徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年(明治19… 徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年(明治19年)10月5日 - 1976年(昭和51年)9月6日)は、日本の政治家、植物学者、狩猟家。尾張徳川家第19代当主。位階・勲等・爵位は従二位勲二等侯爵。戦前の貴族院議員で、第25軍軍政顧問。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた。日ソ交流協会会長。戦前マレー半島で虎狩りをしたことから、虎狩りの殿様として親しまれた。自伝に『最後の殿様』がある。 父は越前松平家・松平慶永(春嶽)で、1908年に尾張徳川家の婿養子となり、家督を相続した。同家の東京移転に際し、愛知県下の土地等の財産の処分を指揮し、1931年に財団法人徳川黎明会を設立して、同家伝来の什宝・書籍を同財団付属の徳川美術館・蓬左文庫で保存・公開した。
阿野 季忠(あの すえただ、1886年(明治19年)10月4… 阿野 季忠(あの すえただ、1886年(明治19年)10月4日 - 1944年(昭和19年)12月3日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員、陸軍主計少尉。旧公家の阿野家。 子爵・阿野実允の三男として生まれ、父の死去に伴い、1887年(明治20年)10月20日、子爵を襲爵した。 1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年(大正2年)十五銀行に入行し、秘書業務部副長、監理課長、大阪支店長、取締役、副頭取などを歴任。その他、藤永田造船所取締役、第一信託取締役、園池製作所会長、蓬莱殖産専務取締役、帝国倉庫運輸監査役などを務めた。 1944年3月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動したが、出征し同年12月に戦死した。
中村 武羅夫(なかむら むらお、1886年(明治19年)10… 中村 武羅夫(なかむら むらお、1886年(明治19年)10月4日 - 1949年(昭和24年)5月13日)は、日本の編集者、小説家、評論家。 北海道岩見沢村生まれ。家は鳥取県からの開拓移民で旧士族の家系。岩見沢村立東小学校卒。岩見沢尋常高等小学校卒業後、進学を望むも家のりんご園経営が没落したため断念。小学校の代用教員を経て、博文館の「文章世界」で小説が次点佳作となったのをきっかけに1907年に上京。大町桂月、徳田秋声と親しくなり彼らの紹介で、小栗風葉門下に入る。 後に真山青果の紹介で『新潮』記者となり、明治末から大正期にかけて同誌の中心的編集者として活躍した。『中央公論』の滝田樗陰と並んで大正期の名編集者と称された。
小林 與次右ヱ門(与次右衛門、こばやし よじえもん、1886… 小林 與次右ヱ門(与次右衛門、こばやし よじえもん、1886年〈明治19年〉10月4日 - 1962年〈昭和37年〉11月9日)は、昭和時代の政治家。神奈川県高座郡相模原町長、相模原市長。 神奈川県高座郡上溝村(溝村、上溝町を経て、現相模原市中央区)に生まれる。上溝小学校高等科、津久井郡湘南村葉山島東林教校修業、溝村立上溝実業補習学校を経て、早稲田大学講義録中学科、文学科、法律科などに取り組む。家業の農業に従事する傍ら1911年(明治44年)から1916年(大正5年)まで鳩川農業学校教諭嘱託、助教諭を務め、鎌倉郡立農事講習所講師を歴任した。1932年(昭和7年)神奈川県会議員に当選し、2期務め、1941年(昭和16年)上溝町助役、同年相模原町会議員に転じ、1947年(昭和22年)には相模原町長に就任した。
長谷川 赳夫(はせがわ たけお、1886年(明治19年)10… 長谷川 赳夫(はせがわ たけお、1886年(明治19年)10月3日 - 1980年(昭和55年)6月25日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。官僚。貴族院多額納税者議員。錦鶏間祗候。 長谷川市郎左衛門の長男。新潟県出身。1896年(明治29年)家督を相続し前名の亀一郎を改める。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学を卒業し、同大学院を修学する。文官高等試験に合格する。 1915年(大正4年)貴族院試補となって以降、衆議院、貴族院、内閣(内閣官房総務課長)各書記官、帝都復興院、臨時震災救護事務局各兼任書記官、臨時営繕局事務官、法制局勅任参事官、内閣統計局長などを歴任した。ほか、資源局、社会局各参与、新潟県農業会長、国際統計協会正会員などを務めた。
遠藤 卓治(えんどう たくじ、1886年〈明治19年〉10月… 遠藤 卓治(えんどう たくじ、1886年〈明治19年〉10月3日 - 没年不明)は、日本の農民、埼玉県多額納税者。有限責任行幸村信用販売購買組合理事。 埼玉県北葛飾郡行幸村(現・幸手市)出身。遠藤鎛吉の二男。1925年、家督を相続する。農業を営む。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。 趣味は園芸、盆栽、読書。宗教は禅宗。住所は埼玉県北葛飾郡行幸村大字千塚。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
石崎 伝蔵(いしざき でんぞう、旧字体: 石崎 傳藏、188… 石崎 伝蔵(いしざき でんぞう、旧字体: 石崎 傳藏、1886年(明治19年)10月2日 - 1999年(平成11年)4月29日)は、日本の教育者で同国最高齢だった男性。 旧制・茨城縣立太田中學校(現在の茨城県立太田第一高等学校)を卒業後、大里尋常小学校の教員となり、、茨城県内の旧制高等小学校の校長などを務めた。1912年に結婚し、2男2女の子がいた。1928年3月に退職後青年会長、村会議員等に就いた。第二次世界大戦後の1946年に妻は死去した。生前、健康の秘訣は「1日5000回の足踏み、風呂はぬるめ、肉ならば牛」と語っていた。1日最低5時間は読書にあてるという活字好きで、長女と2人暮らしだったが、1997年6月頃より歩行が不自由となり、1999年3月頃より体調を崩して自宅療養していた。
小沢 治三郎(旧字体: 小澤 治三郞、おざわ じさぶろう、1… 小沢 治三郎(旧字体: 小澤 治三郞、おざわ じさぶろう、1886年(明治19年)10月2日 - 1966年(昭和41年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海兵37期。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。 1886年(明治19年)10月2日、宮崎県児湯郡高鍋町24で元高鍋藩士の小沢寅太郎とヤツの次男として生まれる。宮崎中学(現・県立宮崎大宮高校)に在学中、不良青年と争いになり柔道の投げ技で撃退したが、暴力沙汰として退学処分となる。陸軍軍人だった兄・宇一郎の上官・牛島貞雄から日露戦争の戦場満州より「過ちを改むるに憚ること勿れ」(論語 学而第一 8からの引用)の手紙を送られた事をきっかけに上京し、1905年に成城中学校へ転入した。
横井 礼以(よこい れいじ、1886年〈明治19年〉10月1… 横井 礼以(よこい れいじ、1886年〈明治19年〉10月1日 - 1980年〈昭和55年〉6月22日)は、日本の画家。勲等は勲四等。名古屋造形芸術短期大学名誉教授、社団法人二紀会名誉会員。本名は横井 禮一(よこい れいいち)。当初は横井 禮市(よこい れいいち)との筆名を用いた。なお、本名の「禮一」、および、かつての筆名の「禮市」の「禮」は「礼」の旧字体であるため、横井 礼一(よこい れいいち)、横井 礼市(よこい れいいち)とも表記される。なお、筆名の「礼以」については新字体を用いている。 緑ヶ丘洋画研究所主宰、二科会参与、第二紀会委員、名古屋造形芸術短期大学造形芸術科教授などを歴任した。 愛知県海部郡弥富村(現弥富市)出身の洋画家である。
池田 水藻(いけだ みずも、1886年(明治19年)10月1… 池田 水藻(いけだ みずも、1886年(明治19年)10月1日 - 1967年(昭和46年)12月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県川辺郡平山村(川辺村平山、川辺町平山を経て、現在の南九州市川辺町平山)出身。陸軍士官学校第19期、陸軍大学校第30期卒業。1923年(大正12年)8月、陸軍歩兵少佐に進級し、同年9月時点で歩兵第30連隊大隊長の任にあった。1925年(大正14年)12月に第14師団参謀に転じ、1928年(昭和3年)3月8日に歩兵第63連隊附となり、松江高等学校に配属された。同年3月24日には陸軍歩兵中佐に進級し、1931年(昭和6年)3月には学校配属を解かれ、歩兵第63連隊附となり、1932年(昭和7年)5月に高崎連隊区司令官に着任し、6月には陸軍歩兵大佐に進級した。
片岡 平八郎(かたおか へいはちろう、前名・郁三、1886年… 片岡 平八郎(かたおか へいはちろう、前名・郁三、1886年〈明治19年〉10月 - 没年不明)は、日本の政治家(兵庫県会議員、兵庫県城崎郡城崎町長)、旅館業者、銀行家。弟に終戦時の第一師団長を務めた片岡董中将が居る。 兵庫県出身。先代・平八郎の二男。1921年(大正10年)、家督を相続、前名・郁三を改め襲名した。豊岡中学校(現・兵庫県立豊岡高等学校)を卒業した。「三木屋」と称し、温泉旅館業を営み、傍ら銀行重役であった。但馬貯蓄銀行取締役、三共銀行監査役などをつとめた。 1894年(明治27年)2月から1896年(明治29年)10月、同年12月から1899年(明治32年)7月、同年9月から1903年(明治36年)9月、1937年(昭和12年)3月から1939年(昭和14年)9月まで城崎郡選出の兵庫県会議員を務めた。
井上 清(いのうえ きよし、1886年(明治19年)10月 … 井上 清(いのうえ きよし、1886年(明治19年)10月 - 不明 )は、日本の実業家である。朝鮮商業銀行取締役。岡山県総社市出身。 1886年(明治19年)、岡山県吉備郡岡田村(現:総社市)の井上徳之助の長男として出生。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、後に台湾銀行本店支配人代理や岡山県議会議員をつとめる小山美登四がいる。1906年(明治39年)に同校を卒業し、東京高等商業学校予科を経て、翌年、正式に東京高等商業学校(現:一橋大学)へ入学する。1910年(明治43年)に同校の本科を卒業。 卒業後、直ぐに1年志願兵として第17師団へ入隊し、陸軍経理部三等主計となる。
山高 五郎(やまたか ごろう、1886年10月 - 1981… 山高 五郎(やまたか ごろう、1886年10月 - 1981年8月2日)は、日本の造船技師。妻は須知源次郎(常陸丸事件)中佐の娘。息子は新潮社の編集者・版画家の山高登(1926年 - 2020年[要出典])。 山高信離の子として東京に[要出典]生まれる。1909年に東京帝国大学工科大学造船工学科を卒業[要出典]。三菱造船所の[要出典]造船技師として軍艦土佐、客船氷川丸などの多くの船の電気艤装設計に携わる。 船の科学館に展示されていた多くの船舶の油彩画を残した。
今泉 政喜(いまいずみ まさき、1886年〈明治19年〉10… 今泉 政喜(いまいずみ まさき、1886年〈明治19年〉10月 - 1976年〈昭和51年〉3月12日)は、大正から昭和期の薬剤師、政治家。参議院議員。 佐賀県小城郡小城町(現小城市)で今泉愛助の三男として生まれる。1912年(大正元年)長崎医学専門学校(のち長崎医科大学)薬学科を卒業した。 1921年(大正10年)今泉製薬会社代表社員に就任。その他、佐賀県地方薬品配給社長、全国薬品配給協会監事、佐賀県薬剤師会会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙で佐賀県選挙区から日本自由党公認で立候補して当選し(補欠、任期3年)、参議院議員に1期3年在任した。 1965年(昭和40年)秋の叙勲で勲四等に叙され、旭日小綬章を受章する。
安田 源右衛門(やすだ げんえもん、明治19年(1886年)… 安田 源右衛門(やすだ げんえもん、明治19年(1886年)10月 - 昭和8年(1933年)9月28日)は、日本の経営者。沖縄軌道代表取締役などを務めた。 石川県在籍。1907年東京高等商業学校(現一橋大学)予科入学。1911年同本科卒業。日本郵船入社後、弘済丸乗組などを経て、1915年に家督を相続した。 1918年台南製糖入社。台南製糖工場長兼主事を経て、1927年台南製糖取締役、沖縄第一次健康保険審査会委員。 台南製糖常務取締役と兼務して、1931年からは沖縄軌道代表取締役も務めたが、1933年に株主総会のため東京に出張した際、急病で入院しそのまま48歳で死去した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
石川 一衛(一衞、いしかわ かずえ、1886年(明治19年)… 石川 一衛(一衞、いしかわ かずえ、1886年(明治19年)9月30日 - 1960年(昭和35年)9月1日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員。 埼玉県榛沢郡新戒村(のち大里郡新会村、現:深谷市)で生まれる。埼玉県立熊谷中学校を卒業した。 日本蹄鉄社長、釜渕木材工業取締役、釜渕産業取締役、日米工業会長などを務めた。 政界では、民主党埼玉県副支部長を務め、1947年4月、第1回参議院議員通常選挙で埼玉県地方区から立候補して当選(任期3年)し、その後、国民民主党に所属して参議院議員を一期務めた。議員退任後、埼玉県モーターボート競走会長を務めた。1957年3月、埼玉県大里郡豊里村(新会村の後継自治体)育英資金として10万円寄付より同年9月28日に紺綬褒章受章する。
勝田 孝興(かった たかおき、1886年9月30日 - 19… 勝田 孝興(かった たかおき、1886年9月30日 - 1976年5月23日)は、日本のアイルランド文学者・語学者。 島根県松江市出身。1911(明治44)年、東京帝国大学(現在の東京大学)英文科卒。1925年から2年間、文部省から推薦されアイルランド留学。旧制神奈川県立横須賀中学校(現・横須賀高校)、旧制千葉県立佐倉中学校(現・佐倉高校)の各教諭、旧制商船学校、旧制山形高等学校(現・山形大学)の各教授を経て同志社大学教授に転じ、同専門学校英星版部長を兼任。戦後は滋賀大学教授、大阪工業大学教授。専門はアイルランドの文芸復興関連の演劇やアングロ・アイリッシュの発音に関する研究。著書多数。1976年5月23日に脳血栓のため89歳で逝去。
青木 文教(あおき ぶんきょう、 1886年(明治19年)9… 青木 文教(あおき ぶんきょう、 1886年(明治19年)9月28日 - 1956年(昭和31年)11月7日)は、日本のチベット研究者で僧侶。チベット=西本願寺間の交換留学生としてチベットのラサ市に派遣され、ダライ・ラマ13世の教学顧問を務めた。 1886年、浄土真宗本願寺派末寺正福寺(現在の滋賀県高島市)生まれ。京都府立第二中学校から京都仏教大学(現龍谷大学)に入学。在学中の1910年(明治43年)、西本願寺法主・大谷光瑞の命でインドで仏教遺跡調査に従事し、1911年(明治44年)、ロンドンで教育事情調査に従事する。同年、清国のチベット進軍を逃れてインドのダージリンに亡命していたダライ・ラマ13世に謁見し、学僧ツァワ・ティトゥーを日本への留学生として同行する。
小栗 常太郎(おぐり つねたろう、1886年9月28日 - … 小栗 常太郎(おぐり つねたろう、1886年9月28日 - 1962年7月5日)は愛知県出身の飛行家。東京で小栗飛行学校を開設し校長を務めた。医療ソーシャルワーカーの先駆者である浅賀ふさは妹。 愛知県知多郡半田の大資産家として知られた小栗家。常太郎は小栗富治郎の長男として1886年(明治19年)9月28日に出生。父は酒や醤油に時計の製造、銀行や紡績業など事業の多角化を進めていた。 常太郎は1900年(明治33年)に旧制県立岡崎中学へ入学したが一年の途中で退学。巣鴨の家庭学校を経て1903年(明治36年)7月、留岡幸助に従いアメリカ留学のため横浜港から土佐丸で太平洋を渡った。その後、ミリタリー・スクールを経て1905年(明治38年)9月にペンシルベニア大学へ入学。
近藤 信竹(こんどう のぶたけ、1886年(明治19年)9月… 近藤 信竹(こんどう のぶたけ、1886年(明治19年)9月25日 - 1953年(昭和28年)2月19日)は、日本の海軍軍人。海兵35期首席・海大17期。最終階級は海軍大将。 1886年9月25日、大阪府で近藤堅三の次男として生まれる。天王寺中学を経て、海兵35期。入校時の席次は114番、2年次は6番、3,4年次は首席。同期に高須四郎、野村直邦らがいる。1907年11月20日、35期を首席で卒業、少尉候補生となる。1908年12月25日、海軍少尉に任官。 1923年12月1日、海軍中佐に進級。1924年(大正13年)2月5日、東宮武官(侍従武官兼務)に任命され、翌日には摂政宮・皇太子(昭和天皇、当時23歳)と皇太子妃(香淳皇后)に謁見する。
渡辺 剛二(わたなべ ごうじ、1886年〈明治19年〉9月2… 渡辺 剛二(わたなべ ごうじ、1886年〈明治19年〉9月24日 - 1959年〈昭和34年〉7月11日)は、日本の実業家、医師である。宇部興産(現・UBE)初代会長。 1886年(明治19年)、山口県厚狭郡宇部村(現宇部市)でのちに沖ノ山炭坑(UBEの前身)を創業する渡辺祐策の次男として生まれる。熊本医学専門学校を経て京都帝国大学医学部を卒業し、父・祐策が創業した沖ノ山炭鉱の医局設立に携わる。 1934年(昭和9年)、祐策の死去に伴い沖ノ山炭坑の社長を引き継ぐ。1942年(昭和17年)、宇部興産設立に伴い同社会長に就任。また、山口県議会議長や山口県医師会長も兼務し、山口県立医学専門学校(のちの山口県立医科大学、現山口大学医学部)の設立に尽力した。
二代目 市川 松蔦(いちかわ しょうちょう、1886年(明治… 二代目 市川 松蔦(いちかわ しょうちょう、1886年(明治19年)9月23日 - 1940年(昭和15年)8月19日)は歌舞伎役者。本名は鈴木 鐵彌(すずき てつや)。屋号は若松屋。 東京市四谷区(現在の東京都新宿区)出身。初代市川左團次の門人となり、1896年(明治29年) 9月東京歌舞伎座『鬼一法眼三略巻』で市川左喜松を名乗って初舞台。師の死後は子息の二代目市川左團次一座に加わり、若女形として腕を上げる。 1906年(明治39年)9月明治座の初代左團次追善興行『世響太鼓功』でお静実ハ梅が枝と巴御前の二役を勤め市川莚若と改名。1911年(明治44年) 正月明治座で二代目市川松蔦を襲名した。1913年(大正2年) には二代目左團次の妹で日本舞踊の高橋幸子と結婚。
田村 文吉(たむら ぶんきち、1886年(明治19年)9月2… 田村 文吉(たむら ぶんきち、1886年(明治19年)9月22日 - 1963年(昭和38年)6月26日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位。郵政大臣(第2代)、電気通信大臣(第2代)、参議院議員(2期)、長岡市長(第8代)。北越製紙社長。 新潟県長岡市の紙問屋田村文四郎の三男として生まれる。新潟県立長岡中学校を経て、1911年に東京高等商業学校(一橋大学の前身)専攻科を卒業、越後鉄道に入社し、経理課長として実務経験を積む。 1915年、父たちが設立した北越製紙(現:北越コーポレーション)に支配人として入社し、1934年に専務、1940年には社長に就任。工場の新設・拡充をリードし、北越製紙を現在の規模に育て上げた。
川崎舎 恒三(かわさきや つねぞう、1886年(明治19年)… 川崎舎 恒三(かわさきや つねぞう、1886年(明治19年)9月21日 - 1954年(昭和29年)9月)は、日本の実業家、技術者。 1886年(明治19年)9月21日、香川県高松市で男二人、女一人の3人兄姉の末っ子として生まれた。1899年(明治32年)4月、香川県立高松中学校(現:香川県立高松高等学校)へ入学。1904年(明治37年)、一高へ進学し、柔道部へ入って練習を積み、初段を得た。当時の一高柔道部の師範は講道館の横山作次郎であり、新井源水、山上岩次を擁して黄金時代を築いていた。一高時代には後々までの親友も得たが、中でも学生寮で同室であった勝沼精蔵(内科医、第3代名古屋大学学長)、橘本伝左衛門(京都大学農学部教授)ならびに森秀三(整形外科開業医)の3人とは終生にわたる親交が続いた。
小野 秀太郎(おの ひでたろう、1886年〈明治19年〉9月… 小野 秀太郎(おの ひでたろう、1886年〈明治19年〉9月20日 - 没年不詳)は、明治時代の日本の官吏、ジャーナリスト、教育者。台湾総督府郵便電信書記官、朝日新聞社外報部記者、台湾銀行通信員、スタンダード・オイル通信員、立教大学教授。英文通信の権威として知られ、教育者として商業英語を教えた。 茨城県西茨城郡、のちの南川根村で小野祐太郎の長男として生まれた。 1897年(明治30年)10月まで、台湾総督府郵便電信書記官を務める。 東京英語専修学校(現・立教大学)卒業。 その後、朝日新聞社に入り、外報部記者を務めた。そのほか、日本における英文通信の権威として、台湾銀行や米国のスタンダード・オイル社の東洋通信員を務めた。
安成 二郎 (やすなり じろう、1886年9月19日 - 1… 安成 二郎 (やすなり じろう、1886年9月19日 - 1974年4月30日)は、日本の歌人、小説家。 秋田県北秋田郡(現・北秋田市)出身。父正治は元長府藩士で阿仁鉱山の高級機械工だった。兄は評論家安成貞雄、弟は福原信三の秘書だった安成三郎。 秋田縣立大舘中學校を中退した後に上京し、徳田秋声の門下生になった。土岐善麿編集の「生活と藝術」などで生活派の短歌を発表する一方で、金尾文淵堂を振り出しに、実業之世界社や複数の新聞社の編集記者として長く勤めた。平民社に出入りしていた兄貞雄の影響で、大正初期から内田魯庵、大杉栄らと交流を持った。大杉や荒畑寒村が創刊した「近代思想」の編集の手伝いを兄とともに行った。
南雲 親一郎(なぐも しんいちろう、1886年(明治19年)… 南雲 親一郎(なぐも しんいちろう、1886年(明治19年)9月19日 - 1963年(昭和38年)11月18日(22日とも))は、日本および満州国の陸軍軍人。陸士19期卒(歩兵)。日本陸軍では長く教育畑におり、満洲国軍でも陸軍軍官学校長を務めた。最終階級は陸軍少将、満州国軍中将。 1886年(明治19年)に山形県南置賜郡笹野村(現在の米沢市笹野)で南雲親吉の次男として生まれた。 米沢尋常中学興譲館を経て、1907年(明治40年)5月31日、陸軍士官学校第19期卒業。歩兵第32連隊より会津の歩兵第65連隊に転じたのち少尉任官。陸軍戸山学校、陸軍歩兵学校、陸士区隊長(27期担当)を経て1921年(大正10年)7月、久邇宮邦久王の訓育中隊長兼教育主任を担当。
栖原 豊太郎(すはら とよたろう 1886年9月19日 - … 栖原 豊太郎(すはら とよたろう 1886年9月19日 - 1968年2月25日)日本の航空工学者。 1886年(明治19年)北海道函館市生まれ。東京市赤坂中学校、第一高等学校を経て1910年(明治43年)東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。大学院に進学する傍ら臨時軍用気球研究会に入り、横田成年、田中館愛橘の助手を務めた。1912年(大正元年)陸軍飛行機操縦将校の教官を嘱託、1916年(大正5年)東京帝国大学航空学調査委員、1917年(大正6年)海軍大学校教官、1918年(大正7年)欧州留学、1919年(大正8年)東京帝国大学教授を務める。この後、旅順工科大学教授、九州帝国大学教授。第二次世界大戦後は、1927年(昭和22年)に慶応義塾大学機械工学科教授を務めた。
加藤 朝鳥(かとう あさどり、あさとり、1886年9月19日… 加藤 朝鳥(かとう あさどり、あさとり、1886年9月19日 - 1938年5月17日)は、日本の翻訳家・評論家である。 1886年(明治19年)9月19日、鳥取県東伯郡社村不入岡(現: 倉吉市)にて、父梅吉・母まつの3男として誕生する。本名は信正(信三とも)。県立米子中学校(現: 鳥取県立米子東高等学校)を経て、1905年(明治38年)に早稲田大学英文科に入学する。1909年に卒業。在学中より詩歌を発表する。1912年(大正4年)に「片岡伸氏を論ず」を発表し、文芸評論家となる。1920年(大正9年)から1年、インドネシアのバタビア(ジャカルタ)に渡り、『瓜哇日報』の主筆を務めた。帰国後、1925年(大正14年)より立正大学で教鞭をとり、そのかたわらで評論・翻訳を手掛けた。
伊賀 氏広(いが うじひろ、1886年(明治19年)9月18… 伊賀 氏広(いが うじひろ、1886年(明治19年)9月18日 - 1966年(昭和41年)2月25日)は、日本の飛行機製作の先駆者、華族(男爵)。伊賀家の当主。南部信俊の父。妻は岩村通俊(男爵・旧家臣系)の娘の北子。子に伊賀氏英。 山内容堂の弟・山内豊盈の子として現在の高知県高知市に生まれる。宿毛(現・宿毛市)の旧領主だった伊賀家12代氏成(伊賀陽太郎)の養子になる。1895年(明治28年)宿毛尋常高等小学校(前身は伊賀家が設立した藩校)に転入学し、尋常科を卒業。引き続き高等科に進んだ。1897年(明治30年)6月、養父氏成の死去に伴い家督を相続する、高等科2年生在学中の1898年(明治31年)に東京市に移り住み、高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に転入した。
上田 孝吉(うえだ こうきち、1886年(明治19年)9月1… 上田 孝吉(うえだ こうきち、1886年(明治19年)9月18日 – 1952年(昭和27年)8月16日)は、日本の政治家で立憲政友会所属の衆議院議員、弁護士。 石川県石川郡金石町(現在の金沢市)に扇能長平の二男として生まれ、上田喜久代の養子となった。1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、弁護士となった。大阪市会議員を務め、参事会員、副議長を歴任した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。5回連続当選を果たした。その間、平沼内閣で逓信参与官を、鈴木貫太郎内閣で農商政務次官をそれぞれ務めた。 戦後、推薦議員のため公職追放となった。
佐藤 正俊(さとう まさとし、1886年(明治19年)9月1… 佐藤 正俊(さとう まさとし、1886年(明治19年)9月18日 - 1962年(昭和37年)5月3日)は、日本の官僚。香川県知事、三重県知事、名古屋市長を歴任した。 福島県士族佐藤覚之進の長男。現在の会津若松市に当たる地域の出身で、会津会会員である。四高を経て東京帝国大学を卒業。文官高等試験に合格し、内務省に入省した。合格者136名には石渡荘太郎や河上丈太郎などがおり、佐藤の席次は29番である。 佐藤の官歴は埼玉県属に始まる。福井県の郡長、山梨県理事官、台湾総督府事務官、関東大震災後に設けられた復興局の事務官、兵庫県学務課長、同県書記官・視学官、長崎県書記官・学務部長を経て、秋田県警察部、長野県警察部、福岡県警察部、神奈川県警察部で県警察部長を歴任。
佐藤 謙之輔(さとう けんのすけ、1886年(明治19年)9… 佐藤 謙之輔(さとう けんのすけ、1886年(明治19年)9月17日 - 1957年(昭和32年)11月15日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。謙之助と表記する場合がある。 新潟県南蒲原郡小栗山村(新潟村、見附町を経て現見附市)で、旧家・佐藤宗弥の二男として生まれる。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1914年(大正3年)家督を相続した。 大学卒業後、新潟自動車商会に入り、その後、同社長となる。その他、相互信用無尽会社社長、新潟土地取締役、新潟建物取締役、新潟硫酸監査役、新潟新聞監査役、新潟銀行(現第四銀行)取締役、新潟港湾倉庫取締役、日本海倉庫取締役などを務めた。
千田 修二(せんだ しゅうじ、1886年(明治19年)9月1… 千田 修二(せんだ しゅうじ、1886年(明治19年)9月15日 - 1965年(昭和40年))は日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍少佐。西本組(後の三井建設、現三井住友建設)社長。 和歌山県那賀郡粉河町(現紀の川市)出身。1905年(明治38年)海軍兵学校入学、1908年(明治41年)卒業(36期)。結婚後に西本組に入社して本店勤務、京城支店長。 1933年(昭和8年)12月27日、朝鮮土木談合事件において京城地方法院から詐欺で懲役1年の実刑判決。1936年(昭和11年)2月17日、京城高等法院は上告棄却、確定。これにより後備役海軍少佐を失官、正六位を失位、勲四等及び大正三四年従軍記章/大正三年乃至九年戦役従軍記章戦捷記章、大礼記念章(大正/昭和)を褫奪された。
永田 良吉(ながた りょうきち、1886年(明治19年)9月… 永田 良吉(ながた りょうきち、1886年(明治19年)9月14日 - 1971年(昭和46年)5月11日)は、日本の政治家。衆議院議員、旧・鹿屋市長(第2・6・7代)。位階は正四位。 鹿児島県肝属郡大姶良村西俣(現・鹿屋市永野田町)出身。大姶良村会議員、大姶良村長、鹿児島県議会議員を経て、衆議院議員、鹿屋市長を歴任した。通称・飛行機代議士・請願代議士。現在の海上自衛隊鹿屋航空基地を始め、高隈ダムや星塚敬愛園を鹿屋市へ誘致した人物である。 1886年9月14日の午前9時に、永田助太郎の三男、3人兄弟の末っ子として誕生。永田家は西俣の大地主であったが、士族ではなく平民の身分であった。 1893年、西俣簡易小学校へ入学するが、同年中に南小学校に統合され、永野田の者は鹿屋村の田崎尋常小学校へ転校することになった。
長崎 守一(ながさき もりいち、1886年(明治19年)9月… 長崎 守一(ながさき もりいち、1886年(明治19年)9月12日 - 1968年(昭和43年)6月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。士候21期。阿部平輔陸軍中将、冨永信政陸軍大将、石原莞爾陸軍中将とは同期。栄典は従四位勲二等功四級。
加藤 保太郎(かとう やすたろう、明治19年(1886年)9… 加藤 保太郎(かとう やすたろう、明治19年(1886年)9月11日 - 昭和43年(1968年)8月19日)は大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 滋賀県犬上郡豊郷村四十九院の農家、加藤甚弥・ふさの次男に生まれ、苦学して彦根中学卒業後、陸軍軍人となる。陸士同期に石原莞爾、飯村穣、陸大同期に井出宣時、町尻量基、後宮淳、牟田口廉也らがいる。「先入主に陥らぬこと」を旨とし、一貫して英米との協調路線を説いた。
仲木 貞一(なかぎ ていいち、1886年9月11日 - 19… 仲木 貞一(なかぎ ていいち、1886年9月11日 - 1954年4月28日)は、日本の劇作家、編集者である。 1886年(明治19年)9月11日、仲木之稙の子として、石川県に生まれる。山口県に転じ、旧制・山口県立徳山中学校(現在の山口県立徳山高等学校)を卒業後、上京し、早稲田大学英文科を卒業する。 1910年(明治43年)、24歳のころ、新聞『萬朝報』の懸賞戯曲に応募し、『世の終り』が1等当選した。読売新聞社に入社、同新聞の記者をつとめる傍ら、秋田雨雀らと『劇と詩』を創刊している。その後、芸術座に入るが、1919年(大正8年)には同劇団は島村抱月と松井須磨子の死により解散した。のちに新国劇に参加し、座付作家として『飛行曲』、女優・伊沢蘭奢の当たり役『マダムX』などの戯曲を発表、劇場運営にも関わった。
定塚 門次郎(じょうづか もんじろう、1886年(明治19年… 定塚 門次郎(じょうづか もんじろう、1886年(明治19年)9月10日 - 1932年(昭和7年)7月22日)は、日本の実業家、政治家、計理士。衆議院議員。 富山県射水郡伏木町(現:高岡市)で、定塚三右衛門、たか夫妻の四男として生まれる。1908年、東京高等商業学校を卒業し、さらに同専攻部銀行科で学んだ。 卒業後、日比谷商店に入社。以後、所沢商業銀行常務取締役、日比谷銀行常務取締役、大宮商業銀行監査役、東京商業会議所書記長代理、同事務嘱託、大礼記念東京博覧会事務副長、国際振興会常任幹事、民政社常務理事などを務めた。 1928年2月、第16回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から立憲民政党所属で出馬して当選。
小平 重吉(こだいら じゅうきち、1886年9月10日 - … 小平 重吉(こだいら じゅうきち、1886年9月10日 - 1960年4月3日)は、栃木県出身の日本の政治家、実業家。 1886年(明治19年)9月10日、栃木県下都賀郡石橋町(現下野市)に生まれる。栃木県立宇都宮農学校(のち栃木県立宇都宮農業高等学校、現在の栃木県立宇都宮白楊高等学校)卒業、明治大学予科を中退。1927年(昭和2年)の栃木県会議員選に立候補し当選し3期務める。1930年からは6年間は石橋町長も兼任した。 1937年(昭和12年)には第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)では推薦に漏れ落選した。1947年(昭和22年)4月に初代公選栃木県知事に当選。
中島 鉄蔵(なかじま てつぞう、旧字体: 中島 鐵藏、188… 中島 鉄蔵(なかじま てつぞう、旧字体: 中島 鐵藏、1886年9月10日 - 1949年7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は、陸軍中将。栄典は、従三位[要出典]勲一等功三級。 山形県米沢市木場町出身。1905年11月、陸軍士官学校(18期)を卒業、翌年3月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊附となる。1918年11月、陸軍大学校(30期、同じ山形県出身の石原莞爾と同期)を卒業した。 戦術研究に才覚を現し、1919年陸軍歩兵学校教官、1921年フランス駐在武官、1926年12月陸軍大学校兵学教官を歴任。1930年8月陸軍歩兵大佐に陞進、参謀本部戦史課長。1931年8月歩兵第77連隊長。1933年3月陸軍歩兵学校教導隊長、同年8月侍従武官。
堀 末治(ほり すえじ、1886年(明治19年)9月9日 -… 堀 末治(ほり すえじ、1886年(明治19年)9月9日 - 1976年(昭和51年)10月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(3期)。 北海道岩内郡、のちの岩内町で生まれる。北海道庁立小樽中学校(現北海道小樽潮陵高等学校)を卒業した。 小樽市の醸造業者で経験を積んだ。1924年(大正13年)不況のため経営不振となった北海道内4酒造業者を救済する合併事業に参画し、合同酒精が設立され専務に就任。1945年(昭和20年)同社長となる。1946年(昭和21年)旭川商工会議所会頭に就任した。 1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙で北海道地方区から出馬して当選。以後、第3回、第5回通常選挙でも当選し、参議院議員を連続3期務めた。
吉川 亮夫(よしかわ あきお、1886年(明治19年)9月7… 吉川 亮夫(よしかわ あきお、1886年(明治19年)9月7日 - 1954年(昭和29年)11月1日)は、日本の政治家。衆議院議員、号は半石。 長野県下伊那郡松尾村(現飯田市)に生まれる。酒造業・吉川芳太郎の長男。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学科卒業。松尾村会議員を経て、1927年(昭和2年)、長野県会議員となる。同4年(1929年)松尾村長に推挙され、昭和恐慌による農村経済の危機を、救農資金の貸し付けで切り抜け、公共土木事業を起こして失業者を救い、道路改修、河川治水、橋梁架け替えなど村内各地の社会基盤整備に奔走した。 松川入森林組合長、全国町村会会長代理、長野県砂防会長、同県町村会長などを歴任し、同17年(1942年)第21回衆議院議員総選挙において長野3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を得て、当選。
三浦 豕(みうら いのこ、1886年(明治19年)9月7日 … 三浦 豕(みうら いのこ、1886年(明治19年)9月7日 - 1964年(昭和39年)7月9日)は、日本のルーテル教会の牧師である。 ジェームス・シェーラー ラファス・ピーリー 山内量平・山内幹枝 山内直丸 川瀬徳太郎 三浦豕 石松量蔵 佐藤繁彦 鍋谷堯爾
富村 登(とみむら のぼる、1886年9月7日 - 1964… 富村 登(とみむら のぼる、1886年9月7日 - 1964年)は、茨城県の地方史研究者、医師。 茨城県水海道(現常総市)で、医師・富村玄仙の長男として生まれた。獨逸学協会中学校(現獨協中学校・高等学校)、第一高等学校卒。1911年東京帝国大学医学部卒。1912-13年東大医科学教室副手。1914年日本郵船船医嘱託(欧州航路)。 父の死去に伴い、故郷で1915年開業、地方史研究家。
鬼丸 義斎(鬼丸 義齋、おにまる ぎさい、1886年〈明治1… 鬼丸 義斎(鬼丸 義齋、おにまる ぎさい、1886年〈明治19年〉9月5日 – 1954年〈昭和29年〉11月13日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。弁護士。「義斉」または「義齊」と表記される場合がある。 大分県に出生。愛知県巡査となり、やがて警部補にまで昇任したが、上司と衝突して辞職した。その後明治大学法科に入学。1919年に大学を首席で卒業した後は、弁護士事務所を開業した。1933年には名古屋弁護士会長に選出されている。大森製陶所会長にもなった。 1928年の第16回衆議院議員総選挙に立憲民政党で愛知1区から出馬し、当選を果たして1期務めた。 戦後は1947年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から出馬、当選。
磯谷 廉介(いそがい れんすけ、1886年〈明治19年〉9月… 磯谷 廉介(いそがい れんすけ、1886年〈明治19年〉9月3日 - 1967年〈昭和42年〉6月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争期に日本占領下の香港で総督を務めた。 兵庫県出身。旧篠山藩士・磯谷次郎の三男として生れる。私立尋常中学鳳鳴義塾、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(第16期)を卒業。同期に板垣征四郎・土肥原賢二がいる。翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となった。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業し歩兵第20連隊中隊長に就任。 1916年(大正5年)8月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付(広東駐在)、歩兵第13連隊付(広東駐在)、歩兵第13連隊大隊長を歴任し、1922年(大正11年)12月に帰国。
大川内 傳七(大川内 伝七、おおかわち でんしち、1886年… 大川内 傳七(大川内 伝七、おおかわち でんしち、1886年〈明治19年〉9月2日 - 1958年〈昭和33年〉2月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。佐賀県塩田町出身。 軍歌『比島決戦の歌』で「海に鉄血大川内」と歌われていることで知られる。 旧制佐賀県立鹿島中学校より海軍兵学校37期入校。大川内の奉職履歴で他の海軍将校と際立って異なるのは、自身を含め練習艦隊に4度参加していることである。 1936年(昭和11年)、上海の日本租界の警備にあたる上海海軍特別陸戦隊の司令官に就任。在職中の翌1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発した。国際都市である上海を重視する中国国民党軍は、上海駐留の日本軍が手薄な状態なのに乗じて攻撃をかけた(第二次上海事変)。
宮本 知遠(みやもと ちとお、1886年〈明治19年〉8月3… 宮本 知遠(みやもと ちとお、1886年〈明治19年〉8月30日 - 1918年〈大正7年〉12月4日)は、日本の政治家。東京府北豊島郡板橋町長。 東京府・宮本頼三の長男。高等師範学校附属小学、中学を経て明治大学商科に学ぶ。水車業、精米業を営む。 1911年、推されて板橋町収入役に挙げられる。1911年10月に板橋町長に就任し、1916年4月に退職する。1917年8月に板橋町長に就任し、1918年12月に退職する。 信仰は仏教。趣味は音楽。愛読書は政治経済書。住所は東京府北豊島郡板橋町大字下板橋。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
土居 光知(どい こうち、1886年8月29日 - 1979… 土居 光知(どい こうち、1886年8月29日 - 1979年11月26日)は、日本の英文学者、古典学者。 1886年(明治19年)、高知県長岡郡十市村(現・南国市)生まれ。第三高等学校を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学英文科卒業。イギリス、フランス、イタリアに留学。 立正大学教員、東京女子大学教授、東京高等師範学校教授を経て、1924年(大正13年)に東北帝国大学教授となった。1948年(昭和23年)、東北大学を退職。その後は津田塾大学教授をつとめた。日本英文学会会長。1949年(昭和24年)に日本学士院会員に選出された。 1962年(昭和37年)1月8日、皇居での講書始の儀で「英国詩人ラーフ・ホジソンの鳥の詩について」の題で進講を行った。