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北条 浩(ほうじょう ひろし、1923年〈大正12年〉7月1… 北条 浩(ほうじょう ひろし、1923年〈大正12年〉7月11日 - 1981年〈昭和56年〉7月18日)は、日本の海軍軍人、政治家、宗教家。公明党所属の参議院議員(1期、1965年 - 1971年)、第4代創価学会会長。 前任会長の池田大作が執筆した小説『人間革命』の登場人物「十条潔」のモデルとなる。 神奈川県三浦郡葉山町生まれ。北条釐三郎の長男として生まれる。先祖は、後北条氏河内狭山藩初代藩主の北条氏盛(後北条氏第3代北条氏康の孫の一人)であり、その嫡流にあたる。ただし、祖父・北条氏恭が伊達政宗の子孫(伊達氏→堀田氏→狭山藩北条氏と養子入りした家系)であるため、男系の血筋上は伊達氏の末裔である。
三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大… 三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大正4年〉12月2日 - 2016年〈平成28年〉10月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人、歴史学者(古代オリエント史)。三笠宮家初代当主。御称号は澄宮(すみのみや)、お印は若杉(わかすぎ)。身位は親王。敬称は殿下。勲等は大勲位。最終階級は陸軍少佐。第126代・今上天皇(徳仁)の大叔父。大正天皇と貞明皇后の第4皇子。昭和天皇は兄(長兄)、第125代天皇・現上皇の明仁は甥。現在の皇族には彼の孫が3人おり3人共女子である(息子3人は死去。娘2人と孫2人は皇籍離脱)。 1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四男子として誕生。3人の兄(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)は明治生まれ即ち父である大正天皇がまだ皇太子であった時にその男子として生まれ、早くから「皇孫御殿」に引き取られて養育された。
音羽 正彦(おとわ ただひこ、1914年〈大正3年〉1月5日… 音羽 正彦(おとわ ただひこ、1914年〈大正3年〉1月5日 - 1944年〈昭和19年〉2月6日)は、日本の皇族(朝香宮家)、華族、海軍軍人。クェゼリンの戦いにて戦死。最終階級は海軍少佐。栄典は正四位勲一等功四級侯爵。臣籍降下以前の皇族としての名と身位は正彦王(ただひこおう)、敬称は殿下。 1914年(大正3年)1月5日、朝香宮鳩彦王の第2王子として誕生。1934年(昭和9年)1月4日、貴族院皇族議員に就任。 学習院中等科卒業後、海軍兵学校入校。海軍兵学校生徒時代に宿営した広島県西条で、保存用の畳の上に寝てくれと地元民に頼まれた際には「ぼくは国民のデコレーションではないよ」と述べたという。 1936年(昭和11年)4月1日、海軍兵学校第62期卒業。
德川 慶光(とくがわ よしみつ、1913年(大正2年)2月6… 德川 慶光(とくがわ よしみつ、1913年(大正2年)2月6日 - 1993年(平成5年)2月6日)は、日本の官僚、政治家、陸軍軍人、華族(公爵)。江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の孫。通称は「けいこう」。新字体で徳川 慶光とも表記される。 1913年(大正2年)2月6日、公爵徳川慶久と有栖川宮威仁親王の第二王女・實枝子の長男として東京府東京市小石川区第六天町(現:東京都文京区小日向)の屋敷で生まれた。お印は雁。赤ん坊の頃、祖父・慶喜の膝に抱かれ、おもらしをしたことがある。 1922年(大正11年)に父が急死したため、10歳で襲爵。伯父の侯爵・池田仲博が後見人となった。学習院から東京帝国大学文学部支那哲学科に進んで中国哲学を専攻し、卒業後は宮内省図書寮に勤務した。
伏見 博英(ふしみ ひろひで、1912年〈大正元年〉10月4… 伏見 博英(ふしみ ひろひで、1912年〈大正元年〉10月4日 - 1943年〈昭和18年〉8月21日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。第二次世界大戦時に太平洋戦線で戦死。最終階級は海軍少佐。爵位は伯爵。臣籍降下以前の名は博英王(ひろひでおう)。 1912年10月4日に誕生。伏見宮博恭王の第4王子。香淳皇后(昭和天皇后)の再従弟にあたる。 海軍兵学校(第62期)卒業。同期に同じく戦死した皇族軍人の音羽正彦少佐など。 最上級生のときは、ノーブルな雰囲気ながらも下級生が何かヘマをやろうものなら「待て! 貴様!」と鉄拳をふるう、やや御気性の荒っぽい宮様だったという。 1932年(昭和7年)10月3日、貴族院皇族議員に就任。
南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月… 南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月1日 - 1938年〈昭和13年〉7月18日)は、日本の海軍軍人。海兵55期。日中戦争における撃墜王。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1906年(明治39年)7月1日、広島県安芸郡江田島村(現江田島市)で当時海軍兵学校幹事の父・南郷次郎少佐(最終階級、少将)の長男として生まれる。本籍は東京府(現・東京都)。性格は豪快で人懐っこく頭脳明晰、体格は大きくなかったが、幼少から柔道に上達し体力は優れていた。祖父に元老院議官で海軍省高官の南郷茂光がいる。弟に太平洋戦争のニューギニアの戦いで活躍し「ニューギニアは南郷で持つ」と称えられた陸軍飛行第59戦隊第2中隊長として有名な 撃墜王の南郷茂男(1944年1月23日、戦死。
高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年… 高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年〈明治38年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉2月3日)は、日本の皇族、海軍軍人。有栖川宮の祭祀を継承。御称号は光宮(てるのみや)。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。 大正天皇と貞明皇后の第三皇子。皇長兄に昭和天皇、皇次兄に秩父宮雍仁親王、皇弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。 当時の皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)の第3皇男子として青山東宮御所で誕生。幼称(御称号)を光宮(てるのみや)といった。 高松宮は四親王家の一つ、有栖川宮の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承したのには故がある。
久邇 邦久(くに くにひさ、1902年〈明治35年〉3月10… 久邇 邦久(くに くにひさ、1902年〈明治35年〉3月10日 - 1935年〈昭和10年〉3月4日)は、日本の華族、陸軍軍人。陸軍歩兵大尉。侯爵。久邇宮邦彦王の第二王子。香淳皇后の兄(次兄)、第125代天皇・明仁(上皇)の伯父、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の大伯父にあたる。 学習院初等科を経て学習院中等科在学途中の1918年(大正7年)4月の17歳のとき、東京府立一中2年次に入学。1920年(大正9年)12月1日の府立一中4年次だったとき、当時の皇族の慣例に従って士官候補生として近衛歩兵第4連隊に入隊した。1921年(大正10年)10月1日の20歳のとき、陸軍士官学校に入学。1922年(大正11年)3月10日、貴族院皇族議員に就任。
華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治… 華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治35年)1月26日 - 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の皇族、海軍軍人。 博恭王が華頂宮当主であった時の王子。1902年(明治35年)1月26日に誕生した第2王子。2月1日、博忠と命名される。博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり、博忠王は僅か2歳(明治37年1月15日附)で華頂宮の家督を継承する。学習院初等科時代は、裕仁親王(後の昭和天皇)と同級だった。中等学科4年より海軍兵学校予科へ進む。博忠王の海軍兵学校時代初期、校長は鈴木貫太郎海軍中将であった。 海軍兵学校を卒業(49期)した博忠王は1921年(大正10年)7月16日附で海軍少尉候補生となり、装甲巡洋艦八雲乗組を命じられる(同級の朝融王は出雲乗組)。
久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年〈明治3… 久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年〈明治34年〉2月2日 - 1959年〈昭和34年〉12月7日)、または久邇 朝融(くに あさあきら)は、日本の旧皇族、海軍軍人。久邇宮第3代当主。官位は海軍中将大勲位功三級。香淳皇后の兄、第125代天皇・明仁の母方の伯父にあたる。 1901年(明治34年)2月2日、久邇宮邦彦王と同妃俔子の第1王子として誕生し、2月9日に朝融と命名された。 1921年(大正10年)2月2日に20歳を迎え、貴族院議員となった。4月19日に成年式が執り行われた。同年7月16日に海軍兵学校(49期)を卒業し、皇族軍人の一員として海軍軍人としてのキャリアを歩む。兵学校では、華頂宮博忠王と同期生だった。
谷田 勇(たにだ いさむ、1894年(明治27年)12月14… 谷田 勇(たにだ いさむ、1894年(明治27年)12月14日 - 1992年(平成4年)1月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍徳島県。東京府で谷田文衛陸軍中将の二男として生まれる。学習院(現学習院中・高等科)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し近衛工兵大隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を優等で卒業。電信第1連隊付などを経て、1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1925年(大正14年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第3師団参謀充用を務め、1930年(昭和5年)8月、工兵少佐に昇進し陸大教官に就任。
醍醐 忠重(だいご ただしげ、1891年〈明治24年〉10月… 醍醐 忠重(だいご ただしげ、1891年〈明治24年〉10月15日 - 1947年〈昭和22年〉12月6日)は、日本の海軍軍人、貴族院議員。 海軍中将。爵位は侯爵。 1891年10月15日に、東京市麹町区元園町で公卿華族(清華家)の醍醐侯爵家の嫡子(三男)として生まれる。父・醍醐忠敬は戊辰戦争において奥羽鎮撫副総督を務めたが、1899年に家督相続に絡む怨恨によって甥(忠敬の兄忠告の子)の格太郎に射殺された。この事件が大スキャンダルに発展してしまい、これが原因で醍醐家は没落、忠重は公卿摂家の一条家に引き取られて養育された。賀陽宮恒憲王は忠重の従兄弟にあたる。 1897年東京市麹町尋常小学校(現・麹町小学校)に入学。
東郷 実(とうごう みのる、1890年(明治23年)9月10… 東郷 実(とうごう みのる、1890年(明治23年)9月10日 - 1962年(昭和37年)4月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。元帥海軍大将東郷平八郎の次男。 東京府出身。東郷平八郎・てつ夫妻の二男として生まれる。学習院中等科を経て、1912年(明治45年)7月、海軍兵学校(40期)を卒業。1913年(大正2年)12月、海軍少尉に任官し「香取」乗組となる。 1919年(大正8年)12月、「金剛」分隊長となり、「天龍」分隊長、「浦風」砲術長、「長門」「山城」「日向」の各分隊長などを経て、横須賀海兵団分隊長兼教官に就任。1925年(大正14年)12月、海軍少佐に昇進した。1927年(昭和2年)5月、「多摩」砲術長に転じ、海兵教官兼監事、「八雲」「榛名」の各運用長を歴任。
上野 正雄(うえの まさお、1890年〈明治23年〉7月16… 上野 正雄(うえの まさお、1890年〈明治23年〉7月16日 - 1965年〈昭和40年〉2月16日)は、日本の華族、海軍軍人。北白川宮能久親王の六男。爵位は伯爵、最終階級は海軍少将。旧姓は永田。 → 詳細は「北白川宮能久親王」項の「落胤」節を参照 東京府出身。母は福井県士族前波某の娘の栄。北白川宮能久親王の第六男であると判明したため、1897年(明治30年)7月1日、伯爵を授けられ華族に列した。 1912年(明治45年)7月17日、海軍兵学校を卒業(40期)。翌年12月、海軍少尉任官し「金剛」乗組となる。1918年(大正7年)12月から1年間、海軍水雷学校高等科で学んだ。 1919年(大正8年)12月、「扶桑」分隊長となり、「龍田」分隊長、「浦風」水雷長兼水雷学校教官、「汐風」水雷長などを経て、1923年(大正12年)3月、海軍大学校選科学生となった。
小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月1… 小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月12日 - 1970年〈昭和45年〉11月5日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。海軍中将従二位勲一等侯爵。北白川宮家出身。皇族時代の名と身位は輝久王(てるひさおう)。 伊勢神宮大宮司の小松揮世久は孫にあたる。 北白川宮能久親王第4王子。長兄恒久王は特に竹田宮家を創設し、次兄延久王は夭折し、北白川宮家は三兄成久王が相続した。 1906年(明治39年)、一般受験を経て海軍兵学校第37期入校。入学時の席次は180人中122番(または166番)。同期生に井上成美大将、岩村清一・小沢治三郎・草鹿任一・桑原虎雄各中将など。 当時の皇族は天皇の許可により無試験で陸軍士官学校(及び陸軍幼年学校)や海軍兵学校に入校可能であったが、以前から海兵入学を希望していた輝久王は特別扱いを拒否し、能久親王妃富子の強い要請によって海軍の難色を押し切り、一般試験を経て合格・入校した。
東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈… 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈明治20年〉12月3日 - 1990年〈平成2年〉1月20日)、のち東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。東久邇宮初代当主。陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任し、憲政史上唯一の皇族内閣を組閣した。 内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施したが、自由化政策を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。
島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年〈明治19年〉10月… 島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年〈明治19年〉10月20日 - 1968年〈昭和43年〉4月9日)は、日本の海軍軍人、貴族院議員。 島津氏第30代当主。島津忠義の四男であるが、兄たちの早世によりその嫡男(跡取り)となる。海軍少将正二位勲一等公爵。神号は「島津忠重命」。幼名は秀丸。 姉は邦彦王妃俔子で、香淳皇后の叔父にあたり、第125代天皇明仁の大叔父にあたる。 仙巌園で生まれ、幼少時代を過ごし、島津家庭尋常小学校(忠重とその兄弟が通うための学校)に通う。1898年(明治31年)2月1日、父・忠義の薨去により家督を相続し、公爵を襲爵する。叔父の島津珍彦が後見人となる。ほどなく鹿児島より上京し、学習院に編入学する。
住山 徳太郎(すみやま とくたろう、1886年(明治19年)… 住山 徳太郎(すみやま とくたろう、1886年(明治19年)5月1日 - 1962年(昭和37年)11月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 東京府出身。住山宗次郎の長男として生まれる。学習院中等科を経て、1906年(明治39年)11月、海軍兵学校(34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、同専修学生として学び、水上機母艦「若宮丸」分隊長、通報艦「淀」航海長、海兵教官、第三艦隊参謀、東郷平八郎元帥副官などを経て、1919年(大正8年)12月、海軍大学校(甲種17期)を卒業。以後、巡洋戦艦「鞍馬」航海長、第三艦隊参謀、横須賀海兵団分隊長、戦艦「敷島」航海長、第二艦隊参謀、海軍省人事局第1課局員などを歴任。
竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年〈明治1… 竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年〈明治15年〉9月22日 - 1919年〈大正8年〉4月23日)は、日本の皇族・陸軍軍人。竹田宮初代当主。 北白川宮能久親王の第1王子(庶長子)。妃は明治天皇の第6皇女昌子内親王。官位は陸軍少将大勲位功五級に昇る。 1906年(明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。近衛騎兵連隊に属し、日露戦争に従軍した。井口嶺の戦いですぐ隣を進んでいた伯爵南部利祥騎兵中尉(奥州南部家第42代当主)が敵弾に当たり戦死したという挿話を伝えているが、実際には南部中尉が戦死した3月4日には王は日本に帰国しており、ありえない話である。1919年(大正8年)4月23日、当時全世界で大流行していたスペインかぜのため薨去。
兒玉 友雄(こだま ともお、1881年10月23日 - 19… 兒玉 友雄(こだま ともお、1881年10月23日 - 1961年5月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍山口県。児玉源太郎の三男として生れる。学習院中等科を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊付となり、1904年2月、日露戦争に出征。1910年11月、陸軍大学校(22期)を卒業した。 参謀本部員兼軍務局課員、近衛師団参謀、参謀本部員などを経て、1914年5月、イギリスに私費留学し、翌年、イギリス軍に従軍した。帰国後、参謀本部員、陸軍省軍務局課員、兼航空部事務官、兵器局課員、軍務局課員(軍事課)、近衛歩兵第3連隊付、歩兵第34連隊長、参謀本部課長などを歴任し、1929年8月、陸軍少将に進級。
梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年〈明治… 梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年〈明治7年〉3月9日 - 1951年〈昭和26年〉1月1日)、または梨本 守正(なしもと もりまさ)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。梨本宮家第3代当主。官位は元帥陸軍大将。栄典は大勲位功四級。明仁上皇の大叔父にあたる。また、娘の方子は、大韓帝国最後の皇太子で日本の王公族だった李王垠に嫁いでいる。 久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年に誕生。当初は多田と名付けられたが、梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。梨本宮家は初代守脩親王のあと、山階宮家出身の菊麿王が後継者となったが、のちに実家を継ぐことになったため梨本宮家を離れ、代わって守正王が相続したものである。
久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年… 久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1929年〈昭和4年〉1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級および位階勲等は軍事参議官、元帥陸軍大将、大勲位、功四級。久邇宮朝彦親王の第3王子。久邇宮第2代当主。香淳皇后(昭和天皇后)の父。上皇の外祖父、今上天皇の曽祖父にあたる。 1887年(明治20年)、父・朝彦親王の継嗣と定められ、京都府立中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、学習院を経て東京の成城学校(現:成城中学校・高等学校)に入学する。1891年(明治24年)、朝彦親王薨去を受けて久邇宮を継承する。 1896年(明治29年)、陸軍士官学校を卒業し陸軍士官として勤務し、1902年(明治35年)に陸軍大学校卒業。