卒業した。 その後帰郷し、1917年(大正6年)、香川県下の養蚕業振興のため木田郡に製糸工場を開設し、木田郡農会長、大日本山林会特別議員、香川県製糸組合長、同県農会副会長、同県蚕糸業同業組合連合会組長などを務めた。
阪口 吉蔵(さかぐち きちぞう、前名・吉太郎、1873年〈明… 阪口 吉蔵(さかぐち きちぞう、前名・吉太郎、1873年〈明治6年〉11月15日 - 没年不明)は、日本の酒造家、銀行家、兵庫県多額納税者。西宮銀行取締役。族籍は兵庫県平民。 兵庫県武庫郡西宮町(現・西宮市)の人、先代阪口吉蔵の長男。阪口市蔵の兄。1900年、家督を相続し、前名・吉太郎を改めた。「丹波屋」と称し、酒造業を営み、傍ら銀行の重役であった。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。趣味は陶器。宗教は浄土宗。住所は兵庫県西宮市浜脇町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
坂野 鉄次郎(さかの てつじろう、1873年(明治6年)11… 坂野 鉄次郎(さかの てつじろう、1873年(明治6年)11月14日 - 1952年(昭和27年)6月5日)は、日本の逓信官僚、政治家・貴族院議員(多額納税)、実業家。 岡山県津高郡菅野村(後の御津郡野谷村菅野、現在の岡山市北区菅野)出身。岡山県士族・坂野半四郎の長男。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。 逓信省通信局に入る。1899年(明治32年)、逓信事務官に任ぜられた。大阪郵便局に転じ、監理課長を務めた。北清事変の際には野戦郵便事務視察官を務めた。1901年(明治34年)、長野郵便局長に任ぜられ、1902年(明治35年)、本省書記官となり、日露戦争の際には大本営野戦高等郵便局長を務めた。
前川 謙三(まえかわ けんぞう、1873年(明治6年)11月… 前川 謙三(まえかわ けんぞう、1873年(明治6年)11月13日 - 1946年(昭和21年)3月1日)は、日本の写真家。小西寫眞専門学校(後の東京工芸大学)創立時の講師の一人でもある。 1873年(明治6年)に福井県大野郡鹿谷村大字矢戸口(現・勝山市鹿谷町矢戸口)の医師・前川九兵衛の次男として誕生した。鹿渓小学校卒業後、1888年(明治11年)7月に東京府芝区新桜田町に丸木写真館を構えていた同じ福井県出身の丸木利陽に師事。5年間の契約だったが、期間満了後も技師として丸木写真館に残った。 1895年(明治28年)からは築地明石町のサンマース英語学校にも通い、1898年(明治31年)に渡米して写真術を研究したが、レンブラント採光法を取り入れようとしていた丸木の意向もあったとされる。
宮川 春汀(みやがわ しゅんてい、明治6年〈1873年〉11… 宮川 春汀(みやがわ しゅんてい、明治6年〈1873年〉11月11日 - 大正3年〈1914年〉7月26日)とは、明治時代の浮世絵師。富岡永洗の門人。他に洗圭、漁史と号し、Sとも記す。 三河国渥美郡畠村(現・愛知県田原市福江町)に廻船業と薬種問屋を営んでいた豪商・渡辺家に生まれた。名は守吉。1878年(明治11年)に母が絶家となっていた宮川家を継いだため、守吉も宮川を名乗る。 12歳の時、敷知郡誠明教育会主催の展覧会で作文・図画の一等賞を受賞。14歳の時、漢書の筆写を好んで絵を模写する。1890年(明治23年)得意としていた画業を志し、全ての財産を整理して上京、富岡永洗について絵を学んだ。春汀が画家となった理由は不明だが、同郷の日本画家・渡辺小華に憧れたからとする説がある。
相賀 照郷(あいが てるさと、1873年〈明治6年〉11月9… 相賀 照郷(あいが てるさと、1873年〈明治6年〉11月9日 - 1950年〈昭和25年〉11月17日[要出典])は、日本の警察・台湾総督府官僚。佐世保市長。 佐賀県杵島郡富岡村(現:武雄市)で、佐賀県士族・相賀照忠の長男として生まれる。1896年7月、第五高等学校を卒業。1900年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同月、逓信省に入省し鉄道書記となる。1902年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1903年3月、内務省に転じ警視庁属兼同庁警部となる。以後、警視庁警視、府中警察署長を務める。1905年5月、関東州民政署に転じ民政署警視に就任。以後、金州支署長、関東都督府金州民政署長、同旅順民政署長、同大連民政署長などを歴任し、1912年12月に休職となる。
河原 直孝(かわはら なおたか、1873年(明治6年)11月… 河原 直孝(かわはら なおたか、1873年(明治6年)11月5日 - 1945年(昭和20年)7月2日)は、大正から昭和時代前期の政治家・実業家。北海道小樽市長。 河原一郎の長男として石川県金沢城下に生まれ、1922年(大正11年)家督を相続する。1897年(明治30年)7月、第四高等学校大学予科第一部を修了後、1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1905年(明治38年)4月に北海道庁立小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)の嘱託教員となる。 実業界に転じ、小樽電気・北海道精米・小樽電燈などの取締役を務め、さらに、小樽商業会議所議員、小樽区会議員などを歴任する。市制施行すると、1922年(大正11年)10月、小樽市会議員に就任し、同議長を兼任した。
泉 鏡花(いずみ きょうか、本名:泉 鏡太郎〈いずみ きょう… 泉 鏡花(いずみ きょうか、本名:泉 鏡太郎〈いずみ きょうたろう〉、1873年〈明治6年〉11月4日 - 1939年〈昭和14年〉9月7日)は、日本の小説家。明治後期から昭和初期にかけて活躍した。小説のほか、戯曲や俳句も手がけた。帝国芸術院会員。 金沢市下新町生まれ。尾崎紅葉に師事した。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで、幻想文学の先駆者としても評価されている。ほかの主要作品に『照葉狂言』『婦系図』『歌行燈』などがある。 1873年(明治6年)11月4日、石川県金沢市下新町に生まれる。父・清次は、工名を政光といい、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金などの錺職人であった。
星野 元治(ほしの もとじ、1873年〈明治6年〉11月3日… 星野 元治(ほしの もとじ、1873年〈明治6年〉11月3日 - 1955年〈昭和30年〉1月16日)は、日本の実業家・政治家。第25代群馬県会議長、勢多郡会議員、勢多郡黒保根村長。水沼製糸所の経営や甘楽社社長として養蚕産業界に功績を残した。 1873年(明治6年)、星野長太郎・カクの子として熊谷県勢多郡水沼村(現・群馬県桐生市黒保根町水沼)に生まれた。次男とされたが兄は養子の文弥であるため、実際には長男。1891年(明治24年)6月明治学院高等科(現・明治学院高等学校)を卒業。同校の学友には島崎藤村や和田英作がいた。 郷里に帰ると父が設立した水沼製糸所の経営に参画。1900年(明治33年)には経営難から水沼製糸所の所有権は椎名三衛へと移ったが、経営には元治があたった。
菊池 長右衛門(きくち ちょううえもん、1873年(明治6年… 菊池 長右衛門(きくち ちょううえもん、1873年(明治6年)11月3日 - 1922年(大正11年)5月16日)は、日本の政治家。立憲政友会衆議院議員(1期)。 岩手県出身。菊池家は盛岡藩の豪商であった東屋の一族である。宮古町会議員、下閉伊郡会議員、同参事会員、同議長、宮古町漁業組合長などを勤め、1920年の第14回衆議院議員総選挙で立憲政友会から立候補して当選。1期務めた。明治期に閉伊川河口の埋め立て工事が行われた際は私財を投じてこれにあたった。また自らが中心となり盛宮自動車を設立。さらに原敬と共に山田線の地元誘致へ働きかけるなど、劣悪だった地域の交通事情改善のため尽力した。
宇山 熊太郎(うやま くまたろう、1873年(明治6年)11… 宇山 熊太郎(うやま くまたろう、1873年(明治6年)11月3日 - 1948年(昭和23年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 島根県出身。のちの能義郡広瀬町(現安来市)で生まれる。1896年(明治29年)11月に陸軍士官学校(第8期)を卒業し、1897年(明治30年)6月、砲兵少尉に任官。 1903年(明治36年)、砲兵大尉に進み野戦砲兵第2連隊中隊長となり日露戦争に従軍した。1920年(大正9年)4月に野砲兵第1連隊長、同年9月に陸軍砲兵大佐を経て、1924年(大正13年)12月に陸軍少将・澎湖島要塞司令官に任官。 その後、1926年(大正15年)3月に野戦重砲兵第1旅団長を経て、1928年(昭和3年)3月8日に待命、同月29日に予備役に編入した。
川崎 巳之太郎(かわさき みのたろう、1873年(明治6年)… 川崎 巳之太郎(かわさき みのたろう、1873年(明治6年)11月1日 - 1951年(昭和26年)7月10日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 茨城県久慈郡坂本村(現在の日立市)出身。1893年(明治26年)、明治学院(現在の明治学院大学)を卒業。日刊新聞『世界之日本』の編集長となり、月刊雑誌『天地人』を発行した。1898年(明治31年)、アメリカ合衆国に渡り、カリフォルニア大学の聴講生となるかたわら、日米新聞を刊行した。1901年(明治34年)に日本に戻り、翌年に日本植民会社を設立した。1903年(明治36年)、日本植民会社の事業開始のためペルーに渡るが、日露戦争勃発により中止となった。
石黒 長平(いしぐろ ちょうへい、1873年〈明治6年〉10… 石黒 長平(いしぐろ ちょうへい、1873年〈明治6年〉10月27日 - 1936年〈昭和11年〉10月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県中蒲原郡大鹿新田(小鹿村、小合村を経て現新潟市秋葉区大鹿)で、里正・石黒忠三郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)新潟県農学校を卒業。 父・忠三郎が先に北海道に渡り、開墾に従事。1893年、岩見沢村に移住し開墾に従事し、その後、味噌醤油製造業、牧畜業を営んだ。 政界では、岩見沢村惣代人、徴兵参事員、学務委員、岩見沢村会議員、同町会議員、北海道会議員、同参事会員などを歴任。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙で北海道第七区から出馬し当選した伊藤広幾が1923年(大正12年)4月に死去し、同年6月の補欠選挙に出馬して当選し衆議院議員を一期務めた。