スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
小川 正太郎(おがわ しょうたろう、1910年4月1日 - … 小川 正太郎(おがわ しょうたろう、1910年4月1日 - 1980年10月27日)は、大正末期から昭和初期にかけて活躍した日本の野球選手、新聞記者。当時史上屈指の好投手として、またアマチュア球界の要職を務め、日本の野球人気の高揚に貢献した。 大会初の連続優勝など当時中学球界随一の強豪であった和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)在学中の5年間で8度甲子園の全国大会に出場した。快速球と「2階から落ちるような」と喩えられたカーブを武器に1926年(大正15年)夏第12回全国中等学校優勝野球大会の準決勝で8連続奪三振を記録。正太郎が達成した この記録は桐光学園・松井裕樹が更新するまで86年間破られなかった。
西田 修平(にしだ しゅうへい、1910年(明治43年)3月… 西田 修平(にしだ しゅうへい、1910年(明治43年)3月21日 - 1997年(平成9年)4月13日)は、日本の元陸上競技選手。和歌山県東牟婁郡那智村(現・那智勝浦町)出身。1936年ベルリンオリンピック銀メダリスト。早稲田大学理工学部卒業。 弁護士・西田郁平と楠枝の長男として生まれる。旧制和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を卒業後、織田幹雄に感化されて第一早稲田高等学院に進学。棒高跳のエキスパートとして知られ、大学在学中に1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。銀メダルを得た。早稲田大学理工学部機械工学科を卒業後、日立製作所に入社。1936年ベルリンオリンピックでは大江季雄と2・3位を分け合い、帰国後にお互いのメダルを切断して「友情のメダル」を作成したことはつとに有名。
根来 健一郎(ねごろ けんいちろう、1910年(明治43年)… 根来 健一郎(ねごろ けんいちろう、1910年(明治43年)2月5日 - 2001年(平成13年)7月17日)は、昭和から平成時代の陸水学者、藻類学者。特に珪藻学の分野における貢献で知られる。 和歌山県那賀郡池田村(現・紀の川市打田)の豪農の長男として生まれる。和歌山県立和歌山中学(現・ 和歌山県立桐蔭高等学校)、東京高等師範学校理科三部を経て、東京文理科大学生物学科植物学専攻に入学する。1934年(昭和9年)同大学を卒業と同時に母校の助手となり、1944年(昭和19年)東京高等師範学校教授、1946年(昭和21年)東京文理科大学助教授となる。その後、1948年(昭和23年)11月に大津臨湖実験所(現・京都大学生態学研究センター)に異動する。
五十嵐 醇三(いがらし じゅんぞう、1909年 - 1973… 五十嵐 醇三(いがらし じゅんぞう、1909年 - 1973年)は、日本の技術者、都市計画家。土地評価の基準となっている区画整理の根幹である土地評価の定型化を図るため、路線評価方式を考案した。 1909年、和歌山県和歌山市に生まれる。旧制和歌山県立和歌山中学校、旧制大阪高等学校を経て、1932年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。同年東京府に入った後、1934年に内務省に移り都市計画課に勤務。1941年に内務省国土局計画課に勤務する。荒川上流改修事務所戸田工場主任として戸田ボートコース新設に従事。その後北支建設給署で都市局技術と計画の各課長をつとめる。 1946年、戦災復興院に移籍し土地局工務課勤務。
柳瀬 良幹(やなせ よしもと、1905年(明治38年)11月… 柳瀬 良幹(やなせ よしもと、1905年(明治38年)11月17日 - 1985年(昭和60年)2月18日)は、日本の行政法学者。学位は、法学博士(1952年)。日本学士院会員。東北大学名誉教授。行政法学から憲法の諸問題を研究する。その理詰めの論述は、ハンス・ケルゼンに通ずる。和歌山県生まれ。美濃部達吉門下。 参考文献:藤田宙靖『行政法学の思考形式〔増補版〕』(木鐸社・2002年)
平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月… 平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月5日 - 1997年(平成9年)9月11日)は、日本の俳人、精神科医。和歌山県出身。 本名は富次郎。海草郡和歌浦町(現・和歌山市)に生まれる。父は銀行員で静塔は三男。和歌山県立和歌山中学校、第三高等学校を経て、1931年に京都帝国大学医学部を卒業。大学時代は精神医学を専攻した。1932年結婚。1937年兵庫県立精神病院に赴任。1944年応召し南京陸軍病院に勤務。1946年京都帝大医学博士。戦後は大阪女子医学専門学校(現関西医科大学)教授、阪本病院(布施市 現・東大阪市)院長、京阪病院院長(守口市)、を歴任。1961年に宇都宮市に移り、宇都宮病院の顧問となった。
井口 新次郎(いぐち しんじろう、1904年6月7日 - 1… 井口 新次郎(いぐち しんじろう、1904年6月7日 - 1985年9月24日)は、和歌山県出身の野球選手。
山東 茂一郎(さんどう もいちろう、1904年 - 1985… 山東 茂一郎(さんどう もいちろう、1904年 - 1985年)は、日本の商学者。和歌山大学教授、甲南大学教授を歴任した。甲南大学名誉教授。専門はマーケティング論、販売政策。 日本の高度経済成長期において、販売政策やブランド論(有標品)の研究で先駆的な業績を残した。日本商業学会賞を2度受賞している。 1904年(明治37年)、大阪府大阪市に生まれ、その後和歌山県和歌山市で育つ。実家は和歌山市内で文房具商を営む家であった。父は商売人としての矜持を持ち、家業が繁盛していたため、長男である茂一郎に家業を継ぐことを望んでいた。一方で、士族出身の母は商売よりも学問や精神性を重んじる気風を持っていた。 小学校卒業時、成績優秀であったが、父は「商売を継ぐのに学問はいらない」として、進学予備校的な役割も果たしていた旧制和歌山中学校(現・桐蔭高校)への進学を認めなかった。
筒井 竹雄(つつい たけお、1902年〈明治35年〉5月20… 筒井 竹雄(つつい たけお、1902年〈明治35年〉5月20日 - 1968年〈昭和43年〉9月15日)は、日本の朝鮮総督府官僚、陸上自衛官。初代陸上幕僚長。 和歌山県出身。筒井熊吉の長男として生まれる。和歌山中学、第五高等学校を経て、東京帝国大学に入学。1925年(大正14年)11月、高等試験行政科試験に合格。1927年(昭和2年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 1927年(昭和2年)4月、拓務省に入省し、朝鮮総督府属となり内務局に配属。以後、専売局属、咸鏡南道地方課長、京畿道学務課長、咸鏡北道警察部長、警務局図書課長、内務局地方課長などを歴任し、終戦時は黄海道知事であった。たまたま京城に出張中であったが、総督府からソ連軍の情報を得て急遽、任地に戻った。
城 夏子(じょう なつこ、1902年5月5日 - 1995年… 城 夏子(じょう なつこ、1902年5月5日 - 1995年1月13日)は、日本の作家。 和歌山県西牟婁郡周参見町(現・すさみ町)出身。本名・福島静。和歌山県立和歌山高等女学校(現・和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)卒。在学中から少女小説を書き、1924年『薔薇の小径』を刊行。『女人藝術』『婦人戦線』などに小説を発表。戦後は少女小説や童話を書く。
久保田 貫一郎 (くぼた かんいちろう、1902年(明治35… 久保田 貫一郎 (くぼた かんいちろう、1902年(明治35年)3月2日 - 1977年(昭和52年)7月14日)は、日本の外交官。外務省参与やカンボジア国最高顧問、駐南ベトナム大使を務めた。 和歌山県出身。進路に海軍兵学校か外交官か悩んだ末に外交官を志し、1924年に東京商科大学(一橋大学の前身)に入学。同校を中退し、外務省入省。 1953年(昭和28年)に日韓会談で日本側首席代表を務めた。その後、在メキシコ特命全権大使を務め、1957年(昭和32年)の帰任時には、メキシコ国内の事情を昭和天皇に進講した。さらに在南ベトナム特命全権大使等を務めた。 妻清子は石井菊次郎(元外務大臣)の子。 日韓基本条約に向けての日韓会談で、韓国併合が結果的にインフラ投資等で韓国の生活水準向上に貢献したと発言し、韓国から「久保田妄言」として反発された。
西浦 進(にしうら すすむ、1901年(明治34年)12月4… 西浦 進(にしうら すすむ、1901年(明治34年)12月4日 - 1970年(昭和45年)11月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大佐。 陸軍士官学校34期(秩父宮を除き3番、恩賜)、陸軍大学校42期(首席)。陸軍士官学校同期の服部卓四郎および堀場一雄と並び「34期三羽烏」と称された。主に陸軍省軍務局に属して軍政に従事、太平洋戦争開戦前後には東條英機首相兼陸軍大臣の大臣秘書官を務めた。戦後は太平洋戦争史の調査研究に注力し、防衛庁防衛研修所戦史室の初代室長として『戦史叢書』の編纂を進めた。 1901年(明治34年)に東京で、陸軍歩兵中尉西浦栄蔵の子として生まれる。旧制和歌山県立和歌山中学校から、1915年(大正4年)に大阪陸軍地方幼年学校へ進む。
ヘンリー・ユズル・スギモト(Henry Yuzuru Sug… ヘンリー・ユズル・スギモト(Henry Yuzuru Sugimoto 日本名:杉本謙、1900年3月12日 – 1990年5月8日)は日本出身の画家、絵画教師及び第二次世界大戦における日系人の強制収容の経験者である。1952年にアメリカの市民権を取得した。 和歌山県海草郡湊村(現・和歌山県和歌山市湊)に生まれる。スギモトの父親はスギモトが生まれてすぐに渡米し、母親も9年後に渡米したため、スギモトとその弟は母方の祖父母に養育された。母方の祖父は武家の出であり、絵画を多数所有しており、スギモトは幼いころからそれを模写し絵画に親しんでいた。 1919年、スギモトは和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)4年生修了後、ヘンリーに改名し、カリフォルニア州ハンフォードで両親とともに暮らすこととなった。
井口 貞夫(いぐち さだお、1899年10月18日 - 19… 井口 貞夫(いぐち さだお、1899年10月18日 - 1980年5月27日)は、日本の外交官。外務事務次官や在アメリカ合衆国特命全権大使を務めた。1969年勲一等瑞宝章。1980年正三位。 和歌山県生まれ。旧制徳義中学校、旧制和歌山中学校(のち和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)入学。 1921年に高等試験外交科試験合格し、1922年大学を中退し外務省入省。入省同期や前後期に田尻愛義、安東義良、西村熊雄らがいる。オックスフォード大学留学等を経て、1940年在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官、1941年同大使館参事官、1942年太平洋戦争開戦に伴い交換船で帰国。 情報局情報官を経て、1943年情報局第三部長。
山名 文夫(やまな あやお、1897年7月17日 - 198… 山名 文夫(やまな あやお、1897年7月17日 - 1980年1月14日)は、日本のイラストレーター、グラフィックデザイナーである。日本のグラフィックデザインの黎明期における先駆者の一人で、大正期から昭和初期にかけてのモダンなアール・デコスタイルで知られ、資生堂の現在にもつづくキーデザイン、紀ノ国屋のロゴ、新潮文庫の葡萄マークのデザインで知られる。 1897年(明治30年)7月17日、広島県広島市に生まれる。 少年期から竹久夢二や北野恒富、オーブリー・ビアズリーに憧れ、模写に没頭する。旧制・和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)後、1916年(大正5年)、大阪へ出て、赤松麟作が主宰する「赤松麟作洋画研究所」第2期生となり、絵画を学ぶ。
森川 仙太(もりかわ せんた、1895年(明治28年)10月… 森川 仙太(もりかわ せんた、1895年(明治28年)10月16日 - 1981年(昭和56年)12月27日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、和歌山県有田市長。位階は従五位。 和歌山県有田郡宮崎村(箕島町、有田町を経て現有田市新堂)で、森川仙太郎の二男として生まれる。1914年(大正3年)和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)を卒業した。 柿本銀行に入行。簑島信用組合理事、日本除虫菊輸出組合理事、和歌山県除虫菊製品工業組合専務理事、帝国除虫菊取締役社長、北海道除虫菊工業取締役社長、紀ノ川製粉取締役社長、キング除虫菊取締役社長、北王製油取締役社長などを務めた。 1918年(大正7年)紀勢西線鉄道敷設期成同盟会幹事長に就任。
島本 久五郎(しまもと きゅうごろう、1895年(明治28年… 島本 久五郎(しまもと きゅうごろう、1895年(明治28年)4月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍少将。 和歌山県出身。島本熊太郎の三男として生れる。和歌山中学校を経て、1916年11月、海軍兵学校(44期)を95名中6番の席次で卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍潜水学校普通科を卒業し、「第28潜水艦」(呂号第五十四潜水艦)に乗り組む。海軍水雷学校高等科で学び、アメリカ駐在、「呂号第五十三潜水艦」艦長、第7潜水戦隊参謀、「呂号第二十七潜水艦」艦長などを経て、1930年11月、海軍大学校(甲種28期)を卒業。 「伊号第六十潜水艦」艦長、第1潜水戦隊参謀、軍令部員(第3部第5課)、練習艦隊参謀、第2艦隊参謀、海大教官、支那方面艦隊先任参謀を歴任した。
榎本 隆一郎(えのもと りゅういちろう、1894年2月8日 … 榎本 隆一郎(えのもと りゅういちろう、1894年2月8日 - 1987年2月7日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中将。 和歌山県出身。農業・榎本熊太郎の長男として生まれる。和歌山中学校を経て、1915年12月、海軍機関学校(24期)を卒業し、翌年12月、海軍機関少尉任官。1920年12月、海軍大学校選科学生となり、翌年9月、九州帝国大学工学部に入学、応用地質学を学び1924年3月に卒業した。 徳山燃料廠製油部員、機関学校教官、欧米出張、海軍省軍需局員、欧米出張、徳山燃料廠付、燃料廠研究部員、北支特務部員(北京)、商工省燃料局人造石油課長、昭南在勤武官などを経て、1942年11月、海軍少将に進級した。
橋本 象造(はしもと しょうぞう、1894年〈明治27年〉1… 橋本 象造(はしもと しょうぞう、1894年〈明治27年〉1月31日 - 1973年〈昭和48年〉8月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 和歌山県和歌山市出身。和歌山県立和歌山中学校より海軍兵学校第43期へ進んだ。水雷畑を歩み、海軍大学校(甲種25期)卒業後は、海軍省、軍令部の課長を務めるなど、海軍中央の要職を歴任した。軍令部第2部第4課長在任中に、日独伊三國間同盟条約締結問題で、第3課長柳本柳作と共に強硬な反対意見を表明したため、右翼から名指しで狙われている。その後総力戦研究に没頭した。 太平洋戦争末期に、天号作戦により沖縄に突入する戦艦大和以下の第二艦隊の燃料が問題になった。この時、連合艦隊参謀小林儀作大佐の要請を受け、呉鎮守府軍需部が管理していた帳簿外の燃料を提供することを承認したのが、呉鎮守府参謀長兼補給長であった橋本である。
林 義秀(はやし よしひで、1891年8月25日 - 197… 林 義秀(はやし よしひで、1891年8月25日 - 1978年2月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 和歌山県出身。林多十郎の二男として生まれる。和歌山中学校を経て、1914年5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉任官。歩兵第23連隊付となる。1923年11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 歩兵第23連隊中隊長、参謀本部付勤務、支那駐屯軍司令部付、参謀本部員、参謀本部付(チチハル駐在)、近衛歩兵第3連隊大隊長、関東軍司令部付(チチハル駐在)、兼黒竜江省警備軍顧問、近衛歩兵第3連隊付、支那駐屯軍司令部付(調査班長)、支那駐屯軍参謀、台湾軍参謀、対馬要塞参謀、高雄要塞司令官などを経て、台湾歩兵第1連隊長の際に日中戦争に従軍。
古畑 種基(ふるはた たねもと、1891年(明治24年)6月… 古畑 種基(ふるはた たねもと、1891年(明治24年)6月15日 - 1975年(昭和50年)5月6日)は、日本の法医学者。医学博士。日本学士院会員。東京大学名誉教授。位階は正三位。科学警察研究所所長を務め、科学捜査の研究に寄与。日本の法医学の草分けの一人である。ABO式血液型の研究に若干の功績を残した。その一方でその鑑定方法は権威主義的であり、冤罪事件を多数作り出した御用学者と見なす向きもある。 三重県南牟婁郡相野谷村(現紀宝町)出身。古畑虎之助の次男。和歌山中学校、第三高等学校を経て1912年、東京帝国大学(医科)に入学。1916年、同大学を卒業し同大学助手となり1921年、欧米各国に留学した。
稲垣 生起(いながき あやお、1890年〈明治23年〉2月2… 稲垣 生起(いながき あやお、1890年〈明治23年〉2月20日 - 1942年〈昭和17年〉9月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 和歌山県和歌山市出身。旧制和歌山県立和歌山中学校より海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中第89位、卒業時成績順位は149名中第53位。 人物評価に対して中島親孝同様、辛辣な点数を付与する高木惣吉は、稲垣を自著『自伝的日本海軍始末記』に於いて「誠に重点をつかんで統御にすぐれた人」と称し絶賛していた。
木下 敏(きのした はやし、1886年(明治19年)11月5… 木下 敏(きのした はやし、1886年(明治19年)11月5日 - 1969年(昭和44年)10月26日)は、日本陸軍の軍人。陸士20期、陸大29期(優等)。栄典は従三位勲一等。最終階級は陸軍中将。 旧和歌山藩士・木下文次郎の長男として生まれる。和歌山中学、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校(20期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊附となる。1917年(大正6年)11月、陸軍大学校(29期)を優等で卒業した。 1918年(大正7年)7月、陸士附となり、陸士教官、フランス駐在、陸軍歩兵学校教官を歴任。1923年(大正12年)8月、歩兵少佐に昇進。
玉置 吉之丞(たまき きちのじょう、1886年8月11日 -… 玉置 吉之丞(たまき きちのじょう、1886年8月11日 - 1961年4月7日)は、日本の政治家、実業家。玉置綿布社長。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 1886年8月11日、和歌山県名草郡内海村(内海町を経て現海南市)で吉田万右衛門の三男として生まれる。和歌山中学校修業。1902年に渡米し、1909年まで南カリフォルニア大学で政治経済学を学んだ。 帰国後、玉置きくのの養子となり、玉置綿布工業社を創立し、事業を拡大して1919年には株式会社組織に改組して社長となる。和歌山県織物同業組合長、和歌山県織物工業組合理事長、日本綿織物工業組合連合会理事を務めて業界の発展に貢献する傍ら、南海瓦斯興業株式会社監査役、内海紡績株式会社常務取締役、玉置綿布染工株式会社社長、昭南工業株式会社社長を兼ねて地元の実業界にも貢献した。
平田 健吉(ひらた けんきち、1885年(明治18年)3月1… 平田 健吉(ひらた けんきち、1885年(明治18年)3月16日 - 1975年(昭和50年)11月9日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。 和歌山県出身。平田健司の四男として生れる。和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)卒を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍砲兵少尉に任官し野砲兵第4連隊付となる。1911年(明治44年)11月、陸軍砲工学校高等科(第17期)を卒業。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 1917年(大正6年)8月、砲兵大尉に昇進し野砲兵第4連隊中隊長に就任。以後、陸士教官、舞鶴要塞参謀、第1師団参謀、陸軍野戦砲兵学校教官、野砲兵第1連隊大隊長、同連隊付、東京湾要塞参謀、第1師団参謀などを務め、1931年(昭和6年)8月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第20連隊長に就任した。
須川 政太郎(すがわ せいたろう、1884年(明治17年)1… 須川 政太郎(すがわ せいたろう、1884年(明治17年)12月13日 - 1955年(昭和30年)7月28日)は明治から大正期の作曲家。 和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)谷王子出身。和歌山中学卒業の後、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)甲種師範科入学。途中2年間休学して、東京市茅場小学校で代用教員を務めたのち、復学し、明治44年に卒業した。翌年、竹久夢二作詞の『宵待草』のモデルとなった長谷川カタ(賢)と結婚し、東京市十思小学校で訓導をつとめた。 音楽教諭として、鹿児島師範学校、旧制鹿児島一中、京都師範学校、同女子師範、桃山高女、滋賀女子師範、大津高女 彦根高等女学校に赴任。戦中は一時、中島飛行機半田製作所に勤務し、戦後、半田高等女学校(のち半田高校)で音楽を教えた。
寺島 健(てらしま けん、1882年(明治15年)9月23日… 寺島 健(てらしま けん、1882年(明治15年)9月23日 - 1972年(昭和47年)10月30日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍中将で予備役となったのち、東條内閣で逓信大臣、鉄道大臣を務めた。 戦国時代は武田信虎に仕え、江戸時代中期以降、紀州徳川家御付家老安藤家家中であった。父寺島良業は和歌山県庁に勤務し、寺島はその四男である。妻は尾本知道の四女悦子 。 和歌山中学に進んだ寺島は、中学の先輩で海軍兵学校に在籍していた岡本米次郎、野村吉三郎の生徒服姿に憧れ、海軍兵学校への進学を決めた。志願者1374名中合格者は200名で、中学四年修了で受験した寺島の席次は16番であった。寺島は学年が進むとともに席次を上げ、卒業席次は4番である。
野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年(明治10年)… 野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年(明治10年)12月16日 - 1964年(昭和39年)5月8日)は、昭和初期に活躍した海軍軍人、外交官、政治家。海兵26期次席。位階勲功等は海軍大将従二位勲一等功二級。 和歌山県和歌山市出身。国際法の権威として知られ、阿部内閣で外務大臣を勤めた後、第二次近衛内閣成立後に駐米大使に任じられ、真珠湾攻撃の日まで日米交渉に奔走し戦争回避を模索した。 旧紀州藩士・増田喜三郎の三男として和歌山県名草郡(現:和歌山市西釘貫丁)で生まれ、野村正胤の養子となる。1895年(明治28年)、和歌山中学校(現・県立桐蔭高校)を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった私立海軍予備校(現在の海城中学校・高等学校)で学び、海軍兵学校(26期、1898年(明治31年))卒業(次席)。
島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう、1877年(明治10年… 島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう、1877年(明治10年)3月12日 - 1937年(昭和12年)4月27日)は、日本の医師、内科学者、医学博士。和歌山県、現在の和歌山市出身。脚気がビタミン欠乏症であることを発見した。 1877年3月12日、和歌山県、現在の和歌山市(当時は市制施行以前)に須藤暢の次男として生まれた。父を幼少期に亡くし、母と13歳上の兄の丑彦に育てられた。和歌山中学校在学中に才覚を見込まれ、医師の島薗家の娘婿として養子となる。卒業後、第一高等学校を経て、1899年に東京帝国大学医科大学に進学。大学在学中は、三浦謹之助教授、高橋順太郎教授の指導を受けた。1904年に卒業し、ドイツに留学。
津村 秀松(つむら ひでまつ、1876年6月14日 - 19… 津村 秀松(つむら ひでまつ、1876年6月14日 - 1939年12月23日)は日本の経済学者、実業家。神戸高等商業学校(現・神戸大学)教授、大阪鐵工所(現・日立造船)取締役会長等を歴任した。 1876年、和歌山県日高郡御坊村(現・御坊市)生まれ。旧制和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1899年東京高等商業学校 (現・一橋大学)専攻部を卒業。東京高等商業学校校長だった小山健三の娘と結婚した。 1900年から1903年まで欧米に留学し、留学中に石川巌・石川文吾・神田乃武・瀧本美夫・志田鉀太郎・福田徳三・関一とともに「商業大学の必要」を建議し、東京高商の大学昇格運動を始めた。
隅田 豊吉(豐吉、すだ とよきち、1875年(明治8年)6月… 隅田 豊吉(豐吉、すだ とよきち、1875年(明治8年)6月15日 – 1942年(昭和17年)6月18日)は、明治末から昭和前期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員、和歌山県那賀郡池田村長。 和歌山県那賀郡、のちの池田村(打田町を経て現紀の川市)で隅田小三郎の長男として生まれた。和歌山県立和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)を卒業。農業を営んだ。 1907年(明治40年)5月、池田村会議員に選出され、同年9月、那賀郡会議員当選し、同議長に就任して1期・4年在任。1911年(明治44年)9月、和歌山県会議員に当選し、1915年(大正4年)9月に再選された。1916年(大正5年)2月、池田村長に就任し約8ヵ月在任した。
下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日… 下村 宏(しもむら ひろし、1875年〈明治8年〉5月11日 - 1957年〈昭和32年〉12月9日)は、明治・大正・昭和の法学博士、逓信官僚・台湾総督府官僚、実業家、朝日新聞社副社長、貴族院議員。拓殖大学第6代学長、NHK会長。歌人で号は海南(かいなん)。下村房次郎の子。 玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力した。「人種改良を国策に」と優生思想を強く推したことでも知られている。 和歌山県出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に逓信省に入り、退官後は実業家として活動する傍ら東京商業学校の創設に関わった。 和歌山中学、第一高等学校から東京帝国大学を卒業し、1898年(明治31年)に逓信省へ入省。
小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18… 小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18日 - 1933年(昭和8年)10月5日)は、日本の実業家。郷里の和歌山県で日高川水力電気での水力発電事業を成功させたのち、南紀白浜温泉を開発。明光バスなども設立した。 和歌山県日高郡島村(現・御坊市)に生まれる。小学校、中学校時代を首席で通し、1893年に御坊村の小竹家の養子となった。 和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1894年に高等高等商業学校(現・一橋大学)に進学した。 同校を病気で中退後、鎌倉市の円覚寺で2年間修行し、和歌山に帰郷し兄弟で家業の木材業を再興し、資産家となった。 日高郡で初となる製材所として、1901年に日高製材所を設立。
根岸 佶(ねぎし ただし、1874年(明治7年)8月9日 -… 根岸 佶(ねぎし ただし、1874年(明治7年)8月9日 - 1971年(昭和46年)7月22日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。日本学士院賞受賞。 和歌山県出身。和歌山県尋常中学校(現和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1899年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業、1901年同校専攻部貿易卒。本科では日中貿易論、専攻部では中国交通論を研究。1933年「支那ギルドの研究」で東京商科大学(現一橋大学)経済学博士。 1901年上海の東亜同文書院教授、1907年東亜同文会主査。中国経済を研究。帰国後、1908年東京高等商業学校(現一橋大学)講師、1911年東京朝日新聞政治部記者、1916年東京商科大学(現一橋大学)教授、1919年同大学附属商業専門部教授、1921年同大学専門部教授、1935年定年退官、同大学講師、1936年同大学学生課課長心得、1939年東亜同文会第六調査委員会学術部委員会委員、1950年東京商科大学客員教授、東京商科大学名誉教授、1951年一橋大学名誉教授。
杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈18… 杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈1872年8月28日〉 - 1945年〈昭和20年〉10月3日)は、日本の新聞記者、随筆家、俳人。本名は廣太郎、広太郎(こうたろう)。別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数。朝日新聞社本社記事審査部長、取締役、監査役。 明治5年7月25日(1872年8月28日)、和歌山県和歌山市にて出生。父は和歌山藩士の杉村庄太郎。3歳の時に父と死別し、以来、母の手で育てられる。小学校を終え、1883年(明治16年)に11歳で和歌山の自修学校(当時統合されて徳修学校になっていたと思われる)に入学し、英・漢・数学を学ぶ。自修学校は旧藩主の徳川茂承の財政援助を受けて運営される私立の中等学校で、慶應義塾の出身者が英語教師を務めた。
湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年… 湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年7月13日) - 昭和6年(1931年)8月23日)は、第5代住友総理事である。 慶応4年(1868年)5月24日、紀伊国東牟婁郡新宮町841番地(現和歌山県新宮市千穂1丁目)で紀伊新宮藩の藩医湯川寛斎と八重の長男として生まれた。新宮小学校を卒業後、和歌山中学校へ入学したが中退し、東京ドイツ協会学校に在籍した。明治15年(1882年)東京大学予備門に入学して医科大学へ進む予定であったが、独法科が設置された法科大学に転学し、明治23年(1890年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 同年逓信省に入り、明治27年(1894年)日清戦争の野戦高等郵便局長として戦地で活躍、明治28年(1895年)東京郵便電信学校の校長となる。
南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日〈慶応3… 南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日〈慶応3年4月15日〉 - 1941年〈昭和16年〉12月29日)は、日本の博物学者・生物学者・民俗学者。 生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。そうした調査に基づいて生態学(ecology)を早くから日本に導入した。 1929年には地元で、昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献している。 民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがある。その他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されている。 フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。
中松 盛雄(なかまつ もりお、1865年11月20日〈慶応元… 中松 盛雄(なかまつ もりお、1865年11月20日〈慶応元年10月3日〉 - 1952年〈昭和27年〉7月21日)は、日本の官僚、弁護士、弁理士。第9代特許局長。日本基督教会理事長。化学工業協会会長。族籍は和歌山県士族。 中松克正の二男。1891年(明治24年)帝国大学法科大学英法科(現東京大学法学部)を卒業。農商務省に入る。1907年(明治40年)12月25日から1913年(大正2年)6月13日まで第9代特許局長を務めた。退官後、1914年(大正3年)に弁護士・弁理士登録し、同年7月1日に現在の中村合同特許法律事務所の前身にあたる中松特許法律事務所を開設した。日本共立火災保険取締役を兼ねる。
岡本 米次郎(おかもと よねじろう、生年不明 - 1897年… 岡本 米次郎(おかもと よねじろう、生年不明 - 1897年(明治30年)9月12日)は、日本の海軍兵学校生徒。海軍兵学校で発生した殺人事件の被害者である。 和歌山県出身。料理屋を営む父の次男である。和歌山師範附属小学校、和歌山中学を経て海軍兵学校へ進む。小中学校時代の成績は優秀であった。野村吉三郎は岡本の1年後輩で、両人は岡本家で勉強をともにした仲であり、野村が海軍へ進んだ理由に岡本の感化があった。岡本は海兵25期生に相当するが、このクラスは三度にわたる入校試験が行われた。当初は18名を募集したが合格者は5名であり、二度の追加募集で31名が入校している。岡本は18歳で、その第一回入校試験に合格する。
柳ヶ瀬 裕文 は、日本の政治家。
古橋 廣之進 は、日本の水泳選手でありスポーツ指導者。日本大… 古橋 廣之進 は、日本の水泳選手でありスポーツ指導者。日本大学名誉教授。フジヤマのトビウオの異名を持つ。位階は従三位。
岩前 篤 は、日本の工学者・建築学者。ウムヴェルト建築総合研… 岩前 篤 は、日本の工学者・建築学者。ウムヴェルト建築総合研究所 主宰。一般社団法人 みらい 建築・住宅研究機構(HEAT20) 理事。一般社団法人 き塾 理事。一般社団法人 住まいの屋根換気壁通気研究会 理事。一般社団法人 日本人の健康をつくる住宅断熱リフォーム推進協議会 代表理事。元 近畿大学副学長・建築学部教授。研究分野は社会基盤(土木・建築・防災)、建築環境、建築設備。
龐 統 は、中国後漢末期の武将・政治家。孫権・劉備に仕えた。… 龐 統 は、中国後漢末期の武将・政治家。孫権・劉備に仕えた。字は士元 。道号は鳳雛。諡は靖侯。荊州南郡襄陽県の出身。「臥龍 」「伏龍 」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛 」と称せられた。弟は龐林。子は龐宏。従父は龐徳公。族兄は龐山民(妻は諸葛亮の姉)ら。
鹿島アントラーズ は、日本の茨城県鹿嶋市、神栖市、潮来市、行… 鹿島アントラーズ は、日本の茨城県鹿嶋市、神栖市、潮来市、行方市、鉾田市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つであり、国内最多の21冠のタイトルを誇る。
木村 博紀 は、日本の経営者。朝日生命保険会長を務めている。
田川 弘 は、和歌山県出身のプロ野球選手。
横山 泰三 は、日本の漫画家。
黒沢 良 は、日本の声優、俳優、ナレーター、歌手。生前は黒沢… 黒沢 良 は、日本の声優、俳優、ナレーター、歌手。生前は黒沢良事務所を設立し、代表を務めていた。
下西 孝(しもにし たかし)は、日本の実業家。下西技研工業株… 下西 孝(しもにし たかし)は、日本の実業家。下西技研工業株式会社代表取締役会長。 和歌山県出身。自営工場の代表を務めていた父のもとで生まれ、和歌山県立桐蔭高校へ進学する。高校卒業後、法政大学法学部へ合格し大手出版流通企業に就職。そこで営業や人事などの経験を6年間積み、100時間ほど研修を受けられるチャンスをもらい、人材育成の重要性を学んだ。その後、アメリカはロサンゼルスへと赴き見聞を深めた。アメリカンドリームの姿を目の当たりにし国内で起業することを決意。1990年に東大阪にて構造部品・複合部品メーカーの下西技研工業(SIMOTEC・サイモテック)を創業した。 下西技研工業においては当初、マグネットキャッチを専門に開発していたが付加価値の低さなどから、より重要度の高いヒンジの商品開発へと移行した。