篠田 弘作(しのだ こうさく、1899年7月27日 - 19… 篠田 弘作(しのだ こうさく、1899年7月27日 - 1981年11月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)、自治大臣、国家公安委員会委員長を務めた。1974年、勲一等旭日大綬章受章。北海道苫小牧市名誉市民(1981年)。 富山県富山市に、篠田信宣の二男として生まれる。1900年の富山大火による自宅の焼失、信宣の死亡など不幸が相次ぎ、1908年に一家は樺太へ移住、貧困の中で少年時代を過ごした。その後商店の小僧、小学校教諭などを経て、1927年早稲田大学専門部政治経済科を卒業、東京朝日新聞記者となる。山形支局長、千葉支局長を歴任し、1940年経済部長丹波秀伯の強引な勧めにより、水野成夫・南喜一が経営していた「大日本再生製紙」(日本製紙の前身の一つ)に入社する。
藤瀬 新一郎(ふじせ しんいちろう、1899年7月26日 -… 藤瀬 新一郎(ふじせ しんいちろう、1899年7月26日 - 1964年3月20日) は、日本の化学者。東北大学名誉教授。元日本学術会議会員。紫綬褒章受章。正三位勲二等旭日重光章。 1899年、イギリス領マラヤシンガポール植民地で生まれた。東北帝国大学理学部化学科で学び、1923年に卒業。1929年に学位論文『デカヒドロキノリン類の研究』を東北帝国大学に提出して理学博士号を取得。 大学院修了後は、理化学研究所に勤務。1932年、母校の東北帝国大学助教授を命じられた。1933年、東北帝国大学教授に昇格。 戦後、東北大学理学部長を務めた。また、東北大学抗酸菌研究所教授も務めた。1963年に東北大学を退官し、名誉教授となった。
安部 ヨリミ(あべ ヨリミ、1899年7月25日 - 199… 安部 ヨリミ(あべ ヨリミ、1899年7月25日 - 1990年7月28日)は、日本の小説家である。小説家・劇作家として知られる安部公房の母で、安部 よりみ、安部 頼実という表記もある。彼女は公房の出生と前後して生涯で唯一の小説『スフィンクスは笑う』(翌年『光に背く』と改題)を書き上げていた。『スフィンクスは笑う』は2012年に講談社文芸文庫から再刊され、その資料的重要性や文学性の高さなどが改めて注目されている。 結婚前の姓は井村(いむら)といい、北海道上川郡東鷹栖村(現:旭川市東鷹栖)に生まれた。父・井村亀蔵と母・サクはともに現在の徳島県出身で、ヨリミは3人姉弟(姉・ハルメ、ヨリミ、弟・效〈まなぶ〉)の真ん中であった。
近野 信雄(こんの のぶお、1899年7月23日 - 194… 近野 信雄(こんの のぶお、1899年7月23日 - 1944年3月13日)は、山形県出身の大日本帝国海軍軍人。海軍兵学校48期卒業。太平洋戦争中に護送船団を指揮するが戦死。最終階級は海軍少将。従四位勳二等。米沢海軍武官会会員。 1899年(明治32年)に山形県で生まれる。生家の近野家は上杉謙信所縁の一族、毘沙門天信仰。大日本帝国海軍職業軍人の家系。山形県立米沢中学を卒業後、海軍兵学校に入学し、第48期で卒業。海軍軍人としては1942年(昭和17年)頃まで駆逐艦長、戦艦副長など海上勤務が中心であったが、1944年(昭和19年)1月7日に機雷学校教頭兼研究部長となる。 1944年3月には東松2号船団の運航指揮官として前線に戻り、海軍徴用輸送船「国陽丸」に乗船。
宮崎 博史(みやざき ひろし、1899年7月23日 - 19… 宮崎 博史(みやざき ひろし、1899年7月23日 - 1990年12月27日)は、日本の作家。 埼玉県浦和市(現さいたま市)出身。本名・宮崎博。1924年慶応義塾大学経済学部卒。三越に入り、宣伝部長、セントラル映画社宣伝部長を務めた。のちに作家となりユーモア小説を発表。 岸鏋三郎名義の『店員同志』(1931年)と『トンカ先生の恋』(1932年)がサンデー毎日大衆文芸にて佳作入選。
野村 恭雄(のむら やすお、1899年(明治32年)7月23… 野村 恭雄(のむら やすお、1899年(明治32年)7月23日 - 1980年(昭和55年)4月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 山口県出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。陸軍砲工学校第30期を優等で卒業。東京帝国大学物理学科卒業。 陸軍大学校教官を経て、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進み、近衛野砲兵連隊長に補され、大東亜戦争に出征する。マレー、シンガポールを攻陥し、スマトラに駐屯した。内地に帰還後は、陸軍兵器行政本部技術課長、陸軍第2技術研究所員、大本営参謀などを歴任し、1945年(昭和20年)3月に陸軍少将に進んだ。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
渡辺 俶(わたなべ あつし、1899年7月23日 - 197… 渡辺 俶(わたなべ あつし、1899年7月23日 - 1974年5月7日)は、日本の政治家、医師。栃木県黒磯町長を務めた。 福島県に生まれる。父は明治期から黒磯で医院を開業していた。1924年(大正13年)、東京帝国大学医学部を卒業し同附属病院に就職。1925年(大正14年)、黒磯に戻り実家の医院で医業に従事した。 1925年から1954年(昭和29年)まで町医を、1925年から1965年(昭和40年)まで栃木県立黒磯高等学校(町立実践女学校)の校医を務めた。また、1941年(昭和16年)から1947年(昭和22年)まで方面委員を務めており、医師としてばかりでなく地域住民の相談相手としても信頼された。
摂津 茂和(せっつ もわ、1899年〈明治32年〉7月21日… 摂津 茂和(せっつ もわ、1899年〈明治32年〉7月21日 - 1988年〈昭和63年〉8月26日)は、日本の小説家、ゴルフ評論家、ゴルフ史家。 雑誌「新青年」などでユーモア小説家として活躍した後、ゴルフ史家として多くのゴルフ関連の書籍を多く著し、ゴルフ関連の施設やゴルフ場の建設にも貢献した。本名は近藤 高男(こんどう たかお)で、「摂津茂和」はフランス語で「これが私」を意味する「C'est moi(セ・モア)」をもじった筆名である。息子は三井物産ニューヨーク本店元社長の近藤久男。 東京府出身。中学時代には薄田泣菫や永井荷風の作品を熟読しており、特に泣菫の風刺的な作品に強い影響を受けた。慶應義塾大学法学部に進学したが、当初は文科を志望したにもかかわらず、父から猛反対されたため、政治科へ進んだ。
稲垣 長賢(いながき ながかた、1899年(明治32年)7月… 稲垣 長賢(いながき ながかた、1899年(明治32年)7月18日 - 1982年(昭和57年)3月12日)は、大正から昭和期の農林技官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧志摩鳥羽藩主家当主・稲垣長昌の長男として生まれる。父の死去に伴い、1940年(昭和15年)12月28日、子爵を襲爵した。 1924年(大正13年)東京農業大学本科を卒業。同年、農林省畜産試験場助手に就任。以後、山形県農林技手、農林省嘱託、帝国畜産会理事などを務めた。 1943年(昭和18年)1月9日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選。研究会に所属し調査部第五部理事を務め、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 その他、養鶏組合中央会技師に就任し、以後、同会の奨励部長、出版部長、検査部長、事業部長、同会理事などを務めた。
右城 暮石(うしろ ぼせき、1899年7月16日 - 199… 右城 暮石(うしろ ぼせき、1899年7月16日 - 1995年8月9日)は、日本の俳人。高知県出身。 長岡郡本山町字古田小字暮石(くれいし)に生まれる。本名は齊(いつき)で、俳号の暮石は出身地の小字の名に因む。 木能津尋常小学校から本山高等小学校に入り、1913年、中退し土佐電鉄に入社。1918年、社会運動家の岡本利吉の世話で、大阪電灯に入社。1920年、大阪朝日新聞社の俳句大会で松瀬青々を知り、青々の主宰誌「倦鳥」(けんちょう)に入会。1935年頃には古屋秀雄、細見綾子とともに「倦鳥」の若手三羽烏と呼ばれた。1938年大阪から奈良県に移住、晩年郷里へ戻るまで、奈良に住み、奈良を愛した。1946年「風」「青垣」同人。
武井 武(たけい たけし、1899年〈明治32年〉7月15日… 武井 武(たけい たけし、1899年〈明治32年〉7月15日 - 1992年〈平成4年〉3月12日)は、電気化学者。東京工業大学名誉教授、慶應義塾大学名誉教授。元電気化学協会会長。理学博士(東北帝国大学、1932年)。埼玉県北足立郡与野町(現・さいたま市中央区)生まれ。 妻の万寿は大幸勇吉の娘。
真野 房子(まの ふさこ、1899年7月15日 - 1986… 真野 房子(まの ふさこ、1899年7月15日 - 1986年12月22日)は、日本の美容家、教育者。日本に於ける洋髪美容の先駆者の一人で、真野美容専門学校設立者。 旧姓・畦地、本名・フサコ。広島県世羅郡東村(現世羅町)出身。 広島県立甲山高等女学校(現広島県立世羅高校)卒業後、近隣の農家に嫁ぐ。写真家になりたいという夫と共に上京、夫婦で写真館に住み込み修業。房子も家事の合間に客の髪や着付を始める。「いつかは夫と自分の店を持ちたい」と本格的に美容師修業。1923年、神田区猿楽町に小さな店を持つ。1階が写場、2階が髪結いの部屋であった。しかし半月もたたない9月、関東大震災で店は全壊、重傷を負う。炎に追われ混乱の中で見たのは、無意識に髪に手をやり、乱れを直そうとする女たちの姿だった。
江崎 悌三(えさき ていぞう、1899年(明治32年)7月1… 江崎 悌三(えさき ていぞう、1899年(明治32年)7月15日 - 1957年(昭和32年)12月14日)は、日本の昆虫学者。杉田玄白の子孫。
木佐木 久(きさき ひさし、1899年〈明治32年〉7月14… 木佐木 久(きさき ひさし、1899年〈明治32年〉7月14日 - 1993年〈平成5年〉12月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。1932年(昭和7年)陸軍大学校第44期卒業。 台湾軍参謀を経て、1941年(昭和16年)7月、第13軍高級参謀に補され、支那事変に出動する。同年8月、陸軍大佐に進む。大東亜戦争が勃発すると1944年(昭和19年)5月、再び台湾軍参謀となり、第10方面軍参謀を経て、1945年(昭和20年)6月10日、陸軍少将に進み、同月27日、西部軍附となり終戦を迎える。
玉置 豊次郎(たまき とよじろう、1899年7月13日 - … 玉置 豊次郎(たまき とよじろう、1899年7月13日 - 1984年10月9日)は、大阪市出身の日本の建築学者・都市計画家。工学博士(東京帝国大学)。大阪工業大学名誉教授。元内閣技官・帝都復興院復興局技師。元大阪府建築監督官・愛知県建築部長。勲四等瑞宝章受章。 専門は建築計画・建築史、都市計画。 1923年(大正12年)、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、内務省から都市計画地方委員会事務取扱を委嘱される。同年、関東大震災が発生し、帝都復興院の設置により復興局技師に転じ、復興計画にあたる。1925年(大正14年)大阪府警察技師、1927年(昭和2年)地方技師・大阪府建築監督官を勤める。この後、約15年間は土地区画整理事業等の指導に当たる。
名和 君代(なわ きみよ、1899年(明治32年)7月12日… 名和 君代(なわ きみよ、1899年(明治32年)7月12日 - 1933年(昭和8年)3月3日)は、日本の女性音楽家。ヴァイオリニスト。神奈川県横浜市石川町出身。
海老名 敏明(えびな としあき、1899年7月12日 - 1… 海老名 敏明(えびな としあき、1899年7月12日 - 1990年12月29日)は、日本の研究医。 専門は戦前の日本における国民病と言われていた結核感染症で、主な業績は東北大学抗酸菌病研究所とその附属病院の創立を成し遂げ、BCGの凍結乾燥ワクチンの製造法を確立したことである。 山形県村山市出身。1927年東北帝国大学医学科卒業。母校教授や厚生会理事長を経て、同大学名誉教授。 婿養子は田山利三郎の三男・海老名卓三郎。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
吉益 脩夫(よします しゅうふ、1899年(明治32年)7月… 吉益 脩夫(よします しゅうふ、1899年(明治32年)7月11日 - 1974年(昭和49年)7月14日)は、日本の医学者・精神科医。犯罪学や精神鑑定など幅広く活用されている犯罪生活曲線の開発者である。 岐阜県大垣市出身。大垣中学校、第六高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学医学部卒業。呉秀三門下となり、同大学精神病学教室助手、東京府立松沢病院に勤務。1925年(大正14年)東京帝国大学文学部大学院へ入学し、1931年(昭和6年)同大学大学院心理学専攻卒業。在学中、市ヶ谷刑務所精神考査嘱託を始めとし、豊多摩刑務所、小菅刑務所にて犯罪学研究に従事する。1936年(昭和11年)東京帝国大学脳研究室創設に際し、講師として着任。
料治 熊太(りょうじ くまた、1899年7月10日 - 19… 料治 熊太(りょうじ くまた、1899年7月10日 - 1982年2月1日)は、日本の美術評論家・数寄者、骨董収集鑑定家、随筆家。TBSテレビでニュースキャスターを務めた料治直矢は子息である。 1899年岡山県都窪郡山田村(現在の岡山市南区)生れ。号は朝鳴。関西中学校卒業後、1919年(大正8年)上京、国学院大学で折口信夫の講義を受講、翌年雑誌記者として研究社に入社し、関東大震災後は博文館の雑誌「太陽」の編集に携わる。1928年(昭和3年)、博文館退社後著述活動に入り、また、この頃会津八一の門下となり古美術の研究に専念する。八一に心酔した熊太は、1929年(昭和4年)自らの住居を八一の家の近くの西落合に移した。
冨吉 榮二(とみよし えいじ、1899年7月6日 - 195… 冨吉 榮二(とみよし えいじ、1899年7月6日 - 1954年9月26日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員(6期)、逓信大臣(芦田内閣)、日本社会党代議士会長、右派社会党顧問などを歴任した。位階は従三位。 鹿児島県姶良郡清水村郡田(現・霧島市国分郡田)にて、農家の次男として生まれる。生家の跡には「冨吉榮二生誕の地」と記された看板が掲げられている。 郡山尋常小学校、清水高等尋常小学校高等科を経て地元の私立精華学校を卒業した後に上京。遺族によると高等小学校の頃にリューマチに襲われ、その後も身長が伸びずいつも節々を痛がっていたらしい。また、成績が良く本人は旧制鹿児島県立加治木中学校への進学を希望していたが、経済的理由で父親に反対されため地元の学校で学んだ。
山田 秀三(やまだ ひでぞう、1899年6月30日- 199… 山田 秀三(やまだ ひでぞう、1899年6月30日- 1992年7月28日)は、日本のアイヌ語地名研究家、官僚、実業家。
山崎 覚太郎(やまざき かくたろう、1899年6月29日 -… 山崎 覚太郎(やまざき かくたろう、1899年6月29日 - 1984年3月1日)は、漆芸家。富山県出身。 1924年(大正13年)東京美術学校漆工科卒。1925年(大正15年)パリ万国博覧会で金賞。1928年(昭和3年)より東京美術学校助教授、のち東京芸術大学教授を務める。 1939年(昭和14年)文展審査員、1946年(昭和21年)日展審査員、1950年(昭和25年)日展運営会参事、1954年(昭和29年)日本芸術院賞受賞。帝展特選受賞。 1957年(昭和32年)日本芸術院会員、1958年(昭和33年)日展常務理事。同年、第一回日本美術展覧会が東京都美術館で開催され、昭和天皇、香淳皇后が行幸啓。
浅見 淵(あさみ ふかし、1899年〈明治32年〉6月24日… 浅見 淵(あさみ ふかし、1899年〈明治32年〉6月24日 - 1973年〈昭和48年〉3月28日)は、日本の小説家、文芸評論家。 兵庫県神戸市に生まれる。1926年早稲田大学文学部国文科卒業。在学中に「朝」の同人に加わり、初めて書いた小説「山」が下村千秋に推賞される[要出典]。1933年尾崎一雄や丹羽文雄らとともに「小説」を創刊。1934年尾崎と丹羽、田畑修一郎と「世紀」を創刊。1935年尾崎と小田嶽夫らと「木靴」を創刊。同年、砂子屋書房の創業に参加。戦中は満洲国で文学活動を行った。1949年早稲田大学高等学院講師、翌年同学院専任教員。1960年早稲田大学商学部に出講、1970年定年退職。 戦後は井伏鱒二や上林暁らの「阿佐ヶ谷会」の主要メンバーで、尾崎一雄と親しく、随筆『単線の駅』や、回想記『あの日この日』によく出ている[要出典]。
武藤 幾満太(むとう いくまた、1899年6月22日 - 1… 武藤 幾満太(むとう いくまた、1899年6月22日 - 1992年8月)は、秋田県の高等教育(特に女子の教育)に尽力した教育者。その教え子には後の秋田の主だった教育関係者が多数いる。
姜 世馨(カン・セヒョン、朝鮮語: 강세형、1899年6月2… 姜 世馨(カン・セヒョン、朝鮮語: 강세형、1899年6月21日 - 1960年8月5日)は、大韓民国の政治家。第3代韓国国会議員。 妻は菌類学者の金三純で、2人の間に子供がいない。元国会議員の金洪鏞、金汶鏞、金星鏞(朝鮮語版)は妻の兄弟、李会昌は妻の甥である。 全羅北道益山郡(現・全北特別自治道益山市)出身。釜山公立商業高等学校、早稲田大学政経科、上智大学哲学科卒。ベルリン大学(現・フンボルト大学ベルリン)哲学科修了(哲学博士)。ドイツ通信社副社長、東国大学(現・東国大学校)哲学科教授、国防部政訓局長、第3代国会外務委員会委員長(1957年9月6日~1958年5月30日)、大韓学術院委員長を務めた。
三宅 則義(みやけ のりよし、1899年6月19日 - 19… 三宅 則義(みやけ のりよし、1899年6月19日 - 1979年9月3日)は、日本の税理士、政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1923年日本大学商学部卒。計理士、税理士、司法書士の業務に就く。全日本計理士協会理事、日大学士会理事長、東京都立第五実業学校高等科講師、日大講師、日本監査協会理事長、東京税理士会副会長、日本税理士会常務理事、全国計理士会議長を務める。 1943年の東京都発足直後の東京都会議員選挙に立候補したが、落選した。1946年の第22回衆議院議員総選挙で愛知2区(大選挙区)から日本自由党公認で立候補するが次点で落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において愛知4区から日本自由党公認で立候補するも落選。
皇 至道(すめらぎ しどう、1899年(明治32年)6月19… 皇 至道(すめらぎ しどう、1899年(明治32年)6月19日 - 1988年(昭和63年)9月27日)は、日本の教育学者。専門は教育行財政学。長年にわたり、多くの教育者、教育学者を育成した。1973年(昭和48年)に勲二等瑞宝章を受章。 元テレビ朝日プロデューサー・皇達也は長男。弟に、東北大学名誉教授、のち玉川大学文学部長を務めた皇晃之(名は、きらゆき。1908年 - 2004年)がいる。こちらも専門は教育行財政学。 滋賀県愛知郡湖東町(現・東近江市)出身。広島高等師範学校、広島文理科大学卒業。広島高等師範学校講師、広島文理科大学教授、広島大学教育学部教授、同教育学部長(連続5期)を経て、1963年(昭和38年)、森戸辰男の後を継ぎ、第2代学長に就任した。
三浦 寅之助(みうら とらのすけ、1899年(明治32年)6… 三浦 寅之助(みうら とらのすけ、1899年(明治32年)6月18日 - 1973年(昭和48年)7月5日)は、大正・昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 宮城県加美郡宮崎村(宮崎町を経て現加美町)の農業・三浦寅治、やす夫妻の二男として生まれる。1914年(大正3年)村立実業補習学校を卒業。1918年(大正7年)9月に上京し、小川平吉の支援で日本大学専門部法律科に入学し、1921年(大正10年)に卒業した。 1921年、横浜区検事局に入り、1923年(大正12年)弁護士試験に合格し、同年4月、横浜市浦島ヶ丘に弁護士事務所を開業した。 横浜市会議員、同副議長を務め、1936年(昭和11年)から1946年(昭和21年)まで神奈川県会議員に在任した。
浦上 衛門(うらがみ もりと、1899年(明治32年)6月1… 浦上 衛門(うらがみ もりと、1899年(明治32年)6月16日 - 詳細不明)は、日本の土木技師であり、実業家である。大阪市技師となり土木局長となった後、大阪地下街社長となる。土木学会名誉会員。岡山県岡山市出身。 1899年(明治32年)岡山県御津郡一宮村(現:岡山市)に生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て、1918年(大正7年)に旧制第六高等学校医科(3部)へ進学する。その後、1922年(大正11年)3月同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。1925年(大正14年)3月、工学部土木工学科を卒業する。 京大を卒業後、すぐに大阪市役所に入り、土木技師として働く。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)計画部長となり、翌年、土木部長となる。
沖 豊治(おき とよじ、1899年6月16日 - 1981年… 沖 豊治(おき とよじ、1899年6月16日 - 1981年6月6日)は、日本の経営者。兼松社長を務めた。 石川県金沢市出身。1921年に神戸商科大学を卒業し、同年に神戸兼松商店に入社した。1944年に兼松取締役に就任し、1948年に専務を経て、1952年から1965年11月までに社長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1969年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1981年6月6日、急性心不全のために死去。81歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
安藤 覚(安藤 覺、あんどう かく、1899年(明治32年)… 安藤 覚(安藤 覺、あんどう かく、1899年(明治32年)6月16日 - 1967年(昭和42年)11月27日)は、昭和期の僧侶、政治家。衆議院議員(5期)。僧名は覚堂。 神奈川県愛甲郡小鮎村(現厚木市)に生まれる。1925年、日本大学専門部宗教科卒業。神奈川県愛甲郡依知村(後厚木市に編入)の曹洞宗安竜寺、同広徳寺の住職を務める。 萬朝報や読売新聞の記者を務め、後に読売新聞社政治部長・編集局次長、日本大学新聞研究室講師、神奈川民声新聞社社長、神奈川中央交通、小田急運送各取締役、神奈川県仏教連盟、同青年連盟各理事となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会推薦で神奈川県3区から立候補して初当選するが、戦後公職追放処分となる。
望月 信成(もちづき しんじょう、1899年6月14日 - … 望月 信成(もちづき しんじょう、1899年6月14日 - 1990年5月28日)は、日本の美術史学者。 1899年、京都府京都市で生まれた。東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業し、大学院は京都帝国大学大学院に進んだ。1929年に京都帝国大学大学院を修了。 卒業後の1929年9月に、恩賜京都国立博物館鑑査員となった。1931年4月より文部省帝国美術院付属美術研究所嘱託を勤め、1936年に大阪市美術館主事に転じた。 1949年9月に大阪市立美術館館長に任命され、1950年には大阪市立大学教授にも任命された。大阪府史跡名勝天然記念物調査協力委員など多数の役職を兼ね、大阪の文化の発展に尽くした。1965年に大阪市立美術館を定年退職した後は、帝塚山学院大学教授として教鞭をとった。
佐藤 儀一(さとう ぎいち、1899年(明治32年)6月13… 佐藤 儀一(さとう ぎいち、1899年(明治32年)6月13日 - 1967年(昭和42年)7月2日)は、広島県出身のゴルファー、ゴルフ場設計者。 佐藤儀一は、1899年(明治32年)6月13日、広島県福山市に生まれ、16歳でハワイに渡り、イオラニハイスクール卒業後、カリフォルニア大学美術科で学んだ。1930年(昭和5年)、大学生の時、プロのジミー・ダンカンに誘われてゴルフを始めた。 1931年(昭和6年)、サンフランシスコ市ゴルフ選手権で2位になった。1932年(昭和7年)、サンフランシスコ市ゴルフ選手権で優勝、多くの競技大会に参加し、全米パブリックリンク選手権に優勝した。また、全米ゴールドメダル選手権4連覇など活躍し、100以上のアマチュアタイトルを獲得した。
今井 直重(いまい なおしげ/なおえ、1899年6月10日 … 今井 直重(いまい なおしげ/なおえ、1899年6月10日 - 1994年1月14日)は、日本の法学者、政治学者、哲学者。奈良教育大学名誉教授。学位は法学博士(京都大学)、文学博士(京都大学)。 奈良県出身。九州帝国大学文学部哲学科卒。京都帝国大学大学院文学研究科博士課程修了。 1964年「主権の憲法学的研究」で、法学博士(京都大学)の学位を取得。1968年「プラトンの国家論の研究」で、京都大学文学博士(京都大学)の学位を取得。 奈良学芸大学教授、奈良教育大学教授。1962年定年退官、名誉教授、大阪経済法科大学教授。1984年退職。
橋爪 清人(はしづめ きよと、1899年(明治32年)6月1… 橋爪 清人(はしづめ きよと、1899年(明治32年)6月10日 - 1966年(昭和41年)4月11日)は、日本の内務・警察官僚。最後の官選鹿児島県知事。 福岡県出身。第三高等学校を卒業。1924年、東京帝国大学法学部を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し、1926年、栃木県属となる。 1928年、群馬県警察部保安課長に就任。以後、静岡県警察部警務課長、長野県警察部工場課長、静岡県警察部特別高等課長、福岡県警察部特別高等課長、台湾総督府警務局保安課長、奈良県書記官・警察部長、茨城県書記官・警察部長、新潟県書記官・学務部長、高知県内政部長、熊本県内政部長、長野県内政部長などを歴任。
丸山 薫(まるやま かおる、1899年〈明治32年〉6月8日… 丸山 薫(まるやま かおる、1899年〈明治32年〉6月8日 - 1974年〈昭和49年〉10月21日)は、日本の詩人。男性。海軍軍人の松田千秋は義弟(妹こまの夫)にあたる。 官吏をしていた父の任地大分県大分市で生まれる。1歳で長崎市へ移り、以後東京、京城、松江などを転々としたが、父が亡くなったあと、小学6年の秋に母方の祖父を頼って家族4人で愛知県豊橋市に移り住んだ。身内はそこで旅館業をしていたという。豊橋市立八町小学校を卒業し、愛知県立第四中学校(現・愛知県立時習館高等学校)を卒業。海洋への憧れから、周囲の反対を押し切って東京高等商船学校(現・東京海洋大学)を志し、2度目の受験にして合格するが、まもなく脚気のため退学する。
松尾 國三(まつお くにぞう、明治32年(1899年)6月8… 松尾 國三(まつお くにぞう、明治32年(1899年)6月8日 - 昭和59年(1984年)1月1日)は、日本の歌舞伎役者・実業家・芸能プロモーター。旅役者から立身出世して興行界やレジャー産業で幅広く活躍、「昭和の興行師」や「芸能界の黒い太陽」の異名をもつ。佐賀県伊万里市出身。 松尾の没後、松尾一族が日本ドリーム観光から手を引くことになった事情については日本ドリーム観光の項を参照。現在は松尾の娘・昌出子(ひでこ)と孫・國之(くにゆき)が株式会社富士プロジェクト(富士興業の後身)・松尾育英会・松尾芸能振興財団の3事業を継承。富士プロジェクトは現在、賃貸不動産業をメインにサッカースクールの経営を行うクーバー・コーチング・ジャパンを子会社で行っており、松尾芸能振興財団は松尾芸能賞の主催および松尾の原点である子供歌舞伎・松尾塾の運営、松尾育英会は共同生活による大学修学支援事業を行っている。
小原 勝守(おはら かつもり、1899年 <明治32年> 6… 小原 勝守(おはら かつもり、1899年 <明治32年> 6月7日 - 1971年 <昭和46年> 8月17日)は、日本の経営者。安藤建設社長を務めた。位階は従五位。 東京都出身。1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1932年に安藤組(のちの安藤建設)に入社し、監査役にも就任。 1938年に取締役、1943年に専務を経て、1962年6月に社長に就任。1969年10月には会長に就任。 1970年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1971年8月17日、心筋梗塞のために死去。72歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
高橋 信司(たかはし のぶし、1899年6月6日 - 197… 高橋 信司(たかはし のぶし、1899年6月6日 - 1971年11月15日)は、日本の社会科学者。同志社大学法学部卒業、高知短期大学名誉教授。専門は政治史・政治思想史・比較憲法。 岐阜県大垣市出身。同志社大学法学部で、高木庄太郎に政治史を学ぶ。1924年(大正13年)、法学部を卒業。同志社大学法学部で政治史の講師を務める。 1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)にかけ、同志社で法学部教授会と理事会(津下紋太郎、西村金三郎ら)との対立が生じた際に、高橋貞三講師とともに学生新聞で理事会を激しい言葉で批判した。理事会から「自発的辞表」提出を要求され、能勢克雄教授とともに解任させられた。これに対して法学部教授会は連名で理事会を批判した。
柴田 兵一郎(しばた ひょういちろう、1899年(明治32年… 柴田 兵一郎(しばた ひょういちろう、1899年(明治32年)6月4日 - 1976年(昭和51年)3月30日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員、岩手県岩手郡沼宮内町長。岩手町名誉町民。正四位勲二等。 岩手県岩手郡沼宮内町(現岩手町)で、柴田兵右衛門の孫として生まれた。1924年(大正13年)3月、慶應義塾大学経済学部を卒業。1925年(大正14年)に第一銀行に入り、東北銀行初代頭取、盛岡電燈取締役、沼宮内信用組合長、同農会長等のほか、沼宮内町長(1931年5月から3期在任)、盛岡地方裁判所人事調停委員などを務めた。 1939年(昭和14年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、同和会に所属して1946年(昭和21年)4月16日まで在任。
田中 萬一(たなか まんいち/まんいつ、1899年6月4日 … 田中 萬一(たなか まんいち/まんいつ、1899年6月4日 - 1973年6月18日)は、長崎県大村市出身の日本の検察官、弁護士。 1919年、徴兵により久留米師団入営。そのためもあって修学が同年齢より5年ばかり遅れて中央大学専門部法科に入学。1928年、中大専門部法科を卒業してすぐに高等文官試験司法科に合格し、司法省入省。検事任官。一期上の検事に「三羽ガラス」と称されていた、井本臺吉、柳川真文、馬場義続らがいたこともあって、傍流の会社関係の詐欺や横領事犯担当の「経済検事」として目立つことも無かった。 戦後の草創期、東京地検の初代隠退蔵事件捜査部長心得兼任渉外部長(当時 のち初代東京地検特捜部長 1947年11月10日-1948年1月5日)に就任。
岡村ふく(おかむら ふく、1899年(明治33年)6月3日 … 岡村ふく(おかむら ふく、1899年(明治33年)6月3日 - 1982年(昭和57年)4月26日)は日本のカトリック教会修道女、福音史家聖ヨハネ布教修道会創立者。 岡村ふくは父・岡村政四郎と母・政子の五番目の子供として東京・京橋に生まれ、1週間後に正教会の洗礼を受けた。ふくは神田のニコライ堂に熱心に通い、1911年、小学校卒業後、香蘭女学校に入学。聖心女子学院に入学しカトリック教会を知る。聖心会修道女から教えを受け、1919年、卒業と共にカトリックに改宗し引き続き学校に残り修道女の助手を務めた。 その後、ふくは病に臥し長い療養を送っていたがある日、ルーマニア人司祭・ウラジミール・ギカが持参したキリストの茨の冠で奇跡的に癒され、彼女は後年まで話さなかった。
渡辺 邦男(わたなべ くにお、1899年6月3日 - 198… 渡辺 邦男(わたなべ くにお、1899年6月3日 - 1981年11月5日)は、大正・昭和期の俳優、映画監督。 静岡県田方郡三島町(現:三島市)出身。 旧制静岡県立沼津中学(現:静岡県立沼津東高等学校)卒業後、早稲田大学商学部に入学し、浅沼稲次郎らと建設者同盟を結成し、左翼運動家として活躍。卒業後はコネで朝日新聞社の営業部に入るが、部長から「もぐり入社」と言われ憤然し退社。劇団に加わり地方巡業に出るが、解散の憂き目を見る。 仕事を求めて日活大将軍撮影所長・池永浩久に紹介される機会を持ち、面接で監督志望を伝えるが「3年間は俳優をしろ」と命じられ、初任給30円で雇われる。 1924年、『青春の歌』(村田実監督)で、運動会の応援団の旗手役で映画デビュー。
左藤 義詮(さとう ぎせん、1899年〈明治32年〉6月3日… 左藤 義詮(さとう ぎせん、1899年〈明治32年〉6月3日 - 1985年〈昭和60年〉1月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)、防衛庁長官(第9代)、大阪府知事(公選第4代 - 6代)。学校法人大谷学園理事長(第2代)。郵政大臣、法務大臣、国土庁長官を歴任した左藤恵は息子。 三重県出身。1924年、京都帝国大学文学部卒業。 欧米留学の後、真言宗京都大学、臨済宗大学、神戸高等商船学校の教授を経て1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で大阪府第2区に日本自由党から出馬し当選し、衆議院議員を1期務める。 1958年、第2次岸内閣で防衛庁長官として初入閣。9月2日から9月16日にかけて衆議院決算委員会において航空機購入問題で現役閣僚として証人喚問を受ける。
木野崎 吉郎(きのさき よしお、1899年6月2日 - 19… 木野崎 吉郎(きのさき よしお、1899年6月2日 - 1981年10月1日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)生まれ。 東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、第八高等学校(現・名古屋大学)を経て、東京帝国大学理学部地質学科に入学。加藤武夫教授の指導を受け、朝鮮安岳鉄山で卒業研究を行う。1924年卒業し、理学部助手に就任。1925~26年陸軍の軍務につく。 1926年から朝鮮総督府地質調査所勤務となり、1944年京城帝国大学(現在のソウル大学)理工学部教授となるも終戦を迎える。1946~48年北海道帝国大学理学部講師嘱託。1948年朝鮮摩天嶺地方の鉱床の研究により理学博士(東京大学)(論文表題は「摩天嶺系中の主要鉱床における共生鉱物の研究」)。
久保田 宵二(くぼた しょうじ、1899年〈明治32年〉6月… 久保田 宵二(くぼた しょうじ、1899年〈明治32年〉6月2日 - 1947年〈昭和22年〉12月26日)は昭和期の作詞家。別名・ペンネームとして、水久保弘・砂原鹿郎が確認されている。 岡山県川上郡富家村大字布瀬出身。 幼名(本名)は嘉雄。寺の長男として生まれた。岡山県師範学校卒業。幾つかの教員養成課程で研鑽し、若くして主席訓導(教頭職相当)まで進んだ。小学校教諭をしながら地元の青年たちの詩作の指導に当たり、「岡山青年」の詩部門の選者を務めた。 大正の終わり頃、中央詩壇の野口雨情などの勧めもあり、上京。その後、1931年(昭和6年)にコロムビアレコード入社する。始めは童謡を作詞し、新民謡運動にも力を注いでいたが、流行歌作家に転身。
石川 準十郎(いしかわ じゅんじゅうろう、1899年(明治3… 石川 準十郎(いしかわ じゅんじゅうろう、1899年(明治32年)6月1日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の思想家、活動家。戦前・戦後にかけ、一貫して国家社会主義者として活動した[要出典]。 岩手県盛岡近郊に生まれた石川は、日清戦争の戦災者の関係者として成長し、兄・石川金次郎の援助の下、早稲田大学政経学部に入学。在学中に高畠素之の知遇を得、以後、高畠門下として国家社会主義運動に没頭した。高畠の死後も国家社会主義理論を発展させ、1931年に赤松克麿、津久井龍雄らとともに日本社会主義研究所を創設、『日本社会主義』『国家社会主義』を刊行。次いで日本主義に傾倒した赤松らと袂を分かち、1934年(昭和9年)3月10日、大日本国家社会党を設立、総理(党首)となる。
中根 不覊雄(なかね ふきお、1899年6月 - 1983年… 中根 不覊雄(なかね ふきお、1899年6月 - 1983年9月)は、日本の法学者、教育者、翻訳家。立教大学経済学部教授、亜細亜大学初代法学部長、満州国司法部司法学校教授、英文法令社創業者。 1899年(明治32年)6月、中根斎と妻・武免の長男として生まれる。 1923年(大正12年)、東京帝国大学経済学部卒業、1925年(大正14年)、東京帝国大学法学部政治科卒業。 安田保善社(安田財閥本社)に入り、安田信託会社(後の安田信託銀行、現・みずほ信託銀行)の創立時より事務方を務め、1930年(昭和5年)まで同社に在職 1931年(昭和6年)、立教大学経済学部教授に就任し、信託法、手形法、破産法を講じた。
赤間 文三(あかま ぶんぞう、1899年5月31日 - 19… 赤間 文三(あかま ぶんぞう、1899年5月31日 - 1973年5月2日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。 大阪府知事(公選初代)、法務大臣(24代)。大阪府知事時代は東京都知事安井誠一郎とともに、1950年代における都道府県知事のボス的存在として君臨し、赤間天皇の異名で呼ばれた。 赤間岩吉の三男として、福岡県宗像郡津屋崎町(現在の福津市)に生まれる。福岡県立中学修猷館、旧制山口高等学校を経て、1925年3月東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業する。 1926年2月内務省に入省。岡山県属。同年11月高等試験行政科試験に合格。1935年10月大阪府都市計画課長、1939年4月徳島県経済部長まで務めた後、商工省に転じ、1941年11月大臣官房会計課長。
及川 貞(おいかわ てい、1899年(明治32年)5月30日… 及川 貞(おいかわ てい、1899年(明治32年)5月30日 - 1993年(昭和61年)11月13日)は日本の女流俳人。旧姓は野並(のなみ)。 東京市麹町区(現千代田区)生まれで、幼い頃は麻布にて育つ。 1916年(大正5年)に東京府立第三高等女学校(現在の都立駒場高等学校)を卒業後、海軍将校、及川鉄五郎の元へ嫁ぐ。そして夫に随って、佐世保、呉、舞鶴などの軍港都市に転居を繰り返した。1932年(昭和7年)に息子の中学入学のために四谷に仮寓する。その翌年、神田で開かれた俳句会にて水原秋桜子の指導を受け、俳人として進むきっかけとなった。 後に『馬酔木』婦人句会を起こしたことで知られ、多くの優れた女流俳人を輩出した。