スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
佐久間 曻二(さくま しょうじ、1931年11月23日 - … 佐久間 曻二(さくま しょうじ、1931年11月23日 - )は、日本の実業家。WOWOW代表取締役会長兼最高経営責任者などを務め、経営危機にあった同社の再建を行った。 新潟県上越市で5人兄弟の末っ子として生まれる。実家は酒屋。1950年新潟県立高田高等学校卒業。1956年大阪市立大学大学院経営学研究科修了、松下電器産業(現パナソニック)入社。1980年経営企画室長。1983年取締役昇格。1987年から副社長を務めたが、ナショナルリース不正融資事件で1992年参与に降格。 再建者を探していた中山素平からの打診を受けた山下俊彦の紹介で、1993年から日本衛星放送(現WOWOW)代表取締役社長を務め、債務超過状態にあった同社の再建を行った。
鳴海 日出夫(なるみ ひでお、1929年(昭和4年)11月2… 鳴海 日出夫(なるみ ひでお、1929年(昭和4年)11月2日 - 2016年)は、昭和期の歌手。 新潟県高田市(現上越市)出身。幼くして、父親の仕事の関係で中国へ渡る。敗戦後、引き揚げ旧制高田中学へ入学。1948年(昭和23年)、中学卒業後、かつてから親交のあった作曲家田村しげるの勧めで、NHKのど自慢素人音楽会に出場し合格。全国大会にチャレンジし、第4回NHK全国のど自慢大会で「白い花の咲く頃」を歌い2位、翌年の1952年(昭和27年)3月、「山のけむり」を歌い優勝。同年コロムビアに入社。恩師田村しげるが作曲した「島は国境の彼方へ」でデビュー。 1954年(昭和29年)、「東京の恋唄」のヒットにより、コロムビアの人気歌手の仲間入りを果たす。
田中 弘邦(たなか ひろくに、1926年11月27日 - 2… 田中 弘邦(たなか ひろくに、1926年11月27日 - 2019年4月11日)は、元特定郵便局長会会長。特定局長のOBで組織される大樹全国会議の会長を務める。郵便局関係者に多大な影響力を持つ「全特のドン」として知られる。郵政民営化をめぐる論議では特定局長会の「顔役」として新聞・雑誌などのメディアに頻繁に登場し国営維持論を訴えた。 新潟県上越市出身。新潟県立高田中学校を経て麻布獣医専門学校(現麻布大学獣医学部)卒業。家業の造り酒屋「田中酒造」を継ぐ。同時に曽祖父の代からの世襲である特定郵便局(谷浜郵便局)の局長となる。以降、局長職を46年にわたって務める。その間、信越特定郵便局長会会長・全国特定郵便局長会会長などを歴任。
下山 敏郎(しもやま としろう、1924年5月4日 - 20… 下山 敏郎(しもやま としろう、1924年5月4日 - 2013年6月30日)は、日本の実業家。光学機器メーカー、オリンパス光学工業の社長、会長を歴任した。同台経済懇話会副代表幹事。新しい歴史教科書をつくる会賛同者[要出典]。 1945年(昭和20年)陸軍士官学校(第58期)卒。 1984年(昭和59年)に北村茂男の後を受けてオリンパス光学工業社長に就任。 1980年代半ば、急激な円高で営業利益が急速に落ち込んだオリンパスの業績を挽回するために財テクを行う方針を打ち出す。バブル崩壊後に財テクによる損が発生したため、損失を取り戻すため営業特金を増やした。営業特金だと算定上損が分かりにくくなるというのも理由の1つであったという見方もある。
曽根 道貫(そね どうかん、1914年(大正3年)10月30… 曽根 道貫(そね どうかん、1914年(大正3年)10月30日 - 1992年(平成4年))は、元体操選手。 新潟県中頸城郡高士村上曽根(現・上越市)に生まれる。高田中学校から日本体育会体操学校に進み、1935年(昭和10年)に卒業する。翌年の1936年ベルリンオリンピックに出場した。 その後は、本郷中学校教諭、東京警視庁工場課嘱託を経て、1941年(昭和16年)郷里に戻り、高士村役場に勤務した。
山岸 宏(やまぎし ひろし、1908年(明治41年)9月20… 山岸 宏(やまぎし ひろし、1908年(明治41年)9月20日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。最終階級は中尉。妻は皇族賀陽宮家の従姉妹あや子。 新潟県出身(高田市東城町を経て、現上越市東城町)。名士の家に7人キョウダイの次男として生まれ、父の宏隆は日露戦争に出征した陸軍歩兵大尉で、在郷軍人高田分会長や新潟県会議員を2期、副県会議長も歴任した。姉の多嘉子は従軍記者として日中戦争に赴いた後、北支で宣撫教育に携わった。新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)を経て、陸士海士ともに合格、父が山岸家伝来の刀を手に日露戦争に従軍して敵が恐れをなしたことに憧れ、短剣生活を夢に1928年(昭和3年)3月、海軍兵学校(56期)を卒業。
保科 武雄(ほしな たけお、1906年10月12日 - 19… 保科 武雄(ほしな たけお、1906年10月12日 - 1983年10月7日)は、新潟県高田市(現上越市)出身の元クロスカントリースキー選手。旧名は、矢沢 武雄(やざわ たけお)。 旧制新潟県立高田中学校 → 早稲田大学商学部 高田中学時代の1924年、第2回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキー個人4kmで優勝。卒業後は早大に進み、1926年の同大会ではクロスカントリースキー個人10kmと24kmリレーで優勝し、高橋昴・竹節作太らとともに早大の黄金期を作り上げた。1928年サンモリッツオリンピックでは、クロスカントリースキー個人長距離(18km)にエントリーし26位だった。1930年の全日本スキー選手権大会ではクロスカントリースキーのリレーで優勝、同大会では早大に4年ぶりのタイトルをもたらした。
永田 実(ながた みのる、1906年 - 未詳)は、新潟県高… 永田 実(ながた みのる、1906年 - 未詳)は、新潟県高田市(現上越市)出身の元クロスカントリースキー選手。 旧制高田中学校 → 早稲田大学 高田中学時代の1924年、第2回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキーの個人4kmで、中学の後輩の矢沢武雄に次いで2位となる。卒業後早大に進み、1926年の同大会では、クロスカントリースキー個人10kmで5位となるなど、永田・高橋昴・竹節作太らとともに早大の黄金期を作り上げた。 1928年のサンモリッツオリンピックの代表選考では、当初は補欠だったが、代表の一人だった岡村源太郎(北海道大)が1927年10月に急逝したため、急遽永田が代表に選出された。
佐藤 策次(さとう さくじ、1905年〈明治38年〉12月1… 佐藤 策次(さとう さくじ、1905年〈明治38年〉12月1日 - 1997年〈平成9年〉4月15日)は、日本の政治家。新潟県直江津市(現・上越市)長(3期)。 新潟県中頸城郡直江津町(のち直江津市、現・上越市)出身。東京高等師範学校臨時教員養成所卒。1925年(大正14年)北海道立室蘭中学校に赴任した。その後、旧制新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)の教諭と教頭を務める。戦後、新制直江津町立直江津中学校(のち直江津市立直江津中学校、現上越市立直江津中学校)校長となる。1962年(昭和37年)直江津市長に当選。同年7月に就任した。高田市と合併するまで市長を3期務めた。在職中、高田市との合併が起こり、合併の方向で話を進め、1971年(昭和46年)に上越市が発足した。
塚田 十一郎(つかだ じゅういちろう、1904年〈明治37年… 塚田 十一郎(つかだ じゅういちろう、1904年〈明治37年〉2月9日 - 1997年〈平成9年〉5月23日)は、日本の弁護士、税理士、政治家。位階は正三位。 参議院議員(3期)、衆議院議員(8期)、郵政大臣(第5代)、新潟県知事(公選第5・6代)などを歴任。 新潟県中頸城郡春日村(現在の新潟県上越市)出身。農業・塚田亀之助の六男。旧制新潟県立高田中学校(現在の同県立高田高等学校)、大連中学校を経て1928年(昭和3年)、東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業。高等文官試験行政科、司法科に各合格。 昭和金融恐慌後の不況により就職活動は難航、やがて伝をたどって小橋一太(元文部大臣)の居候兼書生となる。
小田 嶽夫(おだ たけお、1900年7月5日 - 1979年… 小田 嶽夫(おだ たけお、1900年7月5日 - 1979年6月2日) は、日本の小説家。本名は、小田武夫。 新潟県高田町字(現・上越市)竪春日町出身。実家は呉服商。呉服商を営む父熊吉と母登美の間に生まれる。高田中学(現新潟県立高田高等学校)時代は短歌と野球に熱中。東京外国語学校(現東京外国語大学)支那語学科を卒業後、外務省亜細亜局入省。当時の局長は芳澤謙吉(後の外務大臣)。外務書記として中国・杭州の領事館などに勤務。 1926年に蔵原伸二郎の紹介で同人誌『葡萄園』に参加。のちに『文藝都市』にも寄稿する。 1930年7月に外務省を退職して文筆で身を立てることを決め、1931年に寺崎浩、田畑修一郎らと同人誌「雄鶏」(後に「麒麟」と改題)を創刊。
倉石 五郎(くらいし ごろう、1899年8月8日 - 197… 倉石 五郎(くらいし ごろう、1899年8月8日 - 1976年5月2日)は、日本のドイツ語学者。成蹊大学名誉教授。中国文学者の倉石武四郎の弟でもある。
小川 勝次(おがわ かつじ、1899年(明治32年))4月1… 小川 勝次(おがわ かつじ、1899年(明治32年))4月16日 - 1988年(昭和63年)9月7日)は、新潟県高田市(現・上越市)出身のスキー選手・指導者。第3代全日本スキー連盟会長。 1911年、郷里でレルヒ少佐の講習会を見学して以来、スキーに親しむようになる。旧制高田中学校を経て、1923年早稲田大学商学部卒。中学・大学を通じクロスカントリースキーの選手として活躍し、1923年の第1回全日本スキー選手権大会にも出場している。大学卒業後、安田銀行(現・みずほ銀行)に入行し、1937年まで勤務。この間、1923年に大日本体育協会のスキー部員となり、さらに1925年に全日本スキー連盟が設立されると常務委員となる。
坂口 謹一郎(さかぐち きんいちろう、1897年(明治30年… 坂口 謹一郎(さかぐち きんいちろう、1897年(明治30年)11月17日 - 1994年(平成6年)12月9日)は、日本の農芸化学者。発酵、醸造に関する研究では世界的権威の一人で、「酒の博士」として知られた。東京大学応用微生物研究所初代所長および同大学名誉教授、理化学研究所副理事長。日本学士院会員。愛称は「坂謹(さかきん)」。 新潟県高田(現・上越市)出身。正利の長男 。新潟県立高田中学校を中退し上京、神田の順天中学校に編入。同期には中村震太郎もいたが、とくに学友との交流もなかった。同校卒業後、第一高等学校理科に首席で入学。1919年、同校卒業、1922年、東京帝国大学農学部卒業。同助手、講師、助教授を経て、1939年、教授。
倉石 武四郎(くらいし たけしろう、1897年〈明治30年〉… 倉石 武四郎(くらいし たけしろう、1897年〈明治30年〉9月21日 - 1975年〈昭和50年〉11月14日)は、日本の中国語学者、中国文学者。文学博士。東京大学名誉教授、京都大学名誉教授。 1897年、新潟県高田町(現・上越市)に、十三人兄弟の四男として生まれる。倉石家は地元の名家で、一族には漢学者の高田藩校教授の倉石侗窩がいる。 高田第二尋常小学校(現上越市立東本町小学校)、新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)、第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学文学部支那文学科卒。一高時代は三木清や瀧川政次郎とともに岩元禎らの下で学び、東大では塩谷温・服部宇之吉・岡田正之らの下で学ぶ。卒業論文では中国天文学(英語版)を扱う。
藤縄 清治(ふじなわ せいじ、1893年3月12日 - 19… 藤縄 清治(ふじなわ せいじ、1893年3月12日 - 1967年4月22日)は、明治から昭和にかけての政治家。 1893年3月12日、新潟県中頸城郡潟町村大字土底浜(現・上越市大潟区土底浜)に、酒造家の藤縄正朔、妻ミカの次男として生まれる。女6人男3人の9人兄弟である。姉には、女子裁縫学校を創設し初代校長となった藤縄ヒサ、改称し、高田実科女学校(共に学校法人古川学園上越高等学校)二代校長となった古川フジなどがいる。藤縄家は代々土底浜の漁師であったが、正朔の代から酒造業を始めた。正朔は、晩酌のかたわらに藤縄たちを呼び、「人間、生を受けたからには、自ら働き、自らの手で業を興せ。決して人に頼ってはならない。
川上 大造(かわかみ だいぞう、1892年(明治25年)9月… 川上 大造(かわかみ だいぞう、1892年(明治25年)9月6日 - 1950年(昭和25年)10月2日)は、日本の政治家。新潟県高田市(現・上越市)長。 旧高田藩士の家に生まれる。旧制高田中学校から第四高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学政治科卒。さらに1921年(大正10年)東京帝国大学法律科を卒業した。卒業後は帰郷し、高田市で弁護士事務所を開業した。1924年(大正13年)高田市学務委員に任じられ、同年暮れに高田市会議員に当選した。1931年(昭和6年)には新潟県会議員に当選し、1939年(昭和14年)には市会議長に就任した。 1945年(昭和20年)高田市長中川潤治が召集され、市長が空席となったため、市会は市会議長の川上を推薦し、5月30日に正式に就任した。
笹井 幸一郎(ささい こういちろう、1885年(明治18年)… 笹井 幸一郎(ささい こういちろう、1885年(明治18年)10月28日 - 1938年(昭和13年)10月15日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、長崎市長。 新潟県中頸城郡斐太村(現在の新潟県妙高市)出身。笹井喜三郎の長男として生まれた。高田中学校を経て第四高等学校を卒業。1910年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年、内務省に入省し岐阜県属となる。 以後、岐阜県警視、熊本県玉名郡長、山口県理事官、和歌山県理事官、佐賀県警察部長、警視庁保安部長、復興局経理部長などを歴任。警視庁保安部長時代に関東大震災を経験した。1927年から約1年間、欧米を外遊し、帰国後は復興局史編纂事務の嘱託するなど、公職から外れていた。
江坂 徳蔵(えさか とくぞう、1885年〈明治18年〉10月… 江坂 徳蔵(えさか とくぞう、1885年〈明治18年〉10月4日 - 1964年〈昭和39年〉8月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関少将。新潟県高田市長。 新潟県中頸城郡高田町(のち高田市、現・上越市)生まれ。旧制高田中学(現・新潟県立高田高等学校)卒業後、海軍機関学校に入り、1911年(明治44年)卒業する(16期)。戦艦「山城」機関長などを歴任し、1927年(昭和2年)、海軍機関大佐に進級、第3戦隊、練習艦隊、第2艦隊、連合艦隊の各機関長を務め、1933年(昭和8年)海軍機関少将に進級、燃料廠平壌鉱業部長に就任し、1936年(昭和11年)3月、予備役となった。同年7月4日、郷里の高田市長に就任した。
相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月1… 相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月10日 - 1950年(昭和25年)5月8日)は、明治期から昭和期にかけての日本の文学者、詩人、歌人、評論家。本名は昌治(しょうじ)。新潟県西頸城郡糸魚川町(現糸魚川市)出身。早稲田大学大学部文学科英文学科卒業。詩歌や評論のほか、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や、「春よ来い」などの童謡の作詞者としても知られる。 1883年、新潟県西頸城郡糸魚川町大町(現糸魚川市)に生まれる。相馬徳治郎の長男。高田中学(現新潟県立高田高等学校)を経て早稲田大学に進む。中学以来の学友に小川未明がいる。在学中の1903年に岩野泡鳴らと雑誌「白百合」を創刊した。
長沼 賢海(ながぬま けんかい、1883年(明治16年)3月… 長沼 賢海(ながぬま けんかい、1883年(明治16年)3月26日 - 1980年(昭和55年)7月14日)は、日本史学者。九州大学名誉教授。 1883年、新潟県高田(現上越市)浄興寺山内の正光寺に生まれた。長沼賢明の長男。旧制新潟県立高田中学、旧制第四高等学校を経て、1907年、東京帝国大学文科大学国史学科を卒業。 1912年、東京府立第一中学校教諭となった。東京府立第一中学校教諭時代の教え子に、小林秀雄、河上徹太郎がいる。1920年、広島高等師範学校教授に転じた。1924年、史学研究のため欧州留学を命じられ、英・仏・独・蘭・印・伊などに滞在・留学した。1925年、九州帝国大学法文学部国史学科の初代教授に就任。
小川 未明(おがわ みめい、1882年〈明治15年〉4月7日… 小川 未明(おがわ みめい、1882年〈明治15年〉4月7日 - 1961年〈昭和36年〉5月11日)は、小説家・児童文学作家。本名は小川 健作(おがわ けんさく)。「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれ、浜田広介と坪田譲治と並んで「児童文学界の三種の神器」と評された。娘の岡上鈴江も児童文学者。 「未明」という雅号は小川の師である坪内逍遥が付けたもので、正しくは「びめい」と読む。 新潟県高田五分一町(現:上越市幸町)に生まれる。父、澄晴はかつては修験者であった。上杉謙信の熱烈な崇拝者でもあった澄晴は、春日山神社を創建するため奔走した。未明自身15歳頃から20歳頃まで春日山神社境内の住居に住んでいた。
金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 196… 金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 1962年1月3日)は、日本の英文学者、翻訳者。 1880年(明治13年)、新潟県中頸城郡新井町に生まれる。高田中学校から東京の郁文館中学校、第四高等学校を経て1905年に東京帝国大学英文科を卒業した。 帝大在学中、一年の前半は小泉八雲、八雲退任後の三年間は夏目漱石の講義に出席して、その様子を詳しく日記に記している。日記の内容は著書『人間漱石』(いちろ社、1948。増補版は協同出版、1956)や、孫の金子三郎が編纂した『川渡り餅やい餅やい――金子健二日記抄』(上中下巻、私家版、1998)、『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』(リーブ企画、2002)等に紹介されており、漱石研究者にとって非常に貴重な資料となっている。
長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11… 長谷川 天渓(はせがわ てんけい、1876年〈明治9年〉11月26日 - 1940年〈昭和15年〉8月30日)は、20世紀初期に活躍した日本の文芸評論家である。本名は長谷川誠也。 新潟県刈羽郡高浜町出身、柏崎に育つ。高田中学入学後上京し、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、坪内逍遥や大西祝に学ぶ。卒業後は博文館に勤務し、雑誌『太陽』の編集にたずさわる。「小説家と時代精神」を発表し、評論活動にはいる。『太陽』1906年10月に「幻滅時代の芸術」を発表した。その後、『太陽』1908年1月の「現実暴露の悲哀」にいたるまで、自然主義文学を擁護する立場から論陣をはる。 1910年、社命により渡欧してからは評論活動よりも出版者としての活動が主となり、博文館の取締役もつとめた。
合田 平(ごうだ ひとし、1876年〈明治9年〉7月 - 1… 合田 平(ごうだ ひとし、1876年〈明治9年〉7月 - 1934年〈昭和9年〉10月24日 )は、大正・昭和期の医師(軍医)。大日本帝国陸軍軍医総監。 新潟県中頸城郡高田町(現・上越市)出身。代々高田藩医を務める合田家六代当主、合田義宜の長男として1876年に生まれる。旧制新潟県立高田中学校、旧制第一高等学校、を経て、1902年3月東京帝国大学医科大学を卒業。陸軍二等軍医に任官する。[要出典] 東京衞戍病院勤務後に、東京帝国大学医学部大学院で学んだ。 近衛師団軍医部長、陸軍省医務局衛生課長、東京第一衞戍病院長を歴任した後、1925年に陸軍軍医監、1928年に陸軍軍医学校長、同年に陸軍省医務局長、1931年に陸軍軍医総監となる。
芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月2… 芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月24日 - 1965年〈昭和40年〉1月5日)は、日本の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。新潟県中頸城郡下堀之内村(現:上越市諏訪)出身。犬養毅の娘婿。 大日本帝国きっての亜細亜通の外交官として知られ、日ソ基本条約締結による日ソ国交回復等に関わる。義父は犬養毅であり、犬養内閣においては外務大臣を務めた。第二次世界大戦終結後に公職追放を受けるが、解除後は1952年から3年間駐中華民国大使を務め、辞任後も自由アジア擁護連盟代表、自由アジア協会長として台湾擁護に奔走した。 1925年1月20日の北京での日ソ基本条約締結時、その5日前にスケートで腰の骨を折った為、ベッドの上で調印した。
中村 進午(なかむら しんご、明治3年7月21日(1870年… 中村 進午(なかむら しんご、明治3年7月21日(1870年8月17日) - 昭和14年(1939年)10月21日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(1901年)。東京商科大学名誉教授。「七博士意見書」により日露戦争開戦を主張した学者の一人。 1870年、越後国高田(のちの新潟県高田市、現上越市)において、旧高田藩士・中村九朗の三男として生まれた。高田中学校を卒業し、第一高等中学校に入学。1891年に第一高等中学校を卒業して東京帝国大学に入学。1894年、東京帝国大学法科大学を首席で卒業。卒業後は同大学院に進んだ。 大学では、初め末岡精一に師事して国法学を研究したが、実兄である国際法学者前田盛江が夭逝すると、ドイツ・イギリス・フランス各国に留学して、国際法、外交史等の研究に転じた。
関野 貞(せきの ただし、1868年1月9日(慶応3年12月… 関野 貞(せきの ただし、1868年1月9日(慶応3年12月15日)- 1935年(昭和10年)7月29日)は、日本の建築史学者、建築家・美術史・考古学者。東京帝国大学名誉教授。 高田藩士関野峻節とヤエの次男として生まれた。旧制一高を経て、1895年に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業。卒業論文は平等院の研究であった。辰野金吾の指揮下に日本銀行の工事に参加する。古社寺保存法が立案された1896年に伊東忠太の勧めで内務省技師、奈良県技師となり、奈良の古建築を調査し、建築年代を判定していった。 1889年に平城宮址を発見した。1922年、国の史跡(のちに特別史跡・特別名勝)に指定された。
長野 宇平治(ながの うへいじ、慶応3年9月1日(1867年… 長野 宇平治(ながの うへいじ、慶応3年9月1日(1867年9月28日) - 昭和12年(1937年)12月14日)は、日本の建築家。日本建築士会初代会長。辰野金吾の弟子として知られ、数々の銀行建築を残した。越後国高田(現:新潟県上越市)生まれ。 初期には和洋折衷意匠の奈良県庁舎等を設計し評価を得た。明治30年(1897年)日本銀行技師となり、辰野金吾工事顧問の指導下で、大阪・京都・小樽各支店等の明治期支店建築9件の設計監理に従事した。明治42年(1909年)日本初のコンペとなる台湾総督府庁舎設計競技に当選した後、大正元年日銀を辞し台湾総督府嘱託を一時務めるとともに、大正2年(1913年)自営の設計事務所を開設し、日銀岡山支店や大倉精神文化研究所等の古典主義様式の建築を設計した。
保阪 潤治 は、明治時代から昭和時代にかけての地主、実業家、… 保阪 潤治 は、明治時代から昭和時代にかけての地主、実業家、政治家。族籍は新潟県平民、本籍は同県中頸城郡津有村、職業は農業。
松村 雅史(まつむら まさふみ)は大阪電気通信大学医療福祉工… 松村 雅史(まつむら まさふみ)は大阪電気通信大学医療福祉工学部教授で医用生体工学分野の研究者である。
パーティ内山(パーティうちやま、1月2日(年齢非公開) - … パーティ内山(パーティうちやま、1月2日(年齢非公開) - )は、かつてグレープカンパニーで活動していた日本のお笑いタレント。本名、内山 義英(うちやま よしひで)。新潟県上越市出身。新潟県立高田高等学校卒業。法政大学卒業。
岩佐理(いわさ おさむ)は、日本の財務官僚。財務省大臣官房文… 岩佐理(いわさ おさむ)は、日本の財務官僚。財務省大臣官房文書課長。 新潟県上越市出身。新潟県立高田高等学校、東京大学法学部卒業。1994年 大蔵省入省(主計局総務課)。国家予算の編成に関わり、深夜、早朝まで各種資料の作成や文献調査等をこなしていた。1996年6月 米国留学。1998年7月 文部省教育助成局教職員課企画係長。 2000年7月 関税局調査保全課長補佐(総括)。2001年1月6日 財務省関税局調査保全課長補佐(総括)。総括課長補佐として、課長など、幹部の最終判断をするため、課に関係する全ての案件を把握し、課を代表して関係各局課間との調整を担当するとともに20数名の課員を統率する立場にいた。
水澤 英洋(みずさわ ひでひろ)は、日本の医師、医学者。東京… 水澤 英洋(みずさわ ひでひろ)は、日本の医師、医学者。東京医科歯科大学名誉教授。国立精神・神経医療研究センター(NCNP病院脳神経内科 併任) 理事長特任補佐。専門は神経病理学、神経内科学など。 日本神経感染症学会 第3代理事長、日本神経学会 第7代 代表理事なども務めた。 新潟県立高田高等学校を経て、1976年、東京大学医学部医学科を卒業。同年、東京大学医学部附属病院内科系研修医となる。1984年、筑波大学臨床医学系神経内科の講師。1990年、同助教授。1986年、アメリカ合衆国のアルベルト・アインシュタイン医学校モンテフィオーリ病院に留学。1996年、東京医科歯科大学医学部神経内科(後の東京医科歯科大大学院医歯学総合研究科 脳神経病態学) 教授。