青柳 瑞穂(あおやぎ みずほ、1899年5月29日 - 19… 青柳 瑞穂(あおやぎ みずほ、1899年5月29日 - 1971年12月15日、男性)は、日本の仏文学者、詩人、美術評論家、翻訳家。骨董品収集・随筆でも著名であった。 山梨県西八代郡高田村印沢(現・市川三郷町)にて、四男五女の末子として生まれる。生家はかつて質屋を営んだことがある富裕な地主の旧家だった。幼い頃から書画骨董の詰まった質倉で遊び、骨董に対する鑑賞眼を培った。 1917年に山梨県立甲府中学校(旧制)を卒業後、詩作やフランス語独習に熱中。永井荷風と堀口大學に憧れ、1919年に慶應義塾大学仏文予科に入学。このとき蔵原伸二郎と知り合い、無二の親友となる。1920年、出席時間不足のために留年し、新入生と奥野信太郎と終生の親交を結ぶ。
中山 源夫(なかやま もとお、1899年(明治32年)5月2… 中山 源夫(なかやま もとお、1899年(明治32年)5月26日 - 1979年(昭和54年)12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県出身。東京で陸軍大尉・中山左源二の長男として生まれる。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し歩兵第7連隊中隊長に就任した。 1931年(昭和6年)5月、東京警備参謀に就任し、参謀本部員を務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵少佐に進級した。
塩田 良平(しおだ りょうへい、1899年〈明治32年〉5月… 塩田 良平(しおだ りょうへい、1899年〈明治32年〉5月25日 - 1971年〈昭和46年〉11月28日)は、日本の国文学者。随筆家。元二松学舎大学学長。近代文学が専門で、代表的な著書に「近代日本文学論」「山田美妙研究」「樋口一葉研究」「明治女流作家論」「明治文学論考」「日本文学論考」、随筆集「妻の記」「おゆき」「夜開花」などがある。また、多くの文庫本に解説を書いている。
金 長烈(キム・ジャンヨル、朝鮮語: 김장열、1899年5月… 金 長烈(キム・ジャンヨル、朝鮮語: 김장열、1899年5月24日 - 1974年4月3日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、ジャーナリスト、大韓民国の警察公務員、政治家。制憲韓国国会議員。 全羅南道莞島郡出身。普成中学校中退(4学年在学中に三・一運動への関与により退学)。日本大学専門部政治学科卒。朝鮮独立運動により投獄されたほか、農業に従事し、莞島郡で蘆花学校、金日学校、瑞星学校を設立し、教育者としても活動した。他は莞島漁業組合理事、東亜日報・朝鮮日報支局長、朝鮮建国準備委員会莞島郡委員長、全羅南道警察庁総務課長、羅州警察署長、第8管区警察庁公報官、制憲国会外務・国防委員、反民特委特別裁判官を務めた。
萩原 恭次郎(はぎわら きょうじろう、1899年〈明治32年… 萩原 恭次郎(はぎわら きょうじろう、1899年〈明治32年〉5月23日 - 1938年〈昭和13年〉11月22日)は、大正・昭和時代の詩人。大正末期の芸術革命の先頭に立ち、はじめはダダイストとして活動したが、のちアナキズム運動に傾倒。若くしてこの世を去った。詩集『死刑宣告』、詩篇「もうろくずきん」「亜細亜に巨人あり」などの作品で知られる。本姓は金井(養子になったことによる)。 1899年(明治32年)、群馬県勢多郡南橘村日輪寺(現・前橋市日輪寺町)の農家、萩原森三郎・だいの次男として生まれる。幼少期にナイフが右眼に刺さったことが原因で強度の近視となる。1909年(明治42年)に父の叔母・金井ソウ(元総社村石倉)と養子縁組し、金井恭次郎となる。
春木 榮(はるき さかえ、1899年5月23日 - 2000… 春木 榮(はるき さかえ、1899年5月23日 - 2000年10月25日)は、昭和時代の研究者、経営者。島根県出身。京都帝国大学卒。富士フイルム株式会社社長を歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
李 英燮(イ・ヨンソプ、朝鮮語: 이영섭、1899年5月22… 李 英燮(イ・ヨンソプ、朝鮮語: 이영섭、1899年5月22日 - 1982年8月17日)は、大韓民国の政治家。始興郡新東面長、第3代韓国国会議員を歴任した。 京畿道始興郡出身。中央高等普通学校、安養中等普通学校、中央大学卒。新幹会始興郡責任者、始興郡新東面長、京畿道教育会評議員、大韓農民会中央委員、大韓復興建設団始興郡支部理事長、大韓蚕糸会中央理事・副会長、自由党始興郡党委員長、京畿道肥料株式会社取締役副社長、安養中高等学校設立者・理事長を務めた。 1982年8月17日、老衰によりソウル市江南区の自宅で死去。88歳没。
上原 専禄(旧字体:上原 專祿、うえはら せんろく、1899… 上原 専禄(旧字体:上原 專祿、うえはら せんろく、1899年5月21日 - 1975年10月28日)は、日本の歴史学者。専門は中世ヨーロッパ史。東京商科大学学長(就任時は東京産業大学:現一橋大学)であり、戦後の一橋大学新制大学化にあたり指導的役割を果たした。このため一橋大学の新制大学構想は別名を「上原構想」とも呼ばれている。学長退任後は構想の核となった初代一橋大学社会学部長を務めた。 1899年、京都市西陣にあった日蓮宗檀家の商家に生まれた。小学校3年から松山市大街道商店街の薬種商であった叔父の家に住む。旧制愛媛県立松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1915年、東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学した。
賀谷 與吉 / 与吉(かや よきち、1899年(明治32年)… 賀谷 與吉 / 与吉(かや よきち、1899年(明治32年)5月20日 - 1945年(昭和20年)6月25日)は、日本の陸軍軍人。生前の最終階級は中佐(戦死後、特進により少将)。沖縄戦において第62師団歩兵第63旅団独立歩兵第12大隊(通称:賀谷支隊)を率いた事跡で知られる。 山口県佐波郡牟礼村(現・防府市)生まれ。広島幼年学校を卒業。陸軍士官学校第33期生。1942年6月26日第3軍第1国境守備隊第4地区隊長。1944年1月13日第62師団独立歩兵第12大隊長。同年8月、沖縄県中頭郡北中城村の島袋地区で陣地構築に携わる。 1945年(昭和20年)4月1日、アイスバーグ作戦により嘉手納海岸に上陸した第7師団、第96師団を相手に独立歩兵第12大隊(総員1,233名)で4日間の遅滞戦闘を行い、日本軍が待ち構える嘉数陣地まで米軍を誘導することに成功した。
石原 一郎(いしはら いちろう、1899年〈明治32年〉5月… 石原 一郎(いしはら いちろう、1899年〈明治32年〉5月18日 - 1972年〈昭和47年〉8月13日)は、日本の政治家。愛知県安城市長(2期)、愛知県議会議員(3期)、愛知県議会議長などを歴任した。位階は従五位。 愛知県碧海郡古井村(現・安城市古井町)出身。1918年(大正7年)3月、愛知県安城農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)卒業。1919年(大正8年)3月に愛知県農事試験場(現・愛知県農業総合試験場)練習生を修了後、安城町実業補習学校の助教諭となる。 1938年(昭和13年)4月に碧海郡役所書記となり、1940年(昭和15年)7月に愛知県庁官房室に転じ、1941年(昭和16年)4月、碧海地方事務所に勤務。
稲ノ森 勉(いねのもり つとむ、1899年5月17日 - 1… 稲ノ森 勉(いねのもり つとむ、1899年5月17日 - 1963年7月20日)は、熊本県熊本市出身で入間川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は古閑 勉。173cm、94kg。最高位は東前頭14枚目。 1919年1月初土俵、出世は速く、序ノ口から7場所目の1923年5月に十両昇進。土俵上の駆け引きに熟練するところがあり、柔軟な取り口はうまく、四つに組んでの投げにも無理がなく、寄り身も速かった。1926年5月に入幕するも、幕内では全く通用せず、対戦相手の為すがままに取られて11戦全敗を喫し十両に陥落。幕内在位はこの1場所に終わり、十両陥落後も勝ち越せず、1928年3月廃業。
児玉 正雄(こだま まさお、1899年5月16日 - 199… 児玉 正雄(こだま まさお、1899年5月16日 - 1997年7月25日)は、日本の経営者。関西ペイント社長を務めた。山口県出身。 1923年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、後に関西ペイントに入社。1937年に取締役に就任し、1945年9月に顧問、1947年12月に再び取締役、1955年5月に常務、1964年5月に副社長を経て、1966年5月から1969年11月までに社長を務めた。1972年11月には名誉顧問に就任。 1964年9月に藍綬褒章を受章し、1969年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1997年7月25日心不全のために死去。98歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
井上 英煕(いのうえ ひでひろ、1899年5月15日 - 1… 井上 英煕(いのうえ ひでひろ、1899年5月15日 - 1979年6月3日)は、日本の実業家。経済同友会代表幹事、日本セメント会長。 香川県出身。1920年第六高等学校二部甲類卒業。1923年東京帝国大学機械学科卒業。同年浅野セメント入社。1949年日本セメントの社長に就任。1966年から会長、相談役を歴任した。セメントの第一人者として知られ、『セメント』などの専門書を著したほか、セメント協会でも要職を歴任した。一方で財界活動でも活躍。1958年、中山素平(日本興業銀行頭取)と組んで経済同友会代表幹事を務めた。同年に同友会は「経営者啓発についての所見」を発表した。1959年には岩佐凱實とコンビを組んで再び経済同友会代表幹事に就任。
山極 三郎(やまぎわ さぶろう、1899年(明治32年)5月… 山極 三郎(やまぎわ さぶろう、1899年(明治32年)5月15日 - 1993年(平成5年)5月18日)は、日本の動物学者・病理学者。専門は獣医病理学。農学博士。元帯広畜産大学学長。位階は従三位。父親は幻のノーベル賞受賞者といわれる山極勝三郎東大医学部教授(病理解剖学)。京都大学総長を務めた山極寿一は遠縁にあたる。 東京出身。1923年(大正12年)北海道帝国大学農学部卒。北大農学部畜産学科比較病理学教室では東大で父親山極勝三郎の研究を手伝い、父勝三郎と一緒に帝国学士院賞を受賞した市川厚一に学ぶ。1927年北海道大学 農学博士 「有尾類ノ尿生殖器系統」。 満鉄獣疫研究所研究科長を経て、1938年(昭和13年)同参事。
大野 勇(おおの いさむ、1899年5月14日 - 1984… 大野 勇(おおの いさむ、1899年5月14日 - 1984年5月30日)は、日本の経営者。森永乳業社長を務めた。 東京都出身。1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に森永乳業に入社した。1972年1月に森永乳業専務に就任し、1960年5月には社長に昇格した。1974年5月に会長に就任し、1979年6月から取締役相談役を務めた。 1964年11月に藍綬褒章を受章。 1984年5月30日、心不全のために死去。85歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
上田 桑鳩(うえだ そうきゅう、1899年〈明治32年〉5月… 上田 桑鳩(うえだ そうきゅう、1899年〈明治32年〉5月11日 - 1968年〈昭和43年〉9月4日)は、日本の書道家である。 前衛書道の分野でよく知られる。本名は上田順(旧姓:藤田)。 兵庫県三木市(旧美嚢郡吉川町)奥谷出身。二松學舍専門学校卒。 1899年5月11日に兵庫県美嚢郡吉川町(現三木市)に父・藤田石太郎、母・こうの三男として生まれ、吉川高等小学校・私立三田中学校(現三田学園中学校・高等学校)を1917年(大正6年)3月に卒業し、1919年(大正8年)に宝塚市にある上田亀蔵の養女・上田りんと結婚し、上田姓となった。 1926年に義父が友人の保証をしていたが、その破産が上田家に影響し、全財産を失い、翌1927年(昭和2年)に決断書専門に生きる志を抱いて、小寺氏に相談したところ、賛成されたので、家事を整理し、同年11月に上京した。
滝野 啓次郎(たきの けいじろう、1899年(明治32年)5… 滝野 啓次郎(たきの けいじろう、1899年(明治32年)5月10日 - 1973年(昭和48年)1月13日)は、日本の政治家・実業家。北海道旭川市出身。北海道北見市長(1963年 - 1967年、1期)。 北海道庁立上川中学校(現・北海道旭川東高等学校)卒業。1916年(大正5年)野付牛町(現・北見市)に移住、家業である菓子問屋を継いで1940年(昭和15年)北海道菓子卸売協同組合常務、1948年(昭和23年)同組合理事長。1950年(昭和25年)北宝食品代表取締役社長。1953年(昭和28年)北見信用金庫理事長。1955年(昭和30年)北見商工会議所会頭に就任。伊谷半次郎の後継候補として、1963年(昭和38年)北見市長選挙に出馬し対立候補の宇佐美福生を僅差で破って初当選するも1967年(昭和42年)に前回と同じ対立候補の宇佐美福生に敗れ落選した。
佐野 まもる(さの まもる、1899年(明治32年)5月10… 佐野 まもる(さの まもる、1899年(明治32年)5月10日 - 1984年(昭和59年)7月14日)は、日本の俳人。 徳島県徳島市出身。旧制徳島中学(現徳島県立城南高等学校)卒業。 徳島県徳島市に生まれ、旧制徳島中学を卒業後は専売局へ奉職し、1955年(昭和30年)に高知支局長として勤めたのを最後に退職。 仕事の傍ら俳句をしており、1922年(大正11年)から始めた。1933年(昭和8年)に「馬酔木」同人。1956年(昭和31年)に「海郷」創刊、主宰。 現在は板野郡上板町大山寺(四国別格二十霊場1番札所)に句碑が建てられている。
金 天海(キム・チョンへ、きん てんかい、김 천해、1899… 金 天海(キム・チョンへ、きん てんかい、김 천해、1899年5月10日 - 没年不明)は、在日朝鮮人の左翼活動家。在日本朝鮮人連盟最高顧問。日本共産党中央委員。「天海」は僧名で、本名は金 鶴儀(キム・ハクウィ、きん かくぎ、김 학의)。大韓帝国(現在の大韓民国)慶尚南道蔚山郡出身。日本大学中退。 1899年5月10日、大韓帝国慶尚南道蔚山郡で流通・貿易関係を営んでいた家に生まれた。現在は蔚山特別市内の方魚津(방어진)(行政区画としては方魚里)である。一人っ子だった金天海は梁山の通度寺に預けられ、仏道の修行を行なった。 日本統治下の1916年、京城の仏教学校・京城中央学林に入学。京城中央学林卒業後、慶尚南道蔚山郡に帰り、夜間学校の教師をした。
吉田 敬太郎(よしだ けいたろう、1899年5月8日 - 1… 吉田 敬太郎(よしだ けいたろう、1899年5月8日 - 1988年7月28日)は、日本の実業家、政治家、牧師。第二次世界大戦の戦時下で衆議院議員を1期務めたが、政府批判をして投獄された。獄中で聖書に出会い、戦後キリスト教に入信、公職追放に指定されて牧師となった。追放解除後には若松市長となり、5市合併によって北九州市が成立した際には市長職務執行者を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 俠客出身の実業家で、衆議院議員も務めた吉田磯吉の養子として育ち、小倉中学校(後の福岡県立小倉高等学校の前身)、長崎高等商業学校に学んだ。 東京商科大学を卒業後、三菱鉱業勤務を経て、大倉高等商業学校(後の東京経済大学)講師となった。
中村 紅果(なかむら こうか、1899年5月7日 - 196… 中村 紅果(なかむら こうか、1899年5月7日 - 1961年1月29日)は、日本の俳優である。本名中村 縣三(なかむら けんぞう)、別芸名中村 憲三(なかむら けんぞう)。 1899年(明治32年)5月7日、秋田県雄勝郡弁天村(現在の同県湯沢市弁天地区)に、旧家の主である父・中村一徳の三男として生まれる。 旧制・秋田縣立横手中學校(現在の秋田県立横手高等学校)を卒業し、1917年(大正6年)に東京に移り、出版社の雑誌記者や旧制小学校の教師などの職を経て、早稲田大学文科に入学、坪内逍遙の新文藝協会に入って新劇運動に参加する。1920年(大正9年)に明治座での『法難』で岡田嘉子、加藤精一らと共演、初舞台を踏んだ。
李 晶来(イ・ジョンネ、朝鮮語: 이정래/李晶來、1899年… 李 晶来(イ・ジョンネ、朝鮮語: 이정래/李晶來、1899年5月7日 - 1989年7月28日)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲・第5・6代韓国国会議員。 本貫は広州李氏(朝鮮語版)。号はウギョン(우경)。4人息子のうち2人は記者で1人は画家。妻の実家は潭陽郡昌平面で、元国務総理の李漢基(朝鮮語版)の父とは同郷であり、李晶来は彼の母方のおばの夫に当たる。 全南宝城兼白面またはソウル市鐘路区出身。私立中央学校3学年修了。正則英語学校を経て、早稲田大学専門部政治経済学科修了。1943年、京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。1932年からソウル市鐘路で東光堂書店・出版社を経営し、代表取締役を務めた。
廣田 壽一(ひろた ひさかず、1899年5月7日 - 198… 廣田 壽一(ひろた ひさかず、1899年5月7日 - 1984年1月15日)は昭和期の実業家。住友金属工業元社長・会長。 京都府出身。1923年に京都帝国大学工学部卒業後、住友製鋼所へ入社。1949年に新扶桑金属工業社長となり、1952年に住友金属社長、1962年に会長を務め、1973年より相談役を務めた。また、1956年に財団法人関西生産性本部の創立に力を尽くし、20年間にわたり会長を務めるなど、関西の財界で活躍した。1958年日本金属学会会長。その他には毎日放送取締役なども務めた。1984年1月15日、84歳で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長瀬 英一(ながせ えいいち、1899年(明治32年)5月6… 長瀬 英一(ながせ えいいち、1899年(明治32年)5月6日 - 1979年(昭和54年)7月1日)は、日本の内務・警察官僚、教育者。最後の官選香川県知事、和洋女子大学学長。位階は従四位。 山口県出身。長瀬栄三郎の長男として生まれる。山口高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、警視庁警部補となる。 以後、青山警察署長、浅草警察署長、蔵前警察署長、沖縄県経済部長、福島県経済部長、茨城県経済部長などを歴任。 その後、香川県内務部長に就任し、1947年3月、前任の増原惠吉が知事選に出馬のため辞任したことに伴い同県知事に昇格した。
高峰 妙子(たかみね たえこ、本名:中村薫、旧姓:浅井、18… 高峰 妙子(たかみね たえこ、本名:中村薫、旧姓:浅井、1899年(明治32年)5月6日 - 1980年(昭和55年)11月15日)は、元宝塚少女歌劇団男役主演スター(初公演の主役。男役スター第一号。花組&雪組主演男役でもあった。)。宝塚歌劇団1期生。愛称はアッサン。同期生に大江文子、雲井浪子、小倉みゆき、由良道子や筑波峯子らがいる。福井県坂井郡本荘村(現:あわら市)出身。元・宝塚歌劇団・宝塚音楽学校声楽講師である。 この芸名は小倉百人一首の第4番:山部赤人の 1913年7月、宝塚唱歌隊(この年の12月に宝塚少女歌劇養成会に改称)に14歳で入隊。 1914年4月 - 5月、宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇)の初公演である『ドンブラコ』で主演の桃太郎を演じた。
勝本 清一郎(かつもと せいいちろう、1899年5月5日 -… 勝本 清一郎(かつもと せいいちろう、1899年5月5日 - 1967年3月23日)は日本の文芸評論家である。日本ペンクラブ創立に参加。 東京生まれ。1923年慶應義塾大学文学部を卒業し、プロレタリア文学や演劇の運動に関わった。1917年高浜虚子に弟子入りし、翌年から数年間勝本の写生文が「十編近く「ホトトギス」に掲載されている」。「これと並行して、十五歳の頃から」三味線を習った。1921年に永井荷風の元妻で新作舞踊家として活躍していた藤間静枝(藤蔭静樹)について『三田文学』に「藤間静枝女史の芸術-舞踏詩『秋の調べ』に就いて」として発表。これが縁で当時40代だった静枝の年下の恋人となり、静枝の舞踊台本も執筆。
平野 成子(ひらの しげこ、1899年(明治32年)5月5日… 平野 成子(ひらの しげこ、1899年(明治32年)5月5日 - 1988年(昭和63年)12月15日)は、日本の社会運動家、政治家。参議院議員(1期)。本名・シゲ。 栃木県生まれた。私立女子美術学校(現・女子美術大学)を修了。その後、農村社会運動に従事した。 戦後、日本社会党に入党し、1947年4月、第1回参議院議員通常選挙に山梨県選挙区から日本社会党公認で出馬して当選し(任期3年)、参議院議員を一期務めた。改選を迎えた1950年の参院選には出馬せず、1953年の参院選に右派社会党公認で全国区から立候補したが当選には遠く及ばなかった。 夫平野力三とは農民運動を通じて知り合い、おしどり議員として知られた。
木村 五郎(きむら ごろう、1899年5月5日 - 1935… 木村 五郎(きむら ごろう、1899年5月5日 - 1935年8月1日)は、日本の彫刻家。もっぱら木彫の小品に取り組んだ。短い生涯を通して、150点余りの作品を残し、動物や子供の姿などを捉えた作風から「童心の彫刻家」とも呼ばれる。 木村は、日本各地の風俗を捉えた木彫作品を数多く制作する傍ら、農民美術運動に加わり、各地の人々に木彫の技法を伝授した。木村の作品は、土産物同然としてまともに評価しない向きもあったが、高村光太郎や石井鶴三などには認められていた。 東京府東京市神田区で、洋服商を営む鈴木家に生まれたが、建具職人の木村家の養子となる。1915年に徒弟学校を卒業し山本端雲に師事、さらに石井鶴三の指導を受けた。
田上義也(たのうえ よしや、1899年(明治32年)5月5日… 田上義也(たのうえ よしや、1899年(明治32年)5月5日 - 1991年(平成3年)8月17日)は、日本の建築家、音楽家。 栃木県那須郡西那須野村(現・那須塩原市)出身。本名吉也。 大正から昭和にかけて、北海道を拠点に活躍した。若くしてフランク・ロイド・ライトの影響を受け、確かな腕を持つ棟梁の小島与市と出会った。北海道の気候風土に根ざした、特徴的な要素を持つ洋風建築を数多く残している。 また、札幌新交響楽団の創立者でもあり、初代指揮者も兼務した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年〈明治32年〉5… 笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年〈明治32年〉5月4日 - 1995年〈平成7年〉7月18日)は、大正・昭和時代の日本の篤志家、右翼運動家、元A級戦犯被疑者、座右の銘は「世界一家 人類兄弟」。 戦前は国粋大衆党総裁、衆議院議員。戦後は、財団法人日本船舶振興会(1962年設立。現在の公益財団法人日本財団)会長、全日本空手道連盟(1964年設立)の会長、国際勝共連合名誉会長(1968年就任)、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者。戦後は日本国内のボートレース(競艇)の創設に尽力し、「競艇界のドン」の異名を取った。 妾との次男が笹川堯、三男が笹川陽平である。
徳川 達成(とくがわ さとなり、1899年(明治32年)5月… 徳川 達成(とくがわ さとなり、1899年(明治32年)5月3日 - 1961年(昭和36年)3月28日)は、田安徳川家の第10代当主。父は徳川達孝。母は徳川知子。妻は戸田氏秀の次女・元子。 子に宗英(第11代当主)、雅子(德川義恭夫人、後に渡邊正廣夫人)、宗賢(言語学者)、宗廣(元通産省官僚、元国土庁官房審議官)、文子(溝口道郎夫人)、松平宗紀(越前松平家当主)がいる。伯父の家達は徳川慶喜の養子になって徳川宗家を継いだ。 東京で生まれ、1920年(大正9年)3月、旧制学習院高等科を卒業。 1923年(大正12年)に東京帝国大学工学部造兵科を卒業して海軍に入り、造兵中尉となる。1927年(昭和2年)、欧米各国に留学。
髙野 孫左衛門(たかの まござえもん、明治32年(1899年… 髙野 孫左衛門(たかの まござえもん、明治32年(1899年)5月2日 - 昭和43年(1968年)2月25日)は、山梨県出身の実業家、政治家。山梨県会議員、衆議院議員を歴任した。幼名は髙野 毅(たかの つよし)。 山梨県甲府市柳町(現在の甲府市中央4丁目)に、父「孫左衛門(第15代目)」、母「とも」の三男として生まれる。山梨師範学校付属小学校を経て大正5年(1916年)3月に市立甲府商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)を卒業。 早逝した兄「孫親」の妻、義姉の「喜代」と大正11年(1922年)5月に結婚し、油と塩を商いする甲府有数の老舗である家業の吉字屋を継ぐ。大正12年(1923年)4月に単身上京して早稲田大学政治経済学科に入学したが、同年9月1日に発生した関東大震災のため帰郷し、大正14年(1925年)1月に第16代目高野孫左衛門を襲名した。
山下 英男(やました ひでお、1899年5月2日 - 199… 山下 英男(やました ひでお、1899年5月2日 - 1993年5月27日)は、電気通信工学者。東京生まれ。
藤島 亥治郎(ふじしま がいじろう、1899年5月1日 - … 藤島 亥治郎(ふじしま がいじろう、1899年5月1日 - 2002年7月15日)は、日本の建築史家。息子の藤島幸彦も建築史学者で、早稲田大学や大東文化大学講師。 1899年、岩手県盛岡市で生まれた。生後すぐに一家は東京に転居したことから東京で育った。根津小学校、錦城中学校を経て、第六高等学校に入学。1920年に卒業した。 同年、東京帝国大学工学部建築学科に進学し、伊東忠太、関野貞、塚本靖の指導を受けた。特に関野貞の影響を受けて、建築史や考古学の遺構を通した建築学に関心を持つようになり、また卒業論文では日朝建築の交渉史をテーマとした。1923年3月、同大学を卒業。 卒業後は、1923年5月に日本統治下の朝鮮の京城工業学校助教授となり、京城に赴任。
山内 俊吉(やまうち としよし、1899年5月1日 - 20… 山内 俊吉(やまうち としよし、1899年5月1日 - 2001年10月17日) は、日本の材料科学者。東京工業大学名誉教授。東京工業大学出身者として初となる同大学長や、科学技術庁無機材質研究所所長、窯業協会会長、日本セラミックス協会名誉会長などを務めた。藍綬褒章受章。 鹿児島県国分市生まれ。1924年東京高等工業学校(現東京工業大学)附属工業教員養成所卒業。福岡県立中学校教諭を経て、1930年九州帝国大学工学部採鉱学科卒業。同年東京工業大学講師。1939年東京工業大学工学博士。1941年東京工業大学教授。 1945年から1948年まで窯業協会会長。1947年東京工業大学窯業研究所長。1948年大学設置委員会臨時委員。
林 謙三(はやし けんぞう、1899年5月1日 - 1976… 林 謙三(はやし けんぞう、1899年5月1日 - 1976年6月9日)は、日本の音楽研究者、彫刻家。 雅楽の古い楽譜の解読や、正倉院の楽器や伎楽面、東アジアの伝統音楽の研究で知られる。 林謙三は大阪市に生まれた。本名は長屋謙三。1924年に東京美術学校彫刻科を卒業した。彫刻家として活躍する一方、独学で東洋の伝統音楽を研究した。 設立間もない東洋文庫にて、日本に亡命していた郭沫若と交友関係を結び、最初の著書『隋唐燕楽調研究』は郭沫若によって中国語に翻訳されて上海で出版された。林は郭沫若の胸像を作成した。 戦後、正倉院の古楽器の研究、復元を行い、1949年に朝日賞を受賞した。1951年から奈良学芸大学の教授をつとめた。
豊嶋 弥左衛門(てしま やざえもん、旧字体:豐嶋 彌左衞門、… 豊嶋 弥左衛門(てしま やざえもん、旧字体:豐嶋 彌左衞門、1899年(明治32年)5月1日 - 1978年(昭和53年)1月3日 )は、シテ方金剛流能楽師。重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は豊嶋 弥平(てしま やへい)、前名は豊嶋 一(てしま はじめ)。 ワキ方高安流豊嶋一松の長男として広島市上幟町に生れ厳島町に育つ。豊嶋家は旧広島藩浅野家お抱えの能楽師で、兄弟6人はみな能楽師となった。1904年(明治34年)『鞍馬天狗』の子方で初舞台。1913年(大正2年)正式にシテ方に転向するため、京都金剛家の内弟子となる。金剛謹之輔、初世金剛巌、金剛右京に師事。1948年(昭和23年)父と弟の追善能で家名の弥左衛門を襲名。
城戸 武男(きど たけお、1899年〈明治32年〉4月29日… 城戸 武男(きど たけお、1899年〈明治32年〉4月29日 - 1980年〈昭和55年〉5月5日)は、日本の建築家。戦前は表現主義やスパニッシュ風の作品を多く手がけ、戦後は機能主義建築と和風建築で秀作を残す。建築史家の城戸久は弟。 1899年(明治32年)4月29日、三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)字忍町12番屋敷に生まれた。城戸操の長男である。 三重県立第三中学校(現・三重県立上野高等学校)を経て、1920年(大正9年)3月に名古屋高等工業学校建築科(現・名古屋工業大学)を卒業した。教授の鈴木禎次に直接薫陶を受け、それが制作への強い源泉になったと回顧している。 卒業後は合名会社竹中工務店に入社し、1920年(大正9年)から1923年(大正12年)には本店設計部、1923年(大正12年)から1933年(昭和8年)には名古屋支店に勤務した。
木村 太郎(きむら たろう、1899年4月29日 - 198… 木村 太郎(きむら たろう、1899年4月29日 - 1989年11月6日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、画家、書家。南山大学名誉教授。 父・粂市は実業家、母・いつ(銉次)は永井家の出身で、永井荷風は従兄弟にあたる。叔父の大島久満次は台湾総督府民政長官、神奈川県知事、衆議院議員を歴任。 東京市中央区賽町(京橋)生まれ。1924年東京帝国大学文学部仏文科卒業。日本大学、法政大学、日仏学院などで教えた後、1947年南山外国語専門学校に赴任、南山大学創設に寄与。1971年まで南山大学仏文科教授、文学部長。 1950年、名古屋日仏文化協会を創設。敬虔なカトリック信者で、ジョルジュ・ベルナノス、ポール・ブールジェ(fr:Paul Bourget)などを多数翻訳した。
服部 英太郎(はっとり えいたろう、1899年4月29日-1… 服部 英太郎(はっとり えいたろう、1899年4月29日-1965年12月20日)は、日本のマルクス経済学者。 和歌山県出身。東京帝国大学経済学部卒。東北帝国大学経済学部助教授、1935年教授。42年治安維持法違反容疑で検挙、東京に予防拘禁される。1946年復職。1951年「ドイツ社会政策論史」で東北大学経済学博士。1962年福島大学経済短期大学部学長を兼任、東北大を定年退官、名誉教授。子に服部文男。戦後の社会政策論争で大河内一男の説を批判した。
久松 定武(ひさまつ さだたけ、1899年(明治32年)4月… 久松 定武(ひさまつ さだたけ、1899年(明治32年)4月29日 - 1995年(平成7年)6月7日)は、日本の政治家。愛媛県知事。位階は従三位。勲等は勲二等。爵位は伯爵。 1899年(明治32年)4月29日、伯爵久松定謨の次男として東京府東京市芝区芝栄町(現・東京都港区芝公園)の久松家本邸で生まれる。生家は旧伊予松山藩藩主・久松氏の嫡流である。学習院を経て東京帝国大学経済学部を卒業後、同大学院修了。 1924年(大正13年)に三菱銀行へ入行し、駒込支店や本店の預金係長、板橋支店長代理などを務めた後、1931年(昭和6年)からロンドン支店勤務。1934年(昭和9年)に帰国、1942年(昭和17年)に三菱銀行を退職した。
千田 正(ちだ ただし、1899年4月28日 - 1983年… 千田 正(ちだ ただし、1899年4月28日 - 1983年2月5日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位。勲等は勲一等。学位は商学士(早稲田大学)。金ケ崎町名誉町民。 参議院議員3期(1947年 - 1962年)、岩手県知事4期(1963年 - 1979年)を歴任した。 1899年(明治32年)、岩手県胆沢郡金ケ崎村(現・金ケ崎町)三ケ尻に父・政五郎と母・マサの長男として生まれる。千田家は水沢から三ケ尻に移り住み、北上川の舟運事業を行う地域有数の豪農だった。7歳で父を亡くした千田は、マサと養蚕と雑貨屋を始めた。 1905年(明治38年)、三ヶ尻小学校尋常科入学。1913年(大正2年)、胆沢郡立胆沢農業高等学校(現・岩手県立水沢農業高等学校)に進み、水沢の祖母宅から通った。
山本 敏雄(やままと としお、1899年(明治32年)4月2… 山本 敏雄(やままと としお、1899年(明治32年)4月27日 - 1971年(昭和46年)11月4日)は、日本の政治家。元茨城県水戸市長(5期)。 茨城県出身。1917年、茨城県立水戸中学校卒業。小学校代用教員を経て東京堂に勤務。水戸市会議員から水戸市助役となる。1947年、当時の水戸市長・風戸元愛が公職追放令により市長を辞職。市長選挙に立候補し、当選する。爾来5期20年に亘り市長の座にあった。水戸市から名誉市民を贈られた。
三和 義勇(みわ よしたけ、1899年(明治32年)4月26… 三和 義勇(みわ よしたけ、1899年(明治32年)4月26日 - 1944年(昭和19年)8月2日)は、日本の海軍軍人。海兵48期。最終階級は海軍少将。テニアン島で戦死。 1899年(明治32年)4月26日、岡山県に中学校長も勤めた教育者の息子として生まれる(本籍は岐阜県)。旧制北野中学を経て、1920年(大正9年)7月16日、海軍兵学校48期を171名中31番の席次で卒業、少尉候補生。 1921年(大正10年)6月、少尉任官。1923年(大正12年)6月、霞ヶ浦海軍航空隊に第9期航空術学生として入隊し、1924年(大正13年)5月に卒業。戦闘機搭乗員任命。1925年(大正14年)、霞ヶ浦海軍航空隊分隊長。
山村 久(やまむら ひさし、1899年4月25日 - 198… 山村 久(やまむら ひさし、1899年4月25日 - 1988年12月28日)は、日本の政治家。品川区議会議員(1期)、第4代品川区議会議長、東京都議会議員(7期)、第25代東京都議会議長を歴任した。 1899年4月25日、福井県に生まれる。1933年に金沢医学専門学校(現金沢大学医薬保健学域)卒業。1951年に荏原医師会長となる。また、同年から品川区議会議員を1期4年務める。この間、第4代品川区議会議長(1952年6月11日から1953年10月4日)を務めた。1955年、東京都議会議員選挙に品川区選挙区から立候補して、初当選する。その後、港湾委員会委員長(1956年)を務めた。1958年5月1日に衆議院選挙に立候補するため都議会議員を辞職した。
山本 利三郎(やまもと りさぶろう、1899年4月25日 -… 山本 利三郎(やまもと りさぶろう、1899年4月25日 - 1982年5月30日)は、日本の鉄道技術者。 東京急行電鉄(大東急)から分離した後の小田急電鉄に取締役運輸担当として就任し、同社3000形電車(SE車)の開発に尽力した。また、その後の小田急電鉄の車両における思想に影響を残した。 大阪府大阪市南区(現在の天王寺区)上汐に生まれる。旧制第四高等学校を経て、1924年3月に九州帝国大学工学部電気工学科を卒業し、鉄道省に入省。 鉄道省では電気局に配属となり、1931年までに品川電車庫、田町機関庫、東京機関庫、蒲田電車庫、国府津機関庫などの現業機関を経験する。田町機関庫では導入されたばかりのイギリス製電気機関車に故障が多く苦労したという。
小保内 虎夫(おぼない とらお、1899年4月25日 - 1… 小保内 虎夫(おぼない とらお、1899年4月25日 - 1968年12月21日)は、日本の心理学者。 岩手県二戸郡福岡町(現在の二戸市)出身。旧制福島中学、旧制第七高等学校造士館を経て、1924年東京帝国大学文学部心理学科卒業。東京高等学校教授、日本大学教授、1945年東京文理科大学教授、1949年東京教育大学教授、1963年日本大学文理学部教授を歴任。 1952年「認識錯誤の法則に関する研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。視知覚の研究で小保内学説と呼ばれる感応理論を創設。
古村敏章(こむら としあき、1899年〈明治32年〉4月24… 古村敏章(こむら としあき、1899年〈明治32年〉4月24日 - 2000年〈平成12年〉1月1日)は、日本の実業家。位階は正六位。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)出身。長野県諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1931年丸興製糸(後の丸興工業)の創業に関わり、常任監査就任。専務を経て、1955年社長に就任。1962年長野県撚糸工業組合理事長。1964年市立岡谷蚕糸博物館初代館長。2000年死去。死没日付をもって正六位に叙された。
代田 稔(しろた みのる、1899年〈明治32年〉4月23日… 代田 稔(しろた みのる、1899年〈明治32年〉4月23日 - 1982年〈昭和57年〉3月10日)は、日本の医学博士、実業家。ヤクルトの開発者で実質的な創業者。長野県下伊那郡竜丘村(現:飯田市)出身。 貧しい人でも健康を手に入れられるよう「ハガキ1枚煙草1本の値段で買えるヤクルト」を経営標語とし、「健腸長寿」を理念とした。 「ヤクルトの父 代田稔物語」という伝記漫画が2004年の小学館『小学三年生』四月号に掲載され、2015年4月からはヤクルト80周年記念サイトにて配信されている(原案:久保田千太郎 漫画:ながいのりあき) 正五位、勲三等瑞宝章を受章。
水野 浩(みずの ひろし、1899年4月23日 - 1970… 水野 浩(みずの ひろし、1899年4月23日 - 1970年3月22日[要出典])は、日本の俳優である。本名は水野 浩一(みずの こういち)。青年期の舞台俳優から映画俳優に転向、老年期まで脇役に徹したことで知られる。 1899年(明治32年)4月23日、兵庫県神戸市に生まれる。 旧制・兵庫県第二神戸中学校(通称神戸二中、現在の兵庫県立兵庫高等学校)を卒業し、演劇を志して、佐藤紅緑が1915年(大正4年)に起こした劇団「日本座」に参加、その後、喜劇や歌劇(オペラ)、剣劇等の劇団を渡り歩く。満30歳を迎える1929年(昭和4年)、京都の松竹下加茂撮影所に入社、舞台俳優から映画俳優に転向する。その後、月形龍之介の月形プロダクション、尾上菊太郎の尾上菊太郎プロダクションに移籍したというが、出演記録は不明である。