香取 正彦(かとり まさひこ、1899年〈明治32年〉1月1… 香取 正彦(かとり まさひこ、1899年〈明治32年〉1月15日 - 1988年〈昭和63年〉11月19日)は、日本の鋳金工芸作家。梵鐘分野で重要無形文化財保持者(人間国宝)。父は鋳金工芸作家の香取秀真。 1899年(明治32年)1月15日、東京市小石川区に生まれた。父は鋳金工芸作家の香取秀真であり、正彦は長男だった。まもなく両親の出身地である佐倉(現・千葉県佐倉市)へ移り、幼少期を佐倉で過ごした。 1916年(大正5年)から1920年(大正9年)には太平洋画会研究所で洋画を学んだ。1920年(大正9年)には東京美術学校(現・東京藝術大学)鋳造科に入学し、主任教授である津田信夫の指導を受けた。製作にあたっては古典研究を基礎としている。
東 愛子(あずま あいこ、1899年1月15日 - 1967… 東 愛子(あずま あいこ、1899年1月15日 - 1967年7月)は、日本の女優である。出生名は芸名と同じ、二代目市川荒太郎との結婚後本名は市川 愛子(いちかわ あいこ)、晩年の本名は出生名に戻した。 松竹女優養成所第1期生として知られ、新派(第2期成美団)、初期の新国劇、松竹キネマ時代劇の映画女優を経て、松竹家庭劇の最高幹部、美貌のスター女優として、京都・大阪の舞台に多くの足跡を残した。清水宏の監督デビュー作『峠の彼方』にも主演している。元国防婦人会松竹分会長。 1899年(明治32年)1月15日、大阪府大阪市南区恵美須町(現在の同府同市浪速区恵美須)に生まれる。 当時4年制の旧制小学校を1909年(明治42年)に卒業、旧制・高津女学校、および梅花塾を卒業している。
井上 三綱(いのうえ さんこう、1899年1月15日 - 1… 井上 三綱(いのうえ さんこう、1899年1月15日 - 1981年5月19日)は、日本の画家。国画会会員。海外の展覧会にも多く作品を出品した。日本と西欧の要素が融合する神秘的な画風で知られる。 福岡県八女郡(現・筑後市)の宝満宮竈門神社の神官の家に生まれた。1916年(大正5年)、福岡県小倉師範学校に入学。在学中に画家を志し、卒業後、郷里で小学校の教諭をしながら制作を続ける。22歳の頃、恩師の勧めで上京。本郷絵画研究所に学んだのち、1923年(大正12年)から同郷の先輩の坂本繁二郎に師事した。 1926年(昭和元年)、酒匂尋常高等小学校(現・小田原市立酒匂小学校)に赴任。同年、第7回帝展(現・日本美術展覧会)に「牛」が初入選。
磯田 正則(いそだ まさのり、1899年(明治32年)1月1… 磯田 正則(いそだ まさのり、1899年(明治32年)1月15日 - 1983年(昭和58年)1月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、埼玉県秩父郡大滝村長。位階は従五位。 埼玉県秩父郡大滝村(現:秩父市)で生まれる。秩父郡立農林学校を中退した。 1929年、大滝村会議員に就任。1934年、大滝村長となり、その後、埼玉県会議員を兼務した。戦時中は、大政翼賛会埼玉支部参与、同秩父郡支部理事、同大滝村支部長に就任したが、大政翼賛会の官権主義に反発して全ての役職の辞任を申し出て物議を醸した。 戦後、1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から出馬して当選し、その後、国民協同党に所属して衆議院議員を一期務めた。
田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982… 田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982年4月1日)は、日本の建築史・美術史学者。工学博士(1939年)。早稲田大学の建築史担当教授を伊東忠太、佐藤功ーより引き継ぐ。昭和初期に関東地域の社寺建築の調査を行ない、関東系の建築史を大成する。後年は古建築の復元・創作、文化財保護に活躍した。 岡山県倉敷市生まれ。広島県出身。 1924年早稲田大学理工学部建築学科卒、同助手、1925年助教授、1939年「関東地方に於ける古建築の研究」で工学博士の学位を取得。1941年教授。1969年定年、名誉教授。1930 (昭和5) 年、中国および沖縄の建築調査(1931まで、1934-35)。1964(昭和39)年、日本建築大工技能士会会長。
山田 義見(やまだ よしみ、1899年〈明治32年〉1月13… 山田 義見(やまだ よしみ、1899年〈明治32年〉1月13日 - 1991年〈平成3年〉5月3日)は、日本の元大蔵次官。位階は正三位。
佐伯 梅友(さえき うめとも、1899年1月13日 - 19… 佐伯 梅友(さえき うめとも、1899年1月13日 - 1994年10月12日)は、日本の国語学者。
藤原 豊次郎(ふじわら とよじろう、1899年1月12日 -… 藤原 豊次郎(ふじわら とよじろう、1899年1月12日 - 1979年12月8日)は、日本の政治家。日本社会党所属の衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1929年千葉医科大学卒。眼科医院を開業し、市川市議、千葉県議を経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙において千葉1区から日本社会党公認で立候補して当選した。衆議院議員は1期務め、1963年の第30回衆議院議員総選挙で落選した。その後、1969年の第32回衆議院議員総選挙で諸派として立候補したが落選した。 このほか社会党市川支部長、市川市医師会会長、千葉県医師会顧問や日中友好協会千葉県会長なども歴任した。
常岡 一郎(つねおか いちろう、1899年〈明治32年〉1月… 常岡 一郎(つねおか いちろう、1899年〈明治32年〉1月12日 - 1989年〈昭和64年〉1月2日)は、日本の政治家、参議院議員(2期)、宗教家、文筆家。 1899年(明治32年)福岡県糟屋郡古賀町(現古賀市)に生まれる。慶應義塾大学部理財科に在学していたが、卒業前に結核に倒れ、同大学を中退。闘病と共に天理教の修養を始める。 1935年(昭和10年)修養団体『中心社』を創設。その後、月刊誌「中心」を主宰し中心社主幹。この他、養護施設中心学園、養護老人ホーム中心荘を経営して社会福祉に貢献、健康学園を創建。兼ねてよりの持論である5健運動を推進する。 1950年(昭和25年)第2回参議院議員通常選挙全国区に緑風会から出馬し参議院議員に当選。
横田 正俊(よこた まさとし、1899年〈明治32年〉1月1… 横田 正俊(よこた まさとし、1899年〈明治32年〉1月11日 - 1984年〈昭和59年〉7月1日)は、日本の裁判官。第4代最高裁判所長官を務めた。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。なお、前任の最高裁判所長官横田喜三郎と同姓だが、縁戚関係はない。 1925年(大正14年)4月から裁判官生活に入り、東京地裁判事、東京控訴院判事等を務め、1943年(昭和18年)3月に甲府地裁所長に就任。戦後、司法省臨時企画部長に就任。1946年に大審院判事。1947年(昭和22年)7月に公正取引委員会委員その後1952年(昭和27年)2月に同委員長に任命され1958年(昭和33年)3月に退任するまで、通算10年8か月にわたり公正取引委員会に在職した。
五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - … 五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - 2000年4月23日)は、日本の俳人、内科医。本名は久雄(ひさお)。兵庫県出身。 姫路市鍛冶町に生まれる。野里尋常小学校、姫路中学校、第三高等学校を経て、1923年京都帝国大学医学部卒業。卒業後に松尾内科勤務を経て、神戸市立中央市民病院に勤務。同病院の副院長・院長を1959年まで務める。1961年に神戸市生田区で五十嵐内科を開業、1993年まで医師として務めた。 大学在学中の1920年より句作をはじめ、京大三高俳句会で高浜虚子と出会い師事する。1922年、「京鹿子」同人。1930年、山本梅史の跡を継いで「九年母」選者。1932年、「ホトトギス」同人。
大倉 治一(おおくら じいち、1899年(明治32年)1月1… 大倉 治一(おおくら じいち、1899年(明治32年)1月10日 - 1992年(平成4年)4月5日)は、日本の実業家。月桂冠株式会社元代表取締役会長。12代目当主。 1899年(明治32年)1月、京都府京都市伏見区で大倉恒吉の長男として生まれる。1923年(大正12年)、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業と同時に第一銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)に入行。その後、月桂冠株式会社の前身である大倉恒吉商店に入社し、大倉恒吉商店、共同酒造株式会社各常務、東京菱油商会、江田醸造研究所株式会社各監査を歴任後、1945年(昭和20年)に大倉酒造(現・月桂冠)株式会社代表取締役社長(のち会長)に就任した。
大高 康(おおたか やすし、1899年(明治32年)1月8日… 大高 康(おおたか やすし、1899年(明治32年)1月8日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)、茨城県多賀郡高萩町長。 茨城県出身。1917年(大正6年)茨城県立水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)を卒業した。 高萩町会議員、高萩町長、同消防団長、茨城県会議員、同議長などを務めた。1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙に茨城県第2区から改進党公認で出馬して初当選。第27回総選挙で再選されたが、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙は次点で落選。1960年(昭和35年)11月の第29回総選挙と第30回総選挙で再選され、衆議院議員に通算4期在任した。
泉 敬太郎(いずみ けいたろう、1899年(明治32年)1月… 泉 敬太郎(いずみ けいたろう、1899年(明治32年)1月8日 - 1984年(昭和59年)12月7日)は、昭和時代の政治家。教育者。愛媛県新居浜市長。 愛媛県宇摩郡別子山村(現新居浜市)に生まれる。泉半次の長男。1922年(大正11年)愛媛県師範学校(現在の愛媛大学教育学部)卒業。 同年から1955年(昭和30年)まで新居郡内の小学校教員、小学校長、県教育組合副委員長を経て、1955年(昭和30年)から愛媛県議会議員を2期務める。1965年(昭和40年)社会党公認で新居浜市長に当選。5期20年在任し全国最高齢かつ唯一の社会党公認市長だったが、1984年(昭和59年)10月、病気のため任期満了を待たずに辞任した。
山高 しげり(やまたか しげり、別名:金子しげり、金子茂、1… 山高 しげり(やまたか しげり、別名:金子しげり、金子茂、1899年1月5日 - 1977年11月13日)は、日本の政治家、婦人運動家、フェミニスト。婦人参政権獲得期成同盟会(婦選獲得同盟)の創設に加わり、全国地域婦人団体連絡協議会の初代理事長となったほか、参議院議員を2期務めた。 1899年1月5日に三重県津市で、三重県師範学校校長であった父・幾之丞と母・とみの間に次女として生まれた。幼い頃の戸籍名はひらがなではなく、漢字の「茂」であった。子どもの頃は教師であった両親の仕事の都合でさまざまな場所に住んでいた。父が亡くなって以降は母子家庭で育っており、これが後年に母子保護活動に尽力するようになった大きな理由のひとつである。
杉木 喬(すぎき たかし、1899年1月5日 - 1968年… 杉木 喬(すぎき たかし、1899年1月5日 - 1968年9月12日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。立教大学名誉教授。立教女学院短期大学学長、日本アメリカ文学会会長を務めた。 東京・赤坂新町出身。1923年(大正12年)早稲田大学露文科卒業、1931年(昭和6年)立教大学文学部英文科卒業。立教大学で高垣松雄に師事し、岡倉由三郎(岡倉天心の実弟)にも学んだ。 巣鴨高商専門学校(現・千葉商科大学)教員を経て、1940年(昭和15年)立教大学講師、翌年助教授。 1942年(昭和17年)立教大学教授に就任。その後、同大学文学部英米文学科科長を務め、1956年(昭和31年)には、フルブライトリサーチスカラーとしてハーバード大学及びデューク大学で研究に従事した。
前田 盛高(まえだ もりたか、1899年1月5日 - 198… 前田 盛高(まえだ もりたか、1899年1月5日 - 1982年6月13日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長、会長、相談役を歴任。 鹿児島県薩摩郡入来村(後の入来町、薩摩川内市の一部)生まれ。1918年3月に鹿児島県師範学校本科(現 鹿児島大学教育学部)を卒業。1918年4月から鹿児島県日置郡の天昌尋常高等小学校(現 日置市立永吉小学校)教諭を務めるが、病気療養のため退職。 1920年10月に大福海上火災保険へ入社し、調査課勤務。1942年7月、大福海上火災保険と大東海上火災保険の合併により共栄火災海上保険が設立されると同時に神戸支店長となり、1944年3月から大阪支店長、1946年12月から近畿支社長。
野々山 広三郎(ののやま こうざぶろう、1899年1月4日 … 野々山 広三郎(ののやま こうざぶろう、1899年1月4日 - 1985年8月8日)は日本の実業家。サッポロビール社長。長野県東筑摩郡宗賀村(現塩尻市)生まれ。
十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月… 十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月4日 - 1989年(昭和64年) 1月7日 )は、日本の西洋史学者。専門は、ドイツ近世史。 香川県高松市出身。生家は旧高松藩の御用商人を務めた旧家の次男として生まれる。雅号は悠亭。父の忠貞(襲名権三郎)は、中川愛山に学んだ画人でもあり自由民権運動団体「博文社」の会頭の一人でもあった。 郷里の高松中学時代は、1歳で父親を癌で亡くしたこともあり、身体を鍛えるために海水浴、武徳会での柔道、ボートなど勉強そっちのけで遊んだという。不勉強がたたり浪人を強いられたが、方丈記、徒然草、夏目漱石を耽読し勉強に気が入らなかったという。 2年間の浪人の末、早稲田大学高等予科の文学科に入学した。
橋浦 はる子(はしうら はるこ、1899年〈明治32年〉1月… 橋浦 はる子(はしうら はるこ、1899年〈明治32年〉1月4日 - 1975年〈昭和50年〉2月25日)は、日本の社会運動家。日本で初めて女性が参加した1921年(大正10年)のメーデーにおいて、女性による社会主義団体「赤瀾会」の1人として参加したことで警察に拘束され、「日本で初めてデモ活動に参加した女性」として話題になった。 鳥取県岩美郡岩美町で、10人の兄弟姉妹の末子として誕生した。父は新進的な考えの持ち主、長兄は大学で学んだ社会主義思想を家に持ち込み、はる子はこの家庭環境で大きな影響を受けて育った。 18歳のとき、勉学を望んで、兄を頼って上京し、精華女学校(後の東海大学付属市原望洋高等学校)や渡辺女学校(後の東京家政大学)専門部に学んだ。
西本 三十二(にしもと みとじ、1899年〈明治32年〉1月… 西本 三十二(にしもと みとじ、1899年〈明治32年〉1月2日 - 1988年〈昭和63年〉1月9日)は、日本の教育学者。大学で教鞭を取った後に日本放送協会職員として放送教育の実践を行った。 1899年(明治32年)大阪府に生まれる[要出典]。1916年(大正5年)大阪府立八尾中学校を卒業後[要出典]、大阪府師範学校第二部を経て[要出典]、1923年にコロンビア大学教育学部を卒業した。1924年に同大学修士課程を卒業した。1925年 - 1928年に帝塚山学院高等女学部を創設した。1928年(昭和3年)、奈良女子高等師範学校教授に就任した。この際、ラジオ番組を受け持つ機会に恵まれると、次第に自分の理想の教育をラジオを通じて実践したいという思いが高まり、1932年(昭和8年)に教授職を辞して日本放送協会に入る。
牧野 亀治郎(まきの かめじろう、1899年1月2日 - 1… 牧野 亀治郎(まきの かめじろう、1899年1月2日 - 1985年3月21日)は、日本の経営者。明治生命保険社長、会長を務めた。福井県出身。 1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に明治生命保険に入社。1943年に常務に就任し、1946年11月には社長に昇格。しかし、翌1947年7月に公職追放となった。追放解除後の1961年5月から1972年5月までに会長を務めた。 慶應義塾理事も務めた。 1959年5月に藍綬褒章を受章し、1969年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年3月21日肺炎のために死去。86歳没。
久保 満雄(くぼ みつお、1899年(明治32年)1月2日 … 久保 満雄(くぼ みつお、1899年(明治32年)1月2日 - 1989年(平成元年)1月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1899年(明治32年)に熊本県で生まれた。陸軍士官学校第32期、陸軍大学校第40期、東京帝国大学法学部卒業。1939年(昭和14年)7月に陸軍省整備局戦備課高級課員に就任した。1940年(昭和15年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に第40師団参謀長(第11軍)に就任し、日中戦争に出動。1942年(昭和17年)8月に朝鮮軍参謀に転じ、1944年(昭和19年)7月14日に歩兵第90旅団長(駐蒙軍・第118師団)に就任した。 同年8月1日に陸軍少将に進級し、1945年(昭和20年)3月31日に第43軍参謀長(北支那方面軍)に就任した。
星野 靖之助(ほしの やすのすけ、1899年(明治32年)1… 星野 靖之助(ほしの やすのすけ、1899年(明治32年)1月1日 - 1988年(昭和63年)10月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 大分県出身。星野太三郎の長男として生まれる。大分県立大分中学校を経て、1925年(大正14年)3月、慶應義塾大学経済学部を卒業した。 同年4月、三井鉱山に入社し、1927年(昭和2年)3月、三井合名会社に転じた三井総元方情報主任となり、司法省刑事局嘱託、内務省警保局嘱託も務めた。1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け旧北海道4区から出馬して当選、衆議院議員を1期務めた。この間、翼賛政治会総裁秘書、小磯内閣で小林躋造国務大臣秘書官、行政査察使随員、幣原内閣で海軍参与官、同第二復員参与官などを歴任。
高谷 覚蔵(たかや かくぞう、1899年1月1日‐1971年… 高谷 覚蔵(たかや かくぞう、1899年1月1日‐1971年3月20日)は、社会運動家、政治評論家。日本きってのソ連通として知られた。パルタイナーメ(共産党員名)は寺田。 滋賀県大津市生まれ。大阪高等工業学校の醸造科を卒業後、家業の酒屋を継がず、1922年アメリカへ渡り、アメリカ共産党に入党。1923年10月、片山潜の手引きでソ連に入り、東方勤労者共産大学を卒業後、1929年にソ連共産党員に転籍、コミンテルン極東部員、KGBの極東主要メンバーとして活動。その後、極東でオムスを取り仕切っていたゲンリフ・リュシコフの片腕となる。1935年2月帰国。同年5月検挙され転向し、その後陸軍参謀本部第5課(対ソ情報)嘱託として勤務した。
井上 孝治郎(いのうえ こうじろう、1899年 - 1996… 井上 孝治郎(いのうえ こうじろう、1899年 - 1996年)は、日本の外交官。外務省経済局長や、内閣総理大臣秘書官、駐トルコ特命全権大使、日本ユネスコ国内委員会事務総長などを務めた。 東京出身。旧制暁星中学校を経て、1922年東京商科大学(現一橋大学)予科卒業。1925年同大学学部卒業、外務省入省。外務大臣官房文書課長、外務省総務局付大使館参事官等を経て、1945年外務省戦時経済局長。同年日本の降伏に伴う改組により外務省経済局長。1946年外務省調査官。1947年終戦連絡中央事務局経済部長。1948年外務省特別資料部長。1949年内閣総理大臣秘書官。1950年九州連絡調整事務局長、九州地方連絡協議会会長。
山県 道義(やまがた みちよし、1899年(明治32年) -… 山県 道義(やまがた みちよし、1899年(明治32年) - 没年不明)は、日本の発明家。 広島市出身。広島工業学校を卒業し、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)に在籍した。その後、陸軍運輸部、合資会社天洋工業所技師長を経て、1928年に大阪市港区で山縣機械工作所(現在の山縣機械)を創業し、写真製版用腐食機械の設計製造を始めた。
福井 二郎(ふくい じろう、1899年 - 1983年)は日… 福井 二郎(ふくい じろう、1899年 - 1983年)は日本の牧師。宣教師、熱河省での伝道で知られる。 山口県出身、旧制山口中学校を卒業後に、上海の東亜同文書院に留学した。卒業後は馬関新聞に勤務して、1935年に中国伝道を決心する。満洲伝道会より派遣され、満洲国熱河省から、内モンゴルまで伝道した。 戦後に引き上げて、1948年に帰国した後、日本基督教団門司教会、喜界教会(鹿児島県)、池袋西教会の牧師をした。
三上 武之助(みかみ たけのすけ、1899年(明治32年)-… 三上 武之助(みかみ たけのすけ、1899年(明治32年)- 1933年(昭和8年))は、日本の建築技師。 主な作品に東宮仮御所倉庫(1925年)、秩父宮邸(1927年)などがある。 京都生まれ。1924年(大正13年)京都帝国大学工学部建築学科卒業。当初鉄道省にはいるが、同年技手として宮内省にはいる。構造設計を担当。1931年(昭和6年)から技師となり、臨時帝室博物館造営課勤務となる。
岡本 勘治郎 (おかもと かんじろう、1899年 - 198… 岡本 勘治郎 (おかもと かんじろう、1899年 - 1985年)は日本の園芸家。バラの育種家。 1899年京都府に生まれる。千葉園芸高等専門学校(現・千葉大学園芸学部)を卒業後、フランスやイギリスに留学。本格的に帰国した1930年には「桃山花園」を開園し、育種を行った。世界各地から多くの品種のバラと関連書物を日本に持ち込み、「バラの神様」とも言われている。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、農業に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキプロジェクト 農業/Portal:農業)。
神吉 三郎(かんき さぶろう、1899年(明治32年) - … 神吉 三郎(かんき さぶろう、1899年(明治32年) - 1952年(昭和27年))は、英文学者、翻訳家。長男は直木賞作家の神吉拓郎。 栃木県生まれ。1923年(大正12年)東京帝国大学文学部英文科卒。卒業論文は「ウィリアム・ブレイク論」。同期卒業した本多顕彰(英文学者、評論家)によると、在学中は小説を書き、同人雑誌を出しており、「辛辣な皮肉屋」との評があったという。 卒業後は陸軍大学校の語学教師として勤務し、教授になる。 伝記文学の傑作とされる『サミュエル・ヂョンスン伝』を翻訳し、1941年6月、上巻を刊行(岩波文庫)。戦局が厳しくなる中、中巻の出版は果たせず(陸軍の文官だったため参謀総長の許可が必要であったが不許可とされた。
野村 萬作(万作、のむら まんさく、1899年 - 1978… 野村 萬作(万作、のむら まんさく、1899年 - 1978年)は、初代奈良県公選知事(在任1947年 - 1951年)。 旧制第八高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、終戦直後には官選奈良県知事を務めた。 1947年に行われた第1回公選知事選挙に立候補、社会党、日本共産党推薦の弁護士出身で同じく元官選知事の小野正一(生没年1898年 - 1978年)が5人の候補者中第1位となったが、法定得票の37.5%に達せず、決選投票に持ち込まれることになった。しかし再選挙直前、小野は突然公職追放となり、第2位の野村が初代公選知事に就任した。 在任中、自治体警察発足や県立高校新設などを手がけたが、1951年の知事選挙で同じ内務官僚出身の奥田良三に敗れた。
村上 啓夫(むらかみ ひろお、1899年 - 1969年)は… 村上 啓夫(むらかみ ひろお、1899年 - 1969年)は、日本の翻訳家。東京外国語大学英米語学科卒業。 大正期から、ノンフィクション、推理小説などを訳した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
井出 岳水(いで がくすい、明治32年(1899年)- 昭和… 井出 岳水(いで がくすい、明治32年(1899年)- 昭和57年(1982年))は、大正時代から昭和時代にかけての版画家。 荒井寛方の門人。本名は井出泰三。岳水と号す。明治32年(1899年)、山梨県船津町(現・南都留郡富士河口湖町船津)に生まれた。日本大学芸術学部を卒業後、山内多門に師事、その後、荒井寛方に学んでいる。後に美術育英協会の理事を務めている。岳水は昭和4年(1929年)には中国へ引っ越して、上海で日本画塾を開き、第二次世界大戦後までそこで暮らしていた。17年間、同地に滞在した後、昭和21年(1946年)に日本に帰国した。昭和24年(1949年)、彼は渡辺版画店の渡辺庄三郎と協力して花鳥画を制作し始めた。
相田 隆太郎(そうだ りゅうたろう、1899年(明治32年)… 相田 隆太郎(そうだ りゅうたろう、1899年(明治32年) - 1987年(昭和62年))は、日本の評論家。本名は「茂隆」。 山梨県北巨摩郡明野村(現・北杜市明野町)に生まれる。生家は農業を営む。後年の1963年(昭和38年)10月に『農民文学』第7号に発表した「加藤武雄を偲ぶ」によれば、隆太郎は15歳の時に加藤武雄『土を離れて』を読み感銘を受け、後年の評論活動に影響を与えたという。 隆太郎は菊池寛・加藤武雄らと交流があり、『新潮』『文芸』などの中央の文芸誌に評論を発表している。加藤武雄らが「創作研究会」を開催すると、相田は石原文雄・鑓田研一を誘いこれに参加する。 1922年(大正11年)8月には『早稲田文学』に評論「現文壇の農民小説を論じて『吾が農民』を想ふ」を発表し、注目される。
田中 剛二(たなか ごうじ、1899年 - 1979年4月1… 田中 剛二(たなか ごうじ、1899年 - 1979年4月11日)は、日本の牧師。 日本キリスト改革派教会の牧師として、神戸改革派神学校で長年教鞭をとった神学校教師。新改訳聖書のヨハネの福音書を翻訳する。 現代の改革派の講解説教のスタイルを確立した説教者とされる。 日本基督教会伝道者田中日出海の次男として広島県に生まれる。小学生の時に父を失い。上京して早稲田中学に入学する。そのまま早稲田大学予科に進む。アナーキズムに触れ傾倒して、中退する。大阪で労働者になり、革命を目指す。満洲に渡り、革命下のロシアに入国しようとして失敗する。 1922年 神戸神学校に入学(第17期)。在学中に、正統主義的な改革派神学と信仰に目覚める。
姜 己文(カン・ギムン、朝鮮語: 강기문、1899年または1… 姜 己文(カン・ギムン、朝鮮語: 강기문、1899年または1910年1月22日 - 没年不詳)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道山清郡出身。旧制浪速中学校(現・浪速高等学校・中学校)卒、大阪大学商学部卒業または中退。大阪で硝子販売業を営んだ後、帰国しソウル南山洞に姜己文商店を設立し硝子販売および貿易業を経営した。その後、大韓建設工業会社社長、株式会社姜己文商店社長を務め、1948年の初代総選挙で当選した後は国会財政経済第1分科委員を務めた。朝鮮戦争の際、身を隠していたところ北朝鮮に拉致され以後消息不明。弟により失郷私民申告書が提出された。
田中 敬孝(たなか よしたか、1899年(明治32年) - … 田中 敬孝(たなか よしたか、1899年(明治32年) - 1985年(昭和60年)3月6日)は、日本のサッカー指導者。広島県広島市翠町(現・南区翠町)出身。 息子は東洋工業や日本代表でもプレーした田中雍和。 戦前における「サッカー王国広島」の歴史を拓いた人物である。 旧制広島中学(現広島県立広島国泰寺高等学校)在学中の1914年(大正3年)同校に初めて蹴球部(サッカー部)が出来て入部。それまでは同好会的なものだった。田中はレフトウイングで、後に日本サッカー協会会長となる野津謙もサッカー部の同期でフルバック、広島カープの設立で知られる谷川昇も同期でハーフセンターだった。サッカー部の一年上が関西学院大学体育会サッカー部創設者・平田一三 と山口高等学校 (再興山高)サッカー部創設者・武田邦次郎。
安倍 栄作(あべ えいさく、1899年 - 1983年6月2… 安倍 栄作(あべ えいさく、1899年 - 1983年6月27日)は、山形県出身の日本の洋画家。 東田川郡藤島村(現・鶴岡市)に生まれる。生家は高橋家で、鶴岡の安倍家の家督を継いだ。山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)に進学し、東京美術学校日本画科出身の美術教員・小貫博堂に指導を受けた。東京美術学校図画師範科に進学・卒業後、北海道庁立函館高等女学校(現・北海道函館西高等学校)教員となる。その後、郷里に近い山形県立鶴岡高等女学校(現・山形県立鶴岡北高等学校)の教員に転じた。 画家としては、太平洋美術会、槐樹社、地元鶴岡の美術団体である白甕社に所属。「バラの画家」の異名もあった。
坂本 秀夫(さかもと ひでお、1899年 - 1967年9月… 坂本 秀夫(さかもと ひでお、1899年 - 1967年9月2日)は、日本の内科医。 高知県出身。東京帝国大学医学部卒、1929年医学博士。東京警察病院内科。東京大学医学部付属分院教授、院長、1960年定年退官、東京自動車連合健康保険組合柳橋病院長を務めた。
崔 允植(チェ・ユンシク、朝鮮語: 최윤식、1899年 - … 崔 允植(チェ・ユンシク、朝鮮語: 최윤식、1899年 - 1960年8月3日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の大学教授、数学者(解析学・整数論)。 本貫は慶州崔氏(朝鮮語版)、号は東林(トンニム、동림)。 平安北道宣川出身。1917年に京城高等普通学校を卒業後、広島高等師範学校に官費留学し、1922年に東京帝国大学理学部数学科で学んだ。帰国後は京城高等工業学校と京城鉱山専門学校で教授を務めたほか、光復後は鉱山専門学校長を務めた。1946年に国立ソウル大学校数学科の初代主任教授となり、ソウル大学校文理科大学の学長を1年間務めた。1946年10月に朝鮮数物(数学・物理)学会(のちの大韓数学会)を創立し、初代会長を務めた。
朴 定根(パク・チョングン、朝鮮語: 박정근、1899年 -… 朴 定根(パク・チョングン、朝鮮語: 박정근、1899年 - 1980年1月26日)は、大韓民国の政治家、公務員、実業家。第2・3代韓国国会議員、第9代全羅北道知事。 在フランス韓国人歴史学者の朴炳善(朝鮮語版)は娘。 東京帝国大学(現・東京大学)農学部卒。1950年の第2代総選挙では全羅北道全州市の選挙区から国会議員に初当選し、1952年の釜山政治波動の時は逮捕された11名の議員の1人である。そのほか、1959年5月13日から1960年5月11日までに第9代全羅北道知事を務め、金剛電球社長、全州府邑長、国会農林分科委員長、自由党全州市党委員長などを歴任した。 1980年1月26日にソウル市龍山区の公務員アパートにある自宅で死去。
関 太一(せき たいち、1899年 - 1951年10月23… 関 太一(せき たいち、1899年 - 1951年10月23日)は、日本の商学者。東京経済大学の前身である大倉経済専門学校校長として、新制大学への昇格に尽力し、東京経済大学初代学長となった。 盛岡中学、東京高等商業学校卒業後、1922年に大倉高等商業学校の教員となった。戦後、大倉経済専門学校が校地を赤坂葵町から国分寺町へ移転する前後の混乱の中で、1946年に学生たちから辞職要求を突きつけられた古館市太郎校長が退任する事態が生じると、関は教授会の推薦を受けて校長事務取扱いとなり、翌1947年8月に正式に大倉経済専門学校校長となった。関校長は、新制大学への昇格を推進し、1949年に東京経済大学初代学長となったが、事務職員の公金着服事件の責任を問われ、1951年9月に退任した。
趙 之成(ちょう しせい、1899年 – 没年不明)は、中華… 趙 之成(ちょう しせい、1899年 – 没年不明)は、中華民国の官僚・実業家。号は蔚如。中華民国臨時政府で各職を歴任した。当時において、王揖唐の派閥に属していた人物と見なされている。また、江紹杰と共に王揖唐の側近における重鎮格と評価する文献もある。 清末に日本へ留学し、法政大学法律科を卒業したとされる。なお、同様の経歴を持つ先輩格の人物として、王揖唐や江紹杰がいる。親日政権に参加する以前、北京政府や国民政府での趙之成の動向は不詳である。 王克敏・王揖唐らが中華民国臨時政府を創立すると、趙之成もこれに参与した。1938年(民国27年)1月1日、趙は教育部(総長:湯爾和)参事に任命された。同年9月18日、組織改革により内政部が成立すると、王揖唐が内政部総長となる。
岡田 益吉(おかだ ますきち、1899年 - 1981年4月… 岡田 益吉(おかだ ますきち、1899年 - 1981年4月10日)は、日本のジャーナリスト。 東京府出身。1923年早稲田大学卒。 読売新聞、東京日日新聞政治部記者、満洲国情報課長、防衛総司令部調査室。 戦後、河北新報記者、1954年より著述業。
三浦 義武(みうら よしたけ、1899年 - 1980年2月… 三浦 義武(みうら よしたけ、1899年 - 1980年2月8日)は、日本の喫茶店店主、政治家である。缶コーヒーの発明者。息子は小説家の三浦浩。 1899年(明治32年)、島根県那賀郡井野村(現・浜田市)で豪農の家に生まれる。浜田中学校卒業後、上京して早稲田大学法科に進学。在学中は茶に親しみ、卒業後は東京郊外で茶の販売店を営む。昭和に入り、日本橋の白木屋でコーヒー豆を挽き売りするようになる。三浦のコーヒー狂ぶりは相当なもので、研究のために銀座や丸の内の有名コーヒー店を飲み歩き、中毒のようになって倒れたこともままあったという。研鑽を積み、ネルを使った独自の手法で濃厚で香り高いコーヒーを作り出した。
押本 七之輔(おしもと しちのすけ、1899年 - 1970… 押本 七之輔(おしもと しちのすけ、1899年 - 1970年8月18日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、元俳優である。本名および旧筆名押本 七之助、のちに押本 七乃輔とも表記した。市川右太衛門プロダクション設立第1作の監督に抜擢されたことで知られる。 1899年(明治32年)、東京府豊多摩郡渋谷村(現在の東京都渋谷区)に生まれる。『映画年鑑 1973』の「映画人物故録」には「68歳没」との記述があり、1902年(明治35年)前後の生まれの可能性がある。 学歴等は伝えられていないが、満21歳となる1920年(大正9年)、国際活映に入社している。同年、すぐに同社を退社して仁科熊彦らとともに映画の制作プロダクションに参加、奈良での撮影に携わったものの、同社が解散したため、東京に戻る。
川原 忠平(かわはら ちゅうへい、1899年〈明治32年〉 … 川原 忠平(かわはら ちゅうへい、1899年〈明治32年〉 - 1976年〈昭和51年〉1月3日)は、日本の教育者。学校法人高岡第一学園及び高岡第一高等学校の創設者、同初代理事長兼初代校長。 富山県西礪波郡福光町(現・南砺市)才川七にて、教育者であった父・川原忠孝の次男として生まれる。父の影響で教育者を目指し、福光高等小学校卒業後に富山師範学校(後の富山大学旧教育学部、現人間発達学部)を受験するも、人見知り・小心な性格の上、田舎育ちで富山の街中に慣れず、緊張して試験に失敗する。農業を手伝いながら、翌春に再挑戦するも再び不合格となる。富山師範学校にしか進学を許さないとの父の方針から、代用教員をしながら勉学に励み、三度目の受験にして、競争率5倍という狭き門を突破し、富山師範学校に入学する。
石井 順一(いしい じゅんいち、1899年 - 1991年3… 石井 順一(いしい じゅんいち、1899年 - 1991年3月4日)は、ボール、バット職人、ラビットボール発明者。日本の高校野球指導者。東京本郷生まれ。身長157cm。 早稲田実業学校野球部監督のほか、東京倶楽部設立に関わった。 祖父は広島出身の籐細工師で手先が器用、発明癖があり自転車にスクリューを付け船のように漕ぎ進める乗り物を考案するなどした。その息子、順一の父が湯島天神下に運動具店を開いたのは順一の生まれた1899年。このころテニスラケットや野球のバットは、外国から輸入したものばかりであったが、祖父と父は独自にそれらの用具を作ろうと考え、大工を混じえて工夫をはじめた。父はテニスラケットを初めて国産化した人物ともいわれている。
信時 潔(のぶとき きよし、1887年〈明治20年〉12月2… 信時 潔(のぶとき きよし、1887年〈明治20年〉12月29日 - 1965年〈昭和40年〉8月1日)は、大正・昭和時代の日本の作曲家・音楽学者・チェロ奏者。大阪市出身。 牧師・吉岡弘毅(元津山藩士の外交官で明治初期の日朝外交を担当)の子として大阪市北区中之島に生まれ、幼少より賛美歌に親しんだ。大阪の市岡中学を経て、東京音楽学校器楽部および研究科器楽部でチェロを学んだ後、同科作曲部に移り、アウグスト・ユンケルに指揮法、ハインリヒ・ヴェルクマイスターにチェロと作曲、ルドルフ・ロイテルに対位法と和声学を師事する。東京音楽学校助教授を務めたのち、留学先のドイツでゲオルク・シューマンに師事、帰国後に東京音楽学校教授となる。