木村 清松(きむら せいまつ、1874年4月7日 - 195… 木村 清松(きむら せいまつ、1874年4月7日 - 1958年1月14日)は、日本の巡回伝道者、牧師。ナイアガラの滝を「自分のお父さんのものだ」と言ったことで話題になった。「キリストに虜われし清松」と呼ばれていた。伝記を書いた岩村清四郎は実弟。 1874年、新潟県五泉町(現:五泉市)に地酒の醸造業者の家に生まれる。1889年、村松高等小学校を卒業する。1890年、北越学館に入学する。1891年1月11日に堀貞一により日本基督教会新潟第一基督教会(現・日本基督教団新潟教会)で洗礼を受ける。1892年、仙台の東北学院に入学する。 1894年6月に渡米する。1895年、アメリカで救世軍に入隊して、士官学校に入隊するが、神学上の問題で8ヶ月で辞める。
岩崎 幸治郎(いわさき こうじろう、1874年(明治7年)4… 岩崎 幸治郎(いわさき こうじろう、1874年(明治7年)4月6日 - 1946年(昭和21年)1月9日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 大阪府河内郡、のちの中河内郡英田村(河内市を経て現東大阪市)に岩崎九郎平の四男として生まれる。1898年(明治31年)、弁護士試験に合格。1900年(明治33年)よりドイツに留学して、1904年(明治37年)にライプツィヒ大学を卒業し、法学博士の称号を得た。帰国後、弁護士のほか、関西大学講師も務めた。1908年(明治41年)に横浜地方裁判所判事に任命され、東京控訴院判事を経て、1911年(明治44年)には元田肇拓殖局総裁の秘書官に就任したが、翌年に官を辞した。
佐藤 信安(さとう のぶやす、1874年〈明治7年〉4月5日… 佐藤 信安(さとう のぶやす、1874年〈明治7年〉4月5日 - 1964年〈昭和39年〉8月1日)は、内務官僚、広島市長。 島根県松江市生まれ。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となった。その後、1900年(明治33年)に東京帝国大学大学院に入学し、同年には歩兵第21連隊に召集された。1902年(明治35年)、司法官試補を辞職して弁護士を開業した。1909年(明治42年)より検事となり、各地方の裁判所に勤務した。1913年(大正2年)、熊本県警察部長に転じ、翌年には山口県警察部長に就任した。さらに福島県内務部長を務めた。 1922年(大正11年)4月17日から1925年(大正14年)1月21日まで第14代広島市長を務めた。
渡辺 長男(わたなべ おさお、1874年(明治7年)4月2日… 渡辺 長男(わたなべ おさお、1874年(明治7年)4月2日 - 1952年(昭和27年)3月3日)は、明治から昭和にかけて活動した彫刻家(彫塑家)。同じ彫刻家の朝倉文夫、大塚辰夫(大塚周夫の父・大塚明夫の祖父)は実弟。妻は岡崎雪聲の娘。 1874年(明治7年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市)村長であった渡辺要蔵の長男として生まれる。彫刻家を目指した長男は東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学し、仏像彫刻家の山田鬼斎に師事する。すぐに頭角を現し、イタリアへと留学していた長沼守敬に欧州の彫刻技術を学ぶなど、先駆性を発揮した。 1897年11月に高村光太郎や武石弘三郎、白井雨山、青木外吉ら同窓生と「青年彫塑会」を結成し、木彫家をもまじえて技術上の交流をはかり、新進気鋭の彫刻家として注目されるようになる。
大谷 登(おおたに のぼる、 1874年3月26日 - 19… 大谷 登(おおたに のぼる、 1874年3月26日 - 1955年7月31日)は、日本の海事実業家。日本郵船第7代代表取締役社長、船舶運営会初代総裁。 福井県出身。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後日本郵船に入る。カルカッタ支店長、ニューヨーク支店長、ロンドン支店長、副社長等を経て、1935年(昭和10年)から代表取締役社長。日本航空輸送会長兼務を経て、1938年(昭和13年)大日本航空初代会長兼務。この間、1937年(昭和12年)日本通運発足時には理事に就任した。1942年(昭和17年)船舶運営会初代総裁に就任。太平洋戦争中の戦時体制下で海運統制を行った。このほか南洋拓殖参与理事、海運協会理事長、如水会理事等も務めた。
前田 政八(まえだ まさはち、1874年〈明治7年〉3月25… 前田 政八(まえだ まさはち、1874年〈明治7年〉3月25日 - 1965年〈昭和40年〉1月21日)は、日本の実業家、政治家。立憲民政党(のち立憲政友会)衆議院議員、佐賀県藤津郡塩田町(現・嬉野市)長。 佐賀県藤津郡塩田村で生まれる。代々武士の家系で、先祖には塩田津出身で治水の神様と評される前田伸右衛門がいる。1898年3月、東京の工手学校土木科を卒業し、さらに達英舎で英学を修める。 1900年5月、北海道庁技手に任じられ室蘭支庁に勤務。その後、道庁属・札幌支庁第二課長に転じ、1908年に退職。その後、札幌区外五郡産牛馬組合副組長、前田一歩園管理人を経て、前田倉庫、材木商を経営。釧路木材商組合長、北海道会議員、釧路区会議員、釧路市会議員、同議長、釧路商業会議所議員、賓江木材倉庫社長(満州国哈爾賓市)などを務めた。
両國 梶之助(りょうごく かじのすけ、1874年3月25日 … 両國 梶之助(りょうごく かじのすけ、1874年3月25日 - 1949年1月11日)は、長崎県北高来郡(現:長崎県諫早市)出身の元大相撲力士。本名は古川 九八(ふるかわ きゅうはち)。 1874年(明治7年)3月25日に長崎県北高来郡(現・諫早市)で農家を営む家に生まれる。家業に従事しながら土地相撲では「若木野」という四股名で活躍したが、顔役の楠という人物に才能を見出されて不知火部屋(大坂相撲)へ連れて行かれた。しかし、ここでは入門を快諾してもらえなかったことから時津風部屋(大坂相撲)へ入門したが、入門後は順調に出世したことで不知火に懇望され、不知火部屋に転属した。四股名は本名から取った「九(いちじく)」で、後に「一軸(読みは同じ)」、「國岩」と改めて活躍した。
森垣 亀一郎(もりがき きいちろう、1874年(明治7年)3… 森垣 亀一郎(もりがき きいちろう、1874年(明治7年)3月22日 - 1934年(昭和9年)1月23日)は、兵庫県出身の日本の土木技術者。大阪築港工事に8年間従事し、鉄桟橋、神戸築港、防波堤の工事にあたった。 但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)に生まれる。新治郎とちくの次男。5歳で父を亡くす。明治13年に豊岡小学校に入学。学業が優秀だったことから、地元の資産家の援助により東京府尋常中学校に入学する。さらに第一高等中学校に進むが、資産家が事業に失敗したことで、苦学を余儀なくされた。その状況でも帝国大学工科大学土木工学科に進学し、1898年(明治31年)に卒業した。この間の学費は、出身小学校長の弟だった土木技師の沖野忠雄から援助された。
南沢 宇忠治(みなみざわ うちゅうじ、明治7年(1874年)… 南沢 宇忠治(みなみざわ うちゅうじ、明治7年(1874年)3月21日 - 昭和7年(1932年)4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 長野県更級郡石川村(現長野市)に旧松代藩士・南沢忠正の長男として生まれる。旧制長野県尋常中学、旧制第一高等中学を経て、明治34年(1901年)東京帝国大学工科大学電気工学科卒業。大倉組に入社したが、同38年(1905年)に日光電力に技師長として招聘され、その後は独立し 東京に八重洲商会を創立し、電気器具の販売の他、東京市電気局や東京電燈等各社の電気工事の請負を手掛けた。また藤田組と協力し、北安曇郡大町に明治水力電気を創立して重役となった。 大正6年(1917年)第13回衆議院議員総選挙に当選し、千曲川の堤防構築による治水問題に取り組んだ。
三浦 銕太郎(みうら てつたろう、1874年3月20日 - … 三浦 銕太郎(みうら てつたろう、1874年3月20日 - 1972年5月8日)は、日本のジャーナリスト、時事評論家。東洋経済新報社代表社員・主幹を務め、帝国主義批判の論客として小日本主義を唱え、石橋湛山・高橋亀吉らを鍛え上げた。旧姓、山下。 地主・山下太左衛門の次男として生まれる。静岡県志太郡相川村(後の大井川町、現・焼津市)出身。 1892年、国民英学会で修学。1893年、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、天野為之に師事する。東京専門学校卒業後、同校教授の井上辰九郎の書生をしながら立教学校(現・立教大学)、青山学院などで英語を勉強する。 1897年、三浦貞と結婚、この時、三浦家の養子となる予定であったが、すぐには実父の承諾を得られなかった(正式入籍は1906年)。
稲田 龍吉(いなだ りょうきち、1874年(明治7年)3月1… 稲田 龍吉(いなだ りょうきち、1874年(明治7年)3月18日 - 1950年(昭和25年)2月27日)は、愛知県名古屋市出身の細菌学者。九州帝国大学医学部第一内科初代教授、恩賜財団母子愛育会愛育研究所(現・日本総合愛育研究所)初代所長を歴任。東京大学名誉教授、医学者。 洋学校を経て上京し、共立学校などの予備校に在籍した後、第一高等中学校を経て1895年(明治28年)帝国大学医科大学(現 東京大学医学部)に入学、1900年(明治33年)に首席で卒業し、青山胤通教授の内科教室に入局。 1902年(明治35年)から文部省海外留学生としてドイツに公費留学。1905年(明治38年)京都帝国大学福岡医科大学内科学第一講座初代教授に着任(現九州大学医学部第一内科(病態修復内科))。
有馬 彦吉(ありま ひこきち、1874年3月18日 - 19… 有馬 彦吉(ありま ひこきち、1874年3月18日 - 1950年2月25日)は明治時代から昭和初期の実業家。貿易商社有馬洋行の創業者で代表取締役社長。 1874年(明治7年)3月、有馬新之助の二男として鹿児島市に生まれる。12歳で父を失い上京、伯父に引き取られる。 1893年(明治26年)に慶應義塾大学を中退後、近衛騎兵に志願して日清戦争に従軍。1895年(明治28年)に除隊。翌年日本銀行に入行して台湾出張所勤務となり、1898年(明治31年)の台湾銀行創立に伴い日銀から移籍した。1901年(明治34年)から台南支店勤務となり、1902年(明治35年)に有馬洋行を創業。 台湾での製糖業の勃興を予見して製糖機械の販売を始め、数年で100万円(当時)の利益を挙げた。
西川 籐吉(にしかわ とうきち、1874年(明治7年)3月1… 西川 籐吉(にしかわ とうきち、1874年(明治7年)3月17日 - 1909年(明治42年)6月22日)は、日本の真円真珠養殖の研究者、真円真珠発明者。大阪府桃谷出身。 見瀬辰平とともに真円真珠を発明した研究者として知られている。西川式・ピース式と呼ばれ、現在の真珠養殖の技術の基礎となっている。東京帝国大学で水産動物学を専攻し1897年(明治30年)に卒業した後、農商務省水産局技師として、箕作佳吉・飯島魁両博士の指導の下、真円真珠養殖およびアワビの人工授精の研究に従事した。御木本研究所で本格的な真珠の研究にはいり、真円真珠形成の原理を解明した。 1903年(明治36年)、御木本幸吉の次女を嫁に貰う。
大石 和三郎(おおいし わさぶろう、1874年〈明治7年〉3… 大石 和三郎(おおいし わさぶろう、1874年〈明治7年〉3月15日 - 1950年〈昭和25年〉12月18日)は、日本の気象学者。ジェット気流の発見者として有名。エスペランティストである。 1874年、佐賀県鳥栖市生まれ。第一高等中学校予科尋常中学科、第一高等学校第二部学科を経て、1898年(明治31年)東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。さらに大学院で学んだ。1899年(明治32年)中央気象台に入り、地磁気、空中電気の観測を担当する。1911年(明治44年)ドイツのリンデンベルク高層気象台及びポツダム気象台に留学した。帰国後の1920年(大正9年)に高層気象台の初代台長に就任した。 1926年に刊行された「高層気象台報告第1号」で、大石は測風気球による高層気流の観測結果をエスペラントで世界に公表した(同年に「高層気象台彙報」にて日本語で報告している)。
立 作太郎(たち さくたろう、1874年(明治7年)3月15… 立 作太郎(たち さくたろう、1874年(明治7年)3月15日 - 1943年(昭和18年)5月13日)は、日本の法学者(国際法)。東京帝国大学教授。 東京で旧幕臣・立嘉度(よしのり)の息子として生まれ、伯父・立嘉一(広作、外務省文書権正・大蔵省大丞)の養子となる。慶應義塾幼稚舎、共立学校、第一高等学校を経て、1897年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、大学院に進み国際公法を専攻。1900年6月、外交史研究のためヨーロッパに留学。1901年3月、東京帝国大学法科大学助教授に発令され、1904年3月に帰国した。 1904年4月、東京帝国大学法科大学教授に就任し、外交史の講座を担当。
伊達 源一郎(だて げんいちろう、1874年(明治7年)3月… 伊達 源一郎(だて げんいちろう、1874年(明治7年)3月15日 - 1961年(昭和36年)7月15日)は、日本の政治家。緑風会参議院議員(1期)。読売新聞主筆。鳥類研究家。号・樸堂。 島根県出身。1899年同志社大学政治学部卒。1901年国民新聞に入り、編集局長、国際通信社ニュース部長、読売新聞主筆、ジャパンタイムス、島根新聞の各社の社長などを経て、1947年の第1回参議院議員通常選挙において島根地方区から無所属で立候補して当選する。国会内では内閣委員長を務めた。1953年の第3回参議院議員通常選挙には立候補しなかった。1961年死去。
大内 暢三(おおうち ちょうぞう、1874年(明治7年)3月… 大内 暢三(おおうち ちょうぞう、1874年(明治7年)3月15日 - 1944年(昭和19年)12月31日)は、衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→革新倶楽部→立憲政友会)、東亜同文書院院長・同大学学長。 福岡県八女郡白木村(現在の八女市)に、大内精一郎の長男として生まれる。1890年(明治23年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学して政治学を専攻し、1894年(明治27年)からはアメリカ合衆国のコロンビア大学に入学して、政治学と憲法学を学んで法学修士の称号を得た。帰国後、早稲田大学の講師を務めたが、貴族院議員・公爵近衛篤麿の知遇を得、1899年(明治32年)に近衛の欧米歴訪に随行した。また近衛が東亜同文会を創設するのに協力した。
酒井 勝軍(さかい かつとき/かついさ、1874年〈明治7年… 酒井 勝軍(さかい かつとき/かついさ、1874年〈明治7年〉3月15日 - 1940年〈昭和15年〉7月6日)は独自のキリスト教伝道者、日ユ同祖論者、オカルティスト、「日本のピラミッド」発見者である。 酒井には勲五等が贈られている。 オカルト雑誌「ムー」創刊にも参画し、1980年代の「オカルトブーム」に大きな役割を果たした武田崇元は、酒井の著作に大きな影響を受け、彼の発行していた『神秘之日本』を復刻している。 オウム真理教の麻原彰晃も酒井勝軍の著作や竹内文書の影響を受けており、麻原は雑誌「ムー」1985年(昭和60年)11月号において、教徒石井久子を伴い、酒井縁の岩手県の五葉山にまで旅して、酒井の著作の中に登場している霊石「ヒヒイロカネ」を、生前の酒井と面識のあったという老人より譲り受けたと記述している。
犬塚 信太郎(いぬづか のぶたろう、1874年(明治7年)3… 犬塚 信太郎(いぬづか のぶたろう、1874年(明治7年)3月14日 - 1919年(大正8年)12月10日)は、日本の実業家。孫文の支援者で、南満州鉄道理事などを務めた。立山水力電気設立者。 原籍は佐賀県だが、東京で有馬小学校を卒業後、中学校には進まず、1890年に高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業後、17歳で三井物産に入社した。 三井物産では門司支店から始め、ロンドン等で勤務し、シンガポール支店長代理や、香港支店長等を経て、門司支店長を務めた。ロンドンや東京では悪友各務鎌吉らと女遊びに興じたという。 1906年に南満洲鉄道が設立されると、同社理事に就任。三井物産門司支店次席を務めていた部下の相生由太郎も同社に招聘した。
渡辺 世祐(わたなべ よすけ、1874年3月13日 - 19… 渡辺 世祐(わたなべ よすけ、1874年3月13日 - 1957年4月28日)は、日本史学者。明治大学、國學院大學各教授。学位は、文学博士(1919年)。山口県平民。 1874年、山口県吉敷郡下宇野令村(現・山口市)生まれ。旧姓は蔵田。山口高校を経て1900年7月、東京帝国大学文科大学国史学科を卒業。熊谷中学校勤務の後、1903年に「関東ヲ中心トシタル足利時代史」の研究のため、東京帝国大学大学院に進学する。 1904年(明治37年)から東京帝国大学史料編纂掛(史料編纂所)に勤務。1905年(明治38年)からは東京帝国大学文科大学講師として室町時代・戦国時代の歴史を講義する。1910年(明治43年)からは國學院大學部でも教鞭を取る。
磯野 長蔵(いその ちょうぞう、旧姓・三島、1874年〈明治… 磯野 長蔵(いその ちょうぞう、旧姓・三島、1874年〈明治7年〉3月12日 - 1967年〈昭和42年〉6月25日)は日本の実業家。明治屋社長、会長を務めたほか、キリンビール設立発起人となり、キリンビール社長や会長を歴任。同社をビール業界トップとした。 鳥取県倉吉市河原町の呉服屋、三島久平・なをの次男として生まれる。勉強がよくでき、1883年、9歳のときに倉吉の戸長を務めた松本家を継ぐため松本仁平の養子となる。 鳥取県尋常中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)の授業料免除優待生を経て上京。高等商業学校予備門(現・日本大学第三中学校・高等学校)で1年間の浪人生活を送り、高等商業学校(現・一橋大学)入学。
梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年〈明治… 梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年〈明治7年〉3月9日 - 1951年〈昭和26年〉1月1日)、または梨本 守正(なしもと もりまさ)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。梨本宮家第3代当主。官位は元帥陸軍大将。栄典は大勲位功四級。明仁上皇の大叔父にあたる。また、娘の方子は、大韓帝国最後の皇太子で日本の王公族だった李王垠に嫁いでいる。 久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年に誕生。当初は多田と名付けられたが、梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。梨本宮家は初代守脩親王のあと、山階宮家出身の菊麿王が後継者となったが、のちに実家を継ぐことになったため梨本宮家を離れ、代わって守正王が相続したものである。
清 崟太郎(せい きんたろう、1874年〈明治7年〉3月3日… 清 崟太郎(せい きんたろう、1874年〈明治7年〉3月3日 - 1921年〈大正10年〉5月29日)は、衆議院議員(立憲政友会)。 静岡県富士郡柚野村(現在の富士宮市)で酒造業を営む清家の四男として生まれた。1903年(明治36年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業後、中央新聞の記者となった。その後、東京市長尾崎行雄の知遇を得、市長秘書役に抜擢された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は5回を数えた。その他、東京市会議員も務めた。
坂口 拙三(さかぐち せつぞう、1874年(明治7年)3月3… 坂口 拙三(さかぐち せつぞう、1874年(明治7年)3月3日 - 1946年(昭和21年)11月24日)は、明治から昭和前期の農業経営者・地主・実業家・政治家。衆議院議員、岐阜県会議長。 岐阜県方県郡、のちの稲葉郡木田村(現岐阜市)で、豪農・坂口太八郎の長男として生まれる。1888年(明治21年)岐阜高等小学校を卒業し、1889年(明治22年)上京して、慶應義塾正課を卒業し、さらに東京法学院(のち英吉利法律学校、現中央大学)で学んだ。 帰郷して家業の畜産業を継承。北海道、朝鮮で開墾事業を行い、揖斐川電力(現イビデン)取締役、岐阜製氷取締役、京城工業社長、日本鉄煉瓦取締役などを務め、岐阜市でS電機商会を、中華民国山東省青島で雑貨店を経営した。
草野 俊助(くさの しゅんすけ、1874年(明治7年)3月2… 草野 俊助(くさの しゅんすけ、1874年(明治7年)3月2日 - 1962年(昭和37年)5月19日)は、日本の植物学者、病理学者である。東京大学名誉教授。理学博士。 福島県の生まれ。草野孝信の長男。 東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、1925年(大正11年)に母校の同大学教授として活動する。同大学勤務中は教鞭を執る傍ら主に菌類の研究に携わり、1933年(昭和8年)に壺状菌類の生活史に関する研究に携わったことで帝国学士院賞(東宮御成婚記念賞)を受賞し、同院の会員となった。 また帝大に勤務中の1931年(昭和6年)には東京文理科大学(後の東京教育大学、現在の筑波大学)の教授としても活動し、1937年(昭和12年)の定年退官まで両大学教授を兼務する。
白河 鯉洋(しらかわ りよう、1874年(明治7年)3月2日… 白河 鯉洋(しらかわ りよう、1874年(明治7年)3月2日 - 1919年(大正8年)12月25日)は、衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト、東洋学者。本名は次郎。 福岡県京都郡豊津村(現在のみやこ町)出身の豊津藩(小倉藩)士で、豊前宇都宮氏の末裔である。 1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学漢学科を卒業。卒業後は神戸新聞、九州日報の主筆を務めた。1903年(明治36年)、清に渡って南京の江南高等学堂の総教習を務めた。帰国後は、早稲田大学講師、関西日報客員を務めた。1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 墓所は多磨霊園(6-2-6)と日光市浄光寺(田岡嶺雲との連理塚)。
岡野 義三郎(おかの よしさぶろう、1874年(明治7年)3… 岡野 義三郎(おかの よしさぶろう、1874年(明治7年)3月1日 - 1939年(昭和14年)8月27日)は、日本の教育者。 大阪府出身。第三高等学校を経て、1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。高知県尋常中学校教諭、岐阜県尋常中学校教諭、第六高等学校教授、第八高等学校校長、第二高等学校校長を歴任。1928年(昭和3年)、第六高等学校長に就任した。1935年(昭和10年)に退官した後は、第六高等学校名誉教授の称号を受けた。建築家の岡野寛次(竹中工務店)は弟儀助の養子となった次男である。
遠藤 熊吉(えんどう くまきち、1874年(明治7年)3月1… 遠藤 熊吉(えんどう くまきち、1874年(明治7年)3月1日 - 1952年(昭和27年)8月31日)は、日本の教育家である。 秋田県雄勝郡西成瀬村(現在の横手市)に所在する安養寺に生まれる。後の増田町立西成瀬小学校(現在は閉校)の前身である荻袋安養寺小学校に入学し、卒業後の1893年(明治26年)に上京し大八洲学校および国語伝習所に入学し標準語を学んだ。1895年(明治28年)に再度秋田に戻り、駒形尋常小学校(後の湯沢市立駒形小学校、現在は閉校)に准訓導として教鞭を執る。 翌1896年(明治29年)には母校である西成瀬小学校に教師として同学校に戻り、同学校にて方言教育を指導せず専ら標準語教育の指導および話し言葉の指導に携わった。
川井 源八(かわい げんぱち、1874年〈明治7年〉3月 -… 川井 源八(かわい げんぱち、1874年〈明治7年〉3月 - 1945年〈昭和20年〉6月22日)は、日本の実業家。第2代三菱電機会長。 福島県耶麻郡、のちの翁島村(現猪苗代町)出身。若松中学校(現福島県立会津高等学校)を経て、1894年高等商業学校(現一橋大学)卒業。東京倉庫神戸支店副支配人、東京倉庫大阪支店支配人等を経て、1920年三菱電機代表取締役。1931年から三菱電機常務取締役として退任した武田秀雄前会長に取り替わり社業を統括した。1935年三菱電機取締役会長。三菱電機において消費者向けの家庭用電化製品事業の創設を進め、扇風機、モーターなどの生産の発案や、ショールームの設立などを行った。
坂本 健一(さかもと けんいち、1874年3月 - 1930… 坂本 健一(さかもと けんいち、1874年3月 - 1930年?月)は、日本の歴史家、著述家。号は蠡舟(れいしゅう・いしゅう)。坂本 健名義の著書もあるらしい。 兵庫県淡路島平民出身。1895年7月3日に旧制第四高等学校大学予科第一部を卒業、1898年7月10日に東京帝国大学文学部史学科を卒業。1900年北京京師大学堂(現・北京大学)の招聘を受け、7年間の出向を経て著述業に従事。 大正期には「コーラン経」(1920年、セイルらのクルアーン英訳本からの重訳)や「ムハメッド伝」(1923年)を著した。 以下は北京京師大学堂での同僚。
吉田 熊次(よしだ くまじ、1874年(明治7年)2月27日… 吉田 熊次(よしだ くまじ、1874年(明治7年)2月27日 - 1964年(昭和39年)7月15日)は、日本の教育学者。文学博士。東京帝国大学教授。 山形県東置賜郡中川村(現在の南陽市)出身。1897年(明治30年)第一高等中学校卒業、1900年(明治33年)東京帝国大学文科大学哲学科を卒業、大学院に学んだ。1903年(明治36年)、倫理学研究のためフランス、ドイツに留学した。1904年(明治37年)、東京女子高等師範学校教授・東京高等師範学校教授に就任。1907年(明治40年)、東京帝国大学文科大学助教授、1912年(明治45年)には文学博士の学位を取得した。1916年(大正5年)、東京帝国大学文学部教授に就任。
小林 豊造(こばやし とよぞう、1874年〈明治7年〉2月2… 小林 豊造(こばやし とよぞう、1874年〈明治7年〉2月27日 - 1921年〈大正10年〉3月20日)は、日本の技術者、経営者。兵庫県出身。ダイヤモンド研磨技術を欧州に学び日本に初めて導入し起業した。また日本初となる蓄音機のルビー針など多くの技術を開発した。文芸評論家小林秀雄の父。幼名・豊蔵。 農家の二男として生まれたが、幼少期に出石藩士・小林家の養子となり、兵庫県師範学校を経て、1899年 東京工業学校(後に東京高等工業学校と改称、現東京工業大学)工業教員養成所金工科卒業。同校の教員となり、1903年に文部省の派遣留学生として1年間欧米の金属技術を視察し研究した。 貴金属時計装身具卸売製造の「村松万次郎商店」の顧問を兼ねていたが、1908年に万次郎が死去すると、真珠養殖に成功していた御木本幸吉に乞われて1910年に御木本真珠店貴金属工場長に就任、社命により1911年にベルギーのアントワープのダイヤモンド研磨工場の研修生となり、日本人で初めて宝石用ダイヤモンド原石のカットと研磨技術を習得する。
本多 敏樹(ほんだ としき、1874年2月27日 - 196… 本多 敏樹(ほんだ としき、1874年2月27日 - 1968年2月8日)は、日本の政治家。第2-4代岡崎市長(3期)。 旧藩主本多家の出身であったことから「殿様市長」として親しまれた。旧岡崎藩主17代目の本多忠敬(ただあつ)は実兄。 愛知県岡崎市生まれ。学習院、札幌農学校を経て、1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学に入学。大学を中退したあと、1904年(明治37年)、陸軍歩兵少尉として日露戦争に従軍。勲六等単光旭日章受章。退役後、北海道庁技師に任官し未開地開発にとりくむ。勲五等瑞宝章を受章。 1918年(大正7年)7月12日、郷里岡崎の初代市長・千賀又市が公務執務中にたおれ、その日のうちに49歳で死去。
雨宮 量七郎(あまみや りょうしちろう、明治7年(1874年… 雨宮 量七郎(あまみや りょうしちろう、明治7年(1874年)2月26日 - 昭和40年(1965年)2月)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。呉病院長、海軍医学校校長、海軍省医務局長を歴任する。埼玉県出身。 明治7年(1874年)2月26日、雨宮春潭の三男として出生する。明治33年、東京帝国大学医学部を卒業し、東京海軍軍令部に所属する。その後、海軍造幣廠、海軍軍医学校へ入校し卒業を経て、呉海軍病院第二部長となる。この後、海軍軍医学校教官、同校教頭となり、艦政本部技術会議員、佐世保鎮守府軍医長、呉海軍病院長を経て、大正13年(1924年)12月1日、海軍医学校校長となる。 翌年、大正14年(1925年)12月1日に海軍中将に昇進し、海軍省医務局長に就任。
林 春雄(はやし はるお、1874年(明治7年)2月25日 … 林 春雄(はやし はるお、1874年(明治7年)2月25日 - 1952年(昭和27年)1月1日)は薬理学者。東京帝国大学医学部薬物学教室の第二代教授。東京帝国大学名誉教授。貴族院議員。 1874年、愛知県で生まれた。1881年に、林茂雄の養子となった。1897年に東京帝国大学医学部を首席で卒業し、学士号を取得。 1900年に東京帝国大学助教授に就いた。1902年から1905年まで3年間、薬理学ならびに毒物学研究のためにドイツ留学を命じられ、シュトラースブルク大学に留学した。1905年に帰国した後は、京都帝国大学福岡医科大学(現九州大学)助教授となった。1905年7月、医学博士の学位を取得。1908年、東京帝国大学に薬理学第二講座が開設されて二講座制になると、、林は同大学に転じて第二講座を担任した。
大味 久五郎(おおみ / おおあじ きゅうごろう、1874年… 大味 久五郎(おおみ / おおあじ きゅうごろう、1874年〈明治7年〉2月24日 - 1943年〈昭和18年〉)は、日本の内務・警察官僚。官選沖縄県知事、小樽区長。 石川県石川郡金沢(現:金沢市)小将町[要出典]で、旧加賀藩士・大味如金の長男として生まれる。1894年7月、第四高等中学校を卒業。1897年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。拓殖務省に入省し拓殖務属となり南部局勤務となる。同年9月、拓殖務省が廃止され、内閣属・台湾事務局勤務に転じた。1898年12月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1899年1月、内務省に転じ内務属・大臣官房文書課兼警保局勤務となった。以後、香川県参事官、奈良県参事官、奈良県警部長、山梨県警部長、福島県警部長、福島県事務官・第四部長、山口県事務官・第四部長、同警察部長、青森県事務官・警察部長、徳島県事務官・警察部長、山形県事務官・内務部長などを歴任。
香椎 秀一(かしい しゅういち/ひでかず/ひでいち、1874… 香椎 秀一(かしい しゅういち/ひでかず/ひでいち、1874年2月23日 - 1962年4月13日)は、大正から昭和期の日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍中将香椎浩平の兄。 福岡県出身。福岡県立尋常中学修猷館を経て、1895年(明治28年)1月1日に陸軍士官学校(6期)を卒業。同年5月、歩兵少尉任官。1903年(明治36年)11月、陸軍大学校(17期)を卒業。のちドイツ駐在となる。 1914年(大正3年)8月、大分連隊区司令官に就任。1915年(大正4年)8月、歩兵大佐に昇進し、同年9月21日、歩兵第61連隊長となる。1917年(大正6年)4月5日に関東都督府(後の関東軍)高級参謀に転じた。
宮澤 政次郎(みやざわ まさじろう、1874年〈明治7年〉2… 宮澤 政次郎(みやざわ まさじろう、1874年〈明治7年〉2月23日 - 1957年〈昭和32年〉3月1日)は、日本の実業家・地方政治家。詩人・童話作家の宮沢賢治の父である。花巻川口町町会議員、民生委員、調停委員を務めた。また、浄土真宗の篤信家でもあり、暁烏敏や近角常観などと交流を持った。姓については子息の賢治と同様、常用漢字体で宮沢とも表記される(以下の文中でも「宮沢」で統一する)。 宮沢喜助とキンの長男として現在の岩手県花巻市に生まれる。2男2女の4人きょうだいの長男(上に姉あり)だった。当時の宮沢家は、喜助が開いた質・古着商を家業としていた。1885年に本城小学校を卒業すると家業に従事し、15歳 - 16歳頃には父の代理を務めるほどだった。
高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体: 高濱 虛子、1874… 高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体: 高濱 虛子、1874年〈明治7年〉2月22日 - 1959年〈昭和34年〉4月8日)は、明治・大正・昭和の日本の俳人・小説家。本名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体: 高濱 淸)。旧姓は池内。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 『ホトトギス』の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。 愛媛県温泉郡長町新町(現:松山市湊町)に旧松山藩士・池内 政忠(いけのうち まさただ)の五男として生まれた。9歳の時に祖母の実家の高浜家を継ぐ。この時、清に次男を得られたら池内家に戻す約束があり、次男の友次郎には約束通り、池内姓を継がせた。兄の池内信嘉は能楽研究家である。
永井 幸次(ながい こうじ、1874年(明治7年)2月21日… 永井 幸次(ながい こうじ、1874年(明治7年)2月21日 - 1965年(昭和40年)4月7日)は日本の音楽教育者。大阪音楽学校(現大阪音楽大学)設立。
田村 瑞穂(たむら みずほ、1874年(明治7年)2月21日… 田村 瑞穂(たむら みずほ、1874年(明治7年)2月21日 – 没年不詳)は、東京市区長、医師。 高知県高岡郡尾川村(現在の佐川町)出身。東京帝国大学医科大学選科で学び、医術開業免状を得た。神奈川県で開業した後、伝染病研究所に技師として勤務した。1902年(明治35年)、香港政庁に招聘されペスト対策に従事した。帰国後、徳島県技師、大分県技師、群馬県技師、内務省検疫官を歴任した。1921年(大正10年)、東京市に転じ、衛生課長、本所区長、浅草区長、日本橋区長、保険局長を務めた。
川合 直次(かわい なおじ、1874年(明治7年)2月21日… 川合 直次(かわい なおじ、1874年(明治7年)2月21日 - 1938年(昭和13年)8月4日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→立憲民政党)、新潟県高田市長。 新潟県頸城郡直江津町出身。1899年(明治32年)、中頸城郡会議員に選ばれ、1903年(明治36年)には新潟県会議員に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選された。 1924年(大正13年)、高田市長に選出され、1936年(昭和11年)に辞職するまで3期務めた。在職中は上下水道の整備に尽力した。 市長退任後、第19回衆議院議員総選挙(新潟県第4区)に出馬し、当選。
河西 豊太郎(かさい とよたろう、1874年(明治7年)2月… 河西 豊太郎(かさい とよたろう、1874年(明治7年)2月18日 - 1959年(昭和34年)6月27日)は、日本の政治家・実業家。号は嘯月、三江。子に河西俊夫。息子の岳母の兄は貴族院議員 小林八右衛門。弟の岳父は貴族院議員 市川文蔵。 山梨県巨摩郡十日市場村(現・南アルプス市十日市場)に生まれる。十日市場村は近世から毎年2月には市立が行われ各地から商人が集った地で、河西家も十日市場村の「山久」の屋号を称する有力商家で、長百姓として村政にも携わっている。父は河西家当主の兵一郎。豊太郎は次男であるが長男は豊太郎出生の前年に死去しており、豊太郎は長男として育てられた。 幼少期に父の兵一郎は死去し、豊太郎は三恵小学校、東八代郡南八代村(現・笛吹市八代町南)の加賀美平八郎の私塾成器社に学ぶ。
牧野 元次郎(まきの もとじろう、1874年(明治7年)2月… 牧野 元次郎(まきの もとじろう、1874年(明治7年)2月17日 - 1943年(昭和18年)12月7日)は、日本の実業家。不動貯金銀行(のちの協和銀行、りそな銀行)創業者・元頭取。定期積金を考案し業績を拡大させ「貯金王」などと呼ばれた。族籍は東京府士族。 千葉県君津郡久留里町(現君津市)出身。旧久留里藩士・牧野治の長男。父・牧野治は明治維新後は警察官吏となり、牧野が小学校に入学する頃には千葉県内の各地に赴任、警察署長も務めた。 1886年、印幡郡土室村の北総英漢義塾に入学。更に高等商業学校(のちの一橋大学)に進むも、過度の勉学への意志が牧野の精神を侵し病気となったことから中退。病も癒えた1894年に成田町に創立された成田銀行に勤めた。
冨島 元治(とみしま もとはる、1874年(明治7年)2月1… 冨島 元治(とみしま もとはる、1874年(明治7年)2月16日 - 1945年(昭和20年)11月16日)は、日本の判事・台湾総督府官僚。高雄州知事。 京都府に冨島元起の長男として生まれる。京都府立第一中学校、第二高等学校を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。京都地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、宇都宮地方裁判所部長判事を歴任。 台湾総督府総務長官・賀来佐賀太郎の招きにより台北に赴任し、覆審法院判官となった。その後行政官となり、南投庁長、台北庁長を歴任した。さらに台湾総督府警視総長(1919年5月21日 - 1919年6月28日)、同警務局長(1919年6月28日 - 1920年9月1日)を務めた。
繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16… 繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16日 - 1933年〈昭和8年〉3月2日)は、日本の詩人、英文学者。早稲田大学で4人目となる博士号授与者。本名は繁野 政瑠(しげの まさる)、他の筆名に繁野 狂美がある。 1874年2月16日、現在の徳島市下助任町に、徳島藩士の繁野傑()・イサ夫妻の長男として生まれる。 徳島市立助任尋常小学校、川島尋常小学校、公立寺島小学校、徳島市立徳島高等小学校を経て、1889年に徳島県立徳島尋常中学校に入学。祖母の死を機に大阪に移り、1891年に大阪市立尋常中学校に転学。在学中に熊本謙二郎から英語を教わる。1893年9月に第三高等学校に入学するも、後に病気退学。
斎藤 礼三(さいとう れいぞう、1874年(明治7年)2月1… 斎藤 礼三(さいとう れいぞう、1874年(明治7年)2月15日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。朝鮮総督府官僚。弁護士。 熊本県出身。1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。台湾総督府事務官・警視、統監府書記官、朝鮮総督府事務官、忠清北道第一部長、京城府尹、咸鏡北道知事などを歴任した。 退官後は弁護士を開業した。
根津 啓吉(ねづ けいきち、1874年(明治7年)2月15日… 根津 啓吉(ねづ けいきち、1874年(明治7年)2月15日 - 1954年(昭和29年)12月4日)は、山梨県出身の地主、政治家、実業家。貴族院議員を務めた。 明治7年2月15日、山梨県巨摩郡築地新居村(現在の中巨摩郡昭和町)で、父・内藤宇兵衛(思温)、母・とよの間に四男として生まれた。1893年(明治26年)に同志社普通学校を卒業、この頃にキリスト教の洗礼を受けた。1896年(明治29年)には同志社ハリス理科学校(現在の同志社大学理工学部)を卒業した。京都滞在は通算9年に及んだ。 卒業後、茨城県立水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)、同下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)で教職を務めた。
西村 伊亮(にしむら いすけ、1874年2月12日 - 19… 西村 伊亮(にしむら いすけ、1874年2月12日 - 1951年1月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。東京法学院で学ぶ。農業を営み、滋賀県会議員、近江米取引所理事長、同監査役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀5区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1951年に死去した。
市川源三(いちかわ げんぞう、1874年2月11日 - 19… 市川源三(いちかわ げんぞう、1874年2月11日 - 1940年3月25日)は、日本の教育者。長野県北佐久郡三都和村(現・立科町)出身。1895年長野師範学校卒業、1900年東京高等師範学校卒業。