久我 篤立(くが とくりゅう、1861年9月5日(文久元年8… 久我 篤立(くが とくりゅう、1861年9月5日(文久元年8月1日) - 1943年(昭和18年)3月19日)は、日本の僧侶。曹洞宗總持寺独住第14世貫首。大僧正、龍拈寺管長。 三河国(愛知県)生まれ。8歳で出家、のち良洞巨介の法をつぐ。1885年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。同年、法尺寺住職、1887年豊橋の竜拈寺管長。のち曹洞宗師家竜拈寺認可僧堂専門、僧堂開単、愛知県第二曹洞宗宗務所長を務めた。また私立豊橋幼稚園長、愛知県社会教育委員、豊橋連合市会副議長、豊橋市仏教連合会顧問などを兼務。軍人布教師や自治団体、社会事業の公職を務め、豊橋育児院をつくるなど社会事業にも尽力した。1943年總持寺独住第15世貫首に就任。
平山 増之助(ひらやま ますのすけ、1861年9月5日(文久… 平山 増之助(ひらやま ますのすけ、1861年9月5日(文久元年8月1日) - 1914年(大正3年)6月29日)は、明治期の薬学博士、日本陸軍一等薬剤正。下総国出身。族籍は東京府士族。 1861年9月5日((旧暦)文久元年8月1日)、下総多古藩(現千葉県香取郡多古町)藩医平山玄益の次男として生まれ、1872年(明治5年)東京・横浜に遊学し東京大学予備門を経て1882年(明治15年)東京大学医学部製薬学科を卒業して製薬士の称号を得た。 直後に日本陸軍剤官副となり熊本鎮台病院に勤務し、1888年(明治21年)1月熊本薬学専門学校初代校長となる(ドイツ留学により退任)。1889年(明治22年)7月にドイツに留学した。
斎藤 紀一(さいとう きいち、1861年9月5日(文久元年8… 斎藤 紀一(さいとう きいち、1861年9月5日(文久元年8月1日) - 1928年(昭和3年)11月17日)は、日本の医師(脳神経及び精神病専門医、青山脳病院長)、政治家。 同じく精神科医で歌人である斎藤茂吉の養父としても知られる。族籍は東京府平民。 東京の開業医として成功、ドイツ留学では医学博士号を取得した。また、一代で大規模な精神病院、「青山脳病院」を築き、帝国議会議員としても華麗な生活を送った。性格的には大言壮語が目立ち、孫である斎藤宗吉(北杜夫)からは後に、「口先がうまく、成り上がり者で貴族趣味の俗物」と評されている。北の長編小説『楡家の人びと』の主人公楡基一郎のモデルでもある。住所は東京市赤坂区青山南町。
千年川 政吉(ちとせがわ まさきち、文久元年7月25日(18… 千年川 政吉(ちとせがわ まさきち、文久元年7月25日(1861年8月30日) - 明治45年(1912年)7月4日)は、青森県つがる市出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は奈良 安吉(なら やすきち)。身長170cm、体重94kg。最高位は小結。 一ノ矢藤太郎を頼って津軽から上京。小結を5場所務めた。腸を患っていたため思うような活躍ができなかったが、技量も土俵態度も優れ、三役の風格を持っていた。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
本間 光義(ほんま こうぎ/みつよし、1861年8月29日(… 本間 光義(ほんま こうぎ/みつよし、1861年8月29日(文久元年7月24日) - 1925年(大正14年)3月24日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(1期)。通称は友次郎。 本間光貞の長男として出羽鶴岡藩領飽海郡、のちの酒井新田村天王下(山形県飽海郡西荒瀬村を経て現酒田市)に生まれる。長きにわたり飽海郡会議員、同参事会員を務め、1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙では山形県第3区から出馬し当選する。のち酒田町農会副会長や光ヶ丘園芸組合長となり果樹栽培に従事した。ほか、山形県会議員を務めた。
森田 思軒(もりた しけん、1861年8月26日(文久元年7… 森田 思軒(もりた しけん、1861年8月26日(文久元年7月21日) - 1897年(明治30年)11月14日)は、日本のジャーナリスト・翻訳家・漢文学者。本名は文蔵。別号に埜客(やきゃく)、羊角山人(ようかくさんじん)、白蓮庵主人(びゃくれんあんしゅじん)、紅芍園主人(こうしゃくえんしゅじん)など。 1861年(文久元年)、備中国小田郡笠岡(現・岡山県笠岡市西本町)に岡山県議会議員や窪屋郡長を務めた森田佐平の子として生まれる。1874年(明治7年)、大阪慶應義塾に入塾し、1875年(明治8年)に徳島慶應義塾に移動し、1876年(明治9年)に三田の慶應義塾本校で英文学を学ぶ。1879年(明治12年)には岡山の興譲館で坂田警軒について漢学を修めた。
深田 直城(ふかだ ちょくじょう、文久元年7月14日(186… 深田 直城(ふかだ ちょくじょう、文久元年7月14日(1861年8月19日) - 昭和22年(1947年))は、明治から昭和初期にかけての日本画家。京都で四条派を学び、その流れを組む大阪の船場派で画作に励むとともに多くの後進を育てた。 深田直城は、幕末の文久元年7月14日(1861年8月19日)に近江国膳所藩(現:滋賀県大津市)に生まれた。明治2年(1869年)に京都へ移住。明治8年(1875年)、父の友人だった加島菱洲から洋画を習い、翌9年4月に森川曾文に師事して四条派を学ぶ。明治11年(1878年)18歳で独立し、明治14年(1881年)から明治19年(1886年)まで京都画学校に出仕し、後進の育成に努めた。
水上 浩躬(みなかみ ひろみ/ひろちか、1861年8月12日… 水上 浩躬(みなかみ ひろみ/ひろちか、1861年8月12日(文久元年7月7日) - 1932年3月26日)は、日本の政治家。第3代神戸市長(在任:1905年9月27日 - 1909年)。神戸港の築港に取り組み、第一期工事を実現させた功績から「築港市長」と呼ばれる。肥後国(熊本県)出身。旧姓は斎藤。 斎藤能躬の子として、1861年8月12日(文久元年7月7日)、肥後国(熊本県)に生まれる。1892年(明治25年)3月、水上新平の養子となる。東京帝国大学卒業後、長崎県書記官、貴族院書記官、大蔵省参事官、神戸税関長、横浜税関長などを経て、1905年9月27日に神戸市長に就任。1905年3月17日に辞任した第2代市長・坪野平太郎の後任は市会内の進歩党、政友会による抗争が原因で難航し、2度の投票をもってしても決まらず、仲裁に入った神戸商業会議所会頭岸本豊太郎が兵庫県知事服部一三、大蔵大臣阪谷芳郎らと協議した結果候補に挙がったのが水上であった。
蔵原 惟郭(くらはら これひろ、文久元年7月6日〈1861年… 蔵原 惟郭(くらはら これひろ、文久元年7月6日〈1861年8月11日〉 - 昭和24年〈1949年〉1月8日)は肥後国(熊本県)出身の政治家、教育家。衆議院議員(立憲同志会)、熊本英学校校長。Ph.D. 肥後国阿蘇郡黒川村(現在の熊本県阿蘇市)にて、阿蘇神社の直系として生まれる。幼名は三治兵衛。 熊本洋学校と同志社英学校を卒業後、1884年に渡米、留学。次いで1890年に渡英し、1891年に帰国。熊本英学校および熊本女学校の校長を歴任。 1896年、岐阜県で旧制中学校の校長に就任したが、1897年に辞職して上京。帝国教育会主幹として図書館の普及に尽力した。 1900年、政友会創立に参加。日露戦争後は立憲国民党や立憲同志会に所属。
野木 善三郎(のぎ ぜんざぶろう、1861年8月2日(文久元… 野木 善三郎(のぎ ぜんざぶろう、1861年8月2日(文久元年6月26日) - 1918年(大正7年)3月28日)は日本の政治家、公証人。衆議院議員(2期、憲政本党)。 1861年(文久元年)6月、陸奥国西白河郡滑津村(現中島村)にて生まれる。1878年(明治11年)に福島県師範学校(福島大学の前身校の一つ)を卒業する。小学校の教員として勤めたのち、東京法学校(現・法政大学)に学び、公証人となる。戸長、学務委員、福島県会議員などを経て、1903年(明治36年)に第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する(連続2期当選)。また、農業を営み、福島新聞社主を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
奥 繁三郎(おく しげさぶろう、1861年8月1日〈文久元年… 奥 繁三郎(おく しげさぶろう、1861年8月1日〈文久元年6月25日〉- 1924年〈大正13年〉9月8日)は、京都府出身の明治・大正時代の政治家。衆議院議長。関西法律学校(現:関西大学)卒。 山城国綴喜郡八幡(現:京都府八幡市)で、代々石清水八幡宮神官の奥家、季次の長男として生まれる。 1879年(明治12年)、京都府師範学校を卒業。小学校訓導兼校長を務めた。関西法律学校在学中に代言人試験に合格後、1888年(明治21年)に京都府会議員となる。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙に京都府第4区から出馬し衆議院議員に初当選。1901年(明治34年)12月、第6回総選挙京都府第4区選出の喜多川孝経の辞職に伴う補欠として当選。
戸水 寛人(とみず ひろんど、1861年8月1日(文久元年6… 戸水 寛人(とみず ひろんど、1861年8月1日(文久元年6月25日) - 1935年(昭和10年)1月20日)は、日本の法学者・政治家。学位は、法学博士。 加賀国石川郡金沢城下下本多町(現・石川県金沢市下本多町)出身。戸水義の長男。帝国大学法科大学(現・東大法学部)卒業後、ヨーロッパに留学。帰国後、1894年(明治27年)に帝国大学法科大学教授に就任。ローマ法、民法学が専攻。 1904年(明治37年)、日露戦争開戦時には富井政章らと「七博士意見書」を提出し、ロシア帝国へ武力侵攻しバイカル湖以東の東シベリア占領を強硬に主張。このことからバイカル博士と渾名されることになる。日露戦争末期の1905年(明治38年)に賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張。
大滝 伝十郎(旧字体: 大瀧 傳十郞、おおたき でんじゅうろ… 大滝 伝十郎(旧字体: 大瀧 傳十郞、おおたき でんじゅうろう、1861年8月1日(文久元年6月25日)- 1944年(昭和19年)11月15日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県会議長。長男の岳母は衆議院議員 牧口義矩姉。四男は衆議院議員 丸山豊治郎 弟笠原謙治郞養子。 越後国頸城郡梶村(新潟県中頸城郡梶村、旭村、吉川町梶を経て現上越市吉川区梶)で、素封家・大滝甚十郎の二男として生まれた。儒者に師事して漢学を修めた。1883年(明治16年)12月、家督を相続した。 1886年(明治19年)梶村外23カ村戸長に就任。1889年(明治22年)町村制施行により旭村会議員に就任した。
沼田 宇源太(ぬまた うげんた、文久元年6月20日(1861… 沼田 宇源太(ぬまた うげんた、文久元年6月20日(1861年7月27日) - 明治44年(1911年)8月12日)は、衆議院議員(立憲革新党→進歩党→憲政党→憲政本党)、弁護士。 出羽国横手に生まれる。幼時に戊辰戦争で祖父と父を失った。漢学を修め、1887年(明治20年)11月に秋田県会議員に平鹿郡選挙区から選出された。1888年(明治21年)4月に辞職するが、同月再び県会議員となった。1889年(明治22年)、東京法学院(現在の中央大学)に入学して法学を学び、1891年(明治24年)に東京法学院を卒業して、弁護士資格を取得した。 1894年(明治27年)、第4回衆議院議員総選挙に出馬し当選。
斎藤 研一(さいとう けんいち、1861年7月27日(文久元… 斎藤 研一(さいとう けんいち、1861年7月27日(文久元年6月20日)- 没年不詳)は、日本の大阪府堺市長。香川県丸亀市長。 讃岐国多度郡善通寺村(現在の香川県善通寺市)出身。1881年(明治14年)、仲多度郡書記となる。1884年(明治17年)、大阪府に転任し、1900年(明治33年)に北河内郡長に就任した。 1910年(明治43年)、堺市長に就任し、税制の整理や教育機関の充実を行った。 1915年(大正4年)、丸亀市長に選出された。 1917年(大正6年)、堺市長に再選され、周辺町村の編入や堺市立商業学校の創設などの功績をあげた。
藤田 四郎(ふじた しろう、文久元年6月18日(1861年7… 藤田 四郎(ふじた しろう、文久元年6月18日(1861年7月25日) - 昭和9年(1934年)1月9日)は、日本の農商務官僚、貴族院勅選議員。 志摩国鳥羽出身。鳥羽藩士・藤田龍三の三男に生まれ、出生地は越後国西蒲原郡弥彦村、東京帝国大学法科大学卒業。明治18年(1885年)、外務省に出仕し御用掛外交官試補、外務省参事官となり、ベルリンやウィーンの公使館に勤務した。その後逓信省に転じ、参事官と後藤象二郎逓信大臣の秘書官を兼ねた。さらに明治25年(1892年)には農商務省に転じ、参事官・後藤象二郎農商務大臣秘書官・特許局長・農務局長を歴任した。明治31年(1898年)5月から7月まで農商務次官を務め、11月に再任された。
早川 権弥(はやかわ ごんや、文久元年6月18日(1861年… 早川 権弥(はやかわ ごんや、文久元年6月18日(1861年7月25日) - 大正10年(1921年)8月10日)は、日本の政治家。衆議院議員、本名は早川義親。 信濃国佐久郡前山村(現長野県佐久市)生まれ。父親の早川重衛門は後に第十九国立銀行初代頭取を務めた。長野県師範学校を卒業後、明治14年(1881年)自由党に加盟し、党勢の拡張に奔走する。同17年(1884年)の飯田事件に関係したとして検挙されたが証拠不十分として免訴となった。同18年(1885年)には立川雲平、木内信らと東信友誼会を結成し、同20年(1887年)に長野県下の有志を代表して上京し、条約改正反対、地租軽減、言論集会の自由を求めた三大建白書を元老院に提出したが、保安条例によって東京から追放される。
飯島 魁(いいじま いさお、文久元年6月17日(1861年7… 飯島 魁(いいじま いさお、文久元年6月17日(1861年7月24日) - 1921年(大正10年)3月14日)は、明治・大正期の動物学者、魚類学者(理学博士)。海綿の研究と、鳥・寄生虫に関する研究が多く、日本動物学の前進に大きな役割を果たした。 日本鳥学会を創設し、1912年から1921年まで初代会長に就任。また、豪快な性格で、長さ10mに達するミゾサナダムシの幼虫を自ら飲んで、ミゾサナダムシの感染経路を明らかにしたエピソードでも知られる。 寄生虫類を研究し、その感染経路を明らかにする。また1918年(大正7年)に1000頁を超える「動物学提要」を著す。これは明治・大正期の動物学を総括したもので、長く必読の教科書とされ、日本における動物学の普及に貢献した。
恩田 重信(おんだ しげのぶ、文久元年6月16日(1861年… 恩田 重信(おんだ しげのぶ、文久元年6月16日(1861年7月23日) - 昭和22年(1947年)7月30日)は、日本の薬学者。明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)の創立者。 信濃国松代城下 (現在の長野県長野市松代町) に松代藩士恩田十郎時篤の子として生まれる。1882年東京帝国大学医学部製薬学科を卒業。内務省に入省。千葉医学校附属病院薬局長を経て陸軍薬剤官から二等薬剤官となった。日清戦争、日露戦争に従軍し、医学用語の統一を図り、「独和他国字書大全」、「独和新医学大字典」を刊行、陸軍医官であった森鴎外からも業績をたたえられた。 1902年(明治35年)東京市神田区に東京薬学専門学校(のち明治薬学専門学校に移行)を創立し初代校長となる。
白瀬 矗(しらせ のぶ、1861年7月20日〈文久元年6月1… 白瀬 矗(しらせ のぶ、1861年7月20日〈文久元年6月13日〉- 1946年〈昭和21年〉9月4日)は、日本の陸軍軍人、南極探検家。最終階級は陸軍輜重兵中尉。幼名は知教(ちきょう)。 「白瀬中尉」と呼ばれることが多い。 文久元年(1861年)、出羽国由利郡金浦村(現在の秋田県にかほ市)出身。浄蓮寺の住職、白瀬知道・マキエの長男、知教(ちきょう)として生まれた。 南極探検以後になって出版した自伝によると、幼年時代は非常にわんぱくだったという。「金浦の浜辺に漁師が捨てた小魚を狙ってきた狐の尻尾をちぎった」「海に潜って300トンもある千石船の底を潜り抜けようとしたが、抜けられずに溺れて死にかけた」「本堂に引っかった凧を取ろうとして落っこちた」のほか、狼退治や150人と血闘を行ったなどと列挙している。
木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久… 木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久元年6月5日) - 1934年(昭和9年)9月24日)は、明治・大正期の政治家、実業家。日本銀行に30年間在職し、日本銀行副総裁、貴族院勅選議員。正五位勲二等。 備中国小田郡三谷村(現・岡山県小田郡矢掛町)生まれ。 大阪で化学・英学を学んだのち、1884年(明治17年)に慶應義塾(現・慶應義塾大学)へ入学。慶應義塾卒業後に、『商況社』に入社し、『中外商業新報』(現在の日本経済新聞社)主幹を経て、社長に就任。新聞を日刊化させるなど大きく飛躍させる。 時の日本銀行総裁・岩崎の勧めにより日本銀行に入行。1901年(明治34年)営業局長、1906年(明治39年)理事、1916年(大正5年)副総裁となる。
飯島 正治(いいじま まさじ / しょうじ、文久元年5月22… 飯島 正治(いいじま まさじ / しょうじ、文久元年5月22日〈1861年6月29日〉 - 1922年〈大正11年〉7月24日)は、明治から大正時代にかけての日本の政治家・実業家である。政治家としては長野県会議員(1期)や衆議院議員(2期)を歴任、実業家としては六十三銀行頭取を長く務めた。号は雪州。 子に六十三銀行の後身にあたる八十二銀行で頭取を務めた飯島正一がいる。 飯島正治は、文久元年5月22日(新暦:1861年6月29日)、飯島新左衛門の長男として生まれた。飯島家は信濃国更級郡今井村(後の長野県更級郡中津村、現・長野市)の素封家。300年を越える旧家であり、先祖は上野国館林から移り住んできたと伝わる。
小原 雲心(おはら うんしん、文久元年5月19日(1861年… 小原 雲心(おはら うんしん、文久元年5月19日(1861年6月26日) - 大正6年(1917年)1月1日)は、いけばな小原流の創始者。彫刻家。名は房五郎、号は六合軒。出雲国松江(現島根県松江市)出身。
荒井 泰治(あらい たいじ、1861年6月23日〈文久元年5… 荒井 泰治(あらい たいじ、1861年6月23日〈文久元年5月16日〉- 1927年〈昭和2年〉3月3日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員(1911年 - 1918年)。日本統治時代の台湾で事業を興し財を成した。 仙台に町奉行であった荒井加右衛門の分家に生まれる。宮城県士族荒井盛行の長男。明治維新後、東京に出て法律とフランス語を学びながら新聞記者となる。1885年(明治18年)には大阪新報社編集長。中江兆民の門下となる。 日本銀行総裁で同郷の富田鉄之助に見い出されて日本銀行に入り、富田の秘書となったが、富田が日本銀行を去ると荒井も去った。その後、鐘淵紡績に入り、1890年(明治23年)には鐘淵紡績支配人となる。
江間 俊一(えま しゅんいち、文久元年5月10日(1861年… 江間 俊一(えま しゅんいち、文久元年5月10日(1861年6月17日) - 昭和8年(1933年)5月31日)は、日本の弁護士、政治家。 1861年6月(文久元年五月)、遠江国磐田郡の東海道見附宿(現静岡県磐田市)の豪家山本幸七の子として生まれる。後に江間忠五郎の娘つねの入婿となる。1889年(明治22年)明治法律学校(現在の明治大学)卒業後、弁護士となり、東京弁護士会常議員、議長を歴任した。 1903年(明治36年)に明治大学雄弁会が発足した際に名誉会員となる。この雄弁会は一度活動休止状態となるが1908年(明治41年)に復活し、このとき会長に就任した。 政治家としては東京府会議員、東京市会議員・議長などを務め、1902年(明治35年)には第7回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬して当選し、その後も第10回衆議院議員総選挙(無所属)、第12回衆議院議員総選挙(立憲同志会)に当選した。
守屋 此助 (もりや このすけ、1861年6月13日(文久元… 守屋 此助 (もりや このすけ、1861年6月13日(文久元年5月6日) - 1931年(昭和6年)6月9日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、横浜市会議長、神中鉄道(現在の相模鉄道)社長。 1861年(文久1年5月6日)、備中国小田郡にて生まれる。東京法学校(現・法政大学)を卒業後、横浜市で弁護士を開業する。 1894年(明治27年)に第3回衆議院議員総選挙に当選する(以後当選8回、憲政会)。 1906年(明治39年)から横浜市子安町地先の海面埋め立て事業をおこない(後の守屋町)、1921年(大正10年)に横浜市会議長に就任する(-1922年(大正11年))。東京電車鉄道の監査役、京浜電気鉄道の取締役となり、また、興亜起業取締役会長、平沼製糸社長、神中鉄道、山東起業、満州製麻、青島電気、横浜桟橋倉庫の取締役、平沼製材の社長、日本火薬製造、火薬鉱業、東亜勧業の各監査役、膠奥電気股份有限公司の副董事長、法政大学理事などを歴任した。
大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年… 大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年6月12日(文久元年5月5日)- 1927年(昭和2年)5月9日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、滋賀県会議長。 近江国甲賀郡、のちの滋賀県甲賀郡土山村(土山町を経て現甲賀市土山町)で、農業、先代・大原重右衛門の二男として生まれる。漢学、数学、仏学を修めた。1881年(明治14年)4月、家督を相続した。 戸長、収税属、郡書記を務めた。滋賀県会議員に選出され、同常置委員、同議長、徴兵参事員、所得税調査委員などに在任。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(滋賀県第2区、無所属)で当選し、その後、進歩党に所属して衆議院議員に1期在任した。
井上 豊太郎(いのうえ とよたろう、1861年6月6日(文久… 井上 豊太郎(いのうえ とよたろう、1861年6月6日(文久元年4月28日) - 1951年(昭和26年)1月13日)は、日本の医学者、眼科医。島根県生まれ。 島根県邇摩郡宅野村(現・大田市仁摩町)に井上柳葊の三男として生まれる。1880年、島根県医学校に入学。1884年に同校を卒業後、1887年、獨逸学協会学校入学。1889年からドイツへ留学し、ベルリン大学やミュンヘン大学などで研鑽を積む。1895年に医学博士の学位を取得。 1896年、帰国して東京眼科病院を開院。1909年、ミュンヘン大学の恩師であるアウグスト・フォン・ロートムントの処方箋を参考に目薬を処方し、信天堂山田安民薬房(現ロート製薬)の山田安民が「ロート目薬」として調製・発売。
玉名 程三(たまな ていぞう、1861年6月5日(文久元年4… 玉名 程三(たまな ていぞう、1861年6月5日(文久元年4月27日) - 1937年(昭和12年)11月6日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人。旧名は、名村 程三(なむら ていぞう)。
渡部 芳造(わたなべ よしぞう、1861年5月27日(文久元… 渡部 芳造(わたなべ よしぞう、1861年5月27日(文久元年4月18日) - 1936年(昭和11年)3月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(鳥取県第3区選出、当選2回)。 伯耆国会見郡渡村(現鳥取県境港市渡町)の豪商「灘渡部」の渡部茂八郎の一人息子として生まれる。同村の医師渡辺恭平について漢学を学び、次いで備中高梁の山田方谷の塾、米子教員伝習所等で修行を積んだ。 第1回衆議院議員総選挙で支援当選させた松南宏雅の後を継いで、30歳にして第2回衆議院議員総選挙に出馬当選、連続二期国会議員を務めた。中国鉄道創立発起人となった。 一方、1892年(明治25年)の第2回総選挙で現職の門脇重雄を破って当選した渡部芳造(渡村) は吏党系で、以後2人は選挙の度に争い議席を分け合った。
後藤 文一郎(ごとう ぶんいちろう、1861年5月23日(文… 後藤 文一郎(ごとう ぶんいちろう、1861年5月23日(文久元年4月14日) - 1928年(昭和3年)9月29日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(4期)。 1861年(文久元年4月14日)、三河国碧海郡知立村(現・愛知県知立市)に生まれる。石川部平の青藍塾(漢学)に学んだ後、明法学社、茂松法学校、東京法学校(現・法政大学)で学ぶ。 1882年(明治15年)に代言人試験に合格し、愛知県岡崎町(現・愛知県岡崎市)で開業する。1890年(明治23年)に愛知県会議員に当選するも、衆議院議総選挙に出馬するため、1892年(明治25年)に県会議員を辞職する。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙に自由党候補として出馬するが、落選する。
徳増 源太郎(とくます げんたろう、1861年5月17日(文… 徳増 源太郎(とくます げんたろう、1861年5月17日(文久元年4月8日) - 1900年(明治33年)3月26日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員。 徳増七右衛門の長男として相模国鎌倉郡笛田村(神奈川県鎌倉郡深沢村を経て現鎌倉市)に生まれ、1880年(明治13年)1月、家督を相続する。若くして村役人を務め、1884年(明治17年)神奈川県自由党に入党。1890年(明治23年)深沢村会議員となり、ついで神奈川県会議員を務めた。神奈川県立師範学校の鎌倉への移転に尽力した。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では神奈川県第4区から出馬し当選。つづく第5回、第6回総選挙でも当選した。
三木 愛花(みき あいか、1861年5月14日(文久元年4月… 三木 愛花(みき あいか、1861年5月14日(文久元年4月5日) - 1933年(昭和8年)2月6日)は、明治・大正期の新聞記者、ジャーナリスト。本名、三木貞一。 1861年(文久元年)、上総国大網町(現在の千葉県大網白里市)生まれ。田中従吾軒の門下で「朝野新聞」「東京公論」記者などを経て、1893年(明治26年)に萬朝報に入社、1923年(大正12年)まで活動した。相撲通として知られ相撲雑誌に記事を執筆するなど相撲記者の先駆けでもあった。 将棋通でもあり、初めて新聞に「将棋欄」を設けたことでも知られる。「萬朝報」1898年(明治31年)1月1日付に指し将棋の棋譜を初めて新聞に掲載した。また三木の発案により、おなじく「萬朝報」において棋戦が初めて企画され、1908年(明治41年)9月11日付から「高段名手勝継将棊」が掲載された。
舟岡 英之助(ふなおか えいのすけ、1861年5月9日〈文久… 舟岡 英之助(ふなおか えいのすけ、1861年5月9日〈文久元年3月30日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月1日)は、日本の医師、医学者(生理学)。位階は正五位。勲等は勲五等。学位は医学博士(1908年)。 第三高等学校医学部教授、岡山医学専門学校教授、岡山医学専門学校校長事務取扱、岡山医科大学医学部教授などを歴任した。 1861年5月9日(旧暦文久元年3月30日)、武蔵国にて舟岡周介の長男として生まれた。周介は武士であったが、明治維新後は士族となった。英之助は医学の道を志し、帝国大学に進学し医科大学にて学んだ。当時の帝国大学は分科大学制を採用しており、学内に文科大学、法科大学、理科大学といった分科大学が設置されており、医科大学もその一つであった。
14代 西村 治兵衞(治兵衞、にしむら じへえ、1861年5… 14代 西村 治兵衞(治兵衞、にしむら じへえ、1861年5月4日(文久元年3月25日)- 1910年(明治43年)12月14日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、京都市会議長、千切屋治兵衛家14代当主(貞規)。旧姓・矢田。 丹波国桑田郡、のちの京都府南桑田郡亀岡町(現亀岡市)で、素封家・矢田勘助の二男として生まれる。丹波亀山藩儒・吉田大年、三上忠六らに師事し漢学、仏法典を修めた。1880年(明治13年)京都の呉服商・13代西村治兵衛貞慶の養嗣子となる。1884年(明治17年)養父の死去に伴い家督を継承し14代治兵衛を襲名した。 家業を継承しその発展に尽力。西陣織物商組合組長、京都染呉服商組合長を務めた。
石井 筆子(いしい ふでこ、文久元年4月27日(1861年4… 石井 筆子(いしい ふでこ、文久元年4月27日(1861年4月27日) - 昭和19年(1944年)1月24日)は、日本の教育者、社会福祉家。日本の近代女子教育者の一人であり、日本初の知的障害者福祉の創始者の一人である。男爵渡辺清の娘。別名・渡辺筆、小鹿島筆。滝乃川学園第2代学園長。 肥前国大村藩士の渡辺清・ゲンの長女として生まれる。父の清は弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として中央で忙しく、筆子は故郷で祖母、母らと暮らした。1872年(明治5年)に上京し、大村藩邸に寄宿し、1873年(明治6年)に東京女学校に入学し、同級生に穂積歌子(渋沢栄一の長女)、鳩山春子(共立女子大学創立者の一人)がいた。
宇都宮 太郎(うつのみや たろう、1861年4月27日〈文久… 宇都宮 太郎(うつのみや たろう、1861年4月27日〈文久元年3月18日〉- 1922年〈大正11年〉2月15日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍大将、位階・勲等は正三位勲一等功三級。 イギリス大使館付武官、参謀本部第二部長、第7師団長、第4師団長、三・一運動時の朝鮮軍司令官、軍事参議官を歴任した。桂太郎、仙波太郎と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれる。最近15年分の日記を遺族が公開し、2007年(平成19年)4月から11月にかけて出版された。いわゆる「佐賀の左肩党」の盟主で、皇道派の荒木貞夫・真崎甚三郎の庇護者でもあった。子息にミノファーゲン社長・衆議院議員の宇都宮徳馬。 佐賀鍋島藩士、亀川貞一の四男として生まれる。
三輪 桓一郎(みわ かんいちろう、1861年4月21日(文久… 三輪 桓一郎(みわ かんいちろう、1861年4月21日(文久元年3月12日) - 1920年(大正9年)2月1日)は、理学博士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 墓標は、谷中霊園内の寛永寺霊園に所在。
牧野 元(まきの はじめ、文久元年3月12日(1861年4月… 牧野 元(まきの はじめ、文久元年3月12日(1861年4月21日) - 大正10年(1921年)1月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、長野市長。 信濃国伊那郡鼎村(現在の長野県飯田市)出身。漢学を学び、1882年(明治15年)に下伊那郡全部町村聯合会議員に、1884年(明治15年)に鼎村戸長に就任した。1890年(明治23年)より長野県会議員を務め、1893年(明治26年)には県参事会員に、1899年(明治32年)に県会副議長に選出された。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第8回、第9回と連続当選を果たした。 1910年(明治43年)、長野市助役に就任。
小倉 倹司(おぐら けんじ、1861年4月19日(文久元年3… 小倉 倹司(おぐら けんじ、1861年4月19日(文久元年3月10日) - 1946年(昭和21年))は、陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師。日本で最初のフィルムによる写真撮影を実施したとされる者として知られている。 文久元年に現在の茨城県にて小倉元心の次男として生まれる。東京帝国大学理科選科を卒業。1887年(明治20年)に陸地測量部の前身組織である参謀本部陸軍部測量局に技生傭として奉職。1889年(明治22年)5月に小川一真、江崎礼二らとともに日本寫眞會の設立に関わる。同年12月25日、陸地測量部陸地測量手(判任官)に任官し、1892年(明治25年)7月6日、陸軍砲工学校敷地内において繋留気球から軍用空中写真の撮影に成功した。
中山 小四郎(なかやま こしろう、1861年4月19日(文久… 中山 小四郎(なかやま こしろう、1861年4月19日(文久元年3月10日)- 1928年(昭和3年)5月7日)は、明治期から昭和初期の林業家、政治家。衆議院議員、新潟県佐渡郡河原田町長。1914年(大正3年)五兵衛に改名した。 佐渡国雑太郡川原田町(新潟県佐渡郡河原田町、佐和田町を経て現佐渡市河原田本町)で、代々酒造業を営む中山家当主・中山五平の三男として生まれる。中山立恭、圓山溟北から漢籍を学び、その後上京して共立学校(現開成中学校・高等学校)で学んだ。兄・五兵衛が本間吾平の養子となり、1890年(明治23年)5月に家督を相続した。 河原田町会議員、同町長を務めた。1890年(明治23年)米の高騰で相川町で米一揆が起こり、川原田町貧民救助基金に寄付を行った。
奥村 七郎(おくむら ひちろう、1861年4月18日(文久元… 奥村 七郎(おくむら ひちろう、1861年4月18日(文久元年3月9日) - 1922年(大正11年)1月21日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(憲政会)、博多米穀取引所理事長、博多商業会議所会頭。 1861年(文久元年3月)、筑前国遠賀郡浅木村(現福岡県遠賀郡遠賀町)に生まれる。東京法学校(現・法政大学、明治23年)、英吉利法律学校、明治法律学校を卒業し、弁護士となる。福岡市会議員、同市参事会員を経て、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。 また、博多米穀取引所理事長、博多商業会議所会頭、博多電灯(後の九州電灯鉄道)・九州生命保険・鎮西倉庫各社の取締役、第十七銀行監査役などを務めた。
尼子 忠蔵(あまこ ちゅうぞう、1861年4月16日(文久元… 尼子 忠蔵(あまこ ちゅうぞう、1861年4月16日(文久元年3月7日) - 没年不明)は、日本の政治家(広島市会議員)、商人(醤油商)、醤油醸造家、実業家。第六十六銀行、尾道貯蓄銀行各取締役。(旧)広島銀行、中国紡績各監査役。広島桟橋監査役、同取締役。族籍は広島県平民。 広島県平民・尼子英次郎の長男。家は代々醤油醸造を業とし、「茶屋」と称する。漢学を学び、後に普通教育を受けた。商業に従事した。1881年、家督を相続した。銀行、会社の重役であった。第六十六銀行取締役兼広島支店長を務めた。 広島市胡町・恵美須神社の境内は、もと32坪2合9勺だったが、1909年6月、忠蔵が付近の地積42坪6合2勺を寄付したので74坪9合1勺となった。
初見 八郎(はつみ はちろう、1861年4月14日(文久元年… 初見 八郎(はつみ はちろう、1861年4月14日(文久元年3月5日) - 1930年(昭和5年)5月31日)は、仏語教授、日本の政治家、ジャーナリスト。国会議員衆議院議員。自由民権運動の中心人物。 常陸国猿島郡東山田村(現在の茨城県古河市)出身。東山田村名主の豪農、茨城県多額納税者である初見吉左衛門の四男で土浦五十銀行の頭取を務めた初見敬二郎の長男。明治維新前初見家は代々北山田(きたやまた)の名主でした。農業を中心に大規模な土地経営を行い、地域の有力な地主として知られていました。東山田村は藍の生産地であり、利根川水運を通じて深谷や江戸方面に送られる流通ルート上にあったため、渋沢栄一の藍染業務時代から直接関わっていました。
村上 芳太郎(むらかみ よしたろう、1861年4月13日(文… 村上 芳太郎(むらかみ よしたろう、1861年4月13日(文久元年3月4日)- 1909年(明治42年)1月15日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県越智郡今治町長。 伊予国越智郡今治中浜町(愛媛県越智郡今治中浜町、今治町を経て現今治市中浜町)で、商家に生まれた。漢学、法律学、経済学を修めた。 中浜町会議員、今治町会議員を務めた。1886年(明治19年)3月、愛媛県会議員に選出され、1894年(明治27年)9月まで在任。高須峯造の勧めで立憲改進党に所属した。1891年(明治24年)4月、今治町長に就任し1893年(明治26年)2月まで務めた。その他、連合町村会議員、所得税調査委員、学務委員などにも在任した。
桂 秀馬(かつら ひでま、1861年4月9日(文久元年2月3… 桂 秀馬(かつら ひでま、1861年4月9日(文久元年2月30日) - 1911年(明治44年)11月6日)は、日本の明治期における外科医、侍医。宮内省侍医。越後国新津(現在の新潟市秋葉区)出身。従四位勲四等。 1861年4月9日(文久元年2月30日)に越後国新発田藩領新津村(後に中蒲原郡新津町→新津市)の士族桂愼吾の六男として誕生。幼名は秀助。1887年(明治20年)7月9日に東京帝国大学医科大学を卒業(明治19年度卒業生)した。 卒業後東京帝国大学医学部においてドイツの外科医で、お雇い外国人であるユリウス・スクリバ博士の助手となった後、済生学舎及び第一高等中学校医学部(後に千葉医科大学を経て千葉大学医学部)教諭となり外科学を担当したが、1889年(明治22年)5月2日宮内省侍医局に異動となり第一高等中学校の後任に大学同期の三輪徳寛を推薦した。
日下部 辨二郎(弁二郎、くさかべ べんじろう、文久元年2月3… 日下部 辨二郎(弁二郎、くさかべ べんじろう、文久元年2月30日(1861年4月9日) - 1934年(昭和9年)1月22日)は、明治から昭和時代の土木技師、実業家。旧姓は巌谷。 書家・巖谷一六の次男として近江国甲賀郡水口村(現・滋賀県甲賀市水口町水口)に生まれる。1882年(明治15年)日下部鳴鶴の養子となり、1902年(明治35年)家督を相続する。 1868年(明治元年)京都に出て、富岡鉄斎や神山鳳陽に学び、翌年の1869年(明治2年)上京し、育英義塾にて英語を学ぶ。1874年(明治7年)開成学校に入り、1880年(明治13年)東京大学理学部を卒業し、理学士の称号を得る。のち1901年(明治34年)工学博士。
阿部 宇之八(あべ うのはち、1861年4月7日〈文久元年2… 阿部 宇之八(あべ うのはち、1861年4月7日〈文久元年2月28日〉 - 1924年〈大正13年〉11月14日)は、大正期の札幌区長、ジャーナリスト。 阿波国板野郡木津村(現在の徳島県鳴門市)に、名主阿部猪蔵の次男(三男とも)滝本五郎の長男として生まれ、叔父阿部興人の養子となった。旧制徳島中学(現在の徳島県立城南高等学校)卒業後、1877年(明治10年)に東京に出て、三菱商業学校と慶應義塾で学んだ。1881年(明治14年)帰郷し、阿部興人の娘の恒と結婚する(いとこ婚)。 1882年(明治15年)、『大阪新報』の記者となり、のち『大阪毎朝新聞』に転じ、『大阪毎朝新聞』は『郵便報知新聞』に吸収された。
8代 佐藤 喜八郎(さとう きはちろう、1861年4月4日(… 8代 佐藤 喜八郎(さとう きはちろう、1861年4月4日(文久元年2月25日) - 1920年(大正9年)3月6日)は明治から大正時代の政治家。大地主。貴族院多額納税者議員。 松江城下白潟本町(現島根県松江市白潟本町)出身。佐藤喜八郎の長男として生まれ、先代愛山の養子となり1914年(大正3年)3月、家督を相続する。和漢学を修めたほか日蓮宗に帰依して仏学を研究した。 1873年(明治6年)以降、島根県第六区戸長、松江市会議員、同市所得税調査委員、同市名誉参事会員、臨時世界博覧会委員、松江市会議長を歴任した。ほか、出雲農会幹事長、同仏教会名誉顧問、教育会育英会各評議員を務めた。 1897年(明治30年)9月には島根県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1900年(明治33年)7月14日まで務めた。
鈴木 馬左也(すずき まさや、文久元年2月24日(1861年… 鈴木 馬左也(すずき まさや、文久元年2月24日(1861年4月3日) - 大正11年(1922年)12月25日)は、第三代住友総理事である。 文久元年(1861年)2月24日、高鍋藩家老の父秋月種節(たねよ)と久子の四男として、日向国高鍋(現・宮崎県児湯郡高鍋町)で生まれた。明治元年、母方の大叔父鈴木翔房(たかふさ)が七五歳で没し、その養子鈴木衞房(もりふさ)も戊辰戦争に加わり、27歳で戦死した。翌2年、馬左也は鈴木家再興のため、戦死した衞房の養子となり同家を継いだ。 明治9年に旧制宮崎中学校(現、宮崎県立宮崎大宮高等学校)を卒業し、同年金沢の啓明学校(現、金沢大学)へ入学したが翌年退学して、11年から東京帝国大学予備門に入学し明治20年、27歳で東京帝国大学を卒業すると内務省に入り、22年愛媛県書記官として赴任した。